氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
泥を噛み、凍てつき、意識の糸が擦り切れかけても互いの手を、決して離さなかった。
限界を超えていても、目を閉じなかった。
何かを、見ようとしていた。
——厄介な子だ、と思った。
悪い意味ではなかった。
その眩しさが、乾いた記録を、ほんの少しだけ濡らした。
「逃げて」
ルドルフの声が、吹雪を割った。
シリウスの喉も、同じ言葉を叫んでいた。
声にならなかった。
叫ぼうとした。叫べるはずだった。でも喉が動かなかった。肺が動かなかった。身体が、もう限界だった。声を出すための力が、どこにも残っていなかった。ルドルフが声に出した言葉を、シリウスは胸の奥で叫び続けた。届かないとわかっていても、叫び続けた。それしかできなかった。
羆の前脚が、止まっていた。
シリウスたちではなく、別の方角へ、頭が向いた。動けなくなった三人を無視して、ゆっくりと向き直った。急がなかった。急ぐ必要がないと知っているから、急がなかった。その余裕が、かえって恐ろしかった。
四つ足に戻った。
音もなく、ゆっくりと。後ろ足が雪に沈んだ。前脚が地面を掴んだ。その姿勢のまま、一瞬静止した。
前脚が、動いた。
ゆっくりだった。
こんなに大きなものが、こんなにゆっくり動けるのだと、シリウスは思った。思いながら、目が離せなかった。前脚が持ち上がっていく。持ち上がるにつれて、その先にある爪が見えた。湾曲した、黄ばんだ爪。さっき見た時と同じ爪だった。同じはずなのに、今は違って見えた。今は、向きが違った。
こちらへではない。
吹雪を割って目の前に現れた、あの人影へ向いていた。
時間が、引き伸ばされた。
前脚が頂点に達した。そこで一瞬、止まった気がした。止まってなどいないはずだった。でもシリウスの意識の中では、確かに止まった。その一瞬の間に、色々なことが頭を通り過ぎた。
ルドルフの頬の傷。ラモーヌの裂けた袖。雪の中でシリウス自身が転んだ時の、腐葉土の感触。姉貴の声。今朝、屋敷を出る前の朝食の匂い。全部が一瞬で通り過ぎて、消えた。
前脚が、振り下ろされた。
シリウスは目を開けたまま、見ていた。
音を、予想していた。
意識していなかった。でも身体が、これから来る音を知っていた。グチャリ、という音。あるいはバギャ、という音。骨が折れる音。肉が潰れる音。そういう音が来ると、身体が知っていた。知っていたから、全身が強張った。強張ったまま、目を開けていた。
——ガキン。
その音が、来た。
シリウスは一瞬、自分の耳がおかしくなったと思った。
金属と金属がぶつかるような音だった。硬い、鋭い音だった。予想していた音とは、全く違った。全く違う音が、吹雪の中に響いて、消えた。
死角だった。
人影がどこにいるのか、シリウスの視界には入っていなかった。羆しか見えていなかった。羆の前脚しか見えていなかった。その前脚が、途中で止まっていた。
止まっていた。
振り下ろされた前脚が、宙で止まっていた。
一瞬だけ、シリウスは見た。
羆の前脚の先、爪の根元あたりに——黒いものが触れていた。枝だった。太めの枯れ枝が、前脚に当たっていた。当たっているだけだった。それだけのはずだった。でも前脚は止まっていた。
枝が、黒かった。
一瞬だけ、黒かった。
次の瞬間には元の色に戻っていた。見間違いかもしれなかった。この暗さの中で、この吹雪の中で、見間違えたのかもしれなかった。でもシリウスは見た。確かに見た。あの枯れ枝が、一瞬だけ、夜よりも深い黒に染まっていた。
羆が、前脚を引いた。
そして——身体ごと、飛び退いた。
一歩ではなかった。あの巨体が、一瞬で距離を開けた。追い詰めた獲物から離れる動きではなかった。なにか得体の知れないものを前にした時の、本能的な後退だった。
シリウスには、何が起きたかわからなかった。わからないまま、見ていた。枝が折れていない。姿勢が崩れていない。羆の爪がそこで止まっていた。それだけが、見えていることの全てだった。
羆の眼が変わっていた。
さっきまであった「確信」が、消えていた。怒っていない。でも、さっきとも違う。未知のものを前にした時の、慎重な後退だった。この山で十数年生きてきた存在が、初めて、判断を保留していた。濁った眼が人影を見て、三人を見て、また人影を見た。飢えはまだそこにある。その眼が、それを語っていた。それでも足が、じりじりと後ろへ動いていた。
羆の喉から、短い音が漏れた。
唸り声ではなかった。威嚇でもなかった。シリウスが今まで一度も聞いたことのない種類の音だった。あの巨体が、初めて、声を詰まらせた。
「退け」
声が、した。
大きくなかった。怒鳴っていなかった。吹雪の音に消えそうなほど、静かな声だった。それなのに、シリウスの耳にはっきり届いた。ルドルフの「逃げて」とは、種類が違う声だった。ルドルフの声は必死だった。震えていた。これは違った。ただ、そこに置いた声だった。言葉というより、事実を告げるような声だった。
羆がまた、後退した。
低く、短く唸った。威嚇でも降参でもない、判断を保留しているような音だった。それでも足が、じりじりと後ろへ動いていた。
もう一歩。
また一歩。
巨体が、雪の中に沈んでいくように後退していく。木々の間に入った。暗がりに紛れた。輪郭が薄れていく。
消えた。
足音が遠ざかっていく。姿が滲んでいく。しかし、匂いは完全には消えなかった。
あの甘ったるい腐臭が、まだ空気の中にあった。雪がそれを薄めていたが、消してはいなかった。ラモーヌが最初に気づいた匂いだと、シリウスは今になって思い出した。あの時止まれていれば——その思考を、途中で切った。今考えることではない。
退いただけだ。どこかでまだ、この場所を視ている感じがした。決着などついていない。ただ、得体の知れない何かが間に入ったから、今夜は退いた。それだけのことだと、シリウスには思えた。
シリウスの膝が、折れた。
声もなく、ただ雪の上に崩れ落ちた。膝の傷が雪に触れた瞬間、眉が一瞬だけ動いた。それだけだった。泣かなかった。悲鳴も出なかった。ただ、立っていられなくなった。
隣でルドルフも崩れていた。ラモーヌが、雪の上に両手をついていた。
もう三人とも、立っていられなかった。
吹雪が続いていた。羆が消えた方角を、三人ともまだ見ていた。戻ってくるかもしれない。その緊張が、まだ抜けていなかった。身体を硬くしていた。
雪を踏む音が、ゆっくりと近づいてきた。
振り返った。
男だった。
熊の毛皮を仕立てた外套を羽織っていた。結い上げた黒髪。細身に見えたが、外套の下に機能的な何かがあることは、この距離でもわかった。顔立ちが整っていた。年齢が読みにくかった。どこにでも居そうな、ごく普通の優男だった。手に、太めの枯れ枝を持っていた。道すがら拾ったような、何の変哲もない枝だった。
羆を退けた者が、これか、と思った。
思ったが、今はそれ以上考える力が残っていなかった。
急いでいなかった。三人の前で膝をついた。シリウスと同じ高さになった。
男の目が、シリウスを見た。
シリウスは男を見返した。
表情がなかった。怖いという意味ではない。穏やかだった。ただ、穏やかなだけだった。三人を助けたことへの高揚も、羆を退けたことへの満足も、何もなかった。ただそこにいるだけの顔だった。
なぜここにいるのか。
どうして羆が退いたのか。
手に持っていた枝が折れなかったのはなぜか。
あの一瞬の黒は、何だったのか。
——なぜ、この空間だけ吹雪が落ち着いているのか。
何もわからなかった。
「怪我は」
朴訥とした声だった。それだけだった。責めていない。驚いていない。ただ、聞いた。それだけの声だった。
——見れば、判るだろ。
シリウスは答えようとした。
だけど声が、出なかった。
平時なら悪態と共に出たかもしれない声が、全く出なかった。
男はシリウスの唇の色を見た。手首に触れた。脈を確かめているのかもしれなかった。温かかった。それから、ルドルフに向いた。ラモーヌに向いた。
ラモーヌに向いた。素手が雪に沈んでいるのを見て、男はラモーヌの両手を雪から引き上げた。手のひらを見た。凍えた指先が、赤黒く変色していた。
手袋を、外した。
素手になった手で、ラモーヌの両手を包んだ。しばらく、そのままでいた。ラモーヌの肩から、少しずつ力が抜けていくのが見えた。
男はラモーヌの両手に、外していた手袋をはめた。指の一本一本を確かめるように、丁寧に。それから、マフラーを外してシリウスの肩に巻いた。
男は少し考えるような間を置いた。
三人を順番に見た。背負えるのは一人だ。片腕で抱えられるのは一人。もう一人をどう支えるか。そういう計算をしているように見えた。計算というより、確認だった。既に答えは出ていて、それを確かめているだけの間だった。
男の視線が、ルドルフに向いた。
一度だけ、足元を見た。それだけだった。何も言わなかった。ルドルフも何も言わなかった。言える状態ではなかった。
ただ、見られた、とわかった。
今夜ずっと「自分のせいだ」という顔をしていた。その顔のまま、男に見られた。責める顔ではなかった。当然だとも言わなかった。ただ、見た。シリウスには、それだけのことが、なぜかルドルフの肩から何かを降ろしたように見えた。
男はルドルフを背負った。
膝をついたまま、ルドルフの腕を自分の肩に回した。それから、腰の辺りに手をやった。麻紐だった。いつ用意していたのか、シリウスには見えていなかった。紐をルドルフの身体に回して、背中に固定した。手際が良かった。迷いがなかった。こういうことを、何度もやってきた動き方だった。
立ち上がった。
重そうには見えなかった。ルドルフの体重が背中に乗った瞬間、男の姿勢は変わらなかった。外套を羽織り直した。毛皮が、背中のルドルフごと包むような形になった。
ルドルフの顔が、肩越しに見えた。
さっきまで「自分のせいだ」という顔をしていた。その顔が、男の背中に額を預けた瞬間、少しだけ変わった気がした。何かが、降りたような顔だった。
それから、片腕でシリウスを抱えた。
もう片腕をラモーヌに差し出した。ラモーヌがその腕を掴んだ。立ち上がれるか確かめるように、一度体重を預けた。立てた。ぎりぎりだったが、立てた。男がラモーヌの腕を脇から支えた。
「……どこへ」
シリウスが掠れた声で聞いた。
声が、出た。
さっきまで出なかった声が、今は出た。掠れていたが、出た。
「そう遠くない場所に家がある。暖かい」
それだけだった。説明はなかった。でも、その声の静かさが嘘をついていないとわかった。
男が歩き始めた。
ラモーヌの腕を支えたまま、吹雪の中へ踏み出した。シリウスも、男の腕に抱えられたまま、一歩踏み出した——気がした。
それ以降の記憶が、曖昧だった。
歩いていたはずだった。雪を踏む感触があったはずだった。でも、どこをどう進んだのか、何も残っていなかった。足が沈む感触がなかった。吹雪が顔を叩く感触がなかった。あれだけ膝まで沈んでいた雪の中を、どうやって移動したのか。考えようとして、考えがまとまらなかった。身体が、もう何かを考える力を持っていなかった。
なぜここにいるのか。
どうして羆が退いたのか。
手に持っていた枝が折れなかったのはなぜか。
あの一瞬の黒は、何だったのか。
——なぜ、この空間だけ吹雪が落ち着いているのか。
もう一つ、あった。
三人分の重さを抱えて歩いているのに、男の体幹が一切揺れなかった。足跡が、雪の表面を撫でるように浅かった。そしてこの男の息が——白くない、気がした。
気がした、というだけだった。吹雪の中で、暗くて、自分の目がおかしくなっているのかもしれなかった。見間違いかもしれなかった。でも、三人の呼気が白く散る中で、この男だけが——そうでない、ような気がした。確かめる余裕はなかった。確かめたところで、今の自分に何かがわかるとも思えなかった。
何もわからなかった。
木々の間に、何かが見えた。
小さな光だった。
揺れていた。消えそうで、消えない。風に揺れながら、それでもそこにあり続けている光だった。窓から漏れる灯りだった。
気づいた時には、扉の前にいた。
どれくらい歩いたのか、わからなかった。いつの間にか、着いていた。それだけだった。
シリウスの目が、重くなってきた。
光を見ていた。近づいていた。光が大きくなっていた。
それだけを見ていた。それだけで、今夜はいい、と思った。