氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
若い。柔らかい。冷えて、固くなっている。
凍え、震え、動けなくなった、最高の『収穫物』。
どうあがいても、雪。
どうあがいても、夜。
どうあがいても、絶望。
——嗚呼、腹が減ったなあ。
降り積もる雪と追いかけてくる羆、どこまで逃げても執拗に迫ってくるそれが最も恐ろしく感じたのは、見えないことではなかった。
聞こえること——そして、近づいてくることだった。
急がない足音には、確信があると知った。
そして確信のある足音は、どこまでも止まらない力強さと静けさがあった。
*
雪が、音を殺した。
心臓が、まだ速かった。走るのをやめてから、どれくらい経つだろう。わからなかった。心臓の音が、耳の内側で響いて、外の音を塞いでいた。静かなはずなのに、静かではなかった。自分の中がうるさすぎて、外が聞こえなかった。
まだ吹雪くというほどではない。静かな、真綿のような雪だった。白く、冷たく、音を殺す。そういう世界だった。それが余計に恐ろしかった。激しければ、音の中に紛れ込める。でもこの雪は、世界から音を一枚ずつ丁寧に剥いでいく。鳥の声はもうない。風も止んだ。枝の揺れる音も、遠くの川の音も、全部、白いものの下に埋もれていった。
残ったのは、三人の呼気の音だけだった。
白く、細く、震えながら散る息。
ラモーヌはその息が、自分たちの居場所を世界に向かって教え続けているような気がして、口を両手で覆いたかった。覆っても意味がないとわかっていた。あの眼は、音で追っているのではない。匂いで追っている。気配で追っている。でも覆わずにいられなかった。
何かをしていなければ、立っていられなかった。
ラモーヌの耳が、限界まで伏せられていた。
走っている間も、ルドルフが転落した時も、ずっとそうだった。自分では動かしていない。身体が勝手にそうしていた。小さく、薄く、目立たなくなろうとするように。いつもであれば恥ずかしいと思うような体勢だったが、今はそれどころではなかった。尾も、脚の間に挟まるほど低く垂れていた。
隣でルドルフが幹に背を預けた。
その顔を、ラモーヌは横目で見た。
泣いていなかった。泣けなかったのだろう。目の奥が熱いのに、涙が出る前に冷気で乾いていく——そういう顔だった。何か言おうとして、言えない。口が開いたまま、何も出てこない。自分のせいだとわかっている顔だった。わかっているから、余計に何も言えないといった表情だった。——それは違うと言いたかった。だけど口が動かなかった。
ルドルフの尾が、細かく震えていた。
風もないのに、震えていた。止めようとしているのかもしれなかった。でも止まらなかった。身体の正直さというのは、そういうものだとラモーヌは思った。
左足を、庇っていた。
幹に背を預けながら、体重を右足だけにかけていた。あの斜面で転がり落ちた時から、ずっとそうだった。ラモーヌには見えていた。見えていたが、何も言えなかった。言っても、何も変わらない。変わらないとわかっていても、見るたびに、胃の底で何かが締まった。
シリウスの膝も、見えていた。
布地が破れて、雪と血が滲んでいた。走っている間は動いていた。でも今は、膝を折る角度が、さっきより浅くなっていた。痛みを逃がしている角度だった。それも、ラモーヌには見えていた。
反対側でシリウスが幹に背を預けた。
三人の肩が、自然に触れ合う形になった。
ラモーヌはその温かさを、ただ受け取った。体温というのは、こういう時に初めてその重さがわかるのだと思った。いつもあるから、気にしたことがなかった。今は、減っていくのがわかった。分け合っても、増えることはない。それでも触れていた。触れていることだけが、今この瞬間に確かなことだった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
雪の音を聞いていた。雪は音を立てない。でも、積もっていく雪の重さが、枝を少しずつ撓ませて、時折ぱさりと落ちる音がした。その音が聞こえるたびに、三人の耳が微かに動いた。動いてから、雪だとわかって、また伏せた。
その繰り返しが、一番消耗した。
音がするたびに耳が反応する。反応するたびに、何かが削られる。気がついたら背後まで忍び寄られていた瞬間のことを思い出した。冷気に晒された肌が、また粟立った。でも今度は、その粟立ちがどこからきたものか、自分でも判断できなかった。寒さなのか。恐怖なのか。感覚が、混ざり合っていた。
鼻も、あてにならなくなっていた。
さっきまであれほど鮮明だった匂いが、今は雪と冷気に塗り込められて、どこにあるのかわからない。消えたのか、隠れているのか、それとも自分の感覚が限界を超えたのか。判断できなかった。判断する基準そのものが、壊れていた。
走ること以外に使ったことがなかった脚の感覚も、もうどこまで信用していいかわからなかった。雪の感触が、地面の感触が、均一に遠くなっていた。身体が、少しずつ、自分のものでなくなっていく。そういう感覚だった。
感覚が、壊れていく。自分の身体が、白く冷たいものに少しずつ塗り込められていく。
それが何より、怖かった。
「……怒られるね」
ラモーヌが言った。
声を出したかったわけではなかった。ただ、黙っていると三人とも同じことを考えているのがわかって、それが怖かった。声を出せば、少しだけ、今この瞬間に戻ってこられる気がした。
「怒られるどころか」とシリウスが言いかけて、止まった。
ラモーヌはシリウスの横顔を見た。止まった理由がわかった。続きを言えば、それが現実になる。だから止まった。三人とも、続きは知っていたから。
ラモーヌは、自分の手を見た。
カーディガンの袖が、根元から裂けていた。その裂け目から、冷気が入り込んでいた。入り込んでいるとわかっているのに、もう寒いとも感じなかった。感覚が、そこまで届かなくなっていた。
言えた。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。言えた、と。防風林に入る前、匂いがした。音がなくなっていた。シリウスが止まろうとしていた。あの時、自分には言葉があった。補強できる材料があった。
でも、言わなかった。
怖かったからではない。止まりたくなかったからだ。ルドルフの背中の向こうに、まだ何かがある気がしていた。その先を、自分も見たかった。無関心を装いながら、確かにそう思っていた。
その好奇心が、今夜ここに繋がっている。
しばらくして、ルドルフが口を開いた。
「……誰かが、捜しに来る」
震えていた。声が、ではない。言葉が、震えていた。確信のない言葉というのは、こういう音がするのだとラモーヌは思った。信じたいから口にする。口にすれば少し本当になる気がする。そういう声だった。
ルドルフの尾が、また細かく震えていた。
ラモーヌは何も言わなかった。否定しなかった。できなかった、というより、する必要がなかった。ルドルフが今必要としているのは、肯定でも否定でもなく、ただ誰かがそこにいることだとわかった。
だから、肩を離さなかった。
それだけが、今できる返事だった。
雪が降り続けた。
静かだった。静かすぎた。
さっきまでの風が、いつの間にか止んでいた。風がなくなった分、雪が真っ直ぐに落ちてくる。音もなく、真っ直ぐに。三人の肩の上に、頭の上に、膝の上に、均等に積もっていく。
ラモーヌが鼻を動かした。
雪の匂いがした。冷たい、湿った空気の匂いがした。それだけだった。さっきまであった、あの甘ったるい腐臭が、今はしなかった。雪が、全ての匂いを均一に塗り込めていた。
それが安堵を意味するのかどうか、ラモーヌには測る方法がなかった。
匂いが消えたということは、距離が開いたということかもしれない。あるいは——雪がそれを隠しているだけかもしれない。どちらかを判断する方法が、今の自分にはなかった。
だから何も言わなかった。
言わないでいる間に、ルドルフの尾の震えが少しだけ収まっていた。それだけで、言わなくてよかったと思った。根拠のない安堵でも、今夜の三人には必要だった。
動けば迷う。
動かなければ、ここにいる。
どちらが正しいのか、わからなかった。わからないまま、時間だけが過ぎていった。雪が積もるごとに、少しずつ、選択肢が減っていった。
「……ねえ」
ラモーヌが囁いた。
それだけだった。続きはなかった。でも二人には伝わった。
耳を澄ませる。
——ザ。
雪を踏む、重い音がした。
三人の呼吸が、同時に止まった。
三人の耳が、同時に動いた。伏せていた耳が、音の方角を探して、ぴくりと向いた。向いた瞬間に、また深く伏せた。探してしまった、ということが、答えだった。
一音だけだった。最初は。一音聞こえて、それから静寂が戻った。気のせいだったかもしれない。枝から雪が落ちた音だったかもしれない。そう思いたかった。思いながら、耳から神経を離せなかった。
——ザ、……ザ、……。
二音目が来た。
気のせいではなかった。
間隔があった。規則的だった。四つ足の歩みだ。落ち着いていた。急いでいなかった。遠かった。まだ遠かった。でも、向かっている方向に迷いがない。迷いがないということは、わかっているということだ。この場所がどこにあるか、わかった上で、一歩ずつ、近づいてきている。
シリウスが唇を噛んだ。血の味がしたのだろう。一瞬だけ顔が歪んで、また固まった。
ルドルフが幹を握りしめた。樹皮の凹凸が掌に食い込んでいるのが、ラモーヌには見えた。
ラモーヌは目を閉じた。
閉じた方が、聞こえる気がした。視覚を遮ると、他の感覚が研ぎ澄まされる。耳が、鼻が、皮膚が、別々に情報を集め始める。足音の間隔。風のない空気の中で、僅かに変化する匂いの濃淡。地面を通して伝わってくる、微かな振動。
近づいていた。
間違いなく、近づいていた。
——ザ、ザ、ザ、ザ……。
間隔が、縮まっていた。
走っていない。急いでもいない。ただ歩いている。それが何より恐ろしかった。走る必要がないと、「それ」は知っているのだ。追い詰めた獲物がどこへも行けないことを、山の主として骨の髄まで知っているのだ。歩いて来れば足りる。それだけのことだと、知っているのだ。
匂いが、戻ってきた。
ラモーヌの鼻が、それを捉えた。
雪が塗り込めていた匂いが、足音とともに戻ってきていた。あの甘ったるい腐臭と、錆びた金気。二つが混ざり合って、喉の奥に張り付いてくる。近い。もう、近い。匂いの濃さが、距離を教えていた。
目を開けたくなかった。
開ければ、見える。見てしまえば——。
「立て」
シリウスが言った。
誰にともなく言った。自分にも言っていた。膝が笑っていた。傷が痛んでいた。足先の感覚が怪しかった。それでも、幹を押して立ち上がろうとした。
立てた。
震えながら、立てた。
ルドルフも立った。左足に体重をかけないよう、幹に手をついて立った。ラモーヌも立った。三人が、幹から背を離した。どこへ向かうか、雪が全ての答えを埋めていた。でも、座ったまま待つことは、できなかった。
——ザ、ザ、ザ、ザ、ザ……。
足音が、止まった。
その瞬間の方が、怖かった。
動いている間は、場所がわかった。近づいている間は、距離がわかった。でも止まった。どこで止まったのか。どちらの方向なのか。なぜ止まったのか。何もわからなくなった。
静寂が、戻ってきた。
さっきより、重い静寂だった。さっきは何もいない静寂だった。今は——何かがいる静寂だった。その違いが、皮膚でわかった。空気の質が変わっていた。雪の降り方が変わっていた。真っ直ぐ落ちていた雪片が、何かを避けるように、軌道をわずかに曲げていた。
ラモーヌの耳が、音を探して動いた。
動かした、のではない。勝手に動いた。さっきまで深く伏せていた耳が、音の方角を探して、じりじりと向きを変えていた。身体の方が、頭より先に、何かを察知しようとしていた。
目を開けた。
白い視界の奥に、黒い塊があった。
まだ輪郭だけだ。木々の間、雪の帳の向こうに、ぼんやりと。でも大きい。とても大きい。さっき間近で見た時より大きく見えるのは、きっと恐怖のせいだ。そうであってほしかった。
でも、恐怖のせいではなかった。
距離が近いのだ。さっきより、ずっと近い場所にいた。歩いてきた間の距離を、三人は正確に把握できていなかった。足音が止まった場所が、こんなに近かったとは、わからなかった。
「——っ」
シリウスが立ち上がろうとした。脚が震えて、膝が笑って、また雪の上に崩れ落ちた。もう一度立とうとした。今度は立てた。でも、どこへ行くのかわからなかった。どこへ行っても、この白い世界には壁しかない。
ルドルフの喉から、声にならない何かが漏れた。
言葉ではなかった。泣き声でもなかった。ただ、胸の奥から押し出されてきた、震える空気の塊だった。
黒い影が、立ち上がった。
後ろ足で立っている。
さっき見た時とは、違った。あの時は四つ足で立っていた。肩の盛り上がりが大人の腰の高さに達する、それだけの大きさだった。今は違う。後ろ足で立っている。その頭が、木の枝に届きそうだった。さっきまでの倍近い高さに、その頭がある。枝が、巨体の重みを受けて撓んでいた。
雪の中でも、その輪郭は揺るがなかった。
泥と古い血が黒く固まった毛皮が、降り積む雪の白さの中で切り取られるように浮かんでいた。前脚が、持ち上がっていた。持ち上がった前脚の先に、爪があった。湾曲した、黄ばんだ爪。さっき足元に埋もれていた時とは違う。今は、空中にある。
高い位置にある。
三人の頭の高さより、ずっと高い位置に。
ラモーヌの耳が、限界まで深く伏せられた。
もうこれ以上は折れないところまで、頭に貼り付いた。尾が、完全に脚の間に挟まった。身体の全てが、小さくなろうとしていた。小さくなれば、見えなくなるわけではない。それでも、身体はそうしようとしていた。
濁った眼が、雪の白さの中でぼんやりと光っていた。怒っていない。興奮もしていない。ただ、確認している。まだそこにいる、と確認している。それだけの眼だった。
三人の膝が、ほぼ同時に雪の上についた。
もう、立てなかった。
立てないのは、恐怖だけのせいではなかった。寒さが、体力が、傷が、全部が重なって、脚が言うことを聞かなかった。
ルドルフは幹にもたれたまま、影を見上げた。
大きい。
こんなに大きいものが、世界にあるのだと、今初めて知った。
さっき見た時も大きいと思った。でも今の大きさは、それとは違う。あの時は、まだ逃げるという選択肢があった。今は、ない。逃げる体力が、もう残っていない。それがわかっている状態で見上げると、大きさの意味が変わった。
影が、一歩踏み出した。
前脚が振り上がったままで、一歩踏み出した。
その時だった。
風が来た。
吹雪でも突風でもない。ただ、空気の流れが変わった。雪の降り方が、一瞬だけ乱れた。それまで真っ直ぐ落ちていた雪片が、何かを避けるように軌道を曲げた。
黒い影が、止まった。
今まで一度も止まらなかった「それ」が、初めて、動きを止めた。
振り上げた前脚が、止まった。
爪が、宙に止まっている。三人の真上へ向かっていた爪が、その音を拾った瞬間に、止まっていた。濁った眼の向きが変わった。三人からではない、別の方角へ。
ラモーヌの耳が、動いた。
伏せたままではなかった。音の方角へ、ゆっくりと、向いた。
無意識だった。恐怖よりも先に、別の何かを拾おうとしていた。身体が、新しい情報を求めていた。
雪の中に、足音がした。
四つ足ではない。
二本足の、静かな足音だった。
重くない。急いでいない。ただ、迷いがなかった。一歩ずつ、確実に、この場所へ向かってくる足音だった。近づくにつれて、その足音の質がわかってきた。雪の沈み方を知っている足音だった。踏み込む場所を選んでいる足音だった。無駄がなかった。
ラモーヌは、その足音を聞いていた。
あの羆の足音とは、違った。重さが違う。間隔が違う。
そして——匂いが、変わった。
あの甘ったるい腐臭が、足音が近づくにつれて、薄れていった。薄れた後に残ったのは、焚き火の煙でも、獣の毛皮でもない。凍てついた夜気そのものの匂いだった。無機質で、静謐で、山がもともとそこにあったように、ただそこにある匂いだった。足音の質が違った。何より——急いでいないのに、怖くない。急いでいないのに、怖くない足音というのが、この世界にあるのだと、今初めて知った。
ルドルフは、その音の方角を見た。
白い帳の向こうに、人の形を見た気がした。