氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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同じことが、また起きた。

百年前にも、起きていた。
撃った。手応えがあった気もした。
それでも、倒れなかった。跡も残さず、消えた。

当たったとも、外したとも、誰にも言えなかった。
それを、人は百年ごとに繰り返す。


04-八.「家で、待っています」

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胆振新報デジタル版 11月10日 14:33配信

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【速報】胆振管内・捜索活動中に新たな事案

山岳救助隊員に続き、外部猟友会メンバー1名が行方不明に

 

胆振管内での子供3名の捜索活動において、9日午前、外部から応援で派遣されていた猟友会メンバー1名が連絡を絶ったことが判明した。

 

同メンバーは午前8時頃に単独で行動範囲を離れ、午前10時の定時連絡に応答がないことから捜索班が確認に向かったところ、現在位置が不明となっている。

 

現場では捜索活動を一時中断し、当該メンバーの捜索を優先する方針に切り替えたという。

なお、自衛隊のドローンは前日の天候悪化による機材点検のため、本日も運用停止中。警察は「安全を最優先に対応する」としている。

 

 □ この記事へのコメント(52,341件)

 ▼ 人気コメント

 「また……?」

 「子供の捜索どころじゃなくなってきた」

 「何が起きてるんだあの山」

 「捜索隊の方々が次々と。もう打ち切りにすべきでは」

 「あの山、入ってはいけない場所なんじゃないか」

 (コメントの続きを見る)

 

 

    ※

 

 

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SNS投稿 11月10日 午前〜午後 収集分

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速報系アカウント @news_sokuho_kk

【速報】外部猟友会メンバー1名が行方不明。

先日の救助隊員失踪に続き2人目。

現地の状況が極めて深刻になっている模様。

 

  18,443 ❤ 41,223

 

 ▼ リプライ

 「2人目??」

 「もう子供の話じゃなくなってる」

 「ヒグマじゃないだろこれ」

 

 

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冷静に @calm_55

整理する。

 

①山岳救助隊員(阿部さん):行方不明

②外部猟友会メンバー:行方不明

子供3名の捜索から始まった話が、今や5名の行方不明者を抱える事態になっている。

 

山に入れば入るほど、消える人間が増えている。

これは、何かがおかしい。

 

  24,109 ❤ 68,334

 

 

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地元民A @domin_watch_iburi

地元で生まれ育ってますが、あの山に関しては

昔から「入ってはいけない場所がある」と言われてきた。

 

具体的な場所は、教えてもらえなかった。

「わかる人間にはわかる」とだけ言われた。

 

今の状況を見て、それを思い出している。

 

  31,887 ❤ 92,441

 

 

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報道検証アカウント @houdou_check_jp

「子供3名の行方不明」という話題が、今や「捜索隊員2名の失踪」という話題に完全に塗り替えられている。

 

子供たちのことを、まだ覚えていますか。

 

  15,002 ❤ 44,118

 

 ▼ リプライ

 「覚えてる。でもどうしたらいいかわからない」

 「捜索を続けるほど犠牲者が増えるなら、やめるべきでは」

 「やめたら子供たちはどうなる」

 

 

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    ※

 

 

十日の朝、山はまだ雪の中にあった。

 

天候は回復していた。昨日まで続いた降雪が止んで、稜線がまた見えていた。見えていた。だから入れると、全員が思った。

 

 

    ※

 

 

隊長は、慎重だった。

 

出発前の朝、集合した顔を一人ずつ確認した。

 

自衛隊の偵察担当が二名。警察の捜索班が四名。外部から来た猟友会のメンバーが三名。それに自分と、同じ猟友会に所属する若手の二名。合計十二名。

 

「本日の方針を伝える」

 

隊長は声を低く保った。

 

「阿部、鈴木の捜索を第一優先とする。子供たちの捜索は並行継続だが、安全確保を最優先に行動すること。単独行動は絶対に禁止。常に二名以上で移動する。これは命令だ」

 

外部猟友会の一人が、手を挙げた。道外から来た男だった。五十代。猟歴は長い、と自分で言っていた。

 

「範囲の分担はどうなりますか」

 

「北東のルートは警察と自衛隊。南西は我々猟友会が担当する」

 

「我々、というのは」

 

「こちらの三名と、あなた方三名で組む」

 

外部猟友会の男は、少し間を置いた。

 

「それは、別々の班ということですか」

 

「いや。合同で動く」

 

男は何も言わなかった。言わないことが、不満の表明だとわかった。隊長には、理由が読めた。この男は、自分たちの判断で動きたいと思っている。地元の人間に合わせることを、プライドが拒んでいる。

「あなた方はこの山を知らない」

 

隊長は静かに言った。

 

「この山域の地形、雪の沈み方、どこが危ないか。それを知っている人間と組まなければ、同じことが起きる」

 

「同じこと、というのは」

 

「阿部と、鈴木さんのことだ」

 

誰も、何も言わなかった。

 

外部猟友会の男も、今度は黙った。

 

 

    ※

 

 

山に入った。

 

南西の沢沿いを、混成班が進んだ。

 

外部猟友会の三名は、最初から別の動き方をしていた。隊長の指示通りに動いてはいた。しかし足運びが違った。雪の踏み方が違った。体重をかける場所が違った。地元の猟師と、遠征慣れした猟師では、雪山の読み方が根本的に異なる。それ自体は仕方がなかった。問題は、そのことを本人たちが気づいていないことだった。

 

隊長は何も言わなかった。

 

注意して、反発されれば、かえって危険になる。

 

三時間ほど南西の沢を進んだところで、外部猟友会の男が足を止めた。

 

「足跡があります」

 

全員が立ち止まった。

 

雪の上に、深い窪みが続いていた。隊長はその窪みを見た。一目でわかった。昨夜の跡ではなかった。もっと新しかった。今朝の跡だった。

 

「距離を取れ」

 

隊長が低く言った。

 

全員が後退した。

外部猟友会の男が、猟銃を構えた。

 

「まだだ」

 

隊長が制した。

 

「あの足跡の方向を見ろ。どちらから来て、どちらへ向かっている」

 

男は足跡を見た。来た方角を確認した。向かった先を見た。

 

「南から、北東へ」

 

「そうだ。北東に向かっている。つまり——」

 

隊長は声を切った。

 

北東は、今朝警察と自衛隊が入っている方角だった。

 

無線機を取った。

 

「本部。南西班より緊急報告。当該個体の新しい足跡を確認。方向は北東。警察班と自衛隊班に伝達を——」

 

応答が来た。しかし、声の調子が変だった。

 

「……北東班より南西班。こちらでも足跡を確認した。方向は南西だ」

 

全員が、顔を見合わせた。

 

南西と北東に、同時に足跡がある。

 

一つのはずの個体が、二方向に向かっていた。

 

 

    ※

 

 

動かなかった。

 

雪の下に、まだあった。冷たいものの下では、傷まない。減れば、掘る。掘れば、ある。何度も、掘った。

 

最初のものは、もう、何度目か。数えなかった。

陽が、何度も傾いた。昇った。沈んだ。隠れた。冷たいものが多い日。少ない日。数えなかった。数えるものではなかった。

 

甘くなかった。

 

ずっと前にも、似たものを喰った。

雪のない頃だった。緑の匂いを、背負っていた。

一つでは、なかった。

 

同じ味だった。

 

あの三つは、甘かった。雪より白い匂いがした。

吹雪の夜、あと一歩だった。

間に、あれが立った。

 

届かなかった。

 

これは、甘くない。だが、ある。あるものを、喰う。

 

人間は、また来た。

 

犬は、いない。境界線を、越えてくる。

向こうから、来る。恵みだった。

 

また、来た。

 

越えて、踏んで、騒いだ。

帰って、また、越えてきた。

 

また、来た。

 

腹は、満ちていた。

恵みは、もう、要らなかった。

 

――踏み荒らされた。

 

腹は満ちて、冷えていた。

滾ったのは、別のところだった。

 

雪の上を、行った。深いもの。浅いもの。行って、戻って、また行った。

 

見えるものにだけ、見えるように。

風が凪いだ。

雪が啼いた。

 

倒木の影。腹を雪に沈めた。熱を、逃がさない。聲に、耳を傾けた。

 

聲は、急がなかった。

 

金属の音。重い足音。犬は、いない。臭い。甘くない。臭い。

 

一つ、離れた。

 

匂いが、一つになった。

 

聲が、満ちた。

 

金属を抱えた人間が、こちらを見た。

 

遅かった。呆れるほど、遅かった。

 

――また、満たされた。

 

    ※

 

 

外部猟友会の男は、足を止めた。

 

班との距離を、確かめた。十歩。声の届く距離。今朝から、何度もそうしてきた。

 

昨日、鈴木が消えた。同じ猟友会の人間だった。腕は確かだった。その鈴木が、消えた。跡も残さず。

 

だから今日は、慎重に動いていた。距離を保つ。声の届く範囲。単独行動の禁止。今朝の隊長の言葉を、守るつもりでいた。守っていた。

 

足跡が、あった。

 

浅い跡だった。班の連中は、踏み越えていった。気づいていない。見える人間にしか、見えない跡だ。三十年やってきた目には、見える。

 

男は、跡を読んだ。

 

新しい。今朝のものだ。歩幅が広い。移動している。こちらへ向かう跡ではない。離れていく跡だ。なら、追っても距離は詰まらない。深追いする跡ではない。そう、読んだ。

 

読んだ上で、数歩だけ、辿った。

 

跡の質を確かめるためだった。深さ。沈み方。蹴り出しの角度。それだけ確かめたら、戻る。班に報告する。それで終わりのはずだった。

 

数歩のつもりだった。

 

跡が、変わった。

 

歩幅が、急に狭くなっていた。移動の跡が、別のものに変わっていた。これは——迷っているのか。弱っているのか。撃たれた跡を引きずっている、ようにも見えた。

 

昨日の鈴木の顔が、頭を過ぎった。

 

もしこれを追えば、何かがわかるかもしれなかった。

 

数歩が、十歩になった。十歩が二十に。二十が、息を飲んだ。深いものが胃を冷やした。

 

目先に、倒木が見えた。

 

倒木の影に、雪が深く抉れていた。何かが長く伏せていた跡だった。大きい。両腕を広げても、足りない。

 

冷えている。古い跡だ。今は、いない。

そこまで読んで、男は、振り返った。

 

班が、見えなかった。

 

木立だけが、あった。声の届く距離のはずだった。十歩のはずだった。いつから数えていなかったのか、思い出せなかった。跡を読んでいる間、距離は頭から消えていた。

 

戻ろう、と思った。

 

その時、わかった。

 

読まされていた。

 

浅い跡。弱った跡。迷った跡。読める人間が、読める順番に、読みたくなるように——

 

音がした。

 

木が鳴る音ではなかった。雪が崩れる音でもなかった。何か別のものが、すぐそこに、ある音だった。

 

猟銃を、構えようとした。

 

三十年の手が、覚えている動きだった。

 

間に合わなかった。

 

木立の奥で、何かが動いた。音がなかった。あれだけの質量が動いているのに、音がしなかった。それだけが、その後も男の記憶に残った。

 

隊長が「待て」と叫んだ声が、山に響いた。

 

それから、しばらく、何も聞こえなかった。

 

 

    ※

 

 

振るった。

 

捉えた。――捉えそこねた。

 

金属の塊が、宙を舞った。人間も、飛んだ。だが、命には届かなかった。爪が、それを伝えてきた。固いものが、邪魔をした。

 

「待て」

大きな声。急ぐ音。一つではなかった。

 

引いた。

 

聲が、引けと言った。聲が誤ったことは、一度もなかった。

 

木々が、避けた。道が、開いた。

 

遠くから、見ていた。騒ぐ声。匂い。風。

 

立った。深く、吸った。冷たいものが、満ちた。

 

聲が、新しいことを言った。

 

境界線。越えてきた場所。そこへ。

 

雪を、掘った。深く、掘った。掘って、掘った。――腹を沈めて、止まった。

 

群れが、騒いでいた。叫んでいた。耳鳴りのような音。不快だった。

 

熱くなるのを、雪の中で、ただ、耐えた。

 

不快だった。――ただただ、不快だった。

 

足音。近い。

 

聲が、叫んだ。

 

走った。

 

雪の壁。関係なかった。崩した。

 

いた。大勢、いた。

 

振るった。――飛んだ、飛んだ。一つ、二つ、三つ。また、飛んだ。

 

鋭い音が、山に響いた。一つではなかった。二つ。三つ。

 

身体は、何ともなかった。

 

聲が、引けと言った。――走った。

追う音は、なかった。

 

息を、吐いた。深く、吸った。滾りが、冷えた。

 

残してあるものを、いただくことにした。

 

歩き出した。

 

そのときだった。

 

風が、変わった。

 

北から、新しい匂いが来た。

 

あの障壁の気配が、今日は少し、南に下りていた。

 

あの、甘い匂いを、三つ、連れていた。

 

耳を立てた。鼻を立てた。深く、吸い込んだ。

 

――甘い匂いと、危険な匂い。

 

聲が、囁いた。

 

 

    ※

 

 

隊長が、男のそばに着いた時、男はまだ意識があった。

 

左腕と左肩に、深い傷があった。猟銃は雪の上に落ちていた。一発も撃っていなかった。

 

「動くな。動くな」

 

隊長は男の傍らに膝をついた。若手の一人が、すでに止血に入っていた。外部猟友会の残り二名が、猟銃を周囲に向けていた。

 

「どこに行った」

 

男が聞いた。声が震えていた。

 

「何が」

「あいつが。どこに消えた」

 

隊長は、周囲の木立を見た。

 

足跡はなかった。

 

雪の上に、傷ついた男と、血と、それだけがあった。あれだけの質量が、あれだけの速さで動いて、跡がなかった。

 

「早く下りるぞ」

 

隊長は立ち上がった。

 

「でも跡を——」

 

「跡はない。追えない。今は下りることだけ考えろ」

 

誰も反論しなかった。

 

今度は全員が、黙った。

 

    ※

 

 

邸宅の応接間に、隊長から連絡が入ったのは、日が傾き始めた頃だった。

 

山中ではなかった。麓まで下りて、負傷者を救急に引き渡して、それから、ようやく入れた一報だった。

 

スピードシンボリが受けた。短く、事実だけを聞いた。

 

南西班、当該個体と接触。負傷者四名。うち一名、重傷。全員、下山済み。

 

「当該個体は」

 

スピードシンボリは聞いた。

 

電話の向こうで、隊長が一度だけ息を継いだ。声が、疲れきっていた。山から下りてきたばかりの声だった。

 

「……撃ちました。何発か。ただ、当たったかどうかは、わかりません。誰も、確認できていません」

 

そこで言葉が切れた。

「狙う暇なんて、なかった。手も、かじかんでいた。何より——あれが追ってくるなんて、誰も思っていなかった。野生が、群れを追ってくる。そんなことが起きるなんて、頭になかった。だから、対応が遅れた。被害が、増えました」

 

スピードシンボリは何も言わなかった。

 

「当たっていてほしいと、思っています。でも、それは——たぶん、思いたいだけです。手応えは、ありませんでした」

 

隊長は、もう一度息を継いだ。

 

「逃げた、という言い方も、正しくありません。あれは、逃げたのではない。引いたんです。こちらが脅威だから引いたのではない。もう、用が済んだから引いた。そういう動き方でした」

 

スピードシンボリは何も言わなかった。

 

「以上です。詳細は、改めて」

 

通話が切れた。

 

応接間が、静かになった。

 

窓の外の山が、白く光っていた。雪が止んで、空が青かった。捜索に向いた、よく晴れた日だった。だからこそ今日、人が山に入った。入って、四人が傷ついた。撃った弾が、当たったのかどうかさえ、わからなかった。

 

廊下の奥に、アサマが立っていた。

 

いつから聞いていたのか、わからなかった。

 

「子供たちは」

 

アサマが、静かに言った。

 

「今日の捜索で、何か」

 

「……ありません」

 

スピードシンボリは答えた。

 

ありません。その言葉が、廊下に落ちた。今日、山に入った全員が、あの個体と、傷ついた仲間のことだけで一日を使い果たした。誰一人、子供たちの痕跡を探す余裕がなかった。

 

ルドルフは、シリウスは、ラモーヌは、今日もどこかにいる。

 

今日も、答えが出なかった。

 

「撃ったそうです」

スピードシンボリは言った。声が、自分のものでないように聞こえた。

 

アサマは、窓の外を見た。

 

「そうですか」

 

「当たったかどうかも、わからないと」

 

「……そうですか」

 

アサマは、それ以上聞かなかった。聞かないことが、聞いたことよりも重かった。

 

二人は、しばらく黙って窓の外を見ていた。

 

撃った。当たったかどうかも、わからない。その事実が何を意味するか、二人とも知っていた。知っていて、口にしなかった。口にすれば、それが山の中の三人の上に、重く落ちる気がした。

 

山は、白かった。

 

何も、答えなかった。

 

    ※

 

 

伊達警察署の待機室に、コハギは座っていた。

 

四日目だった。

 

「もう少しお待ちください」という言葉を、四日間聞き続けていた。聴取は初日と二日目に終わっていた。それでも、帰れなかった。捜査が継続している間は、と説明された。任意だと言われた。でも、帰れる状態ではないとわかっていた。

 

窓の外に、山が見えた。今日も晴れていた。晴れていれば、誰かが山に入る。入れば、また何かが起きるかもしれない。

 

午後になって、担当の刑事が部屋に入ってきた。

 

顔を見た瞬間に、何かが起きたとわかった。刑事の歩き方が、今朝とは違っていた。

 

聴取の間、ずっと思い出せなかったことを、今になって思い出した。店に、何度か来たことのある人だった。山菜の時期に、決まって舞茸を買っていく人だった。聴取の間、その話は、どちらからも出なかった。

 

「状況をお伝えします」

 

刑事は、向かいに座った。

「今朝、捜索班が山に入りました。南西の沢で、当該個体と接触しました。負傷者が四名出ました。うち一名は重傷です。命に別状はない、と聞いていますが——」

 

コハギは動かなかった。

 

「猟銃を発砲したそうです。ただ——当たったかどうかも、わからないと」

 

わからない。

 

コハギは、その言葉を聞いた。聞いて、窓の外を見た。山が見えた。青い空の下に、白く光っていた。

 

祖父から聞いた話を、思い出していた。祖父も、そのまた祖父から聞いたと言っていた。この山で、撃っても、当たったのか当たらなかったのか、わからなかったことがある、と。確かに撃った。確かに手応えがあった気もした。でも、それは倒れなかった。跡も残さず、消えた。だから、当たったとも、外したとも、誰にも言えなかった、と。昔の話だと。いつの話か、はっきりとはわからない、と。

 

昔の話ではなかった。

 

今日の話だった。

 

「鈴木さんは」

 

コハギは聞いた。

 

刑事が、一瞬、目を伏せた。

 

「……まだ、見つかっていません」

 

阿部さんも。鈴木さんも。今日傷ついた捜索に参加した人たちも。子供たちも。みんな、あの山の中だった。山の中にいて、外からは誰も、何もできなかった。

 

「コハギさん」

 

刑事が、声の調子を変えた。

 

「一つ、お願いがあります」

 

コハギは、刑事を見た。

 

「現場の指揮系統が、今日の事案で混乱しています。撃っても、止められるかどうかわからない個体を相手に、地形を知らない人間が山に入るのは、もう限界です。これ以上、犠牲を出すわけにはいかない」

 

刑事は、一度言葉を切った。

 

「あなたと、田中さんに、協力をお願いできないか。正式な要請です。重要参考人としての聴取は、これで終わりにします。あなた方を疑う段階は、もう過ぎました」

 

刑事は、続けた。

「ただ、すぐに、とはいきません。今日の事案を受けて、体制を一から見直します。安全の確保策を整えて、装備も改めて。その上で、入山の日時を、正式にお伝えします。それまでは——ご自宅で、待機していてください」

 

コハギは、すぐには答えなかった。

 

窓の外の山を、もう一度見た。

 

あの山の中に、三人がいる。まだ、いると信じている人間が、麓にいる。捨てない、と言い続けている人間がいる。その人間のために、ではなかった。

 

自分が、あの山を知っているから。

 

知っている人間が、入らなければならない。それだけのことだった。

 

「田中さんは、何と」

 

「隣の部屋で、同じ話をしています。まだ、返事は聞いていません」

 

「田中さんが入るなら、わたしも入ります」

 

コハギは言った。

 

「田中さんが入らなくても、わたしは入ります」

 

刑事は、何も言わなかった。否定も、肯定もしなかった。それが、この人にできる精一杯の返事だった。

 

「家で、待っています」

 

コハギは立ち上がった。

 

通達は、いつ来るかわからなかった。数日後かもしれない。もっと先かもしれない。その間も、山の中の三人は、待っている。待たせている。それでも、今は待つしかなかった。

 

待つ。

 

待って、通達が来たら、入る。

 

それまでに、できることがあった。

 

コハギは、窓の外の山を見た。

 

帰ったら、まず雪靴を見直そう、と思った。紐の傷んだところを替える。底の減りを確かめる。明日のためではなかった。いつ来るかわからない、その日のためだった。

 

頭の中で、もう、選び始めていた。

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