氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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01-幕間二.「それで、どうなったの」

カチャリ、と茶器が鳴った。

その音だけで、生徒会室の空気が少し変わった。

エアグルーヴが紅茶を入れ直していた。さっきから手が止まらなかった。止まらないようにしていた、というのが正確かもしれない。何かをしていなければ、この部屋の空気の重さにただ座っていることになる。それが、今の彼女には耐えがたかった。

最初の一杯は上手く立てられなかった。

茶葉の量は正確に測った。湯温も申し分ない。それでも、注いだ瞬間に手が少しだけ震えた。表面に揺らぎが生まれた。整った液面ではなかった。黙って捨てて、もう一度入れ直した。誰も見ていなかった。見ていなかったはずだが、ルドルフと目が合った。

目配せがあった。

言葉はなかった。ただ、ルドルフの目がエアグルーヴを見て、それからテイオーを見て、また戻ってきた。それだけだった。それだけで十分だった。長く生徒会で共にいると、こういうことが増えてくる。言葉にしなくても届く何かが。

エアグルーヴは二杯目を丁寧に立てて、テイオーの前に置いた。

 

「……飲め」

短く言った。

テイオーは俯いたまま、しばらく動かなかった。ルドルフの隣にぴったりと寄り添って、肩が触れるか触れないかの距離に座っている。さっきから離れない。べそをかいていた。べそをかきながら、それでも声を出さなかった。声を出すと何かが崩れる、とでも思っているような、そういう黙り方だった。

 

「テイオー」

ルドルフが呼んだ。

 

「……カイチョー」

掠れた声だった。

 

「怖かったか」

「……うん」

素直に頷いた。強がらなかった。いつもの「ダイジョーブダイジョーブ!」が出てこなかった。それがかえって、エアグルーヴの胸のどこかに刺さった。あのトウカイテイオーが、強がれないでいる。

 

「怖くて、当然だよ」

ルドルフは静かに言った。「私たちも、怖かった。あの夜、ずっと怖かった」

テイオーが顔を上げた。泣き腫らした目で、ルドルフを見た。ルドルフは視線を逸らさなかった。笑ってもいなかった。ただ、そこにいた。

 

「……カイチョーでも?」

「私でも」

一拍あって、ルドルフが続けた。

 

「シリウスも。ラモーヌも。三人とも、怖くて、脚が震えて、それでも走るしかなかった。それだけの夜だった」

テイオーが小さく息を吐いた。肩から、少しだけ力が抜けた。

 

エアグルーヴはカップを両手で包んで、窓の外を見た。晩秋の夕暮れだった。風が出てきていた。校舎の木が揺れている。西の空がじわりと橙に染まり始めている。日が落ちればもう門限も近い——そんなことを頭の端で思いながら、今しがた聞いた話のことを考えていた。考えずにいられなかった。

あの三人が、子供だった頃の話だ。

今のシンボリルドルフを知っている。今のシリウスシンボリを知っている。今のメジロラモーヌを知っている。その三人が、七歳か八歳で、雪の山の中で羆に追われた。追われて、走って、転んで、脚が動かなくなった。それが先ほど聞いたことの輪郭だった。輪郭しかまだわかっていない。でも輪郭だけで、十分すぎるほどの重さがあった。

 

「……貴様」

エアグルーヴは気づいたら声に出していた。

部屋の隅に目を向けた。

ナリタブライアンが、壁に背を預けて座っていた。腕を組んでいた。目は閉じていなかった。開いたまま、一点を見ていた。見ているというより、見るともなく前を向いていた。その手が、膝の上で、白くなるほど握りしめられていた。

エアグルーヴは立ち上がりかけた。

 

「いい」

先に声がした。

シリウスだった。

ラモーヌの隣で足を組んで座っていたシリウスが、エアグルーヴに目を向けた。「そっとしておいてやれ」とは言わなかった。ただ、短く「いい」と言った。それだけで、エアグルーヴは座り直した。

 

シリウスにはわかるのだろう、とエアグルーヴは思った。

いない誰かのことを考えている時の顔が、どういう顔かを。今ここにいない相手のことを、頭の中でそっと思い出している時の静けさが、どういう静けさかを。

 

ナリタブライアンは、自分のことを考えていた。

 

今夜の話ではなく、もっと前のことだった。水溜まりが怖かった頃のことだった。自分の影が、水面に映るたびに身体が固まった。何が怖いのかわからなかった。わからないまま、怖かった。走ることの意味をまだ知らなかった。ただ怯えて、ビワハヤヒデの後ろについて歩いていた。

 

あの頃の自分が、あの山の中にいたら。

 

答えは出なかった。出すまでもなかった。

手を、離さなかったか。

 

膝の上で握りしめていた手が、さらに白くなった。

姉貴は、いつも傍にいた。それだけのことが、今夜この部屋で、全く別の重さを持っていた。

 

ナリタブライアンの握りしめた手が、少しだけ緩んだ。

緩んだのを見届けてから、シリウスは視線を外した。

 

「続きを聞かせてやれよ、ルドルフ」

いつもの声だった。少し低くて、少し乱暴で、でも芯があった。

 

「それで、あの後どうなった」

ルドルフはシリウスを一度見た。それからテイオーを見た。テイオーは両手でカップを包んで、頷いた。小さく、でも確かに頷いて、言った。「それで、どうなったの」と。

 

「続けよう」

ルドルフは言った。

 

「落ちた後のことを話す。三人とも、もう動けなかった。あの羆が、また来た。その時に——」

カチャリ、と茶器が鳴った。

エアグルーヴが自分の分を入れ直していた。今度は手が震えなかった。

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