綾小路たちが地下研究所ブラックルームの最深部で
『G』との最後の戦いを繰り広げていたころ。
地上では、別の意味での最後の局面が静かに迫っていた。
高円寺六助を中心としたグループは、
茶柱佐枝と星之宮知恵の先導のもと、
脱出手段が確保されているはずの駐車場へ辿り着いていた。
校内各所で交戦を繰り返し、ゾンビの群れを突破し、
体育館の武器庫へ辿り着き、そして綾小路たちを
地下へ送り出した彼らにとって、その駐車場は文字通り地上最後の希望だった。
幸い、そこにはまだ車両が残っていた。
並んで停車している大型バス。
複数台ある。
しかも、全員を乗せるという意味では一台で十分すぎるほどの大きさだった。
焼けてもいない。
横転もしていない。
ガラスも割れていない。
ここまで続いてきた地獄の流れから考えれば、
むしろ不自然なくらい綺麗な姿だった。
だからこそ、一同の胸には、ようやく本物の安堵が差し込んだ。
「……残ってる」
一之瀬が、信じたくてたまらなかったものを目の前で見たように呟く。
平田が、ようやく肩の力を少し抜いた。
「これなら……いける」
櫛田も、張りつめていた表情をほんのわずかだけ和らげる。
軽井沢は胸を押さえながら、大きく息を吐いた。
ひよりも静かに目を細める。
「……まだ動く状態だね。使える」
松下が短く言った。
その声には浮ついた安堵ではなく、状況を見極めた上での確信があった。
誰も大声では喜ばない。
ここまで来た者たちは、希望があっさり砕ける光景を何度も見てきている。
それでも、この瞬間に限って言えば、
確かに全員の心に「助かるかもしれない」という感覚が戻っていた。
バスは一台で十分だ。
そう結論づけられた、その直後だった。
通路の奥から――重たい足音が響く。
一歩。
また一歩。
引きずるような、それでいて確かな足取り。
全員の視線がそちらへ向く。
次の瞬間。
姿を現したのは、一人の生徒だった。
「……っ」
誰かが息を呑む。
3年生の鬼龍院楓花だった。
だが、その姿は、もはやいつもの彼女とは別人のようだった。
全身が血に染まっている。
服は裂け、乾いた血と新しい血が混ざり合い、黒く、重く、張り付いている。
その手に握られているのは――チェーンソー。
刃には肉片と血がべっとりと付着していた。
ここに来るまでに、どれだけの凄絶な戦闘を潜り抜けてきたのか。
想像するだけで、誰もが言葉を失う。
鬼龍院は数歩進むと、その場で立ち止まった。
そして――
「はぁ……疲れた」
ぽつりと呟く。
力が抜けるように、手からチェーンソーが離れた。
鈍い音を立てて床に落ちる。
その瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
「鬼龍院先輩……!」
一之瀬が駆け寄る。
平田も続く。
「無事でよかったです……!」
その声には、純粋な安堵が滲んでいた。
新たな生存者。
それだけで、この極限状態においては、何よりも大きな意味を持つ。
鬼龍院はわずかに目を細める。
だが、その表情はどこか乾いていた。
一之瀬が、ためらいがちに口を開く。
「他の3年生は……?」
その問いに。
鬼龍院は一瞬だけ視線を伏せた。
そして、あっさりと言い放つ。
「ケヤキモールに籠ってた連中は――たぶん全滅しただろうな」
静かな声だった。
だが、その一言が持つ重さは、あまりにも大きかった。
場の空気が、一気に沈む。
誰もすぐには言葉を返せない。
あのケヤキモール。
食料もあり、バリケードもあり、比較的安全だと思われていた場所。
そこですら――全滅。
それが意味する現実は、あまりにも残酷だった。
一之瀬が唇を噛む。
平田も目を伏せる。
だが鬼龍院は、それ以上は何も言わなかった。
語る必要がないからだ。
その身体に浴びた血が、すべてを物語っていた。
あとは綾小路たちが地下から戻ってくる。
合流する。
全員で乗る。
学校の外へ出る。
それだけだ。
そのそれだけが、どれほど遠かったかを思えば、
目の前にある現実はあまりにもまっとうで、あまりにも眩しくすら見えた。
だが。
その希望は、次の瞬間、容赦なく叩き壊されることになる。
最初に異変へ気づいたのは高円寺だった。
「伏せたまえ!」
その声は唐突で、鋭かった。
誰も理由を考えるより先に反応した。
高円寺のこういう直感が、時として異様なほど正確であることを、
彼らはもう知っていたからだ。
直後。
空気を裂くような重い噴進音が、横合いから突き刺さる。
ロケットランチャー。
視認できた時には、もう遅い。
放たれた弾体は一直線に飛来し、駐車していたバスの側面へ直撃した。
炸裂。
衝撃が、音より先に腹の奥を揺らした。
続いて遅れてくる爆発音。
耳の奥が痺れる。
視界の端が白く弾ける。
バスの車体が一瞬で火に包まれる。
窓ガラスが内側から破裂し、フレームがねじ曲がり、
巨大な車体がまるで紙細工のように大きく震えた。
内部へ回った火が一気に燃え広がり、
燃料と可燃物へ引火して爆炎がふくらむ。
しかも、それで終わらない。
破壊された一台の炎が、隣の車両へ飛ぶ。
さらにその隣へ。
連鎖するように、駐車場に並んでいた他のバスもろとも火に呑み込まれていく。
ドン、と鈍く二度目の爆発。
続いて三度目。
車体の全体が吹き飛び、黒煙が噴き上がる。
さっきまで脱出の象徴だったものが、
わずか数秒でただの燃え盛る鉄の塊へ変わっていた。
「そんな……」
軽井沢の口から、信じられないというように声が漏れる。
一之瀬も、ひよりも、櫛田も、誰もすぐには現実を飲み込めなかった。
目の前で、助かるための道が消し飛んだのだ。
高円寺だけは違った。
彼はすでにバスではなく、その破壊した側を見ている。
マグナム銃を抜き、ほとんど間髪入れずに発砲した。
重く鋭い銃声。
弾丸は、駐車場の外縁部――崩れかけた施設の陰から現れた人影へ向かって飛ぶ。
だが、その影はジャンプして弾丸を避けた。
信じがたい跳躍力だった。
高く、そして軽い。
まるで自分の体重そのものが常識から
外れているかのような動きで宙へ逃れ、そのまま着地する。
全員が、その姿を見た。
ネメシス。
かつて真鍋志保だった怪物。
以前に一度、あるいは二度、姿を見た者もいる。
だが、こうして改めて正面から見ると、その威圧感は別格だった。
肩幅は人間のそれを大きく超え、
黒いロングコートのような外皮はところどころ裂け、
その隙間から変異した筋肉が覗いている。
片手にはロケットランチャー。
もう片方の腕は人間の形を保っていない。
肉と骨が歪に膨れ上がり、重量そのものが凶器になっているような剛腕だった。
顔面もまた、かろうじて人だった面影を残している程度だ。
それが逆に気味が悪い。
真鍋志保という存在の残骸を見てしまうからこそ、
ただの怪物よりも嫌悪が強くなる。
「なんだ……!?あの化け物は……!?」
鬼龍院が驚きの声をあげる。
高円寺が吐き捨てるように言った。
「なるほど。まだ終幕を許さないというわけか」
その一言で、全員の意識が切り替わる。
バスは失った。
ならば、次の手を即座に取るしかない。
高円寺、平田、石崎、軽井沢、ひより、櫛田、一之瀬、松下、伊吹、茶柱、星之宮。
全員が、ネメシスを倒すべき敵として認識した。
そして一斉に発砲する。
銃声が重なる。
アサルトライフル。
サブマシンガン。
ハンドガン。
マグナム。
ショットガンこそ綾小路たちが持って地下へ行っていたが、
それでもこの場の火力は十分高い。
――そのはずだった。
ネメシスの肩部が、不気味に隆起する。
装甲の隙間が裂けるように開き、
そこからせり出すのは――再びロケットランチャー。
「――っ、まずい!」
誰かの声が響いた時には、もう遅かった。
発射。
爆音。
圧縮された爆風を伴いながら、ロケット弾が一直線に空間を裂く。
逃げ場など、ない。
狙われたのは――櫛田と星之宮。
「――っ!?」
反応できたのは、ただ一人。
平田だった。
彼は一切の躊躇なく踏み込む。
身体を投げ出すように前へ出ると、櫛田の肩を掴み、強引に押し倒した。
「伏せて!!」
その声が最後だった。
直後――爆発。
視界が白に染まる。
耳を劈くような衝撃音。
爆風が地面を抉り、周囲の空気ごと吹き飛ばす。
遅れて、熱が来る。
焼き付くような熱風。
肉の焦げる匂い。
そして――崩れた瓦礫の中。
そこに立っていたはずの影が、消えていた。
「え……?」
櫛田の喉から、かすれた声が漏れる。
彼女の視線の先。
そこにあったのは、倒れた平田の身体だった。
動かない。
呼吸もない。
櫛田を庇ったのだ。
そして――もう一人。
星之宮もまた、爆心に巻き込まれていた。
彼女の姿も、既に動くことはない。
「うそ……でしょ……」
櫛田の瞳が、ゆっくりと見開かれる。
理解が追いつかない。
だが、現実だけは容赦なくそこにある。
平田が、自分を庇って死んだ。
星之宮も、巻き込まれて死んだ。
その事実が、数秒遅れて、脳を焼くように突き刺さる。
――その瞬間。
何かが、切れた。
「……よくも」
低い声。
震えている。
だが、それは恐怖ではない。
怒りだ。
「よくも二人をッ!!」
叫びと同時に、櫛田は倒れた平田のサブマシンガンを掴み取る。
構える。
狙いも、呼吸も、整えない。
ただ――撃つ。
連射。
銃口が暴れる。
弾丸がばら撒かれる。
「うわあああああああああああああああ!!」
それでも彼女の溢れ出した感情は止まらない。
涙を流し、怒りのままに、引き金を引き続ける。
「死ねええええええぇぇぇぇぇッ!!」
その叫びに呼応するように、周囲の空気が変わった。
伊吹が歯を食いしばる。
石崎が低く唸る。
軽井沢、松下、ひよりが無言で引き金を引く。
一之瀬も、涙を滲ませながら照準を合わせる。
誰一人として、言葉を発しない。
だが、全員が理解していた。
これはもう、単なる戦闘ではない。
仲間を奪われた報いを返すための――戦いだ。
アサルトライフルが火を吹く。
マグナムが轟く。
ハンドガンが連続して閃光を吐く。
弾丸の雨。
怒りと悲しみが混ざり合った火力が、ネメシスへと叩き込まれる。
弾丸の雨を受けて、ネメシスがわずかに怯む。
その巨体が一歩後退したのを見て、高円寺が叫ぶ。
「諸君!もう一台、大型軍用車両がある!それに乗り込め!」
その声にはいつもの傲慢さがあった。
だが、同時にこの場における唯一の的確さもあった。
茶柱がすぐに動く。
星之宮が死んでも彼女は迷わない。
教師である以上、生徒を切り捨てる選択肢はないからだ。
駐車場の奥に置かれていた大型軍用車両――一般的なバスよりさらに重厚な、
兵員輸送用を思わせる装甲車両へ駆け込むと、運転席へ飛び乗った。
キーはある。
あるいは最初から挿してあったのかもしれない。
どちらでもよかった。
エンジンが唸りを上げる。
重い機械音。
だが頼もしい。
車体が生きている。
まだ使える。
次々に乗り込む一同。
高円寺が周囲の安全を見ながら女子を先に乗せ、一之瀬が後ろを振り返る。
「待って!綾小路くんたちがまだだよ!」
その叫びは切実だった。
地下へ向かった六人を置いていくという選択肢は存在しない。
だが、その返答をする前に――別の異変が起きる。
地面が揺れた。
最初は小さな振動。
だが次の瞬間、それはまるで巨大地震の初動のような強烈な衝撃へ変わる。
車両のサスペンションが軋む。
駐車場の地面の一部がひび割れる。
周囲の建物の窓ガラスが一斉に揺れる。
「な、なに……!?」
櫛田が悲鳴混じりに声を上げる。
軽井沢が何かに気づいて顔を上げた。
武器庫があった側――体育館の方角。
「見て!!」
指差す先。
そこには、地獄そのものがあった。
爆炎。
それは普通の爆発ではない。
一点で終わる火ではなかった。
横へ広がり、地面を舐めるように走り、空そのものを焼き尽くすような炎の壁。
まるで巨大な都市破壊兵器が、一撃で大地を抉り取ったかのようなスケールだった。
地下研究所の爆発が、学校全体を内側から持ち上げているのだ。
体育館が吹き飛ぶ。
校舎の一部が根元から崩れる。
コンクリートと鉄骨が、熱風と衝撃波に押し流される。
爆炎は、ただ上へ伸びるのではない。
地表を押し広げ、建物を呑み込みながら、ひとつの巨大な壁となって迫ってくる。
赤。
橙。
黒煙。
火花。
砕けた構造物の影。
そのすべてが混ざり合って、まるで世界の終わりのような光景を作り出していた。
そして、その爆炎の手前。
人影が走っている。
「綾小路くん……!」
一之瀬の声に、全員の視線が吸い寄せられる。
そこには確かに、地下から生還した六人がいた。
綾小路は堀北を背負っている。
須藤は坂柳を。
アルベルトは龍園を。
他の二人――いや、月城や八神、天沢ではない。
あの敵たちは戻ってきていない。
つまり、地下の戦いは終わったのだ。
だが、その確認に浸っている時間はない。
背後から、爆炎がすべてを呑み込む勢いで迫っているからだ。
高円寺が車両後方へ身を乗り出し、叫ぶ。
「こっちだ!綾小路ボーイ!」
その声は、真剣そのものだった。
綾小路たちが全力で駆ける。
もう振り返らない。
後ろを見れば足が止まる。
見なくても分かる。
背後にあるのは、学校そのものを押し潰して迫ってくる巨大な炎の波だ。
綾小路がまず車両へ飛び乗る。
堀北を抱えたまま、ほとんど身軽に見える動きで
後部へ手をかけ、一気に車内へ入る。
続いて須藤。
坂柳を背負っているにもかかわらず、限界まで加速した勢いのまま乗り込む。
最後にアルベルト。
龍園を背負った巨体がそのまま車両へ飛びつく様は、
もはや人間離れした迫力があった。
全員が入ったのを確認するや、高円寺が叫ぶ。
「ティーチャー!車を出せ!」
茶柱はすでにアクセルを踏み込んでいた。
軍用車両が唸る。
重い車体が前へ出る。
装甲越しに伝わってくるエンジンの咆哮が、まるで最後の意地のように響く。
だが。
まだ足りない。
背後の爆炎は、車両の速度を上回る勢いで押し寄せてきていた。
ただの炎ではない。
衝撃波を伴い、粉塵と黒煙と破片を巻き込みながら迫る、破壊そのものの奔流。
車両の内部にいても、熱が伝わってくる。
窓の外の景色が赤く染まり、揺らぐ。
空気が歪む。
そして――ネメシスまで追ってくる。
爆炎の手前を、あの怪物が走っている。
それはもはや人間の速度ではない。
重量級の怪物でありながら、まるで自分の質量を無視したような
速度で地面を蹴り、車両へ追いつこうとしてくる。
「撃て!」
綾小路、高円寺、須藤が同時に発砲する。
綾小路の射撃は正確だ。
高円寺のマグナムは重く鋭い。
須藤のショットガンは近づけさせないための面制圧として機能する。
だが、ネメシスは止まらない。
弾丸を受けてもなお前へ出る。
その執着は、もはや生存本能ではなくプログラムのようだった。
そしてネメシスは、走りながらロケットランチャーを構えた。
その動きに茶柱が気づく。
「来るぞ!」
ネメシスが発射。
ロケット弾が一直線に車両へ迫る。
高円寺が上部ハッチの近くから怒鳴る。
「左へ避けろ!」
茶柱は反射ではなく、技術でハンドルを切った。
急旋回。
車体が大きく揺れる。
内部の生徒たちの体が左右へ振られる。
ロケット弾がわずかに軌道を外し、車両の脇を掠めるようにして着弾した。
爆発。
地面が抉れる。
熱風が側面を叩く。
「ギリギリ……!」
軽井沢が息を呑む。
なおもネメシスは追ってくる。
背後で巨大な足音が響くたび、
軍用車両の内部にいる全員の心臓が嫌でも跳ねた。
装甲の厚い車体に守られているとはいえ、
あの怪物の剛腕やロケットランチャーをまともに受ければ、ひとたまりもない。
しかも後方から迫るのはネメシスだけではない。
学校全体を呑み込みながら走ってくる巨大な爆炎までもが、
まるで逃がすものかとでも言いたげに、装甲車両の背後へ迫り続けている。
揺れる車内。
激しく左右へ振られる身体を、皆必死に手すりや座席へしがみついて支えていた。
その中で、坂柳有栖だけは妙に落ち着いていた。
彼女はすぐに床へ横たえられていた橋本のもとへ膝をつく。
橋本の顔色は悪い。
呼吸も浅く、額には脂汗が浮いている。
胸元の裂傷そのものは深くない。
だが問題は傷ではなく、そこから侵入したウイルスだった。
すでに意識は落ちている。
このまま時間が経てば、やがて彼もまた理性を失い、
怪物へ変わり果てる――
その可能性が、ほんの数分前までは現実としてそこにあった。
だが、いまは違う。
坂柳は、地下研究所で完成させたワクチン入りの注射器を取り出す。
透明な薬液が、車内の小さな照明を受けてかすかに光った。
「橋本くん」
呼びかけても、返事はない。
それでも坂柳は一切焦らず、彼の腕を取る。
揺れる車内で狙いを外さないよう、細い指先で静脈の位置を確かめる。
一之瀬がそれを見て、思わず身を乗り出す。
「それ……本当に効くんだよね……?」
その声には、不安と祈りの両方が混ざっていた。
坂柳は視線を上げずに答える。
「理論上は、です」
ずいぶん冷静な答えだった。
だが、その冷静さこそが逆に彼女の本気を感じさせる。
「ただし、ここまで来て不確かなものを持ち帰るつもりはありません」
そう言い切ると、坂柳は躊躇なく注射器の針を橋本の腕へ刺し入れた。
薬液がゆっくりと押し込まれていく。
車内の誰もが、その様子を固唾を呑んで見守っていた。
ネメシスが追ってきている。
爆炎が迫っている。
綾小路や高円寺たちが戦っている。
本来なら、そちらへ意識を向けなければならない。
それでもこの瞬間だけは、皆の心が橋本へ集中していた。
石崎とひよりは祈るように拳を握りしめ、
伊吹はそっぽを向いたまま耳だけをこちらへ向けていた。
龍園ですら、腹部の傷を押さえながら、わずかに視線だけを向けている。
堀北も、櫛田も、一之瀬も、軽井沢も、松下も、息を詰めている。
「……お願いです」
坂柳が、小さく呟いた。
数秒。
十秒。
二十秒。
橋本に変化はない。
揺れる車内で、時間だけが妙に長く感じられる。
軽井沢が唇を噛む。
一之瀬が不安そうに坂柳を見る。
須藤が「まだかよ……」と小さく漏らし、
櫛田は黙ったまま橋本の胸の上下を見ていた。
そして――。
三十秒ほどが経った頃だった。
橋本の指先が、ぴくりと動いた。
「!」
最初に気づいたのはひよりだった。
「……動きました」
その一言で、全員の視線が集中する。
橋本の眉が、わずかに寄る。
次いで喉がひくりと鳴り、浅かった呼吸が少しずつ深くなっていく。
そして――。
「……っ、げほっ」
小さく咳き込みながら、橋本が目を開けた。
数回、瞬きをする。
視界が定まらないのか、天井を見て、それから周囲を見回す。
皆が見ている。
まるで死人が蘇ったのを見たかのような顔で。
橋本は数秒だけ呆けたあと、いつもの調子に近い苦笑を浮かべた。
「……なんだよ、その顔」
その一言が、完全な橋本正義の声だった。
次の瞬間。
「戻った……!」
「橋本くん!」
「よかった……!」
「マジかよ!」
「生き返った……!」
歓喜が一気に車内へ広がった。
一之瀬は思わず目を潤ませ、軽井沢も「うそ、ほんとに!?」と声を上げる。
石崎は「すげぇ!すげぇっす!」と半ば叫び、須藤もガッツポーズを作っていた。
松下は心底ほっとしたように目を閉じ、ひよりは安堵の微笑みを浮かべる。
伊吹ですら「……やるじゃない」と小さく呟いた。
橋本は上体を起こそうとして、自分の胸元の傷を見て眉をひそめる。
「うわ、痛っ……。いやでも、あれ?俺、生きてる?」
その間の抜けた確認に、車内のあちこちから小さな笑いが漏れた。
坂柳だけは、いつものように静かだった。
だが、彼女の口元にはほんのわずかに安堵の色が浮かんでいた。
車内に漂っていた死の気配が、この瞬間だけは確かに薄れた。
しかし以前として、危機は続く。
背後では、巨大な爆炎がさらに勢いを増していた。
学校の建物が、ひとつ、またひとつと崩れていく。
校舎の上階が内側から吹き飛び、
体育館の骨組みが熱で歪み、グラウンドが裂ける。
小さな窓からそれを見た堀北が、思わず呟いた。
「学校が……」
ひよりも、その光景に目を見開く。
「崩壊していく……」
高度育成高等学校。
多くを学び、多くを失い、多くを競い合った場所。
その学び舎が、いま巨大な炎の中で音を立てて崩れ落ちていく。
誰もその意味を軽く受け止めることはできなかった。
だが、感傷に浸る暇もない。
綾小路と高円寺は、互いに一度だけ視線を交わした。
言葉はいらない。
次の瞬間、二人は同時に車両上部へよじ登っていた。
強風。
熱風。
爆風。
少しでも油断すれば振り落とされる。
その背後で、爆炎がさらに膨れ上がる。
まるで地平線そのものが燃え上がったかのように、
超弩級の炎の壁がすべてを呑み込みながら迫ってくる。
空気が焼け、視界が歪み、地面も建物もなにもかも焼き尽くす強さで広がっていく。
それは炎ではなく、世界そのものを破滅させる劫火だった。
それでも二人は、車体上で姿勢を整える。
綾小路は重心を低く。
高円寺は片手で手すりを掴みながら、もう片手でマグナムを構える。
その姿はあまりにも異様だった。
常人なら立つことすらできない状況で、
二人はまるでそこが射撃場であるかのように落ち着いている。
後方のスペースが空いたことで、
車内から須藤、櫛田、石崎、アルベルトも後部射界へ集まる。
それぞれがネメシスへ火力を集中させる。
綾小路と須藤のショットガン。
高円寺のマグナム。
櫛田のサブマシンガン。
石崎とアルベルトのアサルトライフル。
弾丸が飛ぶ。
薬莢が跳ねる。
熱気と火薬臭が装甲車両の内外を満たしていく。
それでも、ネメシスの勢いは止まらない。
むしろ、弾丸を浴びながらなお前進してくるその姿は、
常識という概念そのものを嘲笑っているかのようだった。
その時だった。
「――下がって!」
一之瀬の声が、車内に鋭く響いた。
一同の視線が一斉に彼女へ向く。
一之瀬はすでに車両の側面に固定されていた大型の武器へ手をかけていた。
それは――M82A1対物ライフル。
女性が扱うには過剰とも言える、長大で重厚な銃身。
その圧倒的な存在感が、この場の空気を一瞬で塗り替える。
「みんなどいて!私が仕留める!」
明確な指示の声。
迷いのない宣言だった。
須藤や櫛田が一瞬だけ動きを止める。
だがその真剣な眼差しを見て、すぐに後方へ下がった。
一之瀬は素早く床に伏せる。
バイポッドを展開。
金属が車体に固定される音が短く響く。
その動作には無駄がなかった。
呼吸を整える。
視界はすでにスコープ越しの世界へ切り替わっている。
揺れる車両。
迫りくる爆炎。
走るネメシス。
すべてが動いている中で、彼女の意識だけが一点に収束していく。
「……捉えた」
小さく呟き、引き金を引いた。
衝撃音。
それはこれまでの銃声とは明らかに違う、
重く、鈍く、空気そのものを押し潰すような一撃だった。
破壊力の塊である対物弾が一直線に飛ぶ。
ネメシスの胴体へ直撃。
瞬間、肉と装甲のような組織をまとめて貫通し、背後へ抜ける。
風穴が開く。
通常の生物なら、即死どころか原形すら留めない威力。
だが――。
ネメシスは止まらなかった。
一瞬だけ体勢を崩す。
それでも、次の瞬間には再び前へ踏み出してくる。
まるで、自分の肉体が破壊されたという事実そのものを無視するかのように。
「くっ……!」
悔しがる一之瀬の眉がわずかに寄る。
ネメシスは走りながら、確実に距離を詰めてくる。
そして、ついに車両へ剛腕を振るった。
「右!」
茶柱が即座にハンドルを切る。
車体がスライドするように軌道をずらし、その一撃をギリギリで躱す。
剛腕が車両の側面を掠め、火花が散る。
装甲が歪み、金属音が悲鳴のように響く。
ネメシスの追撃が襲う。
間髪入れず、もう一撃。
今度は振り抜く軌道で、車両ごと薙ぎ払うように剛腕を叩きつけてくる。
「左!」
茶柱が叫ぶ。
ハンドルを大きく切り、車体が横滑りするように軌道を変える。
振り抜かれた剛腕がすぐ横を通過し、空気が裂けるような破砕音が響いた。
「あと一発まともにもらったら終わる!」
松下が叫ぶ。
全員が理解している。
ネメシスも、背後の爆炎も、どちらもこの車両を破壊しうる。
そしてその両方が、今まさに車両を呑み込もうとしている。
綾小路のショットガンが火を吹く。
散弾が至近距離からネメシスの上半身を叩き、肉片を弾き飛ばす。
続けて高円寺のマグナムが発砲音とともに撃ち抜き、巨体をわずかにのけ反らせた。
だが綾小路たちの一斉掃射を受けても、ネメシスはなお食らいつく。
その時だった。
車内で重傷を負ったまま横たわっていた龍園が、ゆっくりと立ち上がった。
「龍園さん!?」
石崎が驚く。
だが龍園は答えない。
石崎を軽く押しのけ、後部の視界を自分のものにする。
そして、燃え上がる学校と、その手前を執拗に追ってくるネメシスを見据えた。
「許してやるよ、真鍋」
低く、しかし確かに届く声だった。
その言葉を、ネメシスが理解したのかどうかは分からない。
だが。
動きが、一瞬だけ鈍る。
ほんの一瞬。
それでも、綾小路には十分だった。
軍用車両内にあったRPG-7と呼ばれるロケットランチャー。
最後の弾。
これを外せば、もう決定打はない。
だが綾小路の照準に迷いはなかった。
発射。
轟音。
それは銃声ではない。
空気そのものを押し潰すような、重く鈍い破壊音。
発射された弾体が、一直線にネメシスへ突き刺さる。
――直撃。
次の瞬間。
爆発。
閃光が弾け、遅れて衝撃波が周囲を叩きつけた。
空気が歪む。
車両が軋む。
爆圧が全員の身体を揺らす。
ネメシスの上半身が、内側から引き裂かれる。
装甲のように硬化していた肉が、耐えきれずに裂け、砕け、吹き飛ぶ。
皮膚が剥がれ、筋肉が断裂し、骨格がむき出しになる。
赤黒い液体が、まるで爆ぜた水袋のように周囲へ飛び散った。
その巨体が、ついに大きく後方へ弾き飛ばされる。
地面を抉りながら、数メートル滑る。
倒すには至らない。
それでも、その一撃は十分だった。
押し寄せてきた巨大な爆炎が、ネメシスを完全に呑み込んだ。
炎の壁。
黒煙。
衝撃波。
炎の渦に巻かれたネメシスが最後の雄叫びを上げる。
その熱は、もはや焼くという次元を超えていた。
金属すら赤熱し、空気そのものが揺らめきながら崩れていく。
爆炎は触れたすべてを瞬時に分解し、形を保つことすら許さない。
存在が燃えるのではなく、抹消されていくような圧倒的な破壊だった。
ネメシスの咆哮は怒りなのか、苦痛なのか、
あるいはかつて真鍋志保だった存在の最期の抵抗なのかは分からない。
次の瞬間。
怪物の輪郭が、その中へ消える。
そして、爆炎の中で――その巨体が崩壊した。
焼き尽くされた肉と骨が原形を保てず、黒い塵となって散っていく。
再生の兆しは一切なく、その存在は完全に消滅した。
それでもなお、焼け落ちる腕がわずかに前へ伸び、
最後まで何かを掴もうとしていた。
二度と現れない。
完全な死。
そして同時に、軍用車両が学校の正門を正面から突き破った。
鉄の門扉が吹き飛ぶ。
コンクリート片が跳ねる。
装甲車両はそのまま校外へ飛び出し、ようやく爆炎の直撃圏から脱する。
背後ではまだ高度育成高等学校が崩壊を続けている。
だが、巨大な爆炎そのものは、校外まで追い切る勢いを失い始めていた。
まるで車両を呑み込むことを諦めたかのように、
残った力を学校の建物そのものへ注ぎ込むようにして崩壊だけを続けていく。
校舎が沈む。
体育館が潰れる。
研究施設が内側から崩れ落ちる。
それは、一つの時代の終わりのようにも見えた。
「……終わった」
誰かが呟く。
綾小路たちは、ようやく安堵の息を漏らした。
緊張が、少しずつほどけていく。
もちろん怪我はある。
疲労も限界に近い。
それでも――生きている。
綾小路が車内へ向けて声をかける。
「みんな、生きてるか」
短い確認。
返事が返る。
「生きてる……」
「大丈夫です……」
「大事ないです」
「まだいける……」
「無事だ」
「なんとかね……」
次々に上がる仲間たちの声。
全員、生還した。
その事実がようやく本物の実感として広がる。
誰かが笑いそうになり、誰かが泣きそうになり、
誰かがただ座り込んだまま空を見ていた。
本当に助かったのだ。
そう、全員が思った、その時だった。
茶柱が急ブレーキを踏む。
車体が前のめりに揺れる。
全員が反射的に手近なものへ掴まる。
「どうしたの!?」
堀北が叫ぶ。
綾小路も、高円寺も、同時に前方へ視線を向ける。
そこにいたのは――兵士たちだった。
陸上自衛隊。
そして警察の特殊部隊。
武装した男たちが、車両を周囲から完全に包囲している。
銃口がこちらへ向けられていた。
一切の隙なく。
逃げ道なく。
その光景を見た瞬間、車内の空気がまた変わる。
助かったわけではなかった。
まだ終わっていない。
綾小路は、すぐに車両から降りた。
その動作に迷いはない。
毅然としている。
疲労も、怪我も、極限の戦いを潜り抜けてきた消耗も、今は一切見せない。
目の前を見る。
兵士たちの列が、わずかに割れる。
その中心から、一人の男が現れた。
鬼島内閣総理大臣。
高度育成高等学校の創設者であり、このすべての根源にいる男。
テレビ越しで見る時には、どこか温厚で、理知的で、
いかにも国家の舵取りを担う人物らしく見えるのかもしれない。
だが、実際にこうして目の前に立つその男は、もっと別種の印象を与えた。
穏やかだ。
あまりにも穏やかすぎる。
それが逆に不気味だった。
学校が崩壊した直後。
多くの生徒と教師が死んだ直後。
その当事者であるはずの男が、
まるで計画通りだと言わんばかりの落ち着きを保っている。
鬼島は柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。
「これより、新たな特別試験を開始します」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
一之瀬も、軽井沢も、須藤も、櫛田も、松下も、橋本も、
ひよりも、石崎も、伊吹も、アルベルトも、鬼龍院も、茶柱も。
全員が、息を呑む。
堀北も、高円寺も、龍園も、坂柳ですら息を呑む。
終わっていない。
まだ。
この地獄は、まだ。
そんな中で、ただ一人。
綾小路清隆だけが、無機質な無表情のまま鬼島を見ていた。
そして、一言だけ言う。
「最後にオレが勝っていればそれでいい」
その声は低く、静かだった。
だが、それはこの物語のすべてを切り裂くような宣戦布告だった。
学校は終わった。
だが、戦いは終わらない。
ここで幕を閉じるのではなく。
ここから――新たな戦いが始まる。
それを告げるように、崩壊した高度育成高等学校の残骸の向こうで、
新たな黒煙がゆっくりと朝焼けの中、昇っていた。
終
殺戮至上主義とは違って、メインキャラは結構生存させました。
それでもキャラクターが多いので、結構な数が死亡してしまいましたが……。
龍園は死亡と生存、両方のプロットを用意していましたが生存させました。
坂柳がワクチン製造、爆薬の設置、橋本にワクチン投与と結構活躍できました。
森下、山村、白石は未登場でしたが、ひょっとしたら別ルートから脱出したかも?
最終話のネメシスはとにかくしつこく描きました。
祭りの華が花火であるように、
アクションものの華も爆発と爆炎だと思うのでそこもこだわりました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回作として「デスノート・オブ・カーストルーム」を投稿します。
タイトルの通り、よう実とデスノートのクロスです。
夜神月やL、死神は出てきません。
よろしければ、そちらの方もよろしくお願いします。
「デスノート・オブ・カーストルーム」の第1話「死のノート」の試し読みをどうぞ。
◯
朝のホームルームにしては、空気が妙だった。
いつもなら、須藤がだらしなく椅子に座っていたり、池が軽口を叩いたり、
軽井沢たちの小さな笑い声が教室のどこかに転がっている。
二年生になってなお、このクラスには完全な静寂より、
わずかな緩みの方が似合っていた。
だが、その日だけは違った。
茶柱先生が教室へ入ってきた瞬間から、
教室の温度が一段階下がったように感じられたからだ。
無言。
いつものように出席簿を抱えているのではない。
先生の両腕には、黒い表紙の薄いノートが一冊、
ひどく場違いなほど整然と置かれていた。艶のない黒。飾り気のない表紙。
遠目には、ただの大学ノートにしか見えない。
それなのに、なぜか教室の誰もが、
それを「ただのノート」として受け取れなかった。
異様に見えたのは、物そのものより、先生の持ち方だったのかもしれない。
まるで危険物でも扱うかのように、
余計な動きをいっさい交えず、慎重に教卓へ置いた。
「本日のホームルームは、学校側からの通達を伝える」
茶柱先生の声は、いつもより硬かった。
その短い一文だけで、教室のざわつきがゆっくりと吸い込まれていく。
机の上に置かれたノートに、全員の視線が集まっていた。
池でさえ、珍しく口を閉じている。
「これから各クラスに、一冊ずつ特別なノートが配布される」
そこで先生は一度言葉を切った。
まるで、生徒たちが自分の耳を疑う時間を、あえて与えるように。
「そのノートに、人の本名を書いた場合。書かれた人物は死ぬ」
一拍。
誰も何も言えなかった。
言葉の意味が理解できなかったのではない。
理解してしまったからこそ、反応が遅れた。
そんなものがあるはずがない。
冗談だ、悪趣味な試験説明だ、何かの比喩だ――
そう思考が逃げ道を探しているうちに、先生の表情が、
それらの可能性をひとつずつ潰していった。
「なお、本名とは学園に登録されている真名を指す。
現在、おまえたちが学園生活で使用している氏名は、
全て対外的、対内的に用意された通称だ。
戸籍上、あるいは出生時から使用している本来の名とは異なる」
教室が小さく揺れた。
「は?」
最初に声を漏らしたのは須藤だった。
「ちょ、待てよ先生。それ、どういう意味だよ。
俺たちの名前が偽名って、そんな馬鹿な――」
「そのままの意味だ」
切り捨てるような声音だった。
「おまえたちは入学時より、学園内において別名義で管理されている。
詳細な理由は学校機密だ。
ただし今回の試験においては、それが前提条件となる」
言っていることは滅茶苦茶だった。
だが、この学校が「滅茶苦茶」を本当に制度として運用してきたことを、
オレたちはもう知っている。無人島試験も、ペーパーシャッフルも、
満場一致特別試験も、この学校は常識で計れない。
だからこそ、誰も即座に笑い飛ばせなかった。
池が気味悪そうに肩をすくめた。
「いやいやいや、無理だろそんなの。名前書いたら死ぬって、漫画かよ……」
その軽さは、池らしい反応だった。
だがその声も、乾いていた。
完全に笑い話として処理できていない。
冗談として口にしながら、
自分でその音の薄さに気づいているような声だった。
「ノートの効力は実証済みだ」
その一言が、教室全体をさらに重くした。
誰かが息を呑む。
「実証、って……」
松下の呟きは、半ば震えていた。
「既に他学年、あるいは学外の協力下で検証は終わっている。
疑うなら疑えばいい。だが、学校側は
このノートを正式な試験ツールとして配布する」
茶柱先生は、そこで初めてノートに視線を落とした。
「今回の特別試験の要点は単純だ。各クラスに一冊。
管理権限は担任教師を経由してクラスへ移譲される。使用法は自由。
ただし、使用した痕跡、相談、保管方法、方針決定――
それら全てがクラスの責任に帰属する」
「ちょっと待ってください」
堀北が手を上げた。声は平静だったが、目だけが鋭かった。
「つまりこれは、クラス単位で殺人の選択権を渡されるということですか」
「端的に言えばそうなる」
あまりにもあっさりと肯定されたことで、かえって教室の空気が凍る。
言葉を選ばないなら、これはそういうことだった。
ただの試験ではない。
点数を争うのでも、脱落者を競うのでもない。
誰かの死が、そのまま戦略になりうる。
「ふざけるな!」
須藤が立ち上がった。
「そんなもん受け入れられるわけねえだろ!
学校が生徒を殺し合わせるってのかよ!」
「座れ、須藤」
「でもよ!」
「座れ」
二度目は静かだったが、逆らわせない圧があった。
須藤は舌打ちし、机を軽く蹴って座り直す。
教室の中に、不満と恐怖と理解不能が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
その間、オレはずっと教卓のノートを見ていた。
黒い表紙。
それだけだ。
なのに、妙に存在感がある。
呪いの品のような禍々しさではない。もっと現実的で、事務的な不気味さだった。
人間が作った制度に、人間が作った悪意を載せたときの、不自然なまでの整然さ。
そこにオカルトじみた匂いはなく、むしろ学校らしい冷たさがあった。
「質問を続けます」
堀北が言う。
「本名を知る方法は?」
「それも試験の一部だ」
「教師は知っているんですか」
「答えられない」
「本名を書き間違えた場合は?」
「無効」
「部分的な記載、あるいは推測による誤記は?」
「無効」
「顔を知っている必要は?」
「ある」
堀北は短く息を吐いた。
「……随分と親切ですね」
「必要最低限の情報だ」
必要最低限。
確かにそうかもしれない。
だが逆に言えば、そのわずかな情報だけで、この試験は既に成立してしまっている。
本名が必要。
顔も必要。
間違えれば無効。
正しければ死ぬ。
単純極まりない。単純だからこそ、恐ろしい。
「なお」
茶柱先生が続ける。
「ノートの所持、閲覧、使用方針については、この後クラス内で話し合え。
学校は介入しない。ポイントの加減算、試験期間、
勝敗条件の詳細は後ほど学園端末へ配信される」
「介入しないって……」
軽井沢が小さく呟いた。
「もし誰かが使ったら、どうするの……」
その声には、教室の多くが抱いた本音が混ざっていた。
もし使ったら。
もし誰かの本名が分かったら。
もし書いたら。
そのもしが、もう教室の隅々まで行き渡っていた。
茶柱先生は、最後にひとつだけ言った。
「忠告しておく。今回最も危険なのは、ノートそのものではない」
教室が静まる。
「本名を知ろうとする行為、そのものだ」
それだけ言って、先生は沈黙した。
重い沈黙だった。
教卓の黒いノートは、置かれた瞬間よりもずっと大きく見えた。
まるであれがノートではなく、
この教室の中心に置かれた爆弾か何かであるかのように。
◯
最後まで書かれた第一話「死のノート」は4月11日の午前0時に投稿します。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。