氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
若い。柔らかい。冷えて、固くなっている。
凍え、震え、動けなくなった、最高の『収穫物』。
どうあがいても、雪。
どうあがいても、夜。
どうあがいても、絶望。
——嗚呼、腹が減ったなあ。
影が、こちらを向いていた。
三人の手に、力がこもる。ルドルフの右手をシリウスが握っている。左手をラモーヌが握っている。冷えきった指。震える指。それでも、離れてはいなかった。
影が、一歩、動いた。
——ザ。
雪を踏む音。
それだけで、三人の身体は答えを出した。
「走って!」
ルドルフが叫んだ。
手が離れる。今度は、三人とも同時だった。
*
最も恐ろしかったのは、見えないことではなかった。聞こえることだった。
姿は、雪の向こうへすぐに消える。木が遮る。白い幕が遮る。振り返っても、何も見えない。
けれど、音だけは残った。
——ザ。
——ザ。
——ザ。
雪を踏む、重い音。速くはない。少なくとも、三人の耳には、走っているようには聞こえなかった。
なのに、離れない。むしろ、少しずつ近づいてくる。
それが、何より恐ろしかった。
「こっち!」
シリウスが叫ぶ。
前方。木々の間が狭くなっていた。三人なら抜けられる。あの巨体なら、少しは動きづらいかもしれない。それだけ。確かめる時間はない。
ルドルフが先に身体を滑り込ませる。肩。枝。顔。次々と当たる。構わない。
後ろからシリウス。さらにラモーヌ。細い幹の間を、縫うように抜ける。
「ラモーヌ!」
「いるわ!」
「シリウス!」
「前見ろ!」
声を出す。声を聞く。三人いる。まだ、三人いる。それだけを、走りながら確かめる。
背後。
ばきり。
枝が折れた。次。また、別の枝。細い木が大きく撓む音。
「っ……!」
シリウスが振り返りかけた。やめる。
見なくていい。いる。音が、そう言っている。
「前!」
ルドルフが叫んだ。
地面が、急に消えた。
「止まれ!」
三人が、ほとんど同時に速度を殺す。靴底が雪を削る。滑る。
ルドルフは目の前の幹へ手をついた。シリウスは低い枝を掴む。ラモーヌは数歩横へ流れて、ようやく止まった。
その先。斜面だった。
かなり急だ。雪の向こうに、下の地面が見える。木はある。岩も。笹も。真っ直ぐ下りれば、転ぶかもしれない。
「どうする」
シリウスが言った。息が荒い。
ルドルフが後ろを見る。何も見えない。
けれど。
——ザ。
音がする。近い。
「下りる」
ルドルフが答えた。
「こっちの方が木が多い」
ラモーヌが斜面を見る。目で、足元を追う。
「真っ直ぐは駄目」
「どこだ?」
「少し右」
ラモーヌが指した。大きな木が斜面に何本も立っている。根元には雪が吹き溜まっている。その間を縫う。
「一人ずつじゃ遅い」
ルドルフが言った。手を伸ばす。
シリウスが一瞬だけ見る。それから、握った。ラモーヌも、反対側を握る。
「絶対、離さないで」
「お前もな」
「ええ」
三人が、一歩、斜面へ踏み出した。
足元が沈む。身体が下へ引かれる。
「っ!」
ルドルフが右足を踏ん張る。次、左。雪が滑る。それでも止まらない。止まれば、今度はその場で転ぶ。
三人は斜面を駆け下りた。
いや。走っていたのか。落ちるのを脚で抑えていたのか。自分たちにもわからなかった。
一歩踏むたび、身体が下へ引かれる。次の足を、その前へ出す。また落ちる。踏む。次。踏む。次。木。
「左!」
ラモーヌが叫ぶ。三人が同時に左へ寄る。右側。雪の下から黒い岩が出ていた。避ける。
次。倒れた枝。シリウスが先に跨ぐ。繋いだ手を少し上げる。ルドルフ。ラモーヌ。続く。
「いける!」
ルドルフが言った。自分へ。二人へ。どちらへ向けたのか、わからない。
一度、シリウスの脚が滑った。
「っ!」
身体が下へ落ちる。ルドルフとラモーヌの腕が引かれる。
「シリウス!」
「平気!」
片膝、雪につく。すぐ、立つ。また進む。
今度は、ラモーヌの足元が崩れた。三人の身体がまとめて左へ傾く。
「木!」
ルドルフが叫ぶ。シリウスが空いている手で幹を掴む。止まる。腕が伸びきる。痛い。
でも、三人とも止まった。
「……行くぞ」
シリウスが歯を食いしばる。
また、下へ。一歩。二歩。三歩。
途中から、ラモーヌの声が短くなった。
「浅い」
「深い」
「硬い」
方向ではなかった。足の裏が拾ったものを、そのまま言葉にしているだけだった。
雪はどこも同じ白さをしている。けれど踏み込んだ瞬間の沈み方が違う。ふわりと深く沈む場所には、下に何もない。硬くて滑る場所は、岩か、凍った土。少しだけ傾いて沈む場所は、その先が崩れている。
ラモーヌは、それを一歩ごとに読んでいた。読んで、次の足の場所を決めていた。自分の分と、繋いだ二人の分を。
「浅い」
ルドルフが同じ場所を踏む。沈まない。
「深い」
シリウスが半歩ずらす。
二歩、三歩と続けるうちに、三人の足が揃い始めた。ラモーヌが決める。二人がなぞる。それだけの単純なことが、斜面を下りるという行為を、落ちることから走ることへ変えていった。
「いいぞ」
シリウスが言った。息の合間だった。
「そのまま言え」
「ええ」
斜面が、少しずつ緩くなる。
「もうすぐ!」
ラモーヌが言った。足元の角度が変わっていた。
「そのまま!」
最後。三人がほとんど同時に斜面から飛び出す。
平らな雪。着地。一歩。二歩。
ルドルフが前へつんのめる。シリウスが引く。ラモーヌも引く。
転ばなかった。
「……下りた」
シリウスが息を吐いた。
「下りられた……」
自分でも信じていなかったのかもしれない。言ってから、もう一度、上を見た。
高い。さっき自分たちが立っていた場所が、木の間に細く見える。あそこから、ここまで。転ばずに来た。
「……できたな」
シリウスが言った。
短い言葉だった。それでも、そこには確かに何かがあった。怖くて、痛くて、逃げ続けていた三人が、この山へ入ってから初めて、自分たちの力で越えられたものだった。
ルドルフも上を見ていた。
脚は動いた。二人と繋いだまま、あれだけの斜面を下りた。庭で走るのとは違う。競争でもない。それでも、脚は自分の言うことを聞いた。
まだ、走れる。
その実感が、冷えた身体の奥に、少しだけ熱を戻した。
覚えてしまった、とは思わなかった。次があるとも考えなかった。ただ、一度できたことは、できたこととして三人の中に残った。
残ったまま、消えなかった。
ルドルフも振り返る。
斜面。白い。何もいない。音も、ない。
「……来てない?」
ラモーヌは耳を澄ませる。雪。三人の息。遠くの枝。
「わからない」
それでも、ほんの一瞬、三人の顔が緩んだ。
斜面。あの大きさでは、自分たちほど自由には下りられないのかもしれない。あそこで距離を取れたのかもしれない。
そんな考えが、三人の中にほんの少し生まれた。
「行こう」
ルドルフが言った。
「ここから離れよう」
今なら、もっと離れられる。
三人が再び走り出す。
その数秒後。
斜面の上ではない場所から。
——ザ。
音がした。
右。少し遠い。けれど、同じ高さから。
三人の耳が、同時に向く。
「……なんで」
ルドルフの声が漏れた。
見えない。でも、足音は斜面の上からではなかった。斜面を避けたのか。別の場所から下りたのか。わからない。
ただ、同じ高さにいる。それだけが、わかった。
「走れ!」
シリウスが叫んだ。
*
二度目は、さっきより速かった。
速く走っている、という意味ではない。恐怖が、判断を急がせた。
木。
右。
避ける。
枝。
潜る。
雪。
踏む。
滑る。
立て直す。
三人とも、もう余計な言葉を使わなかった。
「右!」
「木!」
「下!」
「いる!」
短い声だけ。その声に、身体が反応する。
ルドルフは前を走りながら、自分の脚を信じようとしていた。
まだ動く。疲れている。冷えている。それでも動く。なら、走れる。走れば、離れられる。
そう思わなければ、前へ進めなかった。
けれど、身体は少し前までの身体ではなかった。
呼吸、戻らない。喉、痛い。指先、鈍い。足裏、雪の下がわかりづらい。枝に当たっても、痛いのか冷たいのか、一瞬遅れてしか判断できない。
身体から届く情報が、少しずつ遅くなっている。
その遅れが、怖かった。
「ルドルフ!」
後ろ。シリウス。
「速い!」
ルドルフが速度を落とす。振り返る。
シリウス、いる。ラモーヌ、いる。
また、前。
一人で先へ行かない。三人で。三人で帰る。それだけ。
「前!」
ラモーヌの声。ルドルフが顔を戻す。
また、斜面。
さっきとよく似ていた。こちらの方が少し広い。雪は深い。でも、傾斜は同じくらいに見える。
シリウスが追いつく。
「またか」
「下りる?」
ルドルフが訊く。
ラモーヌが斜面を見る。後ろ。耳。足音。
——ザ。
——ザ。
近い。
「下りるしかないわ」
「さっき行けた」
ルドルフが言った。
シリウスも斜面を見る。
一度、できた。同じように下りればいい。
その記憶が、決断を早くした。
「行くぞ」
シリウスが手を出す。今度は、ルドルフが握る。ラモーヌも反対側。三人、繋がる。
一歩目。雪。沈む。
二歩目。問題ない。
三歩。四歩。速度が乗る。
「右!」
右へ。木を避ける。
「左!」
左。
一度目と同じ。危ない。でも、できる。ルドルフはそう思った。
次の一歩。右足。大丈夫。
その次。左。踏んだ。
雪の下に、地面がある。そのはずだった。
踏み込んだ瞬間、足の裏が横へ消えた。
「――っ」
声が、出なかった。
雪の下。見えなかった何かに、靴の端が乗った。根なのか。石なのか。わからない。
足首が外へ流れる。身体はもう前へ進んでいる。脚だけが、一瞬、取り残された。
痛みが、遅れて来た。
足首の奥から、熱いものが一気に上へ走る。
おかしかった。
ここまで、身体はずっと遠くなっていくばかりだった。指先の感覚が鈍り、足の裏が雪の下を読めなくなり、頬に当たる雪が冷たいのか痛いのかもわからなくなっていた。自分の身体なのに、少しずつ、届かなくなっていた。
なのに今、足首だけが、はっきりしている。
冷えて薄くなっていた感覚の中で、そこだけが焼けるように鮮明だった。身体の全部が、その一点へ引き寄せられていく。
痛いというより、そこに脚があるということを、初めて教えられたようだった。
そして、その脚が動かない。
ルドルフは、それが一番わからなかった。
走れと思えば走った。速く、と思えば速くなった。庭でも、道でも、芝の上でも。疲れた時はあった。息が切れた時もあった。それでも、命じたことを、脚が拒んだことは一度もなかった。
今、命じている。
届いていない。
「ルドルフ!」
シリウスが繋いだ手を引いた。反対側、ラモーヌも体重をかける。
ルドルフの身体が、完全に倒れる寸前で戻った。
「……っ、だい、じょうぶ」
息が詰まる。
シリウスがルドルフの顔を見る。
「どこだ」
「何でもない」
「嘘つけ!」
「行って!」
後ろ。
——ザ。
近い。
「止まったら駄目!」
ルドルフが左足をもう一度雪へ置く。体重、乗せる。
瞬間。痛い。膝が折れそうになる。
でも、動いた。
一歩。次。また一歩。
痛い。でも、歩ける。いや、走れる。まだ。
「ルドルフ」
ラモーヌが顔を見る。
「足?」
「大丈夫」
今度は言い切った。
嘘だった。二人とも、わかった。
わかった上で、シリウスは何も言わなかった。ラモーヌも言わなかった。
言えば、止まる。止まってしまう。今、確かめていいことではない。
ただ、繋いだ手の位置が変わった。
さっきまで、三人は手のひらを合わせて指を組んでいた。それが、シリウスの側だけ、ルドルフの手首に近い場所を掴む形になった。ラモーヌも同じようにした。
握るためではない。引き上げるためだった。
ルドルフは、それに気づいた。
気づいて、何も言わなかった。礼を言えば、認めることになる。謝れば、二人が困る。だから黙って、掴まれたまま走った。
三人とも、同じことをしていた。気づいていて、言わない。それが今この瞬間、三人にできる唯一のことだった。
三人は走った。斜面を下る。
左足をつくたび、痛み。
右。左。痛い。右。左。痛い。
その繰り返し。
いつからか、痛みの輪郭が少し遠くなった。治ったわけではない。ただ、考える場所が身体の中からなくなっていった。
前。足場。二人。後ろ。音。
それだけ。
「離すな」
ルドルフが言った。自分の声が震えている。
「当たり前だろ」
「離さないわ」
握られた。痛いくらい、強く。ルドルフも握り返した。
斜面を下りきる。今度は転ばなかった。三人とも、立っている。
「行ける」
ルドルフが言った。自分でも、何を意味したのか、わからなかった。
脚が動く。だから、行ける。それだけ。
そして、走り始めた。
左足を庇わないように意識した。庇えば、二人にわかる。
もう、わかっているのに。それでも、隠したかった。
「おい」
シリウスが横へ並ぶ。
「無理すんな」
「してない」
「してる」
「走れる」
「だからって――」
「走れるうちは走る」
シリウスが黙った。それ以上、止めなかった。
代わりに、少しだけルドルフ側へ寄った。もし脚が崩れたら、支えられる距離。
ラモーヌも、反対側から少し近づいた。
ルドルフは気づいた。でも、何も言わなかった。
*
足音が、また消えた。
それが、今では安心にならなかった。むしろ、聞こえない方が怖い。
どこにいる。どちらにいる。近いのか。遠いのか。
わからない。
ラモーヌが何度も鼻を動かす。
「どう?」
ルドルフが訊く。
「わからない」
冷たい空気。雪。血。汗。木。それらの奥に、甘い匂いがあるような、ないような。
「でも」
ラモーヌが前を見る。
何か、違う。雪の向こう。空気が少し開いている。木の密度が薄い。
「こっち」
ラモーヌが言った。今までより、強い声だった。
ルドルフが見る。
「わかるの?」
「わからない」
ラモーヌは走りながら答えた。
「でも、こっちは木が少ない」
「それだけ?」
「それだけ」
一瞬、シリウスがラモーヌを見る。そして、
「十分だ」
と言った。ルドルフも頷く。
「行こう」
今度は、ラモーヌが前へ出た。
初めてだった。
ずっと、ルドルフが前だった。森へ入った時も。熊から逃げた時も。道を決めようとした時も。
今、ラモーヌが前を走る。
速さでは、ルドルフやシリウスに劣る。でも、今は競争ではない。三人が同じ場所へ行くための走りだった。
ラモーヌは足元を見る。雪。木。枝。少し先。地面の窪み。左。避ける。
「左!」
二人がついてくる。
「木!」
右へ。
「低い枝!」
伏せる。
ルドルフが遅れる。ほんの少し。シリウスがそれに合わせる。
「先行って!」
ルドルフが言う。
「嫌だね」
「シリウス!」
「私が決める!」
シリウスは前を向いたまま言った。
「置いてかねぇ!」
ルドルフが、何も言えなくなる。
ラモーヌが速度を少しだけ落とす。三人の間隔が戻る。
後ろ。音。ない。
でも、いる。そう思う。そうとしか、思えない。
三人は、最後の力で走った。
*
木々が、突然、切れた。
ラモーヌが先頭で急停止した。
「待って!」
シリウス。ルドルフ。続いて止まる。
目の前。地面が、ない。
白い。下。雪。そのさらに下に、地面が見える。
高い。
崖。そう思った。
でも、垂直ではない。大きく地面が落ち込んだ、段差だった。斜面が途中で削られたように、数メートル下へ落ちている。その下、雪が厚く積もっている。
「……行けない」
ラモーヌが呟いた。
シリウスが左右を見る。
「回れるか?」
左。木。密集。右。少し離れたところまで、段差が続いている。
どこかに、下りられる場所があるかもしれない。
でも、探す時間。あるのか。
ルドルフが耳を動かす。
——ザ。
後ろ。聞こえた。
三人の顔が同時に変わる。
「近い」
ラモーヌ。もう、鼻でもわかった。
甘い。腐ったような匂い。鉄。
戻ってきている。濃い。
「右へ!」
シリウスが言う。三人が段差沿いに走る。
ルドルフ。左足。痛い。一歩。また、痛い。速度が出ない。
段差は続く。
「まだ!?」
「わからない!」
「ラモーヌ!」
「見えない!」
雪。白。木。
後ろ。
——ザ。
——ザ。
近い。速い。
三人がさらに走る。
ルドルフの左足が、一度、完全に崩れた。
「っ!」
手をつく。雪。
シリウスが腕を掴む。
「ルドルフ!」
「行ける!」
「行けてねぇ!」
「行く!」
立つ。足首、熱い。今度は、痛みがはっきり戻った。
でも、立つ。
「もう」
ラモーヌが前で止まった。
「もう何だ!」
ラモーヌが下を見る。
段差。さっきより少し低い。それでも、高い。二メートル。あるいは、もう少し。
下には深い雪。その先、木が少ない。
「ここ」
ラモーヌが言った。
「ここなら」
シリウスが下を見る。
「飛ぶ気か?」
ラモーヌは答えなかった。後ろを見る。
白い。でも、黒いものが、木々の間にちらりと見えた。
「……他にある?」
その一言。
シリウスが歯を食いしばる。
ルドルフも下を見る。
高い。
どれくらい、と考えて、比べるものを探した。
メジロ邸の階段。上りきったところから下を見た時の高さ。あれより、少し高い。屋敷の二階の窓。あそこから庭を見下ろした時と、たぶん、同じくらい。
そう思った瞬間、膝の裏が冷たくなった。
あそこから飛び降りる子供はいない。誰も、そんなことはしない。飛び降りていいものではないから、大人は窓を閉める。
その高さを、今から飛ぶ。
「私が先に降りる」
シリウスが言った。
「下で受け止める」
「無理よ」
ラモーヌが即答した。
「なんでだよ」
「シリウスの膝、もう曲がっていないもの」
シリウスが黙った。
自分の膝を見る。破れた布。血。曲げようとして、途中で止まる角度。走っている間は忘れていた。指摘されて、初めて思い出した。
「……くそ」
「それに」
ラモーヌは下を見たまま続けた。
「一人ずつ降りたら、最後の人が上に残るわ」
三人とも、その意味を理解した。
最後に残るのは、一番遅い者ではない。一番、後から降りる者だ。そしてこの三人の中で、上に残っていられる時間が最も短いのは、後ろから来ているものが一番先に見つける場所に立つ者だった。
誰も、その役をやらない。やらせない。
「雪の深いところへ」
ラモーヌが言った。
「どこ」
「あそこ」
指したのは、段差の真下ではなかった。少し右。木の陰になって、風が当たらない場所。雪が厚く吹き溜まっている。
「なんでわかる」
「風下だから」
ラモーヌは、それだけ言った。
理由になっているのか、自分でもわからなかった。ただ、今日一日、雪の積もり方をずっと見てきた。木の風上側にだけ雪が張り付いていた。だとすれば、風下には落ちて溜まる。
確かめたわけではない。
でも、他に測るものがなかった。
「わかった」
シリウスが頷いた。疑わなかった。
ルドルフも下を見た。
高い。怖い。足、痛い。飛び降りたら、どうなる。わからない。
でも、後ろ。戻れない。右も、左も、探している時間がない。
ルドルフが手を伸ばした。
「手」
シリウスが見る。ラモーヌも。
「一緒に?」
「一人ずつだと、誰かが残る」
「着地できるか?」
シリウスがルドルフの左足を見る。
ルドルフも、一瞬だけ自分の足を見る。
「……わからない」
初めて、大丈夫とは言わなかった。
「でも」
二人を見る。
「一緒なら」
シリウスがルドルフの手を握る。強い。
「ったく」
もう片方。ラモーヌ。握る。
「三人でね」
「うん」
三人が、段差の縁へ並ぶ。
後ろ。
——ザ。
近い。
もう、振り返らなかった。
「せーので?」
「うん」
ラモーヌが下を見る。
「雪の深いところへ」
「わかった」
「行くよ」
「待て」
シリウスが息を吸う。吐く。
「……いい」
三人。指。握る。
「せーの」
跳んだ。
*
浮いた。
ほんの一瞬だった。足元から地面がなくなる。腹の奥が上へ持ち上がる。
風。雪。繋いだ手。それだけ。
次の瞬間、落ちた。
雪。深い。身体が白い中へ沈む。
衝撃。
ルドルフの左足に、痛み。今までで一番強い。
「――っ!」
今度は、声が出た。
着地できなかった。左から身体が崩れる。シリウスの手を引く。ラモーヌの手も引く。
三人、まとめて雪へ倒れた。転がる。一回。二回。止まる。
ルドルフは顔を雪から上げた。息、できる。
「シリウス!」
「いる!」
「ラモーヌ!」
「ここ!」
三人、いる。手、離れていた。でも、すぐ近く。
ルドルフが立とうとする。左足、つく。
「――っ」
膝が落ちる。立てない。
シリウスが駆け寄る。
「だから!」
「大丈夫!」
「もうそれ言うな!」
怒鳴った。
シリウスが、初めて、本気で怒鳴った。
ルドルフが目を見開く。
「大丈夫じゃねぇだろ!」
シリウスがルドルフの腕を自分の肩へ回す。
「立てるか」
「……うん」
「右だけでいい」
「でも」
「今だけだ!」
反対側。ラモーヌが何も言わず肩を入れる。ルドルフの左腕を支える。
二人の間。ルドルフが持ち上がる。右足、雪。左、地面へ触れるだけ。痛い。
「ごめん」
ルドルフが小さく言った。
「あとで聞く」
「帰ってから」
ルドルフが二人を見る。
帰ってから。また、その言葉。
まだ、二人とも、帰るつもりでいる。
「……うん」
ルドルフが頷く。
三人で歩き出す。早く走れない。でも、進む。
段差が後ろにある。あれだけの高さ。少なくとも、すぐには来られない。
そう思った。思いたかった。
シリウスが一度だけ振り返った。上。段差の縁。白い。
黒い影は、見えない。
「……来てねぇ」
ラモーヌも耳を澄ませる。何も、ない。
「今のうち」
三人が速度を上げる。ルドルフを左右から支えたまま、雪を進む。
一歩。一歩。
三人分の身体、重い。シリウスの膝も、もうまともではない。ラモーヌの指も、感覚が薄い。
それでも、進む。
後ろ、何もない。段差、越えた。
今度こそ、少しは離せた。
そう思った。
その時。
ラモーヌが止まった。
「……待って」
「何」
ラモーヌの耳が右へ向く。段差の方ではない。もっと横。下流側。木々の向こう。
「……音」
ルドルフも耳を動かす。
最初は、聞こえなかった。雪。三人の息。それだけ。
次。
——ザ。
シリウスの顔から、色が消えた。
「……嘘だろ」
段差の上ではない。同じ高さ。右。木々の奥。
——ザ。
もう一度。
ラモーヌが鼻を動かした。匂い。ある。
「いる」
声が震えた。
「こっちに」
三人が白い木々の間を見る。何も見えない。
けれど。
——ザ。
音は近づく。
三人が飛び降りた場所を追ってきた音ではない。別の場所から下りてきた。そうとしか思えなかった。
どこから。どうやって。わからない。
わかるのは、一つ。
まだ、終わっていない。
ルドルフが、二人の肩を借りながら前を向いた。
脚は、もう三人の中で一番遅い。
それでも。
「行こう」
声を出す。
シリウスが頷く。ラモーヌも。
「ええ」
三人がまた動き出す。速くない。走っているとも呼べない。
それでも、前へ。
雪の向こう。どこへ続いているかわからない場所へ。三人で進む。
背後。
——ザ。
一歩。
——ザ。
また、一歩。
急いでいるようには聞こえなかった。
なのに、離れない。
雪が音を殺しているはずなのに、その足音だけが消えなかった。
——ザ。
……ザ。
……ザ。
2026/10/05
本文加筆