彼女が無限ループを諦めない理由   作:( 눈_눈)

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ある小説賞へ応募するため書き直したもので、二つの大きなエピソード追加と全体的な推敲を行ったものです。他賞へ応募さえしなければ、サイトへの投稿自体は問題ないみたいなので、せっかく頑張ったし追加しておきます。他賞へ応募する別作品を書く際に参考にしたいので、感想など書いてくださる方がいらっしゃいましたらお気軽に書いてやってください。


Re:彼女が無限ループを諦めない理由

 

彼女がそれを打ち明けたのは、朝食の皿を流しに運んだあとだった。

食後、軽やかな水音が丁寧に響くなか、なんとなくソファに身を預ける。

そうして暫く窓越しに降り注ぐ、雲に濁った優しい日差しの最中にいると、食器の軽くぶつかる音はいつの間にか止んでいた。

それから彼女はソファに寝転がる私の隣に淑やかに座ると、私の両頬に当然のように両手を添えて、そのままするりと頭を自分の膝へ導いた。

サンドイッチの上品な香りが未だ残る静かな朝。

抗議するにはあまりに手つきが優しくて、導かれるように一度そこに収まってしまうと、離れる理由を見つけるのにも苦労する。彼女の腿は暖かな体温をきちんと持っていて、柔らかいのに不思議と落ち着くような硬さがしっかりとある。耳の近くで衣擦れの小さな音がして、手入れの面倒な長い髪を梳く細い指先が、ひどく丁寧に頭皮をなぞっていく。

 

「……急に、…なに?」

 

少し不機嫌にそう言ったつもりだったのに、声は自分で思っていたよりずっと骨抜きで、まるで咎める形にはなっていなかった。

 

「可愛かったので、つい」

 

彼女は全く悪びれることもせずにそう答えて、少しだけ得意そうに笑う。その笑みをわざわざ見なくても分かるくらいには、声がやわらかかった。

指先が前髪をかき分けて、こめかみのあたりをゆっくり撫でる。

見上げれば、彼女の顎の線と、朝の光を受けとめた瞳が近い。

こんな距離がもう、私たちには当たり前になって久しいのに、ときどき思い出したかのように胸の奥だけが遅れて熱を持つ。

 

明確に自分のものだと言われているわけではないけれど、自分のなかの深いところをいつの間にか静かに囲い込まれているかのような感覚。それは、逃がすつもりなんて最初からないのだと、やさしさの形で教えられているみたいに執着と独占欲に塗れていて、なのに暖かく離れ難い。

彼女の親指が、髪の生え際をそっとなぞる。私がどのくらいの指圧だと心地いいか、どこに触れられると肩の力が抜けるか、彼女は飼い猫の撫で方を熟知している飼い主のように、私自身よりもきっとよく分かっている。その事実が、くすぐったいくらい嬉しくて、同時に少しだけ怖いほど愛しかった。

彼女は何も言わず、私の手を包み込むように指を重ねてきた。愛おしげに撫でる手は止めないまま、もう片方の手だけで、私の骨ばった指先を静かに握る。

食卓にはまだ、コーンスープの薄い湯気が残っているかのようだった。窓の向こうは冬空みたいな曇り空で、淡く白い光だけが、私たちの小さな手ごと部屋の輪郭をやわらかく撫でている。彼女は私をあやすことに専念させていた両手を一旦離すと、マグカップを両手で包み、少し冷めた紅茶を飲みもせず、ただその温度を確かめるみたいに持っていた。

 

「ねえ」

 

突然呼ばれて顔を上げる。彼女は微笑んでいたけれど、その笑みは妙に硬く静かで、何かを決めたかのように澄んでいた。

 

「驚かないでください。たぶん、驚くでしょうけれど」

 

「前置きが長いな。…なに」

 

「わたし、今日を、何度も繰り返しています」

 

私は、顔を中途半端にあげたまま固まった。最初に浮かんだのは困惑でも恐怖でもなく、疲れているのだろうか、というありふれた推測と心配。

つまりは睡眠不足。あるいは熱でもあるのかもしれないと、そう考えた。

彼女はもともと、どちらかといえば、静かに真顔で嘘をついて相手を困らせるのが好きだ。嘘か本当か分かりにくい微妙なラインを見極めてはミステリアスな微笑みを浮かべて楽しげにしている姿が魅力的な人だ。

…だが今日の声音は、そういういたずらの温度ではなかった気がしたんだ。

 

「……えと?」

 

「現実の話です」

 

「…いつものやつ?」

 

「…むぅ、……何回言われても不服ですねその言い草」

 

私は身体を起こして特に考えもなく水を一口飲んだ。喉が乾いていたわけではなくて、考えるための間が欲しかったからだ。

けれど彼女はそれを見て、わずかに目を細めたのだ。

 

「今のも、いつも同じです」

 

「…は?」

 

「君は何かを信じないとき、何か飲み物を一口飲みます。正確には、納得できないことがあると、いったん、何かを飲み込む体の動きと一緒に、頭に落とし込もうとする。そして、それからもう一度考えをまとめ直すんです」

 

「……」

 

「…君は今、病院に連れていくべきか、眠れていないだけなのか、その二つで迷っている。わたしの顔色を見て、熱があるかどうかを判断しようともしている。けれど仮に熱があったとしても、わたしの言動を病気扱いにしてしまうのは誠実じゃない、とも思っている」

 

背中にひやりとしたものが走った。

当たっている。

どれもこれも仔細まで。

表情から読める範囲を超えている、とは完全に言い切れないし、付き合いの長さからあてずっぽうを言った可能性も否めない。それにしても、並べられると不気味なほど正確だった。なにより、

 

「…いつも、相手が嫌な気持ちになるような嘘だけはつかないよね」

 

「ええ。だから、信じてください」

 

彼女はそこでようやく抱えるように両手で掴んでいた紅茶をひとくち飲んだ。冷めているはずなのに、その仕草だけはどこか慎重で、熱いものを飲み込むみたいに丁寧だった。

 

「わたしが今日を繰り返していること自体を、これからずっと証明し続けることもできます。でも、それじゃあ意味がないんです」

 

「…どういうこと?」

 

「大事なのは、そこじゃないんです」

 

彼女はマグカップを置く。陶器が木のテーブルに触れて、乾いた小さな音がした。

 

「当ててください。…わたしが、今日を無限ループしている理由を」

 

間違いなくそれは酷く奇妙な問いだ。抜け出したい、助けてほしい、どうしたらいいと思う、ではなく、その理由を当ててほしい、と来た。

疑問をそのまま口にするように、思わず聞き返す。

 

「…うん?…理由が分かれば、抜け出せるの?」

 

そう口にした瞬間、彼女の指がほんの少しだけ強くマグカップの縁を握った気がした。指先が白くなるほどではなく、けれど、まるで何かを恐れるように強く。

 

「……そこを考えないでください」

 

「………は?」

 

「お願いです。抜け出す方法ではなく、理由を」

 

「…でも、無限ループしてるなら、まずはそこから出る方法を」

 

「それは、考えないでください」

 

次の瞬間、椅子の脚が床を掠る小さな音を立てて、こちらへ身を寄せてくる。抱きつく、というより、何かに追い立てられるように縋りつく、というほうが近いかもしれない。両腕が私の背へまわり、細い指先が服をきつく掴む。さして豊かでもない私の胸元へ押しつけられた額がかすかに震えていて、その震えは、彼女がどれだけ切羽詰まっているのかを表しているようで。

甘えるような抱擁とは違う。けれど、嫌ではなく、むしろ、どうしようもなく愛しかった。

いつもは私を愛おしそうに包み込むみたいに触れてくるひとが、いまは何かを恐れるようにこちらの温度を求めている。その事実が、選ばれる優越感と形容するのは失礼なの

は承知の上で、しかしそう表現するしかないような感情をひどく擽る。

 

「……お願いです」

 

珍しく掠れた声が、服越しに肌へ落ちる。私は考えるより先に彼女を抱きしめ返していた。応えるように背中へ腕を回し、その身体を締め付けるように抱きしめ、落ち着かせるように肩を撫でる。そうすると彼女は逃げるどころか、甘えるようにますます深く顔を埋めてきた。微かに震えた吐息が鎖骨のあたりにほんのり触れて、少し困るくらいくすぐったいのに、それも含めて愛おしくてたまらない。彼女の身体は細いのに不思議と熱くて、抱きしめるほど、失いたくないものの輪郭ばかりが確かめるようにはっきりしていく。

こうして抱き合っていると、私たちはちゃんと互いの帰る場所なのだと、言葉より先に身体が知ってしまう、知ってくれる。

彼女が好きだと、こんな瞬間にすら思い知らされる。たぶん彼女も同じで、だからこそこんなふうに、みっともないほど真っ直ぐこちらへ縋ってくれるのだ。

やがて彼女は私の胸元に額を預けたまま、小さく息を整えた。服を掴んだ指先だけはまだほんの少し震えていて離れない。そのまま祈るみたいに、もう一度だけ。

 

「…お願いです」

 

声は静かで、それでいてはっきりしていた。刃物みたいに薄くて冷たい拒絶。彼女は少し俯き、それからまた至近距離で私を見上げる。

自ずと部屋がしんとした。外を走る車達の音が遠くで流れていく。そのありふれた日常の音だけが、この場の異様さを浮き彫りにするように、嫌に目立つ。

 

「……ごめんなさい。言い方がよくなかったですね」

 

彼女はそう言い、腕の中でいつもの調子を取り戻す様に少しだけ首を傾げた。「ルールがあります」と彼女は言った。

 

「君は今日一日中、何度でも質問していいです。わたしは、はい、いいえ、もしくは、はいといいえでは答えられない、の三つだけで返します」

 

「…回数は?」

 

「制限はありません。…ただし日付が変わるまでなら、です」

 

「ずいぶん親切だね」

 

「…わたしも、君に辿り着いてほしいので」

 

その言い方は、祈りにも似ていて、しかしそれらとは全く違うような何かを含んでいる。

深い霧の向こうでいつの間にか迷う私に、どうかこちらに来てください、と願いを込めて腕を振るみたいに。

 

「本番の前に、すこし練習をしましょうか」

 

「練習?…まぁいいけど」

 

彼女は少しだけ口元をやわらげた。久しぶりに見た気がする妖しげな微笑みは、ようやくこれまでみたいな硬さが和らいだようで、どこか安心するような懐かしささえ感じてしまう。

 

「では…今日は何月でしょう?」

 

特に思考することもなく、私はすぐさま反射的に答えた。

 

「九月でしょ」

 

「いいえ」

 

「…えぇ?」

 

間髪入れずに答えが返ってきて、私は思わず眉をひそめた。

いつもの癖で何かのなぞかけかと思いかけて、けれど、彼女の言い方にも、特別迷いも思考もなかったように思えた。つまり、

 

「……あぁ…なるほど」

 

彼女は何も言わない。ただ私が続きを考えるのを、答えるのを待っている。

そこでようやく、ああ、そういうことか、と思った。練習という言葉の意味を理解できた。

こちらが質問で想定できる範囲を絞り込み、三択の返答だけで彼女が決めた正解に辿り着く。

つまりは、所謂水平思考クイズに近いモノ。

 

「じゃあ、その月は六月より前?」

 

「いいえ」

 

「十月より前?」

 

「いいえ」

 

「十一月?」

 

「いいえ」

 

「十二月だね」

 

「ふふ、…はい。正解です」

 

私は納得のいったように、小さくうなずいた。

 

「はい、いいえ、どちらでもない、で答えられる問いを積み重ねて、答えの空間を狭めていく。……まぁ、よくあるやつだよね」

 

彼女は確かめるようにうなずいた。

私は緊張したように椅子に座り直す。彼女は隣ではなく向かいに座った。見慣れた顔だった。少なくともほんの一時間前までは。

同棲を始めて一年と少し。その顔で眠り、その顔で目を覚ます生活に、私はずいぶん救われてきた。今更言葉にするのはきっと照れくさくて、わざわざ言葉にするようなことはしなかったけれど、生きるという行為によって生じるいくつもの苦悩から救いだしてくれるのは、いつだってこの人の傍にいるときだった。

それなのに今、その見慣れたはずの人が、妙にミステリアスで正体不明の存在に見える気がする。

 

「では、始めますか」

 

最初の質問は、自然と始まった。

 

「ループっていうのは超常現象?」

 

「いいえ」

 

悩む素振りもない即答だった。

 

「呪いとか、神様とか、そういう類いが関係している?」

 

「いいえ」

 

「君にしか起きていない、科学では説明できない現象が原因?」

 

「いいえ」

 

「でも、君はループしてると言ったよね」

 

「はい」

 

はい、の一言で、さっきまでの否定が揺らぐ。言葉の地盤がぐらついているかのようにまだまだ答えが見えない。

 

「夢の中ってことは?」

 

「いいえ」

 

「夢遊病と関係がある?」

 

「いいえ」

 

「私たちはどこか別の、仮想空間とか電脳世界にいる?」

 

「いいえ」

 

「寝たきりの私が見てる世界とか?」

 

「いいえ」

 

彼女は答えるたび、わずかに睫毛を伏せた。質問が予想通りなのかは分からない。ただ、迷いはまったくなかった。

 

「現実で、超常現象でもなくて、夢でもなくて、なのに君は今日を何度も繰り返してる」

 

「はい」

 

私は腕を組んだ。言葉を聞く限りではなんとなく矛盾しているように感じて、しかし嘘をつかれている感じはまるでしなかった。

それは不可思議な感覚で、こちらの問い方がまだ的を外しているだけであり、中心には一つの整合した真実がある、そんな手ごたえとも言い難い感触だけがあった。

だから、ここで少しだけ、質問の狙いを変えてみることにした。

 

「原因は君にある?」

 

「いいえ」

 

「…じゃあ、私にある?」

 

「…はい」

 

自分で聞いておいて、あっさりと胸の真ん中を刺されたような気がした。

 

「私が今日、何かした?」

 

「いいえ」

 

「今日より前?」

 

「…はい」

 

「故意に?」

 

ほんの少しの間。

 

「…はい」

 

そこで初めて、彼女の声がわずかに揺れた。

 

「私が君を傷つけた?」

 

「…はいといいえでは答えられない」

 

「身体的に?」

 

「いいえ」

 

「精神的に?」

 

「はい」

 

舌打ちしそうになるのをこらえた。どんな罰ゲームだこれは。自分で自分の首を締めていくような問答だ。罪を犯したことさえも知らぬまま、気が付けば告解室にいたような、そんなやり取り。

 

「別れ話をした?」

 

「いいえ」

 

「浮気した?」

 

「いいえ」

 

「暴言を吐いた?」

 

「いいえ」

 

「君を置いて行こうとした?」

 

「…はいといいえでは答えられない」

 

その返しが、妙に引っかかる。二者択一の問いのような気がするが、どんな事実があれば、その答えに整合性が取れるだろうか。

意思としてはそうだが、物理的には違うということだろうか?

例えば、仕事で家を出る程度なら、きっと答えはいいえで済む。

つまり、この答えに隠されている事実は、もっと決定的な何か。

 

「…前提として、私は、君を助けようとした?」

 

「…はい」

 

その一言で、さらに足元が崩れた気がする。彼女を傷つけた。だが助けようともした。故意に。今日より前に。私に原因がある。

彼女の表情を見る。その表情はどこか辛そうにも見える気がして、しかし彼女は逃げなかった。

ただ静かに待っている。私が答えに、いつか辿り着くのを。

 

「……一つ確認したいんだけどさ、…」

 

「はい」

 

「…君は本当に、その理由を私に当ててほしいだけなんだよね。解決策を探すんじゃなく」

 

「…はい」

 

「それは…なんでなの…?」

 

彼女は細い息を吐いた。

何かを伝えるのを堪えているようにすら見える姿は、どこか痛々しく、苦しげで、それでもひどく重い決意をもって決心したように、そして言葉を選ぶように答えてくれた。

 

「…一つだけ言えます。君がどうすればこの繰り返しを終わらせられるかを先に考えると、だめなんです」

 

「それは、…どうして」

 

「…その考え方自体が、勘違いを含んでいるからです」

 

表情が固まるのを堪えきれなかった。気のせいかもしれないけれど彼女の目が潤んでいるように見えたから。

泣きそうに見えたのに、涙は落ちなくて、その危うさが、かえって彼女を強く見せる。

 

昼前、私たちは二人して一度黙った。私はこれまでした質問と答えを紙に書き出すことにした。会話だけでは、答えの輪郭が、内容が頭の中で曖昧になっていく気がしたから。

彼女は反対しなかった。むしろ、私が書き留めるその紙を見て、どこかほっとしたようにさえ見えた。

改めて分かったことを紙の上に並べてみると、現時点で答えにたどり着けるような情報はそろっていないように見えた。

超常現象ではない。夢でも仮想世界でもない。原因は私にある。今日より前、故意に、彼女を傷つけながら助けようとした。彼女は、ループから抜け出す方法を考えてほしくない。

文章にするとますます意味が分からない。全容がまるで見えない。

 

「すこし、外に出ない?」

 

考えが煮詰まってきた私がそう言うと、彼女は少しだけ驚いたような顔をしたあと、うなずいた。

 

「いいですよ」

 

「…ルール違反じゃないよね?」

 

「ええ。君が考えるためなら」

 

いつまで経っても慣れることのない、私なら絶対に照れくさくて口にできないような、妙に重い言い方に人知れず動揺しながらも、手癖でコートを取ろうとして、なぜか一瞬

ためらった。

だが結局羽織りながら、恐る恐る玄関を開けて、吹き込むように外気が頬を切った瞬間、その認識が、ためらいが、間違っていたことを知った。

扉の外は、刺すような冬の冷たさだった。思わず肩がしぼむようにすくむ。震えて吐いた息が白い。

 

「……寒っ」

 

彼女が黙って、私のコートの襟を整えた。指先がやたらと慣れている気がした。その慣れ方は、恋人として自然なそれとはすこし違うような気がして、なぜだか身体がいっそう冷える。

ハンドクリームの甘い匂いと柔らかな茶葉の残り香。首元に触れているそれは暖かく甘い。

 

道に出ると空は低く曇っていた。雲の色は白というより灰色に近く、街全体が冬に攫われてしまったかのように静かだった。

その静かな穏やかさに耐えきれなくなったみたいに、彼女の横顔をただ眺める。

冷たい風に頬は僅かに赤く染まり、睫毛の先は引っかかるような陽光を確かに受け止めている。

そんな可憐な姿をどこか誇らしげにしている自分を自覚しながらも、これまで考えを詰めていた重さから解放されるように街道を進んだ。

入ったこともない骨董商のガラス窓に映る私たちは、どこからどう見ても、普通の恋人でしかなく、つい先ほどまでの会話を忘れるように、目的もなく歩んでいく。

ふと、隣からチラチラと視線を感じた。

隣を歩く彼女が寄越す視線は、推理の先を期待しているのか、はたまたいつかの彼女が言ったように、ただ顔を見たくて覗き見ているのかも結局分からず、しかしその溺愛ぶりに、ようやく非現実めいた問答から逃れ、日常に戻れたように錯覚してしまう。

 

商店街の入口に差し掛かると、古びたアーケードの下から空気が暖かく変わったようだった。

風が直接当たりにくくなるだけで、頬にまとわりつく冷たさは随分和らいで、代わりに無数の店先から漂う、甘い匂いや揚げ物の匂いが薄く混ざりながら鼻を撫でる。

制服姿の店員が威勢のいい声で客を呼び込みながらシャッターの前を箒で掃いている。精肉店の前は揚げたてらしいコロッケの香りが擽るように広がって、硝子ケースの中できつね色の揚げ物が並んでいる。八百屋の店先には丸々とした野菜と果物が並んで、その鮮やかな橙色だけが曇り空の中で妙に明るかった。

平日の昼間だからか、人通りは多くなく、それでも心なしか、いつもより子連れの客に溢れている気がした。

 

商店街の真ん中あたりで、小さな本屋に差し掛かる。

吸い寄せられるように足を止めると、彼女も何も言わずに隣で止まった。

 

「…寄りますか?」

 

「んー…今日はいいかな」

 

「…珍しいですね」

 

意外そうに呟く彼女に肩をすくめて応える。

 

「…いや、いまの状況で買うわけないでしょ」

 

「わたしは気にしませんよ?」

 

「…なんとなくそう言う気はしてたけど、普通に考えて私が気にするから」

 

「ふふ、本当に気にしないのに…」

 

溢れるように柔らかく微笑みながら言う姿。

その暖かい笑顔に何故だか救われたような気になってしまう。何度だって目に焼き付けたはずの姿だというのに。

 

商店街を抜け、小さな公園へ出る。

木々はいつの間にか力尽きて葉を落としていて、次の芽吹きを待つように枝だけが細く空へ伸びていた。

砂場の端には、いつの間に降ったのか、溶け残った白い塊が少しだけ、黒色に汚れながらも残っていた。

 

無視できない、違和感があった。

或いは、気づかないふりはもう、出来なくなっていた。

見たこともない建物が建っている、なんて分かりやすい差異ではなく、しかしいつの間にか、どうしても目についてしまう微かな違和感。

私の頭の中にある街と、目の前にある街は、練り歩いた街は、ここまで散歩した街は、薄皮一枚分だけ、何かが違った。

時期が違った。

季節が違った。

 

「…ねぇ」

 

「…はい」

 

「君は、今日"一日"を無限ループしている?」

 

手を伸ばして探るような私の声に、彼女はふと、足を止めた。

どこか妖しげな笑みを浮かべながらこちらを見つめ、そして、どこかにあった確信めいたものを証明するように、約束通りの三択で答えた。

 

「…はいといいえでは答えられない、です」

 

その答えを聞いた瞬間、今までの認識の骨組みが、そもそも間違っていたことに気づいてしまった。

つまり、言葉の罠だ。彼女は最初から、時間が巻き戻るとは一言も言っていない。今日を繰り返している、としか言っていない。実際に同じ時刻を反復しているのではなく、別の意味で同じ一日が何度も訪れているのだ。

 

「……つまり、同じ日付じゃない」

 

「はい」

 

「でも君にとっては、同じような一日が延々続いてる」

 

「はい、その通りです」

 

風が吹いた。

彼女の髪が頬にかかる。彼女はそれを払うこともせず、ただ、どこか心配そうに私を見ていた。

 

「…私と何度も、同じ一日を過ごしてる?」

 

「…はい」

 

背筋が冷えた。間違いなく、外気のせいじゃない。

 

「……私だけが、それに気づいてない?」

 

「…はい」

 

あまりにも静かな肯定だった。

私は立ち尽くした。通り過ぎる自転車のベルが耳元で鳴って、ようやく歩道の端に寄る。彼女は何も言わず、私に合わせて歩き出した。

同じような一日。何度も。私だけが気づいていない。

 

「……私は毎朝、何かを失ってる?」

 

「…はい」

 

「…それは、…記憶?」

 

「はい」

 

そこまで来ても、まだ私は核心の手前にいた。或いは認めたくなかったのかもしれない。進みたくなかったのかもしれない。

だって、いまこの瞬間の会話だって覚えているんだ。彼女の顔も、自分の名前も、住んでいる家も分かる。

 

「…昔のことは覚えてる?」

 

「はい」

 

「………新しい記憶を、明日に持ち越せない?」

 

「…はい」

 

足が止まる。砂場の近くで、小学生が泥まみれの雪の残りを蹴っていた。

そう、雪だ。

そんなものがある季節なのか、と。なんで気づかなかったんだ、と。今さらみたいに思う。私の頭の中では、まだ冷たい雨くらいまでしか許容されていないというのに、現実はいつの間にか、まったく気づかぬうちに、そこを追い越していた。

吐き気がするように、喉が詰まる。

 

「…前方性健忘症、か」

 

とうとう答えにたどり着いた震えた声に、彼女は、痛みを抱きしめるように静かに目を閉じた。

 

「…はい」

 

あまりに小さな声で、あまりに確かな肯定だった。

ふと、自分の脳みそを嫌に具体的に、生々しくグロテスクに想像してしまう。その浮かび上がった脳みその何処かに、決定的な、そして致命的な損傷がある様子を想像してしまう。

自分でも気づかぬうちに、身体の感覚が酷く遠のいて、それすらもその傷のせいに思えてしまい、余計に意識が遠のいていく気がした。

冷たく凍える世界で数秒立ち尽くして、それでようやく、今まで気持ち悪く歪んでいるようだった世界が、やっと、一つに繋がった気がした。同時に、その繋がり方が最悪すぎて、何も嬉しくなかった。

そこで、合点がいったように、朝のやり取りを不意に思い出す。

 

今日は何月でしょう、という問い。

 

あれは、ただの練習問題なんかではなかったのだ。

私は自分の認識に従い九月だと答えて、間髪入れずに、いいえを返されたあと、勝手に彼女が事前に頭の中で決めた月を当てるゲームだと思い込んだ。そう解釈したほうが、自分の認識が揺らがずに済んだからだ。

でも違った。

答えは単純に、本当に十二月だったんだ。

だから扉の外はあんなに寒かった。吐く息は白く、街には雪が残っていて、私の知っている季節だけが取り残されていた。

ただ私が気づくことが出来ていなかっただけで、間違っていたのは世界のほうじゃなく、私の現在地のほうだったのだ。

 

私はしばらく呼吸の仕方を忘れたみたいに立っていた。彼女がそっと手を引くまで、自分が寒さに震えているのか、別の何かで震えているのかも分からなかった。

手を引かれるままに、介抱されるように、背中に軽く手を添えられながら、公園のベンチに座った。縋り付くように握りしめる彼女の手は暖かいのに、冬の金属は皮膚を刺すように容赦なく冷たかった。

 

「……いつから」

 

「それは、はいといいえで答えられません」

 

「…もう、そのクイズはいいから」

 

八つ当たりのように苛立ちながら、思わずそう言っていた。

 

「君が同じ一日を繰り返してるように感じる理由は、私が新しい記憶を持ち越せないから。毎朝、同じところからやり直しになるから。もうクイズの答えは出てる。三択で答える必要はないでしょ」

 

私の向ける、見当違いの怒りにも動揺することもせず、彼女はただ、静かに首を横に振った。

 

「いいえ」

 

「……どういう…こと?」

 

「…それは、答えじゃありません」

 

淡々とした声だった。きっと意図して作っているであろう声。

 

「君に何が起きているのか、わたしがどういう状態に置かれているのか、…確かにその説明にはなります。でも、最初に聞いた質問の答え、理由ではありません」

 

「…同じようなものじゃないの?」

 

「違います」

 

その一言だけは、間違いなく取り繕うことのできない感情が込められているのが、よくわかった。

 

「わたしがなぜここにいて、なぜ諦めずに同じ朝を迎え続けているのか。その理由は、まだ君の口から出ていません」

 

その声に、私は息を詰める。紙に書いた問いの断片が頭の中で並び直されていく。

前方性健忘症。事故。毎朝失われる記憶。それらを用いて説明できる無限ループという状態。だが、それだけでは彼女の言う「理由」にはならないらしい。

まだ残っているものがある。

 

私が、今日より前に、故意に、彼女を傷つけながら助けようとしたという話だ。そこだけが、まだ空白のままだった。

詰まった息を吐きだす様に、急いて躓きながらも必死に走りだすように、声を言葉と為す

質問の形式を守るしかないのに、急にそれがもどかしくなった。

 

「…原因は事故、なんだよね?」

 

「はい」

 

「そのあと、私は自分の病気を知った?」

 

「はい」

 

「…知ったうえで、その後に君を傷つけた?」

 

「はい」

 

「…それは……君を私から解放するため?」

 

「…はい」

 

彼女の睫毛が、そこで震えた。

こんなことを考えるなと思いつつも、頭の中で一つの最悪な可能性が形を取る。あまりにも安直で、あまりにもありがちな悲劇だが、ここまでの答えに一番きれいに収まる形でもあった。

 

「…私は、自殺しようとした?」

 

彼女は、唇をかみしめながら、それでも目を逸らさなかった。

 

「…はい」

 

遠くで、子どもが笑う声がした気がする。

冬の空は高くて、薄い。人が一人、自分の命を捨てようとした事実なんて、よくある悲劇にすぎないと、見て見ぬふりをしているかのように。

私は彼女の泣きそうな瞳を見つめながら、しばらく何も言えやしなかった。

頭の中で、見たことのない情景がいくつも生まれては消える。

風呂場。薬。ロープ。刃物。どれが本当かは分からない。或いは全て本当なのかもしれない。

ただ一つだけ確かなのは、私は彼女を無限ループから解放するために、自分を消そうとしたのだということ。だから彼女は、初めて見るように震えながらも最初にあんなふうに言ったのだ。抜け出す方法を考えないでくれ、と。

私がまた同じ答えに飛びつくから。飛びついてしまうから。

 

「…助けるつもりで、か」

 

「はい」

 

彼女がようやく、両手を膝の上で組んだ。私の手から離れたそれは、触らなくても分かってしまうくらい、もう、冷たそうだった。

 

「…ねえ」

 

取りすがるように、今度は彼女のほうから口を開く。

 

「ここから先は、きっともう、質問じゃなくてもいいですか…?」

 

「……うん」

 

彼女は、かすかに笑った。

まるでいまにも泣き出しそうな顔で。

 

「わたし、最初は誰かがちゃんと毎朝説明すればいいと思ったんです。わたしでも、お医者さんでも、君のご家族でも、誰でも。君に、病名を、現状を、全部、まっすぐ伝えればいいって」

 

「…でも、違いました」

 

彼女は数えきれない過去を抱きしめるみたいに遠くの曇天を見上げる。

 

「当然ですよね……あなたは前方性健忘症ですと言われて、絶望しない人なんてきっといません」

 

「毎朝、わたしを見る目だけは変わらなくて、それなのに、昨日まで積み上げたはずの会話が、余すことなくどこかへ落ちている。デートの約束も、映画の感想も、夜中に二人で笑ったどうでもいい話も、全部」

 

そこで彼女は一度息を切った。話し続けるために呼吸が必要なのだと、初めて分かるくらい、かすかだった。

 

「もちろん、全部が全部同じ一日ではないんです。天気も違うし、季節も少しずつ変わって、スーパーの特売も、テレビのニュースも変わっていって……でも、わたしにとっては同じ一日みたいに、似ているんです。毎朝、君がわたしの顔を見て、そのたびに、わたしはまた最初から説明するか、説明しないかを選ばなきゃいけない。…その結果、君が命を絶とうとするかもしれないという重さごと、抱きかかえながら」

 

壊れてしまいそうな彼女の横顔を見ながら、私は何も言えなかった。

彼女は私をこれっぽっちも責めていない。それがいちばん痛かった。なにより痛かった。

「でも」と、まるで息継ぎをするみたいに彼女は言った。

 

「…実はまだ、今話した内容を仮に君が答えていたとしても、それでもまだ正解には辿り着けていません、せいぜい七十点くらいです」

 

「…」

 

「だから、そろそろ、…答え合わせをしましょうか」

 

彼女はそこで、優しく微笑み、私をまっすぐに見た。

これまでのような何かを堪えるような様子とは明確に違う、伝えなければならないことを優しく差し出す様な、或いは伝えたいことを、やっと伝えられるという安堵にも見て取れる、そんな儚くやわらかな笑顔。

 

「わたしが無限ループを諦めない理由は…」

 

 

 

「……君を、ずっと愛しているからです」

 

 

 

それは紛れもなく告白だった。飾り気のなく、しかしだからこそ、飾りようのない告白だった。

微笑みと共に告げられる声は決して大きくなく、しかし凍てつく日陰に日が射すように真っすぐと向けられる誠実な愛情。

まるで冬の空気のように澄んだ告白だった。そんなことを思ったんだ。彼女の声は柔らかいのに、逃げ道がなかったから。

 

「介護だとか、責任だとか、情だとか、そういう言葉で片づけられるのが、いちばん嫌でした」

 

「……でも、だとしても、そもそもの原因は私なんでしょ?」

 

「ループの原因と、ループを諦めない理由は似ているようで違いますから」

 

彼女はいつもの口調で、静かに言い切った。

それは彼女の中では不変の真理であり、道を照らし続ける光明でさえあるのだろう。

 

「君が病気だから、わたしはここにいるんじゃなく、君が自殺しようとしたからでもなく、…わたしは、君と生きるためにここにいるんですよ?」

 

雪が降りそうな帰り道、私たちは手をつないだ。確か、彼女が先に握った。正確にはもう覚えていない。そういう曖昧さが、今の私にはあまりに多い。

夕方になって、窓の外はさらに白く鈍った。部屋の中には、沸かした湯の匂いと、彼女の使う化粧水の淡く甘い匂いが混ざっていた。こんな普通の生活の中に、私だけが知らない底があったのだと思うと、床が抜けそうな気がした。

 

彼女はソファで膝を抱えていた。隣に座るこちらを見て、そして儚く笑う彼女を、私は甘えるように抱き締めた。

そのつもりだったのに、腕を回した瞬間、自分が思っていたよりずっと強い力で彼女を掻き抱いていたことに気づく。まるでこの身体の熱ごと覚えておかなければ、本当に次の朝には何もかも失くしてしまうと、もう身体のほうが知っているみたいに。

 

「……いた、かったら、ごめん」

 

掠れた声でそう言うと、彼女は私の胸元に頬を寄せたまま、小さく首を横に振った。

 

「いいえ。…もっと強くでもいいですよ」

 

その返事があまりにやさしくて、たまらなくなる。

私は彼女の背中へ回した手に少しだけ力を込めた。薄い部屋着越しに伝わる背骨の感触。肩甲骨の小さな硬さ。呼吸のたびにわずかに上下する体温。そういうものを一つひとつ拾い集めるみたいに、指先で確かめる。

明日には忘れるのだとしても、いまこの瞬間だけは、たしかに私の腕の中にいる。それがひたすらに、救いだった。

彼女の髪から零れる甘い匂い。鼻先が触れそうな距離でそれを吸い込むと、胸の奥がどうしようもなく軋んだ。

 

「……ねえ」

 

「はい」

 

「…大好き」

 

「はい、…わたしもです」

 

即答だった。その迷いのなさが、泣きたくなるほどに、愛しい。

彼女は私の背に腕を回し返し、子どもをあやすみたいにゆっくりと肩を撫でた。一定の速さで、何度も、何度も。

それこそが、何周も同じ朝を越えてきた証拠のような手つきなのだと思うと、考えてしまうと、心臓の奥に鈍い痛みが落ちる。

私は彼女の胸元へ顔を埋めた。もう少し深く、この温度の中へ沈んでしまいたかった。忘れたくない。忘れると分かっているからこそ、今さらみたいに全てが惜しい。

 

「……明日になったら」

 

言いかけて、喉が詰まる。

明日になったら忘れる。

明日になったらまた初めからになる。

明日になったら、抱きしめた熱も、忘れてしまう。

そんな当たり前を、声にしてしまうのが怖かった。

彼女は何も急かさず、ただ背を撫で続けてくれる。私はそのやさしさに甘えて、とうとう彼女の肩口へ額を押しつけたまま目を閉じた。

 

好きだ、と思う。

怖い、と思う。

消えたくない、と思う。

消えてしまう、と思う。

 

ぐちゃぐちゃになった感情のいちばん底で、それでも最後に残るのは、ひたすらに彼女への執着なのだと、嫌というほど思い知らされる。

私は少しだけ身体を離した。鼻先が触れそうな距離で彼女を見る。近すぎて、焦点が合わないくらい近い。彼女の睫毛の影も、瞳の揺れも、唇のわずかな湿り気も、全部見えて。

彼女は、そしてきっと私も、泣きそうな目のまま、ふたりしてほんの少し笑った。

 

その表情に誘われるみたいに、私はそっと彼女の頬へ触れる。指先が冷えていたのか、彼女がわずかに目を細める。親指で目尻のあたりを撫でてから、確かめるようにゆっくりと唇を重ねた。

柔らかい。あたたかい。生きているひとの唇だと思う。そんな当たり前のことが、胸を潰しそうなくらいに切実だ。

離れようとした瞬間、彼女の指が服の裾をきゅっと掴んだ。

呼吸が止まりかけて、細め切った目のままに見下ろすと、彼女は目を閉じたまま、まだ、ほんの少しだけ顎を上げていた。行かないで、と、言葉もなく縋るみたいに。

その仕草があまりに愛しくて、私はもう一度、さっきより深く口づけた。

角度を変えて重ねるたび、彼女の息が小さく乱れる。触れ合った唇の隙間から洩れる呼吸まで愛おしくて、どうしようもない。

 

こんなふうに私から彼女に甘えるのは、少なくとも今の私が記憶している限りでは初めてだった。ただ失いたくない一心でしがみつくみたいに。

彼女の手が私の首筋へ伸びる。指先が髪をかき上げ、耳の後ろを撫で、そのまま後頭部を包み込んだ。その導かれるままに、私はさらに彼女へ沈む。

何度か深く唇を食んで、ようやく離れた頃には、二人とも息が上がっていた。

彼女の目元が赤い。

泣きそうなのか、もう泣いているのか、その境目が分からないまま、私は祈るように額を合わせた。

 

「…きっと諦める気なんて、…選択肢にすら、ないんだね…」

 

「……はい……君が、この手を離せないのと、…まったく同じ理由によって…ですね…」

 

いたずらっぽく重なる手の体温をいつまでも望みながら、囁くような彼女のその返事を聞いたとき、たぶん私は初めて、彼女が本当に無限ループの中にいるのだと理解したんだ。

きっと終わらせるつもりのないような覚悟で、同じ朝を迎え続けているのが分かったから。

 

部屋の明かりが暗い蚊帳を超えて滲むような夜、浴室の扉の向こうでは水の音がしている。

私はダイニングテーブルに座っていて、白いノートを開いて、ペンを握っている。

緊張とは少し違う受け入れ難さによって、小刻みに手が震える。寒さのせいなんかじゃない。

忘れることが決まっている一日を書き留めるというのは、妙な行為だ。流れる水を素手で掬って瓶に詰めるようなものだ。当然のようにこぼれるほうが多いに決まっている。

それでもやるしかない。

 

書かなければ、明日の私はまた、彼女の目の下が薄く腫れている理由を知らないままに、のんきにおはようを言うのだろう。

書かなければ、彼女が冬の空の下で、もしかすると何度も私に与えてくれただろう答えが、私の中でただの空白になってしまう。

書かなければ、私はまたどうやって彼女の無限ループを終わらせるかを先に考えるかもしれない。

書かなければ。

今日の朝の湯気も、

彼女の紅茶の冷めた匂いも、

コートの襟を直した指先も、

公園のベンチの冷たさも、

全部、できるだけでいいから残すように。

 

忘却に奪われる前に、少しでも多くのものを紙へ縫いつけるように。

これは記録であり、抵抗だ。残酷な無限ループに対する、あまりに貧弱で、それでもいまの私にできる唯一の反逆だ。

たとえ明日になれば、今の私が死ぬとしても。或いはこの先で何度死んでも、紙の上でだけは、かろうじてでも生き延びさせるんだ。

彼女にばかり、同じ朝の責任を負わせないために。

 

…さて、ここまで読んでいるなら、君はたぶん、朝から何をと、少し混乱しているかもしれない。

落ち着いて読んでね。

これは大げさな創作なんかじゃない。

昨夜の、…いや、或いは数十日前の君が書いた抵抗の記録達なんだ。

何十回目かの初めての死を迎えるたび、どうか君へと、きっと届きますようにと。

 

最後にもう一度、端的に伝えよう。

君は前方性健忘症だ。

事故のあと、新しい記憶を長く定着させられなくなってしまった。

 

念の為大事なことをもう一度。

彼女が無限ループを諦めない理由は、

君が病気だからじゃない。

君が自殺しようとしたからじゃない。

 

 

ひたすらに彼女が、

君のことを愛してくれているからなんだ。

 

 

この一文を、都合のいい免罪符にするなよ。

甘えていいという意味でも、全部任せていいという意味でもないから。

彼女は君の隣に、自分の意思でいる。自分の選択の先で立っているんだ。

何度でも説明すると言ってくれた。

何度でも朝をやり直すと言ってくれた。

その覚悟を、勝手に否定するな。

 

君がやるべきなのは、死んで彼女を解放することじゃない。

生きて、何度でも受け取ること。

何度忘れても、また受け取るんだ。

 

何回余命一日を宣告されたって、

Good morningからRest in peaceまでを何度だって。

恥ずかしくても、惨めでも、みっともなくても、生きろ。

 

青臭い言葉でごめん。汚い字でごめん。

でもしょうがないでしょ?

そりゃあ私だって怖いんだ。

震える手で綴るこれを書き終えて、そして眠ってしまえば私は死ぬ。

それでも書くんだ。

それでも足掻くんだ。

 

だから、

だからお願い。

君も、諦めないで欲しい。

何をしたっていいさ。

出かけてもいい。家でのんびりしてもいい。

何度忘れ、何度死のうとも、

 

生きろ。

頑張れ、私。

 

──────

 

わたしがそれを打ち明けたのは、朝食の皿を流しに運んだあとだった。

食後、なんとなくソファに身を預けた君の両頬に、わたしはそっと両手を添えて、そのままするりと頭を自分の膝へ導く。抗議されるかもしれないと思ったけれど、君はほんの少し目を丸くしただけで、あとはされるがままに体重を預けてくれた。

かわいい、と思う。

そういうことを、もう何度思ったか分からない。それでもことある毎に、君は新しく胸の奥を柔らかく刺してくるから困る。

髪へ指を差し入れる。朝の光を少し含んだその髪は、撫でるたびに指のあいだを静かに流れていった。頭皮を傷つけないように、けれど心地よさがきちんと届くように、力を調整しながら梳いていく。君はそれだけで、眠そうにするみたいに少しずつ肩の力を抜いていく。

君がどこを撫でられるのに弱いか。どのくらいの強さなら安心して目を閉じるか。どのくらいの間をあければ、名前を呼ばれなくても自分からこちらへ重心を預けてくるか、わたしは良く知っている。まるで飼い猫の撫で方を熟知している飼い主みたいに。

 

「……急に、……なに?」

 

君はそう言った。表情はどこか不満げで、たぶん咎めるつもりだったのだろうけれど、声はきっと本人が思っているよりずっと柔らかく崩れていて、…そしてきっと、そのことすら自覚してしまい、それで恥ずかしそうにしているのがよく分かった、分かってしまった。

わたしは少しだけ口元を緩めた。

 

「可愛かったので、つい」

 

と答える。

ほんの少しだけ、得意げな響きが混ざってしまったかもしれない。君はそれに気づいたらしく、むっとしたように眉を寄せたが、それでもそのまま膝から逃げようとはしなかった。

かわいい。

どうしようもなく。

前髪を指先でかき分け、こめかみのあたりをゆっくり撫でる。見下ろせば、楚々とした頬の輪郭も、うっすらと甘く色づいた耳も、呼吸のたびに揺れる喉も近い。

こんな距離が、二人のあいだではもう珍しくなくなって久しいのに、わたしのほうだけが、いまだに何度でもひそかに胸を熱くしてしまう。

 

自分のものだと言ったことはない。言うつもりもない。けれど、逃がすつもりがないことだけは、きっともう伝わっていて、それでも、普段誰にも心を開かない彼女が、それを許して、わたしだけにされるがままにしている様子が、どうしようもなく愛おしい。

わたしの親指が、髪の生え際をそっとなぞる。君は目を閉じかけて、けれど何かを思い出したみたいに、もう一度こちらを見た。たぶん、こうして甘やかされる理由を探しているのだろう。

その仕草まで愛おしくて、わたしは君の手を取った。撫でる手は止めないまま、もう片方の手だけで包み込むように握る。君の指先は、朝のうちならまだ少し冷たい。

食卓にはまだ味噌汁の薄い湯気が残っていた。窓の向こうは曇り空で、白い光だけが部屋の輪郭をやわらかく撫でている。

 

わたしは撫でる手を止め、マグカップを両手で包んだ。少し冷めた紅茶を飲みもせず、ただその温度を確かめるみたいに持つ。

言わなければいけない。今日も、誤魔化さずに。

きちんと、まっすぐに。

そう思っていたのに、胸の内側はあまりにも静かに震えていた。

 

「ねえ」

 

呼ぶと、君が顔を上げる。わたしは微笑んでいたと思う。少なくとも君を怯えさせない程度には。けれど自分で分かるほど、その笑みは少し硬かった。

 

「驚かないでください。たぶん、驚くでしょうけれど」

 

「前置きが長いな。……なに」

 

わたしは息を吸った。喉がひどく狭かった。

 

「大事なお話があります」

 

君の表情が少しだけ改まる。冗談ではないと察したのだろう。わたしはマグカップを置いた。陶器が木へ触れる、小さな乾いた音がした。

 

「君は、ある事故のあとから、…新しい記憶をうまく定着できなくなりました」

 

一拍。そして君の睫毛が震える。

 

「……え」

 

「…つまり、今の君は、前方性健忘症…なんです」

 

その瞬間、君の身体から熱が引いていくのが分かった。

さっきまで膝に預けられていた重みが、別の意味を持ちはじめる。君は起き上がろうとして、うまく力が入らないみたいに一度ソファへ手をつき、それからようやく身体を起こした。

目だけが先にこちらを見る。焦点が合っていないみたいに、ひどく遠い。

 

「……なに、を」

 

「昔の記憶や、わたしのことや、自分のことは覚えていられます。…でも、その日あったことを、翌日まで…」

 

「待って…」

 

鋭い声だった。反射で、わたしの言葉が止まる。

君は立ち上がろうとして、けれど膝がうまく言うことをきかなかったらしく、ソファの端へよろめくように寄りかかった。顔色が目に見えて悪い。呼吸が浅くなっている。

 

「やめて、……なにそれ、意味が分からない、だって、今こうして、覚えてる、全部覚えてるのに……」

 

「はい。今は、覚えています。でも日付が変わると――」

 

「……」

 

君の肩が小さく震えている。目の奥にあるのが怒りではなく、純粋な恐怖だと分かってしまって、心臓が潰れそうになる。

 

「ごめんなさい、でも、伝えなければと…そう思って…」

 

「…つまり明日の私は、今日の記憶を全部失くすの?」

 

「……はい」

 

言った瞬間、君の顔から血の気が失せた。わたしはすぐに近づいた。逃げられるかもしれないと思ったけれど、君は逃げなかった。

逃げるどころか、座っていることすらできなくなったみたいに、その場で崩れかける。わたしは慌てて腕を回し、その身体を抱き留めた。

細い。

こんなときに思うことじゃないのに、そんなことを思ってしまうくらい、君は軽かった。

 

「大丈夫です、座りましょう。ね、…ゆっくり」

 

「大丈、夫……」

 

君の声が掠れる。泣いているわけでもないのに、もう喉が壊れかけているみたいだった。

わたしは君を抱きしめた。背中へ腕を回し、頭を胸元へ押し寄せるみたいにして包み込む。そうすると君はようやく、自分が震えていることに気づいたみたいに、細く息を乱した。指先がわたしの服を掴む。思い切り、みっともなく、縋るように。

 

「落ち着いてください。ここにいます。わたしはここにいます」

 

「……もう、……なにも…、できないん、…だ……私…」

 

それを聞いた瞬間、背骨の奥が凍った。

ああ、やっぱり。

そう思ってしまった自分が嫌だった。予感していたくせに、まっすぐ言えば、今度こそはきっと大丈夫、なんて、まだどこかで都合よく信じていた自分が。

君の呼吸はますます乱れていく。過呼吸の手前だ。わたしは背中を撫で、肩をさすり、耳元で何度も名前を呼んだ。大丈夫なんて簡単な言葉では、まるで足りないのに。

 

「聞いてください。何があっても、君は君です。わたしのことも覚えています。いままで好きだったものも、嫌いだったものも、ちゃんと君の中にあります」

 

「でも、でもそれって……」

 

「はい。分かっています。……分かっているつもりです」

 

つもり、でしかない。本当は分からない。

毎晩自分が死ぬようなものだとかつての君がそう言った絶望を、同じかたちで引き受けることなんてできない。

それでも、離す訳にはいかなかった。

君の額がわたしの肩口へ押しつけられる。熱い呼吸が服越しに伝わる。そうしてようやく、君は声を殺して泣き始めた。ひどく静かな、ひどく幼い泣き方だった。

わたしは抱きしめる腕に力を込めた。

そのときにはもう、嫌な予感が、胸の底に根を張っていた。

 

──────

 

夜半すぎ、水音で目が覚めた。

最初は、君が眠れなくてお風呂にでも入っているのだと思った。事故のあと、眠りが浅くなっていることはよくあって、それ自体は珍しいことではなかった。

けれど、しばらくしても水音は止まらない。むしろ同じ調子で、際限なく流れ続けている。

胸の奥が、縮む。嫌な予感。

 

「……なにかありました?」

 

返事はない。

ベッドを出た足が冷たかった。廊下の暗がりが、やけに深い。浴室の扉の前に立ったとき、内側から漏れる水音に混じって、鉄みたいな匂いがした気がした。

咄嗟に駆け出して、乱暴に扉を開ける。

白いはずの床に、赤があった。

一瞬、何を見ているのか分からなかった。

赤い。

濡れている。

人が倒れている。

理解が追いついた瞬間、息が止まった。

 

「……っ、――っ、なん、で…!」

 

声が上擦った。自分のものじゃないみたいだった。膝が抜けそうになるのを、壁に手をついてこらえる。

シャワーの水がまだ流れたままで、床の赤を薄めながら広げていた。わたしは震える手で止水栓を回した。指が滑って、一度でうまく止まらない。二度、三度、やっと水音が途切れる。

静かになった途端、耳鳴りだけが残った。

君の名前を呼ぶ。返事はない。しゃがみ込んで肩へ触れる。冷たくはない。まだ、温度がある。

それだけで涙が出そうになった。

 

「やだ、やだ、……お願い、お願いです、ねえ、ねえ……!」

 

手が震えて、スマートフォンを落としかける。画面がうまく見えない。数字が滲む。何度も押し間違える。やっと繋がって、けれど最初の一声が出てこない。

 

『救急ですか、火事ですか』

 

「きゅ、救急、です、たすけて、ください……!」

 

自分でも驚くほど声が壊れていた。言葉が喉につかえて、うまく出ない。それでも伝えなければいけないことだけを必死で紡ぐ。

指示に従って、タオルを取る。手元がおぼつかなくて、棚に肘をぶつけた。

タオルを押し当てる。顔色が悪い。睫毛が濡れて頬に張りついている。唇の色が薄い。

 

「だめです、だめ……」

 

誰に言っているのか分からなかった。

君にか、自分にか、この世界にか。

救急車のサイレンが聞こえるまでの時間が、永遠みたいに長かった。君の手を握る。返してはくれない。わたしはそのたびに、もっと強く握った。こんなところで離れるなと、祈ることしかできなかった。

遠くから近づいてくる音は、最初は細い針のようで、やがて鼓膜の奥を引っ掻くように大きくなって、そして現実を思い知らせるみたいに迫ってくる。

やがて窓の外で赤い光がチラチラと揺れた。

 

「…もうすぐ来ます…!…もうすぐですから…」

 

君に言ったのか自分に言い聞かせているのかわからないうわ言を口にしながら、まだ冷たくはない手を必死にさする。

何百回と握り、そのたびに鬱陶しそうにしながらも、あきらめたように握り返してくれる筈の手が、返事も、反発も、照れ隠しもなく、ただそこにある。

ひどく長い数分をようやく経て、玄関のチャイムが鳴る。それからすぐに慌ただしい足音がした。複数人の硬い足音が。

少しの間もなく担架が運び込まれて、君の体はそこに移された。

見慣れた部屋着が乱れて、濡れた髪が頬にへばりついて、…そんな小さな乱れさえも、乱れまでも、どうしてかやけに鮮明だった。

 

車内は雑に塗りつぶしたみたいに白かった。

サイレンの音は外で聞くよりもずっと近くて、狼狽している頭の中で流し込まれたみたいに歪んで響く。

赤い光が断続的に流れ、そのたびに夜の街は切り刻まれるかのようで、見慣れたはずの道が、知らない場所へ連れていかれる道中のようにさえ見えた。

処置をしている人の腕や器具の隙間から君の青白い顔が見えるたび、吐き気を堪えるように身動きがとれない。

それでも、すべて任せておとなしくしているべきなのだろうと分かっていても、何もせずにいるのはどうしたって無理だった。

 

「…邪魔にならないようにしますから…手を…握らせてくれませんか…?」

 

正直に言えば、言った時点で邪魔でしかなかったのだろうと思う。

それでも、少しの間があって、邪魔にならない範囲でなら、と許しがでて。

…それで、わたしは君の指先に触れた。

祈るように触れた。

しがみついて縋りつくように触れた。

 

「…置いて、行かないで…ください…」

 

か細く囁くように言い聞かせれば、きっと珍しくもないだろう光景を、痛ましそうに見つめる隊員の目が、やけに印象深かった。

 

やがて、いつ着いたのかも気づかぬうちに到着していたらしい病院に運び込むために、流れるようにストレッチャーへと移されて、必死に追いすがるように走り出せば、病院の関係者に関係を尋ねられる。

 

「…同棲している者です。…恋人、です」

 

こんな時でなければ、顔を赤らめながら自慢げに言うような言葉を、関係を、証明するみたいに説明しなければならないことが、紛れもなく惨めに感じた。悔しささえ感じていたかもしれない。

何度か同じ説明を繰り返している内に、わたしは君の何なのだろうと思う。そんな後ろ向きな考えさえも、気が動転しているせいなのかすらわからない。

 

いわれるがままに緊急連絡先、つまりは君のご両親に連絡することになって、画面すらろくに開けないほど震える手で、連絡先をスワイプした。

何度も見た名前なのに、指を置くのに時間がかかる。

だというのに、ようやく繋がった瞬間、相手方の「もしもし」という感動詞があまりにも日常の声を、形をしていて言葉に詰まる。

 

夜分にすいません。

今、救急で、

命に関わるかもしれなくて。

 

言葉を正確に選ぼうとするほど、言葉は汚く散らばった。

きっとひどい説明だったと思う。けれど向こうも、途中から何かを察したように声色が変わった。

病院名や、状態がまだわからない事、来られるなら来てほしい旨をなんとか伝える。

通話を切ったあと、真っ暗なスマートフォンの画面に映った自分の顔が、知らない女みたいだった。

 

待合の椅子は硬くて、廊下の空調はやりすぎなくらいに強く、濡れた袖口が冷えて皮膚に張り付いていた。

その指先には、嗅ぎなれたハンドソープの匂いと、少しだけの鉄の匂いがして、それを認識してしまった瞬間、吐き気がこみ上げて口元を抑える羽目になる。

どれくらい経ったのか、待ったのかわからない。

数分だったかもしれないし、数時間座り込んでいたようにも感じる。

 

「…わたし、…何をしてたんでしょうね」

 

最悪なコンディションの最中、何回かに分けて手渡された書類を書き込んでいく内に幾つか生じる空白が、わたしの愛情の足らなさを、至らなさを責めているようにさえ見えて、思わず呟いてしまう。

誰に向けるでもなく呟いた声に応えてくれる人は、誰もいなかった。

 

やがて医師に呼ばれて、妙に現実味のない整然とした小さな部屋で、説明を受けることになる。

医師は落ち着いた声で話した。

まず、処置が終わったこと。

命に関わる状況にないこと。

状態は安定していること。

聞いた瞬間に、或いは最中に、糸が切れたように座り込んでしまう。

助かった。

そう思った。

けれどもう分かってしまっていた。君は、わたしが思っていたよりずっと、簡単に生きるのを諦めてしまう。

 

憔悴しきったわたしは病院から一度だけ部屋へ戻った。着替えと、入院に必要だと言われた書類を取りに来ただけの、短い帰宅だった。

玄関を開ければ、室内へ入った瞬間に足が止まってしまう。

昨日までと同じ部屋のはず。

脱ぎっぱなしの部屋着、飲みかけの水、ソファの端に寄ったクッション。

生活の余韻がそのまま残っていて、君が今にも「おかえり」と言いそうなくらい、日常の姿に揺蕩うまま。

 

「……」

 

ローテーブルの上に、書類が重ねられている。

病院で必要になるものを探すつもりで近づいたわたしは、しかしそのまま息を呑む。

賃貸契約書。

保険証券。

通帳のコピー。

職場関係の連絡先を書いたメモ。

扶養や名義変更に関する書類。

 

順番に、ひたすら見やすく揃えられている。

乱暴に放り出した形跡なんて、どこにもない。

泣きながら掻き集めたのでも、衝動のまま途中で投げだしたのでもない。

必要なものを、必要な順に。残される人間が困らないように。そういう並べ方だった。

わたしはその場に立ったまま、ただ眺める。あれは、発作的な絶望ではなかったのだと、そこでようやく分かってしまったから。

ただ怖くなって、ただ苦しくなって、逃げるみたいに死のうとしたわけじゃない。

 

君はちゃんと考えたのだ。

考えて、考えて、考えた末に、わたしが困らないように、わたしが後始末に追われないように、…そして何より、わたしが君の介護という役目に生涯縛られることのないように。

そんなことばかり整えてから、自分を消そうとした。

喉の奥が、ひどく狭くなる。

君は、わたしが君を見捨てないことを知っていたのでしょうか。

記憶の途切れる朝を何度迎えることになっても、わたしが君のそばにいようとすることを、疑わないでいてくれたのでしょうか。

 

…きっとだからこそ、こんな方法しか思いつかなかったのだろう。

言葉で離れてと告げても、きっとわたしは頷かない。泣いて縋られても、怒って拒まれても、それでもわたしは手を離さない。そう分かっていたから、自分ごと消えることでしか、わたしを未来へ押し出せないと思ったのだ。

それはあまりにも不器用で、

あまりにも勝手で、

あまりにも、君らしい。

 

責める気持ちは、不思議なくらい湧かなかった。信用してくれなかった、なんて、思いやしない。

だってこれは、むしろ逆だ。わたしが絶対に君を見捨てないと信じていたからこそ、わたしのその先の人生までを案じてしまったのだ。

愛されている、と思った。

ひどい形だ。

こんなの、愛し方としてはあまりに下手だ。

それでも、書類の端を指先で揃えた跡みたいな几帳面さに、わたしの扶養関係まで気にしていた痕跡に、自分がいなくなったあとのわたしの暮らしを、君が最後の最後まで考えていたことが滲んでいて、

それがどうしようもなく痛く、

そしてどうしようもなく愛しかった。

 

わたしはそっと、その束のいちばん上へ触れた。紙は冷たい。でも、その整い方だけが、君の手つきをありありと思い起こさせる。

昨夜、血の気の引いた顔で横たわっていた君と、こうしてわたしのために事務的な準備を済ませていた君が、ひとつの線で繋がってしまって、目の前が少し滲む。

君が思い詰めた果てに残したのが、恨みでも、絶望の叫びでも、遺書めいた感傷でもなく、わたしが少しでも困らないための、静かで、そして丁寧な身辺整理だったことが、あまりにも君らしくて、愛おしかったんだ。

 

冷めきった紅茶の香りが僅かに巡る。

君のいない部屋。

それでも隅々に君の気配だけが残っている部屋。

わたしはぐしゃぐしゃの泣き笑いを何とか落ち着かせるように胸に手を当てた。

 

何度やり直しになったって、

やっぱりわたしは、君が大好きみたいです。

 

──────

 

それから何日かして、また朝を迎えた。同じようでいて、同じではない朝を。

わたしは台所に立って、卵を焼きながら、ずっと考えていた。

きちんと説明したほうがいいのか。それともしないほうがいいのか。

医師には、本人の理解が大切だと言われたし、家族にも、隠し続けるわけにはいかないと言われた。それはきっと正しい。

でも正しさは、どうしても、どうしようもなく君を傷つける。

わたしは小さく息を吐き、包丁を置く。少しだけ頭が痛かった。鏡を見なくても分かる。目の下に薄い隈がある。このところ眠れていない。

君が起きてくる気配がした。

振り向くと、寝癖のついたままの君が立っていて、こちらを見る。見覚えのない朝に立ち尽くすような顔ではなくて、ただ少しぼんやりした、いつもの君の顔。

 

「おはよう」

 

そう言われて、胸の奥がきりりと痛んだ。

おはよう。

たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに難しいのだろう。

 

「……おはようございます」

 

いつも通りに返す。君は少し笑って、テーブルへ向かった。その自然さに、わたしのほうが救われそうになってしまう。

説明しなければ。今のうちに。この穏やかさが離れがたくなってしまう前に。

そう思ったのに、口が動かなくて。

代わりにわたしは、「今日はフレンチトーストにしてみました」

なんて、ひどくどうでもいいことを言っていた。

君は椅子に座りながら、少し目を丸くしたあと、素直にうれしそうな顔をした。

それだけで、もうだめだった。言える気がしなかった。

卑怯だと分かっている。先延ばしだとも分かっている。けれど、また君にあんな顔をさせるくらいなら、せめて今日一日だけでも、知らないまま穏やかに、健やかにいてほしかったんだ。

 

食卓で向かい合って朝食をとる。君はメープルシロップをかけすぎて、かすかに眉を寄せた。わたしが笑うと、君は少し不服そうにしながらも、結局最後まで全部食べた。

そのあと、二人でスーパーへ行った。特売の卵を買って、切らしていた生活用品を買い足して、ついでに君が新作のお菓子をかごへ入れる。

帰り道、コンビニで温かいカフェラテを買って、ひと口飲んだ君が舌を軽く火傷して、ケラケラと笑うわたしを軽く睨んだ。

わたしは「言ったでしょう、熱いって」と心底楽しそうに笑いながら言い、蓋を少し開けて一緒に息をふきかけ、湯気を逃がしてやった。

午後にはソファでだらだらと映画を見た。内容は正直、あまり頭に入ってこなかった。君が途中でわたしの肩へ凭れて、そのまま眠ってしまったからだ。

寝息が規則正しく続くたびに、…そして優しく頭を撫でるたびに、泣きたくなるほどに安堵した。

 

この人と過ごす日々は、本当にここにあったのだと思う。

事故の前にも、事故のあとにも。

たとえ記憶が繋がらなくても、失われたわけではない。はずだったんだ。

夕方、目を覚ました君が「結末はどうなった?」と聞くから、わたしは適当にあらすじをでっち上げた。君は「絶対嘘でしょ」と笑って、それでも細かくは追及してこなかった。

夜には一緒に簡単な鍋を作って、同じ器から豆腐をさらって取り合うようなやり取りをして、食後にアイスを半分こした。

普通だった。

残酷なくらい、普通だった。

 

もし、と思う。思ってしまう。

もしこの人が明日も今日を覚えていられたなら。

もしあの事故がなかったなら。

…けれど、ないものばかり数えても仕方がない。

大事なのは、今、ここにあるもの。

君が笑ってくれること。

わたしの淹れた紅茶を飲み、膝枕をすると、文句を言いながら結局じっとしていて、愛していると言えば、少し照れて、それでもちゃんと抱きしめ返してくれる。

それらは確かに毎日失われるのかもしれない。でも、毎日失われるからといって、毎日生まれていないわけではなかったんだ。

 

夜更け、君が眠ったあとも、わたしはしばらくリビングに残っていた。薄暗い部屋

に、鍋の匂いだけが残っている。テーブルには、今日のレシート、スーパーのポイントカード、半分だけ読んだ雑誌。そんな何気ない生活の痕跡ばかりだ。

ふと気づく。

ただの説明だけではだめなのだ。

医師の言葉をそのまま渡しても、病名をまっすぐ教えても、

病気は伝えられても、

決して、その先でどう生きるかまでは届かない。

でも今日、何一つ説明しなかった一日で、わたしは見た。

わたしに笑いかけてくれた。

わたしに甘えてくれた。

わたしの隣を選んでくれた。

 

必要なのは、一方的な説明ではなく、君自身が、自分の足で辿り着くための道筋なのではないか。

 

君がわたしを愛していること。

わたしが君を愛していること。

そこへ辿り着くための道。

わたしはノートを開いた。ペン先を紙へ当てる。書きかけて、止まる。

病名から始めるのは違う。現状説明からでも足りない。

たぶん、もっと手前から。

君が少しずつ世界のずれに気づいて、自分の中の答えへ辿り着いて、その先でなお、生きるほうを選べるように。

そのための手順。そのための問い。そのための、傷つけすぎない導き方。

 

わたしはそこで初めて、ほんの少しだけまともに息ができた気がした。

わたしは君をどこまで傷つけずに連れていけるでしょうか。

どこまで、絶望より先へ案内できるでしょうか。

自分で自分の現在地を認め、そのうえで、それでも生きる理由へ手を伸ばさせるには、どんな順番が必要だろう。

正解を押しつけるのではなく、誘導するでもなく、それでも、君の口から言わせる。それなら、もしかしたら、死へ飛びつく前に、愛されているという事実を、君自身の声で掴めるかもしれない。

 

少しずつ、少しずつ、中心へ。

窓の外。白んでいく空。

夜が薄れていく。

また朝が来る。

怖かった。

たまらなく怖かった。

明日の君がまた何も知らない顔で起きて、わたしを見上げることが。わたしが君を試すみたいに問いを差し出さなければならないことが。正解に辿り着いた先で、また泣かせてしまうかもしれないことが。

それでも、何もしないよりはいい。きっと。

 

わたしは立ち上がって、洗面所の鏡の前に立った。ひどい顔だった。目の下は暗いし、唇の色も悪い。それでも、声だけは整えなければいけない。君を怯えさせないように。いつものわたしでいるために。

一度、深呼吸をする。少しだけ、口元を緩める。泣きそうな顔のままでは、だめだ。

 

わたしは目を閉じた。次の朝に、愛する人を今度こそ連れ戻すために。…そして、たとえ永遠に連れ戻せなくても、ずっと諦めないでいるために。

何度でも。何度でも。君が生きるほうを選べるように。

そして願わくば、その先で、わたしを選ぶ理由にまで、もう一度辿り着けるように。

たとえその答えが、ひどく青臭くて、ひどく個人的で、ひどく救いがたいものだったとしても。

 

……だって私は君を、心から愛していますから。

 

──────

 

どちらが先に手を伸ばしたのか分からないまま指が絡まるみたいに、どちらが先に言ったのか分からないまま、気づけば二人の予定になっていることがある。

この話もそうだった。

一日じゃどう頑張ったって読み切れない程にびっしりと書かれたノートの、付箋の張られたページと直近数週間の記憶を読みふけり、そこに宿る尋常じゃない重く切ない感情の波に圧倒され、ようやく気持ちに整理がついたころにはもう昼食の時間だった。

昼食のあと、洗い終えた皿を水切り籠へ並べている彼女の背中を愛おしく眺めながら、私は何気なく言う。

 

「そういえば、前話したあの映画、まだ観てなかったよね」

 

彼女の手が、ほんの一瞬だけ止まる。水道の音が細く続いている。泡のついた白い皿の上を、水が薄い膜になって滑り落ちていく。彼女はそれを丁寧に流し終えてから、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 

「この後観ますか?」

 

「うん。前からちょっと気になってたし」

 

「……そうですね」

 

彼女はそう答えて、少しだけ笑った。

その笑い方は、普段よりも柔らかく、どこか儚かった気がする。

嬉しい、というより、どこか長く待っていたものがようやく訪れたみたいな、そんな表情だった。

カーテン越しの陽射しは淡く、床に落ちた四角い明かりだけが、冬にしては少しだけ強いような気がして、それで、そこにまだ昼が残っていることを確かに知らせている。

彼女はブランケットを持ってきて、ソファに座る私の隣へ腰を下ろした。

広げられるそれは、二人で使うには少し小さいブランケットで、しかし彼女は何も言わず、その小ささを当然みたいにしながら二人の膝へ広げた。布の端が私の腿から落ちかけると、彼女の指がさりげなくなぞるようにして直す。

 

「……狭くない?」

 

「とても狭いですね」

 

「…もう一枚持ってこようか?」

 

「いいえ?」

 

気を利かせて問いかければ、なぜか得意げな顔で即答される。

 

「このままがいいです」

 

恥ずかしそうにすることもなくそう言って、彼女は肩を寄せてきた。

その重みがあまりに自然だったので、私は自然と少しだけ笑ってしまった。彼女はそれに気づいて、こちらを見上げる。何か言いたげに口を尖らせて、それでも結局何も言わず、私の肩へこつんと額を預けてきた。

 

そして、映画が始まる。

部屋の照明を落とすと、画面の光だけが彼女の横顔を青白く撫でた。睫毛の影が頬に落ちて、瞬きのたびに小さく揺れる。

その様子を何故かもっと見ていたくて、何度も彼女のほうを見てしまった。

彼女は真面目な顔で画面を見ていた。けれど、ときどき私の反応を窺うように、ほんの少しだけ視線を寄越す。そのたびに目が合うと、彼女は何も悪いことなどしていないのに、急いで画面へ視線を戻した。

 

「……ねぇ、いま、私のこと見てた?」

 

「見ていました」

 

「……目を逸らす癖にその即答具合はなんなの…?」

 

困惑するようにそう言うと、彼女は喉の奥で小さく笑った。

その笑い声が、映画の音にまぎれて、すぐに部屋へ溶けていく。けれど私は、それが消えてしまう前に拾いたくなるような、形容しがたいもどかしさに襲われて、咄嗟に彼女の手へ自分の指を滑り込ませた。彼女は少し驚いたように指先を震わせ、それから何も言わず握り返してくれた。

画面の中では、知らない誰かが知らない街を、物語を、冒険を歩いている。その人たちは決まって、いつだって前へ進んでいた。

出会いがあり、別れがあり、昨日の失敗が今日の選択を変えて、今日の言葉が明日の誰かを救うのだ。傷ついたことも、笑ったことも、何もかもがその人たちの中に積もっていって、形を変えて、けれど何時だってそこに在り、やがてそれらは物語の輪郭になる。

それが、少しだけ、

…とても羨ましかった。

 

きっと、羨ましい、なんて思う相手ではないのだろう。画面の向こうにいる、誰かが作った架空の人物だ。彼らに嫉妬するなんて、我ながら少し滑稽だと思う。

けれど、或いは架空の人物だからこそ顕著に、彼らには続きがあるんだ。

今日見た景色を、そして抱きしめた感情を、明日の彼らは覚えている。

今交わした約束を、次の場面の彼らは、遠いいつかの彼らは失くさない。

誰かを好きになったことも、誰かに手を伸ばされたことも、きっと物語の奥へ沈んでいって、けれど、それらは一人ひとりの心という不完全な容器の中に確かに在り、完全な空白には決して戻らない。

 

たまらなく羨ましかった。

 

この映画を見終わったあと、彼女と感想を言い合って、それから数日後にふと思い出して、あの場面よかったよね、なんて何気ない会話ができたのなら。

彼女が泣きそうになった横顔を、その瞬間を覚えていて、似た映画を見つけたとき、これ好きそうじゃない?なんて言えたのなら。

今日のことが、明日の私の中でちゃんと昨日になって、彼女との時間が、少しずつ私の奥に積もっていくのなら。

画面の中の誰かが、画面の中の誰かだからこそ、旅の途中で振り返って、そしてその視線の先にある抱えきれないほどに沢山の過去が、きちんとその人のものとして残っていることが、どうしようもなく眩しかった。

 

私は彼女と繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込めた。

八重歯で左唇を噛み、それ以上の情動を、情けない涙を、決してさらけ出さないように意識して努めた。

羨ましいと思ったことを、知られたくなかったんだ。

こんなふうに隣にいてくれる彼女の前で、まだ持っていないものを数えてしまう自分が、薄情な気がしたから。

それでも、胸の奥に沈んだ嫉妬は消えなくて、誤魔化すように、彼女が用意してくれたポップコーンをひょいと食べた。市販の袋を開けただけのものだったけれど、彼女はそれを小さな器に移していて、それはわざわざ二人の間に置かれていた。

ひとつ摘まんで、口に入れる。

 

「……しょっぱい」

 

口をすぼめてそう言うと、彼女もひとつ摘まむ。けれどその直後、少しだけ眉を寄せて、そうして、二人して口をすぼめた。

 

「……しょっぱいですね」

 

「……ね、ちょっと塩が強すぎだよね」

 

とうとう私が笑うと、つられるように彼女も笑った。

ポップコーンが思ったよりもしょっぱかった。二人して口をすぼめる様子が妙に滑稽で、妙に愛らしくて、それで二人で笑った。それだけ。

それだけなのに、その瞬間の幸福は、なぜだか少し触れ方を間違えれば壊れてしまいそうなくらいに儚くて、でも絶対に壊したくなくて、そんな複雑で扱いにくい感情を抱きしめている内に、身を蝕んでやまない嫉妬も、どこか和らいでいく。

 

映画の終盤に差し掛かると、彼女がほんの少しだけ涙目になっていた。

本人は隠しているつもりだったと思う。画面を見たまま、指先で目元を軽く拭うだけだったから。

ただ、繋いでいた手に少しだけ力を込めた。彼女も、同じくらいの強さで握り返してくる。

映画の内容が悲しかったのかもしれない。綺麗だったのかもしれない。

彼女の中の何かに触れたのかもしれない。自身の状況と重ねたのかもしれない。

聞けば答えてくれたと思う。でも、そのときの私は、理由を聞くより先に、ただ隣にいたかった。

 

画面が暗転し、エンドロールが流れ始める。

知らない名前たちが、夜空を流れる星みたいに下から上へと昇っていく。物語に関わった人たちの名前。私たちの今日には本当なら何の関係もないはずの名前。

普段は何気なく見ながら感想でも言い合う退屈の代名詞のようなそれが、妙に綺麗だった。

彼女は肩を寄せたまま、最後まで画面を見ていて、そして私はその横顔を見ていた。

 

「面白かったね」

 

沢山の感情が、感想があって、しかしそれらを内包する言葉をうまく見つけることができず、結局当たり障りなくそう言うと、それでも彼女はゆっくりとこちらを向いた。

 

「……はい、とても」

 

「また観たい?」

 

分かりやすく彼女の中での評価が知りたくて、複数回観ることが出来るかどうかを明確な指標にするように何気なく聞けば、彼女は少しだけ目を細めてから答えてくれた。

 

「……君となら、何度だって」

 

その言い方があまりに優しくて、重くて、それで私は、なんだか照れくさくなってしまったから、さりげなく顔を逸らしながら言った。

 

「…じゃあ、また観よう」

 

「はい…きっと」

 

彼女は、ゆっくりと確かめるように、そう答えた。

日付も、時間も、次が本当にあるかどうかも曖昧な、ひどく頼りない約束。

でも、その頼りなさごと、私は大切にしたいと、そう思う。

 

夜、彼女がお風呂に入っているあいだ、私はノートを開いた。

これまでの私がそうしてくれたように、そうしてきたように、私も今日のことを書かなければいけない。明日の私へ、できるだけ丁寧に渡さなければいけない。

決心するようにそう思ってペンを握ったのに、いざ書こうとすると、何を書けばいいのか分からなくなった。

映画のあらすじ。

登場人物の名前。

結末。

彼女が泣いた場面。

私が笑った場面。

しょっぱすぎたポップコーン。

ブランケットの狭さ。

繋いだ手の温度。

書こうと思えば、いくらでも書ける。けれど、それはなんだか違う気がしたんだ。

映画の内容を細かく書き連ねて、明日の私に伝えることもできる。でもそれは、今日の幸福を説明することとは少し違って。

きっと大事だったのは、物語の内容ではなかった。

彼女が隣にいたこと。同じ画面を見て、同じ音を聞いて、同じタイミングではないにせよ笑ったこと。彼女が泣いたとき、私は何も聞かずに手を握ったこと。そしてそれを、彼女が握り返してくれたこと。

たぶん、今日の私が残したいのは、彼女との徒然なる日常が、なにをしているかなんてさして気にもならないくらいに幸せであることそのものなのだろう。

私はしばらくペン先を宙で迷わせて、…そしてノートに一行だけ書いた。

 

『今日、ふたりで映画を観た。幸せだった。』

 

それだけでは足りない気もした。

でも、それ以上を書く必要はない気もした。

だから私は、少しだけ考えて、もう一行だけを祈るように足した。

 

『また観たい。また、ふたりで。』

 

…それから、ノートを閉じた。

浴室の向こうから、水音が聞こえる。

部屋にはまだ、しょっぱいポップコーンの匂いと、いつも通りの冷めた紅茶の香りが残っていた。

私はソファに背を預けて、なんとなくさっきまで彼女が座っていた場所へ手を置く。

まだ、温かかった。

 

──────

 

君は、今日が初めてだと思っている。「前から気になってたんだよね」と言って、少しだけ得意げに笑う。まるで、やっといい提案を思いついたみたいな顔で。

わたしはそのたびに、息を殺す様に胸の痛みを誤魔化して笑うのだ。

 

この映画を、君と観るのは、全く初めてではない。

 

二回目でも、三回目でもない。

数えるのをやめようとした。数えても意味なんてないと思おうとした。それでも、どうしても数えてしまう。

 

今日で、十七回目だった。

 

十七回、君は同じ映画を「初めて観る」顔で再生した。

十七回、君は同じ場面で少し笑った。

十七回、君はわたしが泣きそうなことに気づいてくれた。

十七回、君は理由を聞かずに手を握ってくれた。

そして十七回、また観ようと、そう言ってくれた。

 

君は、何一つ覚えていない。

君がかつて、この映画を好いたこと。

君がかつて、同じ台詞で笑ったこと。

君がかつて、エンドロールの途中で「また観よう」と言ったこと。

君がかつて、この映画を見て、ノートに同じような一行を残したことも。

君は覚えていない。

 

けれど、君はいつも、ちゃんと同じ場所へ、必ず同じ場所へ辿り着く。

それがわたしには、少し怖く、同時に、どうしようもない救いでも呪いでもある。

記憶がなくても、君の心には何かが残っているのだろうか。残っていてはくれないだろうか。

笑う場所。泣きそうになる場所。わたしの顔を見る場所。わたしの手を握る場所。

細い糸みたいなものが、君の奥にまだ残っていて、残されていて、何度夜に切られても、その数本は、きっと、残っているのだろうか。

…残ってくれはしないだろうか?

君は今日も、映画が終わったあとに言った。

 

「また観よう」

 

まるで初めて交わすかけがえのない約束みたいに。

わたしは少しだけ泣きそうになって、それでもいつも通り笑って答えた。

 

「はい」

 

と、何度も何度も。同じ声で。…正直に言えば。こんなことなら、わたしも忘れてしまえたらいいのに、と思うことがある。

君と同じように、わたしも何も知らない顔で朝を迎えられたなら。この映画を本当に何十回も、ふたりで初めて観ることができたなら。君がどこで笑うかも、どこでわたしの手を握るかも知らないまま、ただ隣で同じ物語に驚けたなら。

数えなくていい。君が「また観よう」と言うたびに、それが前にも何度も聞いた約束なのだと、胸の奥で密かに受け止めなくていい。

 

わたしだけが覚えていることは、どんなに取り繕っても、ひたすらに寂しい。

 

君が忘れた幸福を、わたしだけが覚えている。君が忘れた約束を、わたしだけが覚えている。君が忘れた優しさを、わたしだけが何度も何度も大切に抱えている。

だから、いっそ全部一緒に失くしてしまえたらと、そんな酷いことを考える夜がある。

 

…それを酷いことと形容する時点で、わたしの中で答えは決まっているのだろう。

君が忘れてしまうからこそ、誰かが覚えていなければいけない。君が今日を明日へ持っていけないからこそ、わたしだけは、君が確かに今日を生きていたことを覚えていなければいけない。

それをわたしまで忘れてしまったら、君が必死に紙へ残した幸福の行き先がなくなってしまう。

忘れられたら楽だなんて、本当だ。仰る通りで、全くもって否定のしようがない。

 

けれど、…わたしは君のことを、何一つとして忘れたくないんだ。絶対に。

 

苦しくても、寂しくても、置いていかれるみたいでも。君が失ってしまう一日を、君の歴史を、わたしだけは失いたくない。

君が何度でも初めての顔でこの映画を見るなら、

わたしは何度でも、初めての君を隣で覚えていたい。

それが少しだけ呪いに似ていたとしても。

 

君が風呂に入ったあと、わたしはノートを開いた。

今日の君の字がある。

 

『今日、ふたりで映画を観た。幸せだった。また観たい。また、ふたりで。』

 

それだけ。

本当に、それだけだった。

あらすじも、結末も、登場人物の名前も、何も書いていない。

涙を堪えながら、すぐに、君の考えがわかる。

君は映画を覚えたかったのではなくて、わたしといた時間を、どうにか明日の君へ渡したかったのだ。

その不器用さを抱きしめるように、わたしはノートの上へなぞるように指を置いた。

紙は冷たい。けれど、そこに残った文字だけが、錯覚のようにまだ少しだけ温かい気がした。

 

十七回目の初めて。

十七回目の、また観たい。

 

数日、あるいは数週間後の君は、きっとまたこの映画を知らない顔で見るのでしょう。前から気になっていたんだと言って、少し得意げに笑うのでしょう。そしてわたしは、また知らないふりをして、隣に座るのでしょう。

 

けれど、それでいいんです。

だって、君は何度でも楽しそうに笑ってくれる。

何度でも優しくわたしの手を握ってくれる。

だからわたしも、何度でも、同じ映画の再生ボタンを心底楽しみそうに、何度だって押せるんだ。

たとえ結末を覚えていても。君がどこで笑うかを知っていても。

 

それでも、君となら何度だって。

 

──────

 

前方性健忘症。

新しい記憶を翌日へ持ち越すことが難しい状態にある。

しかし彼女は、それでも私と一緒にいる。

そう書かれた文字列は、もう何度も自分の目で追ったのだろうに、初めて切られる傷みたいに新鮮で、ひたすらに冷たかった。

文字はどれも私の字だ。焦ったように少し乱れているものも、妙に丁寧なものもあった。並々ならぬ感傷と共に書いたのだろうという行もあれば、できるだけ冗談めかそうとして失敗したような行もあった。

 

その中に一枚、古めかしい半券が挟まっていた。

青い紙の角は心なしかすこし白く擦り切れていて、印字された日付は最近のものだった。水族館の名前。二人分の入館券。

覚えている。

その水族館へは、前にも彼女と何度か行ったことがある。まだこんなふうに、朝ごとに自分の現在地を確認する必要がなかった頃に。

二人で少し遠くまで電車に乗って、海の近くにあるその場所まで出かけた。駅から続く白い歩道橋。潮の匂い。暗い館内で彼女が悪戯っぽく笑いながら私の袖をつまむ姿。

覚えていることがある、という事実は、本来なら安心できることのはずだろうに。けれど今の私にとってそれは、かえって残酷な線引きにも思える。思えてしまう。

覚えている場所がある。

覚えていない場所がある。

私の中には、きちんと残っている彼女と、消えてしまった彼女がいる。

前の私は知っていて、今日の私は知らないこと。その境目が、まるで水槽の硝子みたいに透明で、閉じ込められた魚達がその壁にすら気づけないようにまるで触れられない。触れることすらもできないんだ。

 

ノートを閉じると、ちょうど彼女が洗面所から戻ってきたところだった。

髪を整えたばかりなのだろう。普段よりも少しだけ外向きに纏められたその雰囲気が、部屋の明るささえも柔らかく変えていた。

顔だちそのものを何かに喩えるのはきっと野暮で、たぶん私はそれをうまくできなくて、けれど細く澄んだ輪郭を持つ硝子細工のような可憐さと、触れればあたたかい日向みたいな親しさが、彼女の立ち姿には自然に同居していた。

彼女はすぐに、私が握っている半券に気づいた。

 

「……水族館、ですか?」

 

少しだけ目を丸くしたような声だった。

私は半券を指先で撫でながら、なんとなく頷いた。

 

「うん。……行きたいなって、思ってて」

 

言ってから、少しだけ不安になってしまう。

彼女にとってそこがどういう場所なのか、今の私は知らない。

事故の後にも何度か行ったことがあるのだろうけれど、ノートにあるすべてを読み込んでいてはそれだけで一日が終わってしまうだろうから、記憶障害を患ってから何回程度行ったのかまでは分からない。

 

もしかしたら、そのうちのいつかの一回で、彼女にとって何か最悪なことがあって、もう二度と行きたくない場所になっている可能性だってゼロじゃない。

私が気軽に差し出す提案の裏側には、いつだって、私だけが知らない過去が沈んでいる。

それでも彼女はほんの少し黙って、それから静かに微笑んでくれた。

 

「…いいですね。行きましょうか」

 

その返事があまりに自然で、一瞬だけ救われたような気持ちにさせてくれた。けれど、彼女が自然に言葉を返せるようになるまでに、どれだけの不自然な朝を越えてきたのかを思うと、その救いもまた、胸の奥で少し形を変えたようだ。

私は頷く。

 

「……じゃあ、支度しよっか」

 

「はい」

 

彼女はそう言って、部屋の隅に置いてあったコートを取った。

きっと彼女は最初から出かけるつもりだったのだろう。もしくは、私がどこかへ行きたいと言ったときにすぐ応えられるように、いつもそうしているのかもしれない。

事あるごとにそういう想像をしてしまう自分が嫌で、それでも、きっと見当違いではないだろう彼女の気遣いと愛がじんわりと優しく暖かい。

 

私はクローゼットを開けた。

少し悩んで、結局選んだのは、ありがちな少し落ち着いた色のワンピースと、薄い灰色のコートだった。襟元が詰まりすぎていないもの。歩いていて疲れにくい靴。水族館の暗い照明の中でも、あまり沈みすぎない色。そういう実用的な理由をいくつか頭の中に並べたけれど、本当はたぶん、彼女の隣に立ったときに少しでもちゃんとして見える姿でいたかっただけなのだと思う。

洗面所から戻ると、彼女は玄関近くで私を待っていた。

彼女は淡い色のブラウスに、すとんと落ちる長いスカートを合わせていた。上から羽織ったコートは柔らかな素材で、首元には細いマフラーがふわりと巻かれている。色味は全体的に静かで、なのに冷たくはない。冬の朝に淹れたミルクティーみたいに、淡く、けれど暖かくて、見ているだけで指先までほどいてくれるような装いだった。

 

「……似合ってる」

 

深く考えるよりも先に、珍しく素直な言葉が出た。

彼女は一瞬だけきょとんとして、それから少し照れたように目を伏せた。

 

「ありがとうございます。……君も、とても綺麗です」

 

「……うん」

 

責める隙を与えないくらいまっすぐ褒められて、私はうまく返せなくなって、誤魔化すように鞄の中を確認した。

財布。スマートフォン。ノート。ペン。薬。小さな水筒。

ふと、彼女が、私の手元をじっと見ていることに気づいた。

その視線は、忘れ物がないかを確認しているというより、私が自分の力で今日を始めようとしていることを、嬉しそうに静かに見守っているようだった。

見守られることが嬉しいのに、なぜか少し悔しい気もする。

 

玄関を出ると、空気は少し湿っていた。冬というにはもう少しだけ角の取れたような冷たさで、けれど春と呼ぶにはまだまだ遠い。

昨夜どこかで雨が降ったのか、階段の端には小さな水たまりが残っていて、そこに鈍い空の色が薄く映っていた。

私は足元に気をつけながら降りようとする。

すると彼女は一段下で、当然のように手を差し出してくれた。

 

「……大丈夫だよ…そこまで過保護にならなくても…」

 

「…そうかも、しれないですね…」

 

苦笑いしてそう答えながらも、彼女は手を引っ込めることはしなかった。

少しだけ迷ってから、結局私はその手を取った。

中途半端に冷えた空気の中で、彼女の手だけが懐炉のように、指先をほぐす様に暖かい。

指先が重なる。手袋ひとつないその重なり方は、冬の外では外気に少し不釣り合いなほど無防備な触れ方だろう。

私たちは、そのまま歩いた。

 

アパートを出ると、細い道に朝の気配が薄く残っていた。ゴミ集積所の網が風に少し揺れている。向かいの大きめの家の鉢植えには、寒さに耐えるように小さな葉が身を寄せ合っていて、外壁沿いの道の角にある自動販売機だけが妙に明るく、まだ夜の名残を僅かに残すように白く光っていた。

駅までは歩いて十分ほど。

私はその道を覚えている。駅へ向かう角。小さなパン屋。通勤の人が急ぎ足で抜けていく横断歩道。

 

「……前も、こんなふうに行ったよね」

 

誤魔化すように私がそう言うと、彼女は少しだけ間を置いて答えてくれた。

 

「…そうですね。…何度か、二人で…」

 

何度か。

その言葉を、なんとかゆっくり飲み込んだ。

私の記憶の中にも、水族館へ行った日は何度かある。

まだ付き合い始めたばかりで、二人で並んで歩く距離も今より少し曖昧だった日。少し雨が降っていて、彼女の傘が私の肩を濡らさぬことばかりを考えていた。

それなのに、帰りにコンビニで温かい飲み物を買った後にも、彼女は自分の手を温めてから私の手を両手で包んでくれた。

覚えている。今でも。未だに。

 

駅前の広場には、人がまばらに集まっていた。

話し込みながらバスを待つ人、スマートフォンを覗き込む人、イヤホンをしたまま小さく欠伸をする人。誰もがそれぞれの今日を持っていて、その今日が明日へ続くことを疑うことすらもしていないように見えた。そういう当たり前が少し眩しい。

改札を通る。

電光掲示板に表示された行き先を見上げる。水族館の最寄り駅までは、乗り換えを一度挟む。

ホームへ降りる階段の途中で、冬の朝らしい乾いた匂いが確かにした。

電車が近づいてくる音が、遠くのトンネルから少しずつ膨らんでいく。白いライトが見えて、風が足元を撫でてワンピースのスカートとコートが揺れる。

電車に乗ると、車内は朝にしては空いていた。

端の座席に並んで座る。

窓の外では、駅の壁がゆっくり流れて、それから街が開ける。

濡れた屋根。看板。細い電線。ベランダに干された洗濯物。どれも一瞬で過ぎていくのに、これまでなら気も留めなかっただろうに、けれど目だけがそれを追ってしまう。

彼女は隣で静かに座っていた。彼女は窓の外を見たまま、ほんの少しだけ指を動かした。膝の上に置かれた手が、何かを堪えるようにきゅっと握られる。私はすぐにそれに気づいたけれど、どう声をかければいいのかまるで分からなかった。

なにかを覚えていることが、彼女にとって救いになるのだろうか。

それとも、覚えていないことを際立たせるだけなのか。

私は、黙って手に触れた。指先だけを、そっとそこに置くみたいに。

彼女は驚かず、ただ少しだけ手のひらを開いて、私の指を受け入れてくれた。

 

乗り換えの駅は記憶通り大きかった。

人の流れが急に増えて、足音とアナウンスと改札機の電子音が、頭の上で薄く反響している。

私は一瞬だけ立ち止まりかけた。どちらへ進めばいいのか分からなくなったわけではなく、前の私では考えられないだろうけれど、あまりに多くの人が、それぞれの当然の方向へ迷いなく歩いていることに、少しだけ気圧されたのだと思う。

彼女が、さりげなく私の半歩前に出た。

 

「こっちです…はぐれないでくださいね」

 

「…うん」

 

私はその背中を追いかける。淡いコートの裾が、人の流れの中で静かに揺れている。見失いたくなくて、私は彼女の袖を軽く掴む。彼女は振り返る代わりに、歩幅を少しだけ緩めてくれた。

何も言わなくても、こちらの恥ずかしさごと拾うように気遣ってくれるところ。守っていることを、守られている側にあまり気づかせないようにするところ。そういう優しさに、好きなところに改めて気づいてしまう。

乗り換えた電車は、少しずつ海の方へ向かった。

窓の外の建物が低くなっていく。すこしずつ空が広くなる。

遠くに、水面のようなものがちらりと見えた気がして、私は思わず窓へ顔を向けた。

 

「…いまのって、海?」

 

「はい。もう少しです」

 

彼女の声は柔らかかった。

胸の奥に、古い記憶がゆっくり浮かんでくる。前にこの路線に乗ったとき、私はたしか、屋根と電線の隙間に差し込む光みたいな青色の海を、未だ遠目に見つけては、少し得意げにして。

彼女はそれを見て、まるで私がすごい発見をしたみたいに笑ってくれた。

それは事故よりも前の記憶。

失われずに残った、宝石みたいな記憶。

 

最寄り駅に着くと、風の匂いが変わったのが分かった。

改札を出た瞬間、潮気を含んだ空気が頬に触れた。街の空気より少し重くて、冷たくて、けれどどこか、わくわくするようなあの香り。

駅前にはもう、水族館へ向かう案内板があって、青い矢印の先に、ゆるやかな坂道と歩道橋が続いていた。

 

「……懐かしいな」

 

ぽつりと零れた声に、自分で少し驚いた。

懐かしかった。懐かしかったんだ。

覚えている。駅前のベンチと海を模したタイルを。

少し色褪せた観光案内のポスターを。

水族館へ向かう途中にある、やたらと大きな魚のオブジェを。

私はその記憶を確かめるように歩いた。何一つ覚えていなくても、懐かしいという感情そのものが懐かしいことを、どうしようもなく身体が記憶していたのかもしれない。

歩道橋の上からは、遠くに海が見えた。曇り空の下の海は決して鮮やかではなく、銀色と灰色を混ぜたように鈍く光っている。波は小さく、しかし風だけが強かった。

手すりに触れると、冷たさが染み込むように手のひらを刺す。

ぐちゃりと混ぜた絵具のような海は、それでも確かに綺麗だと思えた。

 

水族館の建物は、坂を少し下った先にあった。

大きな硝子の壁が、曇り空を淡く映している。入口前の広場には、親子連れや学生らしい人たちがまばらにいて、誰かの笑い声が風に乗って流れてきた。

チケット売り場の前に立つと、胸の奥で古い半券の感触が蘇る。ポケットに入れたそれが、まるで小さな証人のようにそこにあった。

いつの間にか、彼女がチケットを買ってくれた。

私は財布を出しかけたけれど、彼女にやんわり止められてしまった。

館内に入ると、空気が暗く変わった。

外の曇りかけの白い光が背後に遠ざかり、代わりに、水槽から漏れる青い明かりが足元を照らす。子どもの声が天井の高い空間に溶けていた。水の匂い。消毒液のかすかな匂い。床の冷たさ。どこか遠くから聞こえる水流の音。

そのすべてが懐かしかった。

 

私たちは最初の大きな水槽の前で足を止めた。銀色の魚たちが群れになって泳いでいる。照明の光を受けるたびに身体の向きが一斉に変わり、水の中で薄い刃物がひらめくようだった。近くにいた子どもが歓声をあげる。魚の群れはそれに動じることもなく、ただ同じ方向へ流れていく。

私は水槽の硝子に近づいて手をかざす。

その向こうに大量の水があることが分かる冷たさだった。大仰に触れても、魚たちは私のことなど気にも留めない。当然だ。彼らはただ水の中で、今日を生きている。

 

「……前に来たときも、ここで立ち止まった気がする」

 

「…はい、…そうやって呟くところまで、…同じです」

 

その返事に、私は自嘲するように小さく笑った。

記憶を失っても、好きなものや怖いもの、惹かれる光の色、ふと立ち止まる場所。そういうものは、完全には消えないのかもしれない。映画の同じ場面で笑うように。同じ人の手を、何度でも握るように。

それが救いなのか呪いなのか、私はまだうまく言えない。分からない。

大水槽の前を離れて、私たちは順路に沿って進んだ。

小さな魚の水槽。岩陰に隠れる生き物。ゆっくり底を這うエイ。海藻に紛れて揺れる細長い魚。照明は水槽ごとに少しずつ色を変えていて、淡い青、深い群青、薄い緑、夜みたいな黒が、通路の壁に揺れていた。

 

私たちはあまり喋らなかった。そんなに言葉を探さなかった。ただ、気づくと彼女の袖を掴んでいて、彼女は何も言わず、袖を掴まれたままでいてくれた。

私が水槽に近づけば止まり、説明書きに目を留めれば一緒に読む。私より先に知っているはずのことも、知らないふりをするように、同じ速度で視線を動かしてくれる。

クラゲの展示室へ向かう前に、開けた通路へ出た。

そこには小さな休憩スペースがあって、自動販売機とベンチ、そして子ども向けのスタンプ台が置かれていた。水族館のキャラクターが描かれた台紙を持った子どもたちが、順番にスタンプを押している。赤や青のインクが、紙の上で少し滲んでいる。

そのときだった。

 

「お姉さん!」

 

明るい声が、背中に飛びつくように届いた。

振り返ると、小さな少女がこちらへ駆け寄ってくるところだった。小学生くらいだろうか。元気な足取りで、手にはスタンプラリーの台紙を握っている。頬を上気させて、こちらを見上げるその様子には、子供らしく遠慮というものがほとんどなかった。

 

「ひさしぶり!また来てたんだ!」

 

その言葉を聞いた瞬間、心臓が変なふうに跳ねた。

つまり、この子は私を知っている。

けれど少女の声も、手にした台紙も、こちらを見上げる屈託のない様子も、私の中のどこにも引っかからない。まっさらだった。初めて見る子ども。初めて聞く声。初めて向けられる親しさ。

私の隣で、彼女が息を呑む気配がした。

少女はそんなことには気づかず、にこにこと笑っている。

 

「今日もクラゲ見に来たの?」

 

喉が渇く。何かを飲み込むみたいに、小さく息をした。ここでこの子に「ごめん、覚えていない」と言うのは簡単だ。正直ではあるだろう。私には前方性健忘症があって、あなたのことを覚えていないのだと、そう説明することはできる。

けれど、こんなに嬉しそうに、私を見つけて走ってきた子どもの、その明るさをこちらの事情で曇らせることなんて、絶対にできるはずもない。

覚悟を決めて、しかしそれを表面に出すこともせず、私は少しだけ屈んで、目線を合わせる。できるだけ自然に笑いながら。

 

「……うん。ひさしぶり」

 

自分の声が、思ったより自然だったことに驚いた。

すぐに少女の顔がぱっと明るくなる。

 

「今日ね、スタンプあと一個なの!」

 

「…すごいね。もうそんなに集めたんだ?」

 

「うん!お姉さんたちは?デート?」

 

「…でっ…!………えっと…」

 

あまりに無邪気な言葉に、返事に詰まった。

 

「……まあ、そんな感じ」

 

「前も仲良しだったもんね!」

 

私は知らない。

この子と前に何を話したのか知らない。どこで出会ったのかも知らない。私がそのときどんな顔をしていたのか、彼女が隣でどんなふうに笑っていたのか、全部知らない。

けれど、この子の中には残っている。

私が失くした私が、この子の中で少しだけ生きている。

 

「クラゲのところ、わたしも見に行ったよ!ピンクのちっちゃいやつもいた!」

 

少女はそう言って、腕をぶんぶんと振りながらクラゲ展示室の方を指さした。

 

「お姉さんが前に好きって言ってたクラゲ!」

 

私は、それすら知らない。

いや、好きなのかもしれない。クラゲは事故の前から嫌いではなかった。水の中で、ほとんど意思がないみたいに漂う透明な生き物。美しくて、不気味で、傷つければ簡単に壊れてしまいそうで、けれど私たちよりずっと遠いところにいるようなもの。

好きだと思う。

その「好き」がいつの私のものなのか、今の私にはもう分からないだけで。

 

「……そっか。じゃあ、あとで見に行こうかな」

 

「うん!絶対見て!」

 

少女は満足したように頷く。すると、少し離れた場所から母親らしい人が名前を呼んだ。少女は「じゃあね!」と手を振り、台紙を胸に抱えたまま走っていく。

その後ろ姿が人混みに紛れるまで、私はずっと見ていた。

袖を掴んでいた指先が、いつの間にか少し強くなっていたことに気づく。慌てて力を抜こうとしたけれど、その前に、彼女の手が私の手を包んだ。

 

「……ごめん」

 

なぜ謝ったのか、自分でもよく分からなかった。

覚えていなかったことを謝ったのか。覚えているふりをしたことを謝ったのか。彼女の前で、知らない過去を演じたことを謝ったのか。

彼女は首を横に振った。

 

「…君が謝ることではありません」

 

静かな声だった。

責めてはいない。分かっている。彼女は私を責めていない。きっと本当に。

それでも、その声の奥には、押し殺された痛みが間違いなくあった。

私はそれをどうしても聞いてしまう。

 

「……あの子、知り合い?」

 

「…迷子になって泣いていたところを、君が助けたんです」

 

「…それは、事故の後?」

 

「……はい」

 

たったそれだけのやり取りで、充分だった。

それ以上聞くことが怖かった。私はあの子と何度会ったのか。どんな話をしたのか。彼女はそのたびに、今日みたいな顔をしたのか。私は毎回、覚えているふりをしたのか、それとも毎回、正直に忘れていると告げたのか。

どちらでも、苦しかった。

 

私は水槽のない壁際に寄り、少しだけ深く息を吸った。館内の空気は冷たく、湿っている。遠くで子どもの笑い声がする。スタンプの押される音が、かすかに聞こえた。

彼女は隣に立っている。私は自分から彼女の手を取った。

 

「……行こう」

 

「…はい」

 

彼女は軽く胸を押さえながら、それだけを答えて、私の手を握り返した。

 

クラゲの展示室は、館内の奥まったところにあった。

入口からして、他の水槽とは少し空気が違う。照明がさらに落とされ、壁も床も暗く、光はほとんど水槽の中からだけ生まれていた。円形の水槽の中で、白いクラゲがゆっくり浮かんでいる。傘が開き、閉じる。薄い布が水の中で呼吸しているみたいだった。

足を止める。

クラゲたちは、泳いでいるというより流されているように見えた。けれどよく見ると、確かに自分の身体を動かしている。小さく縮み、また開く。そのたびに、わずかに位置が変わっていて。頼りなく、けれど、それは間違いなく生きていた。

水槽の青白い光が、彼女の服の淡い色を静かに染めている。さっきまでミルクティーみたいだと思っていた装いが、ここでは濡れた月明かりを含んだ薄い花びらみたいに見えた。

私はその横顔を見ないようにしながら、けれど視界の端でどうしても追ってしまう。彼女もまた、水槽を見ていた。

私と同じものを見ていて、きっと違う時間を見ている。

私が今日初めて見るクラゲを、彼女は何度目かの今日として見ているのかもしれない。あるいは、事故前のいつかを思い出しているのかもしれない。もしくは、さっきの少女のことをまだ考えているのかもしれない。

 

「……綺麗だね」

 

何を言うべきかもわからず、噛みしめるようにそれだけ言うと、彼女は少しだけこちらを見た。

 

「…綺麗ですね」

 

数えきれない想いが込められているだろう短い返事。それ以上の言葉はなく、そして必要もなかった。

私たちはしばらく、ゆっくりクラゲの舞う水槽を巡った。

ミズクラゲ。アカクラゲ。小さなもの。長い触手を持つもの。光の当たり方によって、白にも青にも紫にも見えるもの。説明書きには、それぞれの生息地や特徴が丁寧に書かれている。

 

美術館でも科学館でも、私は説明板を読むのが好きだった。水槽の前で立ち止まり、生き物を見て、説明を読み、それからもう一度生き物を見る。その順番が、昔からなんとなく好きだった。

彼女はそれを知っているのだろう。

私が説明書きを読み終えるまで、いつも待ってくれる。ただ隣で静かに立ち、私が顔を上げるまで同じ水槽の光を浴びている。

そして、深海から星空を見上げるような色合いの展示室のいちばん奥に、その小さな水槽があった。

他の水槽に比べると、ずいぶん控えめな大きさだった。照明も派手ではない。けれど説明パネルの上に書かれた文字が、奇妙に目を引いた。

 

不死身のクラゲ。ベニクラゲ。

 

思わず立ち止まると、彼女が隣で同じパネルを見る気配がした。

水槽の中には、とても小さなクラゲが浮かんでいた。言われなければ見落としてしまいそうなほど小さい。透明な傘の中に、赤い点のようなものが見える。それは派手でも巨大でもなく、怪物めいた存在感もなかった。むしろ、あまりに小さくて、あまりに頼りなくて、どうしてこれが不死身などと呼ばれるのか分からないくらいだった。

説明書きに目を落とす。

 

ベニクラゲは、老化や傷、環境の変化などによって弱ったとき、成熟したクラゲの姿から、若い段階であるポリプへ戻ることがある。普通の生き物のように一方向へ年を取るのではなく、条件によっては成長の段階を巻き戻し、そこから再びクラゲになることができる。

 

そんな意味のことが、やわらかい言葉で書かれていた。

もう一度、最初から。

その言葉が、嫌にゆっくり沈んでいった。

私は無意識に、水槽の硝子にそっと手をつく。

さっきの大水槽とは違う冷たさだ。手のひらの向こうにある水の量はさっきよりもずっと少ないはずなのに、その小さな水槽の中には、まるで時間そのものが閉じ込められているような気がした。してしまった。

小さなベニクラゲは、ゆっくりと傘を動かしている。

透明な身体が、光を受けてわずかに揺れる。赤い小さな核のようなものが、幽かに脈打っているように見えた。死から逃げる生き物。老いから戻る生き物。終わりそうになるたびに、別の始まりへ姿を変える生き物。

 

このクラゲも、若返るたびにすべてを忘れるのだろうか?

 

ふと、そんなことを思い、しかしすぐにそんなはずはない、と思う。

クラゲに私たちみたいな記憶があるかどうかも分からない。忘れるという言葉を、あの小さな生き物に当てはめること自体が、ひどく人間本位な感傷なのだろう。

それでも、考えてしまった。

もし、あの小さなクラゲが何かを覚えていたのなら。

それは例えば水の冷たさ。溶けだすザラメのように海中を漂う光。或いは外敵に傷つけられた痛み。そして次第に老いていく身体。予感する終わりの気配。

いざその時が来て、遺伝子に従いそこから無理やり若い段階へ戻されていくとき、それまで自分が漂っていた海を、彼等は失うのだろうか。

 

出逢ったものを忘れるのだろうか。

自分が一度はクラゲだったことすら、分からなくなるのだろうか。

 

水槽に触れた手のひらが、少しずつ冷えていく。

硝子の向こうで、ベニクラゲはただ漂っている。宙を漂う星屑のように無規則に。

私のことなど知らない。私の病気も、彼女の痛みも、今日という日が私にとってどれだけ頼りないものなのかも、何ひとつ知らない。

若返るわけではない。身体が戻るわけでもない。けれど、私だけが同じ場所へ戻されて、昨日の分だけ年を取った世界の中で、私の記憶は若返ったかのように失われる。

彼女はそのたびに、私の前に立つんだ。私がまたクラゲになれるように、あるいはクラゲだったことを思い出せるように、何度でも水槽の前で待っている。

硝子についた手を離そうとして、離せなかった。手のひらが冷たくなっている。なのに、その冷たさを手放したくなかった。今ここにいることを確かめるように。

 

「……この子達はさ、」

 

小さな声。青空のような水槽を、見つめる。

彼女は黙ってこちらを見ていた。

 

「…この子達は、……覚えてるのかな」

 

答えのない問いだった。

彼女は答えなかった。

代わりに、私の水槽についた手の上へ、そっと自分の手を重ねた。硝子と私の手と彼女の手。その三つの温度が、奇妙な順番で重なる。

冷たい水槽。

冷えた私の手。

それを包む彼女の手。

呼吸を忘れそうになる。その手つきが、忘却に流されそうな今日を、硝子に、そして彼女の手に縫い留めるみたいに、優しくて。

水槽の中で、ベニクラゲがゆっくり上へ浮かんでいく。

小さく、頼りなく、意味もなく、しかしそれでも生きている。

私はその姿を見ながら、理由すらも分からずに視界が滲むのを止められなかった。

けれどこの痛みを、感情を、涙にして簡単に外へ出したくなくて。

すこしでも忘れないように、あり得なくとも、すこしでも身体に刻みたくて、それで唇を噛んで涙を堪える。藻掻くこともせず、ただ流されても泳ぐクラゲのように。

 

最初に入場した時には薄暗さに心を躍らせていたくせに、クラゲの展示室を出ると、目が少しだけ館内の明るさに驚いた。

通路の端にベンチがあり、私たちは並んで腰を下ろした。近くの売店から、温かい飲み物の甘い匂いが漂ってくる。子どもがぬいぐるみを抱えて走り、その後ろを親が慌てて追っていた。

何もかも普通だった。

普通の水族館。普通の休日。普通の恋人たち。普通に笑う子ども。普通に流れる時間。

その普通さの中で、私だけが少し壊れている。或いは彼女もきっと、私と同じくらい、違う形で壊れている。

私は彼女の横顔を見ないまま、膝の上で指を組む。さっき水槽に触れていた手が、まだ冷たい。

彼女が、売店のほうへ少しだけ視線を向けた。

 

「何か、…飲みますか?」

 

「……うん」

 

彼女は、まるでどう答えるか分かっていたみたいに頷いて、すぐ近くの売店へ向かう。

私はベンチに座ったまま、その背中を見ていた。淡いコートの裾が、館内の青い光の中で静かに揺れている。人のあいだをすり抜けていく姿は、水槽の中を泳ぐ魚たちとはまるで違うのに、どうしてだか、一瞬だけ同じもののように見えた。

まるで何かの流れの中で、私だけがうまく進めないみたいに。

彼女はすぐに戻ってきた。手には紙製のカップが二つ。片方をこちらへ差し出してくれる。

 

「熱いので、気をつけてください」

 

「……ありがと」

 

受け取ったカップは、両手で包むにはちょうどよかった。白い蓋の小さな飲み口から、甘い香りが細く立ちのぼる。ココアだろうか。湯気は見えにくいのに、指先だけがじんわり温まっていく。

すぐには飲まなかった。

カップの表面に描かれた水族館の小さなロゴを眺める。丸いイルカと、波の線。子ども向けの少し間の抜けた絵柄。

紙の感触がやけに頼りなくて、指に少し力が入る。蓋の隙間から、熱い匂いだけがふわりと上がってきて、鼻先を撫でた。

隣に座った彼女は何も言わず、自分の飲み物を両手で包み、少しだけ視線を下げている。飲むためではなく、その温度を確かめるための仕草。

私は、飲み口に唇を寄せる。

舌先に触れたココアは、思っていたより甘かった。喉の奥へ落ちていく温度が、内側からゆっくり広がっていく。あまりに普通の甘さだった。売店のメニューに並ぶ、きっと誰もが同じように買える飲み物。

その普通さに、また目の奥が熱くなった。

私は慌てて、もう一口飲む。熱さのせいにできるように。喉に落ちる温度に紛れ込ませるように。

ベンチの前を、親子連れが通り過ぎる。小さな男の子が、ペンギンのぬいぐるみを抱えていた。ぬいぐるみの黒い背中が、腕の中でくたりと潰れている。母親らしい人が、落とさないようにね、と言って、男の子は大きく頷き、しかしすぐにぬいぐるみを振り回しながら走り出して、また叱られていた。

私はそれを見て少しだけ笑った。笑うことができた。

そのまま横を向いたら、彼女がこちらを見ていることに気づく。

訊ねることも、慰めることも、宥めることもしない。ただ、こちらの表情の端に浮かんだものを、こぼさないようにと見ている目。

私はそれから逃げるように、彼女の肩へ頭を預ける。

ほんの少しだけのつもりだった。

けれど、額が彼女の肩に触れた瞬間、身体の力の抜け方がよくわかる。彼女のコート越しに伝わる体温。柔らかな布の匂い。首元のマフラーに残る、淡い洗剤の香り。さっきまで水槽に触れていた手とは違う温度。

泣きそうなのを誤魔化すために寄りかかったのだと、たぶん彼女にはすぐに分かったのだと思う。

彼女はほんの少しだけ身じろぎをして、それから、人通りのある休憩スペースであることも、近くで子どもたちがスタンプを押していることも、売店の店員がこちらをちらりと見たことも、全部どうでもいいみたいに、私の背中へ優しく手を回した。

抱きしめるというには控えめで、けれど触れたというにはあまりに明確な腕だった。

肩口へ寄せた私の頭がずれないように、片方の手が背中をそっと支えている。もう片方の手は、私の手元のカップに触れないようにしながら、肘のあたりを包んでいた。周りの音が、少しだけ遠くなる。子どもの声も、売店の機械音も、案内放送も、全部水槽の向こう側に沈んでいくみたいに。

彼女の指先が、背中を撫でた。ゆっくりと。

何度もではなく、一度だけ。

 

私はココアのカップを膝の上に置いたまま、少しのあいだ目を閉じた。目を閉じると、さっきのベニクラゲが漂うように浮かぶ。小さな透明な傘。赤い点。水槽の青い光。硝子に重なった手。

彼女の腕に、ほんの少しだけ力が入った。

それで私は、ゆっくり息を吐く。

 

「……ペンギン」

 

ぼそりと小さく言うと、彼女が少しだけ首を傾げる気配がした。

 

「…はい?」

 

「ペンギン、見よ」

 

自分でも唐突だと思ったけれど、さっき通り過ぎた男の子のぬいぐるみが頭から離れなかった。黒くて丸くて、少し間抜けで、何も考えていなさそうな顔をしたペンギン。今はとにかくそれくらい分かりやすく可愛いものを見たかった。

彼女は一拍だけ黙って、それから、肩を揺らすみたいに、ほんの小さく笑った。

 

「……ふふ、…はい。見に行きましょう」

 

私は彼女の肩から顔を離した。目元を擦る代わりに、残っていたココアを飲む。もう熱さは少し落ち着いていて、甘さだけが舌の上に残った。

立ち上がると、彼女が空になりかけたカップを受け取ってくれた。

 

ペンギンの展示は、館内の少し開けた場所にあった。

遠くからでも、水が跳ねる音が聞こえる。低い鳴き声。子どもたちの歓声。順路を曲がると、ガラス張りの広いプールが現れ、その向こう側に、黒と白の小さな生き物たちが何羽も立っていた。

立っている。ただ立っている。

岩の上で、胸を張るでもなく、うつむくでもなく、なんとも言えない顔で、まるでなにかに納得していないみたいに立っている。足元は短く、身体は丸く、羽は不器用に横へ垂れている。一羽がぺたぺたと歩く。歩幅があまりに小さくて、進んでいるのか揺れているのか分からない。

私は思わず、硝子に近づいた。

 

「……可愛い」

 

声が漏れた。

その瞬間、目の前の一羽が、まるでこちらの声に反応したみたいに顔を上げた。もちろん偶然だろう。偶然に決まっている。けれど黒い頭と白い腹のその生き物は、首を少し傾げて、こちらを見ているように見えた。

 

「……ふふっ…!……なんでそんな顔してるの…?」

 

自分の声が、さっきまでとは違う調子で跳ねているのが分かったけれど、それすらも気にならなかった。

一羽が水へ飛び込む。陸の上ではあんなにぎこちなかった身体が、水の中へ入った途端、まるで別の生き物みたいに鋭く滑った。黒い背中が水中の光を弾き、白い腹が一瞬だけひらめく。速い。あまりに速い。

私が驚いて硝子へさらに近づくと、ペンギンはぐるりと弧を描き、こちらの前を通り過ぎていった。

 

「速っ……!」

 

言いながら、自分でもおかしくなって笑ってしまう。

その笑い方が、たぶんひどく幼かったのだと思う。隣の彼女が、何も言わずにこちらを見ていた。ペンギンではなく、私を見ていた。

振り向いて、ようやく気づく。

彼女の目は、水槽の光を受けて少し青くて、…そして、何回目かも分からない光景を、それでも初めて見つけた宝物みたいに見ていた。

 

「……なに?」

 

「なんでもないですよ?」

 

「……見すぎ」

 

「かわいかったので」

 

変に喉が詰まった。文句を言おうとしたけれど、ちょうどその時、別のペンギンが岩

場の端で足を滑らせかけて、ばたばたと羽を広げた。

 

「あっ、危な……っ」

 

思わず声が出る。

しかしそのペンギンは何事もなかったみたいに体勢を立て直し、それから少しだけ周囲を見回した。誰にも見られていないか確認しているみたいで、私は耐えきれずに口元を押さえた。

 

「…ふっ…!……あはっ!…」

 

胸の中に溜まっていた硬いものが、ほんの少しだけ形を失っていくようだった。消えるわけではない。忘れられるわけでもない。

それでも私はしばらく夢中でペンギンを見ていた。

水中を飛ぶように泳ぐ姿。岩場で仲間の横をすり抜けようとして、微妙に押し合いになる姿。飼育員が近づくと、全員が同じ方向へ首を伸ばす姿。餌の魚をもらって、飲み込むたびに少し上を向く仕草。

全部が妙に真剣で、全部が妙に間抜けで、だからこそ目が離せなかった。

彼女は、そのあいだずっと隣にいた。

何度も来ているのなら、彼女はきっとこの展示も見飽きているはずで、けれど彼女は、一度も退屈そうにしなかった。

むしろ、私がペンギンの一挙手一投足に反応するたび、彼女の口元は少しずつ緩んでいった。見慣れているはずのものを、見慣れない私ごと眺めているように。

 

順路の出口近くに、ペンギンのグッズが並ぶ小さな売店があった。

私はそこを見つけた瞬間、足を止める。

棚にはぬいぐるみ、キーホルダー、マグネット、ハンカチ、ペン、メモ帳まで、ありとあらゆるペンギンが並んでいた。丸いもの。妙にリアルなもの。デフォルメされて餅みたいになっているもの。横向きでよちよち歩いているもの。

気づいたら、私は大きめのペンギンのぬいぐるみを手に取っていた。

両手で抱きかかえるくらいの大きさ。黒い背中と白い腹。目はつぶらで、足は黄色いフェルトでできている。横から見ると少しだけ前のめりで、今にも転びそうな姿勢をしている。

 

「……これ、買う」

 

自分でも驚くほど即決だった。

彼女は一瞬だけ目を丸くして、それから、何かを堪えるように唇を結んで、けれど堪えきれなかったみたいに小さく笑う。

 

「…なに?」

 

「いいえ?」

 

「笑ったよね」

 

「…いいえ?」

 

頬を膨らませながらも、手元のペンギンを見てしまう。私も、たぶんそれなりに浮かれているのだろう。否定する材料がどこにもなかった。

レジに向かう途中で、私はもう一つ、小さなキーホルダーも手に取った。ペンギンが魚を咥えているものだった。

会計を済ませる。店員が袋に入れようとしたぬいぐるみを、私は少し迷ってから、そのままで大丈夫です、と言った。手に持っていたかった。袋の中にしまってしまうと、今見つけたばかりのものを少し遠くへやってしまうみたいな気がしたから。

 

売店を出ると、私はペンギンのぬいぐるみを抱きかかえ、もう片方の手でキーホルダーの袋を下げていた。

ぬいぐるみの頭を撫でて、さっき岩場で転びそうになっていたペンギンに少し似ている、などと考えながら歩く。

歩いているうちに、自然と足取りが軽くなる。水族館の通路はまだ暗くて青いのに、自分の周りだけ少しだけ明るくなったような気がした。

ふと、頭の上に手が乗った。

彼女だった。

何も言わず、私の頭をそっと撫でている。髪型が崩れないように、けれど撫でたことはちゃんと分かるくらいの力で。

 

「……急に、…なに?」

 

「…………可愛かったので、つい」

 

いつもなら、もう少し文句を言っただろう。

子ども扱いしないで、とか。外だよ、とか。そんなことを言って、彼女を少し困らせたかもしれない。

けれど私は、ペンギンのぬいぐるみを胸に抱えたまま、なぜかそれを当たり前みたいに受け入れていた。撫でられるたび、髪が少し揺れる。彼女の指が額の近くをかすめる。心地よくて、少しだけ目を細めてしまう。

 

浮かれていて、上機嫌になっている自覚はあった。けれど、止められなかったし、止める必要もないとさえ思えた。

可愛いものを買えた。彼女が撫でてくれる。

今この瞬間だけで、ずいぶん単純に満たされている自分がいる。

そのまま見上げると、彼女が固まっていた。

頬が赤い。

ほんの少しどころではなく、明らかに赤い。水族館の照明のせいではない。彼女は手を髪の上に置いたまま、目を見開き、それからゆっくり自分の胸元を押さえた。

 

「……どしたの?」

 

「……いえ」

 

彼女は答えなかった。

ただ、口元を押さえるように少し俯く。耳まで赤くなっている。さっきまでクラゲの前であんなに静かに私を包んでいた人が、今はまるで不意打ちを受けたみたいに、胸元へ手を当てて視線を彷徨わせている。

私はペンギンを抱えたまま、少しだけ首を傾げた。

すると彼女は小さく息を吸って、さらに顔を赤くした。

 

「…っ!………君は、たまに、そういうところが、本当に……」

 

そこまで言って、彼女は口を閉ざした。

その声で、なんとなく彼女が動揺している理由を察してしまい、目を逸らしながら顔を赤らめて、ぬいぐるみに顔をうずめる。

ペンギンのぬいぐるみは、相変わらず、何かに納得してないような顔をしていた。

 

そのあとも、私たちはゆっくり館内を回った。

色鮮やかな熱帯魚の水槽。岩場の隙間に隠れたタコ。砂に半分潜っている小さな魚。大きな亀が水の底を滑るように進む姿。どれも綺麗で、どれも不思議だった。けれど、どこか意識の端にはずっとペンギンのぬいぐるみがいて、腕の中で存在を主張していた。

それが、少し助かった。

何かを考えすぎそうになるたび、ぬいぐるみの頭を撫でる。柔らかな布の感触が指に返ってくる。ノートの紙でも、彼女の手でもない、今日新しく手に入れた感触。

きっと、残すために今日を過ごしているわけではないのだ。

ただ、今、目の前のペンギンを見て、可愛いと思う。

それだけでいいのだと。

 

出口へ向かう通路に差しかかるころには、館内の暗さにもすっかり慣れていた。順路の最後には、水族館の外へ出られる扉があった。海に面した屋外エリアへ続いているらしい。

扉の向こうから、明るい光が滲んでいた。

入ったときには曇っていたはずなのに、その光は白く、どこか鋭かった。彼女が先に扉を開ける。外気が一気に入り込み、潮の匂いが頬を撫でた。

思わず目を細める。

 

透き通るように、ただ空が晴れていた。

 

いつの間にか、雲は遠くへ退いていた。完全な快晴ではない。ところどころに薄い雲が撫でたように残っていて、けれどその隙間から落ちる光は、冬のそれとは思えないほど明るく澄んでいる。

屋外の通路は、海へ向かって緩やかに開けていて。手すりの向こうには、海がある。

 

青かった。

青いという言葉では足りないくらいに。

 

空の青をそのまま沈めたようで、波が揺れるたび、光は水面で細かく砕ける。砕けた光はすぐに繋がり直し、また次の波でほどけていく。まるで海そのものが、息をするたびに壊れて、壊れるたびに新しく生まれ直しているみたいに。

遠くでは、水平線が淡く霞んでいる。

空と海の境目はくっきりしているようで、けれどよく見ればどこか曖昧で、青の濃淡だけが、そこに線があるのだと教えてくれる。小さな船が一つ、白い跡を引きながら進んでいる。その白い跡さえ、しばらくすると波の中へ溶けて消えた。

 

私は、圧倒されながら、ゆっくりと手すりの近くまで歩いた。

風が強い。髪が頬にかかる。コートの裾が後ろへ引かれる。手の中のペンギンが飛ばされそうで、慌てて胸元へ抱き寄せた。

 

海を見ていた。

 

硝子の向こうに閉じ込められている海水を模した塩水ではない。手を伸ばしても触れられないのは同じなのに、そこには壁がない。

広くて、遠くて、どこまでも外へ繋がっている。

胸の内側まで光が反射してくるみたいだった。

波は、ただ寄せては返していた。一つとして同じ波はないようにも、どれも同じことを繰り返しているようにも見える。

生まれて、崩れて、また次が来る。

名前をつける暇もないほど当たり前に、さっきの波は消え、次の波が光を確かに持ち上げる。

ふと、手が伸びた。

自分でも理由は分からなかった。

それでも感情に従って、海へ向かって、ただ指先を伸ばす。

届くはずがない。手すりの向こうにはまだ距離があって、その先に階段があり、岩場があり、それからようやく海がある。

指先が掴めるのは風だけだ。光だけだ。触れたと思った瞬間には、何も残らないものだけだ。

 

それでも伸ばす。

青い水面に、手が透けるような気がした。爪の先に、砕けた光が溶けるような気がした。海のほうがこちらへ寄ってくるのではなく、私の中の何かが、海のほうへ一歩、憧れるように。

私は手を伸ばしたまま、しばらく動けなかった。風が袖口から入り込み、指先を冷やす。

 

海面は光っている。それがありがちな比喩でしかなくとも、確かに光ってたんだ。

青い水の上に、まだ夕日には早い太陽が散らばっている。夕焼けではなく、まだ白に近い金色みたいな光が。

それらは水面に落ちた瞬間、無数に砕けて、触れて、ほどけて、そして混ざるように波に滲んでいた。まるで金粉が波間で瞬いているみたいに煌めいて、そしてずっと見ていられるような光だった。

 

「……綺麗」

 

誰に言うでもなく独り言ちる。

彼女は、いつの間にかすぐ傍に寄り添ってくれていて、私の伸ばすその手をゆっくりと抱きしめるように、自分の胸元へ引き寄せた。

何も言わずに。

私の手の甲が、彼女の胸元へ触れる。布越しに、ほんの小さな鼓動のようなものが伝わった気がした。海の音の中では分からないくらい小さいはずなのに、指先だけがそれを拾ってしまう。

そんな最中でも、私は魅了されたように海から視線を外せなかった。

 

屋外エリアを出る頃には、もう午後が少し傾きはじめていた。

館内へ戻ると、さっきまでの青い暗さが少し懐かしい。出口近くのショップは、行きよりも少し混んでいて、私は一度だけ棚を見たけれど、もう何も買わなかった。

ペンギンのぬいぐるみだけで、今日の両手は塞がっていたから。

出口を通るとき、係員が入場券に小さな穴を空けてくれた。

ぱちん、という乾いた音。

その音が、やけに耳に残る。

手渡された半券には、小さな丸い穴が空いていた。今日この場所へ入った証。今日この場所から出た証。紙の端には、潮気を含んだ空気がまとわりついているように思えた。実際には、ただの紙の匂いかもしれない。財布や鞄やコートの匂いが混ざっただけかもしれない。

それでも私は、半券をすぐにはしまえなかった。

指先で、穴の縁をそっと撫でる。

 

欠けたわけでも、失くしたわけでもなく、進み、そして通った印として空けられた穴。

 

そこだけ紙がなくなっているのに、その穴があるからこそ、今日ここに来たことが証明される。

彼女が隣から、静かにこちらを見ていた。私は半券を内ポケットにしまう。朝、古い半券を入れていた場所と同じところに、今日の半券を重ねるように。

水族館を出ると、坂道は来たときより明るくなっていた。

風は相変わらず潮の匂いを含んでいて、歩道橋へ向かう道の植え込みが、光を受けて薄く艶めいている。足元には、どこかから飛んできた小さな葉が貼りついていた。彼女が私の手を取る。私はペンギンを片手に抱えて、もう片方の手でそれに応えた。

 

駅へ向かう途中、何度か振り返った。

水族館の硝子壁が、午後の光を受けて青白く光っている。あの中に、大水槽があって、クラゲがいて、ペンギンがいる。さっきまで私たちが歩いていた暗い通路がある。少女が走っていた休憩スペースがある。ココアを飲んだベンチがある。

覚えている。

まだ、全部、手の届くところにある。

 

駅に着く頃には、太陽は少しずつ低くなりはじめていた。

ホームに立つと、線路の向こう側に海が見える。行きに見たときよりも、空の色が深くなっている。青の中に、ほんの少しだけ金色が混ざりはじめていた。電車が来るまでの数分、私は柵の向こうを見つめていた。

電車が到着する。

扉が開き、私たちは並んで乗り込んだ。帰りの車内は、行きより少し人が少なかった。海側の席が空いていて、彼女が自然にそちらへ導いてくれる。私は窓側に座った。彼女は隣に座る。

電車が動き出すと、水族館の最寄り駅がゆっくり後ろへ流れていった。

窓の外に、海が広がる。

夕日にはまだ少し早いはずなのに、光はもう朝とも昼とも違って、水面の青が少しずつ深まり、遠くの波の背に、薄い橙色が散っている。

海は昼間よりも静かに見えた。実際には同じように波立っているのだろうけれど、窓越しに眺めるそれは、ガラスケースの中へしまわれた思い出みたいに、少しだけ音を失っていた。

私はペンギンのぬいぐるみを膝の上に置き、両手で包む。

窓に映った自分の顔が見えた。

その隣に、彼女の横顔も映っている。窓の中にも彼女がいる。私たちの薄い影が重なっている。

揺れる車内に合わせて、その影は何度も歪み、電柱が通り過ぎるたびに切れて、また繋がった。

その映り込みを見ていた。海を見ているようだった。

電車は走る。

防波堤。小さな漁港。停められた船。干された網。海鳥のような白い点。遠くに見える工場の煙突。どれも車窓の中で一瞬だけ形を持ち、すぐに後ろへ流れていく。

それらを目で追いながら、私は今日のことを順番に思い返していた。今日という日はずいぶん長かった。

こんなに多くのものが、一晩で失われる場所に置かれているのだと思うと、膝の上のペンギンを抱く手に少しだけ力が入った。ぬいぐるみの丸い身体が、腕の間でわずかに潰れる。

彼女が、それに気づいた。

 

「……疲れましたか?」

 

「……ううん、…楽しかったなって、思っただけ」

 

本当でもあり、本当ではなかった。

彼女は私の肩へ自分の肩をそっと寄せてくれた。彼女のほうから、ほんの少しだけ体温を預けてくる。その重みはあまりに軽く、けれど窓の外の海を眺め続けるには、ちょうどよかった。

夕方の光が、車内に斜めに差し込んでいる。

シートの布地に長い影が落ちる。つり革が小さく揺れる。どこかの駅で乗ってきた人のコートが、冬の外気を持ち込んでくる。アナウンスが流れ、扉が閉まり、また電車は走り出す。

海が少しずつ遠ざかっていく。

 

やがて窓の外には、建物が増えた。低い屋根。住宅街。高架下の駐車場。線路沿いのフェンス。海はもう見えない。それでも目の奥には、照り返す青がまだ残っている。瞼を閉じれば、水面の光がちらちらと揺れるように。

彼女の手が、膝の上で私の手に触れた。

私はペンギンを抱えたまま、その手を握り返した。

 

家に着いた頃には、日がだいぶ傾いていた。

玄関を開けると、部屋の空気は朝のままだった。いや、本当は違うのだろう。朝に出たときよりも、空気は少し冷えていて、窓の向こうの光は淡くオレンジに変わっている。

靴を脱ぐ。

彼女が先に上がって、部屋の明かりをつけた。私は少し遅れて玄関に立ち、内ポケットへ手を入れた。

半券がある。今日の半券が。

小さな穴の空いた入場券。

それを指で挟んで取り出すと、紙は一日ポケットの中にいたせいで少し温くなっていた。けれど、ほんの僅かに、潮の匂い。紙の匂い。売店の甘い匂い。彼女のコートの匂い。全部が混ざって、もはや何の匂いとも言えないものが薫る気がした。

目を閉じながらそれを、胸に抱く。

穴の空いた紙を、抱きしめるように。

 

こんなことをする意味はない。紙は紙でしかない。入場を証明するための薄い印刷物でしかない。これが明日、私に今日の全部を返してくれるわけではない。

それでもノスタルジックな衝動が身を動かすほどに心が働いている内に、私はダイニングテーブルへ向かった。

いつものノートを開く。朝、読み返したページの続き。過去の私が書いた字の隣に、今日の私がこれから字を書く。

ペンを持つ。手が少し震えた。

疲れのせいかもしれない。冷えたせいかもしれない。あるいは、今日見た水の光がまだ身体のどこかに残っているせいかもしれない。

今日の半券をノートの上に置いた。

それから、古い半券と並べる。

私は今日の半券を、祈るように指先で撫でた。

大切なものを壊さないように、ノートのページへ挟む。ページとページのあいだに、海の光を閉じ込めるみたいに。ベニクラゲの小さな赤を、彼女の肩の温度を、半券の穴へ通して、そして沈めるみたいに。

それから、ペン先を置く。

黒いインクが、白いページに触れた。

 

『私には何度目かも分からないけれど水族館に二人で行った』

 

何度目かも分からない。本当に、分からない。

けれど今日の私は、水族館へ行った。

彼女と行った。

それだけは、今ここにある。

 

『記憶にないだけで何度繰り返しているとしても、私の知らない私を見つめることになるのは、いつだって怖い』

 

『それでも、ベニクラゲみたいに人知れず私だけが過去に戻るとしても、そのたびに彼女を好きになろう』

 

『ふわふわと意味もなく漂うことになっても』

 

そこまで書いて、ペンを置いた。

しばらく、ページを見ていた。

私は半券を挟んだページを、もう一度そっと押さえる。紙の厚みが少しだけ変わっている。そこに今日が挟まっている。薄く、頼りなく、けれど確かに。

ペンギンのぬいぐるみを、ノートの隣に置いた。

黒い背中と白い腹。少し前のめりで、今にも歩き出しそうな姿勢。部屋の灯りの下で見ると、館内で見たときよりも少し間抜けな顔をしていた。

私は、その頭を撫でる。

 

彼女が隣に座った。

何も言わず、私の肩へ自分の肩を寄せる。帰りの電車と同じように。私はノートを閉じないまま、少しだけ彼女に寄りかかった。

窓の外では、夕日が建物の隙間に沈みかけていた。

部屋の中は静かだ。

遠くで車が通る音。彼女の呼吸。

ページのあいだに挟まれた半券はもう見えず、けれどそこにあることだけは分かる。小さな穴の空いた青い紙が、今日の奥で、まだ微かに潮の匂いを抱いている。

 

私は、ノートの表紙に手を置いた。

 

明日の私がこれを開く。

また何も知らない顔で。

 

古い半券を見て、今日の半券を見て、ペンギンのぬいぐるみを見て、水族館に行ったのだと知る。

そしてきっと、また同じように、思い悩むことになるのだろう。

 

それでも。

水槽の中で、小さなベニクラゲが傘を開くところを思い出す。開いて、閉じて、また開く。意味があるのかも分からないくらい小さな動きで、それでも確かに水の中を進んでいた。

今日が終わるまでを必死に。

今日の私が、もう少しだけ彼女の隣にいられるように。

そして明日の私が、またこの手を取れるように。

 

窓の外は絵に描いたような夕焼けで、鵯のすこし鋭い鳴き声が日常を取り返すみたいに微かに響いた。

泣きそうになりながらも寄りかかってくる彼女の髪から、淡く甘い香りと、僅かに海の匂いがする。

最後の一行のインクだけが、乾ききらないまま、部屋の明かりと差し込む夕日をわずかに照り返していた。

 

──────

 

目を覚ました私は、まず自分の部屋に違和感を覚えた。

自分の部屋であることは勿論分かる。天井の白さも、カーテンの色も、ベッド脇に置かれた小さな棚も、ちゃんといつも通りで、ちゃんと知っている。

知らない場所ではない。知らない生活ではない。

けれど、枕元に重ねられて置かれたノートだけが、明らかに異質で、明らかに記憶にない存在だった。

黒い表紙。角の少し丸まった、厚めのノートが七冊ほど。

その表面に、見慣れた字で付箋が貼られている。

私の字だった。

 

『たぶんびっくりするだろうから、まずは深呼吸をしてほしい。そのあと、このノートを最初の三ページだけ読んでほしい。まずは三ページでいい。』

 

寝起きの頭でその文を読んで、しばらく意味が分からなかった。

自分の字であることは分かる。だけど、書いた覚えがない。全くもって。

その時点で、もう嫌な予感はあった。胃のあたりがゆっくり冷えていく。胸が詰まる。手のひらだけが変に熱い。

 

水を飲んだ。

 

別に喉が渇いていたわけではない。考えをまとめる時間が欲しかった。

自分に命令されるのは妙な気分だった。しかも、書いた覚えのない自分から。

ノートを開く。

一ページ目には、やはり私の字で、ただ一文だけが書かれていた。

 

『君は前方性健忘症です。』

 

そこで一度、呼吸が止まった。

前方性健忘症。

文字の意味は分かる。知識としては知っている。事故や病気のあと、新しい記憶を長く定着させられなくなる症状。昔のことは覚えていても、今日を明日へ持っていけない病気。

そんな、どこか遠い世界の言葉。物語や映画でしか聞いたことのない病気。

それが、あまりに当然のように、自分へ向けて書かれていた。

 

「……は」

 

意図せず声が漏れた。笑うには喉が狭すぎて、声とも言えない音だけが溢れる。

息を何とか吸うように、焦るように、私は二ページ目を開く。

 

『落ち着いて。無理だと思うけど。……でもここでノートを閉じると、余計に怖くなるでしょう?

結論から言うと、君は事故の後、とある日から先の記憶を定着できなくなった。一日の間にどれだけ、何があっても、次の日にはそれを忘れることになる。けれど昔のことは、私達からすれば昨日までのことは、色んなことを覚えてるよね。』

 

そこまで読んだところで、ただ視界が歪んだ。

ただ、生々しかった。

私は同棲相手について何もかも覚えている。好きなものも、笑い方も、紅茶を淹れるときの癖も、少し得意げに人を甘やかしてくるところも。

忘れていない。

なのに、昨日を、随分昔までを忘れているらしい。

昨日の私が彼女と何を話したのか。

何を食べたのか。

泣いたのか、笑ったのか、眠る前に何を考えたのか。

忘れていることさえ気づけない、ということ。

そんな中、昨日の私だけが、指さす様にこちらを見ている。紙の向こうから、逃げるな、と言っている。

三ページ目には、少し乱れた字でこうあった。

 

『机の引き出しの青いファイルの中身を読み込んで、ノートを参考にして続きを書くこと。ただし彼女にはまだ内緒にすること。サプライズなので。』

 

最後の雑さに、私は少しだけ笑ってしまった。そして笑ったあと、気付かないうちに急に涙が落ちる。

朝日が反射する雫はガラス玉みたいに大きかった。

怖かった。怖くて、腹が立って、信じたくなくて、何もかも投げ出したくて。

それでも、昨日の私の字があまりに必死だったから、震えて、乱れて、ところどころ筆圧が深くて、紙の裏側まで跡が残っていたから。

そのくせ、「彼女にはまだ内緒」なんて書いていたから。こんな状況で、サプライズをしようとしていたから。

馬鹿じゃないのかと思った。

きっと昨日の私も、同じことを思ったのだろうけれど。

青いファイルの中には、書きかけの原稿が入っていた。最初の一枚には、仮題が書かれている。

その下に、私の字で小さくメモがあった。

 

『これはただの病気の説明じゃない。彼女が何度でも私の朝にいてくれる理由の話で、お返しになる証明の話』

 

しばらく動けなかった。何も言えなかった。その執念に気圧されたかのように、畏怖すらも感じているように。

ファイルには、これまでのお話が順に入っていた。彼女から病気を告げられ、絶望した日のこと。彼女が問いを組み立て、私を答えへ導いた日のこと。二人で映画を観た日のこと。二人で水族館に出かけた日のこと。二人でイルミネーションを見に出かけた日のこと。

私は、自分で書いたはずのその小説を、初めて読むみたいに読んだ。

いや、実際に初めてになるのだろう。今日の私にとっては。

そこにいる私は、紛れもなく私だった。醜くて、怖がりで、どうしようもなく彼女を愛していて。

そして小説のなかの彼女は、私の知っている彼女より、少しだけ痛ましかった。いつも穏やかで、余裕があって、私の手を取ってくれる彼女に、こんなに怯えた顔があったのだと、私は紙越しに知った。

彼女視点の章には、ところどころ注釈みたいなメモが挟まっていた。

 

『彼女の日記を参考にしている。

日記は本人に見せてもらった。どうせ忘れるから、と見せてくれたっぽい』

 

「……日記…?」

 

そう呟いた声は、少しだけ震えていた。

いつからか彼女も書いていたらしい。私がノートを書くようになってから、或いはそれよりも前から、いつの間にか、彼女も。

見せても次の日には忘れるから、恥ずかしがることはないとでも思ったのかもしれない。

実際、私は忘れている。

けれど、忘れる私がいるなら、書き残す私もいるようで、その私が、彼女の日記を読み、彼女の震えを拾い、少しだけ解釈を添えて、物語の中へ縫い込んでいた。

忘却の穴を、別の日の私が少しずつ埋めている。

 

それは決して綺麗な作業ではなかった。縫い目はきっと、ひどく歪んでいる。ところどころ、昨日の私と一昨日の私で解釈が違うことだってあった。同じ出来事について、「比喩によって彼女の恐怖を強調する」と書かれていた次のページに、「感じていたのは恐怖じゃなくて焦りなんじゃないか」と訂正が書いてあった。

一人で書いた小説ではない。昨日の私、一昨日の私、その前の私。

そして、彼女が残したらしい日記。

みんなで少しずつ、彼女への手紙を書いている。

 

私は今日も全てを忘れる。それは明日も、明後日も変わらない。眠れば今日の私はいつも通り死んで、いま指先にある紙の重さも、朝には知らないものになる。

 

だから何だ。

 

乱暴な気持ちだった。

泣いているようだった。

怒っているようだった。

それでも、私はそう思ったんだ。

 

一日で愛を証明できないなら、何週間でも使えばいい、つまりはそれだけの話だったのだと、いつかの私はたどり着いたのだろう。

 

私は机に向かい、ペンを取る。

新しいページを開く。そこに、これまでの私達に倣い、今日の日付を書いた。

それから、ゆっくりと続きを書き始めるんだ。

 

──────

 

夏の朝みたいに部屋の隅々まで無遠慮に広がるのではなく、窓硝子で一度冷やされ、白く濾されて、それから床や机の上に薄く置かれる朝の光。

触れてもさして暖かくはなく、けれど暗がりを退けるくらいの力だけは確かにあって、カーテンの隙間から差し込むそれを見ていると、世界が静かに息をしていることだけは分かる気がした。

私はテーブルに広げたノートの前で、しばらく動けずにいた。

今日の私は、今日を始めるために、まず昨日までの私を読まなければならない。

思い出す、と言っていいのかは分からない。

記憶そのものが戻るわけではない。ページの向こう側にいる私は、あくまで別の日に生きて、別の日に死んだ私だ。声の癖も、言葉選びも、彼女を好きだと思う角度もよく似ているくせに、決して私そのものになることはない。

 

生きろ。

何度忘れても、また受け取れ。

青臭く、みっともなく、何より切実な言葉が、これまでのページには何度も書かれていた。

指先で紙の端をなぞる。何冊目かのノートはすでに随分と分厚い。

最初のほうのページと違って、最近のページには貼り付けられたものが多い。映画館のチケット。何処かで引いたおみくじ。水族館の半券。ペンギンのぬいぐるみを買った店の小さなレシート。

食い入るようにその記憶達を受け止めていると、紙を捲る音に気づいたのか、台所から陶器の触れ合う小さな音が止まる。朝食を終えたあと、彼女は流しの前でマグカップを洗っていた。白いニットの袖を少しだけ捲り、髪をゆるく後ろで結んでいる。首筋に落ちた細い後れ毛が、窓から入る光を受けて淡く光っていた。

私はノートへ視線を戻す。

今日のページには、いつもより大きな付箋が貼られていた。

 

『イルミネーション(初日)』

 

指が止まった。

今日こそが今年初めての開催日であるのならば、それはつまり。彼女にとっても、まだ一回目。

その言葉の意味を、私はしばらく考える。映画も、水族館も、日々の散歩も、ノートを読む朝も、彼女は私よりも先に何度も経験していたのだろう。過去の私は初めて驚き、初めて照れ、初めて好きだと思う。けれどその横で、彼女は何度目か分からない私の初めてを、いつも最初のように大事に受け止めてくれているはずだ。

それは決して悪いことではない。むしろ、私には身に余るくらいの愛だ。

 

それでも。

今日だけは違うのだと、過去の私が紙の上から告げている。叫んでいる。

 

今日、灯る光は、彼女にとってもまだ見たことのない光だ。私はその光を見る彼女の横顔を、初めて見ることができる。何度も朝を失い、何度も昨日の私を置き去りにしてきたこの身体で、それでも今日だけは、二人で一緒に、初めて見るモノを。

もちろん、明日の私はそれを覚えていられない。今日の帰り道も、夜の光も、全部どこかへ落としてしまう。けれど彼女のほうには、今日の景色は、彼女の中で初めてのものとして残るのだろう。私がいくら失くしても、彼女はきっと覚えてくれるのだろう。

 

「……読めましたか?」

 

振り向くと、彼女がマグカップを二つ持って立っていた。ひとつは私の前へ、もうひとつは自分の前へ置く。湯気が静かにのぼる。紅茶の甘い匂いが、冷えた朝の空気を少しだけ丸くした。

 

「うん」

 

私は付箋を見せるように、ノートを少し傾けた。

言葉がそこで途切れる。

本当はもっと言いたいことがあった。楽しみだとか、緊張するだとか、忘れるのが惜しいだとか。けれど、朝の澄んだ空気の中でそれらを言葉にするのはきっと無粋で、だから私はマグカップを両手で包み、まずは紅茶を飲むことにする。

少し熱かった。

彼女がそれを見て、ほんのわずかに笑う。

 

出かける準備は、思っていたよりも時間がかかった。

ノートには用意してある持ち物が書かれているのに、私はそのひとつひとつを確認するたびに、何か重大なことを忘れている気がしてしまう。手持ちの懐炉を鞄に入れ、薬を小さなケースに移し、チケットを確認し、スマートフォンの充電を確かめる。

コートを羽織る前、クローゼットの扉にかかった厚手のマフラーに手を伸ばした。いつ買ったのかは分からない。深い紺色のそれは、手触りがやわらかく、冬の匂いを少しだけ吸っていた。

 

「…それ、前にわたしが選んだものです」

 

「…そうなんだ」

 

「はい、…正確にはお互いに選びあったものです」

 

「……その私は随分恋人っぽいことを満喫してるね」

 

知らない自分が、急に背後から抱きついてくるような感覚。

前の私は、確かにここにいた。彼女と店を歩き、マフラーを選び、それからきっと忘れた。私だけが、その場面にいなくて、けれど、マフラーは残っている。彼女は覚えている。ノートにも、もしかするとどこかに書かれている。

忘れたものは、完全に消えてしまうわけではない。

無理矢理にでもそう思おうとして、玄関で靴を履いていると、彼女がしゃがみ込むようにして私のマフラーの端を整えた。

慣れた手つきだった。左右の長さをそろえ、首元に隙間ができないようにふわりと重ね、それからコートの襟を直す。

その指先が、ほんの少しだけ緊張しているように見えた。

 

「寒くないですか?」

 

「……うん」

 

「人も多いと思います。疲れたらすぐ言ってください」

 

「うん」

 

彼女の手が止まる。

顔を上げると、彼女は何かを言いたそうにしていた。言葉にする前から、少し困ったような、嬉しいような目をしている。そういう顔をされると、こちらまで落ち着かなくなる。

軽く笑うと、彼女もようやく口元を緩めた。

 

外に出ると、空気は家の中から見ていたよりずっと冷たかった。玄関先で吐いた息が白くほどける。

冬の匂いがした。乾いた土と、朝の道路の冷えた匂い。空は薄く曇っていて、雲の切れ間から射す光だけがやけに眩しい。

駐車場に停めてある彼女の車は、フロントガラスの端にうっすらと霜を残していた。彼女がペンギンのキーホルダーをぶら下げているキーを操作すると、短い電子音とともに灯りが点く。車体の表面に朝の光が滑って、冷たい金属の輪郭が淡く光った。

助手席に座ると、革のシートが少し冷たい。シートベルトを引き出す音が、静かな車内にやけにはっきり響いた。彼女は運転席に座り、ミラーの角度を確認し、ハンドルに触れる前に一度だけこちらを見た。

 

そして、車がゆっくり動き出す。

家の前の細い道を抜け、信号を曲がり、大きな道路へ出る。

朝の街はまだ完全には動き出していない。起きてはいない。歩道を行く人の肩は厚いコートで丸くなっていて、コンビニの前では制服姿の学生たちが白い息を散らしながら自転車を停めていた。遠くのビルの硝子窓には、雲の隙間からこぼれた光が細く反射している。

車内には小さく音楽が流れていた。声のない、ピアノだけの静かな曲。彼女が選んだのか、以前の私が好きだと言ったのかは分からない。問いかけようとして、すぐにやめた。

道路が少し混み始めると、車は緩やかに速度を落とした。前の車のブレーキランプが赤く滲む。彼女の横顔が、その赤に一瞬だけ照らされる。まっすぐ前を見ている目。ハンドルを握る細い指。袖口から少しだけ見える手首。普段、家で私の髪を撫でたり、マグカップを包んだり、ノートの端を整えたりしている手が、今は車を走らせている。

そのことに、妙な安心感のようなものがあった。

 

彼女が私を何処かへ連れて行ってくれる。

 

それは行き先の話だけではない。朝の混乱から、記憶のない昨日から、何度も同じ場所へ戻ってしまいそうになる心から。彼女はいつも、私の手を引いてくれる。その横顔に身を預けていると、私は少しずつ、今日の輪郭を信じられる気がしてくるんだ。きっと、いつもそうなのだろうけど。

 

「…寄っていきますか?」

 

彼女がそう言って、視線だけで道沿いのコンビニを示す。

駐車場には何台か車が停まっていた。白い看板の光が、曇天の下でも妙にはっきり見える。

 

「…うん。飲み物と、なんか甘いの食べたい」

 

車を停める。外に出た瞬間、駐車場の冷たい風が足元を掠めた。コンビニの自動ドアが開くと、暖房の匂いと揚げ物の匂い、コーヒーマシンの苦い香りが一度に流れ出してくる。店内の光は機械的に白く明るく、外の冬が嘘みたいに均一だった。

私は棚の前で少し迷ってから、チョコレートの小さな袋と、個包装の焼き菓子を取った。彼女は飲み物を選んでいる。ホットの棚の前で、紅茶とコーヒーのあいだを一度だけ視線が行き来したあと、結局温かい紅茶を二本取った。

レジ横のケースで、揚げたての小さなチキンが並んでいた。空腹ではないはずなのに、油の甘さと塩気が鼻先を撫でるだけで、急に何かを食べたくなる。

視線に気づいた彼女が、少し笑った。

 

「…食べますか?」

 

「……うん」

 

「ふふっ…はい」

 

悩んだ素振りを一応見せつつ、結局ひとつ買う。その様子すら見透かしたように微笑む彼女にすこし赤面しつつも店を出る。店を出るとき、袋の中で温かいものと冷たいものが不器用に同居していた。車に戻り、彼女が運転席でシートベルトを締める。私は袋を膝の上に置き、チキンの封を開けた。

 

車が再び道路へ出る。

しばらくして、渋滞というほどではないけれど、流れはゆっくりになった。窓の外には冬枯れの街路樹が並び、その向こうに低い建物と、遠くの山の薄い影が見える。熱々のチキンをもそもそと頬張りながら道行く景色や車達を眺めていると、テーマパークへ向かう道だからか、前後の車には家族連れらしい姿や、遊びに行く途中の若い人たちがちらほら見えた。助手席で地図アプリの表示を確認していると、到着予定時刻が数分ずつ動く。

がさごそと食べ終えたチキンの袋を捨てると、そのまま焼き菓子を摘まんで口へ入れる。バターの香りと砂糖の甘さが塩と油の味を忘れさせるように舌の上にほどけた。そのまま先ほどのお返しのように、なんとなく彼女を赤面させてやりたくて、食べかけのそれを運転する彼女の口元へ差し出す。

 

「…ん、食べて?」

 

当たり前のように差し出されるそれを見て、彼女は一瞬だけ驚いたように目を動かし、それから前を見たまま控えめに口を開けた。

届けるように指を動かせば、指先が唇に触れそうな距離で焼き菓子が消える。小さく噛む音がした。白い喉が動く。運転中だから当然こちらを見ることはなく、けれど耳が少し赤くなっているのは見えた。

 

「……おいしい?」

 

「…はい」

 

彼女は前を向いたまま、わずかに首を振った。

味を占めたように私はもう一つ袋から取り出す。今度はチョコレートだった。冬限定らしい、粉砂糖のまぶされた小さなそれは、手のひらに置くだけで少しずつ柔らかくなっていく。

彼女の口元へ近づけると、今度は彼女も慣れたように少しだけ顔を寄せた。

とけたチョコが指先に付くように、唇が指先に触れた。

ほんの一瞬、体温が移る。

 

「…あの、……危ないので、あまり動揺させないでください」

 

そう言いながら、彼女の口元はかすかに笑っている。

こういう小さなやり取りまで明日には忘れてしまうのかと思うと、ふいに車の窓硝子に映る自分の顔が、少しだけ心細く見えた気がして、私は膝の上の袋を握り直し、もう一度彼女の口元へチョコレートを差し出した。

彼女が小さく笑う。ハンドルを握る手はそのままに、少しだけ顔を寄せる。その横顔は、窓の外から射す冬の光を受けて、静かに綺麗だった。

 

テーマパークが近づくにつれて、道路沿いの景色は少しずつ日常から離れていった。

大きな看板。キャラクターの描かれた旗。駐車場へ誘導するスタッフの蛍光色の上着。

遠くに見えるジェットコースターのレールは、冬の曇天を切り取るように高く伸び、

ところどころで複雑に曲がりながら、巨大な生き物の骨みたいに空を支えていた。

ゲートをくぐる前から、子どもの歓声が聞こえる。風に乗って、ポップコーンの甘い匂いと、焼き菓子の香りみたいな独特の匂いが混ざる。

 

駐車場に降り立つと、遠くでアトラクションの機械音が低く唸っていた。地面を歩く人の靴音。スタッフの案内。どこかで流れる明るい音楽。すべてが冬の空気に少しだけ硬く響いている。

彼女は車を施錠してから、私の手を取った。

自然すぎる手つき。けれど、今日はその自然さがいつもより少しだけ特別に思えた。彼女にとっても初めての場所。初めての光。初めての今日。それなのに彼女は、迷わず私の手を握る。まるで、どんな初めての中でも、それだけは間違えないと決めているみたいに。

入園ゲートの列に並ぶ。前にいる子どもが、まだ点いていないイルミネーションの飾りを指差してはしゃいでいた。昼間の飾りは少し不思議だ。光る前の電球は、銀色の細い線に繋がれた小さな粒でしかなく、木々に巻かれたコードも、花壇に置かれた光の造形も、まだ、まるで眠っているように見える。

今日の、きっと可惜夜だろう夜には、どんな景色が待っているのだろう。

そう思うだけで、柄にもなく浮つく。

 

入園すると、彼女が園内マップを開いた。風で紙がめくれそうになるのを、私が片側から押さえる。二人で一枚の古めかしさすら感じる紙製の地図を覗き込むと、自ずと距離が近くなる。靡く紙と一緒に揺れる彼女の髪が、擽るように頬に触れた。シャンプーの甘い匂いと、外気で少し冷えた髪の匂いがする。

 

「先に絶叫系へ行きましょうか…?」

 

「…イルミネーションが始まってからの方がいいんじゃないの?」

 

「……ふふっ、……強がらないでいいですよ?…見る余裕なんて、どうせ無いでしょう?」

 

「……いつ頃の私がバレたの?」

 

「…………事故の前ですよ」

 

「…………」

 

ころころと笑いながら、彼女の指が地図の上でジェットコースターの絵を示す。園内の奥にある大型のものだった。遠くからでもレールが見えている。ときどき車両が頂点まで上がっていき、そこで一瞬だけ止まり、それから悲鳴と一緒に落ちていく。

目を逸らし、しかし音だけで胃が少し浮いたような気がする。

彼女はそれに気づいたらしく、私の手を軽く握る。

 

「無理は……」

 

「…してないって言ったらウソかもだけど、でも、今日しかないんだから一緒に乗りたい、かも…」

 

不安げな彼女の顔を見て、咄嗟にそう言ってから、自分で少し驚いた。

今日しかない。

健康な人にとっても、それは当たり前のことなのだろう。けれど私の場合、今日の私は今日のうちに、怖がることも、笑うことも、彼女の横顔を見上げることも、全部やっておかなければいけない、そう思う。

彼女は何も言わず、しかし指を絡める力が、少しだけ強くなった。

 

ジェットコースターの列は思ったより長かった。ざわめきの最中、鉄柵に沿って折り返しながら進む列の中で、私たちは少しずつレールの真下へ近づいていく。車両が通るたび、頭上で凍てついた風が鳴る。金属のきしむ音と、乗客の悲鳴が降るように響いている。確かに、足元が震えるような錯覚があった。

待っているあいだ、彼女は過保護にも、私の顔色を何度も確かめた。気遣われて恥ずかしい思いをさせたくはないのだろう。わざわざ言葉にはしない。けれど視線が頬や唇、指先へ何度も向かうのが分かる。私はそれに気づくたび、平気だと示すように彼女の手を握り返した。

順番が近づく。

階段を上がると、風がいっそう冷たくなった。ホームの床は硬く、機械油と金属の匂いが少しだけする。スタッフの声に従って、私たちは二人並んで車両へ乗り込んだ。

安全バーが下りて、肩と腹のあたりを固定される感覚が、本来なら安全のためだろう機能が、急に逃げ場を奪う。その隣で、彼女がこちらへ手を伸ばした。

安全バーの下、どうにか届く位置で再び指が触れる。

 

「怖いですか?」

 

「……少しだけね」

 

「…わたしもです」

 

「…うそつき」

 

「…本当です。…君が怖がっているのが…少し怖いです」

 

それは自分の恐怖ではないのでは、と思ったけれど、車両が動き出したせいで何も言い返せなかった。

ゆっくりとレールを登っていく。

かたん、かたん、と一定の音が背中を押す。地面が遠ざかる。

 

さっきまで歩いていた園内が、少しずつ、まるで模型みたいに小さくなる。まだ点灯前のイルミネーションは、昼に打ちあがる花火のように、無機質で味気ないただの線と飾りだった。それでも高い場所から見下ろすと、園内のあちこちに光の花壇や樹木の装飾が広がっているのが分かる。

これ以上、下を覗くのはやめようと顔を上げると、すぐ近くに彼女の横顔が見えた。

風に睫毛と長い髪が揺れている。少しだけ唇を結んでいる。それは怖がっているというより、まるで何かを待っているような顔だった。

 

やがて、頂点へ着く。世界が一瞬だけ止まったように。

遥か遠くの山。冬色で灰色の空。ここからじゃあ、まるで小さな観覧車。まだ眠っている光の海の、その抜け殻みたいなガラス細工達。冷たい風。

…繋いだ指。

それから、すぐ隣で、初めてみるような、口を大きく開けて破顔する、らしくない彼女の太陽みたいな笑顔に息を呑んで、

 

「……ふっ…あははっ…!」

 

「………うっ…!」

 

その次の瞬間、身体が落ちた。

悲鳴。自分の声か、周りの声か、彼女の声かも分からない。内臓だけが取り残されるみたいに浮き上がり、視界が斜めに流れ、風が顔を叩く。レールが曲がるたびに身体が押しつけられ、また持ち上げられ、足元の感覚が消える。

怖い。

 

「……うぅっ…!……ははっ…!……あはは…!」

 

怖いのに、笑っていた。訳も分からず、笑っていた。

彼女が笑っていたからだろうか。普段の静かな微笑みではなくて、風に髪を乱され、目を細め、しかし楽しそうに声を上げるその姿は、いつもより少しだけ幼く見えた。

私を包み込む上品な人ではなくて、そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

 

二人してらしくもなく大きな声をあげながら、身を叩く風と重力に耐えていると、いつの間にか車両が最後のカーブを抜け、速度を落としながらホームへ戻る。安全バーが上がったとき、足に力が入らなかった。彼女が先に降りて、私の手を取る。私は少しふらつきながら、どうにか地面へ立った。

 

「……生きてる」

 

「……ふふ……大げさ…ですよ…?」

 

歩き出そうとして、膝が笑う。

彼女が肩を貸すみたいに近づいてきた。私はその腕に少しだけ体重を預ける。人前であることは分かっているのに、気にする余裕がなかった。

絶叫マシンの出口には、乗車中の写真が表示されていた。画面の中の私は、ひどい顔で怯えるように叫んでいた。隣の彼女は、驚くほど楽しそうに笑っている。普段の端正さが少し崩れて、髪も乱れて、目元が明るい。

 

「これ、買おう」

 

「…いいんですか?…ふふっ…君、かなり情けない顔をしていますよ?」

 

「…うるさいな…そこも含めて、買いたいの」

 

彼女は画面を見て、それから私を見た。分かりやすく目元がやわらかくなる。

印刷された写真は、少し大げさな台紙に入れられて渡された。手に持つと、印刷されたばかりの写真独特の手触りと匂い。

私はそれを鞄にしまいながら、今夜ノートに貼る場所を考える。忘れる前から、もう残すことを考えている自分が少しおかしかった。

 

「次は、もう少し優しいのにしましょうか」

 

彼女はそう言って、園内マップの上に目を落とす。

最終的に彼女が示す先には、色とりどりのカップが円を描くように並んでいた。遠目にも分かるくらい、明らかに子ども向けの、穏やかで、可愛らしい見た目のアトラクションだった。

 

「ふふ、……きっとあれなら、回るだけですよ」

 

回るだけ。

その言葉を信じた私が悪かったのだと思う。

列に並ぶと、前にいた小さな子どもが、乗る前からハンドルを回す真似をしてはしゃいでいた。付き添いらしい父親が苦笑しながらその手を止めようとしている。周囲には甘いポップコーンの匂いが漂っていて、近くのスピーカーからは妙に陽気な音楽が流れていた。

冬の空の下にある遊園地というのは、少し不思議だ。どれだけ音楽が明るくても、どれだけ飾りが可愛くても、空気だけはどこか硬く冷えていて、そのせいか、目の前で回るカップたちも、夢の国の乗り物というより、少しだけ律儀に仕事をしている陶器みたいに見えた。

順番が来ると、彼女は迷わず白地に青い花模様のカップを選んだ。

 

「……なんでこれ?」

 

「君に似合うと思って」

 

「……なにそれ」

 

私が顔を背けてそう言うと、彼女はたいそう満足げに微笑んだ。その表情が悔しいく

らい可愛くて、結局それ以上文句を言えなくなる。

向かい合って座ると、思ったより距離が近かった。膝が触れそうで触れない。中央の丸いハンドルの上へ、彼女が両手を置く。私もなんとなく片手だけ添えた。

 

「……あまり回さないでね」

 

「はい。もちろん」

 

返事だけは、やけに早く、そして素直だった。

音楽が鳴り始めて、そしてカップがゆっくり動き出す。

最初は本当に穏やかだった。景色が少しずつ横へ流れていく。子どもの笑い声。近くを歩くキャストの声。白い息を吐きながら手を振る親子。そういうものが、数えきれないくらいに、沢山あった。

これくらいなら悪くない。

そう思った瞬間、彼女がハンドルを回した。

 

「……ちょっと…?」

 

「はい?」

 

「いや、はいじゃなくてさ…」

 

「ゆっくりですよ?」

 

カップは遠慮がちに、けれど確実に回転を速めていった。景色が円を描く。青い柵、白いベンチ、赤いコートの子ども、売店の看板、それらが順番に、そしてだんだん順番を失いながら視界を流れていく。

彼女は楽しそうだった。

普段の端正な顔を少し崩して、目元を明るくして、まるで本当にただのデートをしている人みたいに笑っていた。いや、実際そうなのだ。私たちは今、ただ遊園地で、回るカップに乗っているだけ。

難しいことなんて何もなく、深刻な意味なんてどこにもなく、ただ私が少し酔いそうで、彼女がそれを見て楽しそうにしているだけの時間。

 

「……ちょっと…!本当に、……待って……」

 

「ふふ、変な顔…」

 

「…さっきの写真で十分でしょ、……情けない顔はっ…!」

 

「全然足りませんよ。…もっともっと、…見せてください」

 

「……最低」

 

「はい。愛していますから」

 

「……!」

 

言い返そうとして、また景色がぐるりと流れた。言葉が途中でどこかへ飛んでいく。

彼女の笑い声だけが、回転する世界の真ん中に残っていた。

私は仕方なく、中央のハンドルを握る彼女の手に、自分の手を重ねた。

止めるためだった。少なくとも、そのつもりだった。

けれど彼女は、ふっと驚いたように目を丸くして、それから少しだけ頬を染めた。さっきまであれだけ楽しそうに人をからかっていたくせに、手を重ねられたくらいでそんな顔をするのはずるいと思う。

回転が少しだけ緩む。

 

「……酔いましたか?」

 

「すごく」

 

「………ごめんなさい」

 

「……でも、楽しい」

 

付け足すみたいに、それでも小さくそう言うと、彼女は息を止めるように黙った。

その沈黙で、失敗した、と思った。重くするつもりはなかった。ただ、実際にそうだったから言っただけで、今この瞬間、頭がふわふわして、景色が回って、彼女が目の前で笑っていることが、ひどく楽しかった。それだけでいいと思ったのを伝えたかったんだ。

どう訂正しようか悩んでいると、しかし彼女は、噛みしめるように微笑んでくれた。

 

「……はい。わたしも、楽しいです」

 

その声は、回転する音楽に紛れてしまうくらい小さく、けれど、ちゃんと聞こえる。

 

やがてカップが止まる。降りるとき、足元が少しだけ覚束なくて、彼女がすぐに腕を差し出してくれた。私はまたそれに体重を預けながら、情けなさを誤魔化すように息を吐く。

それからも私たちは、いくつかのアトラクションに乗った。

 

回転する空中ブランコでは、冬の風が足首を容赦なく冷やした。地面が円を描いて流れていき、隣にいるはずの彼女の笑い声が少し遅れて耳に届くような気がした。

 

射的のようなゲームでは、彼女が妙に真剣な顔で的を狙い、小さなぬいぐるみの景品をひとつ取ると、彼女は当然のようにそれを私の鞄へつけて、それから写真を何枚も撮って満足げにしていた。知らない動物の、丸くて少し間抜けな顔をしたマスコットだった。

 

キャストと会話することになるアトラクションでは、運よく指名された彼女が、会話の中で私への愛を迷うことなく宣言して、群衆の視線が集まる中、両手で顔を覆う羽目になった。

 

園内を歩くうちに、陽の光は少しずつ傾いていった。

屋台で買った温かいスープを、二人でベンチに座って飲む。紙カップ越しに伝わる熱が、冷えた指にしみた。スープには玉ねぎの甘さと胡椒の匂いがあり、湯気が顔の前で白く揺れる。彼女は自分のカップを両手で包み、少しずつ口をつけていた。

その奥で、スタッフたちがイルミネーションの最終確認をしているのが見えた。木々に巻かれた電球。花壇に広がる小さな透明の花。広場の中央に立つ大きな光の塔。昼間は眠っていたそれらが、夕暮れの青に沈むにつれて、だんだん輪郭を変えていく。

 

点灯まで、もう少し。

 

放送が流れ、人の流れが広場へ向かう。彼女が空のカップを片付けると、私たちもそれに続くように広場へ向かう。

冬の夕方は、暗くなるのが早い。さっきまで灰色だった向こうの空は、いつの間にか深い藍色を含み始めていた。雲の端に残っていた薄い光も、少しずつ、少しずつ消えていく。気温が下がり、頬に触れる空気が気のせいか硬くなる。

 

広場には多くの人が集まっていた。

子どもを抱き上げる親。スマートフォンを構えるカップル。友人同士話し込む人達。

誰もがまだ点いていない光を見つめているようだった。始まる前の静けさは、どこか劇場にも似ている。音楽は未だ微かに流れているのに、人々の期待がそれを柔らかく包み込み、空気そのものが息を潜めている。

 

彼女は私の隣に立っていた。

手を繋いでいる。顔を向けると、その瞳にはすでに何かが映っているようだった。期待か、緊張か、それとも私の知らない感情か。

今日の彼女は、何度も見てきた景色をなぞっているわけではない。まだ来たことのない場所で、まだ見たことのない光を、私と待っている。

その横顔を見ていた。

もうすぐイルミネーションが始まる。きっと綺麗だろう。公式サイトの写真や説明からしても、海のように広がる光が園内を覆うのだろう。

カウントダウンが始まる。

 

十。

 

九。

 

八。

 

人々の声が重なる。今か今かと、期待と焦れが同居したような群衆の息。寒い空気の中で、それぞれの息が白く立ち上がる。

彼女の指が私の手を少し強く握った。

高鳴る緊張を、深呼吸して落ち着かせるみたいに。

 

三。

 

二。

 

一。

 

そして、

花々が、木々が、波打つように灯った。

最初に広場の塔が白く輝き、それから波紋のように光が広がっていく。

木々に巻かれた電球が一斉に目を覚ましたように、花壇に敷き詰められた小さな光が、青、白、金、淡い桃色へと順番に移り変わる。足元から遠くの丘へ向かって、光の花が咲いていく。

冬ざれの最中、春を待ちきれずに咲き誇る花々の畑みたいに。

 

歓声が上がる。

けれど私の耳には、そんなものよりも、この、景色よりさえも、

彼女が息を呑んだのが分かった。それだけが分かった。

ほんの小さな音だった。声にすらならない、胸の奥から零れたような、寝息みたいに微かな息。

その瞬間、彼女の瞳に灯る光が反射する。無数の色が、瞳の表面で細かく揺れた。白い頬が淡い青に照らされ、次の瞬間には金色に変わり、睫毛の色すら花の色に染まる。

 

綺麗だった。

光の海よりも。花の海よりも。

 

何千、何万という電球が一斉に冬を照らしているのに、その中心で初めての景色に静かに心を奪われている彼女の横顔だけが、私にはひどく鮮明に、そして大切に見えた。そう見えたんだ。

彼女は、そして私も、しばらく何も言えなかった。

いつもなら、私の反応を先に確かめるだろうに。

どんな反応をしているのか、寒くないか、人混みは苦しくないか、疲れていないか。

そういうことを何より先に気にする人なのに、この瞬間だけは、彼女自身が景色の中に立ち尽くしていた。

それが嬉しくて、思わず手を握る力を少しだけ強めると、彼女がようやくこちらを見る。瞳の中で、光の花がまだ揺れている。

 

「…綺麗だね」

 

何の捻りもなく、けれど噛みしめるように私が言うと、彼女は一度だけ瞬きをした。

 

「……はい」

 

声は少し掠れていた。

 

私たちは光の道を歩いた。足元には小さな青い電球が川のように流れ、両脇には白い枝を模したアーチが連なっている。アーチをくぐるたび、光が髪や肩に落ちる。周りの人々の顔も、みんな少しだけ現実から離れているように見える。

寒さで赤くなった頬も、スマートフォンの画面を覗き込む横顔も、手を繋いで歩く影も、すべてが光の粒に縁取られていた。

彼女は何度も立ち止まった。

蒼い光の池の前で。金色の並木道で。白い鳥の形をしたオブジェの前で。桜色の花が一面に広がる広場で。

そのたびに目を細め、少しだけ唇を開き、何か言葉を探しているような顔をして、けれどそれすらも心にしまうように、握る手にただ力を込める。

そのすべてを見ていた。

景色だって、もちろん綺麗だ。

足元から広がる光の花も、遠くに見える観覧車の輪郭も、空に向かって伸びる光の塔も、確かに胸に残したいと思った。けれどそれ以上に、彼女の初めてが表情になっていく過程が、比べ物にならない程に、ひたすらに切実に、綺麗だったんだ。

 

この人は、私の初めてを何度も見守ってくれた筈だ。

同じ説明を、同じ絶望を、同じ朝を、何度も何度も何度も。

私が初めて泣くたびに、彼女は何度目かの痛みを抱えて、それでも初めてみたいに抱きしめてくれた筈だ。

だから今日、彼女が初めて光に見惚れる横顔を見ているだけで、私は自分が、彼女に何かを返せているような気がした。

返せるはずもないのに。それでも、ほんの少しだけ。

そんな言い表しきれない感情に飲まれながらも、目の前の景色を眺めていると、不意に、彼女がスマートフォンを取り出した。目の前の写真を撮るのかと思ったら、当然のようにそれはこちらへ向けられる。

 

「撮りますよ?」

 

「…景色、撮りなよ」

 

「…景色を見ている君を撮りたいんです」

 

さらりと言われると、本当に困る。

私が言葉にできず抱えている感情と同じようなものを、当然のように差し出してくる彼女が、どこかずるいとすら感じてしまう。

私は視線を逸らしながら、花畑の前に立った。彼女が画面越しにこちらを見る。その視線はレンズを通しているはずなのに、直接触れられているみたいだった。

シャッター音がする。

一枚、二枚。

それから彼女が近づいてきて、今度は二人で撮ることになった。スマートフォンを少し高く掲げ、肩を寄せる。画面の中の私たちは、後ろの光に縁取られて、少しだけ知らない恋人たちみたいに見えた。

彼女の頬が近い。

シャッターが切れる直前、彼女がわずかにこちらへ寄った。髪が触れて、指が絡む。

画面に映った私の顔は、そして、彼女の顔は、どうしようもなく嬉しそうで、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだった。

園内を一通り歩いたころには、足先が冷え切っていて、けれど胸の奥だけは妙に熱い。

 

温かい飲み物を買い、近くのベンチで少し休む。

彼女はスマートフォンで撮った写真を何枚か見返していた。ぶれた写真も多い。人混みの中で撮ったから、知らない人の肩が映り込んでいるものもある。

それすらも、この飲み物みたいに、或いはそれよりも、暖かく愛おしい。

 

やがて、観覧車へ向かう。

冬の夜の観覧車は、昼間に見たときよりずっと大きく感じた。円形の輪郭に沿って光が流れ、ゆっくりと色を変えている。窓には園内のイルミネーションが反射し、上へ行くほど、もう暗い空へと近づいていく。

列はそれなりにあったけれど、寒さのせいか人々の声は少し落ち着いていた。待機列の足元にも小さな光が埋め込まれ、歩くたびに靴の影が海辺を歩くみたいにゆらゆら揺れる。

彼女は列に並びながら、私のマフラーを直した。

 

「寒くないですか?」

 

「…すこしだけ、寒いかも」

 

「…手、貸してください」

 

言われるまま手を出すと、彼女は私の手を自分のコートのポケットへ入れた。二人分の手が、狭い布の中で触れ合う。指先が不器用に重なり、ポッケの縫い目が擦れた。

 

やがて、順番が来る。

スタッフに促され、私たちはゴンドラへ乗り込んだ。扉が閉まると、外の音が少し遠くなる。

完全に遮断されるわけではない。人々の声も、園内の音楽も、機械の低い駆動音も、薄い壁越しに柔らかく届く。けれどそこには、二人だけの小さな空間が生まれていた。

 

ゴンドラがゆっくり上がり始める。

最初は地面に近い光が見えた。足元の花畑。列に並ぶ人たち。屋台から零れる白い湯気。さっき歩いた青い光の道。

高度が上がるにつれて、それらは少しずつ繋がり、まるでひとつの絵のようになっていく。

窓の外を見て、ただ彼女の隣に座り、同じ景色を。

眼下には、光の海が広がっていた。広場の塔を中心に、青い川が流れ、白いアーチが連なり、金色の木々が道を形作っていた。昼間乗ったジェットコースターのレールも、ところどころ照明を受けて黒い線になっている。

遠くの街の灯りは、テーマパークの光より少し地味で、けれど私達の現実の続きとして静かに、そして確かに瞬いていた。

空は濃く、星はあまり見えなくて、けれど地上に瞬く星々が煌めいている。

 

「……すごいですね」

 

彼女が小さく言った。

その声には、何一つ飾り気がなく、ただ心の底から零れたような響きがある。

 

「…うん、…想像以上に…すごい」

 

「…こんなふうに、見えるんですね」

 

彼女は窓の外を見たまま、ゆっくりと微笑んだ。

こんなにも眩しいものだとは思わなかった。私にとって初めてであることは、いつだって残酷だ。

初めて知る。初めて泣く。初めて受け入れる。けれどそれは、彼女からすれば何度も繰り返された痛みの一部でもあって、どんなに美しいものを見たとしても、その背後にある残酷な事情を、覚悟を、意識せざるを得ないだろう。

けれど今、彼女のこの顔は、表情は、感動は、

 

かけがえもなく、そして間違いなく初めてのモノ。

 

今まで通り、明日の私は忘れてしまうだろう。彼女だけが覚えていくのだろう。

でも、それでも、今この瞬間の彼女の目には、何度も繰り返したものではない、初めての驚きがあって、そして、私はその隣にいる。

ゴンドラがさらに上がる。

園内の全体が見えて、光の花畑は、かつて事故の前に手を伸ばした本物の海みたいだった。

風も波もないのに、点滅と色の変化でゆっくり揺れているように見える。

観覧車の窓に、私たちの姿が薄く映る。重なった影。光を受けた彼女の頬。暗い硝子に映る私の目。

 

「…ねえ」

 

「…はい」

 

「今日さ、…来てよかったね」

 

彼女はすぐに答えなかった。きっと答えられなかったのだろうと、そう思う。

窓の外から私へ視線を移す。光を映した瞳が、近い。ゴンドラの中は暖房が入っているはずなのに、身体は緊張したように冷たかった。

それでも、指を伸ばせば、繋いだ手からすぐに温度が混ざり始める。

 

「……はい」

 

彼女はようやく答えた。単純明快な答えを、しかしやっとの思いで見つけたみたいに。

 

「来て、よかったです」

 

私は彼女の手を両手で包む。細い指。関節の小さな硬さ。爪の丸み。何度も私を撫で、何度も私を抱きしめ、何度も同じ朝から引き上げてくれた手。

窓の外で、光が揺れている。

 

「…忘れたく…ないなぁ…」

 

絞り出すように言ってから、すぐに言わなければよかったと思った。

彼女は目を伏せず、困ったように笑うこともしなかった。ただ私の言葉をそのまま受け取るみたいに、静かにこちらを見ていた。

 

「…ごめん」

 

「謝らないでください」

 

「…うん」

 

「…忘れたくないと思ってくれたことを、きっと私が、……一生、忘れませんから」

 

喉が詰まる。

私の痛みを彼女に預けているようで嫌になるのに、それでも彼女がそう言ってくれるだけで、私は今日を生きていていいのだと思えてしまう。

ゴンドラがいつの間にか、頂点へ近づいていた。

地上の光が更に遠くなる。観覧車の窓の外には、テーマパーク全体と、その向こうの夜の街が広がっていた。

冬の空気のせいか、遠くの灯りまで妙にはっきり見える。道路を走る車の赤い光が細い線になり、街の窓明かりが小さな星座のように散っている。

 

彼女が少しだけ身を寄せた。

肩が触れて、視線が絡む。

どちらからともなく、顔が近づく。

この瞬間だけは、外の光が遠くなるようで、けれど彼女の瞳に映るイルミネーションだけが近い。

細かな光の粒が、濡れたような黒に散っている。睫毛の影。白い頬。寒さで少し色づいた唇。何度も触れたはずなのに、今日の私にとっては、いつだって初めてみたいに見える。

私は手を伸ばして、彼女の頬に触れた。

彼女が目を細める。その仕草が、光の中であまりにもやわらかい。

 

「……キス、…してもいい?」

 

囁くように聞くと、彼女は堪えきれないみたいに小さく笑った。

 

「…聞かなくても、いいのに」

 

「…聞きたいの」

 

「…………君らしいですね」

 

「……はい……もちろん、いいですよ…」

 

朱の射した、手のひらの中にある彼女のかんばせから、口から、沢山の感情を確かめるみたいに許しの言葉が落ちて、それから私はゆっくりと唇を重ねた。

観覧車の小さな箱の中で、地上の光からいちばん遠い場所で、彼女の唇はひどく暖かい。

触れた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが静かにほどける。忘れたくないという怖さも、忘れてしまうことへの怒りも、今日の彼女の初めてに立ち会えた喜びも、すべてが言葉になる前に、それらを上回る彼女への想いによって。

柔らかい。

生きている。

ここにいる。

恥ずかしくなって唇を離せば、彼女の指が、私の服の袖を掴んでいた。行かないでと言う代わりみたいに。

私はその手に答えるように、羞恥心すらも彼女へ八つ当たりするみたいに、もう一度口づけた。今度は深く、彼女の呼吸がわずかに乱れるくらいに。

窓の外では光の海が相変わらず流れていて、ゴンドラはゆっくりと下り始めている。そんな最中、この小さな空間だけが、息を詰めて止まっているみたいだった。

彼女の手が私の首元へ伸びる。マフラーの端を掴み、それからそっと指先が髪へ触れる。私を落ち着かせる手つきではなく、彼女自身が縋るような触れ方。

私はそれに応えるように彼女の背に腕を回した。厚手のコート越しでも、細い身体の輪郭が分かる。抱きしめると、彼女は逃げなかった。むしろ少しだけこちらへ身を預けて溶け合うようにキスを続け、…その状態から数秒、或いは数十秒を掛けて、名残惜しそうに唇が離れ、額が触れる。互いの息が近い。

観覧車の窓には、光に包まれた二人の影が映っていた。

 

「……今日のこと、ちゃんと、…書くね」

 

そう言うと、彼女は額を合わせたまま、静かにうなずいた。彼女の瞳が揺れた。

その意味が正確に伝わったのかは分からず、けれど彼女は、ただ私の手を握った。

指先は冷たくて、けれど強く絡む。

 

ゴンドラが地上に近づく。外の音が少しずつ戻ってくる。

人々の声、スタッフの案内、音楽。

扉が開けば、私たちはまた寒い夜の中へ戻るのだろう。

 

手を引いて降りると、足元が少しふわふわしたような気がする。高さのせいか、キスのせいか、どちらとも言い切れない。

彼女はいつも通り私のマフラーを直して、花開くように微笑んだ。いつものように世話を焼く仕草なのに、頬がほんのり赤いままだった。

 

帰り際、私たちはもう一度だけ光の道を通った。

点灯直後より人は少し減っていて、夜が深まり、冷え込みが強くなっている。

足元の光は相変わらず鮮やかで、透明な花びらの中に小さな灯りを抱いていた。私はしゃがみ込み、近くでそれを見る。プラスチックの花。コード。電球。仕組みとしては単純なのに、離れて見ると本当に花が咲いているように見える。

ひとつひとつは頼りない断片でも、紙に残し、写真に残し、彼女の中に残し、私の明日に渡していけば、遠くから見たときにひとつの光景にならないだろうか。

完全な記憶ではなくても、今日という花畑の輪郭くらいは、明日の私に、或いは彼女に、渡せないだろうか。

私は立ち上がり、彼女へ手を差し出した。彼女がその手を取る。

きっと明日生き返れば全て消えてしまうこの感情を、まるで冥界の花畑に魅せられたように惜しみ、それでも帰ろう、と小さく言えば、彼女はただ、はい、と答えた。

答えてくれた。

 

帰りの車内は、行きより静かだった。

疲れていたのもある。夜の道路は昼間と違って、外の景色が窓に溶けていくようだ。

街灯と対向車のライトが線になって流れ、窓硝子には車内の私たちが電車みたいに薄く映る。後部座席には、買った写真と小さなマスコットのぬいぐるみ、テーマパークの袋が置かれていた。

私は助手席で、温かい飲み物のペットボトルを両手に包んでいた。もう中身はぬるく、それでも指先を温めるには十分だ。

彼女は前を見て運転している。夜の横顔は昼間より静かで、時折通り過ぎるライトに照らされて、輪郭だけが浮かび上がる。疲れているはずなのに、表情は穏やかだった。

 

「眠ってもいいですよ」

 

「…もったいないじゃん」

 

「帰ってすぐ寝るほうが、もったいないですよ、きっと」

 

「…む」

 

子どもみたいな返事に、彼女は困ったように笑う。

コンビニで彼女に食べさせたチョコレート。ジェットコースター。光が灯った瞬間。観覧車。キス。そして、彼女が初めての光に息を呑んだこと。

どれも楽しかった。どれも惜しい。どれも失くしたくない。

彼女の手が、ハンドルの上でわずかに動いた気がした。

 

車内に、短い沈黙が落ちる。

エンジンの音。タイヤが道路を撫でる音。ウインカーの規則的な音。外を流れる車の光。その全部が、言葉の代わりみたいに静かに続く。

しばらくして赤信号で車が止まる。彼女は前を向いたまま、片手をハンドルから離し、私の手を探した。私はペットボトルを膝に置き、その手を握る。

彼女の指は少し冷えていた。

信号が青に変わるまでの短い時間、私たちはただ手を繋いでいた。

 

家に帰り着いたころには、身体の芯まで疲れていた。

玄関を開けると、室内の空気がほっとするほど静かだった。テーマパークの音楽も、人の声も、機械音もない。ただ暖房の低い音と、壁の時計の音だけがある。

外で浴びてきた無数の光が嘘みたいに、部屋の灯りは柔らかく、少しだけ眠たげですらあった。

彼女が先に暖房を強め、私にソファへ座るよう促す。けれど私は首を振った。

 

「……ノート、…先に書きたい」

 

そう言うと、彼女はそれ以上止めなかった。

ダイニングテーブルにノートを広げて、それから今日のページを開く。

彼女が鞄から台紙入りの写真とパンフレット、チケットの控え、買ったマスコットのぬいぐるみを出してくれた。テーブルの上に、今日の断片が並ぶ。

ペンを握る。

指が少し震えていた。寒さのせいか、疲れのせいか、感情のせいかは分からない。

いつの間にか、彼女が温かい紅茶を淹れてくれていて、湯気がのぼる。朝と同じ匂いのはずなのに、今はなんだか、一日の終わりの匂いがする気がした。

ノートの白いページを見る。

 

何から書けばいいのか分からない。朝、ノートを読んだこと。彼女にとっても初めてだと知ったこと。車で向かったこと。コンビニに寄って、助手席からお菓子を食べさせたこと。ジェットコースターで叫んだこと。点灯の瞬間。観覧車。キス。帰りの車。信号待ちで繋いだ手。

書かなければいけないことが多すぎて、でも、全部を完全にここに閉じ込めることはできない。

それでも私は息を吐き、最初の一行を書いた。

 

『今日、二人でイルミネーションを見に行った。』

 

その一文だけで、胸が詰まるように手が止まる。

ペン先が紙を擦る音がする。言葉を探るように、もう一度だけ今日一日を想う。

事故のあと、彼女にとっても初めてのイルミネーションだった。これまで私は、たくさんの初めてを彼女に見守られてきて、私だけが知らない何度目かの朝に、彼女は何度でも私の初めてを受け止めてくれた。けれど今日は、今日の光は、彼女にとっても初めてだった。今日の私は、その初めての隣にいた。間違いなくそこに、いたんだ。

イルミネーションが灯る瞬間、彼女はほんの少し息を呑んだ。周りにはたくさん人がいて、歓声も上がっていて、世界中が光に驚いているみたいだった。それなのに私は、光よりも彼女の横顔ばかり見ていた。白い頬が青く照らされ、次に金色に変わり、瞳の中で小さな花が揺れていた。

ペン先が止まる。

書きたい言葉は、最初から決まっていたような気がした。

 

『今日、二人でイルミネーションを見に行った

初めて見るモノを見る彼女の横顔は、煌めく花の海の中でも、一番綺麗だった。

何百回と生まれ、そして死ぬ私のなかでも、今日の私が彼女の初めてに立ち会えたのが、ただ嬉しい。

自分自身が残酷な運命の渦中にあることすらも、きっと忘れてしまいそうなほどに。

次は、何処へ行こうか。』

 

生まれ、そして死ぬ。

大げさな言い方だと思う。けれど今の私には、それ以外の言葉が見つからなかった。夜眠れば、今日の私は終わる。明日の私はこのページを読み、写真を見て、彼女の説明を聞いて、きっとまた胸を痛める。このノートにどれだけの情報を込めようとも、感情を託そうとも、そのとき今日の私がそのまま蘇るわけではない。

ジェットコースターの写真を貼る。情けない顔で叫ぶ私と、楽しそうに笑う彼女。台紙から切り離すのは少し惜しかったけれど、ノートに貼るほうがいいと思った。次に、チケットの控え。パンフレットの一部を貼って、写真を印刷するのは明日以降になるだろうから、今日はその場所を空けておく。

 

明日に遺すノートが出来上がって、私は唇に残る温度を思い出すように目を瞑る。

今ならまだ、覚えている。彼女の頬の冷たさも、指の細さも、マフラーに触れた手も、光を映した瞳も。今ならまだ、全部ここにある。

書き終える頃、時計の針はずいぶん遅い時間を指していた。

身体は疲れている。まぶたも重い。けれど眠るのが惜しくて、私はペンを握ったまましばらくページを見つめていた。

 

私には保証できない未来。明日の私が同じ気持ちで目覚めるとは限らない未来。けれど、彼女とならまた何処かへ行きたいと思った。

忘れるとしても。失くすとしても。何度でもノートを読み、何度でも準備をして、何度でも、今日みたいに二人で。

次は何処へ行こうか。

 

書きなぐられた絶唱にも近しい私の言葉を見た彼女が、そっと口元を押さえた。

 

「……君は」

 

呼びかけのようで、ため息のような声。

私はペンを置き、彼女を見る。

 

「…なに?」

 

彼女は少し迷ったあと、静かに首を振った。

 

 

「…わたしは、幸せ者だと、……そう思いました」

 

 

それだけ言って、彼女は泣きそうに笑った。

イルミネーションの半券と、ジェットコースターの写真と、未来への一文。

これで十分とは思わない。

どれだけ美しい光を見ても、観覧車の上でキスをしても、ノートに書き残しても、どれだけ感情的に足掻いたとしても、この病気が急に治るわけではない。

けれど、そんな奇跡がなくたって、

何度絶望し、何度怯えることになったって、

私がやるべきことは変わらない。

 

今日を全力で足掻いて、

それから明日の私が彼女を、また何処かへ連れて行ってくれることを祈り、

そして死ぬのだ。

 

ただ、彼女を幸せにするために。

 

──────

 

サプライズの日を決めたのは、二日前の私で、今日の私は朝からずっと落ち着かなかった。

現状に絶望し、彼女を心配し、けれどもここまで書き連ねられたこの一途で頑固な想いが、これまでの私の思惑通りに私を動かしていく。

ノートの指示に従い、渡すための準備をし始めてからも、未だに湧かない実感を抱えながら、それでも、どんなに刹那的でもこれだけ紡ぎ、そして繋いできたコレを、何とか渡さなければ、伝えなければという使命感にひたすら突き動かされる。

カーテンの隙間から差し込む朝の光はやわらかかった。いつしか訪れていた冬の白さを薄く溶かしたような色で、部屋の中の輪郭を、ひとつずつ確かめるみたいに撫でている。

ベッド脇の棚。読みかけの本。昨日の私が書いたらしい付箋。何度も何度も見たはずなのに、今日の私は、今朝になって初めて受け取った抵抗の証。

机の上には、原稿の束があった。

何度も確認した。

表紙を撫でて、ページの順番を確かめ、リボンの結び目を直す。

触れるたびに紙は想像していたよりずっと冷たく、指先の熱を吸い取るみたいで、或いは私の指が熱持っているのを教えてくる。

コピー用紙特有の乾いた匂いに、ほんの少しだけインクの匂いが混ざっている。鼻先へ届くその匂いは、どこか知らない本屋の棚みたいで、けれどここにあるのは、たぶん世界で一冊だけの、私たちの話。

表紙には、過去の私が書いたらしいタイトルがあり、その下に、小さく。

 

『これは、つまるところラブレターで、そして、これからも私が生き足掻くための証明になる。』

 

とあり、その文字を見るたびに、何度も喉が詰まった。

大げさだと思う。

あまりにも大げさで、重くて、朝からどこにも逃げ場がない。こんなものを渡して、彼女は困らないだろうか。重すぎるとは思わないだろうか。あるいは、こんなものを書かせてしまったのだと、彼女のほうが傷ついたりしないだろうか。

……いや、重いのは今さらだ。

そもそも私たちは、何回かの自殺未遂と、十七回の映画を抱えている。それよりも前の名前のない反復も、すべて抱えたまま、ここまで来てしまった。

今さら軽さを装える関係ではないだろう。

そんなことをぐるぐると考えながら、私は朝食の席に着いた。湯気の立つ味噌汁の匂いが、妙に現実感を持って鼻を擽る。焼き魚の皮が箸の先で、ぱりっと小さく鳴って、白い皿の上に細かな油の光が残った。

 

彼女はいつも通り向かいに座っていて、時々こちらを見ては、何か言いたそうに、それでも何も言わないまま微笑んでいた。

その微笑みが、余計に苦しかった。

今日の私が何をしようとしているのか、彼女は知らない。少なくとも、今の彼女は知らない。

けれど、もしかすると昨日の私は、彼女に悟られないようにと、少し様子がおかしかったのかもしれない。或いはさらにその前の私も。

そういう積み重ねを想像すると、食べ物の味が少し遠くなってしまい、それでもどこか上の空のまま、なんとか料理を食べ切った。

 

食後、彼女が皿を流しに運ぼうとしたところで、私はその手を軽く掴んだ。

陶器の皿が、彼女の指先の中でかすかに揺れる。小さな音がした。彼女の手は乾いていて、微かに震えているようにも見えた。

彼女が振り向く。

 

「…………どうしました?」

 

私は一度、息を吸った。胸の奥が、ひどく狭い。

それでもノートの中の無数の私たちが、背中を押してくる。

 

「ちょっと、座ってて」

 

「……はい?」

 

「いいから。今日は私が片づける。……いや、片づけはあとで一緒にやろう。……今は座ってて」

 

彼女は不思議そうにしながらも、言われた通り椅子へ戻った。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえる。

部屋の中は静かだった。蛇口から落ちかけた水滴が、流しの底へぽつりと落ちた音まで聞こえるほどに。

私は寝室へ行き、机の引き出しから原稿を取り出す。

両手で抱えると、思ったより重かった。紙の重さ。文字の重さ。何日分もの私の、忘れたくなかったものの重さ。忘れてしまうはずのものを、どうにかこの白い紙の中へ縫いつけようとした、昨日までの私たちの重さ。そして、それを託された今日の私が、彼女へ渡さなければならない重さだ。

リビングへ戻る。廊下の床が、素足越しに少し冷たい。抱えた原稿の角が腕に当たって、薄い痛みがする。けれどその痛みが、かえって私が今ここにいることを確かめさせてくれるみたいだった。

 

彼女は椅子に座ったままこちらを見ていた。

私が持っている束に気づいて、少しだけ目を細める。部屋の白い光を受けて、彼女の睫毛が白っぽく瞬いた。

 

「それは?」

 

「……えっと」

 

声が震えた。

情けない。

でも仕方がないでしょう?

数週間かけて準備したらしいのに、今日の私は今朝この計画を知ったばかりなのだ。

大仕事に対して、私の心はいつだって当日参加だった。

私は彼女の前に立ち、そして原稿を差し出す。

 

「……これを、君に渡したくて」

 

彼女はまだ受け取らない。ただ、表紙のタイトルを読んでいる。その目が、ほんのわずかに揺れた。水面に小さな石を落としたみたいな、かすかな揺れだった。

私はその揺れを見て、余計に逃げられなくなる。

 

「……所謂、ラブレターです」

 

言ってから、自分で少しだけ顔が熱くなる。耳の奥まで血が上っていくのが分かった。暖房のきいた部屋なのに、指先だけが冷えている。

 

「……まぁ、もちろん普通のラブレターじゃない。長いし、重いし、君の日記を読ませてもらった上で、私が勝手に解釈して書いてる部分もある。だから間違ってるところもあると思う」

 

恥ずかしさを誤魔化す様に、まくしたてるように早口でそう言い、しかし彼女は何も言わなかった。

私は原稿を持つ手に、少し力を込める。紙の端が指の腹へ食い込んだ。少しだけ痛く、けれどその痛みがなければ、声も一緒に崩れてしまいそうだった。

 

「でも、これが今の私にできる、一番まともな証明だった」

 

喉が詰まる。

そして、それでも言う。伝える。

彼女の唇が小さく震えた。

私は表紙を見下ろす。

 

「この小説は、君が私を愛してくれている証明で、……そして同時に、私が君を愛している証明でもあるんだ」

 

彼女の目に、涙が溜まっていく。

それは、じわりと膜を張るように静かで、けれど一度見てしまえばもう見なかったことにはできないほど、確かだった。

胸が痛い。彼女を泣かせたいわけではないのに、泣かせるために渡しているような気もしてしまう。それでも、彼女が泣くほどのものを、果てしない無限ループの先に、私はやっと手渡せるところまで来たのだとも思った。

私は少しだけ笑おうとした。うまく笑えていたかは分からない。

 

「……だから、受け取ってください」

 

原稿を、もう一度差し出す。

 

 

「君が何度でも私の朝にいてくれるなら、私も何度だって、……これからも生き足掻きつづけるよって……そう、伝えたいから」

 

 

彼女は、ゆっくりと手を伸ばした。

指先が、原稿の端に触れる。

その瞬間、なぜか私は、初めて彼女と手を繋いだ日のことを思い出した。どちらが先に手を伸ばしたのか分からないまま、気づけば繋がっている、熱が伝わる、ふたりの手。

私たちは、ずっとそうだった。

 

──────

 

何も言えなかった。

目の前に差し出された紙の束が、ただの原稿ではないことは、すぐに分かった。

表紙のタイトルを見た瞬間、息が止まった。

 

 

『彼女が無限ループを諦めない理由』

 

 

その無限ループという言葉を、わたしはよく知っている。

いつか君が、初めて自分で答えへ辿り着いた日のことを思い出す。

公園の冷たいベンチ。

冬の空。

頬を刺す風。

溶け残った雪の汚れた白さ。

震える手。

君が自分の病名を認めた瞬間の、あまりに白い顔。

……そして、わたしがようやく言えた言葉。

 

受け取る前から泣きそうだった。

君の声は震えていた。今日の君にとって、この計画は今朝知ったばかりのものなのだろう。それなのに、君は。

何週間もかけて、昨日の君が、一昨日の君が、その前の君が、少しずつ書いたものを抱えて、今ここに立っている。

その事実だけで、胸が潰れそうだった。

原稿を受け取る。

重かった。思っていたより、ずっと。

手首にずしりと沈む。リボンの布が指に触れて、少しだけざらついた感触がした。表紙の紙は冷たく、けれどその奥に、君が何度も触れ、何度も迷い、何度も読み返したはずの熱が残っているような気がした。

紙の束としての重さではない。君が失ってきた日々の重さだ。

朝ごとに怯え、ノートを読み、泣きながら、それでも机に向かった君たちの重さ。眠れば死ぬような夜を何度も越えて、朝になればまた初めての絶望に突き落とされるのに、それでも昨日の自分を信じようとした、君の執念の重さだった。

わたしは表紙を撫でる。

涙が、そこで一粒落ちた。紙に滲む前に慌てて指で拭おうとして、けれどもう一粒、すぐに落ちた。止められやしなかった。

 

「……ずるい、です」

 

やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れている。

君が困ったように眉を下げる。

 

「……ごめん」

 

「……謝らないで、ください」

 

わたしは首を横に振った。

君は少しだけ不安そうな顔をする。その顔を見て、また泣きたくなる。わたしのためにこんなものを書いてくれたのに、最後の最後で、まだわたしが傷つかないかを心配している。そういうところが、どうしようもなく君だった。

わたしは原稿を胸に抱いた。

 

「……ずっと思っていました」

 

君が黙ってこちらを見る。

 

「君の今日を、わたしだけが覚えているんだって。……君が忘れてしまうぶん、わたしが覚えていなきゃって。……それは嫌じゃありませんでした。もちろん、嫌じゃないです。今でも」

 

言葉にした途端、胸の奥で何かがほどけた。

ほどけて、崩れて、それでもまだ形を保とうとする。

 

「…………でも、……寂しかった」

 

ようやく吐き出した言葉は、あまりにも小さかった。

換気扇の低い音が、遠くで回っている。置かれた皿から、まだ食後の温かい匂いがしていた。暮らしの匂い。ふたりで生きている匂い。その何でもないはずの匂いが、今日は妙に胸に痛い。

 

「全部全部、大事にしたいのに、……わたしだけが覚えていることが、たまらなく寂しくて」

 

君は何も言わなかった。

ただ、こちらへ一歩近づく。

床板が小さく鳴る。たったそれだけの音なのに、わたしのほうへ来てくれているのだと分かってしまう。

わたしは原稿を抱いたまま、泣きながら笑った。

 

「……でも、違ったんですね」

 

表紙を見下ろす。

 

「……君も、ずっと戦っていたんですね。……戦って、……くれていたんですね……」

 

忘れてしまうのに。

毎朝、最初からやり直しになるのに。

そのたびに怖がり、そのたびに傷つき、そのたびに昨日の自分に引っ張られながら。

君は、ずっと戦っていた。

わたしだけが覚えていたわけじゃない。君も、覚えられないまま、それでも何かを残そうとしていた。

 

記憶ではなく、執念で。

たったそれだけを使って。

そして、ちゃんと。

君は、再びわたしを愛してくれた。

もう一度、わたしを選んでくれた。

 

「……読んでもいいですか?」

 

そう聞くと、君は少しだけ目を丸くした。

 

「……今?」

 

「今です」

 

わたしがそう言うと、君は少しだけ笑った。

困ったような、照れたような、それでいてどこか諦めたような笑顔だった。その笑顔を見て、胸の奥がまた痛くなる。痛いのに、もっと見ていたいと思った。

わたしは椅子に座り、表紙を開いた。

リボンがほどける音がした。布が紙の上を擦る、ささやかな音。ページをめくると、紙の匂いがふわりと立った。少しだけ乾いていて、少しだけ甘い。印字された黒い文字が、白い紙の上に静かに並んでいる。

一ページ目。

君の字。

 

『彼女がそれを打ち明けたのは、朝食の皿を流しに運んだあとだった。

食後、軽やかな水音が丁寧に響くなか、なんとなくソファに身を預ける。

そうして暫く窓越しに降り注ぐ、雲に濁った優しい日差しの最中にいると、食器の軽くぶつかる音はいつの間にか止んでいた。

それから彼女はソファに寝転がる私の隣に淑やかに座ると、私の両頬に当然のように両手を添えて、そのままするりと頭を自分の膝へ導いた』

 

たった二百文字にも満たない書き出しで、あの日の朝が瞬くように鮮明に戻ってくる。

軽やかな水音。

食後のやわらかな湯気。

君の髪に指を通した感触。

膝へ落ちてきた、少しだけ警戒を残した重み。

咎めようとしているのに骨抜きになった、あの声。

そこには、君から見たわたしがいた。

わたしよりずっと強く、わたしよりずっと優しく、少しだけ綺麗に書かれすぎたわたしがいた。

そして、ときどき、わたし視点のお話がある。

わたしの日記をもとにしたらしいお話。

自分の書いた短い記録が、君の言葉で膨らみ、形を与えられている。わたしがただ震える手で書き殴っただけの夜も、何もかもが冷たくて息をするのも苦しかった病院の廊下も、君の言葉の中では、きちんと痛みの形を持っていた。

あのときの水音。

冷たい書類の束。

十七回目の映画。

君の横顔に映った光。

水族館と、手が届きそうな海。

帰り道に抱えた、ペンギンのぬいぐるみのふわふわした感触。

カウントダウンが終わる、星空が咲いたようなあの瞬間。

そしてそれを見下ろしながら、或いは、それすらもせず口づけを交わした二人だけのゴンドラ。

 

わたしが誰にも見せないつもりで抱えていたものまで、君は拾おうとしてくれていた。

完全ではない。ところどころ違う。そんなに綺麗じゃなかった、と言いたくなるところもある。わたしはもっと取り乱していたし、もっとずるかったし、もっと醜いことも考えていた。君に知られたくない弱さも、君にだけは知られてしまいたい弱さも、きっとこの紙の上には完全には乗っていない。

でも、それでよかった。

これは記録ではなく、君が、わたしを知ろうとしてくれた跡なのだから。

 

わたしは原稿を抱きしめたまま、涙を誤魔化すように君の肩へ額を預ける。

君の服から、洗剤の匂いと、ほんの少しだけ朝の食卓の匂いがした。いつもの匂い。何度でも失われて、何度でも戻ってくる匂い。わたしだけがずっと覚えていると思っていた、暮らしの匂い。

君の手が、そっとわたしの背へ回った。

一度だけ迷うように浮いて、それから、確かめるみたいに背中へ触れる。指先は少し冷たくて、けれど掌は、じわりと温かかった。

わたしが君を愛している、それだけの話で、君がわたしを愛そうと足掻いた証明で、忘却に抗うための、少し不格好で、どうしようもなく重いラブレター。

 

君が忘れる今日を、わたしだけに背負わせないために。

たった、それだけのために。

何度死ぬように眠っても、何度でもわたしへの愛と執念だけで、わたしの傍に戻るために。

君はこのお話を書いた。

書いてくれた。

 

わたしは原稿を抱いたまま顔を上げた。泣いているせいで視界が滲んで、君の表情が少しぼやけている。輪郭が水に溶けるみたいに揺れて、それでも君がそこにいることだけは分かった。

君はいつも、完全な覚悟でここにいるわけじゃない。

毎朝、突然崖の前へ立たされて、そのたびに怖がって、戸惑って、泣きそうになりながら、それでも昨日までの自分を信じて一歩を踏み出している。

 

「…………すこしだけ、書いてもいいですか……?」

 

「……うん」

 

「今日のことを。最後に」

 

わたしは少しだけ息を整えた。

紙とインクの匂い。まだ片づけられていない食器の気配。窓の外で遠く車が走る音。

君のすぐそばで聞こえる、少し乱れた呼吸。

その全部を、今度はわたしも書きたいと思った。

 

「わたしも、書きたいんです」

 

そう言うと、君の表情がゆっくり崩れた。泣きそうで、嬉しそうで、困ったような顔だった。

 

「……そっか」

 

「はい」

 

「……じゃあ、一緒に書こう」

 

君は机から数枚の原稿用紙とペンを二本持ってきた。

一本をわたしへ渡す。

ペン軸は少し冷たかった。指で挟むと、いつか君が何度も握ったせいなのか、持ち手のあたりがほんのわずかに擦れている気がした。

君のペン先が紙へ触れる。

部屋の中に、細い筆記音が生まれた。

ほんの少し迷ったあと、君はゆっくりと書き始めた。

 

『目を覚ました私は、まず自分の部屋に違和感を覚えた。

自分の部屋であることは勿論分かる。天井の白さも、カーテンの色も、ベッド脇に置かれた小さな棚も、ちゃんといつも通りで、ちゃんと知っている。

知らない場所ではない。知らない生活ではない』

 

沢山の絶望と、勇気と、そしていざ渡す時に、君がどんなことを思い、何を考えていたのかを、君は少しずつ書き連ねていき、そしてわたしも、

 

 

 

まさにここまでを、必死に書いてきた。

 

 

 

君に倣って書くのなら、これは大袈裟な創作ではなく、今日までの君とわたしが描き連ねる抵抗の証。

そして、紛れもないふたりの愛情の証だ。

 

君となら、何をしたって、きっと幸せだ。

ふたりでまた何処かへ出かけてもいい。また同じ映画を見て家でのんびりしてもいい。

君が何度忘れ、何度死のうとも、

ふたりで生きよう。

きっと、ふたりで。

 

そこには難しい理屈は必要なく、高潔な信念だって、あっても無くても、答えはきっと変わらない。

なぜなら、わたしがそう思えるのは、

とても単純に、ただひたすらに、

 

 

……君のことが、大好きだから。

 

 

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