氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
飢え、退き、種を繋ぐ。それは完成された世界の理だから。
だが、少女たちのことは、わからない。
何を言えば、その震えが止まるのか。どの『記録』を紐解いても、解法は載っていないように思えた。
かつて、誰かにそうしたように。
とりあえず、温めることはできる。
それだけが、今できる、精一杯の「模倣」だった。
背中が、温かかった。
それだけが、最初にわかったことだった。
背負われている。自分の脚は動いていない。それなのに身体は前へ進んでいる。
そのことが、ひどく不思議だった。
少し前まで、一歩進むためには右足を出して、次に左足を出して、痛みに耐えて、それでももう一歩と考え続けなければならなかった。
今は違う。何もしなくても、景色が後ろへ流れていく。
毛皮の外套が、身体の両側を包んでいた。外の冷気は頬へ刺さるのに、胸と腹のあたりには届かない。
目の前には、男の肩。その向こうに、結い上げた黒髪。歩くたびに揺れている。
けれど、自分の身体はほとんど揺れなかった。
落ちない。
そう思った。
男の首へ回した腕に、ほとんど力が入っていない。それでも身体はずれなかった。落ちそうになるたびに自分でしがみつく必要がない。
落ちない。
もう一度、ルドルフは同じことを思った。
それだけのことが、胸の奥にあった何かを少しずつ緩めていった。
「……」
瞼が下がる。すぐに上げた。
眠ってはいけない。理由は、うまく説明できなかった。
羆が戻ってくるかもしれない。この男が何者なのかもわからない。帰る道もわからない。
それに、シリウスとラモーヌ。
二人がいる。ちゃんと、いる。確認しなければならない。
ルドルフは首を動かそうとした。男の肩越しに、後ろを見る。
白い雪。木。その間。
見えない。
「……シリウス」
声は思っていたより小さかった。
返事がない。
胸が急に縮む。
「シリウス?」
少しして、後ろから。
「……当たり前だろ」
掠れた声が返った。弱い。でも、シリウスの声だった。
「起きてる」
「……そっか」
力が抜ける。
次。
「ラモーヌは?」
今度はすぐに返事があった。
「いるわ」
ラモーヌの声。もっと小さい。けれど確かに聞こえた。
二人ともいる。三人いる。
ルドルフは前へ顔を戻した。
もう一度、自分で見たくなった。本当に二人がそこにいるのか。振り返って、目で確かめなければ安心できない。そう思った。
けれど、男の歩幅が、わずかに小さくなった。
最初は気のせいだと思った。少しして、また小さくなる。
男は振り返らない。それでも、後ろのシリウスが雪を踏む音と、男の足音の間隔が揃っていく。ラモーヌが遅れれば、また少し歩幅が変わる。
ルドルフは、そのことに気づいた。
この人は、二人を見ている。
目ではなくても。後ろを振り返らなくても。シリウスがどこにいるのか。ラモーヌがどれくらい歩けているのか。わかっている。
自分以外にも、二人を見ている人がいる。
その考えは、妙だった。
今日ずっと、そんなことはなかった。走り始めてから、自分が先頭にいた。振り返れば、シリウス。その向こう、ラモーヌ。二人ともいるか。離れていないか。転んでいないか。何度も、何度も確かめた。
自分が確かめなければ。そう思っていた。
今、自分は振り返っていない。それでも、二人の速度に合わせて、この人が歩いている。
ルドルフの額が、男の肩へ触れた。
離そうとした。やめた。そのまま、預けた。
温かかった。薪の煙に似た匂いがした。木の匂い。毛皮の匂い。
外にいたはずの人なのに、首筋まで冷えきってはいなかった。どうしてだろう。少しだけ考えた。答えが出る前に、考えることが面倒になった。
頭が、ひどく重い。足首は痛い。でも今は、自分で動かさなくてもいい。そのことの方が、痛みより近くにあった。
顔を、少しだけ外套へ埋める。
眠い。
駄目。
また、目を開ける。雪。男の肩。黒髪。同じものがある。
名前。
不意に、思った。
この人の名前を知らない。羆を退けた人。背負ってくれている人。どこかに家があると言った人。それ以上、何も知らない。名前すら聞いていない。
聞かなければ。そう思った。
けれど、声を出そうとした時、後ろで男とシリウスが何かを話していた。
「……あれ、羆なのか」
シリウスの声。男が答える。
「そうだ」
ルドルフは、その言葉を男の背中で聞いた。
羆。
口の中だけで、同じ音を作る。
ひぐま。
今日ずっと、自分たちが逃げてきたもの。熊。大きな熊。そうとしか呼んでいなかったものに、初めて細かな名前がついた。
名前がついても、怖いものは怖かった。あの匂いも。爪も。河原を歩いてくる足音も。何一つ変わらない。
でも、呼べる。
何だったのかわからないものではなく、この山にいる、羆という獣。
ほんの少しだけ、輪郭が戻った気がした。
「……羆」
小さく呟いた。男には聞こえなかったかもしれない。それでも、口にしてみた。
次の瞬間、また羆の前脚が浮かんだ。爪。あの男へ振り下ろされた。枯れ枝。硬い音。羆が退いた。
背中を掴んでいた指に、力が戻った。
男の歩き方は変わらない。羆の話をしているのに、変わらない。
怖くないのだろうか。
そう思った。その疑問は、眠気の中でも少しだけ残った。
*
光が見えた。
最初は、雪の間に何かが揺れているだけに見えた。橙色。小さい。
でも、近づくほど形ができていく。
窓。その向こう、灯り。
「……家?」
ルドルフが言った。
男が、
「ああ」
と答えた。それだけ。
本当に、家だった。壁がある。屋根がある。窓がある。
あの中には、風がない。
それを想像した途端、身体の力がまた少し抜けた。
眠い。今度こそ、瞼が閉じた。
一歩。揺れ。次。また、揺れ。
駄目だ。開ける。
光が、さっきより大きい。消えていない。
もう一度、閉じる。また、開ける。まだある。男もいる。自分はまだ背中にいる。落ちていない。
「……もうちょっと?」
後ろから、シリウスの声が聞こえた。
いつものシリウスなら、そんな訊き方はしない。
ルドルフは、それだけで、もう一度目を開けた。
男が答えた。
「もう少しだ」
安心させるような声音ではなかった。本当に、距離のことをそのまま言っただけの声。
なのに、ルドルフはその言葉を疑わなかった。
男の足が止まる。
目の前、扉。手が伸びる。木が軋む。
扉が開いた。
暖かい空気が、頬に触れた。
ルドルフは息を止めた。
冷たくない。雪が入ってこない。風も、顔を叩かない。
薪の匂い。乾いた木の匂い。火。
その匂いが、一度に鼻へ入ってきた。
外とは違う。そのことを、身体が先に理解した。
中、だった。
壁の内側。屋根の下。人が留まっていられる場所。
男が一歩、中へ入る。それと一緒に、ルドルフも扉を越えた。
足は地面に触れていない。自分で一歩を踏み出したわけでもない。
それでも、越えた。
外から中へ。雪が降る場所から、降らない場所へ。風が吹く場所から、壁のある場所へ。自分たちだけしかいなかったところから、誰かがいる場所へ。
その境目を、今度は誰かの背中に乗って越えた。
ルドルフは、ぼんやりとそのことを思った。
そして、目の奥が熱くなった。
泣こうとしたわけではない。泣く理由を考えたわけでもない。ただ、熱くなった。
男が身体を屈めた。降ろされる。そうわかった。
ルドルフの腕に、急に力が入った。自分でも驚くほど強く、男の外套を掴んだ。
「……」
何をしている。
落ちない。床はすぐ下にある。もう、背負われていなくてもいい。
頭ではわかっている。手だけが離れない。
男が、振り返ろうとはせず、言った。
「降ろすぞ」
ルドルフは返事ができなかった。
「足はつかなくていい」
続ける。
「座らせる」
その言葉を聞いて、指が少しだけ緩んだ。
男は急がなかった。ルドルフの手が外套から完全に離れるまで、そのまま待った。
それから、ゆっくり身体を下ろす。
木の床。右足、触れる。次、左。
「――っ」
足首から痛みが突き上がった。ルドルフの喉から声が漏れた。
男が、左足へ体重が乗る前に身体を支える。
「つかなくていい」
また、それだけ。
ルドルフは抵抗しなかった。
床へ座る。背中、壁。固い。けれど、冷たくない。
壁というものが、こんなにもありがたいと思ったことはなかった。
後ろから、シリウスも入ってくる。男の腕の中で目を開けていた。ラモーヌも、もう片方の腕へほとんど身体を預けている。
三人、いる。
ルドルフは数えた。一、シリウス。二、ラモーヌ。自分。
三人、いる。
扉が閉まる。
ごとん。
木と木がぶつかる音。
三人の耳が同時に動いた。シリウスの身体が男の腕の中で硬くなる。ラモーヌも扉を見る。ルドルフも見た。
羆。一瞬、思った。
扉の向こう。いない。何も来ない。
男だけが変わらない。扉の掛け金を、静かに下ろした。
ルドルフは、少しだけ息を吐いた。
*
部屋は広くなかった。
木の壁。木の床。天井。棚。机。椅子。それから、火。
薪ストーブの中で、橙色の炎が揺れている。
見たことのない場所だった。なのに、天井があるだけで安心した。
視線を上へ向けても、灰色の空がない。雪が落ちてこない。枝も、黒い影もない。
木目がある。節がある。ただの天井。それだけ。
男は、まず床へ厚い毛皮を敷いた。その上へシリウスを下ろす。
シリウスは自分で座ると言いたそうにした。けれど、膝が床へ触れた途端、顔が歪んだ。
「……っ」
男が支える。
シリウスは何も言わなかった。いつものように、平気だ、とは言わなかった。そのまま壁へ背を預ける。
次に、ラモーヌ。男から腕を離した瞬間、身体がわずかに傾いた。
ルドルフの心臓が跳ねる。
「ラモーヌ」
呼ぶより早く、男が肩を支えた。
「座れ」
ラモーヌは素直に頷いた。
「……ええ」
三人、並んだ。ルドルフ。シリウス。ラモーヌ。肩が触れる。
今日、何度こうして並んだだろう。森の中。木の根元。雪。河原。
でも、今は背後に壁がある。前には火がある。羆ではない。
それだけで、同じ並び方なのにまるで違った。
男は棚から何かを取り出した。毛布。厚い。毛皮を縫い合わせたもの。
一枚。シリウス。次、ラモーヌ。そして、ルドルフ。
肩へかかる。重い。でも、その重さが嫌ではなかった。むしろ、動かなくてもいいと押さえてくれているようだった。
毛布が触れた瞬間、シリウスの身体が大きく震えた。
細かな震え。次、また。歯が一度、小さく鳴る。
シリウスが、自分で驚いたように口を閉じた。
ルドルフは横から見ていた。
あのシリウスが震えている。
庭で競争した時、何でもルドルフへ張り合ってきた。森へ入ってからも、戻ろうと言った。羆から逃げ始めてからも、転んで、傷を作って、それでも一番先に立てと言った。
そのシリウスが、今、毛布の下で震えている。
怖かったのだ。
当たり前のことなのに、今になってはっきりわかった。
自分だけではない。シリウスも、怖かった。
隣。ラモーヌは毛布の端を両手で握っていた。大きな手袋。男から借りたもの。指先が余っている。それでもラモーヌは、その中で何度か指を動かそうとしていた。
男がそばへ来る。手袋を外した。
ルドルフの身体が少し強張る。ラモーヌは動かなかった。
男が両手を取る。包む。
ラモーヌの肩が、最初ほんの少し上がった。次に、落ちた。
「……あったかい」
小さな声。
男は返事をしなかった。そのまま手を包んでいる。
少しして、ラモーヌの耳が前へ向いた。
それだけ。でも、ルドルフにはわかった気がした。
ラモーヌはもう、この手を怖がっていない。
男は何も言っていない。優しい顔もしていない。笑ってもいない。ただ、冷えた手を温めている。それだけ。
ラモーヌも、それ以上のことを求めていないようだった。
男が手を離す。ラモーヌの耳が、ほんの少し伏せる。
それを見て、ルドルフはなぜか、胸の奥が少しだけ柔らかくなった。
ぱちん。
薪が音を立てた。
三人の身体が同時に跳ねた。ルドルフの手が毛布を掴む。シリウスが顔を上げる。ラモーヌの耳が扉へ向く。
男だけがストーブを見る。
火の中。薪が少し崩れただけだった。
何もない。誰も笑わない。
男も、大丈夫だ、とは言わない。ただ、火箸で薪の位置を直した。
橙色の炎が少し大きくなる。
ルドルフはその火を見た。揺れている。でも、消えていない。
*
男は、三人の濡れたものを一つずつ外していった。
シリウスの肩に掛けていた布。ラモーヌの手袋。濡れた靴。
ルドルフの左足だけは、特にゆっくりだった。紐を少しずつ緩める。
ルドルフはその手元を見ていた。
そして、訊かれる前に言った。
「……痛いです」
自分でも、少し驚いた。
河原では言えなかった。二度訊かれて、やっと出た言葉だった。それまではずっと、歩けます、と繰り返していた。
今は、先に出た。
男が顔を上げる。
「そうか」
それだけ答えた。
それ以上、何も聞かない。左足を無理に動かさない。布を丸めて下へ入れる。少し高くなる。
それだけで、脈打つ痛みがほんの少し遠くなった。
ルドルフは男を見る。
どうして、責めないのだろう。
どうして、何があったのか訊かないのだろう。
どうして森へ入ったのか。どうして大人の言うことを聞かなかったのか。どうしてこんなところまで来たのか。
訊かれて当然だと思った。
アサマなら、きっと、まず心配して、それから怒る。スピードシンボリも怒るだろう。約束した。言われたことは守れ。そう言われた。守らなかった。
なのに、この男は何も聞かない。
今は、足。手。顔。呼吸。それだけを見ている。
「……どうして」
声が出かかった。何を訊きたいのか、自分でもわからない。
男が見る。
ルドルフは首を振った。
「……何でもないです」
男は、
「そうか」
と答えた。また、それだけ。
ルドルフには少し気に入らなかった。少しくらい訊けばいいのに、そう思った。
同時に、今は訊かれなくてよかったとも思った。
二つの気持ちが一緒にあった。それが変だった。
ぱちん。
また、火が鳴る。
今度は、シリウスだけが顔を上げた。ラモーヌは動かなかった。ルドルフは扉を見かけて、途中でやめた。
火だ。わかった。
胸の奥が少しだけ戻る。
シリウスは、まだ男を見ていた。
男が棚へ行く。見る。戻ってくる。見る。火に薪を足す。見る。机から布を持ってくる。見る。
ずっと、目で追っている。
警戒している。ルドルフにはわかった。
シリウスはまだ、この人を信用していない。
羆を枯れ枝一本で退けた。普通ではない人。何者なのかわからない人。
それなのに、その人の掛けた毛布へ、シリウスの身体はどんどん沈んでいく。
目だけが追っている。瞼が少しずつ遅くなる。
男が火へ向く。シリウスの目、閉じる。すぐ、開く。また、男を見る。次、閉じる。今度は少し長い。開く。
そして、また閉じる。
「……シリウス?」
ルドルフが呼んだ。返事、ない。
胸が跳ねる。
「シリウス」
身体を起こそうとする。左足、痛む。
男がルドルフを見る。
「寝た」
「……」
ルドルフはシリウスを見る。
本当に。
怖くなる。眠っただけ。そう言われても、わからない。ずっと動いていた人が、動かない。
ルドルフはシリウスの胸を見る。
毛布。その下。少し、上がる。下がる。また、上がる。
息。している。
口元から、細く息が漏れる。
眠っている。ただ、眠っている。
そして、ルドルフは気づいた。
シリウスの顔は、まだ男の方を向いていた。眠る直前まで見ていた場所から、動いていない。
その手は、毛布の端を握ったままだった。もう片方は、ルドルフのワンピースの裾を掴んでいる。
いつから掴まれていたのか、わからなかった。
警戒したまま、寄りかかったまま、眠っている。
ルドルフはそれをしばらく見た。
胸が上下している。それだけ。それだけなのに、急に視界が滲んだ。
瞬きをする。何かが頬へ落ちた。温かかった。
涙だと、少ししてからわかった。
泣くつもりはなかった。怖かったからなのか、安心したからなのか、わからない。
ただ、シリウスが息をしている。生きている。それを見たら、勝手に出た。
ルドルフは手の甲で頬を拭いた。誰にも見られたくなかった。
男は何も言わなかった。見たのか、見ていないのかもわからない。
それがありがたかった。
反対側。ラモーヌを見る。
まだ起きている。けれど、さっきまでより呼吸が深い。目は火を見ている。
「ラモーヌ」
「なぁに」
「眠い?」
少し、間。
「……少し」
正直だった。
ルドルフは、
「そっか」
と言った。
ラモーヌの目が一度閉じる。開く。また、火を見る。
「寝ていいよ」
口から出た。
ラモーヌがルドルフを見る。
「ルドルフは?」
「私は起きてる」
すぐに答えた。
ラモーヌは少しだけ考える顔をした。
「そう」
それだけ。男と同じような返事だった。
ラモーヌは壁へ頭を預けた。目を閉じる。
ルドルフは待った。また開くかもしれない。
開かない。
呼吸。一つ。二つ。少しずつ、ゆっくりになる。
眠った。
シリウス、眠った。ラモーヌ、眠った。
三人のうち、起きているのは自分だけ。
その瞬間、ルドルフの背筋が伸びた。
起きていなければ、と思った。
誰かが起きていなければ。羆が戻ってくるかもしれない。扉の外。雪。森。河原。まだ羆はどこかにいる。
眠ってしまったら、音が聞こえない。二人が何かあってもわからない。火も消えるかもしれない。
だから、自分が起きていなければ。
そう思った。
*
男が何かをしている。
棚。机。火。三人、順番に見る。必要なものを一つずつ動かしている。
急がない。
羆の前でも急がなかった。雪の中でも急がなかった。今も同じ。
どうして、この人はあの羆が怖くなかったのだろう。
ルドルフはその疑問をずっと持っていた。眠気の中で一度は消えた。でも、また戻ってきた。
自分たちは逃げた。三人で、必死に走った。走って、転んで、また走った。
羆がどれほど怖いか、知っている。
あれを目の前にして、この男は逃げなかった。枝を一本、持っていただけ。
「……あの」
男が振り返る。
「何だ」
「羆」
口にする。まだ、その名前には慣れない。
「怖くなかったんですか」
男が少しだけ止まった。考えているようだった。
「怖かった」
ルドルフは目を瞬いた。
聞き間違えた。そう思った。
「……怖かった?」
「ああ」
「でも」
ルドルフは火を見る。それから、男。
「あそこに、いました」
「いたな」
「逃げなかった」
「そうだな」
「怖かったのに?」
男はまた少し考えた。今度は先ほどより長かった。
「お前たちがいたからな」
「……私たち?」
「ああ」
それだけ。
ルドルフはわからなかった。
自分たちがいたら、どうして怖い羆から逃げなくなるのだろう。
むしろ、自分たちは足手まといだった。逃げられない。戦えない。三人とも動けなかった。
そんな自分たちがいたから、逃げなかった。
意味がうまく繋がらない。
「それだけですか」
「それだけだ」
男は本当に、それ以上の理由を持っていないように言った。
ルドルフは火へ視線を戻した。
怖かった。でも、逃げなかった。自分たちがいたから。
わからない。
そのまま、胸の中へ置いた。
あとで考えよう。明日。それとも、もっと大きくなってから。その時、わかるかもしれない。
今は眠かった。ひどく、眠い。
瞼がまた閉じる。駄目。開ける。
男が火の前にいる。
「眠いか」
訊かれた。ルドルフはすぐに答えた。
「……眠くないです」
男がルドルフを見る。
目。たぶん、半分しか開いていない。自分でもわかる。
男はそれを指摘しなかった。
「そうか」
それだけ。
ルドルフは少し不満だった。眠いでしょう。寝ていい。そう言えばいいのに、と思った。
でも、男は言わない。
代わりに、ルドルフの毛布が肩から少し落ちているのを直した。首元まで掛ける。
温かい。
また、瞼が下がる。目を開ける。まだ、男がいる。
一つ、聞いていない。大事なこと。
眠ってしまう前に、聞かなければ。
ルドルフは口を開いた。
「名前は」
声が小さい。
男が振り返る。
ルドルフはもう一度言った。
「名前は、何ですか」
男は少しだけ考えた。
その間が不思議だった。自分の名前なのに、思い出しているような。どこから答えればいいか選んでいるような。そんな間。
「……小鳥遊」
言った。それから、ほんの少し遅れて。
「七詩」
ルドルフはその音を聞いた。
たかなし。ななし。
一度、頭の中で並べる。
消えそうだった。眠気に持っていかれそうになる。だから、口にする。
「……たかなし、ななし」
「そうだ」
頷いた。それだけ。
小鳥遊七詩。
名前。あった。
羆にも名前がついた。この人にも名前がついた。
今日ずっと、名前も知らないものに追われた。少し前まで、名前も知らない人の背中にいた。
でも、今は違う。
羆。そして、小鳥遊七詩。
怖いものと、怖くないもの。その二つに名前がある。
ルドルフはなぜか、それだけで少し安心した。
七詩は火の方へ戻った。
ルドルフはその背中を見る。
男。ではない。七詩。
名前を知っただけ。何をしている人なのか、まだ知らない。どうして羆を退けられたのかも知らない。なぜこんな山に一人でいるのかも知らない。
知らないことばかり。
それでも、さっきまでとは少し違う。
呼べる。
もし、いなくなりそうになったら、名前を呼べる。
そう思った。
「……七詩さん」
試すように、声にした。
七詩が振り返る。
「何だ」
本当に、振り返った。
ルドルフはそのことに少し驚いた。
呼べば、振り返る。当たり前のこと。なのに今は、とても大事なことのように思えた。
ありがとう。
言おうとした。喉まで来た。
助けてくれて、ありがとう。羆を退けてくれて、ありがとう。背負ってくれて、ありがとう。シリウスを、ラモーヌを、ここまで連れてきてくれて、ありがとう。
たくさんある。
だからこそ、口から出す一つのありがとうが、小さすぎる気がした。
ルドルフは黙った。
七詩も待った。急かさない。
「……何でもないです」
結局、そう言った。
「そうか」
また、同じ返事。
七詩は火へ向き直った。
ルドルフは少しだけほっとした。
ありがとうは、明日言えばいい。
明日。
そう思った。
その言葉に、胸が止まる。
明日。ある。
さっきまで、そんなことを考えていなかった。
羆の前。河原。爪。あの時。次の瞬間。それしかなかった。
明日というものが、なかった。
でも、今。明日、言えばいい。そう思った。
それはつまり、自分の中に明日が戻ってきた、ということなのかもしれなかった。
そんな難しいことを考える前に、また眠気が来た。
*
ぱちん。
火が鳴った。
ルドルフの耳が少しだけ動いた。それだけだった。扉は見なかった。
火。わかっていた。
シリウス、眠っている。ラモーヌ、眠っている。七詩、起きている。火、燃えている。
自分も、起きている。まだ、大丈夫。
瞼、閉じる。少しして、開く。
七詩は同じ場所にいる。何か乾いた布を畳んでいる。火、燃えている。
目を閉じる。また、開ける。
七詩がストーブへ薪を一本入れる。橙色が一度大きくなる。
火は消えていない。
自分が見ていなかった間も、燃えていた。
ルドルフは、そのことをぼんやりと受け取った。
自分が見ていなくても、火は消えない。
七詩が見ている。いや、見ているのかどうか、それすらわからない。
でも、薪が足される。毛布がずれれば直される。シリウスが少し身体を動かす。七詩がそちらを見る。ラモーヌの手が毛布から出る。また中へ戻される。
自分が何もしなくても、二人はそこにいる。
自分が見張っていなくても、誰かがいる。
ルドルフの肩から力が抜ける。
もう、首を起こしていられない。
壁へ頭を預ける。目を閉じる。
駄目。まだ。お礼、言っていない。
でも、明日。明日、言える。
シリウスにも、ラモーヌにも、言わなければならないことがある。ごめん。ありがとう。たぶん、どちらも言う。
でも、それも明日。
今は、身体がもう聞いてくれない。
起きていたい、と思う。目は閉じる。開こうとする。開かない。
怖い。ほんの少し思った。
眠ったら、また雪の中かもしれない。目を開けたら、羆がいるかもしれない。
でも、最後に見えたのは火だった。
橙色。揺れている。その向こう、七詩。まだ、いる。
ぱちん。
薪が小さく鳴る。
今度は誰も動かなかった。ルドルフも目を開けなかった。
火は揺れていた。揺れながら、消えなかった。
外では雪が降っている。風も吹いている。羆がどこかにいる。
それでも、ここには壁があった。火があった。毛布があった。シリウスがいた。ラモーヌがいた。
そして、もう一人。名前を知っている人がいた。
小鳥遊七詩。
その名前を忘れないように、最後にもう一度、頭の中で呼んだ。
それで、十分だった。
2026/10/05
本文加筆。