氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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羆のことは、わかる。
飢え、退き、種を繋ぐ。それは完成された世界の理だから。
だが、少女たちのことは、わからない。
何を言えば、その震えが止まるのか。どの『記録』を紐解いても、解法は載っていないように思えた。
かつて、誰かにそうしたように。
とりあえず、温めることはできる。
それだけが、今できる、精一杯の「模倣」だった。


01-七.「名前は」

背中が、温かかった。

 

それだけが、最初にわかったことだった。

 

背負われている。自分の脚は動いていない。それなのに身体は前へ進んでいる。

 

そのことが、ひどく不思議だった。

 

少し前まで、一歩進むためには右足を出して、次に左足を出して、痛みに耐えて、それでももう一歩と考え続けなければならなかった。

 

今は違う。何もしなくても、景色が後ろへ流れていく。

 

毛皮の外套が、身体の両側を包んでいた。外の冷気は頬へ刺さるのに、胸と腹のあたりには届かない。

 

目の前には、男の肩。その向こうに、結い上げた黒髪。歩くたびに揺れている。

 

けれど、自分の身体はほとんど揺れなかった。

 

落ちない。

 

そう思った。

 

男の首へ回した腕に、ほとんど力が入っていない。それでも身体はずれなかった。落ちそうになるたびに自分でしがみつく必要がない。

 

落ちない。

 

もう一度、ルドルフは同じことを思った。

 

それだけのことが、胸の奥にあった何かを少しずつ緩めていった。

 

「……」

 

瞼が下がる。すぐに上げた。

 

眠ってはいけない。理由は、うまく説明できなかった。

 

羆が戻ってくるかもしれない。この男が何者なのかもわからない。帰る道もわからない。

 

それに、シリウスとラモーヌ。

 

二人がいる。ちゃんと、いる。確認しなければならない。

 

ルドルフは首を動かそうとした。男の肩越しに、後ろを見る。

 

白い雪。木。その間。

 

見えない。

 

「……シリウス」

 

声は思っていたより小さかった。

 

返事がない。

 

胸が急に縮む。

 

「シリウス?」

 

少しして、後ろから。

 

「……当たり前だろ」

 

掠れた声が返った。弱い。でも、シリウスの声だった。

 

「起きてる」

 

「……そっか」

 

力が抜ける。

 

次。

 

「ラモーヌは?」

 

今度はすぐに返事があった。

 

「いるわ」

 

ラモーヌの声。もっと小さい。けれど確かに聞こえた。

 

二人ともいる。三人いる。

 

ルドルフは前へ顔を戻した。

 

もう一度、自分で見たくなった。本当に二人がそこにいるのか。振り返って、目で確かめなければ安心できない。そう思った。

 

けれど、男の歩幅が、わずかに小さくなった。

 

最初は気のせいだと思った。少しして、また小さくなる。

 

男は振り返らない。それでも、後ろのシリウスが雪を踏む音と、男の足音の間隔が揃っていく。ラモーヌが遅れれば、また少し歩幅が変わる。

 

ルドルフは、そのことに気づいた。

 

この人は、二人を見ている。

 

目ではなくても。後ろを振り返らなくても。シリウスがどこにいるのか。ラモーヌがどれくらい歩けているのか。わかっている。

 

自分以外にも、二人を見ている人がいる。

 

その考えは、妙だった。

 

今日ずっと、そんなことはなかった。走り始めてから、自分が先頭にいた。振り返れば、シリウス。その向こう、ラモーヌ。二人ともいるか。離れていないか。転んでいないか。何度も、何度も確かめた。

 

自分が確かめなければ。そう思っていた。

 

今、自分は振り返っていない。それでも、二人の速度に合わせて、この人が歩いている。

 

ルドルフの額が、男の肩へ触れた。

 

離そうとした。やめた。そのまま、預けた。

 

温かかった。薪の煙に似た匂いがした。木の匂い。毛皮の匂い。

 

外にいたはずの人なのに、首筋まで冷えきってはいなかった。どうしてだろう。少しだけ考えた。答えが出る前に、考えることが面倒になった。

 

頭が、ひどく重い。足首は痛い。でも今は、自分で動かさなくてもいい。そのことの方が、痛みより近くにあった。

 

顔を、少しだけ外套へ埋める。

 

眠い。

 

駄目。

 

また、目を開ける。雪。男の肩。黒髪。同じものがある。

 

名前。

 

不意に、思った。

 

この人の名前を知らない。羆を退けた人。背負ってくれている人。どこかに家があると言った人。それ以上、何も知らない。名前すら聞いていない。

 

聞かなければ。そう思った。

 

けれど、声を出そうとした時、後ろで男とシリウスが何かを話していた。

 

「……あれ、羆なのか」

 

シリウスの声。男が答える。

 

「そうだ」

 

ルドルフは、その言葉を男の背中で聞いた。

 

羆。

 

口の中だけで、同じ音を作る。

 

ひぐま。

 

今日ずっと、自分たちが逃げてきたもの。熊。大きな熊。そうとしか呼んでいなかったものに、初めて細かな名前がついた。

 

名前がついても、怖いものは怖かった。あの匂いも。爪も。河原を歩いてくる足音も。何一つ変わらない。

 

でも、呼べる。

 

何だったのかわからないものではなく、この山にいる、羆という獣。

 

ほんの少しだけ、輪郭が戻った気がした。

 

「……羆」

 

小さく呟いた。男には聞こえなかったかもしれない。それでも、口にしてみた。

 

次の瞬間、また羆の前脚が浮かんだ。爪。あの男へ振り下ろされた。枯れ枝。硬い音。羆が退いた。

 

背中を掴んでいた指に、力が戻った。

 

男の歩き方は変わらない。羆の話をしているのに、変わらない。

 

怖くないのだろうか。

 

そう思った。その疑問は、眠気の中でも少しだけ残った。

 

 

    *

 

 

光が見えた。

 

最初は、雪の間に何かが揺れているだけに見えた。橙色。小さい。

 

でも、近づくほど形ができていく。

 

窓。その向こう、灯り。

 

「……家?」

 

ルドルフが言った。

 

男が、

 

「ああ」

 

と答えた。それだけ。

 

本当に、家だった。壁がある。屋根がある。窓がある。

 

あの中には、風がない。

 

それを想像した途端、身体の力がまた少し抜けた。

 

眠い。今度こそ、瞼が閉じた。

 

一歩。揺れ。次。また、揺れ。

 

駄目だ。開ける。

 

光が、さっきより大きい。消えていない。

 

もう一度、閉じる。また、開ける。まだある。男もいる。自分はまだ背中にいる。落ちていない。

 

「……もうちょっと?」

 

後ろから、シリウスの声が聞こえた。

 

いつものシリウスなら、そんな訊き方はしない。

 

ルドルフは、それだけで、もう一度目を開けた。

 

男が答えた。

 

「もう少しだ」

 

安心させるような声音ではなかった。本当に、距離のことをそのまま言っただけの声。

 

なのに、ルドルフはその言葉を疑わなかった。

 

男の足が止まる。

 

目の前、扉。手が伸びる。木が軋む。

 

扉が開いた。

 

暖かい空気が、頬に触れた。

 

ルドルフは息を止めた。

 

冷たくない。雪が入ってこない。風も、顔を叩かない。

 

薪の匂い。乾いた木の匂い。火。

 

その匂いが、一度に鼻へ入ってきた。

 

外とは違う。そのことを、身体が先に理解した。

 

中、だった。

 

壁の内側。屋根の下。人が留まっていられる場所。

 

男が一歩、中へ入る。それと一緒に、ルドルフも扉を越えた。

 

足は地面に触れていない。自分で一歩を踏み出したわけでもない。

 

それでも、越えた。

 

外から中へ。雪が降る場所から、降らない場所へ。風が吹く場所から、壁のある場所へ。自分たちだけしかいなかったところから、誰かがいる場所へ。

 

その境目を、今度は誰かの背中に乗って越えた。

 

ルドルフは、ぼんやりとそのことを思った。

 

そして、目の奥が熱くなった。

 

泣こうとしたわけではない。泣く理由を考えたわけでもない。ただ、熱くなった。

 

男が身体を屈めた。降ろされる。そうわかった。

 

ルドルフの腕に、急に力が入った。自分でも驚くほど強く、男の外套を掴んだ。

 

「……」

 

何をしている。

 

落ちない。床はすぐ下にある。もう、背負われていなくてもいい。

 

頭ではわかっている。手だけが離れない。

 

男が、振り返ろうとはせず、言った。

 

「降ろすぞ」

 

ルドルフは返事ができなかった。

 

「足はつかなくていい」

 

続ける。

 

「座らせる」

 

その言葉を聞いて、指が少しだけ緩んだ。

 

男は急がなかった。ルドルフの手が外套から完全に離れるまで、そのまま待った。

 

それから、ゆっくり身体を下ろす。

 

木の床。右足、触れる。次、左。

 

「――っ」

 

足首から痛みが突き上がった。ルドルフの喉から声が漏れた。

 

男が、左足へ体重が乗る前に身体を支える。

 

「つかなくていい」

 

また、それだけ。

 

ルドルフは抵抗しなかった。

 

床へ座る。背中、壁。固い。けれど、冷たくない。

 

壁というものが、こんなにもありがたいと思ったことはなかった。

 

後ろから、シリウスも入ってくる。男の腕の中で目を開けていた。ラモーヌも、もう片方の腕へほとんど身体を預けている。

 

三人、いる。

 

ルドルフは数えた。一、シリウス。二、ラモーヌ。自分。

 

三人、いる。

 

扉が閉まる。

 

ごとん。

 

木と木がぶつかる音。

 

三人の耳が同時に動いた。シリウスの身体が男の腕の中で硬くなる。ラモーヌも扉を見る。ルドルフも見た。

 

羆。一瞬、思った。

 

扉の向こう。いない。何も来ない。

 

男だけが変わらない。扉の掛け金を、静かに下ろした。

 

ルドルフは、少しだけ息を吐いた。

 

 

    *

 

 

部屋は広くなかった。

 

木の壁。木の床。天井。棚。机。椅子。それから、火。

 

薪ストーブの中で、橙色の炎が揺れている。

 

見たことのない場所だった。なのに、天井があるだけで安心した。

 

視線を上へ向けても、灰色の空がない。雪が落ちてこない。枝も、黒い影もない。

 

木目がある。節がある。ただの天井。それだけ。

 

男は、まず床へ厚い毛皮を敷いた。その上へシリウスを下ろす。

 

シリウスは自分で座ると言いたそうにした。けれど、膝が床へ触れた途端、顔が歪んだ。

 

「……っ」

 

男が支える。

 

シリウスは何も言わなかった。いつものように、平気だ、とは言わなかった。そのまま壁へ背を預ける。

 

次に、ラモーヌ。男から腕を離した瞬間、身体がわずかに傾いた。

 

ルドルフの心臓が跳ねる。

 

「ラモーヌ」

 

呼ぶより早く、男が肩を支えた。

 

「座れ」

 

ラモーヌは素直に頷いた。

 

「……ええ」

 

三人、並んだ。ルドルフ。シリウス。ラモーヌ。肩が触れる。

 

今日、何度こうして並んだだろう。森の中。木の根元。雪。河原。

 

でも、今は背後に壁がある。前には火がある。羆ではない。

 

それだけで、同じ並び方なのにまるで違った。

 

男は棚から何かを取り出した。毛布。厚い。毛皮を縫い合わせたもの。

 

一枚。シリウス。次、ラモーヌ。そして、ルドルフ。

 

肩へかかる。重い。でも、その重さが嫌ではなかった。むしろ、動かなくてもいいと押さえてくれているようだった。

 

毛布が触れた瞬間、シリウスの身体が大きく震えた。

 

細かな震え。次、また。歯が一度、小さく鳴る。

 

シリウスが、自分で驚いたように口を閉じた。

 

ルドルフは横から見ていた。

 

あのシリウスが震えている。

 

庭で競争した時、何でもルドルフへ張り合ってきた。森へ入ってからも、戻ろうと言った。羆から逃げ始めてからも、転んで、傷を作って、それでも一番先に立てと言った。

 

そのシリウスが、今、毛布の下で震えている。

 

怖かったのだ。

 

当たり前のことなのに、今になってはっきりわかった。

 

自分だけではない。シリウスも、怖かった。

 

隣。ラモーヌは毛布の端を両手で握っていた。大きな手袋。男から借りたもの。指先が余っている。それでもラモーヌは、その中で何度か指を動かそうとしていた。

 

男がそばへ来る。手袋を外した。

 

ルドルフの身体が少し強張る。ラモーヌは動かなかった。

 

男が両手を取る。包む。

 

ラモーヌの肩が、最初ほんの少し上がった。次に、落ちた。

 

「……あったかい」

 

小さな声。

 

男は返事をしなかった。そのまま手を包んでいる。

 

少しして、ラモーヌの耳が前へ向いた。

 

それだけ。でも、ルドルフにはわかった気がした。

 

ラモーヌはもう、この手を怖がっていない。

 

男は何も言っていない。優しい顔もしていない。笑ってもいない。ただ、冷えた手を温めている。それだけ。

 

ラモーヌも、それ以上のことを求めていないようだった。

 

男が手を離す。ラモーヌの耳が、ほんの少し伏せる。

 

それを見て、ルドルフはなぜか、胸の奥が少しだけ柔らかくなった。

 

ぱちん。

 

薪が音を立てた。

 

三人の身体が同時に跳ねた。ルドルフの手が毛布を掴む。シリウスが顔を上げる。ラモーヌの耳が扉へ向く。

 

男だけがストーブを見る。

 

火の中。薪が少し崩れただけだった。

 

何もない。誰も笑わない。

 

男も、大丈夫だ、とは言わない。ただ、火箸で薪の位置を直した。

 

橙色の炎が少し大きくなる。

 

ルドルフはその火を見た。揺れている。でも、消えていない。

 

 

    *

 

 

男は、三人の濡れたものを一つずつ外していった。

 

シリウスの肩に掛けていた布。ラモーヌの手袋。濡れた靴。

 

ルドルフの左足だけは、特にゆっくりだった。紐を少しずつ緩める。

 

ルドルフはその手元を見ていた。

 

そして、訊かれる前に言った。

 

「……痛いです」

 

自分でも、少し驚いた。

 

河原では言えなかった。二度訊かれて、やっと出た言葉だった。それまではずっと、歩けます、と繰り返していた。

 

今は、先に出た。

 

男が顔を上げる。

 

「そうか」

 

それだけ答えた。

 

それ以上、何も聞かない。左足を無理に動かさない。布を丸めて下へ入れる。少し高くなる。

 

それだけで、脈打つ痛みがほんの少し遠くなった。

 

ルドルフは男を見る。

 

どうして、責めないのだろう。

 

どうして、何があったのか訊かないのだろう。

 

どうして森へ入ったのか。どうして大人の言うことを聞かなかったのか。どうしてこんなところまで来たのか。

 

訊かれて当然だと思った。

 

アサマなら、きっと、まず心配して、それから怒る。スピードシンボリも怒るだろう。約束した。言われたことは守れ。そう言われた。守らなかった。

 

なのに、この男は何も聞かない。

 

今は、足。手。顔。呼吸。それだけを見ている。

 

「……どうして」

 

声が出かかった。何を訊きたいのか、自分でもわからない。

 

男が見る。

 

ルドルフは首を振った。

 

「……何でもないです」

 

男は、

 

「そうか」

 

と答えた。また、それだけ。

 

ルドルフには少し気に入らなかった。少しくらい訊けばいいのに、そう思った。

 

同時に、今は訊かれなくてよかったとも思った。

 

二つの気持ちが一緒にあった。それが変だった。

 

ぱちん。

 

また、火が鳴る。

 

今度は、シリウスだけが顔を上げた。ラモーヌは動かなかった。ルドルフは扉を見かけて、途中でやめた。

 

火だ。わかった。

 

胸の奥が少しだけ戻る。

 

シリウスは、まだ男を見ていた。

 

男が棚へ行く。見る。戻ってくる。見る。火に薪を足す。見る。机から布を持ってくる。見る。

 

ずっと、目で追っている。

 

警戒している。ルドルフにはわかった。

 

シリウスはまだ、この人を信用していない。

 

羆を枯れ枝一本で退けた。普通ではない人。何者なのかわからない人。

 

それなのに、その人の掛けた毛布へ、シリウスの身体はどんどん沈んでいく。

 

目だけが追っている。瞼が少しずつ遅くなる。

 

男が火へ向く。シリウスの目、閉じる。すぐ、開く。また、男を見る。次、閉じる。今度は少し長い。開く。

 

そして、また閉じる。

 

「……シリウス?」

 

ルドルフが呼んだ。返事、ない。

 

胸が跳ねる。

 

「シリウス」

 

身体を起こそうとする。左足、痛む。

 

男がルドルフを見る。

 

「寝た」

 

「……」

 

ルドルフはシリウスを見る。

 

本当に。

 

怖くなる。眠っただけ。そう言われても、わからない。ずっと動いていた人が、動かない。

 

ルドルフはシリウスの胸を見る。

 

毛布。その下。少し、上がる。下がる。また、上がる。

 

息。している。

 

口元から、細く息が漏れる。

 

眠っている。ただ、眠っている。

 

そして、ルドルフは気づいた。

 

シリウスの顔は、まだ男の方を向いていた。眠る直前まで見ていた場所から、動いていない。

 

その手は、毛布の端を握ったままだった。もう片方は、ルドルフのワンピースの裾を掴んでいる。

 

いつから掴まれていたのか、わからなかった。

 

警戒したまま、寄りかかったまま、眠っている。

 

ルドルフはそれをしばらく見た。

 

胸が上下している。それだけ。それだけなのに、急に視界が滲んだ。

 

瞬きをする。何かが頬へ落ちた。温かかった。

 

涙だと、少ししてからわかった。

 

泣くつもりはなかった。怖かったからなのか、安心したからなのか、わからない。

 

ただ、シリウスが息をしている。生きている。それを見たら、勝手に出た。

 

ルドルフは手の甲で頬を拭いた。誰にも見られたくなかった。

 

男は何も言わなかった。見たのか、見ていないのかもわからない。

 

それがありがたかった。

 

反対側。ラモーヌを見る。

 

まだ起きている。けれど、さっきまでより呼吸が深い。目は火を見ている。

 

「ラモーヌ」

 

「なぁに」

 

「眠い?」

 

少し、間。

 

「……少し」

 

正直だった。

 

ルドルフは、

 

「そっか」

 

と言った。

 

ラモーヌの目が一度閉じる。開く。また、火を見る。

 

「寝ていいよ」

 

口から出た。

 

ラモーヌがルドルフを見る。

 

「ルドルフは?」

 

「私は起きてる」

 

すぐに答えた。

 

ラモーヌは少しだけ考える顔をした。

 

「そう」

 

それだけ。男と同じような返事だった。

 

ラモーヌは壁へ頭を預けた。目を閉じる。

 

ルドルフは待った。また開くかもしれない。

 

開かない。

 

呼吸。一つ。二つ。少しずつ、ゆっくりになる。

 

眠った。

 

シリウス、眠った。ラモーヌ、眠った。

 

三人のうち、起きているのは自分だけ。

 

その瞬間、ルドルフの背筋が伸びた。

 

起きていなければ、と思った。

 

誰かが起きていなければ。羆が戻ってくるかもしれない。扉の外。雪。森。河原。まだ羆はどこかにいる。

 

眠ってしまったら、音が聞こえない。二人が何かあってもわからない。火も消えるかもしれない。

 

だから、自分が起きていなければ。

 

そう思った。

 

 

    *

 

 

男が何かをしている。

 

棚。机。火。三人、順番に見る。必要なものを一つずつ動かしている。

 

急がない。

 

羆の前でも急がなかった。雪の中でも急がなかった。今も同じ。

 

どうして、この人はあの羆が怖くなかったのだろう。

 

ルドルフはその疑問をずっと持っていた。眠気の中で一度は消えた。でも、また戻ってきた。

 

自分たちは逃げた。三人で、必死に走った。走って、転んで、また走った。

 

羆がどれほど怖いか、知っている。

 

あれを目の前にして、この男は逃げなかった。枝を一本、持っていただけ。

 

「……あの」

 

男が振り返る。

 

「何だ」

 

「羆」

 

口にする。まだ、その名前には慣れない。

 

「怖くなかったんですか」

 

男が少しだけ止まった。考えているようだった。

 

「怖かった」

 

ルドルフは目を瞬いた。

 

聞き間違えた。そう思った。

 

「……怖かった?」

 

「ああ」

 

「でも」

 

ルドルフは火を見る。それから、男。

 

「あそこに、いました」

 

「いたな」

 

「逃げなかった」

 

「そうだな」

 

「怖かったのに?」

 

男はまた少し考えた。今度は先ほどより長かった。

 

「お前たちがいたからな」

 

「……私たち?」

 

「ああ」

 

それだけ。

 

ルドルフはわからなかった。

 

自分たちがいたら、どうして怖い羆から逃げなくなるのだろう。

 

むしろ、自分たちは足手まといだった。逃げられない。戦えない。三人とも動けなかった。

 

そんな自分たちがいたから、逃げなかった。

 

意味がうまく繋がらない。

 

「それだけですか」

 

「それだけだ」

 

男は本当に、それ以上の理由を持っていないように言った。

 

ルドルフは火へ視線を戻した。

 

怖かった。でも、逃げなかった。自分たちがいたから。

 

わからない。

 

そのまま、胸の中へ置いた。

 

あとで考えよう。明日。それとも、もっと大きくなってから。その時、わかるかもしれない。

 

今は眠かった。ひどく、眠い。

 

瞼がまた閉じる。駄目。開ける。

 

男が火の前にいる。

 

「眠いか」

 

訊かれた。ルドルフはすぐに答えた。

 

「……眠くないです」

 

男がルドルフを見る。

 

目。たぶん、半分しか開いていない。自分でもわかる。

 

男はそれを指摘しなかった。

 

「そうか」

 

それだけ。

 

ルドルフは少し不満だった。眠いでしょう。寝ていい。そう言えばいいのに、と思った。

 

でも、男は言わない。

 

代わりに、ルドルフの毛布が肩から少し落ちているのを直した。首元まで掛ける。

 

温かい。

 

また、瞼が下がる。目を開ける。まだ、男がいる。

 

一つ、聞いていない。大事なこと。

 

眠ってしまう前に、聞かなければ。

 

ルドルフは口を開いた。

 

「名前は」

 

声が小さい。

 

男が振り返る。

 

ルドルフはもう一度言った。

 

「名前は、何ですか」

 

男は少しだけ考えた。

 

その間が不思議だった。自分の名前なのに、思い出しているような。どこから答えればいいか選んでいるような。そんな間。

 

「……小鳥遊」

 

言った。それから、ほんの少し遅れて。

 

「七詩」

 

ルドルフはその音を聞いた。

 

たかなし。ななし。

 

一度、頭の中で並べる。

 

消えそうだった。眠気に持っていかれそうになる。だから、口にする。

 

「……たかなし、ななし」

 

「そうだ」

 

頷いた。それだけ。

 

小鳥遊七詩。

 

名前。あった。

 

羆にも名前がついた。この人にも名前がついた。

 

今日ずっと、名前も知らないものに追われた。少し前まで、名前も知らない人の背中にいた。

 

でも、今は違う。

 

羆。そして、小鳥遊七詩。

 

怖いものと、怖くないもの。その二つに名前がある。

 

ルドルフはなぜか、それだけで少し安心した。

 

七詩は火の方へ戻った。

 

ルドルフはその背中を見る。

 

男。ではない。七詩。

 

名前を知っただけ。何をしている人なのか、まだ知らない。どうして羆を退けられたのかも知らない。なぜこんな山に一人でいるのかも知らない。

 

知らないことばかり。

 

それでも、さっきまでとは少し違う。

 

呼べる。

 

もし、いなくなりそうになったら、名前を呼べる。

 

そう思った。

 

「……七詩さん」

 

試すように、声にした。

 

七詩が振り返る。

 

「何だ」

 

本当に、振り返った。

 

ルドルフはそのことに少し驚いた。

 

呼べば、振り返る。当たり前のこと。なのに今は、とても大事なことのように思えた。

 

ありがとう。

 

言おうとした。喉まで来た。

 

助けてくれて、ありがとう。羆を退けてくれて、ありがとう。背負ってくれて、ありがとう。シリウスを、ラモーヌを、ここまで連れてきてくれて、ありがとう。

 

たくさんある。

 

だからこそ、口から出す一つのありがとうが、小さすぎる気がした。

 

ルドルフは黙った。

 

七詩も待った。急かさない。

 

「……何でもないです」

 

結局、そう言った。

 

「そうか」

 

また、同じ返事。

 

七詩は火へ向き直った。

 

ルドルフは少しだけほっとした。

 

ありがとうは、明日言えばいい。

 

明日。

 

そう思った。

 

その言葉に、胸が止まる。

 

明日。ある。

 

さっきまで、そんなことを考えていなかった。

 

羆の前。河原。爪。あの時。次の瞬間。それしかなかった。

 

明日というものが、なかった。

 

でも、今。明日、言えばいい。そう思った。

 

それはつまり、自分の中に明日が戻ってきた、ということなのかもしれなかった。

 

そんな難しいことを考える前に、また眠気が来た。

 

 

    *

 

 

ぱちん。

 

火が鳴った。

 

ルドルフの耳が少しだけ動いた。それだけだった。扉は見なかった。

 

火。わかっていた。

 

シリウス、眠っている。ラモーヌ、眠っている。七詩、起きている。火、燃えている。

 

自分も、起きている。まだ、大丈夫。

 

瞼、閉じる。少しして、開く。

 

七詩は同じ場所にいる。何か乾いた布を畳んでいる。火、燃えている。

 

目を閉じる。また、開ける。

 

七詩がストーブへ薪を一本入れる。橙色が一度大きくなる。

 

火は消えていない。

 

自分が見ていなかった間も、燃えていた。

 

ルドルフは、そのことをぼんやりと受け取った。

 

自分が見ていなくても、火は消えない。

 

七詩が見ている。いや、見ているのかどうか、それすらわからない。

 

でも、薪が足される。毛布がずれれば直される。シリウスが少し身体を動かす。七詩がそちらを見る。ラモーヌの手が毛布から出る。また中へ戻される。

 

自分が何もしなくても、二人はそこにいる。

 

自分が見張っていなくても、誰かがいる。

 

ルドルフの肩から力が抜ける。

 

もう、首を起こしていられない。

 

壁へ頭を預ける。目を閉じる。

 

駄目。まだ。お礼、言っていない。

 

でも、明日。明日、言える。

 

シリウスにも、ラモーヌにも、言わなければならないことがある。ごめん。ありがとう。たぶん、どちらも言う。

 

でも、それも明日。

 

今は、身体がもう聞いてくれない。

 

起きていたい、と思う。目は閉じる。開こうとする。開かない。

 

怖い。ほんの少し思った。

 

眠ったら、また雪の中かもしれない。目を開けたら、羆がいるかもしれない。

 

でも、最後に見えたのは火だった。

 

橙色。揺れている。その向こう、七詩。まだ、いる。

 

ぱちん。

 

薪が小さく鳴る。

 

今度は誰も動かなかった。ルドルフも目を開けなかった。

 

火は揺れていた。揺れながら、消えなかった。

 

外では雪が降っている。風も吹いている。羆がどこかにいる。

 

それでも、ここには壁があった。火があった。毛布があった。シリウスがいた。ラモーヌがいた。

 

そして、もう一人。名前を知っている人がいた。

 

小鳥遊七詩。

 

その名前を忘れないように、最後にもう一度、頭の中で呼んだ。

 

それで、十分だった。




2026/10/05
本文加筆。
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