氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
ただ怯えるだけの獲物は、すぐに味が落ちる。
自らの脚を信じ、光を信じ、それでもなお暗闇へ引きずり込まれる。
希望が絶望へと反転するその瞬間だけが――
本当の意味で、極上の味がするのだ。
あれからどれくらい走ったか、わからなかった。
ルドルフが足を止めたのは、もう走れなくなったからだ。
走れなくなった、というのは正確ではないかもしれない。脚は動いた。ウマ娘の脚は、限界を超えても動き続ける。ただ前へ、前へと走り続けた。羆の匂いから遠ざかることだけが、三人の脚を動かしていた。どこへ向かっているか、考える余裕はなかった。考えていたら、脚が止まる気がした。でも、どこへ向かって走ればいいのか、わからなくなった。木と木の間を、ただ前へ前へと走り続けて、気づいた時には方角が完全に消えていた。どちらが来た道で、どちらが奥なのか。それすらわからなくなっていた。
両膝に手をついて、肺が落ち着くのを待った。喉の奥が、冷気で焼けるように痛かった。
周囲を見回す。
防風林の景色は、どこにもなかった。
見慣れた木が一本もない。整備された遊歩道も、庭師が手を入れた低木の列も、屋敷の煙突から上る煙も、何もない。どこを向いても、黒々とした原生林が続いている。空を見上げようとしたが、頭上は枝と枝が重なり合って、どちらが東でどちらが西か——頭上を覆う枝の天井が、その答えごと塗り潰していた。
「……どっちが、戻る方向」
シリウスが呟いた。
答える者は、いなかった。
ラモーヌは、来た道を振り返ろうとして、止まった。
おかしかった。さっきまで後ろから追ってきていた音が、今は——前の方から、気配がする。
気のせいかもしれなかった。でも鼻が、そう言っていた。あの匂いが、逃げてきた方向ではなく、帰りたい方向から、かすかに漂っていた。
言わなかった。言えなかった。言葉にすれば、言葉に出来ない何かが定まってしまうと思った。
何より、三人とも知らなかった。あれだけ全力で走って、方向など確かめていなかった。斜面を駆け上がった気もするし、斜面を横切った気もする。記憶が恐怖で塗り潰されて、どこをどう走ったのか、何も残っていなかった。
ルドルフは自分の手を見た。
掌に、細かい砂と腐葉土が食い込んでいる。どこかで枝をかいくぐった時についたのだろう。走っている間は感じなかった。今は、じわじわと熱さが戻ってきていた。頬に触れると、指先に赤いものがついた。見てから、ああ血だ、と思った。大した傷ではない。でも、今まで生きてきて、自分の血をこんなふうに見たことはなかった。
これは、自分のせいだ。
その事実が、じわりと胃の底に沈んでいった。
シリウスが止めようとした。ラモーヌが何かを感じ取っていた。それでも、自分は止まらなかった。もう少しだけ、もう少しだけ、と言い続けて、ここまで来た。二人を連れてきた。連れてきて、この場所に三人で立っている。
シリウスの膝の布地が、破れて赤くなっていた。
ラモーヌのカーディガンの袖が、根元から裂けていた。
ルドルフの耳が、ぴんと前に張ったまま動かなかった。何かを探している。追ってくる音を、探している。でも今の耳には、風の音しか届かなかった。それが安堵を意味するのかどうか、ラモーヌには測る方法がなかった。
気づけば、空が変わっていた。
ほんの少し前まで、葉の隙間から午後の光が差し込んでいた。それが今は、鉛色の雲が低く垂れ込めて、光の差す場所がどこにもない。風が強くなっている。木の梢が大きくしなり、枯れ葉が渦を巻いて舞い上がった。一枚がルドルフの頬の傷に貼り付いた。払いのけると、また少し血が滲んだ。
「寒い」
ラモーヌが自分の腕を抱いた。
走っている間は気づかなかった。止まった途端に、消耗が一気に戻ってきた。ウマ娘の身体は、動いている間は燃え続ける。その分、止まった瞬間の冷えが速い。薪が一度に燃え尽きるような、そういう冷え方だった。
急激に冷え込んできた気温に薄手のカーディガン一枚では、もはや追いつかない。裂けた袖口から冷気が入り込んで、腕の内側の皮膚が粟立っていた。走っている間は身体の熱でごまかせていた。今は止まっているから、奪われる一方だった。
ルドルフも寒かった。ワンピース一枚の肌に、風が容赦なく当たっている。袖のない二の腕が、触れると氷のようだった。でも、それを口にする気にはなれなかった。
屋敷を出る前、自分は「すぐ帰れる」と言った。
その言葉が、今、自分の喉に刺さっていた。
捜しに来てくれるだろうか。
その思考が、途中で止まった。
空を見た。鉛色だった。雲の底が低かった。風がまた強くなった。葉が激しく揺れた。その音の中に、何か別の音が混じっている気がした。聞き取ろうとして、聞き取れなかった。気のせいだったかもしれない。気温が一段と低くなった気がした。
最初の雪粒が、ルドルフの頬に当たった。
傷のある方の頬だった。冷たかった。冷たさが、乾きかけた血を濡らした。それだけのことが、妙に鮮明だった。
空を見上げた。白いものが、枝の隙間から舞い降りてくる。最初は一粒、二粒。それが見る間に密度を増して、視界が白く霞み始めた。
それからは早かった。
雪は一度勢いづくと止まらなかった。足元の枯れ葉が、あっという間に白く覆われていく。来た道の足跡が——もしそれが残っていたとしても——雪に埋もれていく。ルドルフは口を開こうとして、肺に刺さるような冷気を吸い込み、咳き込んだ。気管が収縮する感覚。もう一度吸い込もうとすると、また咳が出た。
革靴の中の足先が、じんじんしていた。
最初は痛かった。それがいつの間にか、痛みではなく熱さになっていた。感覚がおかしくなっている。足先が凍えると熱く感じる——それがどういう意味か、正確にはわからなかった。ただ、何かがおかしいとはわかった。
シリウスが太い木の幹に背を預けた。
ルドルフとラモーヌも、自然にそこへ寄り添った。三人で幹を背にして、膝を抱える形になった。シリウスの外套の袖が、ルドルフの腕に触れた。ラモーヌの肩が、シリウスの肩に当たった。
互いの体温だけが、今持っているすべてだった。
しばらく、誰も喋らなかった。
雪の音を聞いていた。雪は音を立てない。でも、積もっていく雪の重さが、枝を少しずつ撓ませて、時折ぱさりと落ちる音がした。その音が聞こえるたびに、三人の耳が微かに動いた。動いてから、雪だとわかって、また静かになった。
その繰り返しが、一番消耗した。
音がするたびに身体が反応する。反応するたびに、体力が削られる。恐怖というのは、そういうものだとルドルフは思った。大きな一撃ではなく、小さな揺さぶりの繰り返しが、一番深いところまで削っていく。
「……怒られるね」
ラモーヌが言った。
誰に向けた言葉でもなかった。ただ、このまま黙っているのが怖かっただけかもしれない。
「怒られるどころか」とシリウスが言いかけて、止まった。
続きは言わなかった。言わなくてよかった。三人とも、続きは知っていたから。
ルドルフは膝を抱えたまま、俯いていた。
口を開こうとした。何かを言おうとした。大丈夫、と言いたかった。帰れる、と言いたかった。でも、どちらも言えなかった。言えば嘘になるとわかっていたから。
さっきの眼を思い出した。
怒りも狂気もない、ただ確認するだけの眼。急ぐ必要がないと知っている眼。あの眼が、今、どこにあるのか。雪の向こうのどこかで、この場所を知っているのか。知っていて、待っているのか。
考えるのをやめようとした。やめられなかった。
「……誰かが、捜しに来る」
ルドルフが言った。
確信を持って言ったわけではなかった。確信が持てないから、声に出した。声に出せば、少し本当になる気がした。
シリウスは何も言わなかった。ラモーヌも、何も言わなかった。
否定しなかった。それだけが、今できる返事だった。
雪が降り続けた。
静かだった。静かすぎた。
さっきまでの風が、いつの間にか止んでいた。風がなくなった分、雪が真っ直ぐに落ちてくる。音もなく、真っ直ぐに。三人の肩の上に、頭の上に、膝の上に、均等に積もっていく。
ラモーヌが鼻を動かした。
雪の匂いがした。冷たい、湿った空気の匂いがした。それだけだった。さっきまであった、あの匂いが、今はしなかった。それが安堵を意味するのかどうか——ラモーヌが何も言わないということが、ルドルフにはわかった。わかったが、聞けなかった。
ルドルフの耳が、また前を向こうとした。
向こうとして、固まった。
風が、止まっていた。
雪だけが、音もなく落ちていた。
ラモーヌの鼻が、もう一度動いた。匂いが、しなかった。さっきまであれほど濃かった匂いが、今は雪の冷気に塗り込められたように消えていた。体力が限界に近かった。感覚が鈍っていたのかもしれない。それとも——風が、三人の方から吹いていたのかもしれない。どちらかは、わからなかった。わからないまま、耳だけが何かを探していた。
——ドスッ。
音がした。
雪を踏む音ではなかった。もっと重く、鈍い音だった。何かが、幹に当たった音だった。三人が背を預けている幹の、真後ろから。
三人の呼吸が、同時に止まった。
幹が、揺れた。
巨大な衝撃が、背中を通して伝わってきた。樹齢何十年かわからないエゾマツの幹が、一撃でそれだけ揺れた。上から、雪が落ちてきた。枝ごと、ぼさりと落ちてきた。頭の上に、背中に、白い重さが降り注いだ。
振り返れなかった。
振り返れば、見える。見てしまえば——。
「——走って」
ルドルフが言った。
さっきと同じ言葉だった。でも、さっきとは違う声だった。さっきは細かった。今は——震えていた。震えながら、それでも前へ向いていた。
三人が立ち上がった。
立ち上がれた、というより、恐怖が立ち上がらせた。膝の傷が悲鳴を上げた。足先の感覚がなかった。それでも脚が動いた。動いた瞬間——。
真横で、空気が裂けた。
音だった。風を切る、重い音だった。何かが、すぐ横を通り過ぎた。
エゾマツの幹が、裂けた。
胸の高さの幹が、一撃で。樹皮が弾け飛んだ。白い木の内側が剥き出しになった。生木の青臭い匂いが、冷気の中に広がった。爪痕だった。四本の線が、幹の表面に深く刻まれていた。深さは——指が埋まるほどだった。
ルドルフは、その爪痕を一瞬だけ見た。
自分がいた場所から、指一本分も離れていなかった。
考えなかった。考えている時間はなかった。
走った。
今度は方向を確かめなかった。前へ、ただ前へ。傾斜があった。下り坂だった。下り坂なら、重力が味方になる。それだけを考えた。足が、斜面を踏み込んだ。
雪が積もっていた。
その下が、どうなっているのか、わからなかった。
わからないまま、踏んだ。
左足が、何かを踏み外した。
石か根か、判断が追いつく前に身体が崩れていた。足首の奥を、鈍く重い何かが走った。骨が鳴いたのか、それとも自分の声が漏れたのか、その区別もつかないまま身体のバランスが崩れた。崩れたまま、斜面を転がった。
転がりながら、枝が肋骨を打った。石が背中を打った。雪が顔に張り付いた。どこが上でどこが下か、わからなくなった。止まれなかった。斜面が急すぎて、止まろうとしても止まれなかった。
止まったのは、太い幹に背中が当たった時だった。
衝撃で、肺の空気が全部出た。
息ができなかった。一秒、二秒、三秒。肺が動かなかった。動かそうとしても、動かなかった。喉が、開かなかった。このまま呼吸ができなくなるのかと思った瞬間、肺が強制的に動いた。冷気が、一度に流れ込んできた。激しく咳き込んだ。
「ルドルフ!」
シリウスの声がした。上の方からだった。
見上げると、シリウスが斜面の途中で止まっていた。片手を木の幹に当てて、こちらを見ていた。ラモーヌがその隣にいた。二人とも、転ばずに止まっていた。
ウマ娘の脚力と、バランス感覚。
ルドルフだけが、転がり落ちた。
「……大丈夫」
大丈夫ではなかった。左の足首が、じんじんと痛んでいた。立てるかどうか、わからなかった。でも、大丈夫ではないと言える状況ではなかった。
立とうとした。
左足に体重をかけた瞬間、膝が折れた。
痛みが、足首から膝まで走った。雪の上に、また崩れ落ちた。もう一度、立とうとした。また崩れた。
自分のせいで、ここにいる。
その事実が、足首の痛みより重く、今この瞬間に刺さった。
シンボリ家の最高傑作、と呼ばれてきた。誰よりも速く走るための脚が、今、雪の上で動かない。二人の肩を借りなければ、一歩も踏み出せない。それが何を意味するのか——自分が今、ただの足手まといだということを、ルドルフは初めて知った。シリウスを止めようとしたのに、止められなかった。ラモーヌの不安を聞こうとしなかった。二人を連れてきた。連れてきた末に、転がり落ちて、今は立てない。
上から、音がした。
背後の、斜面の上から。
重い、あの音だった。
雪を踏む音。四つ足の、規則的な音。遠くはなかった。来た方向から、一直線に、斜面を下りてくる音だった。急いでいなかった。急がなくていいと知っている音だった。
シリウスが斜面を下りてきた。ルドルフの腕を掴んだ。
「立て」
「足が——」
「立て」
同じ言葉を繰り返した。怒鳴ってはいなかった。でも、逆らえない声だった。
ルドルフはシリウスの腕を掴んだ。引き上げられた。左足に体重をかけないよう、右足だけで立った。立てた。
ラモーヌが反対側に回った。
何も言わなかった。ただ、ルドルフの左腕を肩で支えた。その動きに、迷いがなかった。考えてそうしたのではなく、そうするのが当然だという動き方だった。
「行くぞ」
シリウスが言った。
三人で、斜面を下りた。
走れなかった。走れる状態ではなかった。それでも動いた。一歩ずつ、雪の斜面を踏みしめながら。左足が、踏み込むたびに悲鳴を上げた。声には出さなかった。でも、こらえた息が漏れた。
「……っ」
一歩踏み出すたびに、足首から膝まで、熱い何かが駆け上がってきた。折れていないはずだ。動いている。でも、まともに体重をかけられない。このままでは——二人の足を引っ張る。その考えが、一瞬だけ頭を掠めた。
「止まるな」
シリウスが言った。
見ていた。気づいていた。それでも止まらなかった。止まれば、三人とも終わりだとわかっていたから。
ルドルフは前を向いた。シリウスとラモーヌに体重を預けながら、右足だけで踏み出した。
背後の音は、近づいていた。
一定のペースで、近づいていた。
気温が、また一段落ちた気がした。斜面を下りるほど、冷気が濃くなっていく。湿った、重い冷たさだった。水の匂いが、かすかに混じり始めていた。
斜面が急になった。足元の雪が深くなった。踏み込むたびに膝まで沈む。沈んだ足を引き抜くたびに、体力が削られた。ルドルフの体重を支えながら動くシリウスとラモーヌも、息が上がり始めていた。
それでも、止まれなかった。
止まれば——。
止まることの意味を、三人とも知っていた。
雪は降り続けた。背後の音は、止まらなかった。斜面の下に何があるのか、見えなかった。見えなくても、下へ向かうしかなかった。上には、戻れなかった。
手を、離していなかった。
ルドルフはその事実だけを、今この瞬間に確かめた。シリウスの手が腕を掴んでいる。ラモーヌの肩が脇を支えている。どれだけ速く走れるかより、どれだけ強く蹴れるより、今この瞬間は手を離さないことだけが意味を持っていた。
自分が連れてきた。
その事実は変わらない。変わらないが、二人は手を離さなかった。離さないまま、斜面を下りていた。
三人の呼気が、白く、激しく、夜の色に染まり始めた空へ、消えていった。
ここまでオリ主の影、0。