The Unsung Mission 作:Maat-ka-Usir
最後までお付き合いいただければ幸いです。
夕暮れの教室で、シラクニとの契約は成立した。
「泥棒さんにでも、王様にでもなってやるんだからぁ!」
震える声でそう啖呵を切ってから、数時間が経過した。
アビドスの高く枯れた空には、群青色の夜の帳が静かに下り、割れた窓からは凍てつくような冷たい月の光が差し込んでいた。砂漠の夜は残酷なほどに早い。昼間の熱狂を忘れさせるような静寂が、埃っぽい生徒会室を支配している。
部屋の隅にある、バネの飛び出した古いソファー。そこでは、長時間のパトロールから戻り、疲労の限界に達して泥のように眠る一年生の小鳥遊ホシノが身を丸めていた。
「……うへぇ。先輩、また無茶言って……。パトロール、サボっちゃダメだよ……」
寝言でまで小言を言う、不器用で愛おしい後輩。まだ幼さの残るその寝顔を、ユメは自身のボロボロの上着をそっと掛けながら、愛おしそうに、そして今にも崩れ落ちそうなほど悲しげな琥珀色の瞳で見つめていた。
(ごめんねぇ、ホシノちゃん。……おじさんは、これから、君の「居場所」を守るために、神様の理不尽な箱庭をぶち壊しに行ってくるよぉ)
ユメは音を立てないようにゆっくりと立ち上がると、ソファーの傍らに無造作に置かれた、ホシノが大切に使い込んでいるリュックサックへと手を伸ばした。
ジリッ、と。
ファスナーを開ける乾いた音が、夜の静寂に鋭く響く。ユメの指先は、自分でも驚くほど小刻みに震えていた。彼女の魂が、元来持っている「お人好し」な潔癖性と、後輩への歪なまでの愛の間で、悲鳴を上げながら激しく軋んでいる。
(……ヘリコプターのチャーター代、報道ヘリに偽装するから、すっごく高いんだよぉ。……アビドスの古い備品をこっそり売っただけじゃ、全然足りなくて……)
リュックの中から取り出したのは、この極貧のアビドスで、ホシノが数ヶ月分のお小遣いをコツコツと貯め、何度もカタログを見てはため息をついてようやく手に入れた、少し色褪せて手垢のついた『クジラさんぬいぐるみ』。そして、『クジラさんキーホルダー』たち。
それは、殺伐とした戦場しか知らないホシノが、唯一「普通の女の子」として大切に集めてきた、ささやかな青春の証であり、彼女の心の支えそのものだった。
(……最低だね、わたし。先輩失格……ううん、人間失格だよぉ。……でも、これだけは、絶対に譲れないんだ。ホシノちゃんの「明日」だけは、何があっても、どんな泥をすすってでも……)
ユメは、クジラのぬいぐるみに自分の顔を一度だけ、窒息するほど強く押し付けた。
硝煙と火薬、そして逃げ場のない砂漠の汗の匂いを、そのふかふかの、けれど少し硬くなった生地に焼き付けるように。そして、溢れ出る涙を乱暴に制服の袖で拭うと、盗み出した宝物たちを、自分の薄汚れたリュックの中へと、心臓を抉るような悲痛な決断と共に詰め込んだ。
もしホシノが目を覚ましたら? もし、一番信頼していた先輩が泥棒だったと知ったら? その軽蔑の視線を想像するだけで、ユメのヘイローは消え入りそうなほど激しく明滅した。だが、彼女は手を止めない。
「……えへへ。ホシノちゃん。お元気でね……」
窓辺で、冷たい月光を受けて鈍く輝く愛用のショットガン『ネブ・アブジュ』を背負う。そして、腰のホルダーには二丁の巨大なリボルバー『ヘカ』と『ネケク』を佩いた。
リュックの中には、盗んだクジラのグッズと、そして、一番奥底に忍ばせた、『最後の一発』。
泥棒さんにでも、王様にでもなってやる。
彼女は「お人好しの生徒会長」という仮面を捨て、アビドスを統べる「孤独なファラオ」としての重圧をその細い肩に背負った。
自身の存在が世界から忘れ去られ、記録からも抹消される運命にある名もなき王は、最愛の後輩に「大切なグッズを盗まれた」というささやかな、けれど決して消えない恨みの記憶――唯一の生きた絆を遺して、夜の砂漠へと、一人、力強く踏み出した。
ヒュオォ……と、乾いた夕風が彼女の長い髪を大きく揺らす。
その背中には、まるで「見たくない凄惨な未来」から本能的に逃げ出しているような、微かな焦燥感と、狂気にも似た決意が張り付いていたが……それに気づき、彼女を止める者は、この広い世界に一人もいなかった。
――そして、物語は、あのセピア色のVHSテープの冒頭。
ハッカーとしてのプライドを燃やすシラクニと、何もかもを捨て去ったユメが密談を交わす、あの「始まりのシーン」へと、完璧に接続される。
『 ~Episode Zero: The Cost of a Dream~ Fin 』
おまけ映像:標的は……連邦生徒会長!?(NG集)
アビドス高等学校、旧校舎の一室。
窓の外は、燃えるようなオレンジ色の夕焼けに染まり、長く伸びた影が教室の床を斜めに切り裂いている。
これから始まるのは、連邦生徒会の最高機密施設「ブラックサイト」への強襲作戦会議。本来であれば、この物語において最も緊張感が高まり、読者が息を呑むはずの、最高にクールな見せ場になるはずだった。
「はい、本番行きます! ここ、二人のプロフェッショナルな顔が見える大事なカットだからね。緊張感、リミッター解除で! よーい、アクション!」
監督の鋭い掛け声が静寂を破り、現場の空気が一気に張り詰める。
シラクニは、数々の戦場(とサーバー)を渡り歩いてきたプロの顔で、使い込まれたタブレットを構えた。ミレニアムサイエンススクールの元エリートらしい、冷徹で鋭い眼光が画面を射抜く。彼女の指先が、流れるような、無駄のない動作でホログラム・スワイプの操作を行った。
「いい、最強王。よく聞いて。私たちのターゲットはこれよ。連邦生徒会の心臓部にして、キヴォトスの理を司る万物生成器――『クラフトチェンバー』」
シュンッ、という、耳に心地よいシステム起動音。
だが、次の瞬間。教室の中央に浮かび上がったのは、無機質で無骨なはずの機械装置ではなかった。
そこに現れたのは、純白の制服を塵一つなく着こなし、神々しいまでの慈愛を湛えた微笑みを浮かべる『連邦生徒会長』の、異常なまでに高精細な全身3Dモデルだった。
「………………え?」
シラクニの動きが、まるで時間が凍りついたかのように止まる。
ホログラムの会長は、シラクニの個人的な――もとい、「研究用」の執念を反映してか、サラサラと春風に揺れる髪の物理演算、瞳の虹彩の揺らぎまで完璧に再現されていた。さらには、手の込んだことに待機モーションまで設定されており、優雅に髪をかき上げてから、こちらに向けて優しく「ウィンク」をしてみせたのである。
「わぁぁ……! すごーい! シラクニちゃん、これが新しい機械なの? なんだか、すっごく強そうで……それに、とっても綺麗で、なんだかいい匂いがしそうな人が出てきたよぉ!」
ユメは演技を完全に忘れ、素の驚きと感動で目を輝かせながらホログラムに顔を近づけた。
「見て見て、シラクニちゃん! 指先までツヤツヤだよぉ。」
その純粋無垢で、鋭い刃のような一言が、シラクニのプライドと精神を粉々に粉砕した。
「あ、ち、違うの! これはね、その、連邦生徒会のメインシステムの脆弱性を探るために、その、敵の思考パターンを外見から逆算して0.1ミリ単位で構造解析しようとして、しかたなく、本当に、世界で一番不本意ながらも精密に再現するしかなくて……っ!」
焦れば焦るほど言い訳は支離滅裂になり、シラクニの喋りは早口なオタクのそれへと変貌していく。
慌ててウィンドウを閉じようとするが、指の震えが止まらず、あろうことか『特殊ボイス:激励(耳元囁きver.)』という、絶対に仕事では使わないはずの隠しコマンドを実行してしまう。
『――頑張ってくださいね、貴方は私が見込んだ「最高」のエンジニアなのですから』
教室中に響き渡る、会長の甘く、落ち着いた励ましの声。
その場にいたスタッフ全員の視線が、一斉にシラクニへと突き刺さった。
「ちょっとシラクニ! 仕様がガチすぎるよ! どこの限定版フィギュアの特典データだよそれ! 角度もさっきからローアングルに固定されてるし(笑)」
監督の容赦ない、しかし爆笑を堪えきれないツッコミが飛ぶ。
シラクニは、ガシャン! と派手な音を立ててタブレットを床に落とすと、そのまま糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
「……違うの。違うのよ……作戦の、説明を……させて、ください……っ」
顔を耳まで真っ赤に染め、両手で顔を覆って床に突っ伏すシラクニ。
その背中からは、先ほどまでのエリートの覇気は消え失せ、ただただ深い絶望と後悔のオーラが漂っていた。
「はい、カーーット! 最高だよシラクニ! 今の『社会的に死んだような絶望顔』、これファンサービス用のメイキング映像の目玉にするから! 編集、今のボイスもカットしちゃダメだよ!」
監督の楽しげな指示とは裏腹に、シラクニは「もうやだ、分解して……私をスクラップにして、キヴォトスの全サーバーから抹消して……」と消え入るような声で呪詛を吐き続けていた。
一方その頃。
別室のモニター監視ルームでは、本物の連邦生徒会長が、静かにお気に入りのアールグレイを啜りながら、この歴史的な放送事故を無表情で眺めていた。
「……実に不可解です。私の制服の裏地の刺繍パターンや、ストッキングのデニール数、さらには靴底の滑り止め形状まで、なぜこれほど精密に彼女の個人端末に格納されているのでしょうか。明らかに、通常の情報収集やハッキングという概念を超越しています」
会長はティーカップを唇から数センチの位置で止め、物理法則を疑うような真剣さで首を傾げた。その背後で、一切の感情を殺した鉄の表情でタブレットをチェックしていたSRT部隊長が、そっと視線を斜め上へとそらす。
「……おそらく、敵対的なハッキングを繰り返すうちに偶然蓄積された、……非常に熱心で、病的なまでに細部へこだわった『研究資料』の一部かと思われます。会長。決して、夜な夜なモデルを回転させて眺めるための私信や趣味の領域ではない……はずです。たぶん。そう、信じましょう」
「……そうですか。ですが、あそこまで丁寧に、しかも『実物より3割増しで慈愛に満ちた表情』に調整されているのを見ると……私の演算回路も、わずかながらの熱量を検知してしまいます。……これは、システム上の未知のエラー、あるいは人間が言うところの『猛烈な気恥ずかしさ』という事象に分類されるのでしょうか」
モニターの中では、シラクニが「ミレニアムに帰る……誰か私を消してぇぇ!!」と絶叫し、ユメが「えへへ、可愛いねぇ」とのんびり笑いながらホログラムの会長の手を握ろうとして空を切っている。
「……そのようですね。会長の尊厳と、シラクニさんの残りの社会生活を守るため、あとで当該データを物理的に破壊するか、私の個人用サーバーに『検閲資料』として厳重に封印しておくよう手配しておきます」
「SRT部隊長、貴女のサーバーにですか……?」
撮影現場の爆笑の渦と、シラクニの悲痛な叫び。
それは、砂漠の過酷な物語が始まる前の、文字通り「泥臭くも愛すべき」一幕だった。このNGテイクは、後にスタッフの間で伝説となり、シラクニがどれだけシリアスな顔をしても、この時の「会長ウィンク事件」が引き合いに出されることになるのである。
おまけ映像:アメミット☆ブレスの不発(NG集)
第3章、物語の緊張感が極限に達し、観客が固唾を呑んで見守るはずのハイライトシーン。
舞台は連邦生徒会の最高機密施設「ブラックサイト」。
冷たく無機質なセラミックタイルの廊下には、幾重にも重なる電子ロックの作動音だけが響いている。
その突き当りで、SRT特殊学園の精鋭部隊「FOX小隊」にも劣らぬ練度を誇るプロフェッショナルたちが、一糸乱れぬタクティカル・ムーブでユメとシラクニを完全に包囲していた。
最新鋭の暗視ゴーグルの奥に光る、一切の感情を排した冷徹な殺意。
それに対するユメは、愛用の重厚なショットガン『ネブ・アブジュ』を腰に構え、古代アビドス最強のファラオとしての圧倒的な神秘と威厳をその身に纏っていた。
「はい、本番行きます! ユメ先輩、ここはこの映画のビジュアル的なピークだからね! スクリーン全体を砂嵐で飲み込み、観客全員を砂の記憶へ還すつもりで……バシッと決めて! よーい、アクション!」
監督の、喉が裂けんばかりの情熱的な指示が狭い廊下に反響する。
その言葉に応えるかのように、ユメの頭上に浮かぶ黄金のヘイローが、爆発的な輝きを放ち、周囲の空気を黄金色に染め上げた。
彼女は流れるような優雅な動作でショットガンのボルトを引き、一発の、黄金に輝く特殊弾を薬室へと装填する。銃身に刻まれた古代神聖文字(ヒエログリフ)が青白く発光し、周囲の空間がビリビリと物理的な振動を伴って震えるほどの強大な神秘が一点に収束していった。
「――罪深き魂を秤に掛け、我が真理の前に跪きなさい。……さァ!! 喰い尽くしちゃって!! アメミット☆ブレス!!」
ユメの、凛とした鋭い咆哮。
本来の脚本であれば、ここで銃口から猛烈な勢いで巨大な砂の嵐が噴き出し、ワニの頭部を持つ伝説の巨大怪物が顕現。
SRT部隊の持つ最新鋭の武器だけを的確に噛み砕き、砂へと変えて無力化する……という、神話的なスペクタクルが展開されるはずだった。
「ポスッ……」
静まり返った廊下に、あまりにも情けない、古くなったゴムまりを握りつぶしたような音が力なく響いた。
期待された豪快な砂嵐も、黄金の炎も、怪物を象徴する咆哮も一切ない。
銃口からひょこっと顔を出したのは、手のひらサイズの、なんとも愛くるしいフォルムをした、砂でできたミニチュアのワニだった。
その砂ワニは、床に「ポトッ」と柔らかそうな音を立てて落ちると、短い手足を一生懸命動かしてパタパタと歩き回り、最前列にいたSRT隊員のタクティカル・ブーツのつま先で「キュッ♪」と、お風呂に浮かべるアヒルのオモチャのような可愛い声を上げた。
「……………………………………え?」
銃を構え、指を引き金にかけていたSRT隊員たちの動きが、物理的に停止した。
戦術、戦略、合理性、そして冷徹な制圧。彼女たちが血の滲むような訓練で叩き込まれてきたあらゆる軍事教練の中に、「足元でキュッと言う手のひらサイズの砂ワニ」への対処法など一文字も記されていなかったからだ。
隊員たちは、銃口を構えたまま、足元で自分の靴を甘噛み(砂なのでサラサラと崩れるだけである)しようとするミニワニと、ドヤ顔のまま彫像のように固まっているユメを交互に見つめ、ヘルメット越しに強烈な困惑の波動を放射している。
「あ、あれぇ……? おかしいなぁ、アビドスの砂が湿気ってたのかなぁ……?」
ユメは、さっきまでのかっこいい「王」のポーズを崩すと、半泣きになって『ネブ・アブジュ』を両手でブンブンと振り始めた。
「ねぇ、起きてよぉ、アメミットさん! お仕事の時間だよぉ! 借金返済のためにかっこよく決めなきゃいけないんだから! ほら、でぇい! でぇい!」
ユメが必死に銃を振るたびに、銃身からは「ポスッ、プスッ」という脱力系の音とともに、小さな砂のワニがポトポトと追加で、まるで豆まきのように排出されていく。
「キュッ♪」「キュイッ♪」「キュ~♪」
冷徹な戦場だったはずの廊下は、瞬く間に、混乱するSRTの精鋭たちと、彼らの靴や装備に登ろうとして滑り落ちるミニワニたちの、シュールな楽園と化した。
「はい、カーーット!! CG班、エフェクトチーム! 今の何!? パーティクルの設定ミスったの!? それとも物理演算の数値、小数点以下間違えた!?」
監督の、魂の底からの絶叫が響き渡る。
その瞬間、部室の外――モニターチェックをしていたシラクニが、椅子を激しく蹴り飛ばして現場に乱入してきた。
「スタッファァァァッ!! 小道具! 特効! 誰よ、このアセット入れたのは!!」
シラクニは、足元で自分のローファーを「キュッ」と健気に噛んでいる(そして崩れている)ミニワニを指差して、血管が切れそうな勢いで叫んだ。
「どこがアビドスの最強王よ!! 威厳は!? 恐怖は!? 全キヴォトスが震撼するはずの『最悪のミッション』が、ただのペットショップの癒やし系CMになってるじゃない!! こんな可愛いのが『喰い尽くす』とか言っても、せいぜいお皿にこぼれたポップコーンのカスを掃除するくらいでしょ!!」
「ひ、ひぃん! でも見てよシラクニちゃん、この子たち、一生懸命私の靴の上まで登ろうとしてて、すっごく懐いてて可愛いよぉ……。えへへ、一匹ポケットに入れて連れて帰りたいなぁ。ホシノちゃんへのお土産に……」
ユメがミニワニを一匹、愛おしそうに両手で掬い上げ、鼻の頭をすりすりと擦り合わせている。
「連れて帰るんじゃないわよ!! 撮り直し! 全員配置について!! SRTのみんなも、ゴーグルの奥で目を細めて『……あ、ちょっと可愛いかも……』とか思わない! プロでしょあんたたち、殺意を維持しなさい!!」
シラクニの悲痛なツッコミが響く中、SRTの隊長が通信機を通じてボソッと本音を呟いた。
「……本部、こちら現場……。作戦行動を……一時中断……。当該未確認生命体(?)の……、キュッという鳴き声による精神攻撃……。あ、いえ、なんでもありません。現在、……捕獲……いえ、保護を検討中」
「聞こえてるわよ!! 完全に骨抜きにされてるじゃない!!」
結局、現場のあらゆる隙間に入り込んだ「アメミット(ミニ)」たちをすべて優しく回収するのに一時間を要し、その日のシリアスな撮影スケジュールは完全に崩壊。スタッフのお弁当(の残りの米粒)を、短い手足で一生懸命運ぼうとする健気なミニワニたちの姿に、現場にいた強面のスタッフも、冷徹な兵士たちも、全員が完全にメロメロになってしまったのであった。
NGシーン:感動の買い戻し、クジラのサイズが……(NG集・拡張)
エピローグ前半。物語は、長く過酷な「最悪のミッション」を終え、ようやくアビドスに平穏な時間が流れ始めた夕暮れ時。
校舎の屋上には、どこか寂しげで、けれど全てを包み込むような温かいオレンジ色の光が差し込んでいる。空気中を舞う砂の粒子が夕日に照らされて黄金色に輝き、BGMにはピアノとバイオリンの旋律が切なく、それでいて希望を感じさせるように奏でる「思い出の曲」が流れ始めていた。観客の涙腺を崩壊させる準備は、これ以上ないほど完璧に整っていた。
「はい、本番行きます! ここ、この映画の真のエンディングだからね。二人の絆が物理的な形になって戻ってくる、最高のカットだ。全キヴォトスを泣かせるつもりでいこう。よーい、アクション!」
監督の、感動で既に震えているような小声が、静寂を切り裂いた。
ホシノは、屋上の錆びついた柵に身を預け、遠く地平線に沈みゆく太陽をじっと見つめていた。その小さな背中には、最愛の先輩を永遠に失うかもしれないという絶望的な恐怖を乗り越え、ひとつの大きな決意を固めた「成長」の跡が刻まれている。
そこへ、背後から一歩、また一歩と、砂を踏みしめる確かな足取りでユメが近づいていった。彼女の腕の中には、かつて学校の資金繰りのために断腸の思いで質に入れてしまった、ホシノが何よりも――自分の命と同じくらい大切にしていた「クジラさん」が入っているはずの、大きな包みが抱えられている……はずだった。
「――ホシノちゃん。待たせちゃって、ごめんねぇ」
ユメの声は、深い慈愛と、目的を果たした達成感、そしてほんの少しの照れくささに満ちていた。
ホシノがゆっくりと振り向く。その瞳には、信じられない奇跡を目の当たりにするような、期待と、確信の持てない不安が複雑に混ざり合った光が宿っている。
「……先輩、それ……もしかして……」
「えへへ。シラクニちゃんやミレニアムのみんな、それにアビドスのみんなが協力してくれたおかげで、ようやく取り戻せたんだよ。……はい、ホシノちゃん! これからは、ずっと一緒だよぉ!」
ユメは、満面の、これ以上ないほど輝かしい聖母のような笑顔とともに、背後に隠していた「クジラさん」を勢いよく前方へと差し出した。
本来の脚本であれば、ここでホシノの身体が隠れてしまうほど巨大な、ふかふかの「BIGクジラさん」が画面いっぱいに映し出され、ホシノがその巨大な腹部に顔を埋めて泣きじゃくる……という、全キヴォトスが嗚咽を漏らすはずのシーンだった。
「……ぷぴぃ」
ユメの手のひらの上で、あまりにも場違いな、気の抜けるような可愛らしい音が鳴った。
差し出されたのは、BIGクジラさんどころか、消しゴムより一回り大きい程度の、手のひらサイズの「ミニクジラさん(非売品限定ストラップ)」だった。
丁寧にストラップ用のカニカン紐までついており、ユメの指の間でゆらゆらと虚しく揺れている。
「……………………え?」
ユメの、聖母のような微笑みがピキリと音を立てて固まった。
あまりにも、あまりにも小さすぎるクジラ。ユメの大きな、包容力に満ちた手のひらに対して、それはまるで一粒の「豆」のような存在感しか放っていない。
ホシノはといえば、巨大なぬいぐるみを全力で抱きしめる準備をして広げた両腕をどうすればいいか分からず、そのまま空中を抱きしめるような、極めてシュールな格好で固まってしまった。
「…………先輩」
「……な、なぁに、ホシノちゃん? どうしたのかなぁ、そんな不思議そうな顔をしてぇ」
「……これ、質に入れる前より、かなり……なんていうか、物理的に凝縮されてない?」
ホシノは、完全に「素」の困惑に満ちた声で、先輩の手のひら上で鎮座する豆粒を見つめた。
「私の記憶が確かならさ……あのクジラさんは、私を丸ごと飲み込めるくらいのサイズだったと思うんだけど……。これじゃ、飲み込めるのは私の小指の先っちょくらいだよ? むしろ、私がこのクジラさんを飲み込んじゃいそうだよ」
「ひ、ひぃん! おかしいよぉ! シラクニちゃんは『ネットオークションで最高級の、一番落札価格が高いやつを競り落とした』って自信満々で言ってたのにぃ! 洗濯して、アビドスの乾燥した空気で一気に縮んじゃったのかなぁ!?」
ユメが半泣きでパニックになり、ミニクジラを指先でつまんでブンブンと振り回す。その様子は、感動の再会というよりは、新種の珍しい昆虫を捕まえて観察している子供のようだった。
「はい、カーーット!! 小道具!! 誰だよ、この『クジラさん(極小)』を現場に持ってきたのは!! 遠近法でもカバーできないレベルだろうが!!」
監督の怒鳴り声が、夕暮れの静寂を粉々に粉砕した。
その瞬間、部室の外――モニターチェック用テントの中から、シラクニの悲鳴のような怒号と、何かが激しく崩れ落ちる音が響き渡った。
「スタッファァァァァァッ!! 違う、私のせいじゃない!! 私はちゃんとミレニアムの最高速回線を使って、『アビドスで一番有名なクジラさんを、どんなに高値になってもいいから買い戻せ』って自動入札ソフトに命令したのよ!! なんでそれが『アビドス水族館・開館10周年記念、限定50個・黄金のホログラム入り公式ミニチュアストラップ』になってんのよォッ!!」
シラクニは、持っていたはずの分厚い脚本を丸めて、逃げ惑う小道具スタッフに猛烈な勢いで詰め寄った。
「落札価格50万クレジットよ!? 50万クレジット!! 詐欺じゃない、ただのぼったくりじゃない!! こんな数センチのポリエステルに50万も出す大バカがこの世のどこに……あ、私だ……私の世界一のハッキング能力で、なんでこの商品画像のサムネイル詐欺に気づかなかったのよぉぉッ!!」
シラクニはそのまま地面に崩れ落ち、砂を噛み締めながらのたうち回った。天才ハッカーとしてのプライドと、アビドスの貴重な予算(あるいは彼女のへそくり)が、ストラップひとつに化けた事実は、彼女の精神に修復不能なダメージを与えたようだった。
一方その頃。
別室に設置された「連邦生徒会長」専用の超高性能監視ルームでは、連邦生徒会長が最高画質のモニターでこの歴史的な喜劇を鑑賞していた。
「……Sophia、事象の収束を確認します。……クジラの体積が、元の期待値の約0.3%にまで減少。……これは、アビドスの局所的な時空の歪み、あるいは、熱力学第二法則を無視した特異点……」
会長は、4Kモニターにアップで映し出されたミニクジラの、無垢でつぶらなプラスチックの瞳をじっと見つめた。
そして、数秒の沈黙の後、スッ……と無言でモニターの電源を物理的に切り、部屋の明かりも落とした。
彼女は、キヴォトスの未来を深く憂うように、これまでにないほどの重たいため息をつくと、両手で顔を覆い、デスクに突っ伏した。
「……不可解です。あそこまでシリアスで、神話的なまでの展開を積み上げて、最後に『ストラップ』で落とす。……これが、彼女たちの言う『映画的カタルシス』、あるいは『アビドス流のユーモア』なのでしょうか。……至急アビドスに本物の、成層圏からでも視認できるサイズのBIGクジラを、連邦生徒会の特急輸送便で送る手配を」
「……会長、それは私費でよろしいですか? 予算科目はどうされます?」
「……いえ、……『福利厚生費:生徒のメンタルヘルス維持費』として計上しなさい。……これは私の、そしてキヴォトス全市民の精神衛生を守るための、不可欠かつ緊急性の高い必要経費です」
屋上では、ユメが「えへへ……でもほら、ホシノちゃん! 持ち運びには便利だよ? どこにでも連れて行けるし!」と必死のフォローを試み、それに対してホシノが「……先輩、やっぱりそれ、後で質屋さんに返品してきて。
もしくは、シラクニちゃんのPCの横にでも吊るしておいてあげて」と、氷のように冷たく言い放つ声が空虚に響いていた。
感動のラストシーンは、クジラのサイズとともに、どこまでも小さく、そしてシュールに萎んでいくのであった。
読んでいただきありがとうございます。
AIの考えるユメ先輩は外道…
そして、百合が好きなんですかね?