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『週刊タヌキ』編集部の夜は遅い。
照明の落とされたフロアで、社長席の上だけが白く浮かんでいた。積み上がった却下原稿、飲みかけの缶コーヒー、赤字だらけのゲラ。そして、その雑然とした机の中央で、ひどく不釣り合いなほど静かに、ひとつの球体が淡く脈打っている。
夢の泡。
星はそれを指先で転がした。触れるたび、薄膜の向こうで光が揺れる。風の匂い、砂の熱、誰かの笑い声。記憶は泡の中で混ざり、沈み、また浮かび上がる。
「ラクーン様、ほんとにやるんですか?」
若いタヌキ記者が、半信半疑の顔で尋ねた。
星は目を上げない。
「やるよ」
「でもそれ、ただの映像作品じゃあないんですよね? こんなの公開したら、宇宙中のオンパロス考察勢が発狂しちゃいますよ!」
「発狂で済めばいいけどね」
星が苦笑いすると、壁際のソファに勝手に陣取っていたサンポ(何故か居る)が、ひらひらと片手を振った。
「いやあ、でも面白いじゃないですか。フィクションの顔をしたノンフィクション。しかも開拓者様本人監修。売れますよ、そりゃあもう、信じられないくらい」
「売るためだけにやるんじゃない」
星はようやく夢の泡から目を離し、編集部全員を見回した。
「これは、忘れないための仕事だよ」
その言葉で、部屋の空気が少しだけ変わった。
軽口を叩いていたサンポでさえ、口元の笑みを薄くする。
星は立ち上がり、背後のスクリーンに企画書を投影した。
タイトルは大きく、白い文字で記されている。
『永劫の火追いと歳月の彼方』
三時間映画、三部作。
同時進行で連載小説。
映像は憶質投影機を用い、記憶の触感までも再現する。
「これはフィクションじゃない」
星は、自分に言い聞かせるみたいに言った。
「私が見た、もう一つの世界の真実だよ」
────
第一部の公開は、静かなはずだった。
せいぜい一部の物好きに刺さればいい。そんな予測は、公開から数時間で吹き飛んだ。
再生数は跳ね上がり、コメント欄は流星みたいに流れ続け、切り抜き、感想、考察、二次創作、検証、論争、祈り、叫び──ありとあらゆる言葉が銀河規模で噴き出した。
誰もが彼らの名を口にした。
画面の中で生きる者たちの痛みを、あまりに生々しく受け取ってしまったからだ。歩き方ひとつ、目を伏せる癖ひとつ、別れの前に息を吸う間ひとつに、作り物では済まされない重さがあった。
《これ、役者じゃ無理だろ……》
《なんでこんなに本物っぽいんだ》
《本物っぽいんじゃない。見てると、本当に“いた”気がしてくる》
《彼らは実在する。そうとしか思えない》
編集部のモニターには、各星系のトレンドが並び続けた。
第二部の公開前には、すでに社会現象だった。
────
第二部の公開からしばらく、星は忙殺されていた。
取材依頼。出演依頼。劇場上映交渉。書籍化部数の増刷連絡。連載版の校了確認。
眠る時間も、ぼんやりする時間もなかった。
それでも深夜、誰もいなくなった編集部で、彼女はひとり原稿を直し続ける。
一文を削り、一文を足す。
彼らを美化しすぎないように。
だが、矮小にも描かないように。
悲劇を見世物にしないように。
それでも、届く言葉にするために。
「……難しいな」
呟くと、すぐ隣から声がした。
「いまさらですか?」
サンポだった。いつの間にか給湯室から戻ってきて、紙コップを二つ持っている。
「寝てなかったの?」
「編集長が寝ておられないのに、部外者のワタシだけ寝るわけにもいきませんので」
「部外者って自覚あったんだ」
「ありますとも。もちろん、プロジェクトに一枚噛ませて頂いている以上、仕事はキチンとしますがね?」
サンポはいつもの胡散臭い笑みを幾分か引っ込め、真剣な表情を浮かべた。
「とはいえ部外者ですからね。こうして無責任なことも言えるんです」
サンポは片方のコップを差し出した。コーヒーから砂糖の香りがする。
「あなた、まだ迷ってるでしょう」
星は受け取らずに黙った。
「自分の記憶を切り売りしてるみたいで嫌だ、とか。あの人たちの生き様を、娯楽にしていいのか、とか」
図星だった。
サンポは肩をすくめる。
「でもね、星さん。人は、知らないもののためには泣けないんですよ」
その声音だけが、珍しく軽くなかった。
「あなたが物語にしたから、宇宙中の誰かが、彼らのために心を痛めた。忘れられるはずだった名前を呼んだ。届かないはずの手を伸ばした。だったら、それは“切り売り”なんかじゃない。むしろ──」
彼はそこで笑った。
「ずいぶん、開拓者らしい無茶でしょう?」
星はようやくコップを受け取った。熱が掌に広がる。
「……そうかもね」
「でしょう?」
「でも、もし本当に届いたら」
「ええ」
「もし、この物語が、あの人たちにまで届いたら」
サンポは少しだけ目を細めた。
「その時は、奇跡が起こるかもしれませんね。この、二相楽園ならではの、ね?」
────
完結編の公開日は、銀河規模の祭りになった。
上映館は満席。配信サイトは同時接続数の記録を塗り替え、広場には大型スクリーンが設置され、辺境の星系でさえ、誰かが電波を拾って皆で見守っていた。
三部作の最後。
長い、永すぎる旅の果て。
炎と別れと、託された想いの終点。
そしてエンドロール。
無数の言語でスタッフロールが流れるなか、宇宙のあちこちで、同時にすすり泣く音がした。
誰もが、同じ顔を思い浮かべていた。
誰もが、同じ声を胸の奥で聞いていた。
誰もが、「いてほしい」と願ってしまっていた。
それは、あまりにも巨大な共通認識だった。
編集部に戻った星は、妙な静けさに気づいた。
祝電も、着信も、廊下の足音も、遠のいている。
まるで建物ごと、深い水の底に沈んだみたいに。
壁に飾られたポスターが、かすかに揺れた。
夢の泡が、机の上でひとりでに浮き上がる。
乳白色の光が、部屋いっぱいに広がっていく。
星の懐から、一冊の本が具現化し、輝きだした。
その本のタイトルは──《紡がれた物語》
「……え」
星は一歩、後ずさった。
紙が舞う。原稿がめくれる。インクの匂いに混じって、懐かしい風が吹き抜けた。乾いた大地の風、潮の香りを含んだ風、夜明け前の冷たい風。ひとつではない。いくつもの旅路の気配が、同時にそこに満ちていく。
光の粒が集まり、輪郭を得る。
重厚な鎧の擦れる音。
柔らかな衣擦れ。
靴音。笑い声。息遣い。
その気配に、星の喉が鳴った。
掠れそうな声が漏れる。
「うそ……」
誰より先に、ひとつの影がはっきりした。
見慣れた立ち姿。
数えきれない別れの先でも、忘れられなかった声。
光の中から現れたその人は、少し困ったように笑った。
「……やあ、待たせたかな。相棒」
その一言で、星の中の時間が全部ほどけた。
夢だったかもしれない記憶。
もう二度と届かないと諦めた背中。
何度も何度も、書き直して、それでも書ききれなかった感情。
星は声を出そうとして、失敗した。代わりに目の奥が熱くなる。
「なんで……」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「なんで、ここに」
「さて」
彼は軽く肩をすくめた。
その後ろで、別の光が次々に人の姿を結んでいく。
悪戯っぽく笑う大泥棒。
静かに周囲を見渡す学者。
呆れたように溜息をつく不死身の男。
眩しそうに新しい世界を見上げる金糸の繰り手。
ポスターの中にいたはずの人たちが、みな、そこにいた。
星は一人ひとりの顔を確かめるように見た。
名前を呼ぼうとして、呼びきれない。
呼べば本当に幻になる気がして、怖かった。
最初に近づいてきたのは、小さな足音だった。
舌足らずながらもイタズラ心を含んだ声が、いつかの旅の温度をそのまま運んでくる。
「グレーちゃん、呆けてる場合じゃないよ? せっかく、あたちたちが来たんだから」
星は笑ってしまった。泣きながら。
「来たって……ほんとに、来ちゃうんだ」
「みんなが、強く願ってくれたんじゃないかな」
静かな声が続く。
「だから、物語は応えた。きっと、そういうことだよ」
編集部の自動ドアが開き、遅れて戻ってきたスタッフたちが一斉に硬直した。
沈黙。
次の瞬間、誰かが悲鳴を上げ、誰かが膝から崩れ落ち、誰かが「うわ本物だ」と間の抜けた声を出した。
最後にサンポが顔を出し、室内を見渡して、数秒だけ完全に言葉を失った。
「……いやあ」
彼は額を押さえながら、心底嬉しそうに言った。
「まさかとは思いましだが、本当にやってのけるとは」
「サンポ!」
「はいはい、落ち着いてくださいって。ええと、まず状況整理から──」
「無理でしょ!」
編集部は、そこからしばらく収拾がつかなかった。
誰かが水を持ってきて、誰かが椅子を並べ、誰かがサインをもらおうとして星に怒られ、誰かが気絶して医務室に運ばれた。
廊下ではコピー機が勝手に紙を吐き続け、給湯室では知らないうちに人数分のお茶が用意されていた。
混乱の中心で、星は何度も深呼吸した。
嬉しい。
信じられない。
怖い。
でも、たしかに、胸のどこかがずっと待っていた。
彼女は机の端に手をつき、もう一度その人を見た。
「……これから、どうするの?」
問いかけると、ファイノンは編集部の喧騒を見回して、小さく笑った。
「それを決めるのが、物語の続きを生きるってことじゃないかな」
答えはあまりにも彼らしかった。
完成したはずの作品の外側で、続きを当然のように語る。その無茶さに、星はまた泣きそうになる。
窓の外では、夜明けが始まっていた。
二相楽園の空が、群青から薄青へとほどけていく。
新生した彼らの横顔を、朝の光が撫でた。
それは幻影には見えなかった。
記憶の投影にも見えなかった。
ここに立って、息をして、次の一歩を選ぼうとしている人間の顔だった。
星はゆっくり椅子に座り直す。
机の上には、新しい原稿用紙。
白紙。
まだ何も書かれていない未来。
ペンを取ると、背後からいくつもの声が飛んできた。
「編集長、見出しどうします!?」
「この人数、福利厚生どうなるんですか!」
「とりあえず取材は全部断って!」
「ふふ、にぎやかですね」
「やかましい……」
星は肩を震わせ、とうとう吹き出した。
そうだ。
終わってなんかいなかったのだ。
悲劇に区切りをつけるためのエンドロールは流れた。
けれど、物語そのものは、まだこちらを見ている。
彼女は最初の一行を書いた。
──虚構が現実を塗り替えたのではない。
忘れられなかった願いが、現実のほうを書き換えたのだ。
「さて」
星は振り返る。
騒がしくて、眩しくて、もう二度と失いたくない面々がそこにいた。
「次は、みんなとの“続き”を書こうか」
誰かが笑う。
誰かが頷く。
誰かが、まるで最初からそこにいたみたいな顔で、星の隣に立つ。
朝日が差し込む編集部で、新しい連載が始まった。
今度こそ、誰にも奪われない形で。
紙の上だけでは終わらない、生きた続編として。
そしてその第一話は、きっとこう締めくくられる。
──おかえり。
──ただいま、相棒。
二相楽園の幻造種を見てから、やりたかった内容です。
まだ幻造種の産まれかたも判明してないので、現状判明している、「願力」を得て「絵から生まれる」部分だけ採用してます。
こんなハッピーエンドがいつか来て欲しいと願ってます。