氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
握られた、のではなかった。ただ、添えられていた。
それだけで、肩から力が抜けて、足が前に出た。
やがて手は離れる。離れても、温度は残る。
残った温度の名前を、まだ知らない。
知らないまま、もう一度、足が前に出た。
最初に気づいたのは、匂いだった。
目を開ける前に、鼻が動いていた。
薪の煙。乾いた木。草を煎じた残り香。ルドルフの匂い。シリウスの匂い。全部、知っている匂いだった。ここにきてから毎朝確かめてきた匂いだった。安全な匂いだとわかっていた。
でも、何かが足りなかった。
ラモーヌはしばらく、天井を見たまま考えた。何が足りないのか、すぐにはわからなかった。わからないまま、もう一度鼻を動かした。
自分の匂いが、薄かった。
汗と、恐怖と、薬草の匂い。木の床と、毛皮に包まれた自分の匂い。それが積み重なっていた。目が覚めるたびに、その匂いが自分の輪郭を教えてくれていた。ここにいる。生きている。あの夜を越えた。それが、自分の匂いの形をしていた。
昨夜の湯が、それを一度剥がした。
代わりに残っているのは、今の自分の体温だけだった。薪の煙が少し染みていた。沢の水の名残りが、かすかにあった。でも、今日までの積み重ねは、もうなかった。
落ち着かなかった。
怖い、ということではなかった。ただ、自分の匂いが薄いというのは、こんなに頼りない感じがするものなのか、と思った。恐怖の匂いに慣れていた身体が、安全に戸惑っていた。
変なことだ、とラモーヌは思った。
思いながら、天井を見た。
歪んだ光の模様があった。窓から入る朝の光が、不揃いなガラスに屈折して、天井に波打つような筋を作っていた。均一ではなかった。一箇所だけ、光が二重に折れていた。ガラスの厚みが違うのか、嵌め方が歪んでいるのか、ラモーヌには理由がわからなかった。わからなかったが、毎朝その模様を確かめてきた。今朝も、同じ場所にあった。
思いながら、隣を確かめた。
ルドルフが眠っていた。シリウスが眠っていた。二人とも、深いところにいた。昨夜の湯上がりの、弛んだ呼吸だった。
小屋の外で、風が唸っていた。
昨夜から続いている音だった。壁の向こうで、何かが叩きつけるように吹いていた。雪が窓を打つ音が、断続的に続いていた。
外は、荒れていた。
ラモーヌは耳を澄ませた。
男の気配があった。扉の向こうではなく、小屋の中に。薪ストーブの傍だった。動いていなかった。ただ、いた。
ここにいる、と確かめてから、ラモーヌは目を閉じた。
※
三人が揃って目を覚ました時、外はまだ荒れていた。
昨夜より風が強かった。窓の隙間から、細い雪の粉が入ってきていた。床に落ちて、すぐに解けた。
男は朝の食事を用意していた。
振り返らなかった。三人が起きたことを知っているはずだった。知っていて、振り返らなかった。それがいつも通りだった。
ラモーヌは三人分の椀を受け取った。
渡される時、男の手が一瞬触れた。
触れた、というほどのことではなかった。椀の端と端が重なった、それだけのことだった。でも、ラモーヌの鼻が、その一瞬に動いた。
知っている匂いだった。
今日までの間に何度か確かめてきた匂いだった。疲れているはずなのに、疲れの匂いがしなかった。この山に根を張っているような、乾いた匂いだった。
「外は」とシリウスが言った。
「荒れている」
「今日は出られないか」
「昼には落ち着くかもしれない。落ち着かないかもしれない」
シリウスは椀に視線を落とした。
「……どっちでもやることは変わらないか」
男は答えなかった。答えなかったが、それが答えだった。
ルドルフが椀を両手で包んだ。温かそうだった。ルドルフの指先が、もう普通の色をしていた。助けられた時とは別の手だった。それでも、何かを言おうとして——飲み込んだ。喉が動いた。椀の中を見た。ラモーヌは、それをずっと見てきた。
ラモーヌは二人の匂いを、静かに読んでいた。
シリウスの匂いに、何か熱いものが混じっていた。昨日から続いている何かだった。名前を呼ばれた日の夕方から、少し変わっていた。シリウス自身は気づいていないかもしれなかった。
ルドルフの匂いは、少し違う変わり方をしていた。何かが整いかけているような匂いだった。まだ言葉になっていない何かが、輪郭を持とうとしているような。
男は変わらなかった。
変わらないのに、何かが違う気がした。
今朝だけではなかった。名前を呼んだ日から、少し違う気がしていた。違う、というのを言葉にできなかった。匂いが変わったわけではなかった。でも、この小屋の空気が、あの日から少し別の重さを持っている気がした。
言語化しなかった。する必要が、まだわからなかった。
※
昼を過ぎても、風は落ち着かなかった。
「外には出られない」と男が言った。
シリウスが窓の外を見た。雪が横に流れていた。木の枝が、大きくしなっていた。
「……わかった」
「室内でできることをやる」
男が板を持ってきた。
両手を広げたより少し狭いくらいの、薄い板だった。小屋の床材の余りのような、粗い木の板だった。それを二枚、床の上に並べた。床と同じ木だったが、固定されていなかった。
三人は、それを見た。
「乗れ」
「……これの上に?」
「踏んだ時に動く。床とは違う。それだけだ」
シリウスが先に乗った。
一歩踏んだ瞬間、板が僅かに滑った。ほんの少しだった。でも、その「ほんの少し」が、全身に伝わった。耳が伏せられた。脚に力が入った。
「力を抜け」
「抜いたら転ぶ」
「転んでもいい」
「転んで頭を打ったら」
「打たない。今の速度では打たない」
シリウスは板の上で、しばらく止まっていた。止まりながら、足の裏で板の感触を読んでいた。
一歩、踏み出した。
また滑った。今度はさっきより大きく。でも、転ばなかった。踏みこたえた。踏みこたえた時、床の時と同じ音が立った。力みの音だった。
「……くそ」
「続けろ」
ルドルフが次に乗った。床よりも不安定な感触が、足の裏から来た。計算が、追いつかなかった。踏んだ瞬間の返りが、床とは違った。違うことだけはわかった。でも、その違いに合わせる方法が、まだわからなかった。
「……動く、ということと」
「使える、ということは、違う」
男が、以前と同じ言葉を言った。
ルドルフは頷いた。わかっていた。わかっていて、まだできなかった。それだけのことだった。
ラモーヌが板に乗った。
足の裏に、知らない感触が来た。床の板は、毎日踏んできた。毎日踏んできたから、返ってくるものを覚えていた。ここを踏めば、こう返ってくる。それが、身体に入っていた。
この板は、違った。
固定されていない分、踏んだ力がそのまま戻ってきた。逃げ場がなかった。床なら壁が吸っていた分が、全部足に返ってきた。
一歩、踏み出した。
板が動いた。ラモーヌの身体が揺れた。重心が崩れた。倒れると、思った。時間の流れがひどくゆっくりと流れているような気がした。ルドルフと、シリウスが何かを言いかけているような気がした。
気づいた時には、男の手が来ていた。
握っていなかった。ただ、添えられていた。ラモーヌの左手の甲に、男の手のひらが重なっていた。それだけだった。
「だ、大丈夫か」
シリウスの声がした。時間の動きは元に戻っていた。「えぇ」とだけ答えた。同時に触れられている手に意識が傾いているのだけがはっきりとわかった。倒れかけていた姿勢を直した。同時に――また、この温度だ、と思った。
河原で凍えた両手を包まれた時だった。床の上で、夢の匂いを引きずっていた朝だった。あの時と、同じ温度が来た。熱すぎなかった。冷たくなかった。ただ、確かだった。
肩から、余計な力が抜けた。
板がまだ動いていた。でも、その動きを、足の裏が読もうとしていた。読もうとすることが、できていた。一秒前まではできなかった。
男の手が、一歩引いた。
一緒に踏み出した。
板が、滑らなかった。
それだけだった。説明はなかった。男はそのまま手を離して、また板を見た。
「もう一度」
ラモーヌは出発点に戻った。
また乗った。一人で乗った。一歩、踏み出した。
板が動いた。でも、さっきより小さかった。
「……」
男が一拍、手を止めた。
止めた、というほどでもなかった。ほんの一拍だった。でも、ラモーヌにはわかった。あの頃から、ずっとそうだった。何も言わない。でも、一拍だけ止まる。それが、悪くない、という意味だとわかっていた。
※
夕方になった頃、シリウスが口を開いた。
「また、ラモーヌだけ」
低い声だった。湿っていた。男の背中に向かって言った。
男が振り返った。
「ラモーヌは足の裏で読もうとしている。お前はまだ、板が動くことと戦っている」
「違いがわからない」
「動きに逆らおうとするか、動きを聞こうとするか。それだけだ」
シリウスの尾が、壁を叩いた。一度だけ。
男が、シリウスを見た。
しばらく、何も言わなかった。言わないまま、一息ついた。ため息とも言えない、かすかな吐息だった。
それから、板の前に立った。
手が、出た。
シリウスの方へ。
ラモーヌは、その手を見た。
自分の左手を見た。それから、男の手を見た。
同じ手だった。当たり前のことだった。当たり前のことなのに、ラモーヌの中で何かが、ほんのわずかに動いた。
胸の、すこし上のあたりだった。何かが、つかえた。息を吸うと、わずかに引っかかる場所ができていた。
昼前に、自分も同じ手を添えられた。同じ温度だった。同じように、一歩、踏み出せた。それは、よかった。よかったはずだった。
なのに、今、その同じ手がシリウスの方へ出ているのを見ると、胸のつかえが、すこし大きくなった。
なぜ大きくなるのか、わからなかった。
シリウスが手を添えられるのは、いいことだった。シリウスも、自分と同じように、一歩を踏み出せるようになる。それは、いいことのはずだった。頭では、そう思った。思ったのに、胸のつかえは、頭の言うことを聞かなかった。
——わたしのときと、同じ手だ。
そう思った瞬間に、つかえの正体が、ほんの少しだけ見えかけた。
見えかけて、すぐに引っ込んだ。見てはいけないもののような気がした。見てしまったら、知らないふりができなくなる気がした。
だから、見なかった。
動いたものが何なのか、わからないことにした。わからないまま、視線がシリウスに移った。
シリウスが、息を呑んだ。
固まっているのが、ラモーヌにも見えた。板の上に乗るつもりで立っていたはずの身体が、男の手が来た瞬間に止まっていた。一歩が、出なかった。
「……っ」
短く、何か言いかけた。言葉にならなかった。
男の手は、引かなかった。
そのままだった。待っていた。急かさなかった。板の前に立ったまま、手だけが出ていた。
沈黙が、続いた。
シリウスの匂いが、変わった。ラモーヌの鼻が、それを拾った。熱かった。さっきより湿っていた。何かが、シリウスの内側で動いていた。
ラモーヌは、いつもそうしてきた。匂いで、ほかの二人の中で動いているものを読んだ。ルドルフが何かを飲み込んだ時。シリウスが何かを我慢している時。匂いが、教えてくれた。それは、ラモーヌが二人を分かろうとする、ひとつのやり方だった。
でも、今は、うまくいかなかった。
シリウスの熱を読もうとすると、自分の中にも、似た熱があった。さっき、胸のつかえになった、あの熱だった。シリウスの熱なのか、自分の熱なのか、混ざってしまって、切り分けられなかった。
どちらが先に立った熱なのか、わからなかった。
読んでいるのか、巻き込まれているのか、その境目が、溶けていた。
シリウスが、手を取った。
一瞬、身体が揺れた。手が触れた瞬間だった。板の上ではなく、まだ床の上に立っていた。それでも、揺れた。
男は動かなかった。
シリウスが、板に乗った。
手を握ったまま、一歩踏み出した。板が動いた。でも、転ばなかった。男の手があった。あったが、男は引かなかった。ただ、そこにあった。
もう一歩。
板が鳴った。力みの音だった。でも、続いた。
男の手が、静かに離れた。
シリウスは板の上に、一人で立っていた。
「……」
何も言わなかった。男も言わなかった。
シリウスが出発点に戻った。今度は一人で乗った。
それから、前を向いた。
※
ルドルフがラモーヌの隣に来た。
小さな声で言った。
「何を考えていたの? 板に乗っていた時」
「考えてなかった」とラモーヌは言った。「板が何を返してくるか、聞こうとしてた」
「計算じゃなくて?」
「計算じゃない」
ルドルフは少し黙った。それから、また板に向かった。
シリウスが転んだ。板ごと滑って、膝をついた。すぐに立った。振り返らなかった。また板に乗った。
ラモーヌは、シリウスの背中を見た。
さっきより、匂いが変わっていた。熱さは残っていた。でも、湿度が少し違った。手を取った後の湿り方は、手を取る前とは種類が違った。ラモーヌには、その違いに名前をつけられなかった。ただ、違うとわかった。
外の風が、まだ吠えていた。
小屋の中だけが、静かだった。板が動く音と、三人の足音と、薪ストーブが爆ぜる音だけがあった。
※
夜になった。
男が外套を手に取った時、三人の心拍が少し上がった。もう慣れた、と思っていた。でも、慣れていなかった。
「少し出る」
「今夜も荒れているのに」
「足跡だけ確かめる。すぐ戻る」
扉が開いた。雪混じりの風が、一瞬小屋の中に入ってきた。扉が閉まった。
三人はしばらく、扉を見た。
シリウスが膝を抱えた。
「……今日は転んだ」
「わたしも危なかった」とラモーヌは言った。
「それでもラモーヌは途中からできてたじゃない」
「手を引いてもらった」
シリウスは何も言わなかった。
ラモーヌは続けなかった。続けない方がいいとわかっていた。シリウスの今夜の沈黙は、昼間とは少し違う匂いがした。熱さは同じだった。でも、湿り方が変わっていた。何かが、整理されていないまま、ただそこにあるような匂いだった。
ルドルフが口を開いた。
「あの人、板が動くのと、わたしたちが動くのを、全部聞いてたのかしら」
「たぶん」とラモーヌが言った。「あの人は、いつも聞いてる」
誰も、それ以上は言わなかった。
外で、風が鳴っていた。
ラモーヌは自分の左手を見た。
昼間、手が触れた。添えられた。一歩、一緒に踏み出した。それだけだった。それだけのことだったのに、手のひらに、まだその感触があった。
シリウスへ手が伸びた瞬間のことを、また思い出した。
自分の左手を見た時だった。男の手を見た時だった。その一瞬に、何かがわずかに動いた。動いたものに、今も名前をつけられなかった。つけようとすると、するりと逃げた。
昼間、シリウスは声を出した。「また、ラモーヌだけ」と。あの声には、何かが混じっていた。シリウス自身も、気づいていない何かだった。
ラモーヌは、声を出さなかった。
出すものが、なかったわけではない。胸のつかえは、まだあった。でも、それを声にすると、形が決まってしまう気がした。形が決まると、もう知らないふりができない。だから、出さなかった。出さずに、左手を見た。
手を、鼻に近づけた。
自分の匂いがした。湯上がりの、今の自分の匂い。薪の煙が少し混じっていた。
その奥に、かすかに、別の温度の跡があった。
名前をつけなかった。
つける必要が、まだわからなかった。
こっそり、第一章に加筆したり物語の順番を入れ替えたりしています。
第三章、第二章と第四章についても何処かのタイミングで加筆修正を予定しています。(いつになるか、わかりませんが。)
旧稿の要素は崩していませんので、引き続き本作をお楽しみいただけますと幸いです。