記憶の連続性が「己」を保証するものだろうか。
目が覚めるとき、ここがどこかを確認する。それから記憶を。
いつもの天井を眺めながら最初に思い返すのは、起動実験の事故の日、焼け付くようなエントリープラグのハンドルを手ずから開け放って、私の顔を見てほっと笑顔を向けてくれた碇司令の顔だった。
あの顔を見て、感情の希薄な綾波レイにも感ずるものがあったんだと思う。
だから、二番目の私は、毎朝、あのとき碇司令へ抱いた感情を反芻しながらベッドを降りた。
二番目の私のアイデンティティは、きっと、その記憶だった。
私は空っぽだ。
二番目から引き継いだ記憶のそのままに碇司令の顔を思い浮かべてみても、何の感情もわかなかった。
計画のための触媒として用意された人形が私だという認識はある。盲目的な二番目の感情を排すれば、勝手な扱いを受けているように考えてしまうほどに私と彼女は乖離している。
身体を移し替えられてすぐ、司令の眼鏡を割ろうとしたとき、涙が出た。
あり得ないことだと思った。けれど最近、簡単に割ってしまえた。
今の私は何のために、誰のために生かされているのだろう。
ドグマへ降りて、私になれなかった「私」たちの残骸を眺める。
無残ではあるけれど、少しだけうらやましい。
(あのとき、碇くん。悲しそうだった)
フィフス・チルドレンにトドメを刺したとき。
初号機はなんだか苦しそうにしていた。
最近、目が覚めると、そのときの光景がフラッシュバックする。
それを思い返して、苦しくも悲しくもならないけれど、
「碇くんのところに、行かないと」
私は上層の本部へと足を向けた。
それは、これから起きる計画からの逃避でもあった。
「続いて、初号機発進。ジオフロント内に配置して」
「ダメです。パイロットがまだ!」
モニターにはFブロックのルート43、b地点。階段下にうずくまるシンジの姿が映っていた。
「……なんてこと」
戦自からの襲撃が開始されたネルフ本部では、パイロットの安全の確保のために、エヴァの中に避難させるという方針がとられていた。
いまだ意識戻らぬアスカはいち早く弐号機への退避が完了していたが、零号機のパイロットは消息がつかめず、初号機のパイロットに至ってはまさに最前線となり得る場所で発見された。
レスキューのためのグループ3は足止めをくらっていて、もはや自発的に動くこともなさそうなシンジを助けられそうになかった。
「碇くん」
「碇くん」
俯いてたシンジはびくりと肩を震わせた。
「ここで、何をしているの?」
シンジは答えられなかった。
何もしないために。
誰も傷つけないために。
そして、父さん、エヴァ、綾波、ミサトさん、リツコさん。それらすべてから逃げるためにこんなところで座り込んでいたのだから。
本部は襲撃を受けて慌ただしそうだった。ならこのときが自分の死に時なのだろうと、腹をくくったわけではないけれど、そうやって諦めていた。
すると、その綾波がやってきた。
16番目の使徒との戦いの後、綾波が生きていたと知ったときはうれしかった。なのに、病院にお見舞いにいったとき、綾波なのに綾波じゃなかった。
リツコさんにドグマまで連れられて見せられた光景はまだ受け入れられていなかった。綾波レイという存在がなんなのか。
ヒトではないのか。何なのか。
途端にこれまでの綾波がどんな顔をしてたのかも思い出せなくなった。
今、綾波レイはどんな顔で「碇くん」と僕を呼んでいるのだろうか。
しばらく綾波の顔を見ていないことも手伝ってぼやけていた。
見上げるのが怖かった。
「僕は、もういいんだ。何も、もうしたくない。だから、僕は、ここで……」
「そう」
静寂が訪れた。
1分、2分、いやもっとか。そんな重苦しい時間のあと、
「碇くん、悲しいの?」
綾波レイが
ハッとなってシンジが顔を上げると、相変わらずの無表情で、けれど目線を合わせるようにしゃがむ姿勢で綾波はシンジを覗き込んでいた。
ドグマの培養槽で浮かんでいた綾波レイという複数存在する容れ物が浮かべていた表情とは違っていた。
久しぶりに綾波を見た気がする。
けれど、シンジはやっぱり無理だと思って、また塞ぎ込んで俯いた。
「もう、初号機には乗りたくない?」
小さく頷いた。
エヴァに乗って、父さんに褒められたときうれしかった。そのために頑張ろうと思った瞬間もあった。
けれど、トウジも傷つけて、カヲルくんも傷つけて、アスカや綾波のときには何もできない。
なぜ、エヴァに乗っているのか。乗ったところで何一つ良いことができていない。むしろ乗らなければよかったんだ。
もう取り返しのつかないというにならいっそのこと死んでしまいたかった。
「一緒に、逃げる?」
「僕は、逃げるとか、そんなんじゃなくて、もう、動きたくない。だから、ここにいる」
「私も、逃げてきたの。司令から」
「……父さんから?」
「そう。碇ゲンドウ。あなたのお父さんから」
以前の彼女ならそんなこと言わなかっただろう言葉が出てきて、無気力気味のシンジも少し面食らった。
それが3番目ということなのだろうか。
「やっぱり、前とは違うんだね……」
「前?」
「3番目って言ってたでしょ」
綾波は一瞬だけ目を見開いた。
別に内密にしていたわけではなかった。『私が死んでも代わりはいる』『3人目だと思うから』と、わかる人にはわかるくらいの情報量で伝えていたから。
ただ、既に碇くんはおおよその秘密を知っているのか、と。
「リツコさんに地下を見せてもらったんだ。そのときに」
「そう。赤木博士が身体を壊したとき。碇くんもその場所にいたのね」
「……うん」
「私は、造られた存在」
「うん」
「ネルフの人類補完計画のための道具。そのために用意された」
「……」
「だから、今、逃げてきたの。碇くんも一緒に逃げる?」
「どうして、僕なの」
「悲しそうだから。そういう碇くんが、気になるから」
「そっか……」
人から一緒に逃げないかと持ちかけられたのは初めてだった。逃げること・逃げたことを咎められたり、説得されたり、そういうことばかりだったから。
気づけば、シンジは綾波への恐れが薄れつつあった。
「……逃げてもいいのかな」
「自分で選択をすること」
「……逃げたい」
「願いが持てたなら、あとは実行に移すこと」
「逃げよう」
「一緒に」
綾波レイが立ち上がり、差し出した手のひらを。
碇シンジはぎゅっと握り返した。
「初号機パイロット、Fブロックのルート43、b地点から移動。補足できません」
「なんですって?」
銃を準備して本部司令室から発とうとしていたミサトは立ち止まった。
(シンジくんが自発的に避難したか。戦自が移動させたか。……可能性があるなら前者だけど、今のシンジくんが自発的に動くところも想像できない。どうなってるの)
「初号機パイロット補足再開。急いで」
しばらく顔を合わせないから気まずくなる。
案外会ってみればするりと話し始めて自分の中の蟠りもほどけてしまう。あんなに悩んでたのにバカみたいだなあ、なんて思いながら旧交を温める。
もちろん、逆も然り。話してみたらまったく噛み合わなくなっていた。遠い昔に想いを馳せる。あの頃はあんなに仲が良かったのに、もうダメなのかなあなんて重苦しい数時間をお互いに過ごしたら、またねと別れの挨拶を交わした後に、背中を向けつつ、もう会わないだろうなと家路を急ぐ。
喜ばしい結末になろうが、物悲しいものになろうが、会わなければ所詮は泡沫と消える運命。ならば、会うが吉。
綾波の秘密を知った直後のシンジはまさにそれだった。
もちろん、記憶がどこか途切れているような様子であったり、少し反応が冷たくなった印象を受けたことだったり、実際に目にした違和感や忌避感がどうしようもなく綾波レイから足を遠ざけていたという側面は多いにあった。
けれど、満を持して目の前に現れた綾波は。
座り込むシンジが、差し伸ばされたその蒼白い手と、手を結んだとき、一度途絶えた線が繋がったかのように安心を覚えた。
綾波の抱える到底ヒトとは思えないバックグラウンドを察するに至ったシンジにも、そのひんやりとした無機質な触感にも落ち着きを覚えた。
(ここに来るまで色々なことがあって疲れてしまった……。もう立ち上がる気力もないって、そう思ってた。ううん、それは今も変わらない。でも)
立ち上がることはできた。
そして、ずっと逃げちゃダメだって心を押し殺してきた。
そんな僕が、一緒に逃げようと声をかけられるのは初めてだった。
逃げてもよかったのかもしれない。本当は、最初から。
そんなことを思った。
「いたぞ、ファーストとサードの子供だ。武装はない。確実に始末する」
立ち上がって間もなくして、通路の奥から整然とした集団が物々しい足音が、数秒前までは静けさに包まれていた空間を切り裂くように、重く響いた。
銃身が、僕を、そして綾波を。その命を刈り取ろうと、頭を狙うように、銃口の漆黒を真正面から晒している。
「いっ、や。それは、それだけは……」
綾波は平然と、相手を見つめている。何をするでもなく、佇むように。
『私が死んでも代わりはいるもの』
「それだけは、違う。そうじゃ、ないんだ……!」
綾波を庇うように前に躍り出る。
飛び出してすぐに、死ぬのが怖いという理性と、これでようやく死ねるという衝動的な部分。それから人のために死ねるならこれで良かったじゃないかという満足。
それら全て内混ぜになった無防備な体が、武装集団の前に暴かれた。
「悪く思うなよ坊主。……後ろの娘と冥土で達者に暮らせ」
マズルフラッシュが薄暗い廊下を軽く彩った。銃声は同時だった。世界が遅くなる。命はその分だけ軽くなる。
けれど、何も起こらない。痛いとも、苦しいとも、何も感じなかった。これが死ぬということなのだろうか。
しばらくして戸惑いのさざめきが襲撃者たちの間に蔓延していることに気づけた。再度の銃声を浴びる。変わらない景色。
もしかして死んでいないのかな。
じゃあ綾波は?無事なのか。
後ろを振り返ると、感情の篭らない瞳を前に向けて突きつけていた。
「あや、なみ?」
「碇くん、まずは逃げましょう」
再び繋がれた手は、さっきよりも固く結ばれていた。
「待て。ファーストとサードを補足も、何らかの防備を装着しているのか発砲も効果なし。逃亡を企図したため追撃する」
何が何やらのシンジ。さすがの綾波は相手が軍隊ということをものともせず、頭にあるであろう詳細な地図を頼りに少しずつ距離を離していく。シンジにとってもそれは単なる逃避ではなく、目的地を目指すような意図的な経路を辿っているように映っていた。
それは敵側も同じようで、ブローニング・ハイパワー、自動拳銃による発砲はいつしか、サブマシンガンによる連続掃射など、容赦をなくしていった。
子供へと向けられていた憐憫の感情も、不可解な状況により銃撃が効かないとなれば、話は変わる。
「綾波、何かしてるの?」
「今はまだ。撒いてから」
「うん」
シンジは気づいていないけれど、立つことさえも拒否していたシンジの脚はいつのまにか、懸命に地を蹴り、自らの命、そして側で共に駆ける少女の無事のためにがむしゃらだった。
既に手は解かれていた。
けれど、そんな物理的な接触をもはや必要としないまでに、2人の間を結びつけるものは、レイの秘密を知る前よりも強固に感じられる。
「ファーストチルドレン、サードチルドレン両名補足できました。現在、ルート51からルート32への分岐路付近。ルート51後方50メートルより戦自勢力が追跡中」
「了解。分岐路付近は隔壁なかったわよね?」
「ええ。レイとシンジくんがルート32に突入次第隔壁で遮断させます」
「そうしてちょうだい。しかし戦自側からの発砲の様子はなかったわけ?」
「確かに不可解ですね。拳銃は所持しているはずなのにいっこうに撃とうとしない」
「弾切れなんてことはないだろうけどね」
言いながら、ミサトは黒い銃身をホルダーにしまい込む。
「2人を迎えに行ってくるわ。日向くん、あとよろしく」
「ええ、なんとかこちらも凌ぎ切って見せますんで、葛城さんも無事に2人を拾ってきてくださいよ」
「ええ」
「レイ」
ゲンドウは、モニターを眺めながら、シンジとともに逃避をつづけるレイの姿に普段の仏頂面を珍しく顰めた。おそらくこのまま葛城ミサトにレイを渡してしまえば、ゲンドウの思い描く補完計画の遂行は難しいことを悟る。
時間はもはや限られている。
「碇」
「ええ。冬月先生、もはや一刻の猶予もありません。……後は頼みます」
「ああ、わかっている。本部の機能なら最低でも1時間は保たせる」
ゲンドウが退室する。
「我々の手で推し進めたはずの時計の針に翻弄されることになるとはな。……ユイくん。これは君の計画の通りではないだろう?」
「隔壁が降りていくぞ!」
「一斉に放て!」
掃射される銃弾のシャワーに対して、振り返った綾波は手をかざすような素振りを見せた。そして展開されたそれは
「……ATフィールド」
使徒やエヴァの持つそれを、他ならぬ綾波が同程度の出力で発揮していた。シンジは驚きよりも納得の感情でもってそれを受け止めた。カヲルくんにできて綾波にもできないはずがない。
それは2人の相似性をシンジも感じていたからだった。
まもなく手榴弾が隔壁の隙間から滑り込んできて、それも危なげなく封殺。2人はしばらくの間の平穏を手に入れた。
「ミサトさんかな」
「そうね」
「……綾波。いまのってATフィールド、だよね」
「ええ。心の壁。誰しも一人一人が持ち合わせている、個を形作る境界線。私はATフィールドを強固に展開することができる」
思い出すのは弐号機と組み合いながらターミナルドグマを降下している最中のことだった。
相手の機体を停止させようと突き刺したプログレッシブナイフが逸れて、カヲルくんに刃が直撃する間一髪で、ATフィールドが彼を守っていた。
カヲルくんは最後の使徒だった。人のカタチをした
だからATフィールドを展開したとて、無理やり納得させることができた。
けれど、綾波は。
「むかしから、その。……綾波は、ATフィールドを展開できたの?」
「いいえ」
「じゃあ、その、最近になってって、こと?」
「碇くん。ターミナルドグマで磔にされてる白い巨人を見たでしょう?」
カヲルくんに手を掛けてしまったあの場所で、彼が立ち尽くして見上げていたあの白い巨人が脳裏を過った。
「ロンギヌスの槍はあの巨人の覚醒を遅延させるために、前まではあの巨人に刺されていたの。けれど大気圏外に潜伏する使徒殲滅のためにロンギヌスの槍を巨人から抜いてしまった」
病室のアスカの姿が過った。罪悪感が抉るように胸の奥の方を削り取った。けれど今は、その胸の痛みを撫でている余裕はなかった。
「槍が引き抜かれて、巨人はどうなったの?」
「もうすぐ肉体が完成するわ。覚醒直前よ。そして、心と体は惹かれ合うの。肉体が完成に近づくほどに紛いものの器に封じ込められた精神は、仮初の器との親和性を失っていくわ。呼応するように強まっていく、
シンジにはレイの言っていることのほとんどが理解できなかった。ただ、綾波自身の話をしているということだけはわかった。
ぐちょりと、綾波の右腕が落ちた。
右腕の先には、戦自からの逃避を開始する少し前にシンジと結んでいた手の平が、力なく横たわっている。
鮮やかな断面。白い糸のようなものがわずかに浮き出ている。血が溢れ出すわけでもなく、腕が落ちることそれ自体があまりに自然な現象のように現実の世界に表出したという様子だった。
あまりにも綾波が平然としているため、シンジは状況が飲み込めずに反応を起こすこともできなかった。
リツコの手配によってレイという器の複数の身体が一斉に崩れるのを見せつけられたときのそれに少し似ていたから、耐性ができていたのもあったかもしれない。
ショッキングな映像に変わりはないけれど。
「碇くん。話はここまでにして、先を急ぎましょう」
一瞬だけ見られてはいけないものを見られてしまったときのような気まずそうな表情を浮かべた綾波は。すぐに何事もなかった顔を取り繕って、先を歩き始めた。
シンジは、「え、この右腕どうすればいいの?一応持って行った方がいいのかな」という表情で恐る恐る欠落した右腕を拾い上げようとして、先行く綾波の背中と右腕とを頻りに視線を交互に向けた。
一応持っていこう。後でくっつけられるかもしれないし。リツコさんに持っていけば。リツコさんに……。
その瞬間頭を通りすがったのは、端末のボタンを押して綾波のスペアボディーを崩壊させる決断をしたときの、赤木リツコ姿だった。
大人というのはよくわからない。僕には知り得ないところで、ひどく複雑な糸が絡み合っているから。
シンジは綾波の落ちた右腕を掴んでいる方とは逆の手を、握りしめたり開いたりを繰り返しつつ、ぎゅっとは握り込むこともできない手のひらの中の空っぽに不甲斐なさを感じた。
ただそれでも、右腕を掴んだまま離さずにシンジも走り出した。
「綾波、逃げるっていったってどこに逃げてるんだよ」
「すべての役割・
「もう倒すべき使徒は、いないよ」
この手で握りつぶした、あの少年こそが最後の使徒のはずだ。
ならばこの地獄こそ、既にエヴァの必要ない世界なのではないか。
「それでもヒトは、第18番目の使徒は。互いに争い続けることを止めることはできないのよ」
「……。」
「私には役割が与えられているわ。碇くんも、そう」
「僕に与えられた役割」
「押し付けられたもの」
それは突然呼び出されたかと思えばエヴァに乗れと言われ、そして現在に至るまで、苦しめられているもの。
その役割は、不器用さを装って他者を傷つけることしかできない自分自身の在り方を、実直に示しているようだった。
「エヴァはまだ必要なの?同じヒトを傷つけるためにエヴァに乗らないとダメだっていう役割があるってこと……?」
「そうだシンジ。エヴァに乗れ」
「……父さん?」
目の前の曲がり角から、ゆっくりとゲンドウが現れた。右手には拳銃が握りしめられているが、腕は向けるでもなく垂れ下がっている。
「ユイもお前のことを待っている。初号機へと向かえ。……これは命令だ」
「……父さん」
「レイ。約束の時だ。行こう」
レイに向かってゲンドウは手を伸ばす。見せつけるように左手を差し出した。使命が、役割が、ユイが。ゲンドウを突き動かし、そしてレイへと手を、そして笑顔を向ける。
起動実験時、火傷も顧みず、エントリープラグをこじ開けてくれて、開け放たれた逆光の中でわずかに見えたゲンドウの笑顔。あのときの表情そのものに3人目のレイは思えた。
だからこそ、歓喜、
ではなかった。懐かしさ、
でもない。
3人目にとって、以前のレイたちに記憶は単なる記録に過ぎない。感情の伴わないレコード。
けれど鮮烈な感情を伴った記憶というのは、鮮烈な感情を覚えたものとして厳重なラベリングが施されて記録が再生されるというのはいうまでもなく。もはや魂に刻まれた呪いと言い換えられもするだろう。
だからこれは、
結局過去のレイも駒に過ぎなかったのだろう。
ゲンドウはレイの右腕を見て、
「既にATフィールドが身体を保てなくなっている。時間はない。ドグマへ降りて欠けた心の補完を」
と、諭すように語りかける。
「シンジ、逃げてはいかん。レイとともに逃げるか?レイの身体には既に時間制限が設定されている。逃げたところでその先には何もないぞ」
「綾波、そうなの?」
「……」
沈黙は肯定だった。
シンジは自分の手に持つ欠けた右の腕をチラと見下ろした。
「だが、シンジ。お前が初号機に乗り、ネルフの計画を遂行しさえすれば、その先でレイともまた、共に生きていくことができる。ユイともだ」
「……母さん」
エヴァから逃げるという道を見出し、その先のことはわからないけれど、光が見えた気がしていた。
綾波が来てくれたこと。こんな自分にも一緒に逃げようと手を繋いでくれたこと。それらでさえ、結局、
トウジを傷つけてしまったこと。
アスカを傷つけてしまったこと。
2番目のレイが自分の身代わりになったこと。
カヲルくんを手にかけたこと。
これらと同じように、失意の芽でしかなかったのだろうか。
「シンジ、レイ。こちら側につけ。もう誰も奪われはしない」
シンジは綾波をうかがった。綾波は無表情で、しかしシンジがどのような決断をするのかを眺めていた。
「僕は……」
ふらりとしかけた身体をなんとか保ちつつも左足を前に、つまりはゲンドウのいる方向へと進ませようとした。
その刹那、銃声が響いた。
「その先に、サード・インパクトが待ち受けていても、ですか?碇司令?」
葛城ミサトが拳銃を構えて、碇ゲンドウを狙いすましていた。
「ミサトさん」
「シンジくん。こちらに来なさい。いい?あなたのお父さんたちはね、サード・インパクトを起こして人類を滅亡へと導こうとしているの」
ミサトが掴んでいる人類補完計画の概要までを説明しなかったのは、余裕のなさでもあったし、シンジの精神的な状況のいかんによってはメリットと捉えかねないものかもしれないと考えていたからでもあった。
(父さん、ミサトさん。わからない。でも、なんだか、誰かの意志によって整備された道を歩かされてるみたいだ。今までは、それでいいと思ってた。それが楽だとわかってた。誰かを傷つけるよりは、誰かに身を任せた方が。何も考えないで済むって、安心してた)
わからなかった。
正解が。
客観的な意味で、何を選び取るのが正解なのか。
誰かにとっての正解。
自分にとってのみの正解。
「僕は……」
「「シンジ(くん」」)
大人の目が僕を貫く。
「碇くん」
ハッとなって綾波に目を向ける。平然とした表情を当人はしているが、右腕の落ちた、悲惨な姿をあらわにしている。
絶望感。
先の用意されていない。袋小路に追い詰められた気持ち。
だったら、僕は。
サングラスをかけて表情の読み取れない父親の方に身体を傾けようとして、
「碇くん」
また、呼び止められる。
「碇くんは、碇くん。誰かの示した道しか選択できないなんてことないのよ。碇くんの進みたい方向を目指せばいいと思う」
そういって綾波は残された左腕を差し出した。
右手を、綾波の左の手と繋ぐ。
綾波と手を繋いてみて、それから気づいた。
「父さんもミサトさんも結局エヴァに乗れって言ってるんだ。でも、綾波は。綾波は違う。きっと、僕が父さんの言うようにエヴァに乗った方が綾波の身体が壊れるのは防げるんだと思う。ミサトさんの言うようにエヴァに乗れば、人類は滅亡しないのかもしれない」
過程と結果。
ここで言うなら、ゲンドウにつくのかミサトにつくのか。これが過程。
けれど、エヴァに乗るという終着点は同一だ。これが結果。
「でも、綾波は僕の思うようにすればいいって、そう言ってくれてる。乗っても乗らなくてもいいんだって。それは、うれしい。正直すごくうれしいよ」
そんな中で、もっと可能性は広がっているんじゃないか。2人の差し出す手のひらを握るのではなくて、綾波の手を握って進んでいく道のりだってあるんじゃないか。
そう思えた。綾波のおかげだった。
「でも、それじゃあ、綾波が本当はどうしたいのかわからないよ」
「……碇くん?」
「綾波は、どうして逃げ出そうと思ったの?」
「私は……」
「私」とはなんなのだろうと考えるときがある。
本来発生するはずではなかった、ヒトの形をした不自然な生き物。
2回死んで、その度に身体を取り換えているだけの、ヒトではない魂を持つ人形。
1人目はモノを知らなかった。故に最も私という魂の在り方が反映されていた。全てを虚無に帰したいという残虐な願望を、
2人目は絆を大事にしていた。前回の呆気ない、実感さえない死を経験した上で、全てを虚無に帰したいという世界に対する傲慢さは、しかし自らの身の上の空虚さに及ぶほどのものではなかったことに気づく。その空虚さを消化し切れず、しばらくの間、言われるがままに生活をした。なぜ私が発生したのか。何のために。誰のために。そうした諦念の中に浮沈する疑問も、碇司令からかけてもらう言葉、起動実験の事故の際、火傷に怯むことなくエントリープラグを開け放ってくれたこと。病室にやってきて復帰を祈るような言葉をかけてくれたこと。そうか、おしゃべりって楽しいことなのかもしれない。絆って、こんなにも空白を満たしてくれる。そう思ったとき、2人目は、繋がりのために生きようとし始めた。それからすぐに碇くんに出会った。そして、碇くんを守って死んだ、らしい。
3人目の私は、それらさえも空虚だったことに気づく。碇司令が私に役割を求めていただけだったし、私を通した誰かを見ていただけだった。2人目はそれでも構わない、絆のためだから。と割り切っていたようだったけれど、今一度、何のためにということを再定義しようとしたとき、もう元には戻れないことがわかった。もう、身体が崩れて無へと還るというなら、碇ゲンドウの命じる通りに動こうかとも思っていた。
ターミナルドグマ。白い巨人を目の前にして自らの命を差し出して自分に似た青年の姿と、葛藤を抱きながら、そのATフィールドを幾重にも波立たせつつ、最後には手を握りしめたエヴァ初号機のパイロットを思うと、心の水面に保たれていた
だから、これは。そう。役割からの逃避であり、碇シンジという客体から自己を捉え直そうという試みである。
「役割から逃れた先で、碇くんの目の前で消え失せたい。そのときの碇くんの表情が、これまでの私をきっと定義づけてくれるから」
生と死は等価値だった。少なくとも、3人目の綾波レイにとっては。
それは一周回って、あまりにも傲慢な発言であることにレイは気づいていないのだろう。
蚊帳の外で彼らを見守っていた葛城ミサトは思った。
そして、胸の間に大きく広がる我が身の傷のことを思う。状況はまるで異なるけれど、別離が刻む痛みというのは途方ないことをミサトはよく理解していた。
シンジくんがようやっとヒロイックというかナルシシズムというか、浮ついた言葉をかけて他者と歩む道を自ら開示したかと思えば、冷や水をかけるようにあれだもの、うまくいかないものね。
冷静な他者分析の傍ら、拳銃は一切の緊張感を切らすわけでもなく、ゲンドウに照準を合わせて構えていた。
セカンド・インパクトの凄惨な有り様を我が身に刻み込まれたミサトだからこそ、サード・インパクト阻止にかける想いは強い。
引き金を引くと、瞬時に弾丸はゲンドウに襲いかかった。仮にも上司である。致命傷には至らない場所を狙って撃った。
レイの発言に戸惑いを隠せなかったシンジも、発砲音の出所を確認した後で、ライン上のゲンドウに目を寄せた。
「そんな。綾波と同じ。ATフィールド?!」
ゲンドウが身を守るために展開したのはATフィールド。ヒトでは持ち得ないほどの強固なそれを、なぜ生身の人間であるはずのゲンドウが発揮し得たのか。その答えはすぐに明らかになった。
「その手……。なんだよ、それ。父さん」
胎児のような生物が、父の白い手袋が剥ぎ取られるや現れた。
「第一使徒、アダムだよ。すべての使徒の始祖。神の名を与えられた存在。セカンド・インパクトの発生源でもある」
「碇司令。あなたはそれで、一体何をしようとしているんですか」
「人類補完計画だよ。既に戦自による攻勢が仕掛けられている現状、ゼーレによる機密事項も遵守の必要はない、か。……裏・死海文書では人類の行末としてサード・インパクトの発生は結論づけられていた。その覆しようのない破滅を最大限に生かすことを考えたとき、既に出来損ないの群体として陰りの隠しきれない人類を正しい、あるべき姿として生まれ直すために一度一つになろうというのが人類補完計画だ」
「サード・インパクトは避けられないとでも言うんですか?」
「ああ、そうだ。そのサード・インパクトの発生の時間稼ぎが、南極で行われた」
意識の流れってなんですか?