【仮想戦記】 The Islands War 二次創作 作:perry
「……待っていたよ、ロート大佐」
太陽を背に椅子へ腰掛けたその人物が、あのエンクルマ前司令だという確信を、ミヒェールは持てずにいた。確かに背格好や顔は、新聞や遠目に見た英雄のそれだ。だが、彼女が予想していた雰囲気とは、少し違っていたのだ。
『特別教授 準備室』とあるからには、この人が特別教授なのだろうか――そんな不思議そうな顔を見とがめたのか、エンクルマは、ロートに続いて入るミヒェールに挨拶をしてきた。
「初めまして。ティム=ファ=エンクルマです。今はこの大学の特別教授、かな」
「あ、初めまして。こ……」
国防軍、と言おうとして、ミヒェールは口ごもった。彼は国防軍によって植民地軍から追い出されたようなものだ。そんな相手に、国防軍と名乗っていいものだろうか、と。
ミヒェールは、ここへ連れてきた本人であるロートに確認しようと、横目で彼を見る。しかし当のロートは何かを考え込んでいるようで、腕を組んだままこちらを見ようとしない。
内心で毒づきつつ、ミヒェールは無難な方を取ることにした。
「ミヒェール=ルス=ミレスです」
しっかりと握手を交わし、二人は離れる。
必然、二人の視線は、止まったままのロートに集中した。
「ロート君。えーと、今は大佐かな」
「……あ、はい」
「そうか、そうか。もう少しで追いつかれてしまうね」
エンクルマは、まるで自分のことのように嬉しそうにウンウンと頷く。
その光景は、歳の差もあってか、まるで先生と生徒、師匠と弟子といった風であった。それも、かなり優しい先生の部類だ。実際、彼ら二人は師弟の関係と目されて久しい。つまりは、英雄の座を引き継ぐだろう関係として、周りに見られていたのである。
もっとも、それも今回の失脚で、なかったことになっているのだが。
ミヒェールは、事前に抱いていた彼へのイメージとのギャップを、なんとなく理解した。あまりにも温厚で、優しそうに見えたのだ。英雄、という言葉の響きからは、目の前の好々爺然とした人物は想像できなかったのだろう。
「……エンクルマ閣下」
「もう閣下じゃないからなぁ」
ははは、と事も無げに笑うエンクルマを見て、ミヒェールは肩の荷が少し降りたような気がした。
彼はどうも、離れた植民地軍の地位に執着しているわけではなさそうだった。皆の言う英雄も、一度この目で見てみないと分からない――そんな少し屈折した思いをミヒェールは抱いていたのだが、ことエンクルマとロートに限っては、その人格も善良であるようだ。
「うーん、会長、とでも呼んでくれ」
「……分かりました、エンクルマ会長。ところで、今日呼ばれた用件とは……」
「まあまあ、そんなに急がなくても……そうだ、コーヒーはどうだ? そっちじゃ、コーヒーは飲めないんだろう?」
ロートが答えを返す前に、エンクルマはいそいそと立ち上がり、そのコーヒーという物を取りに行ったらしい。コーヒー? とミヒェールは首をかしげた。
ロートは、途中まで伸ばした手を宙に彷徨わせ、口を半開きにして何か言いたそうな顔をしていたが、結局その手を眉間に持っていき、シワを揉むのだった。この部屋に来てからのロート大佐は、相当に変だ。
奥からのコプコプという不吉な音を不思議に思いつつ、ミヒェールは改めて部屋を見回してみる。
この部屋は長方形なのだろうか――そんな疑問形になってしまうのは、部屋が多くの本で埋め尽くされていたからだ。両サイドに本がこれでもかと積まれ、正しく本の壁を形成している。
その本の壁は、中の人間に強烈な圧迫感を与えた。両サイドからの威圧が強すぎて、長方形に思えるのかもしれない。
本のすき間には雑多な紙が詰め込まれ、壁をより強固にしている。両サイドの真ん中に椅子が三つ。ミヒェールとロートが並び、その向かい側にエンクルマ、といった具合だ。エンクルマが奥へ曲がっていったことを考えると、奥にもう一つ部屋かスペースがあるのだろう。そこも、本で埋め尽くされているのだろうか。
まるで本に埋もれているみたいだ――本好きのミヒェールからすれば、羨ましいばかりの部屋であった。本も、タダではないのだ。
「……中尉。彼のことを、どう思った?」
「え、エンクルマ会長のことをですか?」
そういえば、この"会長"とはどの会長のことなのだろう? とミヒェールは思いつつ、突然の質問に頭をひねる。
「そうですね……思ったより、優しそう? な感じですかね。やっぱり英雄と言われていただけあって、独特の雰囲気というか、常人とは違うというか……」
ロートは顎で、その先も話せと示す。
「……やっぱり、本好きに悪い人はいないですよ」
と、彼女はこの部屋に積まれた本――というよりブロックを、ニヤけた顔で見回す。
その様子を見ていたロートは、ニコリともせず、無愛想に押し黙るのだった。
「……どうしたんですか、ロート大佐。先から大佐、少し変ですよ」
「だろうなぁ」
「……ロート大佐が今日、エンクルマ会長に呼ばれたんですよね? あ、なんで会長なんです?」
「エンクルマ前司令は、植民地の文化に興味を持っておられた――ことは知っているかい?」
「ええ、なんとなく聞いたことがあります。……ロート大佐も確か」
「ああ。エンクルマ会長は植民地文化保存会の会長でね。私も会員なんだ」
その説明に、なるほど、とミヒェールは納得する。
しかし、今の会話では、ロートが変であることへの説明にはなっていない。それにミヒェールは気がついた。言いたくないことなのだろうか――と、またも押し黙るロート大佐の横顔を眺めるのだった。
しばらくして、奥から、何やら黒い液体の入ったコップを三つ手に持って、エンクルマがやってきた。ミヒェールはそれがコーヒーだろうかと推測し、いつの間にか漂ってくる良い香りに気がつく。
その香ばしくて酸っぱい、不思議な、でもどこかホッとする香りに、ミヒェールは、なるほどコーヒーというモノも悪くないと思う。
「そういえば、ミヒェールさんはコーヒーは初めて見る?」
「あ、はい」
ミヒェールはコーヒーを受け取る。
黒い水面には、頬を少し赤らめたミヒェールが映った。
――安心する匂い。
そう思い、その安らぐ匂いにうっとりしていると、ミヒェールのメガネが湯気で白く曇る。
「わっ!」
慌てて顔を上げたミヒェールを、男二人はコーヒーを啜りながら眺めていた。
二人と、ミヒェールの視線がかち合う。
次の瞬間、二人は同時に口元を歪め――
「は、ははは!」
堪えきれないとばかりに、同じように笑い出した。
そんな二人から、ミヒェールは顔から火が出るほどの恥ずかしさで、必死に視線をそらすのだった。
その後も、コーヒーの苦さに顔をしかめるミヒェールを、二人は面白そうに眺めて笑う――そんなことが続き、和やかな空気が流れた。
どうやらコーヒーとやらは、飲み慣れるのに多少の時間が必要らしい。そして、その新人の反応を面白がるのも、植民地軍の伝統らしかった。それをロート大佐から聞いたミヒェールは、面白がっていた二人にぷりぷりと怒りながらも、こんな空気が嫌いではないのだ。
怒るミヒェールの小言を、まるで反省の色の見えない満面の笑顔で聞く二人は、イタズラ好きの子供のような男たちであった。
しかし、そんな団欒が一段落ついた頃、ロート大佐は突然、何かを思い出したように真顔へ戻る。
彼女には、彼がこの温かい時間をもっと味わっていたいのに、無理に空気を変えたように見えた。
「エンクルマ会長。今日は、どのような用件でお呼びになったのですか?」
「……そうだな。そろそろ話さないといけないか」
エンクルマは、コーヒーカップ三つと本・書類とで完全に制圧された作業机で、ゴソゴソと何かを探す素振りを見せる。
そして取り出したのは、真新しい何かのレポート――報告書であった。
「君たちは、俺が何で植民地軍を追われることになったのか、知ってるよね?」
その問いには、悪意も他意もまるで感じられず、単なる確認とミヒェールには聞こえた。
それでも、彼の側に何の感情がこもっていなくとも、やはり先ほどと同じ空気のままではいられない。三人の間に緊張が走るのを、ミヒェールは感じた。
「……はい。今回の戦争――対ニホン戦争に反対なさったから、と」
ロートの言葉に、ミヒェールも同じことを聞いていると、軽く頷いた。
二人の返答を聞いて、エンクルマはレポートを手にしたまま、さらに問いを続ける。
「だったら、その理由も知っているよね。俺は今回の戦争に負ける、と言ったんだ。それで、総司令官を辞めるところまで追い詰められた。
そこで、だ。ここまでは、そこらの新聞を買っている奴らでも知っていることだけど――君たちに聞きたいのは、このエンクルマが負けると言ったことに、疑問を持たなかったのか? そこなんだ」
ミヒェールは、その内容に反して、やはりエンクルマの質問の調子は、既に分かっていることを念のため確認しているような風に感じた。
エンクルマを見やる。彼はミヒェールには目も向けず、ロート大佐の方を柔和な表情で眺めていた。
対してロートは、顔を引き締め、背筋をピンと立てている。
二人の対峙は、先ほどの空気とは百八十度逆だ。そして、エンクルマとロートの顔もまた、見事に対照的であった。
「……疑問を持ちました」
「どんな?」
「エンクルマ閣下が、不用意にそのような発言をするわけがない、と。何か根拠あっての発言だと思いました」
「……なるほど」
二人の掛け合いだけを聞いていると、それが堕ちた元英雄と、今や国民の期待を一心に背負う英雄との会話だとは思えなかった。
満足そうに頷いたエンクルマは、やっと手にしていたレポートを、ロートへ手渡す。
驚愕――その一言では言い表せないほどの衝撃が、ロートの横顔に走った。
ロートが受け取ったレポートには、敵国ニホンの情報が事細かに記されているようであった。
ようであった、というのも、単語の断片しか、覗き見るミヒェールには見えなかったからだ。
――無人の、偵察機……!
――セラミック……ローリダのものより遥かに長い、射程距離のミサイル……!
後ろから覗くミヒェールの目に、あり得ない情報が飛び込んでくる。
ロートの背後から覗こうと背伸びするミヒェールに、エンクルマは同じようなレポートを渡した。焦って紙面に視線を走らせても、書いてあることは同じであった。
ゆっくりとその情報を読み込んでいくミヒェールの頭に、予想を遥かに超えた事態が浮かび上がる。
――もし、これが本当だとすれば……演習をするまでもない。基礎の基礎、あらゆる面で我が軍は劣っている!
その結論を、優秀なミヒェールの頭は――今までの常識からすれば到底あり得ないものであるにもかかわらず――支持していた。その可能性が高い、と。つまり、ニホンに負ける可能性が高い、と。そう結論づけたのだ。
ミヒェールは必死にレポートをめくる。これが嘘だと書いてある箇所を、必死に探すように。
しかし、当然そんなことは書かれていない。さらに流れ込む知識は、否定したい結論を、より強固にしていくだけだ。
ミヒェールは、背中に冷たい汗をかいているのを自覚した。
悪寒がする、というより、平衡感覚が失われていく。自分自身を、まるで他人事のように、違う場所から眺めているようであった。
頭が、これ以上の思考にストップをかけようとするのを感じる。
それでも彼女の手は、脳からの命令を聞かず、自律的に資料をめくるのを止めないのだ。
その部屋の空気は、重く、暗かった。
理由は明白で、エンクルマが二人に渡したレポートであった。
中身は、最新のニホンの報告書。特に、その軍事力、科学力。まとめ方は見事としか言いようがなく、それはミヒェールが一目見ただけで事態の深刻さを悟ったことからも分かろうものだ。
彼女に先見の明があったことも、要因の一つには違いないが。
数時間とも、数分とも感じられる苦しい時間は、終わったかのように思われた。
少なくとも、彼女はそう思ったのだ。
その報告書の最後は、彼女にとって、死刑判決を読み上げられているかのようであった。
正式な署名などはないが、明らかに専門集団が検討した結果――ニホンとローリダの戦いの結末――が、予想される経過とともに事細かに記してあった。そしてその結果は、もちろん敗北。いや、全滅と言ってもいいほどの被害を受けての、遁走……。
そして、その結果に至るまでの経過を、彼女がありありと想像できてしまうことが、衝撃をさらに押し立てる。
この情報から、国防軍敗走の未来が、はっきりと見えるのだ。
――しかし……その情報自体が、もし幻想であったとしたら?
そこに、ミヒェールは小さな光を見つけたかに思えた。
少し余裕を取り戻したミヒェールは、受け取ってから絡め取られたようにレポートへへばりついていた視線を持ち上げ、周りの様子をうかがう。
ロート大佐は、まだしっかりと、そのレポートを読み込んでいた。
さすがは英雄だ、とミヒェールは感心する。というのも、もっと取り乱して――例えばエンクルマに問い詰めるような反応を、ロート大佐は露ほども見せなかったからだ。
そして……この混乱に陥れた張本人であるエンクルマを見る。
彼は、レポートを渡す前と変わらない柔和な表情で、ロート大佐を見つめている。しかしミヒェールには、その表情が、目に見えるそのままだとは、もう思えなかった。
エンクルマはロート大佐に――気に入った生徒に課題を出して、その様子を興味深く観察している。ミヒェールは、なんとなくそう思った。
すると、エンクルマの吸い込まれそうなほどの黒い瞳が、突然、嫌に光るガラス玉のように感じられ始めたのだ。
その変化は、ミヒェールに驚きをもたらすのに十分であった。
目の前の、先まで楽しく談笑していた人間が、怖い。
そんなことを、感じてしまう。
――ひゅぅ。
ミヒェールの喉から、微かな音が漏れた。
ミヒェールは、その突然の恐怖に――そしてその恐怖の正体が分からないことに、さらなる恐怖を覚える。
それは際限なく膨れ上がっていき、ミヒェールは必死に打ち消そうと、先の思考へ軌道修正を試みた。
――しかし……その情報自体が、もし幻想であったとしたら?
――そうだ。そうであるはずだ。
何も、この情報が本当のことだと決まったわけではない。ならば当然、それを下敷きにした戦争の予想も崩れることになる。
そもそも、このレポートの出所すら教えてもらっていないのだ。しかも、あのエンクルマ前司令が、ロート大佐に渡そうとした書類である。
――偽装の……そう、国防軍であるロート大佐、これから活躍するだろう英雄を妬んでの、撹乱……?
ミヒェールは、この思考に多分に自身の希望が混じっていることを、十分に自覚していた。
結局、自分はこの目の前の書類の内容が本物だと、認めたくないのだ、と。
しかし、しょうがないではないか――と、どこに向けるでもない怒りも、彼女は覚える。
――これから行く戦場で、確実に負けるという資料を見せられては!
その意味で、ミヒェールは目の前のエンクルマに憤る。
結局、この情報が本当かどうかなど、現時点ではどうとでも言えてしまう。だからこそ、そこには判断する主体の希望が入り込む余地があるのだろう。
その時点で、戦争に最も必要な『真実』という価値は、消え失せてしまう。
今この時点での情報の真偽は、さほど重要ではない。それはもう、己の判断ではどうしようもなく、判断のつかないことだからだ。であるなら、うだうだ考える方が無駄だろう。
ミヒェールは、自分がいつもの調子に戻っていくのを自覚した。
それはいい傾向だ、と考える。今までは、このレポートに心を乱されすぎた。そのせいで、冷静に考えることができなかったのだ。
情報の確かさはどうでもいい。いや、どうでもいいことではないが、少なくとも今この時点で、この私が考えるべきことではない。
では、何を? 何を考えるべきなのか?
――それを考えさせるために。そういう思考に辿りつくかどうかを試すために。エンクルマは私たちに、この資料を見せたのではないか?
ふと、そんなことをミヒェールは思った。
そしてそれは、目の前の、先生染みたエンクルマ元司令の印象に、よく当てはまるものであった。
ミヒェールは書類を見つめ、考える。
――今考えるべきは、このレポートの内容ではない。このレポートを、何故このタイミングでロート大佐に渡しているか、だ。
国防軍であるロート大佐は、一応、エンクルマの敵になるのだろう。
しかし、彼らが戦場で共闘した戦友であることも確かだ。その意味では、ロートは国防軍側ではなく、植民地軍側とも言える。
――彼は……どちら側なのだろうか? それが決まらないと、このレポートの意味も変わってくるのではないか?
そして、ひらめく。その迷いは、エンクルマにもあるのではないか、と。
その迷いを断ち切るために、エンクルマはロートにこのレポートを見せたのではないか――ミヒェールは、そう当てをつける。
大体、ここでエンクルマが動いているということは、今回の戦争で、この後の主導権を取れると踏んでいるからだ。もしこのまま国防軍が勝利を勝ち取れば、後は失脚したエンクルマの出番などない。せいぜい、国防軍に慈悲を乞うくらいしかできない。
だが、エンクルマは動いている。大人しく裁きを待つのではなく、積極的に動いている。それは、何を意味するのか。
もし、エンクルマが何も考えず、感情だけで動くような人物であれば、このような推測は成り立たないだろう。
だが、ロート大佐は言った。
――エンクルマ閣下が、不用意にそのような発言をするわけがない。
その言を信じるなら。この行動の目的は?
この書類の内容の真偽を考えるのではない。その目的を考えるべきなのだ。
そうであるなら、エンクルマは何らかの目的をもって、この書類を見せたはずである。
この書類の内容が嘘であった場合、エンクルマに何の得があろうか。
それは国防軍からすれば、ただ単に混乱を招く原因になるだけだ。そして、書類が嘘であったということは、何を意味するのか。それは、国防軍が負ける未来などない、ということだ。
嘘の情報を流したことが後で見つかれば、エンクルマへの格好の処罰理由になろう。エンクルマは、ニホンに勝利して勢いづいた国防軍に、処罰されるのだ。
――何の得もない。彼がここで嘘の情報を流して、得られるものはない。
――すると、やはり……。
ミヒェールは、先よりは比較的冷静に、自身の出した結論を受け取ることができた。
――この情報は、本物だ。
「ロート君、読み込めたかね?」
「……はい」
ミヒェールがそう結論づけたのとちょうど同時に、隣から声があがった。
ロート大佐は既に、ミヒェールに手渡された倍ほどのレポートを、読み終えていた。
「さて、君の感想を聞きたいのだが」
エンクルマが椅子に深く腰を据えながら、ロート大佐に尋ねる。まるで、既に答えの分かりきった答え合わせをするかのように。
ロート大佐は、エンクルマの目を真っ直ぐ見つめながら、口を開いた。
「エンクルマ会長は、このようなことを意見交換会で意見されたのですか?」
「その結果が、これだからね」
エンクルマは、首を横にゆっくりと振った。
ロートは、唇を噛み締める。
「それで……少し、相談があるんだ」
エンクルマが身を乗り出した。
ミヒェールは、心の中で、ついに来たか、と身構える。彼がこの時点でロートを呼び出したということは、何らかの誘いがある可能性が高かったからだ。
国防軍に目を付けられるのを承知で来たロート大佐も、彼の提案に乗ろうという心持ちだったのだろう。
そして……その誘いにノコノコ付いてきた自分も、もう一蓮托生なのだ。
それに、この資料を見て、誰が国防軍の方に付きたがるだろうか。
「国防軍の兵士たちには、玉砕してほしい」
エンクルマは、いつもと変わらない調子で、そう言うのであった。
「……玉砕、ですか?」
ロートは、オウム返しに言う。
ミヒェールは、その内容を、しばらく理解できずにいた。
「ああ、玉砕、というと少し違うか」
エンクルマは斜め上を見ながら、軽く言う。
「戦争に負けた時の、生き残りを、できるだけ少なくしてほしいんだ」
二人は、声が出なかった。
彼の言うことは、つまり……戦死者を、多くしてほしいということではないか。
ミヒェールは、エンクルマをまじまじと見つめた。とても、まともな提案とは思えなかったからだ。
「会長は……」
ロートは、声を震わせながら言う。
「何をおっしゃっているのか、分かっているのですか!?」
「もちろん、分かっているさ」
エンクルマは続ける。
「君たちになら、言ってもいいかな……。この戦争が負けそうだと公になれば、必ず、俺が指揮を執るようになるだろう」
まぁ、そうさせるんだけど――と、エンクルマは続けて小さくつぶやいた。
「その後、国防軍の影響を、できるだけ減らしたいんだ」
分かるかな、とこちらを見やるエンクルマは、物分かりの悪い生徒を見るような目をしていた。
「それは……」
ミヒェールは、それ以上、言葉が続かなかった。
理屈としては、理解できる。結局、影響力というのは数だ。国防軍が敗走し、なおかつ数が少なくなれば、彼が主導権を握るのは簡単だろう。
彼の「敗戦」という予言が現実味を帯びることも、プラスに働くに違いない。
そこまで考えて、ミヒェールは気がついた。
彼は――エンクルマは、このことを、つまり主導権を握ることを、最終目的に動いていたのではないか。
あの失脚から会見まで、全ては今回の戦争を利用して、さらに大きな権力を握るために仕組んだのではないか!
そう考えると、すべての辻褄が合う、とミヒェールは思った。
そして今回の、ロート大佐への提案……いや、これは命令だろう。なぜなら、ここでこれを拒否するということは、ニホン戦争の後に何が待っているか分からない、ということだからだ。
どうせ、国防軍からは目を付けられるに決まっている。
――ならばいっそのこと……。
そんなミヒェールの予想に対して。
「お断りします」
ロート大佐は、そう言い切ったのだった。
「……それは、何故かな?」
彼からすれば予想外であっただろうに、エンクルマは静かにロートへ問う。
そして、予想外だと思うのはミヒェールも同じであった。にもかかわらず、どこか納得している自分がいることに、彼女は気づいていた。
「私は……部下たちを、わざと減らすような、そんなことはできません」
毅然とした口調で断るロートに、エンクルマは、ふぅ、と小さく溜息をついた。
「冷静に、今後のことを考えてくれ。大体、君だって国防軍が好き放題するなんてことは、嫌だろう? それに……」
エンクルマは何故か、ミヒェールの方をチラリと見た。
「……どっちにしろ、君はニホンを相手に戦わないといけない。その事実は変わらないんだ。君もまさか、犠牲者を出さないように逃げる、なんてことはしないだろうしね」
「……」
「戦死者は、どうせ出るんだ。それがこの後の『平和』の邪魔になるなら、減らしておくに限る。当たり前じゃないか。……兵士は死ぬものだよ。そして、それを決めるのが将校の仕事だろう」
エンクルマは、諭すように言った。
「いい加減に、割り切りなさい」
その言葉に、ロートは黙ったままだ。
永遠に続くかと思われたその沈黙は、ロートの、振り絞るような声でやっと破られた。
「……できません」
「……そうか。残念だよ」
エンクルマは、そのたった一言だけを返した。
◆◆◆
「……ロート大佐」
「なんだい?」
ロートとミヒェールは大学から一直線に飛行場へ向かい、二人は既に、サン-グレスへと戻る機上の人となっていた。
ミヒェールは、あまりにも濃い一日であったと、今日を振り返る。
その中で、疑問に思っていたことを、ロートにぶつけたのだった。
「何故、私を誘ったのですか?」
「ああ……それはね」
行きの便とは逆の席に座ったロートは、窓から外を眺めながら答える。
「エンクルマ会長に飲み込まれないように、誰かに見ていてほしかったのかもしれない」
ミヒェールは、その「飲み込まれる」という表現に、彼がエンクルマをどう思っているかを見たような気がした。
――彼は、エンクルマを恐れていたのではないか?
「私たちは……負け戦に臨まなければならないんですよね」
「……それも、圧倒的な負け戦さ。勝ち目の、一切ない、ね」