氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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視えていた。
斜面の上にいた時から、既に視えていた。
胆力がある。限界は近い。それでも、諦めていない。
悪い未来は、視えなかった。
彼女たちの『歌』は、まだ終わるように編まれていなかった。
急ぐ必要は、どこにもなかった。
ただ――少しだけ、歩幅が早くなった気がした。


01-五.「逃げて」

三人が辿り着いたのは、雪に埋もれた河原だった。

 

いつ木立が途切れたのか、ルドルフにはわからなかった。気づいた時には頭上を塞いでいた枝がなくなり、鉛色の空が大きく開けていた。

 

右手には、白く凍った川。左手には、今まで逃げてきた森。その間に細長く伸びた河原を、三人は肩を寄せるようにして進んでいた。

 

走ってはいない。もう、走れなかった。

 

ルドルフの左腕をシリウスが肩で支え、右側からはラモーヌが身体を寄せている。ルドルフは右足を中心に身体を運び、傷めた左足は雪の上へ触れる程度に置くだけだった。

 

それでも一歩ごとに、足首の奥が脈打った。

 

飛び降りた直後より、痛みははっきりしている。あの時は逃げることしか考えられなかった。今は違う。速度が落ちた分だけ、自分の身体がどこまで壊れているのかを考える余裕ができてしまった。

 

それが、ありがたくなかった。

 

「……大丈夫?」

 

ラモーヌが訊いた。ルドルフは答える前に、一歩進んだ。左足が雪へ沈む。痛い。けれど、立っていられる。

 

「歩けるよ」

 

「大丈夫かって聞いてるんだけどな」

 

反対側からシリウスが言った。ルドルフは少し黙った。

 

「……歩ける」

 

結局、同じ答えになった。シリウスは何か言いかけたが、やめた。

 

今はそれで十分だった。歩ける。だから進む。それ以上を確かめたところで、選択肢が増えるわけではない。

 

河原には木がなかった。

 

森の中であれほど邪魔だった木々が、今は恋しかった。枝も、幹も、倒木もない。三人が身体を隠せるものが、何もない。

 

見通しが利くということは、自分たちがどこにいるのかも、遠くからよく見えるということだった。

 

ラモーヌが一度、森の方を振り返った。

 

白い。降り続ける雪の向こうに、黒い幹が何本も並んでいる。その間で、何かが動いたように見えた。

 

「……来る」

 

声が小さくなった。シリウスの耳が後ろを向く。ルドルフも振り返った。

 

最初は見えなかった。雪。木。白。黒。それだけ。

 

けれど。

 

——ザ。

 

音がした。遠く。雪を踏む、重い音だった。

 

三人の身体が同時に強張った。もう、聞き間違えることはなかった。

 

——ザ。

 

また一歩。速くない。走ってもいない。それなのに、その音には迷いがなかった。

 

「行こう」

 

ルドルフが言った。

 

三人は歩き始めた。さっきより速く。けれど、走れない。ルドルフの身体を支えながらでは、シリウスもラモーヌも本来の歩幅を使えない。足場も悪い。雪は足首近くまで積もり、場所によってはさらに深い。

 

一歩進む。足を抜く。もう一歩。雪を踏む。それを繰り返す。

 

背後から。

 

——ザ。

 

一歩。

 

——ザ。

 

また一歩。

 

走っていないのに、距離が縮んでいた。それが、耳でわかった。そして、目でも。

 

ラモーヌは河原の先を見ていた。

 

雪の中から、大きな岩が一つ顔を出している。三人が並べるくらいの幅。背丈より少し高い。

 

そこへ行くべきかどうか、ラモーヌにはわからなかった。隠れられる大きさではない。守ってくれるものでもない。

 

ただ、背中を取られない。

 

それだけだった。今の河原には、何もない。前から来るものも、横から回り込むものも、後ろから届くものも、全部同じように届いてしまう。岩へ背を預ければ、そのうちの一つが消える。

 

それが意味のあることなのか、確かめる方法はなかった。

 

「あそこ」

 

ラモーヌは岩を指した。

 

「背中だけでも、隠したいの」

 

シリウスが一瞬だけ岩を見て、頷いた。

 

「わかった」

 

理由が足りていることを、誰も確かめなかった。他に測るものがなかった。

 

三人は岩を目指した。一歩。一歩。息が荒くなる。ルドルフの足首が痛む。シリウスの傷ついた膝も、支えるたびに小さく震えていた。ラモーヌの裂けた袖は雪で濡れ、露出した腕が赤くなっている。

 

誰も、そのことを口にはしなかった。口にしたところで、歩幅は増えない。

 

背後。

 

——ザ。

 

さっきより大きい。

 

ラモーヌが振り返った。今度は見えた。

 

森の縁。白い雪の中から、黒褐色の巨体がゆっくりと姿を現していた。走っていない。こちらへ飛びかかってもいない。ただ、歩いている。

 

三人が必死に河原を進んでいるのに、熊は歩いていた。

 

その事実が、胸の奥を冷やした。

 

「……速く」

 

シリウスが言う。誰に向けた言葉かわからなかった。

 

三人の歩調が少しだけ上がる。ルドルフも、左足へわずかに体重をかけた。

 

「っ……」

 

痛みが走った。シリウスが気づく。

 

「おい」

 

「平気」

 

「だからそれ――」

 

「今だけ」

 

ルドルフが遮った。

 

「今だけ、平気ってことにして」

 

シリウスはルドルフを見た。言い返さなかった。代わりに、肩へ回された腕を少し強く掴んだ。ラモーヌも反対側から身体を寄せる。

 

三人の歩幅が揃う。少しだけ速くなる。

 

背後から、足音。

 

——ザ。

 

もう、かなり近い。

 

河原は開けていた。だから、見えてしまう。

 

先ほどまでなら、振り返っても木々と雪に遮られて距離がわからなかった。今は違う。あれがどこにいるのか。どれだけ近づいたのか。一度振り返れば、わかってしまう。

 

ラモーヌはもう振り返りたくなかった。それでも耳は勝手に後ろを向いた。鼻も。まだわずかに残っている感覚で、空気を拾おうとする。

 

甘い。あの匂い。腐りかけた果実のような甘さ。その奥の、錆びた鉄。

 

戻ってきていた。雪と冷気に消されていた匂いが、一歩ごとに濃くなっていく。

 

「……近い」

 

ラモーヌが言った。

 

「見なくてもわかる」

 

シリウスが返す。声が震えていた。

 

岩まで、まだ少しある。三人の歩幅では遠い。熊の一歩ではどれほどなのか、考えないようにした。

 

シリウスは、自分の左膝が変わってきていることに気づいていた。

 

痛いのは前からだ。飛び降りた時から、ずっと痛い。それは構わない。痛みは、まだ身体が動いている証拠だった。

 

問題は、曲がる角度だった。

 

さっきまで、曲げようとすれば途中まで曲がった。今は、その途中がもっと手前にある。歩くたび、膝が伸びきったまま雪へ落ちる。ルドルフを支えるために踏ん張ると、そこから先が動かない。

 

一度、試しに深く曲げてみようとした。

 

途中で、止まった。痛みではなかった。止まった、というだけだった。

 

これは、あとどれくらい保つのか。

 

考えて、やめた。答えが出たところで、どうにもならない。

 

だから、シリウスは何も言わなかった。ルドルフの腕を、肩でもう一度担ぎ直した。

 

また一歩。さらに一歩。

 

ルドルフの右足。左。痛い。右。左。痛い。

 

足を置くたびに、身体が少し遅れる。シリウスとラモーヌが、その遅れを肩で受け止める。

 

三人で進んでいるのではなかった。今は、二人が一人を運びながら、三人で移動している。

 

その事実が、ルドルフには耐え難かった。

 

庭を出た時、自分は先頭にいた。防風林でも、森でも、丘へ向かう時も。振り返れば二人がいて、追いついてきた。そういうものだと思っていた。

 

走れば追いつける。走れば戻れる。脚さえ動けば、どうにでもなる。あの時、本当にそう信じていた。

 

その脚が、今は運ばれている。

 

自分で選んだ道を、自分で歩けていない。行こうと言ったのは自分で、進み続けたのも自分で、その結果として二人の身体を削っている。シリウスの膝も、ラモーヌの腕も、自分がここまで連れてきたから傷ついた。

 

なのに、その二人に支えられなければ、一歩も進めない。

 

謝る言葉は、もう何度か口の中まで来ていた。そのたびに飲み込んだ。今言えば、二人が足を止める。それが一番いけない。

 

だから黙って、右足へ体重を乗せた。

 

役に立てないなら、せめて重くならないように。

 

そんなことを考えている自分が、ルドルフにはひどく情けなかった。

 

「……シリウス」

 

「なんだ」

 

「ラモーヌ」

 

「なぁに」

 

「もし――」

 

シリウスの手が、ルドルフの腕を強く掴んだ。

 

「言うな」

 

「まだ何も」

 

「わかる」

 

シリウスが前を見たまま言った。

 

「二人で行けとか言うなら、先に言っとく。聞かねぇ」

 

ルドルフが黙る。ラモーヌも、静かに続けた。

 

「私も聞かないわ」

 

「……でも」

 

「三人で来た」

 

シリウスが言う。

 

「三人で帰る」

 

短かった。けれど、それ以上の言葉はいらなかった。

 

ルドルフは唇を噛んだ。泣きそうだった。こんな時なのに。

 

それでも、足を動かした。

 

 

    *

 

 

岩へ、あと少し。

 

背後で、音が止まった。

 

三人も反射的に止まった。

 

静かになった。熊の足音が消えた。それまで規則的に聞こえていたものが、急にない。

 

「……止まった?」

 

ルドルフが囁く。シリウスは振り返らない。ラモーヌが振り返った。

 

そして、言った。

 

「違う。もう、あそこ」

 

三人がゆっくり後ろを見る。

 

熊は河原の中ほどまで来ていた。森からは、もうずっと離れている。雪の白さの中に、巨体が黒く浮いていた。

 

近い。それだけはわかった。どれくらい近いのかは、三人には測れなかった。走って逃げ切れる距離ではない。それだけが、確かだった。

 

熊は立ち止まっていた。三人を見ている。頭を低くして、鼻を動かしている。白い呼気が、鼻先から漏れる。

 

怒鳴らない。唸らない。地面を掻かない。ただ、いる。止まっている。

 

その静けさが、三人を動けなくした。

 

「……行こう」

 

ルドルフが言った。声が弱い。

 

「行くぞ」

 

シリウスが言い直す。

 

三人がまた前を向く。一歩、進む。

 

その瞬間、背後で。

 

——ザ。

 

熊も一歩進んだ。

 

三人が止まる。音も止まる。

 

誰も何も言わない。

 

また、一歩。

 

——ザ。

 

一歩。

 

こちらが動けば、あちらも動く。そう見えた。偶然かもしれない。けれど、二度、三度と、同じことが続いた。

 

三人は少し進む。熊が一歩。三人が止まる。熊も止まる。

 

距離だけが、確実に削れていく。急がない。けれど、離れない。

 

それまでの恐怖は、追いつかれる恐怖だった。

 

今は違う。追いつかれた後、どれだけの時間をかけて最後の距離を詰められるのか。その時間を、三人は全部、見ていなければならなかった。

 

それが恐ろしかった。

 

走ってくれば、まだ叫ぶことができる。逃げることも、転ぶことも、何かできる。

 

でも、歩いてくる。こちらがもう速く動けないことを見せつけるように、一歩ずつ、距離がなくなる。

 

「川」

 

ラモーヌが突然言った。

 

前を見る。凍った川面。白く雪が積もっている。対岸は、それほど遠くないように見えた。

 

「渡る?」

 

ルドルフが訊いた。

 

ラモーヌは答えず、氷の上を見ていた。

 

雪の積もり方が均一ではなかった。手前の方は、河原と同じように白く平らに積もっている。けれど中ほどから先、うっすらと色が違って見える場所がある。灰色がかっている。溶けたのか。もともと薄いのか。それとも、ただ影なのか。

 

わからなかった。斜面を下りた時とは違う。あれは足の裏があった。今は、目しかない。

 

「……向こうの方、色が違うわ」

 

「それがどうした」

 

「わからないの」

 

ラモーヌは言った。

 

「わからないから、駄目だと思う」

 

シリウスがすぐに首を振った。

 

「私も反対だ。厚さわかんねぇだろ」

 

「でも」

 

「割れたら終わりだ」

 

その時。

 

川のどこかで、ぴし、と小さな音がした。

 

三人とも氷を見る。白い。何も見えない。音だけ。

 

「……渡れないわ」

 

ラモーヌが言った。少なくとも今の三人には、確かめる術がなかった。

 

森へ戻る。できない。川を渡る。できない。河原を進む。遅い。そして、後ろ。熊。

 

三人の選択肢が、目に見える形でなくなった。

 

その時、ラモーヌは空を見た。

 

理由はなかった。ただ、目の端で何かが変わった気がした。

 

雲の色が、さっきより濃い。灰色の中に、わずかに橙が混じっている。西の方角。木立の向こう。降る雪の向こうで、空の底の方だけが、鈍く色づいていた。

 

夕方だった。

 

森へ入ったのは、昼の少し後だった。庭でどんぐりを拾って、防風林を抜けて、丘を目指した。そのつもりだった。

 

日が落ちる前には戻ってきなさい。おばあさまは、そう言った。

 

戻れない。

 

その言葉が、初めて、はっきりと形になった。今までは「帰る」ことを考えていた。帰り道がわからない。歩けない。追われている。それでも、帰るつもりでいた。

 

今は違う。日が落ちる。落ちれば、この河原は暗くなる。雪はまだ降っている。三人とも、もう歩けない。

 

そして、あれがいる。

 

ラモーヌは、右手をポケットへ入れた。

 

指が、うまく動かない。それでも、奥にあるものへ触れた。羽根だった。

 

まだ、ある。

 

折れているのか、確かめようとした。指先の感覚がなくて、わからなかった。木の根元で休んだ時には、曲がっているけれど折れてはいない、とわかった。今はもう、そこまで読み取れない。

 

お土産話、聞かせてね。

 

アルダンはそう言った。ふふ、きっとあります、とも言った。今日は、ルドルフさんとシリウスさんも来るのでしょう、だから。

 

面白いことなんて、一つもなかった。

 

ラモーヌは羽根から指を離した。ポケットから手を出す。

 

かじかんだ手を、ルドルフの背へ戻した。

 

 

    *

 

 

岩へ、ようやく辿り着いた。

 

近くで見ると、思っていたより大きかった。三人が並べば、背中は完全に隠れる。それだけだ。それ以上のものは、何もない。

 

シリウスがルドルフを岩へ座らせようとする。

 

「座らない」

 

「足」

 

「座ったら」

 

ルドルフが後ろを見る。

 

「立てなくなる気がする」

 

誰も反論できなかった。だから、岩へ背中だけを預けた。

 

シリウスも、ラモーヌも、その横。三人並ぶ。河原の上。熊と向き合う。

 

今度は走らない。逃げる場所がない。

 

熊がまた歩き始める。

 

——ザ。

 

一歩。雪が沈む。

 

——ザ。

 

一歩。足跡が残る。深い。三人の靴跡とは、まるで違う。

 

ラモーヌはその一歩一歩を見ていた。いや、見てしまっていた。

 

呼吸の音まで聞こえる。ぐ、と低く、喉の奥から息が抜ける。

 

匂い。濃い。腐臭。鉄。濡れた毛皮。それらが冷たい河原の空気へ混じる。

 

ルドルフは岩の表面を掴んだ。指先がほとんど動かない。それでも握った。

 

シリウスが、一歩だけ前へ出た。

 

「シリウス」

 

ルドルフが呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「戻って」

 

「嫌だ」

 

「でも」

 

「足動かねぇ奴が偉そうに言うな」

 

乱暴な言葉。でも、声は震えていた。シリウス自身、膝がまともに曲がらない。それでも、ルドルフより半歩、前へ出た。

 

ラモーヌが、シリウスの袖を掴んだ。

 

「一人で前に出ないで」

 

「じゃあどうすんだよ」

 

「知らないわ」

 

ラモーヌは静かに言った。

 

「でも、一人になるのは駄目」

 

シリウスが何も言えなくなる。一歩戻る。三人、また並んだ。

 

熊が止まった。

 

近い。今までで一番近い。

 

その大きさを、もう全体として見られなかった。頭。肩。前脚。爪。一つずつしか目に入らない。

 

頭だけで、自分たちの胴ほどある。肩の毛が雪で濡れている。古い傷。毛の薄い箇所。鼻先。白い息。目。濁った目。

 

その一つ一つが、近い。

 

鼻が動いた。一度。二度。三人の匂いを拾うように。

 

ラモーヌは息を止めた。意味がないとわかっている。それでも止めた。胸が苦しい。

 

熊の頭がゆっくり下がる。口がわずかに開いた。歯が見えた。

 

口の端から、細い糸が雪へ落ちた。

 

涎だった。

 

その瞬間、三人の中で何かが変わった。

 

これまで、追われていた。怖かった。殺されるかもしれないと思っていた。

 

でも、目の前にある涎を見て、初めて、もっと単純なことがわかった。

 

食べられる。

 

怒らせたからでもない。縄張りへ入ったからでもない。何かを奪ったからでもない。ただ、食べられる。自分たちは、目の前の生き物にとって、食べることのできるものだった。

 

その理解は、叫びになるほど激しくはなかった。逆だった。静かに、身体の奥へ沈んだ。

 

ラモーヌの胃が冷えた。シリウスの唇がわずかに開いた。ルドルフの指から、岩を握る力が抜けた。

 

ラモーヌは、自分が食べ物であるという考え方を、初めて持った。

 

食べるものと、食べられるもの。世界がその二つに分かれていることは知っていた。屋敷の食卓に肉が出る。魚が出る。それは誰かがそうしたからで、自分はいつも食べる側だった。

 

その線の、向こう側に立っている。

 

シリウスは、逆のことを考えていた。

 

戦えないと思った。今まで、勝てないとは思っていた。速さでも、力でも、この獣には及ばない。そういう相手だと。

 

違った。勝ち負けの話ではない。あれは自分と競っていない。競う気がない。ただ、食べようとしている。

 

そこに、勝つも負けるもなかった。

 

ルドルフは、二人を見た。

 

自分が食べられることは、さっき理解した。理解して、それは仕方がないような気がした。連れてきたのは自分だから。丘を見たいと言ったのも、もう少しだけと言ったのも、全部自分だから。

 

でも、シリウスとラモーヌも、同じように食べられる。

 

その二つが、頭の中で同時に並んだ瞬間、ルドルフは初めて、本当の意味で怖くなった。

 

自分が死ぬことより、そちらの方が、ずっと。

 

「……いや」

 

誰が言ったのか、わからなかった。小さかった。子供の声だった。

 

熊が一歩、進んだ。

 

三人は逃げなかった。逃げられなかった。ただ、岩に沿って、一歩ずつ横へ動く。

 

右。一歩。熊。一歩。右。また。三人。一歩。熊も。一歩。

 

遅い。その遅さが残酷だった。

 

一歩進む間に、考える時間がある。次の一歩までに、怖がる時間がある。熊の呼吸を聞く時間。爪を見る時間。自分の身体が動かないことを確かめる時間。そして、まだ死んでいないと思う時間。

 

全部、与えられてしまう。

 

「……誰か」

 

ルドルフの口から声が漏れた。

 

誰かが、捜しに来る。少し前に、自分がそう言った。木の根元で、二人へ向かって。

 

今、誰もいない。河原。雪。熊。三人。それだけ。

 

「誰か……」

 

もう一度、声にしようとして、喉が詰まった。

 

誰を呼べばいい。スピードシンボリ。アサマ。家の人。誰でもいい。

 

でも、ここがどこか、自分たちにもわからない。声が届くはずもない。

 

熊がさらに近づく。ラモーヌの鼻へ、毛皮の匂いが直接届く。

 

シリウスがルドルフの手を握った。強かった。もう片方、ラモーヌ。三人、手を繋ぐ。

 

走るためではない。立つためでもない。ただ、離れないため。それだけだった。

 

「……離すなよ」

 

シリウスが言った。

 

「うん」

 

「ええ」

 

ルドルフは、二人の手を握り返した。

 

熊が、後ろ足へ重心を移した。

 

身体が持ち上がる。三人の目線も、上へ。上へ。

 

頭が高くなる。雪を背に、巨体が立ち上がる。

 

大きい。森で見た時より大きく感じる。今は逃げる余地がないから、その大きさを全部、受け止めなければならない。

 

前脚が上がった。

 

爪が見えた。湾曲している。黄ばんでいる。雪の白さの中で、そこだけ異様に濃い。

 

ルドルフは目を閉じなかった。シリウスも、ラモーヌも、閉じなかった。

 

怖かった。震えていた。それでも三人とも、見ていた。

 

前脚がさらに上がる。

 

その時。

 

熊の耳が動いた。ほんの、わずかだった。

 

三人ではない。別の方向。

 

次に、目が動いた。今まで三人から外れなかった視線が、初めて河原の上流側へ向いた。

 

前脚が、止まる。

 

「……?」

 

ルドルフには、何が起きたのかわからなかった。

 

熊も動かない。雪だけが、間を落ちていく。

 

一秒。二秒。

 

その時、ラモーヌの耳が何かを拾った。

 

足音。熊のものではない。軽い。二つ。左右。交互。

 

二本足。人。

 

そう理解するまで、少し時間がかかった。

 

ざく。雪を踏む。ざく。また、一歩。

 

遠い。けれど、近づいてくる。

 

「……人?」

 

シリウスが、息だけで言った。

 

ラモーヌは聞き続けた。

 

足音は急いでいなかった。少なくとも、走ってはいない。けれど、歩幅がほんの少しずつ大きくなっている。

 

ざく。ざく。

 

河原の雪を確かめるように、一歩ずつ、こちらへ来る。

 

不思議だった。急いでいない。なのに、熊の足音とはまるで違う。

 

怖くない。

 

三人へ近づいてくる音なのに、その音だけは怖くなかった。

 

ラモーヌは、そんな足音がこの山にあることを、初めて知った。

 

考えて、少しだけわかった気がした。

 

熊の足音が怖いのは、こちらを目指しているからだ。一歩ごとに、自分たちとの距離を減らすためだけに鳴っている。だから、鳴るたびに身体が縮む。

 

この足音は、そうではなかった。

 

こちらへ来ている。それは同じ。けれど、距離を減らすために歩いているのではない。ただ、この場所へ来るべきだから来ている。そういう歩き方だった。

 

急いでいないのは、余裕があるからではない。急ぐ必要のあることが、この足音の持ち主の中にないからだ。

 

ラモーヌには、それをうまく言葉にできなかった。子供の頭では、そこまでだった。

 

ただ、その音を聞いていると、自分の呼吸が少しだけ楽になった。それだけは、確かだった。

 

熊の前脚は、まだ上がったままだった。目だけが足音の方へ向いている。鼻が、今度はそちらへ動く。

 

三人の存在を忘れたわけではない。それでも、何か別のものを確かめている。

 

その間に、ルドルフは動こうとした。

 

逃げる。今なら。そう思った。右足へ力を入れる。

 

シリウスが気づく。

 

「待て」

 

「今なら」

 

「お前、走れねぇだろ」

 

「でも」

 

一歩。ルドルフの左足が雪へ触れた。

 

痛み。身体が崩れる。二人が支える。

 

三人、動けない。

 

やっぱり、逃げられない。

 

その事実が、今度こそ完全にわかった。

 

足音。近づく。

 

ざく。ざく。

 

雪の向こうに、人影。

 

最初は灰色だった。次に、輪郭。長い外套。肩。頭。手。何か、持っている。

 

熊が低く喉を鳴らした。初めて、三人以外へ明確に反応した。

 

人影は止まらなかった。雪の帳を、ゆっくり抜けてくる。

 

近づくにつれて、姿がわかる。

 

熊の毛皮を仕立てたような、厚い外套。雪が肩へ積もっている。手には、太めの枯れ枝。杖にするには少し短い。武器と呼ぶには、あまりにもただの枝だった。

 

男。そう、三人には見えた。

 

雪と外套に隠れて、それ以上のことはわからなかった。

 

ただ、歩いてくる。

 

熊がいる。巨大な、明らかに普通ではない熊。それが三人の目の前に立っている。

 

なのに、人影は走らない。逃げない。足を止めない。ただ、歩いてくる。当然のように、この場所へ。

 

それが、ルドルフには理解できなかった。

 

「……え」

 

声が漏れる。

 

知らない人。大人。誰でもいい。誰かが、来た。

 

誰かが、捜しに来る。自分が言った。

 

本当に、誰か、来た。

 

安堵が胸へ入ろうとした。

 

その直後、熊の前脚を見た。

 

まだ、上がっている。爪。その先。人影。

 

今度は、自分たちではない。

 

あの人が、危ない。

 

そう思った瞬間、ルドルフは考えなかった。喉が勝手に開いた。

 

「逃げて!」

 

声が割れた。痛い。それでも、叫ぶ。

 

「来ちゃ駄目!」

 

人影は歩みを止めない。

 

熊が低く、身体を下ろす。

 

ルドルフはもう一度、叫んだ。

 

「逃げて!」




2026/10/05
本文加筆。

2026/04/06
「逃げて」と、ルドルフは叫んだ。
助けを求める言葉ではなかった。幼くとも、他人を巻き込むことを彼女は選ばなかった。
もっとも——遭難してから今この瞬間まで、本心がどこにあったかは、また別の話である。
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