セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話   作:気弱

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すれ違う思い、壊れていく日常

窓の外では、季節を急かすような冷たい雨が、容赦なく校舎の壁を叩き続けていた

 

叩きつけられる水滴の音は、まるで砂漠化に抗うアビドスの命脈を削り取る秒針のように、不規則で、それでいて執拗に室内に響いている

 

薄暗い生徒会室。セリカが朝からアルバイトへ向かい、教室には、逃げ場のない重苦しい沈黙が淀んでいた。かつては活気に満ちていたであろうこの場所も、今や砂に埋もれゆく学校の縮図のようだ

 

いつもなら、生徒会長であるユメの朗らかな笑い声が吹き抜け、それに対してホシノが、鋭くも信頼の籠もった軽口を飛ばすことで、埃の舞う午後の空気はわずかに和らいでいた

 

しかし、今日、二人の間を支配しているのは、そんな温かな交流ではない

 

肌にまとわりつく湿った空気と共に、じわじわと体温を奪っていくような、正体の知れない焦燥感だけがそこにあった

 

ホシノは、机の上に山積みにされた古い資料や、返済計画の並んだ書類に視線を落としていた。しかし、その瞳は文字を追ってはいない

 

ペンを握る指先は、時折思い出したように微かな震えを見せ、彼女の思考は、数週間前から日常の裏側に潜み始めた「違和感」という名の霧に完全に支配されていた

 

(……何かが、おかしい)

 

規律と責任感を重んじ、自らを「アビドスの盾」として厳しく律するホシノにとって、理解不能な事態が進行しているという予感は、何よりも彼女の精神を逆撫でしていた

 

その違和感の正体が、自分と同じ一年生であり、誰よりも前向きに学校のために奔走していたはずのセリカから発せられているという事実が、ホシノの胸の奥に冷たい楔を打ち込んでいた

 

始まりは、あの水族館での眩い一日から数日後のこと

 

降り注ぐ陽光と波光のきらめき、永遠が形を成したかのようなあの幸福な記憶の余韻が、まだ肌に微かに残っていた頃の話だ

 

買い出しのために商店街を三人で歩いていた時、一台のロードバイクが鋭い風を切って、彼女たちの目の前を通り過ぎた。金属的な駆動音とタイヤがアスファルトを噛む乾いた音

 

その、ありふれた街角のノイズが鼓膜を打った瞬間、セリカの足が、まるで見えない鎖に繋がれたかのようにピタリと止まった

 

(……セリカ?)

 

歩調を乱したセリカに、ホシノは違和感を覚えて足を止める。振り返った彼女の目に飛び込んできたのは、驚愕でも恐怖でもなく、ただ呆然と遠ざかるロードバイクの背中を見つめるセリカの、どこか虚ろな瞳だった

 

その瞳は、目の前の現実を映してはいなかった。意識の焦点がここではないどこか遠く――決して到達できない「彼方」に向けられているような、寒々しいまでの空白

 

何かを必死に思い出そうとしているようでもあり、あるいは、自分の魂の一部であったはずの大切な何かが、指の間から砂のように零れ落ちていくのをただ見送っているようでもあった

 

その時は、「連日のバイトで疲れているのだろう」と自分を納得させた。一日にいくつもの掛け持ちをこなし、不眠不休でアビドスの再興を願う彼女だ

 

アビドスの厳しい現状と、積み上がった借金の数字を考えれば、精神的な限界が来ても無理はない。そう理論づけ、そう思いたかった。

 

しかし、その日を境に、セリカを襲う「不安」は、もはや無視できないほどに顕著になっていった

 

一緒に街を歩いていても、セリカは不意に糸が切れた人形のように立ち止まるようになった。それは前触れもなく、前後の脈絡すら無視して唐突に訪れる

 

雑踏の中で肩が触れそうになった、眼鏡をかけた他校の生徒

 

冷たい風に揺れるショーウィンドウの片隅、場違いなほど鮮やかに飾られた青いマフラー

 

会計の際、レジ横のトレイに無造作に置かれた、どこにでもある一枚のクレジットカード

 

それら、日常の風景に溶け込んでいるはずの断片を目にした瞬間、セリカは激しい目眩に襲われたかのようにその場に釘付けになった。その瞳に宿るのは、知っているはずのない何かを「知っている」と脳が叫ぶような、どす黒い混乱だ

 

まるで、見知らぬ誰かの熾烈な記憶が無理やり彼女の意識の殻を破って流れ込み、平穏なはずの「今」という現実を激しく拒絶しているかのような、歪で痛々しい反応

 

「……セリカ、大丈夫ですか」

 

同じ一年生として、常に彼女の隣で歩調を合わせてきたホシノが、何度目かの問いかけを投げかける

 

その声には、平時を装いつつも隠しきれない鋭い懸念が混じっていた

 

しかしセリカは、何かに弾かれたように「なんでもないわよ!」と、いつもの気の強そうな口調を無理やり絞り出す。それは彼女なりの、崩壊しそうな自分を繋ぎ止めるための虚勢だった

 

だが、震える指先を隠すように、爪が食い込むほど強く握りしめられたその拳を、ホシノの鋭い観察眼が見逃すはずもなかった

 

(……疲れだけで、あんな顔をするはずがない)

 

ホシノの心の中で、確信に近い冷徹な思考が渦巻く

 

過労や睡眠不足という合理的な説明では、今のセリカの「怯え」を説明しきれない。セリカの心の中で、彼女を形作っていた大切な何かが、目に見えない巨大な力によって致命的に削り取られようとしている

 

そして、アビドスを共に守ると誓った対等な仲間がそんな極限状態に置かれているというのに、自分はその原因の尻尾すら掴めず、ただ隣で立ち止まることしかできない

 

その圧倒的な無力感が、窓を叩く雨音に混じって、ホシノの胸をじわじわと万力のように締め付けていた

 

同じ学年として、時には競い合い、時には支え合ってきたセリカが、自分を頼ってくれない。その事実に対する微かな、けれど深く刺さった寂しさ。そして、親愛なる友をそこまで追い詰めている正体不明の「何か」に対する、底知れない、本能的な恐怖

 

重苦しい空気の中、ホシノは手元のペンを置き、雨に煙る窓の外をじっと見つめていた。その視線の先にあるのは、単なる灰色に染まった空ではない

 

砂の海に沈みゆく校舎と同じように、音もなく、けれど確実に内側から崩れゆく自分たちの「日常」そのものを見つめていたのかもしれない

 

窓の外で降り続く雨は、刻一刻とその勢いを増していた。叩きつけられる水塊は、砂塵に削られた古い校舎の窓枠をガタガタと無遠慮に震わせ、室内の沈黙をいっそう不穏なものへと変質させていく

 

ホシノが思考の迷路、あるいは出口のない袋小路に深く沈み込んでいると、その重苦しい沈黙を破るようにユメがゆっくりと顔を上げた

 

いつもなら太陽のように周囲を照らす彼女の底抜けた明るさは、今や湿った空気の底に沈み、代わりに年長者としての、そしてこの学校を預かる生徒会長としての深い懸念が、その瞳の奥に濃く滲んでいた

 

「……ねえ、ホシノちゃん。やっぱり、最近のセリカちゃん、様子がおかしいよね?」

 

その問いは、ホシノにとって冷徹な事実を突きつけられる「図星」だった。ホシノは無意識に握りしめていたペンを、諦めるように机の上に置いた

 

乾いた音が室内で跳ねる。彼女は小さく、淀んだ空気を吐き出すように溜息を漏らした

 

「……ユメ先輩も、そう思いますか。……私の気のせいだ、過労による一時的な混乱だと、そう片付けられればどれほど良かったでしょうか」

 

「あんなに上の空で、どこか遠くを見ているようなセリカちゃん、初めて見たよ。何か、私たちがどうしても気づけないところで、セリカちゃんにしか見えない、すごく辛いことに直面してるんじゃないかな……」

 

ユメの言葉に、ホシノは胸の奥を鋭利な針で刺されたような感覚を覚えた

 

真面目すぎるがゆえに、そして同じ一年生として肩を並べて歩いてきたはずの相手を「何も分からない」という現状。把握不能な事態が進行していることへの根源的な恐怖が、常に影のようにホシノの精神に付きまとっていた

 

「今日は朝からバイトの日だよね? 外はこんな雨だし、お店もきっと暇そうだよ……。ちょっと様子を見に行ってみない? 私、なんだか胸が騒いで、ここに座っていられなくて…」

 

ユメが椅子から立ち上がり、不安を紛らわせるように自分の腕を抱きしめる。その提案に、ホシノは感情を押し殺したまま短く頷いた

 

「……そうですね。憶測だけで不安を肥大させるのは非効率です。現場へ向かい、セリカの状態を正確に把握しておく必要があります。行きましょう、先輩」

 

ホシノは事務的な口調でそう答え、冷え切った机を後にして雨具を手に取った。二人は重い扉を開け、荒れ狂う雨の中へと静かに踏み出した

 

傘に叩きつけられる衝撃が、これから目にする「綻び」の予兆であるかのように、彼女たちの肩を重く沈ませていた

 

一本の大きな傘の下、叩きつけるような雨音に包まれながら水飛沫を上げて歩く道のり

 

隣で「濡れちゃうね、ホシノちゃん」と困ったように、けれどどこか呑気に笑うユメとは対照的に、ホシノの思考はどこまでも鋭く、そして深い闇の底へと沈んでいた

 

(……ただの過労や寝不足で、あんな反応をするはずがない。特定の「物」を見た瞬間に見せる、あの魂が凍りついたような拒絶反応。まるで、自分でも気づいていないほど大切な何かを、無理やり思い出させられそうになっているような……)

 

考えれば考えるほど、ホシノが信奉する「合理性」という物差しからは答えが遠ざかっていく

 

ホシノは傘の柄を握る手に、白くなるほど力を込めた。自分たちの感知し得ない「何か」が、今この瞬間も、砂に埋もれゆくアビドスの日常を内側から蝕んでいる。その正体不明の侵食に対する堪え難い焦燥が、彼女の胸を焼いていた

 

やがて、灰色に煙る商店街に、見慣れた「柴関ラーメン」の看板が、雨に濡れてぼんやりと灯っているのが見えてきた

 

重い引き戸を横に滑らせると、湿った冷たい空気と共に、食欲をそそる煮干しと醤油の香ばしい匂いが二人を包み込んだ

 

カウンターの向こう側、客の途絶えた店内で手持ち無沙汰に布巾を動かしていたセリカが、二人の姿を認めた瞬間に驚いたように目を見開く。

 

「あ、二人とも! いらっしゃい! こんな大雨の中、一体どうしたのよ?」

 

その顔には、先ほどまでホシノが懸念していたような陰りなど一点もなかった。そこにあるのは、いつも通り勝気で、見ているこちらまで背筋が伸びるような、太陽のように眩い笑顔だった

 

「やっほー、セリカちゃん! 遊びに来ちゃった♪」

 

ユメが弾んだ声で応え、いつもの定位置へと腰を下ろす。ホシノはその隣に座りながら、セリカの表情の細部、瞳の僅かな揺らぎ、声のトーンや言葉の端々に至るまで、執拗なまでの注意深さで観察を続けた

 

しかし、そこには生徒会室で案じていた「不安」など、微塵も感じられない。ただそこにいるのは、連日の激務で多少の疲れは見え隠れするものの、元気いっぱいに立ち働く、かけがえのないセリカの姿だった

 

(…………。やっぱり、私の考えすぎだったのでしょうか)

 

極限まで張り詰めていたホシノの心の糸が、ふっと僅かに緩む

 

あんな不気味で非論理的な現象、きっと過酷な現実が見せた一時の幻覚か、あるいは神経過敏が生んだ思い込みに過ぎなかったのだ

 

そう自分に言い聞かせ、無理やり結論づけたホシノは、ようやく胸の奥に溜まっていた重い空気を吐き出し、安堵の息を漏らした

 

「それじゃあ、私は豚骨ラーメンの大盛り! 煮卵もトッピングしちゃおうかな、セリカちゃん、お願いね!」

 

「はいはい、わかったわよ。ホシノちゃんも食べるでしょ? 注文、決まった?」

 

「……。ええ、私も塩をお願いします。もちろん、大盛りで」

 

立ち上る真っ白な湯気の向こう側で、いつものように騒がしく、いつものように温かな会話が編まれていく

 

セリカの威勢のいい返事と、ユメの能天気で包み込むような笑い声。外で荒れ狂う雨音さえも遠ざけるようなその団欒の熱気に、ホシノは自分の中に棘のように突き刺さっていた不安が、ゆっくりと形を失い、溶けていくのを感じていた

 

この安らぎが、あまりにも脆い砂上の楼閣であることにも気づかずに

 

「……そういえばそうね。身長も、胸も……。なんなら私より小さいじゃない。不思議よねぇ、あんなに食べてるのに」

 

湯気の向こう側で、セリカがいつものように小生意気な口調で軽口を叩く

 

ユメ先輩の豊かな肢体を羨むような、それでいてどこか微笑ましいやり取りの矛先が自分に向き、ホシノは反射的に熱くなった頬を膨らませて応戦した

 

「なっ!? 私だって、これから大きくなる予定なんですよ! それに、今だってセリカよりは……その、あるはずです!」

 

同い年の意地を張るような、子供じみた反論

 

いつもならここで、セリカから「往生際が悪いわよ」だとか「現実を見なさいよ、このチビすけ!」といった、容赦のない追い打ちの言葉が飛んでくるはずだった。その軽快で、少しだけ騒がしいやり取りこそが、ホシノがこの砂に埋もれゆく世界で必死に守りたかった、何物にも代えがたい「日常」の音色

 

けれど、返ってきたのは沈黙だった

 

カサリ、という乾いた音を立てて、セリカの指の間から注文表が滑り落ちる

 

店内の換気扇が回る音だけが異様に大きく響く中、床に落ちた紙切れが、不自然なほどゆっくりと回転しながら静止する

 

「……セリカ?」

 

怪訝に思ったホシノが顔を上げると、そこには、時が止まったかのように立ち尽くすセリカの姿があった

 

表情は、先ほどまでの小生意気な笑みを微かに残したまま、仮面のように凍りついている。けれど、その大きく見開かれた瞳からは、大粒の涙が、本人の意志を完全に裏切るように次から次へと溢れ出し、顎のラインを伝って床へと滴っていた

 

「セリカ、ちゃん……?」

 

「……セリカ!? どうしたんですか、急に! どこか、具合でも悪いんですか!?」

 

ホシノの心臓が、警鐘を鳴らすように激しく脈打つ。悲鳴も、嗚咽もない。ただ、器から溢れ出す水のように感情が漏れ出し、静かに、けれど絶望的な勢いで頬を伝う涙。その、あまりにも不条理で悲痛な光景は、先ほどまで「考えすぎだった」と安堵していたホシノの心を、鋭利な刃物で一気に切り裂いた

 

「な、なんでかしら……。別に、悲しくなんてないのに……。勝手に、涙が……」

 

狼狽しながら袖で目を拭うセリカの姿を見て、店の大将も奥から慌てて飛んできた。外で降り続く雨が、まるで彼女の心の内を代弁するように激しさを増していく

 

結局、ラーメンを口にすることさえ叶わぬまま店を出て、降りしきる雨の中をセリカの自宅へと向かう間、三人の間に意味のある言葉は一つもなかった。一本の傘の下、三人の距離はかつてないほど近いのに、その心の間には底の見えない断絶が横たわっている

 

ホシノは、震えるセリカの肩を支えながら、喉まで出かかった「何があったのか話してほしい」という問いかけを、血が滲むほど唇を噛んで飲み込み続けた

 

今は何を言っても、彼女の中に渦巻く正体不明の嵐を加速させるだけだと、ホシノの理性が冷徹に告げていたからだ。雨粒が傘を叩く無機質な音だけが、彼女たちの沈黙を無情に埋め尽くしている

 

ホシノは、隣を歩くセリカの小刻みに震える肩を支えながら、喉元までせり上がった無数の問いかけを必死に飲み込み続けていた

 

(……何があったのか、話してください。私にできることなら、なんだってするから。代われるものなら、その痛みを私が引き受けるから)

 

雨音に紛れてそう叫びたかった。だが、今のセリカは、ほんの少し指先で触れただけで粉々に砕け散ってしまう薄氷のような危うさを纏っている。一足飛びに核心へ踏み込むことは、救いではなく、彼女をさらに追い詰める凶器になりかねない

 

彼女自身の口からその苦しみが言葉として紡がれるまでは、自分から無理にこじ開けてはいけない。規律を重んじ、何事にも真面目であろうとするホシノの理性が、己の激情を冷徹に縛り付けていた。彼女にできるのは、ただ重い沈黙の中で傘を差し出し、冷たい雨からセリカを守ることだけだった

 

しかし、無情にもセリカの家の玄関に辿り着くまで、彼女が重い口を開くことは一度もなかった

 

雨に濡れたアスファルトを叩く靴音だけが、虚しく響き続ける

 

「……今日は、もう、ゆっくり休んでください。……明日、また学校で」

 

ホシノが絞り出すように告げた言葉に、セリカは視線を一度も上げることなく、消え入りそうな動作で小さく頷くことしかできなかった。その拒絶にも似た沈黙が、ホシノの胸を鋭く抉る

 

ギィ、と錆びついたような重い音を立てて扉が開く

 

セリカの背中が、外の雨空よりもなお深い室内の暗がりに吸い込まれていく。パタン、と無機質な乾いた音を立てて扉が閉まった。その音は、まるで二人の間にあったはずの絆を断ち切る宣告のように、冷たく響いた

 

その瞬間、ホシノの胸の中に、冷たくてどす黒い感情が澱のように溜まっていく

 

(……なんで。どうして、そこまでボロボロで、死にそうな顔をしているのに……私たちを、私を頼ってくれないんですか、セリカ)

 

周囲を白く塗りつぶす激しい雨音が、ホシノの耳の奥で嘲笑うかのように鳴り響く

 

私たちは、単なるクラスメイトじゃなかったはずだ。共に砂に埋もれゆく学校を背負い、過酷な運命に立ち向かう唯一無二の共同体

 

自分たちは誰よりも強い絆で結ばれている――そう信じて疑わなかった自負が、音を立てて崩れていく

 

セリカが独りで抱え込んでいる絶望の深さを思い知らされるたび、ホシノは自分たちが積み上げてきたはずの時間が、あまりにも脆弱で、形だけの上辺なものだったのではないかという錯覚に陥った

 

(私たちは……私は、あなたにとって、弱みを見せることすらできない、頼るに値しない程度の存在だったんですか……?)

 

雨に濡れた拳が、怒りと悲しみ、そしてやり場のない悔しさで微かに震える

 

信じていた絆への疑念。そして何より、手を伸ばせば届く距離にいる友の心に触れることすらできない自分自身の圧倒的な無力さ

 

激しく降りしきる雨に打たれ続けながら、ホシノは閉ざされた扉をいつまでも、いつまでも睨みつけていた

 

その瞳に宿る光は、純粋な心配から、やがて「自分が何とかしなければ、この日常は終わってしまう」という、悲痛なまでの強迫観念へと変質していった

 

セリカの自宅から駅へと続く帰り道、叩きつけるような雨粒がアスファルトを執拗に打ち据え、世界を白く塗り潰していた

 

傘に当たる重い雨音だけが周囲を支配し、隣を歩くユメとの間に、今までに感じたことのない、刺々しい沈黙の壁が立ちはだかっていた

 

さきほどまでラーメン屋の湯気の向こうで、三人で笑い合っていたはずの時間が、まるでもう何年も昔の出来事のように遠く感じられる。

 

「……セリカちゃん。なんだか、すごく無理をしてるよね」

 

不意に、ユメがその沈黙を切り裂いた。湿り気を帯びたその声には、年長者としての責任感と、愛する後輩を救えないことへの痛切な悲しみが混ざり合っている

 

「…………そう、ですね」

 

ホシノは、胃の底から石を吐き出すような重苦しさで、なんとかそれだけを答えた。視線は足元の濁った水溜まりに固定されたままだ

 

今のホシノにとって、ユメの放つ純粋な「心配」の言葉は、自分の無力さを鏡越しに突きつけられているような、耐え難い苦痛でしかなかった

 

(分かってます。そんなこと、私が一番……誰よりも近くにいた私が、分かっていなきゃいけなかったのに)

 

思考が焦燥という名の毒に侵されていく

 

なぜ、セリカはあんな風に泣いていたのか

 

なぜ、あんなにもボロボロになるまで、同じ一年生の自分にすら縋ってくれないのか

 

規律を重んじ、完璧な「アビドスの盾」であろうとする今のホシノにとって、セリカが抱える「打ち明けられない秘密」は、自分という存在そのものへの拒絶に等しかった

 

「私たちは信じ合っている」という強固な自負が、セリカの沈黙によって足元からガラガラと音を立てて崩れ去っていく

 

そんなホシノの心のささくれを察してか、ユメが努めて明るい、いつもの弾んだ声を絞り出した

 

「そうだ……! きっと、何か楽しいことがあれば、セリカちゃんの気持ちも変わるよね……! ほら、暗いことばかり考えてると、心まで砂に埋もれちゃうもん。元気になれるようなこと、一緒に探そうよ、ホシノちゃん!」

 

普段のホシノであれば、これがユメなりの精一杯の空元気であり、自分たちを勇気づけようとする献身的な配慮であることに即座に気づいたはずだ。ユメ先輩だって、自分と同じように限界に近い不安を抱えながら、それでも「先輩」として振る舞おうとしているのだと

 

しかし、今のホシノには、その優しさが「現実の泥沼から目を逸らす無責任な楽観」にしか聞こえなかった

 

自分たちを頼らずに独りで壊れようとしている同級生と、この土壇場になってもなお「楽しいこと」などという、実体のない夢物語を語る先輩

 

世界が自分一人を置いて、別の場所へ流れていくような、耐え難い孤独感と焦りが、彼女の理性という堤防を決壊させた

 

「……ユメ先輩。そうやって、いつまでもフワフワしたことばかり言っているから……ダメなんですよ」

 

「ホシノ…ちゃん?」

 

冷たく、鋭利な言葉が口を突いて出た

 

言った瞬間、ホシノ自身も自分の放った言葉の棘に、心臓を貫かれたような衝撃を受けた

 

「っ……あ、す、すみません……。今のは、その、口が滑りました……」

 

ユメの顔が見れなかった。隣で絶句しているであろう先輩の表情を想像するだけで、視界が歪む

 

今の自分は、大切な人を守るための「盾」ではなく、ただの醜い「刃」になり果てている。その吐き気がするほどの自己嫌悪に耐えきれず、ホシノは言い訳を重ねることも、謝罪を待つこともできなかった

 

「その……わ、私の家はこちらなので。……失礼します。また、明日」

 

ユメが何かを言いかけるよりも早く、ホシノは傘を深く差し直し、逃げるような足取りで雨の帳へと消えていった

 

雨の帳の中に消えていくホシノの背中を、ユメはただ黙って見送ることしかできなかった。いつもならすぐに追いついて、冗談を言いながらその肩を抱き寄せることができたはずなのに、今のホシノが放った言葉の鋭さは、二人の間に取り返しのつかない亀裂が走り始めたことを物語っていた

 

「ホシノちゃんまで……余裕がなくなっちゃってる……」

 

ポツリと漏らした独り言は、激しい雨音に容易くかき消される

 

理由のわからない涙を流し、何かに怯えながら殻に閉じこもってしまったセリカ。そして、そんな友を救えない自分への無力感から、鋭い刃となって周囲を拒絶し始めたホシノ

 

アビドスの未来を共に担うはずの、大切で、かけがえのない二人の後輩が、自分一人の手には負えないほど深い闇の淵へと飲み込まれようとしている

 

ユメは、雨水を含んで額に冷たく張り付いた前髪を、震える手で無造作に払いのけた。そして、重く垂れ込めた灰色の雨空を真正面から見上げた

 

その瞳からは、いつものおっとりとした柔らかい光が消えていた

 

代わりに宿ったのは、吹き荒れる嵐の中でも決して消えることのない、アビドス生徒会長としての、静かで、それでいて激しく燃えるような執念に近い覚悟だった

 

「私が……なんとかしないと。……私が、二人の先輩なんだから……!」

 

自分は無力かもしれない。ホシノのように冷静でも、セリカのように器用でもない。けれど、この崩壊しそうな「家族」を繋ぎ止めることができるのは、今この場所に立っている自分しかいないのだ

 

ユメは、元来た道――自分の温かい家へと続く道に背を向ける。そして、暗闇の中で怪物のように佇む、砂に埋もれかけた学校の方角へと、泥水を跳ね上げながら力強く一歩を踏み出した

 

(何か……何かあるはず。あの子たちの心をもう一度繋ぎ止めて、あの眩しい笑顔を取り戻せるような「何か」が、あの部室には、学校には残っているはず……!)

 

確証など何一つなかった。それでもユメは、止まない雨の中を走り出した

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