氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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終了条件:『捕食』の完遂。
若い。柔らかい。冷えて、固くなっている。
凍え、震え、動けなくなった、最高の『収穫物』。
どうあがいても、雪。
どうあがいても、夜。
どうあがいても、絶望。
——嗚呼、腹が減ったなあ。


01-四.『——ザ、……ザ、……。』

影が、こちらを向いていた。

 

三人の手に、力がこもる。ルドルフの右手をシリウスが握っている。左手をラモーヌが握っている。冷えきった指。震える指。それでも、離れてはいなかった。

 

影が、一歩、動いた。

 

——ザ。

 

雪を踏む音。

 

それだけで、三人の身体は答えを出した。

 

「走って!」

 

ルドルフが叫んだ。

 

手が離れる。今度は、三人とも同時だった。

 

 

    *

 

 

最も恐ろしかったのは、見えないことではなかった。聞こえることだった。

 

姿は、雪の向こうへすぐに消える。木が遮る。白い幕が遮る。振り返っても、何も見えない。

 

けれど、音だけは残った。

 

——ザ。

 

——ザ。

 

——ザ。

 

雪を踏む、重い音。速くはない。少なくとも、三人の耳には、走っているようには聞こえなかった。

 

なのに、離れない。むしろ、少しずつ近づいてくる。

 

それが、何より恐ろしかった。

 

「こっち!」

 

シリウスが叫ぶ。

 

前方。木々の間が狭くなっていた。三人なら抜けられる。あの巨体なら、少しは動きづらいかもしれない。それだけ。確かめる時間はない。

 

ルドルフが先に身体を滑り込ませる。肩。枝。顔。次々と当たる。構わない。

 

後ろからシリウス。さらにラモーヌ。細い幹の間を、縫うように抜ける。

 

「ラモーヌ!」

 

「いるわ!」

 

「シリウス!」

 

「前見ろ!」

 

声を出す。声を聞く。三人いる。まだ、三人いる。それだけを、走りながら確かめる。

 

背後。

 

ばきり。

 

枝が折れた。次。また、別の枝。細い木が大きく撓む音。

 

「っ……!」

 

シリウスが振り返りかけた。やめる。

 

見なくていい。いる。音が、そう言っている。

 

「前!」

 

ルドルフが叫んだ。

 

地面が、急に消えた。

 

「止まれ!」

 

三人が、ほとんど同時に速度を殺す。靴底が雪を削る。滑る。

 

ルドルフは目の前の幹へ手をついた。シリウスは低い枝を掴む。ラモーヌは数歩横へ流れて、ようやく止まった。

 

その先。斜面だった。

 

かなり急だ。雪の向こうに、下の地面が見える。木はある。岩も。笹も。真っ直ぐ下りれば、転ぶかもしれない。

 

「どうする」

 

シリウスが言った。息が荒い。

 

ルドルフが後ろを見る。何も見えない。

 

けれど。

 

——ザ。

 

音がする。近い。

 

「下りる」

 

ルドルフが答えた。

 

「こっちの方が木が多い」

 

ラモーヌが斜面を見る。目で、足元を追う。

 

「真っ直ぐは駄目」

 

「どこだ?」

 

「少し右」

 

ラモーヌが指した。大きな木が斜面に何本も立っている。根元には雪が吹き溜まっている。その間を縫う。

 

「一人ずつじゃ遅い」

 

ルドルフが言った。手を伸ばす。

 

シリウスが一瞬だけ見る。それから、握った。ラモーヌも、反対側を握る。

 

「絶対、離さないで」

 

「お前もな」

 

「ええ」

 

三人が、一歩、斜面へ踏み出した。

 

足元が沈む。身体が下へ引かれる。

 

「っ!」

 

ルドルフが右足を踏ん張る。次、左。雪が滑る。それでも止まらない。止まれば、今度はその場で転ぶ。

 

三人は斜面を駆け下りた。

 

いや。走っていたのか。落ちるのを脚で抑えていたのか。自分たちにもわからなかった。

 

一歩踏むたび、身体が下へ引かれる。次の足を、その前へ出す。また落ちる。踏む。次。踏む。次。木。

 

「左!」

 

ラモーヌが叫ぶ。三人が同時に左へ寄る。右側。雪の下から黒い岩が出ていた。避ける。

 

次。倒れた枝。シリウスが先に跨ぐ。繋いだ手を少し上げる。ルドルフ。ラモーヌ。続く。

 

「いける!」

 

ルドルフが言った。自分へ。二人へ。どちらへ向けたのか、わからない。

 

一度、シリウスの脚が滑った。

 

「っ!」

 

身体が下へ落ちる。ルドルフとラモーヌの腕が引かれる。

 

「シリウス!」

 

「平気!」

 

片膝、雪につく。すぐ、立つ。また進む。

 

今度は、ラモーヌの足元が崩れた。三人の身体がまとめて左へ傾く。

 

「木!」

 

ルドルフが叫ぶ。シリウスが空いている手で幹を掴む。止まる。腕が伸びきる。痛い。

 

でも、三人とも止まった。

 

「……行くぞ」

 

シリウスが歯を食いしばる。

 

また、下へ。一歩。二歩。三歩。

 

途中から、ラモーヌの声が短くなった。

 

「浅い」

 

「深い」

 

「硬い」

 

方向ではなかった。足の裏が拾ったものを、そのまま言葉にしているだけだった。

 

雪はどこも同じ白さをしている。けれど踏み込んだ瞬間の沈み方が違う。ふわりと深く沈む場所には、下に何もない。硬くて滑る場所は、岩か、凍った土。少しだけ傾いて沈む場所は、その先が崩れている。

 

ラモーヌは、それを一歩ごとに読んでいた。読んで、次の足の場所を決めていた。自分の分と、繋いだ二人の分を。

 

「浅い」

 

ルドルフが同じ場所を踏む。沈まない。

 

「深い」

 

シリウスが半歩ずらす。

 

二歩、三歩と続けるうちに、三人の足が揃い始めた。ラモーヌが決める。二人がなぞる。それだけの単純なことが、斜面を下りるという行為を、落ちることから走ることへ変えていった。

 

「いいぞ」

 

シリウスが言った。息の合間だった。

 

「そのまま言え」

 

「ええ」

 

斜面が、少しずつ緩くなる。

 

「もうすぐ!」

 

ラモーヌが言った。足元の角度が変わっていた。

 

「そのまま!」

 

最後。三人がほとんど同時に斜面から飛び出す。

 

平らな雪。着地。一歩。二歩。

 

ルドルフが前へつんのめる。シリウスが引く。ラモーヌも引く。

 

転ばなかった。

 

「……下りた」

 

シリウスが息を吐いた。

 

「下りられた……」

 

自分でも信じていなかったのかもしれない。言ってから、もう一度、上を見た。

 

高い。さっき自分たちが立っていた場所が、木の間に細く見える。あそこから、ここまで。転ばずに来た。

 

「……できたな」

 

シリウスが言った。

 

短い言葉だった。それでも、そこには確かに何かがあった。怖くて、痛くて、逃げ続けていた三人が、この山へ入ってから初めて、自分たちの力で越えられたものだった。

 

ルドルフも上を見ていた。

 

脚は動いた。二人と繋いだまま、あれだけの斜面を下りた。庭で走るのとは違う。競争でもない。それでも、脚は自分の言うことを聞いた。

 

まだ、走れる。

 

その実感が、冷えた身体の奥に、少しだけ熱を戻した。

 

覚えてしまった、とは思わなかった。次があるとも考えなかった。ただ、一度できたことは、できたこととして三人の中に残った。

 

残ったまま、消えなかった。

 

ルドルフも振り返る。

 

斜面。白い。何もいない。音も、ない。

 

「……来てない?」

 

ラモーヌは耳を澄ませる。雪。三人の息。遠くの枝。

 

「わからない」

 

それでも、ほんの一瞬、三人の顔が緩んだ。

 

斜面。あの大きさでは、自分たちほど自由には下りられないのかもしれない。あそこで距離を取れたのかもしれない。

 

そんな考えが、三人の中にほんの少し生まれた。

 

「行こう」

 

ルドルフが言った。

 

「ここから離れよう」

 

今なら、もっと離れられる。

 

三人が再び走り出す。

 

その数秒後。

 

斜面の上ではない場所から。

 

——ザ。

 

音がした。

 

右。少し遠い。けれど、同じ高さから。

 

三人の耳が、同時に向く。

 

「……なんで」

 

ルドルフの声が漏れた。

 

見えない。でも、足音は斜面の上からではなかった。斜面を避けたのか。別の場所から下りたのか。わからない。

 

ただ、同じ高さにいる。それだけが、わかった。

 

「走れ!」

 

シリウスが叫んだ。

 

 

    *

 

 

二度目は、さっきより速かった。

 

速く走っている、という意味ではない。恐怖が、判断を急がせた。

 

木。

 

右。

 

避ける。

 

枝。

 

潜る。

 

雪。

 

踏む。

 

滑る。

 

立て直す。

 

三人とも、もう余計な言葉を使わなかった。

 

「右!」

 

「木!」

 

「下!」

 

「いる!」

 

短い声だけ。その声に、身体が反応する。

 

ルドルフは前を走りながら、自分の脚を信じようとしていた。

 

まだ動く。疲れている。冷えている。それでも動く。なら、走れる。走れば、離れられる。

 

そう思わなければ、前へ進めなかった。

 

けれど、身体は少し前までの身体ではなかった。

 

呼吸、戻らない。喉、痛い。指先、鈍い。足裏、雪の下がわかりづらい。枝に当たっても、痛いのか冷たいのか、一瞬遅れてしか判断できない。

 

身体から届く情報が、少しずつ遅くなっている。

 

その遅れが、怖かった。

 

「ルドルフ!」

 

後ろ。シリウス。

 

「速い!」

 

ルドルフが速度を落とす。振り返る。

 

シリウス、いる。ラモーヌ、いる。

 

また、前。

 

一人で先へ行かない。三人で。三人で帰る。それだけ。

 

「前!」

 

ラモーヌの声。ルドルフが顔を戻す。

 

また、斜面。

 

さっきとよく似ていた。こちらの方が少し広い。雪は深い。でも、傾斜は同じくらいに見える。

 

シリウスが追いつく。

 

「またか」

 

「下りる?」

 

ルドルフが訊く。

 

ラモーヌが斜面を見る。後ろ。耳。足音。

 

——ザ。

 

——ザ。

 

近い。

 

「下りるしかないわ」

 

「さっき行けた」

 

ルドルフが言った。

 

シリウスも斜面を見る。

 

一度、できた。同じように下りればいい。

 

その記憶が、決断を早くした。

 

「行くぞ」

 

シリウスが手を出す。今度は、ルドルフが握る。ラモーヌも反対側。三人、繋がる。

 

一歩目。雪。沈む。

 

二歩目。問題ない。

 

三歩。四歩。速度が乗る。

 

「右!」

 

右へ。木を避ける。

 

「左!」

 

左。

 

一度目と同じ。危ない。でも、できる。ルドルフはそう思った。

 

次の一歩。右足。大丈夫。

 

その次。左。踏んだ。

 

雪の下に、地面がある。そのはずだった。

 

踏み込んだ瞬間、足の裏が横へ消えた。

 

「――っ」

 

声が、出なかった。

 

雪の下。見えなかった何かに、靴の端が乗った。根なのか。石なのか。わからない。

 

足首が外へ流れる。身体はもう前へ進んでいる。脚だけが、一瞬、取り残された。

 

痛みが、遅れて来た。

 

足首の奥から、熱いものが一気に上へ走る。

 

おかしかった。

 

ここまで、身体はずっと遠くなっていくばかりだった。指先の感覚が鈍り、足の裏が雪の下を読めなくなり、頬に当たる雪が冷たいのか痛いのかもわからなくなっていた。自分の身体なのに、少しずつ、届かなくなっていた。

 

なのに今、足首だけが、はっきりしている。

 

冷えて薄くなっていた感覚の中で、そこだけが焼けるように鮮明だった。身体の全部が、その一点へ引き寄せられていく。

 

痛いというより、そこに脚があるということを、初めて教えられたようだった。

 

そして、その脚が動かない。

 

ルドルフは、それが一番わからなかった。

 

走れと思えば走った。速く、と思えば速くなった。庭でも、道でも、芝の上でも。疲れた時はあった。息が切れた時もあった。それでも、命じたことを、脚が拒んだことは一度もなかった。

 

今、命じている。

 

届いていない。

 

「ルドルフ!」

 

シリウスが繋いだ手を引いた。反対側、ラモーヌも体重をかける。

 

ルドルフの身体が、完全に倒れる寸前で戻った。

 

「……っ、だい、じょうぶ」

 

息が詰まる。

 

シリウスがルドルフの顔を見る。

 

「どこだ」

 

「何でもない」

 

「嘘つけ!」

 

「行って!」

 

後ろ。

 

——ザ。

 

近い。

 

「止まったら駄目!」

 

ルドルフが左足をもう一度雪へ置く。体重、乗せる。

 

瞬間。痛い。膝が折れそうになる。

 

でも、動いた。

 

一歩。次。また一歩。

 

痛い。でも、歩ける。いや、走れる。まだ。

 

「ルドルフ」

 

ラモーヌが顔を見る。

 

「足?」

 

「大丈夫」

 

今度は言い切った。

 

嘘だった。二人とも、わかった。

 

わかった上で、シリウスは何も言わなかった。ラモーヌも言わなかった。

 

言えば、止まる。止まってしまう。今、確かめていいことではない。

 

ただ、繋いだ手の位置が変わった。

 

さっきまで、三人は手のひらを合わせて指を組んでいた。それが、シリウスの側だけ、ルドルフの手首に近い場所を掴む形になった。ラモーヌも同じようにした。

 

握るためではない。引き上げるためだった。

 

ルドルフは、それに気づいた。

 

気づいて、何も言わなかった。礼を言えば、認めることになる。謝れば、二人が困る。だから黙って、掴まれたまま走った。

 

三人とも、同じことをしていた。気づいていて、言わない。それが今この瞬間、三人にできる唯一のことだった。

 

三人は走った。斜面を下る。

 

左足をつくたび、痛み。

 

右。左。痛い。右。左。痛い。

 

その繰り返し。

 

いつからか、痛みの輪郭が少し遠くなった。治ったわけではない。ただ、考える場所が身体の中からなくなっていった。

 

前。足場。二人。後ろ。音。

 

それだけ。

 

「離すな」

 

ルドルフが言った。自分の声が震えている。

 

「当たり前だろ」

 

「離さないわ」

 

握られた。痛いくらい、強く。ルドルフも握り返した。

 

斜面を下りきる。今度は転ばなかった。三人とも、立っている。

 

「行ける」

 

ルドルフが言った。自分でも、何を意味したのか、わからなかった。

 

脚が動く。だから、行ける。それだけ。

 

そして、走り始めた。

 

左足を庇わないように意識した。庇えば、二人にわかる。

 

もう、わかっているのに。それでも、隠したかった。

 

「おい」

 

シリウスが横へ並ぶ。

 

「無理すんな」

 

「してない」

 

「してる」

 

「走れる」

 

「だからって――」

 

「走れるうちは走る」

 

シリウスが黙った。それ以上、止めなかった。

 

代わりに、少しだけルドルフ側へ寄った。もし脚が崩れたら、支えられる距離。

 

ラモーヌも、反対側から少し近づいた。

 

ルドルフは気づいた。でも、何も言わなかった。

 

 

    *

 

 

足音が、また消えた。

 

それが、今では安心にならなかった。むしろ、聞こえない方が怖い。

 

どこにいる。どちらにいる。近いのか。遠いのか。

 

わからない。

 

ラモーヌが何度も鼻を動かす。

 

「どう?」

 

ルドルフが訊く。

 

「わからない」

 

冷たい空気。雪。血。汗。木。それらの奥に、甘い匂いがあるような、ないような。

 

「でも」

 

ラモーヌが前を見る。

 

何か、違う。雪の向こう。空気が少し開いている。木の密度が薄い。

 

「こっち」

 

ラモーヌが言った。今までより、強い声だった。

 

ルドルフが見る。

 

「わかるの?」

 

「わからない」

 

ラモーヌは走りながら答えた。

 

「でも、こっちは木が少ない」

 

「それだけ?」

 

「それだけ」

 

一瞬、シリウスがラモーヌを見る。そして、

 

「十分だ」

 

と言った。ルドルフも頷く。

 

「行こう」

 

今度は、ラモーヌが前へ出た。

 

初めてだった。

 

ずっと、ルドルフが前だった。森へ入った時も。熊から逃げた時も。道を決めようとした時も。

 

今、ラモーヌが前を走る。

 

速さでは、ルドルフやシリウスに劣る。でも、今は競争ではない。三人が同じ場所へ行くための走りだった。

 

ラモーヌは足元を見る。雪。木。枝。少し先。地面の窪み。左。避ける。

 

「左!」

 

二人がついてくる。

 

「木!」

 

右へ。

 

「低い枝!」

 

伏せる。

 

ルドルフが遅れる。ほんの少し。シリウスがそれに合わせる。

 

「先行って!」

 

ルドルフが言う。

 

「嫌だね」

 

「シリウス!」

 

「私が決める!」

 

シリウスは前を向いたまま言った。

 

「置いてかねぇ!」

 

ルドルフが、何も言えなくなる。

 

ラモーヌが速度を少しだけ落とす。三人の間隔が戻る。

 

後ろ。音。ない。

 

でも、いる。そう思う。そうとしか、思えない。

 

三人は、最後の力で走った。

 

 

    *

 

 

木々が、突然、切れた。

 

ラモーヌが先頭で急停止した。

 

「待って!」

 

シリウス。ルドルフ。続いて止まる。

 

目の前。地面が、ない。

 

白い。下。雪。そのさらに下に、地面が見える。

 

高い。

 

崖。そう思った。

 

でも、垂直ではない。大きく地面が落ち込んだ、段差だった。斜面が途中で削られたように、数メートル下へ落ちている。その下、雪が厚く積もっている。

 

「……行けない」

 

ラモーヌが呟いた。

 

シリウスが左右を見る。

 

「回れるか?」

 

左。木。密集。右。少し離れたところまで、段差が続いている。

 

どこかに、下りられる場所があるかもしれない。

 

でも、探す時間。あるのか。

 

ルドルフが耳を動かす。

 

——ザ。

 

後ろ。聞こえた。

 

三人の顔が同時に変わる。

 

「近い」

 

ラモーヌ。もう、鼻でもわかった。

 

甘い。腐ったような匂い。鉄。

 

戻ってきている。濃い。

 

「右へ!」

 

シリウスが言う。三人が段差沿いに走る。

 

ルドルフ。左足。痛い。一歩。また、痛い。速度が出ない。

 

段差は続く。

 

「まだ!?」

 

「わからない!」

 

「ラモーヌ!」

 

「見えない!」

 

雪。白。木。

 

後ろ。

 

——ザ。

 

——ザ。

 

近い。速い。

 

三人がさらに走る。

 

ルドルフの左足が、一度、完全に崩れた。

 

「っ!」

 

手をつく。雪。

 

シリウスが腕を掴む。

 

「ルドルフ!」

 

「行ける!」

 

「行けてねぇ!」

 

「行く!」

 

立つ。足首、熱い。今度は、痛みがはっきり戻った。

 

でも、立つ。

 

「もう」

 

ラモーヌが前で止まった。

 

「もう何だ!」

 

ラモーヌが下を見る。

 

段差。さっきより少し低い。それでも、高い。二メートル。あるいは、もう少し。

 

下には深い雪。その先、木が少ない。

 

「ここ」

 

ラモーヌが言った。

 

「ここなら」

 

シリウスが下を見る。

 

「飛ぶ気か?」

 

ラモーヌは答えなかった。後ろを見る。

 

白い。でも、黒いものが、木々の間にちらりと見えた。

 

「……他にある?」

 

その一言。

 

シリウスが歯を食いしばる。

 

ルドルフも下を見る。

 

高い。

 

どれくらい、と考えて、比べるものを探した。

 

メジロ邸の階段。上りきったところから下を見た時の高さ。あれより、少し高い。屋敷の二階の窓。あそこから庭を見下ろした時と、たぶん、同じくらい。

 

そう思った瞬間、膝の裏が冷たくなった。

 

あそこから飛び降りる子供はいない。誰も、そんなことはしない。飛び降りていいものではないから、大人は窓を閉める。

 

その高さを、今から飛ぶ。

 

「私が先に降りる」

 

シリウスが言った。

 

「下で受け止める」

 

「無理よ」

 

ラモーヌが即答した。

 

「なんでだよ」

 

「シリウスの膝、もう曲がっていないもの」

 

シリウスが黙った。

 

自分の膝を見る。破れた布。血。曲げようとして、途中で止まる角度。走っている間は忘れていた。指摘されて、初めて思い出した。

 

「……くそ」

 

「それに」

 

ラモーヌは下を見たまま続けた。

 

「一人ずつ降りたら、最後の人が上に残るわ」

 

三人とも、その意味を理解した。

 

最後に残るのは、一番遅い者ではない。一番、後から降りる者だ。そしてこの三人の中で、上に残っていられる時間が最も短いのは、後ろから来ているものが一番先に見つける場所に立つ者だった。

 

誰も、その役をやらない。やらせない。

 

「雪の深いところへ」

 

ラモーヌが言った。

 

「どこ」

 

「あそこ」

 

指したのは、段差の真下ではなかった。少し右。木の陰になって、風が当たらない場所。雪が厚く吹き溜まっている。

 

「なんでわかる」

 

「風下だから」

 

ラモーヌは、それだけ言った。

 

理由になっているのか、自分でもわからなかった。ただ、今日一日、雪の積もり方をずっと見てきた。木の風上側にだけ雪が張り付いていた。だとすれば、風下には落ちて溜まる。

 

確かめたわけではない。

 

でも、他に測るものがなかった。

 

「わかった」

 

シリウスが頷いた。疑わなかった。

 

ルドルフも下を見た。

 

高い。怖い。足、痛い。飛び降りたら、どうなる。わからない。

 

でも、後ろ。戻れない。右も、左も、探している時間がない。

 

ルドルフが手を伸ばした。

 

「手」

 

シリウスが見る。ラモーヌも。

 

「一緒に?」

 

「一人ずつだと、誰かが残る」

 

「着地できるか?」

 

シリウスがルドルフの左足を見る。

 

ルドルフも、一瞬だけ自分の足を見る。

 

「……わからない」

 

初めて、大丈夫とは言わなかった。

 

「でも」

 

二人を見る。

 

「一緒なら」

 

シリウスがルドルフの手を握る。強い。

 

「ったく」

 

もう片方。ラモーヌ。握る。

 

「三人でね」

 

「うん」

 

三人が、段差の縁へ並ぶ。

 

後ろ。

 

——ザ。

 

近い。

 

もう、振り返らなかった。

 

「せーので?」

 

「うん」

 

ラモーヌが下を見る。

 

「雪の深いところへ」

 

「わかった」

 

「行くよ」

 

「待て」

 

シリウスが息を吸う。吐く。

 

「……いい」

 

三人。指。握る。

 

「せーの」

 

跳んだ。

 

 

    *

 

 

浮いた。

 

ほんの一瞬だった。足元から地面がなくなる。腹の奥が上へ持ち上がる。

 

風。雪。繋いだ手。それだけ。

 

次の瞬間、落ちた。

 

雪。深い。身体が白い中へ沈む。

 

衝撃。

 

ルドルフの左足に、痛み。今までで一番強い。

 

「――っ!」

 

今度は、声が出た。

 

着地できなかった。左から身体が崩れる。シリウスの手を引く。ラモーヌの手も引く。

 

三人、まとめて雪へ倒れた。転がる。一回。二回。止まる。

 

ルドルフは顔を雪から上げた。息、できる。

 

「シリウス!」

 

「いる!」

 

「ラモーヌ!」

 

「ここ!」

 

三人、いる。手、離れていた。でも、すぐ近く。

 

ルドルフが立とうとする。左足、つく。

 

「――っ」

 

膝が落ちる。立てない。

 

シリウスが駆け寄る。

 

「だから!」

 

「大丈夫!」

 

「もうそれ言うな!」

 

怒鳴った。

 

シリウスが、初めて、本気で怒鳴った。

 

ルドルフが目を見開く。

 

「大丈夫じゃねぇだろ!」

 

シリウスがルドルフの腕を自分の肩へ回す。

 

「立てるか」

 

「……うん」

 

「右だけでいい」

 

「でも」

 

「今だけだ!」

 

反対側。ラモーヌが何も言わず肩を入れる。ルドルフの左腕を支える。

 

二人の間。ルドルフが持ち上がる。右足、雪。左、地面へ触れるだけ。痛い。

 

「ごめん」

 

ルドルフが小さく言った。

 

「あとで聞く」

 

「帰ってから」

 

ルドルフが二人を見る。

 

帰ってから。また、その言葉。

 

まだ、二人とも、帰るつもりでいる。

 

「……うん」

 

ルドルフが頷く。

 

三人で歩き出す。早く走れない。でも、進む。

 

段差が後ろにある。あれだけの高さ。少なくとも、すぐには来られない。

 

そう思った。思いたかった。

 

シリウスが一度だけ振り返った。上。段差の縁。白い。

 

黒い影は、見えない。

 

「……来てねぇ」

 

ラモーヌも耳を澄ませる。何も、ない。

 

「今のうち」

 

三人が速度を上げる。ルドルフを左右から支えたまま、雪を進む。

 

一歩。一歩。

 

三人分の身体、重い。シリウスの膝も、もうまともではない。ラモーヌの指も、感覚が薄い。

 

それでも、進む。

 

後ろ、何もない。段差、越えた。

 

今度こそ、少しは離せた。

 

そう思った。

 

その時。

 

ラモーヌが止まった。

 

「……待って」

 

「何」

 

ラモーヌの耳が右へ向く。段差の方ではない。もっと横。下流側。木々の向こう。

 

「……音」

 

ルドルフも耳を動かす。

 

最初は、聞こえなかった。雪。三人の息。それだけ。

 

次。

 

——ザ。

 

シリウスの顔から、色が消えた。

 

「……嘘だろ」

 

段差の上ではない。同じ高さ。右。木々の奥。

 

——ザ。

 

もう一度。

 

ラモーヌが鼻を動かした。匂い。ある。

 

「いる」

 

声が震えた。

 

「こっちに」

 

三人が白い木々の間を見る。何も見えない。

 

けれど。

 

——ザ。

 

音は近づく。

 

三人が飛び降りた場所を追ってきた音ではない。別の場所から下りてきた。そうとしか思えなかった。

 

どこから。どうやって。わからない。

 

わかるのは、一つ。

 

まだ、終わっていない。

 

ルドルフが、二人の肩を借りながら前を向いた。

 

脚は、もう三人の中で一番遅い。

 

それでも。

 

「行こう」

 

声を出す。

 

シリウスが頷く。ラモーヌも。

 

「ええ」

 

三人がまた動き出す。速くない。走っているとも呼べない。

 

それでも、前へ。

 

雪の向こう。どこへ続いているかわからない場所へ。三人で進む。

 

背後。

 

——ザ。

 

一歩。

 

——ザ。

 

また、一歩。

 

急いでいるようには聞こえなかった。

 

なのに、離れない。

 

雪が音を殺しているはずなのに、その足音だけが消えなかった。

 

——ザ。

 

……ザ。

 

……ザ。




2026/10/05
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