氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
穏やかな声の奥で、人は測る。
問われた者は、言葉を選ぶ。
選んだ言葉が、選ばなかった言葉を、かえって浮かび上がらせる。
夜明けの光は、最初、灰色だった。
白くなる前に、一度だけ灰色になる。その灰色の中で、山が輪郭を取り戻していく。木立が現れる。雪の斜面が現れる。昨夜、懐中電灯で照らしていた場所が、今度は光の中に浮かんでいる。
コハギは、その光の質が嫌いだった。
暗くはない。でも、明るくもない。影の輪郭が定まらない。木立の間の暗さが、夜よりもかえって不気味に見える。昼間なら何でもない木の幹が、この光の中では別の形に見える瞬間がある。
「進む」
田中さんが言った。
全員が動いた。雪を踏む音が、朝の静けさの中に響いた。猟銃を構えた男たちが、固まって進んだ。銃の重さが、肩と腕にかかっている。昨夜からの重さが、今朝はさらに別の重さを帯びていた。
コハギは列の端にいた。
耳が動いていた。音を探していた。朝の山は、夜より音が少ない。夜は風がある。枝が揺れる。雪が崩れる音がある。朝の静けさは、別の種類の静けさだった。何かが息を潜めているような静けさだった。
拾えなかった。
小動物の気配がなかった。凍った枝が弾ける音がなかった。コハギの耳が届く範囲に、自分たち以外の生き物の音が、何一つなかった。この山で、こんな朝は知らなかった。
田中さんの指が、猟銃の引き金ではなく、その横の安全装置の上に添えられていた。探しているのではなかった。来るものを迎え撃つ体制だった。
名前を呼んだ。
中村支部長が、一度だけ呼んだ。
答えがなかった。
反響も、なかった。声が山に吸い込まれて、何も戻ってこなかった。代わりに来たのは、肺の奥まで凍りつかせるような冷気だけだった。
山が、その名前を吸い込んだ。
※
しばらくして、隊員の一人が足を止めた。
若かった。警察から来た若手だった。昨日の夜、田中さんから「一人で外に出るな」と言い聞かされていた相手だった。
「聞こえます」
その隊員が言った。低い声だった。声が変わっていた。
「何が」と中村支部長が聞いた。
「声が。阿部さんの声が」
誰も動かなかった。
田中さんが、その隊員を見た。一秒だけ見た。それから前を向いた。
「返事をするな」
田中さんが言った。
「でも——」
「するな」
二度目だった。一度目と同じ声だった。感情がなかった。命令だった。
隊員は黙った。でも足が止まったままだった。耳が、音のする方角を向いていた。コハギにはわかった。聞こえているのだ。本当に聞こえているのか、聞こえている気がしているのか、この光の中では判断がつかない。
コハギも、聞こえる気がした。
気がした、というだけで、確かではなかった。朝の山の静けさの中に、何かが混じっている気がした。風ではなかった。木が鳴る音でもなかった。何か別のものだった。
コハギは耳を絞り、音の核を捉えようとした。
呼吸の音が、なかった。言葉を発する前に必ず漏れるはずの、肺が動く微かな摩擦音が、その声の周囲に存在しなかった。生きている人間が声を出す時の、あの予備動作がなかった。
耳が、後ろに倒れた。意識してのことではなかった。
田中さんが構えた猟銃の銃口が、声の届く方角を向いていた。向けながら、その目が声の発生源を捉えることができていないのが、コハギにはわかった。田中さんには、何かがわかっているのだ。わかっているから、返事をさせなかった。わかっていることを、口にしなかった。
「進む」
田中さんが言った。
その声は、追跡の号令ではなかった。
列が動き始めた瞬間、風が変わった。ほんの一瞬だけ、甘い匂いが来た。来て、すぐに消えた。
コハギの耳が、後ろに倒れた。
※
木立の間を進んでいた時、隊員が言った。
「いる」
コハギの前を歩いていた。その背中が止まった。
「何かいる。あそこに」
灰色の光の中で、木立の間を指した。コハギはその方角を見た。
木だった。
幹が太い、年を経たエゾマツだった。それだけだった。でも、この光の中では、幹の陰が人の形に見えなくもなかった。見ようとすれば、見えた。見まいとすれば、見えなかった。
「木です」
コハギは言った。自分に言い聞かせるような声だった。言いながら、それが言い聞かせていることに、自分で気づいた。
隊員は動かなかった。
その銃口が、木の幹を向いたまま、小刻みに震えていた。狙っているのではなかった。そこから視線を外したら何かが起きると、本能が叫んでいた。
「木ですか」
「木です」
しばらく、その隊員はその場所を見ていた。それから、また歩き始めた。
コハギは、その背中を見ていた。肩が震えていた。体が、まだ昨夜の中にいた。昨夜から抜け出せていなかった。それはコハギも同じだったが、コハギは山を知っていた。山を知っているということは、山の恐ろしさを知っているということだった。知っているから、恐怖に飲まれる前に、次の一歩を踏み出せた。
知らない人間は、恐怖が先に来る。
※
血痕を、朝の光の中で見つけた。
昨夜は見つからなかったものが、夜明けの光の中に浮かんでいた。雪の上に、点々と残っていた。少なかった。ずっと少なかった。大人一人が消えたわりには、あまりにも少なかった。
引きずった跡がなかった。飛び散った跡がなかった。ただ、孤立した点として、そこにあった。
田中さんが、しゃがんだ。
素手を伸ばした。血痕の数センチ手前で、指先が止まった。止めたのではなかった。反射的に引いた。手が、小刻みに震えていた。三十年以上この山で猟をしてきた手が、震えていた。
立ち上がった。中村支部長と短く話した。
コハギには聞こえなかった。
でも、田中さんの背中が、何を言っているかを伝えていた。背中が、肩が、首の角度が、すべてを語っていた。
田中さんが振り返った。全員を見た。
その目が、誰をも見ていなかった。目が、皆の向こう側にある何かを、じっと見つめていた。
「下山する」
それだけ言った。
「でも——」
若い隊員が言いかけた。
「下山する」
田中さんが繰り返した。理由を説明しなかった。全員が、その声の質で理解した。今朝の田中さんの「下山する」は、昨夜の「進む」と同じ声だった。感情のない、判断だけが残った声だった。
列が向きを変えた。
来た道を戻り始めた。
田中さんが、時おり立ち止まった。
立ち止まって、後ろを振り返った。全員の顔を、素早く数えた。
「揃ってるか」
名前は呼ばなかった。人数だけ確認した。
「大丈夫です」
最後尾のコハギが答えた。田中さんが頷いて、また歩き始めた。
しばらく進んだ時、風が来た。
山の奥から、こちらへ向かって吹いてくる風だった。その風に乗って、針葉樹の枝が一斉に揺れた。揺れた先の暗がりに、何かが動いた気がした。
コハギは目を凝らした。
一キロ以上先だった。暗がりと木立が重なって、輪郭が定まらなかった。風が止んだ瞬間、また静止した。木の陰が揺れただけかもしれなかった。そうでないかもしれなかった。
コハギは何も言わなかった。
「止まってください」
少し後で、コハギが言った。
全員が足を止めた。
コハギは耳を立てた。風の向きを確かめた。鼻が、山の奥から流れてくる空気を読んだ。冷えた針葉樹の匂い。雪の匂い。それから——
甘い匂いは、なかった。
「近くにはいません」
コハギは言った。
田中さんが一度だけ頷いた。
「進む」
列が、また動き始めた。
コハギは最後尾で、尾が足の間に巻き込まれたまま、歩き続けた。後ろを向かなかった。
山が、後ろにあった。
山は、答えなかった。
※
邸宅の玄関に、ビバーク組が戻ってきた。
扉が開いた瞬間、冷気が廊下に流れ込んだ。
スピードシンボリは、その冷気の質を感じた。山の冷気だった。雪と木と、それから——言葉にならない何かが混じっていた。昨夜から山にいた人間たちが持ち帰った、山の残滓だった。
コハギが入ってきた。
その顔を、一度だけ見た。
コハギは雪靴を叩いた。一日分の山が、固まりになって地面に落ちた。顔を上げた。スピードシンボリと目が合った。
何も言わなかった。
言葉は要らなかった。その顔が、全部を言っていた。
田中さんが入ってきた。中村支部長が入ってきた。警察の隊員たちが入ってきた。最後に、若い隊員が入ってきた。その隊員の顔を、コハギとは別の意味で見た。昨夜から今朝にかけて、何かが変わった顔だった。変わってしまった顔だった。
邸宅で待機していた警察の幹部が前に出た。
「ご苦労様でした。直ちに状況の確認を行います」
労いの言葉の形をしていたが、声に温かみはなかった。身内を一人失った組織の、冷え切った響きだった。
「互いに言葉を交わさないでください。装備品と無線機はこちらで確認します。田中さん、猟銃もお預かりします」
田中さんは黙って猟銃を渡した。中村支部長も同じだった。何も言わなかった。言葉を発することを、この瞬間から禁じられていた。
若い隊員の両脇に、すぐさま警察官が二人ついた。彼が口を開く前に、廊下の奥へ促した。
「全員、別々の部屋へ。その後、伊達警察署に移動していただきます。聴取はそちらで行います」
反論の余地はなかった。
スピードシンボリはメジロアサマと並んで、廊下の端に立っていた。二人は聴取の対象外だった。関係者として「送り出す」立場だった。
コハギが、最初に警察の車両へ向かうのを見送った。田中さんが続いた。中村支部長が続いた。若い隊員が、両脇を固められたまま、最後に出ていった。
扉が閉まった。
廊下が、静かになった。
「行きましょう」
アサマが言った。
二人は応接間に戻った。
※
コハギの聴取は、伊達警察署の別室で行われた。
録音機が置かれた。担当の刑事は四十代で、私服だった。見覚えのある顔だった。声は穏やかだったが、目が違った。
「時系列で話してください。何時頃、何を感じましたか」
コハギは毛布を肩にかけたまま、答えた。声は低く、しかしはっきりしていた。
「夜中、テントの外で雪が崩れる音がしました。一瞬だけ。それから——甘い、獣のような匂いが、布越しに流れ込んできました」
刑事の目が、わずかに細まった。
「匂いですか」
「はい。テントの外に出た時にも、同じ匂いを感じていました」
刑事はメモを取った。手が、一瞬止まった。それから、また動いた。コハギも、それ以上は言わなかった。
別の部屋では、田中さんが椅子に深く腰を下ろしていた。目を閉じていた。
「下山を決めた理由を、もう一度」
「血痕が少なすぎた。あまりにも少なすぎた。それに——足跡の乱れ方が、俺の知っているどの獣のものとも違っていた」
刑事は静かに聞いた。
「他に気になることは」
田中さんは、しばらく黙っていた。ゆっくりと目を開けた。
「コハギの言う匂いです。あの子は山を知っている。匂いを間違える子じゃない」
また別の部屋では、若い隊員が毛布を肩にかけたまま、まだ震えていた。
「声が聞こえた、とのことですが」
「……聞こえました。阿部さんの声が、木立の奥から」
「本当に聞こえたんですか」
隊員は黙った。
「……聞こえた気が、しました」
刑事は穏やかに続けた。
「気のせいかもしれない、とは思わなかった?」
隊員はしばらく答えなかった。それから、小さく首を振った。
「思いたくなかった、です」
※
邸宅の応接間に、人が集まっていた。
いつから来ていたのか、スピードシンボリにはわからなかった。気づいた時には、そこにいた。
スイートルナがいた。スイートエプソムがいた。シリウスの父がいた。
誰も口を開かなかった。
窓の外で、雪が降り続けていた。山が、白い中に沈んでいた。その山の中に、今も三人の子供がいる。その山から、今朝、一名が消えた。
ルナが、テーブルの上に視線を落としていた。その横顔に、何か重いものが乗っていた。自分がここに来ることを決めた日からずっと、乗り続けているものだった。
エプソムは窓の外を見ていた。何かを言いたそうで、言えなかった。言えばそれが現実になる気がして、口を閉じていた。
シリウスの父は、両手を膝の上に置いていた。動かなかった。動き方を忘れたように、ただそこに座っていた。
誰かが言った。
「捜索は、続けてもらえるんでしょうか」
誰が言ったか、スピードシンボリにはわからなかった。
答えは、なかった。
メジロアサマが静かに立っていた。その顔に、感情はなかった。感情を持ち続けることを、どこかの時点で手放した顔だった。
窓の外の雪が、また少し強くなった。
※
伊達警察署の廊下は、夜になっても人が絶えなかった。
コハギは待機室の椅子に座っていた。毛布が一枚、肩にかけられていた。聴取は終わっていた。でも、帰れなかった。「もう少しお待ちください」と言われた。それから、何時間が過ぎたか。窓の外が暗くなっていた。
隣の部屋に、田中さんがいる。別の部屋に、中村支部長がいる。廊下を挟んで、若い隊員がいる。全員、同じ言葉を言われていた。もう少しお待ちください。
山にいた人間が、山から下ろされて、部屋に入れられた。それだけのことだった。疑われているのか、守られているのか、コハギにはわからなかった。たぶん、どちらでもあった。
窓の外に、山は見えなかった。
見えなくても、そこにあるとわかっていた。今夜も、山の中に誰かがいる。
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胆振新報デジタル版 11月6日 10:47配信【速報】
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【速報】胆振管内・子供3人行方不明
捜索中に隊員1名が行方不明に 警察が発表
胆振管内で子供3名が行方不明となっている件で、捜索活動中の山岳救助隊員1名が一昨日深夜から昨日未明にかけて行方不明となったことが伊達警察署より発表された。
現在、当該隊員の捜索も並行して行われているが、発見には至っていない。
関係機関は捜索活動の継続を表明しているが、安全上の課題から今後の方針については協議中としている。
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SNS投稿 11月6日 午前 収集分
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速報拡散アカウント @sokuho_kakusan_99
【拡散】さっき警察が発表。捜索隊員が行方不明。
子供3人に加えて、大人まで消えた。
何が起きてるんだ。
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道民 普通に心配 @futsuu_domin_88
プレス出た。本当だったんだ。
捜索隊の方が消えたって……
どういうことなの。怖すぎる。
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