氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

9 / 42
視えていた。
泥を噛み、凍てつき、意識の糸が擦り切れかけても互いの手を、決して離さなかった。
限界を超えていても、目を閉じなかった。
何かを、見ようとしていた。
——厄介な子だ、と思った。
悪い意味ではなかった。
その眩しさが、乾いた記録を、ほんの少しだけ濡らした。


01-六.「退け」

「逃げて」

ルドルフの声が、吹雪を割った。

シリウスの喉も、同じ言葉を叫んでいた。

声にならなかった。

叫ぼうとした。叫べるはずだった。でも喉が動かなかった。肺が動かなかった。身体が、もう限界だった。声を出すための力が、どこにも残っていなかった。ルドルフが声に出した言葉を、シリウスは胸の奥で叫び続けた。届かないとわかっていても、叫び続けた。それしかできなかった。

 

羆の前脚が、止まっていた。

シリウスたちではなく、別の方角へ、頭が向いた。動けなくなった三人を無視して、ゆっくりと向き直った。急がなかった。急ぐ必要がないと知っているから、急がなかった。その余裕が、かえって恐ろしかった。

四つ足に戻った。

音もなく、ゆっくりと。後ろ足が雪に沈んだ。前脚が地面を掴んだ。その姿勢のまま、一瞬静止した。

前脚が、動いた。

ゆっくりだった。

こんなに大きなものが、こんなにゆっくり動けるのだと、シリウスは思った。思いながら、目が離せなかった。前脚が持ち上がっていく。持ち上がるにつれて、その先にある爪が見えた。湾曲した、黄ばんだ爪。さっき見た時と同じ爪だった。同じはずなのに、今は違って見えた。今は、向きが違った。

こちらへではない。

吹雪を割って目の前に現れた、あの人影へ向いていた。

時間が、引き伸ばされた。

前脚が頂点に達した。そこで一瞬、止まった気がした。止まってなどいないはずだった。でもシリウスの意識の中では、確かに止まった。その一瞬の間に、色々なことが頭を通り過ぎた。

 

ルドルフの頬の傷。ラモーヌの裂けた袖。雪の中でシリウス自身が転んだ時の、腐葉土の感触。姉貴の声。今朝、屋敷を出る前の朝食の匂い。全部が一瞬で通り過ぎて、消えた。

 

前脚が、振り下ろされた。

シリウスは目を開けたまま、見ていた。

音を、予想していた。

意識していなかった。でも身体が、これから来る音を知っていた。グチャリ、という音。あるいはバギャ、という音。骨が折れる音。肉が潰れる音。そういう音が来ると、身体が知っていた。知っていたから、全身が強張った。強張ったまま、目を開けていた。

 

——ガキン。

 

その音が、来た。

シリウスは一瞬、自分の耳がおかしくなったと思った。

金属と金属がぶつかるような音だった。硬い、鋭い音だった。予想していた音とは、全く違った。全く違う音が、吹雪の中に響いて、消えた。

 

死角だった。

人影がどこにいるのか、シリウスの視界には入っていなかった。羆しか見えていなかった。羆の前脚しか見えていなかった。その前脚が、途中で止まっていた。

止まっていた。

振り下ろされた前脚が、宙で止まっていた。

 

一瞬だけ、シリウスは見た。

羆の前脚の先、爪の根元あたりに——黒いものが触れていた。枝だった。太めの枯れ枝が、前脚に当たっていた。当たっているだけだった。それだけのはずだった。でも前脚は止まっていた。

 

枝が、黒かった。

一瞬だけ、黒かった。

次の瞬間には元の色に戻っていた。見間違いかもしれなかった。この暗さの中で、この吹雪の中で、見間違えたのかもしれなかった。でもシリウスは見た。確かに見た。あの枯れ枝が、一瞬だけ、夜よりも深い黒に染まっていた。

 

羆が、前脚を引いた。

そして——身体ごと、飛び退いた。

一歩ではなかった。あの巨体が、一瞬で距離を開けた。追い詰めた獲物から離れる動きではなかった。なにか得体の知れないものを前にした時の、本能的な後退だった。

 

シリウスには、何が起きたかわからなかった。わからないまま、見ていた。枝が折れていない。姿勢が崩れていない。羆の爪がそこで止まっていた。それだけが、見えていることの全てだった。

羆の眼が変わっていた。

さっきまであった「確信」が、消えていた。怒っていない。でも、さっきとも違う。未知のものを前にした時の、慎重な後退だった。この山で十数年生きてきた存在が、初めて、判断を保留していた。濁った眼が人影を見て、三人を見て、また人影を見た。飢えはまだそこにある。その眼が、それを語っていた。それでも足が、じりじりと後ろへ動いていた。

羆の喉から、短い音が漏れた。

唸り声ではなかった。威嚇でもなかった。シリウスが今まで一度も聞いたことのない種類の音だった。あの巨体が、初めて、声を詰まらせた。

 

「退け」

声が、した。

大きくなかった。怒鳴っていなかった。吹雪の音に消えそうなほど、静かな声だった。それなのに、シリウスの耳にはっきり届いた。ルドルフの「逃げて」とは、種類が違う声だった。ルドルフの声は必死だった。震えていた。これは違った。ただ、そこに置いた声だった。言葉というより、事実を告げるような声だった。

羆がまた、後退した。

低く、短く唸った。威嚇でも降参でもない、判断を保留しているような音だった。それでも足が、じりじりと後ろへ動いていた。

もう一歩。

また一歩。

巨体が、雪の中に沈んでいくように後退していく。木々の間に入った。暗がりに紛れた。輪郭が薄れていく。

消えた。

足音が遠ざかっていく。姿が滲んでいく。しかし、匂いは完全には消えなかった。

あの甘ったるい腐臭が、まだ空気の中にあった。雪がそれを薄めていたが、消してはいなかった。ラモーヌが最初に気づいた匂いだと、シリウスは今になって思い出した。あの時止まれていれば——その思考を、途中で切った。今考えることではない。

退いただけだ。どこかでまだ、この場所を視ている感じがした。決着などついていない。ただ、得体の知れない何かが間に入ったから、今夜は退いた。それだけのことだと、シリウスには思えた。

 

シリウスの膝が、折れた。

声もなく、ただ雪の上に崩れ落ちた。膝の傷が雪に触れた瞬間、眉が一瞬だけ動いた。それだけだった。泣かなかった。悲鳴も出なかった。ただ、立っていられなくなった。

隣でルドルフも崩れていた。ラモーヌが、雪の上に両手をついていた。

もう三人とも、立っていられなかった。

吹雪が続いていた。羆が消えた方角を、三人ともまだ見ていた。戻ってくるかもしれない。その緊張が、まだ抜けていなかった。身体を硬くしていた。

 

雪を踏む音が、ゆっくりと近づいてきた。

振り返った。

男だった。

熊の毛皮を仕立てた外套を羽織っていた。結い上げた黒髪。細身に見えたが、外套の下に機能的な何かがあることは、この距離でもわかった。顔立ちが整っていた。年齢が読みにくかった。どこにでも居そうな、ごく普通の優男だった。手に、太めの枯れ枝を持っていた。道すがら拾ったような、何の変哲もない枝だった。

羆を退けた者が、これか、と思った。

思ったが、今はそれ以上考える力が残っていなかった。

 

急いでいなかった。三人の前で膝をついた。シリウスと同じ高さになった。

男の目が、シリウスを見た。

シリウスは男を見返した。

表情がなかった。怖いという意味ではない。穏やかだった。ただ、穏やかなだけだった。三人を助けたことへの高揚も、羆を退けたことへの満足も、何もなかった。ただそこにいるだけの顔だった。

なぜここにいるのか。

どうして羆が退いたのか。

手に持っていた枝が折れなかったのはなぜか。

あの一瞬の黒は、何だったのか。

——なぜ、この空間だけ吹雪が落ち着いているのか。

何もわからなかった。

 

「怪我は」

朴訥とした声だった。それだけだった。責めていない。驚いていない。ただ、聞いた。それだけの声だった。

 

——見れば、判るだろ。

シリウスは答えようとした。

だけど声が、出なかった。

平時なら悪態と共に出たかもしれない声が、全く出なかった。

男はシリウスの唇の色を見た。手首に触れた。脈を確かめているのかもしれなかった。温かかった。それから、ルドルフに向いた。ラモーヌに向いた。

 

ラモーヌに向いた。素手が雪に沈んでいるのを見て、男はラモーヌの両手を雪から引き上げた。手のひらを見た。凍えた指先が、赤黒く変色していた。

手袋を、外した。

素手になった手で、ラモーヌの両手を包んだ。しばらく、そのままでいた。ラモーヌの肩から、少しずつ力が抜けていくのが見えた。

男はラモーヌの両手に、外していた手袋をはめた。指の一本一本を確かめるように、丁寧に。それから、マフラーを外してシリウスの肩に巻いた。

 

男は少し考えるような間を置いた。

三人を順番に見た。背負えるのは一人だ。片腕で抱えられるのは一人。もう一人をどう支えるか。そういう計算をしているように見えた。計算というより、確認だった。既に答えは出ていて、それを確かめているだけの間だった。

 

男の視線が、ルドルフに向いた。

一度だけ、足元を見た。それだけだった。何も言わなかった。ルドルフも何も言わなかった。言える状態ではなかった。

ただ、見られた、とわかった。

今夜ずっと「自分のせいだ」という顔をしていた。その顔のまま、男に見られた。責める顔ではなかった。当然だとも言わなかった。ただ、見た。シリウスには、それだけのことが、なぜかルドルフの肩から何かを降ろしたように見えた。

 

男はルドルフを背負った。

膝をついたまま、ルドルフの腕を自分の肩に回した。それから、腰の辺りに手をやった。麻紐だった。いつ用意していたのか、シリウスには見えていなかった。紐をルドルフの身体に回して、背中に固定した。手際が良かった。迷いがなかった。こういうことを、何度もやってきた動き方だった。

立ち上がった。

重そうには見えなかった。ルドルフの体重が背中に乗った瞬間、男の姿勢は変わらなかった。外套を羽織り直した。毛皮が、背中のルドルフごと包むような形になった。

ルドルフの顔が、肩越しに見えた。

さっきまで「自分のせいだ」という顔をしていた。その顔が、男の背中に額を預けた瞬間、少しだけ変わった気がした。何かが、降りたような顔だった。

 

それから、片腕でシリウスを抱えた。

もう片腕をラモーヌに差し出した。ラモーヌがその腕を掴んだ。立ち上がれるか確かめるように、一度体重を預けた。立てた。ぎりぎりだったが、立てた。男がラモーヌの腕を脇から支えた。

 

「……どこへ」

シリウスが掠れた声で聞いた。

声が、出た。

さっきまで出なかった声が、今は出た。掠れていたが、出た。

 

「そう遠くない場所に家がある。暖かい」

それだけだった。説明はなかった。でも、その声の静かさが嘘をついていないとわかった。

 

男が歩き始めた。

ラモーヌの腕を支えたまま、吹雪の中へ踏み出した。シリウスも、男の腕に抱えられたまま、一歩踏み出した——気がした。

 

それ以降の記憶が、曖昧だった。

 

歩いていたはずだった。雪を踏む感触があったはずだった。でも、どこをどう進んだのか、何も残っていなかった。足が沈む感触がなかった。吹雪が顔を叩く感触がなかった。あれだけ膝まで沈んでいた雪の中を、どうやって移動したのか。考えようとして、考えがまとまらなかった。身体が、もう何かを考える力を持っていなかった。

 

なぜここにいるのか。

どうして羆が退いたのか。

手に持っていた枝が折れなかったのはなぜか。

あの一瞬の黒は、何だったのか。

——なぜ、この空間だけ吹雪が落ち着いているのか。

 

もう一つ、あった。

三人分の重さを抱えて歩いているのに、男の体幹が一切揺れなかった。足跡が、雪の表面を撫でるように浅かった。そしてこの男の息が——白くない、気がした。

気がした、というだけだった。吹雪の中で、暗くて、自分の目がおかしくなっているのかもしれなかった。見間違いかもしれなかった。でも、三人の呼気が白く散る中で、この男だけが——そうでない、ような気がした。確かめる余裕はなかった。確かめたところで、今の自分に何かがわかるとも思えなかった。

 

何もわからなかった。

 

木々の間に、何かが見えた。

小さな光だった。

揺れていた。消えそうで、消えない。風に揺れながら、それでもそこにあり続けている光だった。窓から漏れる灯りだった。

 

気づいた時には、扉の前にいた。

どれくらい歩いたのか、わからなかった。いつの間にか、着いていた。それだけだった。

 

シリウスの目が、重くなってきた。

光を見ていた。近づいていた。光が大きくなっていた。

それだけを見ていた。それだけで、今夜はいい、と思った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。