セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
水族館で過ごした、あの楽しかった一日から一ヶ月。季節が残酷なほどに巡り、アビドスの街は重く湿った鉛色の雨に閉ざされていた
窓を叩く雨音は、まるですべてを洗い流そうとする境界線の音のようにも聞こえる
薄暗い部屋の中、セリカは寝床として使い古されたソファーに横たわり、どんよりとした天井を見つめていた。その指先で力なく揺れているのは、あの日手に入れた小さなクジラのキーホルダーだけだ
「…………」
最近、自分の内側に「底の見えない暗い穴」が、音もなく口を開けているような感覚に襲われる。そこから大切な何かが、絶え間なく零れ落ちていくような焦燥感。その穴は日に日に広がり、冷たい風が吹き抜けていく
きっかけは、水族館から数日後の、なんてことのない穏やかな昼下がりだった
あの日、商店街を三人で歩いていた時のことだ
ユメ先輩の能天気で柔らかな笑い声と、その隣で「あー、暑いですねぇ……」と、珍しく気だるげな声を漏らすホシノ
その平和な日常の喧騒を切り裂くように、一台の青いロードバイクが風を切って目の前を通り過ぎた
(あ、シロコ先輩と同じ自転車……)
それは、脊髄反射のような、あまりにも自然な思考だった
けれど、その言葉が脳裏に浮かんだ刹那、心臓を氷のように冷たい手で直接掴まれたかのような、凄まじい違和感がセリカを貫いた
「――っ」
歩き続けていた足が、アスファルトに縫い付けられたようにピタリと止まる。呼吸の仕方を一瞬忘れたかのように、喉の奥が引き攣った
(……え? シロコ……先輩?)
自分の口から、あるいは思考から漏れ出たその「名前」が、急に得体の知れない異物のように感じられた
(シロコ先輩って……誰? 私の先輩は、ユメ先輩だけ。それにアビドスには、私たち以外に誰もいないはずなのに。なのに、どうして私は今、当たり前のようにその名前を――)
必死に記憶の湖をかき回そうとするが、そこにあるのは静まり返った水面だけだ
ロードバイクに乗って、汗を流しながら無愛想に、けれど優しく笑っていたはずの「誰か」の残像。それが、この世界の強固な「現在」という現実によって、見る間に色褪せ、形を失い、深い霧の向こうへと溶けていく
「セリカちゃん、大丈夫? 急に止まって……」
先に歩いていたユメが、異変を察してくるりと振り返る
その穏やかな声が、凍りついたセリカの意識を現実へと引き戻した。隣に立つホシノもまた、先程の気だるげな様子を消し、鋭い観察眼を含んだ瞳でこちらをじっと見つめている
「セリカ、どうかしましたか? 急に幽霊でも見たような顔をして」
「え、ええ……。……なんでもないわよ。なんだか、さっきの自転車に、見覚えがあったような気がしたんだけど。……ただの気のせいだったみたい」
セリカは、喉の奥にせり上がる得体の知れない動悸を無理やり飲み込み、いつもの勝気な口調を取り繕った
しかし、一度乱れた呼吸は容易には収まらない。耳の奥では、自分の心臓が警鐘を鳴らすように、ドクンドクンと激しく打ち鳴らされている
けれど、ホシノは納得していない様子で、呆れたように小さくため息を吐いた。
「もう……セリカ。最近、無理をしすぎなんじゃないですか? 疲れが溜まって、まるで幻覚でも見ているような顔ですよ。あまり根を詰めると、肝心な時に体が動きませんよ?」
その言葉は、あまりにも的確で、それゆえにセリカの逆鱗に触れた
自分が命懸けで守ろうとしている「未来」の記憶を、ただの「幻覚」や「疲れ」として片付けられてしまうことへの、正体の知れない恐怖と激しい苛立ち。
「……そんなことないわよ! ちょっと考え事をしてただけだってば! ほら、ボサっとしてないで早く行くわよ。今日中に終わらせなきゃいけないノルマ、山ほどあるんでしょ!」
「あ、ちょっと待ってくださいよ、セリカ! 全く、せっかちなんですから……」
「ひぃん! 二人とも、私を置いていかないでよぉー!」
怒鳴るように言い返すと、セリカは二人を突き放すように、逃げるような足取りで早歩きを始めた
背後から聞こえるユメの情けない悲鳴も、ホシノの訝しげな視線も、今はただノイズとして振り払いたかった
――しかし、その日を境に、セリカを襲う「世界の綻び」は、容赦のない速度で加速していった
ある朝のこと
枕元で鳴り響く安っぽい電子音に、泥のような眠りから無理やり意識を引きずり出されたセリカは、まだ現実と夢の境界線が曖昧なまま、重い腕を伸ばした
「……ふぁ……。そうだ……。アヤネちゃんも、起こさないと……」
それは、あまりにも自然な、体の一部となった習慣としての呟きだった。けれど、そこにあるはずの「未来の自分のスマートフォン」を探して泳いだ指先が、何もない虚空を切った瞬間、全身の血が逆流するような戦慄が彼女を襲う
「…………アヤネちゃん?」
震える指先が、空中で止まったまま動かない
(っ……また……、まただわ……)
必死に脳の奥底をかき回し、その名前の主に手を伸ばそうとする
眼鏡をかけた、理知的で、けれどアビドスを愛していた少女の横顔が、記憶の端にかすめる。しかし、その残像を掴もうとした瞬間に、水面に落ちた雫が波紋を広げるように、色彩も輪郭もすべてが霧散してしまった
そこにあったはずの、放課後の部室で交わした温かな体温の記憶が、ごっそりと抉り取られている。代わりに居座っているのは、正体の知れない、冷たく底知れない空白だけだった
またある日は、ユメと一緒にスーパーへ買い物に行った時のことだ
「セリカちゃん見て! このお茶、すっごく美味しいんだよ♪」
ユメが弾んだ声で差し出してきたペットボトルを見て、セリカは反射的に、自分でも驚くほど自然に顔を綻ばせた
「あ、知ってるわ、そのお茶! 確か……この煎餅がすごく合うのよね♪」
「そうなの!? セリカちゃん、よく知ってるね! さすがだなぁ♪」
感心したように目を輝かせるユメに応えるように、セリカは迷いなく棚へと手を伸ばし、特定の一袋を掴み取った
(そうよ。ノノミ先輩がこれ、お茶請けに最高だっておすすめしてくれたんだから……♪)
その瞬間、頭蓋の内側を直接ハンマーで叩き割られたような、凄まじい衝撃が走った
(……ノノミ先輩? ……誰よ、それ……っ!?)
鼓膜を突き破らんばかりの激しい耳鳴りと共に、視界がぐにゃりと歪む。タイル張りの床が波打ち、周囲の色彩が毒々しく混ざり合う
その名前を認識しようとするだけで、脳を直接かき回されるような、焼けるような鋭い痛みが走り、セリカは耐えきれずにその場に蹲った。カサリ、と乾いた音を立てて、手から滑り落ちた煎餅の袋が床を転がる
「セリカちゃん!? どうしたの、急に……顔色が真っ青だよ!」
「……っ、なんでも、ない……。気にしないで……」
いつものように勝気に、いつものように力強く突き放そうとした。けれど、声が掠れてうまく出ない。呼吸をしようとするたびに、肺の中に砂が入り込んだような息苦しさが胸を締め付ける
結局、その日は心配して駆け寄るユメをなんとか説得し、「連日のバイトで少し立ちくらみがしただけ」ということにした
ユメは不安げな表情を浮かべながらも、無理をしないようにと何度もセリカの背中をさすってくれた
断片的な忘却がもたらす鋭い痛み。それを反芻するたびに、セリカの体の芯からは、逃げ場のない得体の知れない恐怖がじわじわと這い上がってきた
それは、自分という存在の核を形作っていた、最も純粋で大切な中身が、目に見えない鋭利な刃によって一本、また一本と無残に引きちぎられていくような、おぞましい感覚だった
かつてはあんなに強固に自分を支えていたはずの記憶の糸が、乾いた音を立てて弾けていく。そのたびに、セリカの精神の拠り所は音を立てて崩落し、足元には暗く底の見えない深淵が広がっていくようだった
追い打ちをかけるように、ここ最近繰り返される「奇妙な夢」が、彼女の磨り減った精神を容赦なく削り取っていた
連日のアルバイトで泥のように疲れ切り、感覚が麻痺した体を古びたソファーに投げ出す。意識が闇に落ちると、決まってセリカは「あの場所」に立たされていた
そこは、窓の外を不吉な赤黒い砂嵐が支配する、アビドス高等学校の生徒会室だった。しかし、それは彼女が知っている、ユメ先輩の穏やかな空気に満ちた暖かい教室ではない。まるで数年もの間、誰にも顧みられることなく、絶望と埃の中に置き去りにされたかのような、寒々しく荒廃した空間
その教室の真ん中、淀んだ空気の底に、正体の知れない「黒い影」のようなものが蹲っていた。それは、聞く者の心臓を直接掻きむしるような、悲痛で、救いのない声で、ずっと、ずっとすすり泣いている
その哭き声は、セリカの魂の最も深い部分を震わせるほどに切実だった
「……ねえ、大丈夫?」
セリカが意を決し、震える足を前に出して声をかけようとした瞬間、世界はガラス細工のように無残に砕け散る。心臓を直接掴まれたような動悸と共に、彼女は現実へと無理やり引き戻されるのだ
目が覚めた後に残るのは、喉の奥に不快な澱のように張り付いたモヤモヤとした焦燥感と、世界に自分一人だけが取り残されたような、言いようのない孤独感だけだった。
「……そういえば……あの変な夢を見るようになってから、おかしな現象が続いてるのよね」
湿り気を帯びた空気の中、セリカは力なく、自分を繋ぎ止めるように独り言を呟いた。
あの眩い、永遠が続くかと思われた水族館の一日を境に、この悪夢は逃れられない影のように毎夜彼女を訪れるようになった。そして眠りにつくたび、心に空いた穴は修復不可能なほどに広がり、そこをヒタヒタと冷たい風が吹き抜けていくのを感じる。
「……私、どうしちゃったのかしら」
命に代えても忘れてはいけない、自分自身の根源に関わる大切な何かを、今この瞬間も失い続けている気がしてならない。けれど、どれほど必死に手を伸ばしても、指先をかすめるのは形のない空虚な風だけだ
この正体不明の不安、崩れゆく自分という存在の恐怖を、ようやく心を開いてくれたホシノや、いつも太陽のように明るく振る舞うユメに打ち明けることなど、到底できなかった。
(しっかりしないと……。私が崩れたら、この今の楽しい生活まで壊れちゃう。二人を守るためにも、私が強くならなきゃ……!)
自分を無理やり叱咤するように、きつく頭を抱え込んだその時だった
サイドテーブルに置かれた使い古された時計のアラームが、静寂を暴力的に切り裂くように鳴り響く
「あっ、いけない! 今日、朝からバイトだったんだ!」
弾かれたように飛び起きると、セリカは鏡に映る自分のやつれた顔を確かめる余裕もなく、湿り気を帯びて重くなった制服に無理やり袖を通す
窓を叩く激しい雨の滴が、まるで何かを警告するように、あるいは彼女を急かすように不規則なリズムを刻んでいた
セリカは、自分の内側で「何か」が修復不能なほどに壊れかけている予感を抱えたまま、冷たい雨に煙るどんよりとした灰色の空の下へと、逃げ出すように駆け出していった
どんよりと垂れ込めた鉛色の雲から、容赦なく雨粒が叩きつけられる。視界の悪い大雨の中、セリカは濡れた制服の重みを無視して、なんとか開店直後のアルバイト先へと滑り込んだ
開店から一時間が過ぎても、外の激しい雨音だけが店内に響き渡り、客足は完全に途絶えている。湿り気を帯びた店内の空気を、換気扇が回る音だけが掻き回していた
手持ち無沙汰に、もう何度も磨き上げたカウンターの木目をぼんやりと拭いていると、不意に店の重い木製の扉が、カランカランと乾いたベルの音を立てて勢いよく開いた
「やっほー! セリカちゃん! 遊びに来たよー!」
「……ふぅ。お疲れ様です。ちゃんとサボらずにやってますね、セリカ」
湿った外気と雨の匂い、そして微かな砂の香りを連れて飛び込んできたのは、見紛うことのない二つの影だった
一人は、雨の憂鬱を吹き飛ばすような、弾けるような満開の笑顔を浮かべたユメ。そしてもう一人は、傘を畳みながら少しだけ前髪を直しつつ、どこか心配そうに、けれど誤魔化すような平坦な視線を向けてくるホシノだ
「あ、二人とも! いらっしゃい!」
セリカの顔に、今日初めての心からの笑みが浮かんだ。朝から彼女を苛んでいた、あの底知れない忘却の恐怖や、胸を締め付けるような孤独感が、二人の姿を見た瞬間に一時的な凪へと変わる
彼女たちの存在そのものが、今のセリカにとっての唯一の支えだった。セリカは足取り軽くカウンターを飛び出すと、手際よく二人を店の奥にある馴染みのボックス席へと案内した
「二人とも、今日は何食べるの? この雨だし、温かいものがいいでしょ?」
注文を取るためにペンを構えたセリカに、ユメが待ってましたと言わんばかりに元気よく右手を挙げた
「それじゃあ、私は豚骨ラーメン! もちろん大盛りでお願い♪ あ、煮卵もトッピングしちゃおうかな!」
「……相変わらずね、ユメ先輩。そんなに細い体で、どこにそれだけの量が収まるっていうのよ。全然太る気配がないじゃない。一体その栄養、体のどこへ消えてるのかしら?」
セリカは呆れたように肩をすくめ、ジト目になってユメのしなやかで華奢なラインを見つめた
連日の書類仕事や砂漠の調査で動いているとはいえ、その食欲と体型の不一致は、セリカからすれば七不思議の一つに数えたいほどだ
「えへへー、私って食べても太らない体質なんだよねー♪ 神様からのプレゼントかな?」
ユメは得意げに、けれど嫌味のない様子でふんわりと胸を張った。すると、隣で卓上のメニューを無造作に眺めていたホシノが、半眼のまま、低く落ち着いたトーンで静かに口を開いた
「……セリカ。そんなもの、行き先は一つに決まってますよね」
ホシノの視線が、スッと、ユメの制服を押し上げている豊かな膨らみへと向けられた。無言の、けれど確信に満ちた指摘
「……なるほどね。……道理で私たちには回ってこないわけだわ。ちょっと、その偏った栄養、私が引きちぎって半分くらい分けてもらおうかしら?」
セリカが指先を蟹のようにワキワキと動かして、冗談めかして身構える。その真剣な(フリをした)表情に、ユメは顔を林檎のように真っ赤に染め上げ、慌てて自分の胸を抱え込むようにして身を縮めた
「ひぃん!? 二人とも酷いよぉ! 私のことは食べられないんだからね!?」
半泣きで頬を膨らませ、必死に抗議するユメの情けない姿。そのあまりにいつも通りなやり取りに、ホシノとセリカは思わず顔を見合わせ、堰を切ったように同時に吹き出した
店内に、三人の明るい笑い声が反響する。外で降り続く冷たい雨も、心の中に広がりかけていた暗い空洞も、この瞬間だけは遠い世界の出来事のように思えた
「くすっ……。それなら、私は塩ラーメンの大盛り、お願いします」
ホシノが少しだけ照れくさそうに、けれど確かな食欲を隠さずに注文を告げた。その様子を見て、ユメが待ってましたとばかりに身を乗り出す
「……ちょっと待って! 私にばっかり言うけど、ホシノちゃんだって結構な大食いよね? その栄養は一体どこに行ってるの!」
ユメのその言葉に誘われるように、セリカは改めてホシノの小柄な肢体をまじまじと観察した
「……そういえばそうね。身長も、胸も……。なんなら私より小さいじゃない。不思議よねぇ、あんなに食べてるのに」
「なっ!? 私だって、これから大きくなる予定なんですよ! それに、今だってセリカよりは……その、あるはずです!」
ホシノが顔を真っ赤にして、子供じみた意地を張るように反論する。いつもなら「はいはい、将来に期待ね」と軽く受け流し、笑い合って終わるはずの、なんてことのない放課後の景色
けれどその瞬間、セリカの視界がぐにゃりと歪み、脳内に暴力的なまでの鮮明さで「未知の記憶」が濁流となって流れ込んできた
(「もー! おじさんだって三年間でちっとも成長してないの気にしてるんだから、あんまり言わないでよー!」)
頭の中に響いたのは、目の前にいるホシノの声によく似ていた
けれど、それは今よりもずっと高く、どこか甘えるような、そして何より深い信頼に満ちたおっとりとした響き。視界の端を、今よりずっと髪の長い、見知らぬ姿の「ホシノ」の残像が光のように通り過ぎていく
(えっ……今の……誰……?)
セリカの思考は、物理的に停止した。指先から力が抜け、手に持っていた注文票がハラリと床に落ちる
「せ、セリカちゃん……? 急に黙り込んで、どうしたの?」
「ちょっ……、冗談ですよ、そんなに真顔にならないでください、セリカ?」
ユメとホシノの困惑した声が、まるで水底から聞こえるかのように遠のいていく
セリカはいつものように「なんでもないわよ!」と強気に笑い飛ばそうとした。けれど、口を開こうとした瞬間、喉の奥からせり上がってきた熱い塊に言葉を塞がれる
肺が引き攣り、呼吸が上擦る。それと同時に、頬を伝う「温かな不純物」の感触に、彼女は愕然とした
「セリカちゃん……!? なんで泣いて……」
「セリカ!? 大丈夫ですか、どこか痛むんですか!?」
二人の悲鳴に近い声。さらに、その異変を察した大将が店の奥から慌てて飛んできた
「どうしたどうした!? って、セリカ! お前、一体どうしたんだ!?」
大将は、立ち尽くしたまま大粒の涙を止めどなく零しているセリカを見て、言葉を失った
「な、なんでかしら……。別に、悲しくなんてないのに……。勝手に、涙が……」
セリカは狼狽し、何度も何度も制服の袖で目元を乱暴に拭った。けれど、決壊したダムのように溢れ出す涙は、拭えば拭うほどに熱を帯びて溢れてくる。胸の奥が、物理的に引き裂かれるかのように痛い
名前も思い出せない「誰か」と交わしたはずの、けれどこの世界には存在しない軽口。分かち合ったはずの、けれど経験していないはずの温かな季節。それらが、セリカの心を内側から激しく揺さぶり、悲鳴を上げていた
「……セリカ。今日はもういい。雨で客も来ねえし、もう上がれ。な、無理すんな」
大将が、痛ましいものを見るような慈愛に満ちた目で、セリカの震える肩を叩いた
「そんな! 私、まだ働けるわ、大丈夫よ!」
必死に食い下がろうとするセリカだったが、その言葉は涙に濡れて力なく霧散する。彼女の肩を、ユメが壊れ物を扱うように優しく抱き寄せた
「そうだよ、セリカちゃん。きっと、私たちが思っている以上に疲れが溜まってるんだよ。今日はもう、ゆっくり休もう? ね?」
「……そうです。無理をして倒れられたら、それこそ取り返しがつきません。今日は、私たちに甘えてください」
ホシノもまた、見たこともないような複雑で、痛みを分かち合うような切実な表情でセリカを見つめていた
「…………わ、分かったわ。……今日は、お言葉に甘えて……帰らせてもらうわね」
敗北を認めるように、セリカは力なく頷いた。裏に回って制服を脱ぐ間も、嗚咽は止まらず、心臓の動悸は激しさを増すばかりだった
店を出ると、ユメが自分の傘を広げて待っていた。「セリカちゃん、お家まで送っていくね」「しっかり休んでくださいね」という二人の言葉に、セリカはただ、消え入りそうな声で頷くことしかできなかった
激しい雨音に包まれ、世界から色彩が失われていく中、二人に支えられるようにして自宅へと辿り着く
玄関を入り、湿った空気を纏ったまま、セリカはいつも寝床にしている古びたソファーへと吸い込まれるように倒れ込んだ
(私……本当に、どうしちゃったのよ……)
重たい瞼を閉じると、意識の暗闇の向こう側に、またあの赤黒い空と、孤独にすすり泣く「影」の姿が浮かび上がる
自分を自分たらしめていた「未来」の断片が、指の間から砂のように零れ、永遠に失われていく。その圧倒的な喪失感と絶望に耐えきれず、セリカは逃げるように、深く、暗い眠りの底へと沈んでいった