氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
泥を噛み、凍てつき、意識の糸が擦り切れかけても互いの手を、決して離さなかった。
限界を超えていても、目を閉じなかった。
何かを、見ようとしていた。
——厄介な子だ、と思った。
悪い意味ではなかった。
その眩しさが、乾いた記録を、ほんの少しだけ濡らした。
「逃げて!」
ルドルフの声が、もう一度響いた。
掠れていた。喉を傷めているのが、隣にいるシリウスにもわかる。それでもルドルフは叫んだ。
「来ちゃ駄目! 逃げて!」
雪の向こうから現れた男は、止まらなかった。
熊の毛皮を仕立てたような外套。片手には、太めの枯れ枝。それだけ。
銃もない。斧もない。三人が知っている、獣と戦うためのものを何一つ持っていない。それなのに歩いてくる。
逃げろと言われているのが聞こえていないはずはなかった。ルドルフの声は、この静かな河原にはっきり響いていた。
男は聞いた。聞いた上で、歩いてくる。
シリウスも叫ぼうとした。
逃げろ。来るな。そいつは駄目だ。
さっきまで自分たち三人が、どれだけ走っても振り切れなかったものだ。ルドルフの足を壊して、ラモーヌを凍えさせ、自分の膝をまともに曲がらなくしたものだ。一人でどうにかできるはずがない。
そう言おうとした。
「――っ」
息だけが漏れた。声にならなかった。
もう一度。喉へ力を入れる。何も出ない。
肺は動いている。息もしている。それなのに、声にするだけの力が残っていなかった。
「……っ、ぁ」
情けない音が一つ出て、それきりだった。
くそ。シリウスは奥歯を噛んだ。こんな時に。叫ぶことすらできない。
隣ではルドルフが岩へ身体を預けながら、必死に男を見ている。ラモーヌもシリウスの袖を掴んだまま、雪の向こうを見ていた。
三人とも動けない。
そして、熊が動いた。
今まで三人へ向けられていた頭が、ゆっくりと男の方を向く。前脚が雪へ沈む。もう一方も。低くなった身体が、男へ向けて正面を取った。
シリウスには、それが何を意味するのかわからなかった。
ただ、さっきまで自分たちへ向いていたものが、今はあの男へ向いている。それだけはわかった。
「……っ」
逃げろ。声にならない。
男はまだ歩いている。雪を踏む音が近づく。
ざく。ざく。
急いでいるようには見えなかった。それが、わけがわからなかった。
シリウスたちは逃げた。必死に走った。斜面を下り、転び、傷つき、それでも走った。あれほど逃げなければならなかったものを前にして、この男はただ歩いている。
熊の肩が沈んだ。
次の瞬間、巨体が動いた。
速い。河原を歩いていた時とは、まるで違う。雪が弾ける。黒褐色の塊が、男との距離を一気に潰した。
シリウスの身体が反射的に竦んだ。目だけは閉じなかった。閉じられなかった。
前脚が持ち上がる。高い。三人へ向けられていた時と同じ、湾曲した爪が雪の白さの中に浮かぶ。
あれが、人間へ当たる。
そう思った瞬間、頭の中に勝手に音が浮かんだ。
聞いたこともない音だった。実際には知らない。知らないのに、身体だけが先に知っているような、そういう音。
嫌だ。聞きたくない。
それでもシリウスは、目を逸らせなかった。
前脚が振り下ろされる。
男の手が動いた。
持っていた枯れ枝を、ただ持ち上げた。それだけに見えた。
——ガキン。
硬い音が、河原へ響いた。
シリウスは瞬きを忘れた。
予想していた音ではなかった。肉の音でも、骨の音でも、木が折れる音ですらない。硬いもの同士がぶつかったような、短く鋭い音だった。
熊の前脚が、止まっている。
振り下ろされた爪。そのすぐ下。男が持つ枯れ枝。
枝が、爪を受けていた。
「……は?」
ようやく出た声は、それだけだった。
意味がわからない。太さなら、シリウスの手首ほどもない。道端で拾ったようにしか見えない枯れ枝だ。そんなものに、あれが止められている。
一瞬。本当に一瞬だけ、枝の表面を何かが走った。
黒。そう見えた。
濡れたのではない。影でもない。茶色かった木肌が、夜を塗り込めたような黒へ沈んだ。
次の瞬間には、戻っていた。
「……?」
見間違い。そう思った。
雪が降っている。目も疲れている。身体は冷えきっている。まともに立つことすらできない。見間違えて当然だ。
なのに、シリウスは、自分が見間違えたとは思えなかった。
熊が前脚を引いた。
男は動かない。枝も、折れていない。
熊の身体が、大きく後ろへ下がった。雪が深く抉れる。一歩。さらに、もう一歩。
さっきまでの動きとは違った。三人へ近づいていた時にはなかった動きだった。
耳が後ろへ伏せられている。頭が低い。鼻先が何度も動く。前へ出かけた身体が止まり、また半歩下がる。
シリウスは、初めて、目の前の獣が自分たち以外の何かを見ているところを見た。
男だった。
熊は、男から目を離さない。男も、熊を見ている。
二つの間に、雪だけが落ちていた。
男は枯れ枝を下ろした。構えなかった。追い払おうと振ることもしない。ただ手に持ったまま、言った。
「退け」
大きな声ではなかった。怒鳴りもしなかった。命令というには、あまりにも静かだった。
なのに、シリウスの耳には、その二文字だけが妙にはっきりと届いた。
熊が動く。
シリウスの身体が強張る。来る。そう思った。
違った。後ろだった。
一歩。黒褐色の巨体が、雪の上を退く。また一歩。
男は追わない。何もしない。ただ見ている。
熊の喉から、低い音が漏れた。今まで聞いた唸り声とは少し違った。短い。途中で切れる。それが何を意味するのか、シリウスにはわからない。
わからなくていい。
ただ、あれが離れていく。
一歩。もう一歩。距離が開く。
あれほど、縮む一方だった距離が、初めて広がっていく。
シリウスは、それを信じられなかった。
足音が遠ざかる。
——ザ。
——ザ。
さっきまで、近づくたびに身体を凍らせた音。それが今は、一つ鳴るたびに少しずつ小さくなっていく。
熊は森の縁まで下がった。そこで一度だけ止まった。
白い雪の中。黒い巨体が、木々の前に立っている。頭の向きは、まだこちらだ。
シリウスは息を止めた。戻ってくる。そう思った。
男も、何も言わない。雪だけが降る。
長い。ほんの数秒だったのかもしれない。それが、ひどく長く感じた。
やがて、熊が身体を横へ向けた。
木々の間へ、一歩。次。黒い輪郭が幹に遮られる。また雪の向こうへ滲む。
そして、見えなくなった。
「……」
誰も声を出さなかった。まだ、終わったとは思えなかった。
シリウスの耳は、森の方を向いたままだった。音を探す。戻ってくる音。枝を折る音。雪を踏む音。
何も聞こえない。
鼻の奥には、まだあの嫌な匂いが残っている気がする。本当に残っているのか、記憶が残っているだけなのか、シリウスにはわからなかった。
ただ、あいつはいなくなった。少なくとも、目の前にはもういない。
その事実を身体が理解するより先に、膝が折れた。
「……っ」
雪の上へ落ちる。傷ついた膝が雪に触れた。
痛い。今さら、猛烈に痛かった。
「シリウス!」
ルドルフの声。そちらを見る。
ルドルフも立っていなかった。岩からずるずると身体が滑り、雪へ座り込んでいる。ラモーヌも、その隣で両手を地面についていた。
三人とも、もう立てなかった。
あれが目の前にいた間は、立てと言われれば立とうとした。走れと言われれば走ろうとした。
今は、何もできない。
身体の奥に張り詰めていた何かが、一気に切れた。
寒かった。膝が痛い。指も痛い。喉も、胸も。全身が、今まで後回しにされていたものをまとめて訴え始めた。
「……行った?」
ルドルフが訊いた。
「知らねぇ」
シリウスはようやく声を出した。掠れている。自分の声なのに、他人みたいだった。
「見えねぇ」
ラモーヌが、森の方へ顔を向けた。耳が動く。鼻も、少しだけ。
「……わからないわ」
「戻ってくる?」
誰も答えなかった。その問いに答えられる者など、ここにはいない。
そう思った。
その時、雪を踏む音がした。
三人の身体が同時に強張った。シリウスの耳が音の方へ跳ねる。
違う。すぐわかった。重くない。四つ足でもない。
ざく。ざく。
二本。人の足音。
シリウスは、さっきの男を思い出した。
男。枯れ枝。あの音。枝に走った黒。「退け」。熊。遠ざかった。
全部、頭の中でうまく繋がらない。繋がらないまま、男が近づいてくる。
シリウスは無意識に身体を動かそうとした。ルドルフとラモーヌの前へ出ようとした。
膝。動かない。
「っ……」
手をつく。立てない。
くそ。何度目だ。自分の身体なのに、言うことを聞かない。
男の足音は止まらない。
怖い。
その感覚に、シリウス自身が少し驚いた。
熊はいない。この男は自分たちを助けた。少なくとも、そう見える。
なのに、怖い。
当然だった。何もわからない。あんなものを枯れ枝一本で止めた。一言で退かせた。そんな人間をどうやって、何も考えずに信用しろというのか。
男が三人の前まで来た。そこで初めて止まる。
近くで見ると、余計に普通だった。
熊の毛皮らしい外套。雪のついた黒髪。整ってはいるが、どこにでもいそうな顔。細い身体。片手の、ただの枯れ枝。
さっき見たこと全部が、嘘だったように見える。
だから、余計に怖かった。
男は三人を順番に見た。まず、シリウス。次に、ルドルフ。ラモーヌ。視線がまたシリウスへ戻る。
シリウスは睨み返した。怖い。でも、目を逸らしたくなかった。
男は特に気にした様子もなく、その場へ膝をついた。シリウスと目の高さが近くなる。
「怪我は」
それだけだった。
何だよ、その訊き方。見りゃわかるだろ。
そう言いたかった。普段なら確実に言っていた。
でも、口を開いて出たのは、
「……平気」
だった。
自分で言って、腹が立った。
どこがだ。膝は血が滲んでいる。指は動きづらい。寒くて、歯まで鳴りそうだ。全然、平気ではない。
男は、
「そうか」
とだけ言った。信じた様子も、疑った様子もない。
ただ、シリウスの膝を見る。手を見る。顔を見る。それから、
「手を見る」
と言った。
「……何」
「見る」
嫌だ。一瞬、そう思った。
知らない相手だ。さっきのことも何一つわからない。
でも、男は手を出しているだけだった。掴まない。急かさない。シリウスが出すのを待っている。
見せてくれとは言わなかった。見せろとも言わなかった。見る、とだけ言って、待っている。
シリウスは少し迷ってから、右手を出した。
男の指が手首へ触れる。
「っ」
反射的に引きかけた。
温かかった。そのことの方に驚いた。
雪の中をどれくらい歩いてきたのか知らない。素手ではないにしても、こんな場所にいるのに、手が温かい。
男はシリウスの手首へ指を当てていた。しばらくして、離す。
「膝は」
「動く」
「曲がるか」
シリウスはやってみせようとした。少し曲げる。痛みが走る。眉が勝手に動いた。
男はそれ以上やらせなかった。
「わかった」
そのままルドルフへ向く。シリウスもつられて見る。
ルドルフは、男に見られた瞬間、背筋を伸ばそうとした。雪の上に座り込んでいるのに、そんな時でもしっかりしようとする。
馬鹿。シリウスは思った。
男の視線が、ルドルフの頬。肩。手。そして、左足へ落ちる。
ルドルフの身体が、ほんの少しだけ固くなった。
「足」
男が言う。
「……歩けます」
「痛いか」
「歩けます」
同じことを、もう一度。
男は少しだけルドルフを見た。
「痛いか」
ルドルフの口が閉じた。
シリウスは横から見ていた。
大丈夫。そう言う。たぶん、また、そう言う。と思った。
ルドルフは言わなかった。視線を少しだけ下げて、
「……痛いです」
答えた。小さかった。でも、はっきりしていた。
シリウスは何も言わなかった。
男も、
「そうか」
とだけ答えた。
責めない。褒めない。どうしてそんなことになったのかも聞かない。ただ、痛いのだと知った。それだけ。
次に、ラモーヌ。
彼女はさっきからほとんど喋っていない。両手を膝の間へ挟んでいた。
男がそれを見る。
「手を」
ラモーヌは今度はすぐに出した。
シリウスはその手を見て、息を呑んだ。
赤い。指先がひどく赤くなっている。ところどころ、色が暗い。
いつから、こんなだった。
ずっと一緒にいた。手だって何度も握った。なのに、気づかなかった。
男もラモーヌの手を見ていた。自分の手袋を外す。それから、素手でラモーヌの両手を包んだ。
ラモーヌの肩がびくりと動いた。逃げなかった。
「……あったかい」
声が小さく漏れる。
男は何も返さない。しばらくそのまま、両手を包んでいる。
ラモーヌの指が、ほんの少し動いた。
それを見てから、男は自分の手袋をラモーヌへはめた。大きい。指先が余る。それでも一つずつ、指を入れていく。
次に、首へ巻いていたものを外した。シリウスの肩へ掛ける。
「……何だよ」
「寒いだろう」
「お前は」
男は自分の外套を見る。
「ある」
それで会話は終わった。
シリウスは、肩に掛けられた布へ鼻まで埋めるような真似は絶対にしないつもりだった。
でも、温かかった。身体が勝手に、少しだけそちらへ寄った。
くそ。今日だけで、自分の身体に何度裏切られたかわからない。
男が三人を見た。何かを考えているようだった。
シリウスはその間も目を離さなかった。
何をする。どこへ連れていく。そもそも、誰だ。
聞きたいことは山ほどある。
「……お前」
声が出た。さっきより少しだけまともだった。
男が見る。
「何だ」
「何者だ」
ルドルフがシリウスを見る。ラモーヌも。
男は少し考えた。
「ここに住んでいる」
「それだけかよ」
「今、必要なのはそれくらいだ」
シリウスは眉を寄せた。
気に入らない。答えになっていない。
でも、反論するより先に、男が続けた。
「そう遠くない場所に家がある。火もある」
「家……?」
それを聞いた瞬間、ラモーヌの耳がほんの少し起きた。
シリウスにも、その言葉だけは強く響いた。
火。暖かい。そういう場所。
想像した途端、寒さが急に酷くなった気がした。
「行けるか」
男が訊いた。
シリウスは即座に答える。
「行ける」
ルドルフも、
「行けます」
ラモーヌも、小さく頷く。
男は三人を見た。
「そうか」
それから、ルドルフを見る。
「お前は無理だ」
「……」
ルドルフの顔が固まった。
「歩けます」
「歩かなくていい」
「でも」
「歩く必要がない」
言い方は冷たくなかった。でも、選ばせる気もあまりないようだった。
男はルドルフの前へ背中を向けて、しゃがむ。
「乗れ」
ルドルフが戸惑った。
「でも」
「足を使わなくて済む」
それだけ。
ルドルフは動かない。
シリウスには理由がわかった。
悔しいのだ。自分で歩けないことが。背負われることが。今日、全部、自分の判断から始まったと思っているのに、最後まで人の世話になることが嫌なのだ。
「乗れよ」
シリウスが言った。ルドルフが見る。
「でも、シリウスたちが」
「お前が歩く方が遅ぇ」
少しきつく言った。ルドルフの顔が傷つく。
言い過ぎた。そう思った。でも、言い直さなかった。
「だから乗れ。私らまでここにいる時間が長くなるだろ」
ルドルフが口を閉じた。
それなら。自分のためではなく、二人のためなら、受け入れられる。そんな顔だった。
「……わかった」
男の背中へ腕を回す。
男はルドルフを背負った。立ち上がる。
姿勢が、ほとんど変わらなかった。
シリウスはそれを見ていた。
ルドルフは子供とはいえ、ウマ娘だ。軽くはない。その体重が突然背中へ乗った。なのに、男の身体はほとんど揺れない。
また、何か引っかかった。
さっきの枝。熊。そして、これ。
「シリウス」
男が呼ぶ。
「何だよ」
「お前も」
「は?」
男の腕がシリウスの前へ来る。
「待て。私は歩ける」
「膝が痛い」
「歩けるって言ってんだろ」
「ああ」
「なら」
「歩けるのと、歩かなくていいのは別だ」
「……」
何だ、こいつ。腹が立つ。なのに、言い返せない。
「嫌なら歩いてもいい」
男はそう付け加えた。
「途中で動けなくなったら、その時は抱える」
シリウスは黙った。自分の膝を見る。
立つ。できる。たぶん。歩く。できる。
家まで、どれくらい。遠くない。こいつはそう言った。その「遠くない」がどの程度なのか、知らない。
「……自分で歩く」
「わかった」
あっさり、男は引いた。
それが少し意外だった。強制されると思っていた。
男はラモーヌへ手を差し出す。
「立てるか」
ラモーヌがその腕を掴む。雪へ足をつく。一度、身体が揺れる。男が脇を支える。
「……立てるわ」
「なら、ゆっくり行く」
歩き始める。
シリウスも立った。膝。痛い。一歩。何とか。次。また、痛い。
男は何も言わない。振り返りもしない。
でも、シリウスが遅くなると、歩幅が少し小さくなる。
気づいている。それがまた気に入らなかった。同時に、少しだけありがたかった。そのことの方が、もっと気に入らなかった。
*
雪の中を、四人で進んだ。
男。その背中のルドルフ。腕を支えられているラモーヌ。そして少し後ろ、シリウス。
最初は自分の脚で歩けていた。十歩。二十歩。もっと。
すぐに、わからなくなった。
身体が重い。膝だけではない。足そのものが雪から抜けにくい。一歩歩くたび、次の一歩までが長くなる。
男が少しずつ歩調を落とす。
「落とすな」
シリウスが言った。
「何を」
「速度」
「どうして」
「私に合わせんな」
男は一度だけ振り返った。
「急がなくていい」
「羆が戻ってくるかもしれねぇだろ」
言ってから、シリウスは自分の口を止めた。
羆。その言葉を、今まで一度も使っていなかった。
森で見た時も。追われている間も。河原で向き合った時も。三人が呼んでいたのは、ずっと「熊」だった。ただ大きくて、黒くて、怖いもの。それ以上の名前を、誰も持っていなかった。
「……あれ、羆なのか」
男が答えた。
「そうだ」
短かった。それだけで、三人が今日ずっと逃げてきたものに、名前がついた。
「羆」
ルドルフが、男の背中で小さく繰り返した。ラモーヌも、口の中で同じ音を作っていた。
名前がつくと、少しだけ形が変わった。
得体の知れない何かではなくなった。この山にいる、名前のある獣になった。
それが怖くなくなったのかというと、そうではない。ただ、呼べるようになった。それだけだった。
「だったら」
シリウスが続けた。
「戻ってくるなら、急がねぇと」
「だから、急がなくていい」
意味がわからない。
シリウスは男の顔を見る。
怖がっていない。強がってもいない。ただ、そう思っている顔。
さっきの羆。あれを知っているのか。それとも、何か別のことを知っているのか。
聞きたい。でも、息がもう続かなかった。
「……クソ」
悪態だけ、白い息と一緒に漏れた。
ラモーヌが少し前でこちらを見る。
「シリウス」
「平気だ」
言った。今日、何度目だ。
「平気じゃないなら」
ラモーヌが言葉を続ける。
「言ってもいいのよ」
「……」
誰のせいだ。
さっき、ルドルフが初めて「痛い」と言った。あれを聞いていたせいだ。
「……まだ歩ける」
今度はそう答えた。平気とは言わなかった。
ラモーヌはそれでいいようだった。前を向く。
少し歩く。また一歩。
膝が、大きく抜けた。
「あ」
身体が傾く。雪。来る。そう思った。
男の腕が先に来た。シリウスの身体を横から受け止める。
「……離せ」
「立てるか」
「立てる」
脚へ力を入れる。膝、震える。立てる。
でも、次の一歩を出そうとした時、出なかった。
「……」
男は何も言わなかった。シリウスも何も言わない。
しばらく、そのまま。
「……くそ」
シリウスが小さく吐いた。
「抱えろ」
「ああ」
一言。それだけ。
男は勝ち誇らない。ほら見ろとも言わない。身体を屈め、シリウスの背と膝裏へ腕を入れた。持ち上げる。
「……っ」
怖いくらい簡単だった。
シリウスは反射的に男の外套を掴んだ。すぐ離そうとする。離せなかった。身体がそうしたくなかった。
「……落とすなよ」
「落とさない」
返事はすぐだった。
「絶対だぞ」
「ああ」
シリウスは目を閉じなかった。
男の腕の中から森を見る。白い。木。雪。何もいない。
でも、まだあいつがいる気がする。どこかから見ている気がする。
男は普通に歩いている。背中にルドルフ。片腕にシリウス。反対側ではラモーヌを支えて。それでも足取りは乱れない。
そのことを深く考えないようにした。
考えれば、この男まで怖くなる。もう、怖いものは増やしたくなかった。
「……なあ」
シリウスが掠れた声で言った。
「何だ」
「さっきの」
男が前を見る。
「羆か」
「……なんで退いた」
「さあな」
シリウスは男を見る。
「お前がやったんだろ」
「そう見えたか」
「見えたから聞いてんだよ」
「そうか」
「そうか、じゃねぇ」
男は少し、考えるように目を細めた。
「嫌だったんだろう」
「何が」
「私が」
「……」
ふざけているようには聞こえなかった。本当にそれだけだと思っているような声だった。
余計に、わからない。
「お前」
「ああ」
「変だぞ」
「そうか」
「変だ」
「そうか」
会話が続かない。
シリウスは腹が立った。でも、少しだけ力が抜けた。
こんな時に。何なんだ、こいつは。
視線を前へ戻す。雪。木。暗い。
その向こう。何か小さいものが見えた。
「……あれ」
最初は雪の反射かと思った。違う。
橙色。揺れている。木々の間。小さな光。
「灯り……?」
ラモーヌの声。
男が頷いた。
「家だ」
近づく。少しずつ、光が大きくなる。
窓だった。窓の向こうに明かりがある。
暖かい。そう思った。まだ触れていないのに、その色だけでそう思った。
シリウスは光を見た。目を逸らさなかった。
羆から目を逸らさなかった時とは違う。見ていたかった。あれが消えないか、確かめたかった。
「……もうちょっと?」
聞いた。自分がそんなことを訊いたことに、後から気づいた。
「もう少しだ」
男が答えた。
子供に言うような優しい言い方ではなかった。励ます調子でもない。ただ、本当にもう少しなのだと言っただけ。
その声を、なぜか疑わなかった。
シリウスの瞼が重くなる。閉じる。
駄目だ。すぐに開く。
あいつが戻ってくるかもしれない。この男が何者なのかもわからない。寝るな。まだ、寝るな。
そう思う。また瞼が落ちる。開く。
光。まだある。少し大きい。
「シリウス」
ルドルフの声がした。男の背中。すぐ近く。
「起きてる?」
「……当たり前だろ」
声が思ったより弱い。
「ラモーヌは?」
ラモーヌを見る。歩いている。男の腕を両手で掴んで、俯いている。耳がほとんど動いていない。
「いる」
シリウスが答えた。
ルドルフが、
「そっか」
と言う。それだけ。
三人、いる。まだ三人ともいる。
シリウスはそれをもう一度確かめた。
男が雪を踏む。一歩。また一歩。
不思議だった。
さっきまで、足音がするたび身体が凍った。今は同じように雪を踏む音を聞いている。
でも、逃げたいとは思わなかった。
安心とは、まだ呼びたくない。
この男が誰なのかわからない。さっきの枝も、羆も、何一つわからない。
それでも、この足音からは逃げなくていいのかもしれない。ほんの少しだけ、そう思った。
光が近づく。窓が見える。その下、壁。屋根。扉。
本当に、家があった。
男が扉の前で止まる。
シリウスは光を見たまま、外套を握っていた。指を離そうと思った。離れなかった。もう、力がほとんど残っていなかった。
だから、そのままにした。
扉へ、男の手が伸びる。
シリウスは、まだ助かったとは思えなかった。
ただ、あの灯りの向こうへ行けば、少なくとも今すぐ走らなくてもいいのかもしれない。
それだけを、信じてみようと思った。
2026/10/05
本文加筆。