氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
でも、言葉にできないものが、ひとつあった。
測ろうとすれば、逃げた。名づけようとすれば、崩れた。
語ろうとするたびに、それは、形を失った。
だから、語らないことにした。
語れないものは、飲み込んで、黙っていた。
走っている夢だった。
久しぶりだった。最近は、走る夢を見ていなかった。立ち止まる夢、歩く夢、誰かを待つ夢——そういう夢ばかり見ていた。でも今は走っていた。
身体の軽さが、懐かしかった。
ああ、わたしは走るのが好きだったのだ、と夢の中で思った。当たり前のことのはずだった。でも、当たり前だと思える日がしばらくなかった。夢の中で、また当たり前になっていた。
後ろを、振り返った。
二人がついてきていた。
シリウスとラモーヌが、すぐ後ろにいた。三人で走っていた。広い庭を何周しても疲れない、あの頃の脚だった。脚力で困ったことなど一度もない、あの頃の身体だった。
「もう少し」とルドルフは言った。
声が出た。届いた。二人が頷いた。
「もう少しだけ、丘の手前まで行ったら、戻りましょう」
二人が頷いた。
走った。
丘の手前まで、走った。
辿り着いた時、振り返った。
二人がいなかった。
足元を見た。
指先が黒かった。
指先の感覚が、消えていく夢だった。
消えているのに、熱かった。熱いのに、動かなかった。じわじわと、目に見えないほど小さな何かに、少しずつ蝕まれていくような感覚だった。黒くなっていく、という言葉の意味を、あの夜初めて身体で知った。
走ろうとした。左の足首が、動かなかった。立とうとして、崩れた。雪の上に倒れた。雪の上で、自分の指先を見た。黒かった。動かなかった。
二人の名前を呼んだ。
声が出なかった。
足首の奥を、鈍い痛みが走った。立てなかった。一歩も、踏み出せなかった。
連れてきたのは、自分だった。
その事実だけが、夢の中で繰り返された。連れてきたのは、自分だった。シリウスを止めようとしたのに、止められなかった。ラモーヌの不安を聞こうとしなかった。連れてきた。連れてきた末に、ここで動けなくなった。
雪が、降り始めた。
雪の中で、誰かが近づいてきた。
足音が、雪を踏んだ。
ルドルフは顔を上げようとした。上げられなかった。誰なのか、わからなかった。誰かが立ち止まった。
背中が、降りてきた。
温かかった。
その温度に、額を預けた。預けた瞬間、何かが降りた。降りた、というのが何のことなのか、夢の中ではわからなかった。ただ、自分の中で何かの重さが消えた。
それから、目が覚めた。
※
天井の木目が、いつもと同じ位置にあった。
ルドルフはしばらく、天井を見ていた。
夢の中の温度が、まだ背中にあった。麻紐で固定されて、男の背中に貼り付いていた。外套を羽織り直した男の毛皮が、自分ごと包んだ。その密閉の中で、じわりと熱が戻ってきた——あの温度だった。あの日から数えて二週間近くが経っていた。それだけの時間が過ぎても、あのときに感じた温度はまだ消えていなかった。
自分の指先を見た。
普通の色をしていた。
夢の中ではまだ黒かった。あの夜の色のままだった。でも、今、この朝、ルドルフの指先は普通の色に戻っていた。動いた。曲げられた。痛みもなかった。
戻ったのだ、と思った。
戻った。けれど、夢はまだ覚えていた。指先が黒かったことを、足首が動かなかったことを、立てなかったことを、夢は忘れていなかった。
シリウスとラモーヌが、まだ眠っていた。
二人の呼吸が、深かった。ここへ運ばれてきたばかりの頃の浅い呼吸を、ルドルフは覚えていた。最初の夜、二人とも、自分よりも浅い呼吸をしていた。あの呼吸を聞きながら、ルドルフは眠れなかった。眠れないまま、自分が連れてきたことを、何度も反芻した。
今は、二人とも深く眠っていた。
それは、自分のおかげではなかった。
ルドルフはそれを、認めていた。認めていることだけが、今の自分にできることだった。
※
朝食の支度を、男がしていた。
棚の前で、椀を並べていた。手が無駄なく動いた。
ルドルフは、ストーブの近くに座っていた。指先を、ストーブの熱に近づけた。じんわりと、熱が指先まで届いた。動いた。
動く指先で、自分の左足首を確かめた。
もう、痛みがなかった。あの夜、雪に隠れた根を踏み外して、斜面を転がり落ちた時に挫いた足首だった。男が夜のうちに鞣した革で固定していた。今は、その固定もなかった。動いた。
戻ったのだ、と、また思った。
戻ったから、走れる、という話ではなかった。雪の上ではまだ、計算が追いつかない。板の上では、力みが抜けない。「動く」と「使える」は違うと、男が言った。動けるようになったから、これからまた、長い道がある。
それは、わかっていた。
でも今朝は、その「長い道」が、夢の中の脚よりも遠くに感じた。
夢の中では、脚が動かなかった。今、脚は動いた。
それだけで、もう一度何かを始められる気がした。
気がした、というだけで、確かではなかった。確かではないのに、そう思った。
※
ふと、窓の方を見た。
朝の光が、入ってきていた。入ってきた光が歪んでいた。
その光の歪み方が、ルドルフには気になっていた。前から気になっていた。窓ガラスは、一枚の均一なガラスではなかった。何枚かの小さなガラスを、無理やり嵌めたような作りだった。光が屈折する角度が、場所によって違った。一箇所だけ、光が二重に折れて、壁に二つの細い筋を作っていた。
ガラスは、貴重なものだと知っていた。
厚みのあるガラスは、特に。
ルドルフはそれを、屋敷で何度か聞いていた。窓ガラスというのは、簡単に手に入るものではなかった。割れたら新しく取り寄せるのに、何日もかかることがあった。屋敷の窓は均一だった。割れにくい、上等のガラスが嵌めてあった。
この小屋のガラスは、屋敷とは違った。
不揃いだった。厚みが違った。歪んでいた。割れたものを継ぎ接ぎにしたような風合いだった。それでも、嵌まっていた。光を通していた。
この小屋は、古かった。
古い木材が、あちこちで継ぎ足されていた。新しい木材と、古い木材が混在していた。修繕の跡が、所々に見えた。いつ頃のものか、ルドルフにはわからなかった。誰が直したのか、もわからなかった。ただ、直した者がいた、ということは、壁の木目を見れば明らかだった。
それを聞くことは、できなかった。
聞いてしまえば、男という存在の輪郭が、少し見えてしまう気がした。輪郭が見えてしまうと、それまでとは別の何かが、この小屋の中に入ってくる気がした。
聞かない、ということを、ルドルフは選んでいた。
選んでいる、ということを、ルドルフ自身が認めていた。
※
「ルドルフ」
男が声をかけた。
棚の方からだった。振り向くと、男が椀を差し出していた。受け取った。手が一瞬、触れた。
触れた、というほどでもなかった。
でも、ルドルフはその一瞬を、夢の中で感じた温度と重ねた。
夢の中で背中に降りてきた温度。今朝、椀を受け取った時に触れた温度。同じ手だった。同じ温度だった。
あの夜のことを、ルドルフはよく覚えていた。
吹雪の中、背負われていた。麻紐で固定されて、落ちないとわかっていたのに、手が背中を掴んでいた。離したら消える、と思った。離したら、戻れない、と。理由はなかった。意志より先に、手が動いていた。あの時の指の感覚は、今も忘れていなかった。
あの夜、男の毛皮から、匂いがした。
古い書物のような匂い。遠い場所の匂い。何度も嗅いだことがあるような、一度も嗅いだことがないような、不思議な匂いだった。あの匂いの中で、張り詰めていた何かが、少しずつ溶けた。心がほどける匂いだ、と、感じていた。
あの時から、ずっと、名前のつかない何かが胸の奥にあった。
謝罪では足りなかった。感謝では違った。どちらでもあって、どちらでもない何か。あの夜、ルドルフはそれを「言葉にする前の場所にある」と思った。いつか言葉になる、と思っていた。
でも、日が経っても、言葉にならなかった。
ならないどころか、その何かは、毎朝少しずつ濃くなっていた。椀の湯気のように、毎朝立ちのぼった。立ちのぼって、ルドルフの胸の、名前のつかない場所に溜まっていった。
おかしい、とルドルフは思った。
ルドルフは、わからないものを、わからないままにしておくのが苦手だった。物事を数字に落とし込む。式を組む。答えを出す。そうやって、世界を測ってきた。測れば、輪郭が見えた。輪郭が見えれば、扱えた。
でも、この感情だけは、式に乗らなかった。
測ろうとすると、逃げた。名前をつけようとすると、形が崩れた。謝罪と感謝のあいだのどこかにある、と見当をつけても、そのどちらでもなかった。測れないものが、胸の奥にあった。測れないのに、確かにあった。
測れないものを、ルドルフは初めて、測ろうとしなかった。
測らないでおく、ということを、選んでいた。シリウスが何かに突っかかるように、ラモーヌが匂いで何かを読むように、ルドルフは——測ることで世界と向き合ってきた。その測ることを、この一点だけ、手放していた。手放している、ということを、ルドルフ自身が、薄々わかっていた。
何も言わなかった。
言うべきことは、たくさんあった。あの夜、背負ってくれてありがとう。指先を治してくれてありがとう。足首を処置してくれてありがとう。ここにきてから、毎日、命を繋いでくれてありがとう。
全部、飲み込んだ。
飲み込んだ理由を、ルドルフは少し、考えた。
ありがとうの言葉が、足りないからではなかった。むしろ多すぎるからだった。一度言葉にしたら、それで全部済んだような顔をしてしまう気がした。済んだような顔をしてしまったら、ここまで積み重ねてきた日々の記憶が、遠い過去のことになってしまう気がした。
過去のことになってほしくなかった。
そう思っている自分を、ルドルフは認めていた。
過去にしたくなかった。だから、まだ言わなかった。
それが、本当の理由かどうか、確かではなかった。確かではないが、今朝はそう思った。
※
椀の中の湯気が、顔に当たっていた。
ルドルフは湯気を見ていた。
視線が、椀の中に落ちた。
根菜、それに薬草と思われるもの。その下に、肉が沈んでいた。シカか、あるいは別の獣か。一度干して保存していたものを自分達が食べやすいように細かく刻まれていた。肉だけでなく、根や草、それに芋のようなものなどの具材が適切な処理が加えられているのは見ただけでわかった。それ等から滲んだ出汁が、椀の中で驚くほどに澄んでいた。
一方で、これまで毎日食べてきたものの量を、頭の中で測った。測ってしまった。
ウマ娘は、よく食べる。
それはルドルフ自身がよく知っていた。屋敷での食事は、一食だけで大人の男性が食べる量を消費していた。自分とシリウスとラモーヌ、ウマ娘が三人もいれば、それだけで大人一人が消費する三倍の量が必要なはずだった。
つまり、この椀一杯では、どう考えても足りない計算になった。計算にしかならなかった。
なのに、腹が満ちていた。
助けられてから今日まで、腹が鳴いたことがなかった。足りない、とは一度も思わなかった。よく噛め、と言われた。食材を感じながら食べろ、と言われた。その通りにしていたら、いつの間にか足りていた。
おかしかった。
計算が合わなかった。
ルドルフは、男の方を見た。
男は、自分の分の椀を持っていなかった。
いつもそうだった。三人に椀を渡して、男は別の作業をしていた。食べているところを、ルドルフは見たことがなかった。正確に言えば、見たかもしれない。でも、記憶にはなかった。人の顔は一度見れば忘れないほどに記憶力には自信があったのに、それが揺らいだ。揺らいでいたものを頭の中で整理して式を組み直して答えをだそうとした。答えをだそうとして、これまでの日々の中で男が食事をしている姿が一度も記憶に残っていないということは、ほとんど食べていないか、あるいは——
考えが、そこで止まった。
あるいは、何か別の方法で満ちている。
そういう存在が、世界にいるとするなら。
その先を、言葉にしなかった。計算を、止めた。計算を止めることは、ルドルフには珍しいことだった。止めた、というより、止まった。これ以上計算を続けることへの、漠然とした怖さがあった。
計算が合ってしまったら、何かが変わる気がした。
変えたくなかった。
だから、止めた。
椀を、口に運んだ。
よく噛んだ。食材を、感じた。
足りていた。
※
「外、晴れたわね」とシリウスが言った。
「うん」とラモーヌが言った。
二人とも、外を見ていた。
ルドルフは二人を見ていた。
シリウスの肩の力の抜け方が、少し前までとは違っていた。ラモーヌの呼吸の速さが、最初の夜とは別人のようだった。二人とも、変わっていた。
それだけではなかった。
シリウスを見ていると、時々、奇妙な瞬間があった。男が誰かに手を貸す時。男が椀を差し出す時。そういう時、シリウスの肩のあたりに、ふっと熱がこもるのがわかった。匂いではなかった。ルドルフは、ラモーヌのように匂いで読むことはできない。でも、見ていれば、わかった。シリウスの耳の角度が、ほんの少し変わる。尾の付け根が、わずかに硬くなる。そして、それを見られたくないように、すぐに顔を背ける。
あれは、何だろう、とルドルフは思った。
思って、すぐに、思考が自分の方へ跳ね返ってきた。
——わたしも、同じではないか。
椀を受け取る時、あの夜の背中の温度を思い出す自分。名前のつかない何かが、毎朝胸に溜まる自分。シリウスの肩にこもる熱と、自分の胸に溜まるものが、もしかしたら同じ種類のものなのかもしれない、と思いかけた。
思いかけて、止めた。
これも、測らないでおくことにした。シリウスのそれにも、自分のそれにも、名前をつけなかった。つければ、三人の間にある何かが、形を持ってしまう。形を持てば、今のままではいられなくなる。
今のままで、いたかった。
だから、見て見ぬふりをした。見えていることを、見なかったことにした。
連れてきたのは、自分だった。
連れてきて、逃げる途中で足手まといになった。
それでも、二人は今、ここにいる。生きて、ここにいる。隣で、椀を持って、湯気を見ていた。
それが、ルドルフが今日確かめたいことだった。
確かめても、罪悪感が消えるわけではなかった。連れてきたことの重さが消えるわけではなかった。でも、二人がここにいる、という事実だけは、確かだった。
確かなことが、ひとつあった。
それで、今朝は十分だった。
※
「外に出る」と男が言った。
シリウスが頷いた。ラモーヌが頷いた。ルドルフも、頷いた。
「雪の上では、また最初からだ」と男が言った。「板で掴みかけたものを、雪の上で確かめろ」
「うむ」とルドルフが言った。
言葉が出てから、少し驚いた。久しぶりに、自分の口調らしい返事をした気がした。あの日の夜から数えて今の今までルドルフはあまりこういう返事をしていなかった。「はい」とか「わかった」とか、もっと短い返事をしていた。
今朝、「うむ」と言った。
それが、何かの始まりだった気がした。
何の始まりかは、わからなかった。わからないまま、ルドルフは外套を羽織った。
戻ってきていた。
何かが、戻ってきていた。
戻ってきたものの名前を、まだつけられなかった。つけなくても、戻ってきていることは、わかった。
それで、十分だった。
※
扉が開いた。
外の空気が、一気に入ってきた。
雪が光っていた。空が高かった。昨日まで吠えていた風が、今は静かだった。木々の枝に、雪が積もっていた。世界が、白かった。
ルドルフは、その白さをあらためて見た。
数日前に、ここへ来てからはじめて外へ踏み出したときに一歩も動けなくなった白。名前を呼ばれて、身体の記憶を振り払って踏み出したときの白。今、この白さの中に、また自分の脚で踏み出そうとしていた。
一歩、踏み出した。
雪が、足の裏に沈んだ。
沈み方が、想像と違った。計算が、追いつかなかった。
日が昇っては、日が沈む。その繰り返しの中でここまで質感が変わるものだとは想像していなかった。
「……ふむ」
それでも、踏み出していた。
連れてきたのは、自分だった。
今、踏み出しているのも、自分だった。
それだけのことだったが、ルドルフの中で、何かが少し、ほどけた。
ほどけたものの名前を、まだつけなかった。つけなくても、ほどけたことは、わかった。
雪が、足の下で、沈んでいた。