氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
物語は佳境に迫り、少女たちと男が過ごした奇妙な共同生活の後編となります。
逆転した情報の非対称性を背景に物語を楽しんでいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
05-序.『声には出さなかった。でも、数えた。』
化生の気配が、遠かった。
遠い、というのは、消えた、ということではない。この山の南の方角に、まだいる。いるとわかる。ただ、昨夜より遠い。一昨夜より遠い。少女たちを拾ってからこの十日余りで、少しずつ遠ざかっていた。遠ざかり方に、一定の法則はなかった。数日に一度近づき、また離れ、また近づく。それが今夜は、これまでで最も遠い位置にある。
遠ざかった理由を、男は言語化しなかった。する必要がなかった。あの個体が何を計算して南へ向かっているのか。その計算の内側は、わからなかった。わからなかったが、結果として遠ざかっていた。結果だけを、確かめた。
今夜は、それで十分だった。
最初の夜は、あの個体は五十歩の距離にいた。動かなかった。動かないまま、この小屋の気配を測っていた。あの時の静止の重さを、男は今も覚えている。覚えている、というより、記録している。今夜の遠さと比べた時に、その差だけがわかる。
遠い。来ない。
それが、今夜の確かなことだった。
※
小屋の壁に、細い光の筋が落ちていた。
廃墟から拾い集めた不揃いなガラスを嵌めた窓だった。厚みが均一ではなかった。歪みもあった。壁そのものは、近くの林から伐り出した木を厚めに加工して重ねたものだった。断熱を計算してそうしたわけではなかった。厚く作れば冷気が入りにくいことを、身体が知っていた。それだけだった。光が通った。冷気が薄れた。それで十分だった。
雪が、変わっていた。
踏んだ時の音が違った。沈み方が違った。雪が降り始めたばかりの頃に積もったものは、踏み込んだ時に音もなく足を飲んだ。今は、踏んだ瞬間に固い芯が返ってくる。表面が締まっていた。夜の気温が下がるほど、雪は硬くなる。硬くなった雪は、振動を吸収しない。
吸収しないということは、足からの情報を逃がさない、ということでもある。
三人の足が、今どれだけ雪を聞けるようになっているか。あれを、男は小屋の中から確かめてきた。最初、床を踏む音は部屋全体に響いた。今は違う。静かになった。外の雪の上でも、沈み方を読もうとする動きが出てきた。転ぶ。また立つ。転んでも、次の一歩の踏み方が少し変わっている。それを、男は見ていた。見ていた、とは言わなかった。だが、見ていた。
まだ走れない。でも、歩ける。
雪が締まれば、歩ける。
その条件が、少しずつ、揃いつつあった。
※
南に、人間の気配がある。
入ってきている。何日も前から、入ってきている。犬はいない。犬を連れてこられなかったのか、連れてこなかったのかは、わからない。いずれにせよ、犬がいない。犬がこの縄張りに入ることを拒んだのだとすれば、それは正しい判断だ。それでも人間は来る。
来続けている。
引けない理由がある、と感じた。詳しくはわからない。でも、引けない何かが、引けない理由が三人と関係するのだろう、ということは何となくだが察しがついた。だから人間たちをこの山へ向かわせている。悪天候でも、積雪が深くても、来続けている。
まだ三人がこの山にいることを、知っている人間たちが、南にいる。
その事実だけを、男は確かめた。確かめて、それ以上は考えなかった。考える必要がある部分と、考えても仕方がない部分がある。あの人間たちが何を抱えているかは、後者だった。
ただ、気になることが一つあった。
複数の気配の中に、一つだけ、種類の違う動き方をするものがある。集団の動きに馴染んでいない、というのではなかった。馴染んでいるが、別の何かを同時に読んでいる。雪の沈み方、風の向き、獣の痕跡。そういったものを、歩きながら読んでいる。この山を、体で知っている者の動き方だった。
昼間のうちに、その気配は山を下りていく。
夜にはいなくなる。
それが、今夜も繰り返された。繰り返されたということを確かめた時、男の中で何かが、ほんのわずかに動いた。何が動いたのかは、わからなかった。ただ、その気配が夜には下りていくという事実が、今夜は少し、別の重さを持った。
夏の沢沿いの道を思い出した。
均等な足音。竹籠。腰まで折る礼。あの娘の頭の上で、木立の間をわずかに揺れていた耳の形。名前を、互いに少しだけ交わした。それだけのことだったが、この山の輪郭が、あの夏に少し変わった。
あの足音に、似ていた。
確かめたわけではなかった。確かめる必要も、なかった。ただ、似ていた。似ていて、夜には下りていく。
それだけのことだった。
あの個体が、南にいる。人間たちも、南から入ってくる。
届く前に、下ろせればいい。
どちらが先か。昨夜決めた数え方を、男は変えていない。変える理由が、まだなかった。
※
小屋の扉は、閉まっていた。
扉の向こうに、三つの呼吸がある。
深い。遅い。眠りの底に落ちている。
はじめの頃の呼吸を、男は記録している。浅かった。速かった。眠っているのに、眠りの底になかった。追い詰められた、あと少しで取り返しのつかないことになりかけた夜の恐怖が、身体に張り付いていた。目が覚めるたびに、隣を確かめていた。隣を確かめて、また眠ろうとしていた。
今夜は違った。
深く、遅く、続いていた。恐怖が、身体から少しずつ抜けていった結果が、この呼吸だった。抜けきってはいない。夢の中にまだ何かがいる夜もある。それでも、今は以前よりずっと、眠りの底に近いところにいた。
変わった。
それだけのことだったが、男の中で、何かがわずかに動いた。何が動いたのかは、名前をつけられなかった。名前をつける必要も、なかった。ただ、動いた。それだけを、確かめた。
※
この山に来た時のことを、男は時おり確かめる。
確かめる、というのは、懐かしむ、ということではない。記録が正しく残っているかどうかを、照合するだけのことだ。
あの午後、窓の外が鉛色に変わった。粉雪が舞い始めていた。茶碗を持ったまま、男は手を止めた。数キロ先から、「震え」が届いた。音ではなかった。耳で拾えるものではなかった。世界という織物の、一本の糸が無理やり引きちぎられそうになっている——その感触だった。
絶望。恐怖。それから、生きたい、という意志。
聞いてしまえば、それだけのことだった。
男は茶碗を置いた。外套を羽織った。扉を開けた。それだけのことを、順番にやった。断れなかった、というより、断る気が起きなかった。この山に来る前も、来てからも、静かにしていようと思っていた。呼ばれるまで動くまいと、今度こそ決めていた。それでも足が動いた。
この世界に来た理由は、他にない。ただ、この山にいた。ただ、近くにいた。
それだけのことが、今夜ここに繋がっている。
男は扉の向こうの呼吸を、また確かめた。深く、遅く、続いていた。あの午後、雪の中を走りながら聞いた三つの震えが、今夜この呼吸になっている。震えていたものが、眠りの底に落ちている。その事実を、男は記録として持っている。記録として持ちながら、何かが、名前のつかない場所で、わずかに動いた。
放っておくには、雪が冷たすぎた。
それだけだった。それ以上の理由は、今も持っていない。
※
変わったものを、数えた。
化生の距離。雪の硬さ。三つの呼吸の深さ。夢の濃さ。床を踏む音の小ささ。外の雪の上に残る足跡の確かさ。南に入ってくる人間の気配の、その日その日の深さ。
変わらないものも、数えた。
三つの呼吸が、そこにある。それだけが変わらなかった。
あの夜から今日までの間、それだけが変わらなかった。
「厄介な」子たちだ、と思った。感情のない、乾いた認識だった。ただ、思った。男はあの個体の慎重さを「厄介だ」と思った。今夜の「厄介」は、意味が違った。違う場所から来ていた。それだけはわかった。
名前の話を、思い出した。
小屋の中ではなく、外へ場所を変えて、返してくるものを聞く訓練を終えたのを見届けて小屋に向かおうとした時だった。「わたしの名前も呼べ」と、一人が言った。命令でも懇願でもなかった。言わずにいられなかった、という声だった。男は振り返った。一秒ほど見た。それから、呼んだ。
「シリウス」
それだけだった。
用が済んだから、また歩き始めた。歩きながら、別の視線を感じた。言葉はなかった。言葉がなかったが、伝わった。向き直って、確かめた。同じ目だった。同じ要求だった。
「ラモーヌ」
呼んだ。
それで全部だと思った。男はまた小屋の方を向いた。向きながら、もう一つの気配が動いているのがわかった。口が、開きかけていた。何かを言おうとしていた。言葉が出てこなかった。出てこないまま、また歩き始めた。
男には、あの時の三人の様子が、関心の外にあった。
あったはずだった。名前を確認しただけだ。それだけのことだ。頭の中でそう繰り返しながら、何かがわずかに引っかかった。引っかかりの正体が何なのか、今夜になっても名前をつけられなかった。
ただ、今夜の呼吸が、深くて遅い。
それだけが、今夜の事実だった。
※
男は雪の上に、手のひらを置いた。
素手だった。冷たかった。
掌の熱が、雪に移った。移りながら、消えた。でも、跡は残った。
あと九日。
三人がこの山を下りられるまで、あと九日ある。
声には出さなかった。
でも、数えた。
遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。
仕事が佳境を向かえていたこともありますが、去る令和8年8月1日、親族に不幸が重なったこともあり、公私ともにバタバタしておりました。
今後は週一くらいのペースで投稿できればと考えています。
引き続き本作をお楽しみください。
今後ともよろしくお願いいたします。