氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
超えることが、ただひとつの報い方だと、教わってきた。
だから、厳しい声を探した。超えるべき圧を、声の中に探した。
——その人の声には、厳しいも、甘いも、なかった。
急かさず、評価せず、ただ、待っていた。
超える相手のいない場所で、握ったのは、自分だった。
また、霧の夢だった。
追いかけてくるものは、いなかった。音もなかった。ただ、白い霧の中を歩いていた。どこへ向かっているのかわからなかった。振り返っても、来た道がなかった。
霧の中に、輪郭があった。
遠かった。でも、知っていた。あの外套の厚さを、肩の幅を、知っていた。知っているとわかった瞬間、足が動いた。追いかけた。
近づかなかった。
一歩踏み出すたびに、輪郭が遠ざかった。遠ざかるのではなく、霧が濃くなっていくのかもしれなかった。どちらかわからなかった。ただ、届かなかった。
名前を呼ぼうとした。
名前が、出てこなかった。
知っているはずだった。昨日も呼んだ。一昨日も呼んだ。知っているのに、霧の中では出てこなかった。喉が動いた。音が出なかった。名前のない声だけが、霧に吸い込まれた。
手を伸ばした。
届かなかった。
輪郭が、薄れ始めた。薄れながら、消えていった。止まって、と思った。行かないで、と思った。思ったが、声にならなかった。名前が出てこないまま、背中が消えた。
霧だけが、残った。
一人だった。
怖かった。追いかけてくるものがいた時の怖さとは、種類が違った。あの怖さは熱かった。走る理由になった。今夜の怖さは冷たかった。じわじわと、足元から染み込んでくる種類の怖さだった。
来た道がなかった。行く道もなかった。
ただ、一人だった。
※
目が覚めた。
荒い息ではなかった。静かに、目が覚めた。
天井があった。木目があった。節目があった。薪ストーブの光が揺れて、天井の影が動いていた。小屋だった。今朝も、ここにいた。
シリウスは少しの間、天井を見ていた。
夢の中で伸ばした手が、まだ空中にある気がした。届かなかった。触れられなかった。名前を呼ぼうとして、出てこなかった。あの夢を見るのは、今夜が初めてではなかった。何度か見た。見るたびに、霧の中を追いかけて、届かなかった。
目が覚めると、誰を追いかけていたのか、思い出せなかった。
霧の中では知っていた。名前さえ出てこなかったのに、知っているとわかっていた。でも、目が覚めると、知っていた、という感触だけが残って、誰だったのかは消えていた。
夢だ、と思った。
夢だから、と思った。
それで済ませようとした。済ませられなかった。
隣を見た。
ルドルフが眠っていた。ラモーヌが眠っていた。
二人がいた。男の気配が、小屋の中にあった。
そちらを、一瞬見た。
見て、すぐ天井に視線を戻した。
夢の中では名前が出てこなかった。目が覚めた今なら、出てくる。出てくるが、呼ばなかった。呼ぶ必要が、なかった。
シリウスは手のひらを見た。
届かなかった手だった。昨日、握った手だった。
夢だ、と、もう一度思った。
今度は、少し済んだ。
天井に視線を戻した。
昨日のことを、考えていた。
乗せた足が板ごと滑って転倒しかけたラモーヌに手が伸びた。その後のやりとりを見て、「また、ラモーヌだけ」と言った。言ってしまってから、少し後悔した。後悔した、というより、声の質が自分でも想定外だった。
あんな声が出るとは、思っていなかった。
言葉の中身は正しかった。また、ラモーヌだけだった。それは事実だった。でも声に、何か別のものが混じっていた。何が混じっていたのか、シリウスには言語化できなかった。
手が伸びてきた。
自分の方へ、手が差し出された。
それを見て、固まった。
固まった理由が、今もわからなかった。抵抗しようとしたわけではなかった。でも、動けなかった。板の上に乗るつもりで立っていたのに、一歩が出なかった。
男の手が、引かなかった。
急かさなかった。ただ、そこにあった。待っていた。
それが、余計に困った。
急かされれば、抵抗できた。評価する目で見られれば、その目に向かって踏み出せた。でも、待たれると、どうしたらいいかわからなかった。
シリウスは、これまで多くの人間に教わってきた。日替わりで、それぞれが、それぞれの方法で何かを教えた。教える時には必ず、評価する目がついてきた。お前はここができている、ここができていない。もっとこうしろ、ああしろ。その視線の中で、シリウスは教わることを覚えた。
教わることと、抵抗することを、同時に覚えた。
男の目には、評価がなかった。
できているかできていないかを、測る目ではなかった。ただ、観察していた。水が揺れているか揺れていないかを見るのと、同じ目で見ていた。そこに優劣はなかった。シリウスが固まっていることも、ただの事実として見ていた。
だから、抵抗できなかった。
握った。
自分から、手を取った。
手が触れた瞬間、身体が揺れた。板の上ではなかった。まだ床の上に立っていた。それでも、揺れた。
あの温度だった。
温かかった。熱くはなかった。ただ、確かだった。この気温の中で、この温度が保たれていることが、普通ではないとわかっていた。わかっていても、触れた瞬間は、そういうことを考えなかった。ただ、確かだ、と思った。
板に乗った。
一歩踏み出した。板が動いた。転ばなかった。手があった。手は何も言わなかった。ただ、そこにあった。
もう一歩。板が鳴った。力みの音がした。でも、続いた。
手が離れた。
一人で立っていた。
握ったのは、自分だった。
その事実が、今朝になっても残っていた。消えなかった。握ったのは自分だった、という事実だけが、霧の夢よりもはっきりと残っていた。
※
朝になった。
外の風が、昨夜より弱かった。嵐が、少し落ち着きつつあった。
板の訓練が続いた。
シリウスは出発点に立って、板を見た。昨日踏み外した場所を、覚えていた。四枚目だった。三枚目から四枚目に踏み出す時、重心が右に流れた。右に流れた瞬間に、板の端を踏んだ。
今日は、そこだけを考えた。
器を頭に乗せた。一歩、踏み出した。
板が鳴った。力んでいた。わかっていた。でも、まだ止まれなかった。力みが抜ける瞬間を、掴めなかった。
二枚目。三枚目。
四枚目。
重心が、また右に流れた。
踏み外した。
「……チッ」
出発点に戻った。また乗った。
ラモーヌが横を通った。音が、静かだった。板の上を、水が揺れるかどうかの境界線で歩いていた。踏み外さなかった。板の音がしなかった。足裏と板の間に、何かが生まれているようだった。
どうやっているのか、見ようとした。
見てもわからなかった。
ラモーヌの足の置き方は、シリウスと同じだった。同じなのに、音が違った。器の水の揺れ方が違った。何が違うのか、外側から見てもわからなかった。
いつの間にか、並べていた。
ラモーヌはどこまでできた。ルドルフはどこで止まっている。自分は、その二人のどのあたりにいる。誰に言われたわけでもなかった。男は、そんなふうには見ていなかった。なのに、頭の中の物差しが、勝手に三人を並べた。並べてから、シリウスは少し戸惑った。どうして並べたのか、自分でもわからなかった。並べたところで、何かがよくなるわけでもなかった。それでも、気づくと並べていた。気づくと、誰が前で、誰が後ろか、数えていた。
その物差しで見ると、ラモーヌが一番先にいた。
手を添えてもらっていた。それでも、先にいた。先にいる、と思った瞬間、胸のあたりが狭くなった。狭くなって、息が少し浅くなった。
それが何なのか、シリウスにはわからなかった。
悔しい、という言葉を知っていた。でも、これは悔しいと少し違う気がした。羨ましい、という言葉も知っていた。でも、それとも少し違う気がした。悔しいと羨ましいと、もう一つ、名前を知らない何かが混ざっていた。混ざって、固まって、胸の奥に沈んでいた。沈んだものを、取り出して見ることができなかった。取り出せないから、名前をつけられなかった。名前をつけられないものは、身体のあちこちに散らばった。喉が詰まった。尾の付け根が重くなった。耳が、自分の意思とは別に、伏せられた。
身体は、ちゃんと反応していた。
ただ、その反応が何の反応なのか、シリウスの頭が追いつけなかった。身体が先に感じて、頭が後から、それを言葉にしようとして、いつも間に合わなかった。間に合わないまま、感じたものだけが、行き場をなくして残った。
昨日も、そうだった。
「また、ラモーヌだけ」。あの声が出た時、シリウスは自分でも驚いた。あんな声を出すつもりはなかった。出そうと思って出した声ではなかった。胸の奥に沈んでいた、名前のないものが、勝手に喉を通って出てきた。出てきてから、しまった、と思った。でも、引っ込められなかった。
突き放されている、と感じた。
ラモーヌには手が添えられて、自分には添えられない。そう感じた。でも、すぐに、それも違う気がした。男はシリウスにも手を伸ばした。同じように伸ばした。だから、突き放されたわけではなかった。なのに、突き放されたように感じた。感じてしまうことを、止められなかった。
どうしてそう感じるのか、わからなかった。
わかれば、よかった。わかれば、直せた。ここがいけない、と言われれば、そこを直そうとできた。でも、誰も、何も言わなかった。
男は、測らなかった。
シリウスがどのあたりにいるか、誰の前で誰の後ろか、何ひとつ言わなかった。水が揺れているか、揺れていないか。それだけを見ていた。揺れていれば、もう一度と言った。揺れていなければ、一拍、止まった。そこに、前も後ろもなかった。
前も後ろもない場所は、シリウスには、初めてだった。
どこを直せばいいか、わからなかった。直すところを教えてもらえれば、向かっていけた。向かう先があれば、走れた。でも、向かう先が、なかった。前も後ろもない場所では、どっちを向いて立てばいいのか、わからなかった。
それは、自由とは違った。
まず、心細かった。
物差しが、ひとり空回りしていた。測るものがないのに、測ろうとして、空回りしていた。空回りして、また、行き場のないものが、喉の奥に溜まった。
「見ても、わからない」
男が言った。
振り返らなかった。作業をしながら言った。こちらを見ていないのに、シリウスがラモーヌを見ていたとわかっていた。
「ラモーヌは足の裏で聞いている。それはお前の足でしか確かめられない」
シリウスは男の背中を見た。
「聞こえない」
「まだ、聞こうとする前に踏んでいる」
「どう違う」
男が少し間を置いた。
「踏む前に、一拍ある。その一拍で板が何を返してくるか聞く。お前にはその一拍がない」
「踏む前に聞くということが、わからない」
「わかっていなくていい」と男が言った。「わかろうとするのではなく、やってみろ」
シリウスは板を見た。
踏む前に、一拍。
器を乗せた。一歩目の前に、止まった。一拍、待った。板を見た。板は何も言わなかった。
踏んだ。
板が鳴った。
「……っ」
「目で見るな」と男が言った。「耳でもなく目でもなく、足の裏で聞け」
シリウスは出発点に戻った。
もう一度乗った。今度は目を閉じた。板を見なかった。一拍、待った。足の裏だけに、意識を向けた。
踏んだ。
板が鳴った。でも、さっきより小さかった気がした。
気がした、というだけで、確かではなかった。
※
昼過ぎになった頃だった。
父のことを、思い出した。
唐突だった。板の訓練の途中で、突然思い出した。
父の手は、速かった。何をするにも、迷わなかった。剣の先生が来た。弓の先生が来た。語学、礼儀、日替わりで来た先生たちは、みんなそれぞれの速さを持っていた。そして、評価する目を持っていた。
父は、その全員の中で一番評価しなかった。
褒めなかった。貶めもしなかった。ただ、見ていた。見て、次のことを言った。「その上を行け」と言った。その言葉だけが、シリウスには一番効いた。
効いた、というのは、従いたかった、ということではない。
超えたかった、ということだ。
超えようとしたから、覚えた。超えようとしたから、続けた。父の手が無駄なく動くなら、自分はもっと無駄なく動いてやると思った。父が新しいことを取り入れるなら、自分はもっと早く取り入れてやると思った。
父への礼は、従うことではなかった。
超えることだった。
男の背中を見た。
棚の整理をしていた。何をしているのかわからなかったが、手が速かった。無駄がなかった。迷わなかった。
父の手と、似ていた。
似ている部分がある、と思った瞬間に、少し違和感があった。
父の手には、「超えろ」という圧があった。意図していたかどうかはわからない。でも、あった。その圧があったから、シリウスは覚えた。続けた。
男の手には、その圧がなかった。
「超えろ」とも「従え」とも言っていなかった。ただ、動いていた。そこに何かを求める視線がなかった。シリウスが何歩板の上を歩けたかを、数えていない目だった。
それが、昨日の手に繋がった。
待っていた手だった。急かさなかった。評価しなかった。ただ、そこにあった。
父とは違った。
違うのに、似ていた。
何が違って何が似ているのか、昼過ぎの訓練の途中で、シリウスはうまく整理できなかった。整理しようとしたら、また板を踏み外した。
「……チッ」
また出発点に戻った。
※
午後も深くなった頃、外の風がほぼ止んだ。
男が窓の外を見た。それから三人を見た。
「明日は外に出られる」
シリウスは窓の外を見た。
雪が光っていた。空が高かった。昨日まで吠えていた風が、今は静かだった。
外に出る。
外の雪の上で、また一から始める。
床と違う。板と違う。雪は均一ではない。踏むたびに沈み方が変わる。それはわかっていた。わかっていて、また最初からやることになる。
嫌ではなかった。
むしろ、その方がよかった。板の上で踏み外し続けるより、新しいところで踏み外す方が、気持ちの整理がついた。
「雪の上では、どう変わる」
「また、最初からだ」
「床とも板とも、違うか」
「違う。ただ」と男が言った。「床で覚えたことは消えない。板で掴みかけたことも消えない。積み重なる」
シリウスは少し考えた。
積み重なる、という言葉だった。この男が「積み重なる」と言う時、保証ではなく事実として言っていることはわかっていた。消えないから積み重なる。それだけのことだった。
「……わかった」
男はまた棚の方を向いた。
シリウスは自分の手のひらを見た。
昨日、握った手だった。今日も板を踏み外した手だった。明日は雪の上で踏み外す手だった。
手の中に、昨日の温度の跡があった気がした。
気がした、というだけだった。確かめなかった。
ただ、手のひらを少し、握った。
自分で、握った。
それだけのことだった。