強すぎる思い、誰にも言えなかった言葉が、行き場をなくして宙に浮く。それが時々、似たような波長を持つ誰かのところへ、間違って届いてしまう。……手紙や、古い本の栞、そういう形を借りて、誰かの元にやってくる。
「はじめまして。私の大切な思い出を、預かっていてくれてありがとう」
「はじめまして。僕の続きを見つけてくれて、ありがとう」
僕は、バニラアイスのような優しい香りに誘われて、その古本屋の前で足を止めた。
古本一冊50円から。
スラックスのポケットから、穴の空いたコインを取り出す。
僕は、ワゴンに挟まった一冊の本を手に取る。
夏目漱石の『こころ』。
最近授業で読んだ物語。けど、授業で触れたのはその物語の一部分のみ。
ページをめくると、その独特の甘く古めかしい匂いと、しおりの代わりに、四つ折りにされた一枚の便箋が滑り落ちた。
前の持ち主の忘れ物だろうか?
けれど、そこに記された「宛名」を見た瞬間、僕の指先は凍りついた。
『──拝啓、十七歳の僕へ。』
丁寧で、それでいて少し焦っているかのような筆跡。
綺麗で、細い線で、几帳面で、それでいて、優しく温かい書きぶり。
いたずらだろうかと、最初は思った。
だって僕は、昨日十七歳になったばかりだ。
それに、こんなの書いた覚えがない。
そのはずなのに。
動悸が抑えられない。
今すぐこの封を開けて、中を覗きたい。
夕陽が、僕の背中を叩き始める。
抑えられない好奇心を見透かされているかのように、陽が、肩に、腕に、そして…………
はやる気持ちを抑えながら、僕はその手紙をそっと広げた。
『君は今、きっと陽の光の中、年季のある古書店で、この手紙を読んでいるよね。
右足の靴紐が少し解けていることも、さっきから左の奥歯が疼いていることも、全部知っているよ。
君が小学三年生の夏休み、誰にも言わずに隣町の空き地に埋めた、青いビー玉の入った瓶のことを覚えているかな。
あの日、君は本当は泣きたかったけれど、空があまりに綺麗だったから、笑うことにしたんだよね。』
喉奥が引き攣る。
青いビー玉。空き地。それは、親友にも、親にさえも話したことのない、僕だけの「秘密」だった。
なぜ、見ず知らずの誰かが書いたはずの手紙に、僕の記憶がこれほど鮮明に、残酷なまでに美しく綴られているのか。
手紙の最後には、震えるような字でこう結ばれている。
『もし、この手紙を読んだなら、今日の午後五時、駅裏の高架下にある「時計のない公園」に来てください。
そこで、君が失くしたはずの、続きを渡すから。』
「これ買います! お代はここに!」
ポケットの中の五十円玉を乱雑にワゴンに乗せ、僕は駆け出した。
気がついていないわけじゃない。
靴紐はほどけているし、急に走り出すから転びそうにもなる。
今は四時四十分。あの公園まで、ここから走って何分だろう。
脳裏には手紙の一節がリフレインする。
あれは僕が書いたものだろうか?
いや、違う。あんな綺麗な字、僕は書けない。
でも、あの感情は間違いなく僕のものだ。
誰かが僕の頭の中に手を突っ込んで、一番柔らかい部分を掬い取って紙に貼り付けたような、そんな気味の悪さと、不思議な安堵感が相反して同居していた。
高架下に辿り着くと、そこには錆びついたブランコが一つと、背の高い雑草に埋もれたベンチがあるだけだった。
街灯がチカチカと不規則に瞬き、遠くで電車の通過する轟音が響く。
ベンチには、一人の人影があった。
同じ高校の制服を着た、見覚えのない少女だ。彼女は膝の上に一通の手紙を広げ、途方に暮れたような顔で空を見上げていた。
僕の気配に気づいたのか、彼女はゆっくりとこちらに振り向く。
その瞳には、僕と同じ色が浮かんでいた。
「君も……呼ばれたの?」
僕の声は、電車の音に掻き消されそうなくらい小さかった。
彼女は黙って、手に持っていた手紙を僕に差し出した。
そこには、僕の筆跡によく似た、けれど僕ではない誰かの言葉で、彼女しか知り得ないはずの「秘密」が綴られていた。
街灯のオレンジ色の光の下で、その便箋に目を落とす。
そこには、紛れもなく僕自身の筆跡で、けれど僕が書いた覚えのない言葉が並んでいた。
『君は、雨上がりのアスファルトの匂いがすると、いつも少しだけ悲しい顔をするね。
中学の卒業式の帰り道、校門の裏に隠してあったタイムカプセルを開けようとして、結局怖くなってやめたこと。あの時、君が本当は誰に会いたかったのか、僕は知っているんだ。』
指先が微かに震える。読み進めるうちに、その疑問は確信になる。
それは彼女の記憶だった。
僕の文字で綴られた、彼女だけの、誰にも触れさせたくなかったはずの心のひだを。
僕の文字が、君の心を乱雑に触って、傷つけてしまっているのかもしれない。
僕は、そう思った。
「……これは、君のこと、なんだよね」
僕が呟くと、彼女は小さく頷いた。彼女の手にある僕宛の手紙には、僕の秘密が彼女の綺麗な字で書かれている。
「変だよね。私の心の中にあるはずの風景が、あなたの言葉で外に出てきちゃうなんて」
彼女は自嘲気味に笑った。その横顔は、初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っていたような、不思議な懐かしさを帯びていた。
僕たちはどちらからともなく、狭いベンチに腰を下ろした。
頭上を電車が通り過ぎ、重低音が空気を震わせる。
その音が止むのを待って、僕は口を開いた。
「この街には、時々こういうことがあるって聞いたことがある。……いや、都市伝説みたいなものだと思ってたけど」
彼女はうなづき、そしてこう返した。
「強すぎる思いとか、誰にも言えなかった言葉が、行き場をなくして宙に浮く。それが時々、似たような波長を持つ誰かのところへ、間違って届いてしまう。……手紙とか、古い本の栞とか、そういう形を借りて」
「そういう、うわさがあるの」と、彼女は膝の上の便箋に目を落とした。
僕たちはしばらく黙って、自分の手元にある「相手の記憶」を読み返した。
僕が持っている彼女の記憶。彼女が持っている僕の記憶。
それはまるで、パズルのピースをあべこべに持たされたような感覚だった。でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、自分一人で抱えていた重荷を、世界のどこかにいる誰かが半分だけ肩代わりしてくれているような、静かな解放感があった。
「ねえ」
彼女が僕の顔を覗き込んだ。
「その手紙に書かれている私は、どんな顔、してる?」
「……すごく、一生懸命に強がってる。でも、本当は誰かに見つけてほしがってる、迷子みたいな顔だ」
僕が正直に答えると、彼女は少しだけ目を見開いて、それから今日一番の穏やかな笑顔を見せた。
「そう。あなたのほうはね、雨を待っている紫陽花みたいな顔をしてる。自分からは動けないけど、何かが変わるのをずっと待ってる。……そんな感じ」
チャイムの音がする。
魔法が解けるような、夕闇が夜へと完全に切り替わる合図。
僕たちは立ち上がり、互いの手紙を交換した。
自分の言葉で書かれた自分の記憶が手元に戻ってくると、それはただの紙切れ以上の重みを持って掌に馴染む。
これで、元通りだって。
でも、僕たちは知っている。
一度混ざり合ってしまった記憶の温度は、もう完全には消えないことを。
「あのさ!」
去り際、僕は彼女を呼び止めた。
彼女が振り返る。街灯の光が彼女の輪郭をぼんやりと縁取っている。
「僕は、君のことを何も知らない!
名前も、学年も、どこに住んでいるのかも!」
僕は少しだけ息を吸い込んで、言葉を続けた。
「でも、君がどんなことで泣きたくなって、どんな風に世界を見てきたかは、少しだけ知ってる。……変な出会い方だけど、これって、もう友達って言ってもいいのかな」
彼女は一瞬驚いたように瞬きをして、それからいたずらっぽく笑った。
「そうね。世界で一番、あなたの内側を知っている赤の他人、ってところかしら」
彼女は一歩、僕の方へ歩み寄った。
そして、まだ知らないはずの、けれどもう知ってしまっている誰かに向かって、手を差し出した。
「はじめまして。私の大切な思い出を、預かっていてくれてありがとう」
僕もその手を取り、静かに握り返した。
「はじめまして。僕の続きを見つけてくれて、ありがとう」
街灯が一度だけ大きく瞬き、夜が始まった。
ポケットの中にある文庫本は、さっきよりも少しだけ軽くなったような気がした。
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