初めてあの人を見たとき、胸の奥に鋭く、そしてひやりとした風が吹き抜けた。
それはこれから始まる破滅への序章だったのかもしれない。
運命なんて信じていなかったのに、あの人の笑顔は、 まるで曇り空の隙間から差し込む光のように、私の世界を照らした。
「楽しそうにしていたから、つい声をかけてしまいました」
扇の陰で、私は完璧に作り込んだ微笑みを浮かべる。
伏せた睫毛の角度、わずかに上気させた頬、震わせる声のトーン。
すべては、父王の影で暗躍する冷酷な部下たちから、叩き込まれた「獲物を落とすための技術」にすぎない。
目の前の青年――この国の若き公爵は、私の言葉に驚いたように碧い目を丸くした。
彼を陥れ、一族を失脚させるための証拠を掴むこと。
それが、妾腹の第八王女である私に与えられた、拒絶権のないハニートラップの条件だった。
「……変わった令嬢ですね。私のような堅物と話して、楽しいことなどないでしょうに」
彼は困ったように笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥に、再びひやりとした風が吹き抜けた。
(ああ、だめ。この人は、私を知ってはいけない人だ)
彼の瞳は、私が今まで生きてきた泥濘とは無縁の透き通った青空のようだった。
見つめられるだけで、自分の魂の汚れが暴かれていくような心地がする。
けれど、私は止まれない。
任務だと自分に言い聞かせ、喉の奥まで出かかった本音を飲み込み、甘い毒を含んだ言葉を囁いた。
彼の手を引き、月の光が差すテラスへと誘い出した。
彼は戸惑いながらも、私の嘘に満ちた言葉を一つ残らず信じてくれた。
それどころか、壊れ物を扱うような慈しみをもって、私に微笑み返してくれたのだ。
「君のような優しい人に会えて、私は救われた気がします」
その言葉が投げかけられるたび、私は「自分が必要とされている」のだという甘美な錯覚に溺れそうになる。
彼に触れる指先が小さく震えているのは、獲物を前にした武者震いなどではない。
彼が私を愛せば愛すほど、私は彼を逃げ場のない地獄へと引きずり込んでいく。
その自覚が、私の指先を凍らせる。
「……私も、あなたにお会いできて……幸せです」
嘘。こんなのは、ただの演技だ。
けれど、握られた彼の手の温もりが、冷え切った私の心を溶かしていく。
背後の闇の中で、父王の監視の視線が突き刺さっているのを感じる。
失敗すれば、私の居場所はなくなるだろう。
けれど、成功すれば、この温かな手は永遠に失われる。
私は生まれて初めて、存在も信じていない神に祈りたくなった。
どうか、この偽りの時間が、永遠に壊れませんように。
あるいは、全てを悟った彼が憐れみのままに私を殺してくれますように、と。
しかし運命は残酷だった。
全てを知った時のあの人の顔は今でも胸の奥で冷たい針のように疼いている。