氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
斜面の上にいた時から、既に視えていた。
胆力がある。限界は近い。それでも、諦めていない。
悪い未来は、視えなかった。
彼女たちの『歌』は、まだ終わるように編まれていなかった。
急ぐ必要は、どこにもなかった。
ただ――少しだけ、歩幅が早くなった気がした。
ほんの一瞬だった。
羆の眼が、外れていた。
振り上げたまま止まった前脚が、まだ宙にある。眼は別の方角を向いたまま、動かない。その一拍が、今夜初めて、三人の身体に猶予を与えた。
考えなかった。
脚が、動いていた。
「下り坂へ」
ラモーヌの声は、叫んでいなかった。
それなのに、吹雪の轟音を割って、不思議なほどはっきり届いた。
「前脚が短い。下りでは重心が崩れる」
それだけだった。理由を重ねなかった。言い訳もしなかった。ただ、事実だけを言った。
シリウスとルドルフは、聞いた瞬間に動いていた。考えるより先に、身体がラモーヌの言葉を信じた。信じるというより、それ以外の選択肢が見えなかった。ラモーヌがそう言うなら、そうなのだ。今夜ここまで、ラモーヌの感覚が外れたことは一度もなかった。
斜面が、右手にあった。
一目見て、普通に降りても危ないとわかった。急傾斜で、木の根が雪の下に無数に隠れている。岩が所々顔を出している。落ちた先が見えない。見えないということは、何があるかわからないということだ。
それでも、後ろには羆がいる。
「手を」
ルドルフが両側に手を伸ばした。声が震えていた。伸ばした手も震えていた。それでも、伸ばした。シリウスが左手を握った。ラモーヌが右手を握った。
冷え切った指が、互いの指に絡む。
ラモーヌはその感触を確かめる間もなく、一歩踏み出した。
重力が、三人の身体を引き込んだ。
それはもはや走ることではなかった。転げ落ちないことだけに全神経を注ぐ、制御された墜落だった。最初の一歩で右足が雪に沈んだ。引き抜いて、次の一歩を踏む。笹の葉が腕を打つ。低い枝が引っかかって、布が裂ける音がした。露出した肌に、凍てついた泥が叩きつけられる。熱い。痛いではなく、熱い。
前だけを見た。
下を見てはいけない。次の足場を探すことと、転ばないことと、手を離さないこと。それだけを、三つ同時にやり続けるしかなかった。
ラモーヌは足の裏で、雪の下を読んでいた。
雪はどこも同じ白さをしているが、その下は均一ではない。踏み込んだ瞬間の沈み方が、地面の何かを教えてくれる。ふわりと深く沈む場所は根の上だ。硬くて滑る場所は岩だ。わずかに傾いて沈む場所は、その先が崩れている。走っている間、ラモーヌはそれだけを読み続けた。読んで、次の一歩の場所を選んだ。自分の足場を選びながら、同時にルドルフとシリウスのために安全な幅を確保した。三人分の足場を、一人で計算し続けていた。
シリウスの息遣いが聞こえた。荒かった。それでも脚は動いていた。
背後から、轟音が来た。
巨木が根ごと折れる音。大地が抉れる音。斜面を何かが下りてくる音ではなく、斜面ごと崩してくる音だった。下り坂の不利など一切意に介していない。圧倒的な質量が、ただ直線に向かってくる。
振り返らなかった。
振り返れば足が止まる。足が止まれば終わる。それだけがわかっていた。
次の一歩を踏み込んだ瞬間、ラモーヌは感じた。
繋いでいたルドルフの手が、わずかに乱れた。体重の乗り方が変わった。一瞬、ルドルフの重心が右へ、それから前へと崩れかけた。何かを踏み外した、とラモーヌにはわかった。わかった瞬間にはもう、シリウスが逆側に体重を移していた。無言で、ほぼ同時に。三人の身体が、互いを支え合う形で均衡を取り戻した。
繋いだ手が、痛いほど強く握られた。
「……っ」
ルドルフの息が、一拍止まった。
足首だとわかった。雪の下に何かがあった——根か、石か——踏んだ瞬間に足首が外側へ流れた感触。その反応が、繋いだ手を通してラモーヌに届いた。声には出なかった。出すまいとしていた。でも、握られた手は正直だった。
「離すな」
ルドルフが前を向いたまま言った。声は震えていたが、向きは変わらなかった。
左右から、同じ強さで握り返された。
走れているうちは、走る。それだけだった。足首のことを考えれば止まる。止まれば終わる。だから考えなかった。ラモーヌも考えなかった。今この瞬間、考えていいことと考えてはいけないことがある。足首のことは、今考えてはいけないことだった。
匂いが来た。
錆びた鉄の匂いが、うなじのすぐ後ろまで追いついていた。息がかかりそうなほど近い気がした。そうではないとわかっていても、そう感じた。身体の奥から、何か熱いものが上がってきた。恐怖が、最後の燃料になって脚を動かしていた。
「もうすぐ平地になる」
ラモーヌが言った。
足の裏が、そう告げていた。斜面の角度が変わっていた。木々の間隔が、少しずつ広がっていた。川の気配が、下から来ていた。水が氷の下で流れている振動が、地面を通して届いていた。
信じてほしいと思ったわけではなかった。ただ、言わなければならない気がした。
ルドルフは前を向いたまま、握った手に力を込めた。
木々の間隔が広がった。足元の傾斜が緩んだ。それがわかった瞬間に、次の一歩が空を蹴った。
三人の身体が、宙に出た。
落ちる、と思った。
繋いだ手が千切れると思った。風が耳を劈いた。自分の声が出ているのかどうか、わからなかった。雪と空と地面が一緒くたになって、どこが上かわからなかった。
思った通り、落ちた。
*
三人の身体が、ほぼ同時に硬い平地に叩きつけられた。
雪が、衝撃を少しだけ和らげた。それでも全身に鈍い痛みが走った。ラモーヌは横向きに転がって、雪に半分埋もれた。顔の右半分が雪の中に入っていた。息ができなかった。一秒、二秒——それから、強引に肺が動いた。冷気が、一度に流れ込んできた。
生きている。
目を開けた。視界が傾いていた。起き上がろうとして、腕に体重をかけた。動いた。腕は動いた。脚を確かめた。痛みがある。でも動く。どこが痛いのか、どれくらい痛いのか、今は測らなかった。測れば時間がかかる。時間をかければ動けなくなる。——だから起き上がった。
落ちた先は深い雪に埋もれた河原だった。川面は厚い氷に覆われている。斜面を下りきったところで木々が途切れて、空が広く開けていた。遮るものがない分、吹雪が直接叩きつけてくる。頬に当たる雪粒が、砂のように痛かった。
ルドルフが顔から雪に突っ込んでいた。
ラモーヌは這いずるようにして移動した。一歩進む度に膝が雪に沈んだ。引き抜いて、また進んだ。ルドルフの肩に手をかけた。揺する。反応があった。両手を雪に押しつけて、腕で上半身を起こした。顔を上げた。深呼吸をした。肺に刺さるような冷気が入ってきた。それでも、息ができた。
生きている。その顔だった。
すぐ近くにシリウスが倒れていた。雪の上に倒れたまま動いていなかった。
「シリウス」
ラモーヌが呼んだ。シリウスの肩に手をかけた。揺すった。
反応があった。
肩が、細かく震えていた。唇が紫色になっている。外套を着ていたのに、全身が濡れていた。斜面を下りる途中で何度か雪に突っ込んでいた。濡れた衣服は、乾いた衣服の何倍もの速さで体温を奪う。
それでも、目が開いた。
「……走れる」
かすれた声で言った。
走れる状態には見えなかった。でも、今はその言葉だけを受け取ればいい。ラモーヌはシリウスの腕を肩に回した。立ち上がろうとした。一度崩れた。もう一度試みた。立てた。
ルドルフが立ち上がっていた。
膝が笑っていた。体重を預けるたびに、膝から下が勝手に揺れる。ワンピースが肩のところから大きく裂けていて、そこから冷気が直接入り込んでいた。頬の傷がまた開いたのか、顎に赤いものが垂れているのが、ラモーヌには見えた。
ルドルフの目が、足元に落ちていた。
一瞬だけ。
それから前を向き直した。足首のことを考えていた、とラモーヌにはわかった。考えて、考えるのをやめた。今は考えてはいけないとわかっているから、やめた。そういう目だった。
どこへ向かうか。
三人とも、まだその答えを持っていなかった。来た斜面には戻れない。羆がいる。川は氷に覆われている。渡れるかどうかわからない。渡れたとして、対岸に何があるかわからない。
吹雪が視界を削っていく。木々の向こうが見えない。メジロの屋敷が、どちらにあるのか。今の三人には、全くわからなかった。
その時、背後の斜面から音がした。
ズシン、と。
地面が揺れた。川面の氷が、ぴしりと鳴った。
振り返った。
雪煙の中から、黒い塊が降り立っていた。着地の姿勢のまま、しばらく動かなかった。頭を低く下げて、前脚で雪を踏みしめている。白い息が、口の端から漏れていた。
鼻が、動いた。
高く持ち上げて、空気を吸った。一度、また一度。ゆっくりと、確かめるように。三人の匂いを、測っていた。疲弊しているか。体温が落ちているか。逃げられる力が残っているか。その全てを、鼻が答えた。
答えが出た、というように——頭が、下がった。
攻撃前の姿勢だった。首から肩にかけての筋肉が、毛皮の下で盛り上がった。前脚が、雪を深く踏みしめた。爪が、河原の土まで届いた。
立ち上がった。
こちらを見た。
あの眼だった。怒っていない。興奮もしていない。ただ、確認している。まだそこにいる、と。斜面を下りてきた。三人を追ってきた。それだけで、もう十分だと言っている眼だった。急がなくていいと知っている眼だった。
近づいてきた。
一歩ごとに、地面が沈んだ。あの重さが、河原の雪を踏みしめるたびに、足の裏から這い上がってきた。止まったのは、目と鼻の先だった。
こんなに近いものを、ラモーヌは今まで見たことがなかった。
毛皮の匂いが、直接鼻を打った。息の熱が、頬に届いた。白い吐息が、ラモーヌの顔の前で広がって、消えた。遠くで見ていた時とは違った。この距離では、毛皮の下が見えた。呼吸のたびに、肋骨の形が浮き出る。皮膚の下で、筋肉が動いている。生きている。これは、生きている。そして今、自分たちを、食べようとしている。
口の端から、糸を引くものが垂れていた。
涎だった。
それを見た瞬間、ラモーヌの胃の底が、また一段冷えた。怒りでも、狂気でもない。ただの、空腹だった。自分たちは今、この存在にとって、食べ物として認識されている。その事実が、他のどんな恐怖よりも、静かに、深く刺さった。
それでも、目を逸らさなかった。
三人とも、あの眼から目を逸らさなかった。
逸らせば終わる。そうではないかもしれない。でも、身体がそう言っていた。この眼から目を逸らした瞬間に、何かが決まる。根拠はなかった。ただ、そう感じた。だから逸らさなかった。逸らせなかった、ではない。逸らさなかった。それだけが、今この瞬間に三人が選べる唯一のことだった。
羆が、後ろ足で立ち上がった。
頭が、高くなった。遠ざかったのではない。近いまま、高くなった。見上げなければならなかった。見上げた先に、あの眼があった。怒っていない。興奮もしていない。ただ、確認している。ここにいる、と。
動かなかった。
すぐには動かなかった。三人が膝をついたのを見た。動けなくなったのを見た。見届けてから——ゆっくりと、前脚を持ち上げた。急がなかった。急ぐ必要がないと、この存在は知っていた。
爪が、吹雪の中で黒く光った。
その時だった。
何かが、刺さった。
視線だった。羆の眼とは違う。怒りも、品定めもない。あの濁った眼が持つ「確信」とも違う。ただ、在る。それだけの視線だった。値踏みでも、敵意でもない。この場所に起きていることを、ただ正確に把握している——そういう視線が、吹雪の向こうから届いた。
羆の前脚が、一拍、止まった。
止まった理由が、自分たちにはわからなかった。わからなかったが、止まった。あれだけ迷いなく動いていたものが、初めて、動きを保留した。
風が来た。
吹雪でも突風でもない。ただ、空気の流れが変わった。雪の降り方が、一瞬だけ乱れた。それまで真っ直ぐ落ちていた雪片が、何かを避けるように軌道を曲げた。
ラモーヌの耳が、動いた。
伏せたままではなかった。音の方角へ、ゆっくりと、向いた。
足音がした。
獣の足音ではなかった。
それだけが、最初にわかったことだった。あの重さではない。あの振動ではない。死の縁で研ぎ澄まされた耳が、雪と吹雪の轟音を割って、何か異質なものを拾った。静かだった。この状況で聴こえること自体がおかしいほど、静かだった。規則的で、急いでいない。でも——近づくにつれて、その間隔が、ほんのわずかに縮まっていた。急いでいる、とは違った。ただ、少しだけ、速かった。雪を踏む音が、この場所へ向かってきていた。近づくにつれて、その質がわかってきた。雪の沈み方を知っている足音だった。踏み込む場所を選んでいる足音だった。無駄がなかった。
羆の前脚が、止まった。
振り上げたまま、止まった。爪が宙に止まっている。三人の真上へ向かっていた爪が、刺さるような何かを感じた瞬間から、止まっていた。
眼の向きが変わった。自分たちからではない、別の方角へ。
急いでいないのに、怖くない。
ラモーヌは、その足音を聞きながら思った。急いでいないのに、怖くない足音が、この世界にある。目の前に立つ羆の足音とは、違う。重さが違う。間隔が違う。何より——
白い帳を割って、人の形が現れた。
熊の毛皮を仕立てた外套を羽織った男だった。手に、太めの枯れ枝を持っていた。道すがら拾ったような、何の変哲もない枝だった。
その者は歩みを止めなかった。特に急いでいなかった。特に恐れている様子もなかった。ただ、この場所に来るべきだから来た、というだけの顔をしていた。
「逃げて」
ルドルフが叫んだ。声が割れた。喉が痛かった。
もう説明する余裕はなかった。熊がいると言う必要もなかった。目の前にいるのだから。それでも声が出た。出さずにはいられなかった。誰かに届けばいい。誰でもいい。この場所に、誰かがいるなら。
「逃げて」と、ルドルフは叫んだ。
助けを求める言葉ではなかった。幼くとも、他人を巻き込むことを彼女は選ばなかった。
もっとも——遭難してから今この瞬間まで、本心がどこにあったかは、また別の話である。