セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話   作:気弱

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帰ってきたセリカ

意識の端が白く爆ぜ、視界を埋め尽くしていた光の粒子が、潮が引くようにゆっくりと凪いでいく

 

セリカは、抗いようのない眠気に似た心地よい浮遊感の中で、最後に見たあの光景を必死に追いかけた

 

「セリカ」と自分を呼ぶ「16歳のホシノ」の震える泣き顔、そしてすべてを包み込むような、慈愛に満ちたユメの温かな眼差し。それらが記憶の彼方へ零れ落ちてしまわないよう、祈るような心地で強く、強く瞼の裏に焼き付ける

 

(バイバイ、ホシノちゃん。ユメ先輩。……いつか、いつか必ず。私たちが約束した、あの未来で)

 

魂の叫びにも似た願いを胸に、鉛のように重い瞼をゆっくりと押し上げる

 

しかし、網膜を叩いたのは、先ほどまで彼女の輪郭を優しく縁取っていた黄金色の夕日ではなかった

 

そこに広がっていたのは、深い海底に沈殿したかのような、濃密で、それでいてひどく無機質な闇だった

 

「……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!!」

 

肺に流れ込む空気の質感が、劇的に変化したことに気づく

 

先ほどまでの、喉を焼くような熱を帯びた砂の匂いではない。鼻腔をくすぐるのは、長い年月をかけて積もった微かな埃と、湿り気を帯びた古い紙の匂い

 

セリカは心臓の鼓動を耳元で聞きながら、慌てて自分の体を見下ろした

 

指先に馴染んでいたライフルの重厚な冷たさも、凛としたアビドスの制服の感触も、どこにもない。そこにあるのは、学校の怪談調査という名のお泊まり会の夜、確かに袖を通していた、着慣れたパジャマの柔らかな布地だけだった

 

「戻って……きたのね。私の……私の居るべき世界に」

 

震える声が、静まり返った室内で虚しく反響した

 

そこは、セリカがよく知っている「今の」アビドス高等学校・生徒会室だった

 

つい数日前まで、自分と、ユメと、ホシノが賑やかに言葉を交わし、時にぶつかり合い、そして最後には肩を寄せ合って笑っていた場所

 

あの熱気、あの光、あの絆が、まるで何年も前の出来事であったかのように、部屋全体が深い沈黙に沈み、主を失い、動くことのない時計が壁に掛かったままの、ただの遺構へと成り果てていた

 

今のホシノが、思い出を守るように毎日欠かさず掃除をしているおかげで、荒れ果てた惨状ではない

 

だが、それでも人の出入りが途絶えた部屋の隅々には、抗いようのない時間の重みが薄い埃の層となって、粉雪のようにしんしんと降り積もっている

 

セリカは、現実感を喪失したふらつく足取りで、ゆっくりと部屋の中央へと歩み寄った

 

三人が顔を突き合わせて座り、アビドスの未来や、今晩の夕飯の献立や、どうしようもない借金の話をしていた大きな会議机

 

その表面に、恐る恐る指先で触れる

 

指先に伝わってきたのは、期待していた人肌の温もりではなく、心まで凍てつかせるような石の冷たさと、指の腹を白く汚す無情な埃の感触だった

 

(……ホシノちゃん…ユメ先輩)

 

胸の奥が、鋭い刃でえぐられたようにぎゅっと締め付けられた

 

ほんの数日前まで、ここには確かに命の火が灯っていた。未熟で、青臭くて、けれど誰よりも熱い意志が、喧嘩をして、笑って、共に泣いたあの時間が、この空間を支配していたはずなのに

 

今はもう、自分の指先を汚す冷たい埃だけが、流れた年月のあまりの長さを、そして彼女たちがもうここにはいないという事実を、残酷なほど克明に物語っている

 

セリカは力なく膝をつき、かつての「特等席」だった机を、壊れ物に触れるような手つきで愛おしそうに撫でた

 

無意識に引いた指が、埃の中に一本の筋を描く。その跡は、まるで消えてしまったあの日の幻影を、手の届かない過去を必死に追いかけているかのようで、余計にセリカの喪失感を煽った

 

「……寂しいじゃない。こんなの、ズルいわよ」

 

暗闇の中で、セリカの震える呟きは誰に届くこともなく、ただ夜の闇に溶けていった

 

命を懸けて戦い、時を超えて共有したあの熱い約束。あの涙。あの誓い

 

それを覚えているのは、もうこの世界で、自分ただ一人だけになってしまったのではないか

 

あの瞬間のすべてが、自分一人の脳が見せた残酷な白昼夢に過ぎなかったのではないか

 

そんな形のない孤独感が、冷たい生徒会室の静寂と共に、彼女の華奢な肩をどこまでも重く、冷たく包み込んでいった

 

静寂に支配されていたはずの廊下の向こうから、床を激しく叩くドタドタという無作法な足音が近づいてくる

 

一瞬、ヘルメット団の残党か、あるいはこの平穏を切り裂く新たな侵入者なのかと考え、セリカは反射的に身構えた

 

腰に手をやり、そこにあるはずのライフルの感触を探す。しかし、指先が触れたのはパジャマの柔らかな布地だけで、そのあまりの心細さに心臓が跳ねた

 

だが、その直後に響いた荒い吐息と聞き慣れた気配が、彼女の警戒を即座に打ち破った

 

「ん……セリカ。見つけた」

 

勢いよく扉が開くと同時に、肩で息をするシロコが姿を現した

 

暗闇の中でも鋭く光る瞳がセリカを捉え、その背後からは、心配そうに眉を下げたノノミ、そして泣き出しそうな顔で眼鏡を直すアヤネ、最後尾には安堵の表情を隠しきれない先生が続いていた

 

シロコは背後にいるアヤネ本人へ向けて、獲物を仕留めたハンターのような鋭さを残しつつ、それでいてどこか「じとっ」とした非難の色の混じった視線をセリカに固定したまま告げた

 

「アヤネ、セリカいたよ。……生徒会室。無傷」

 

「え、えええっ!? お、可笑しいですよ! さっきまでそこ、隅から隅まで何度も確認したのに……誰も、影も形もなかったのに……!」

 

アヤネの混乱しきった声が、静まり返った生徒会室にひびき渡る。アヤネは幽霊でも見たかのようにオロオロと室内を見渡し、その横でノノミが口元に手を当てて、いつものように茶目っ気たっぷりにニヤニヤと笑った。

 

「うふふ、アヤネちゃん。暗かったから、怖くて寝ぼけて見間違えたんじゃないですか〜?」

 

「もう、ノノミ先輩! 私は、私は本当に必死だったんですから! セリカちゃんが神隠しに遭ったんじゃないかって!」

 

「ん……私たちは、叩き起され損……。でも、よかった」

 

シロコが短く息を吐き出す。そして、一同の真ん中で先生が穏やかな声を響かせた

 

その言葉は、まるで魔法のようにセリカの強張っていた肩をゆっくりと解きほぐしていった。

 

「まぁ、何はともあれ無事で良かったよ。本当に心配したんだからね、セリカ。怪我はないかい?」

 

(……ああ。やっぱり、ちゃんと戻ってこれたみたいね。私の、いつもの居場所に)

 

パジャマの袖を指先で少しだけ強く握りしめる

 

ついさっきまで頬を打っていた熱い砂嵐の感触も、耳を聾するような銃声も、そして何より――あの「16歳のホシノ」の、壊れそうなほど震えていた腕の確かな温もりも

 

すべてがこの穏やかで、少しだけマヌケな日常の空気の中に溶けて、手の届かない淡い幻影へと変わっていく

 

セリカは胸の奥から溢れ出しそうな、泣き出したいほどの安堵をぐっと喉の奥に押し込んだ。そして、動揺を悟られないよう努めてぶっきらぼうに、いつもの「勝気なセリカ」を演じるように首を傾げてみせた

 

「な、何よみんなして……。藪から棒に集まってきて、一体どうしたのよ?」

 

セリカはわざとらしく眉を吊り上げ、いつもの調子で問い返した。しかし、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、怒気を含んだ鋭い叫びが部屋に響き渡った

 

「それはこっちのセリフですよ!!」

 

「っ……!? ア、アヤネちゃん?」

 

怒髪天を突く勢いで扉の影から飛び出してきたアヤネに、セリカは思わず後ずさった

 

アヤネの眼鏡の奥の瞳は、不安と怒りが混じり合って涙目になっている。その小さな肩を震わせながら、彼女は必死の形相でセリカに詰め寄った

 

「変な音がするから一人で調査してくるなんて勝手なこと言って……! 私だって、すっごく怖かったけど、精一杯の勇気を出してついていったんですよ!? なのに、ほんの一瞬、私がライトの向きを変えた隙に、まるで神隠しにでもあったみたいにセリカちゃんがいなくなっちゃって……! 呼んでも探しても返事はなくて、私、生きた心地がしなかったんだから!! 慌ててみんなを起こしに行くのがどれだけ大変だったか分かってますか!?」

 

アヤネの必死な抗議が、洪水のようにセリカに浴びせられる

 

その後ろでは、シロコが「ん、一理ある」と頷き、先生がなだめるようにアヤネの肩に手を置いている

 

セリカは「ごめん、本当にごめんってば……」と、縮こまりながら苦笑いするしかなかった

 

アヤネたちの時間は、セリカがいなくなった数秒間を懸命に埋めようとしていたのだ

 

セリカにとっては、あの砂塵の中で過ぎ去った数ヶ月にも及ぶ濃密な日々。ユメ先輩と笑い、若き日のホシノと背中を預け合って戦ったあの永遠のような時間は、この平穏な世界では、アヤネが視線を外したわずか数瞬の出来事でしかなかった

 

その落差に、言いようのない眩暈がセリカを襲う

 

「ほら〜、だからおじさんが言ったでしょ〜? セリカちゃんはしっかり者なんだから、こんなところで迷子になんてならないって。……ふわぁ〜あ」

 

緊張感の欠片もない、のんびりとした欠伸まじりの声

 

ホシノが、重たそうな瞼をこすりながら列の前にのろのろと進み出た。寝癖を揺らし、いつものように覇気のない足取り

 

平和を絵に描いたようなその姿、その声――

 

それを認識した瞬間、セリカの中で張り詰めていた最後の一本の糸が、音を立てて弾け飛んだ

 

「――っ!」

 

セリカは言葉を投げ返すよりも早く、弾かれたような勢いで床を蹴った。驚愕に目を見開くシロコや、言葉を失う先生の視線を突き抜け、最短距離でホシノの懐へと突撃するように飛び込む

 

「ぐえっ!? ちょ、ちょっとセリカちゃん!? どうしたのさ〜!」

 

真正面から衝突に近い勢いで抱きつかれ、ホシノはあられもない声を上げ、耐えきれずに数歩よろめいた

 

小柄な彼女の体が、セリカの必死な力に押されて壁際まで追いやられる

 

アヤネが「せ、セリカちゃん!? いきなり一体どうしたんですか!?」と困惑の叫びを上げ、ノノミもさすがにニヤニヤとした笑みを消して、心配そうに眉を寄せた

 

「ホシノちゃ……」

 

砂に塗れた倉庫で、泥だらけの拳を握りしめ、自分を求めて泣き叫んでいたあの少女

 

共に朝日を見た「ホシノちゃん」の名前を呼びそうになり、セリカは喉元まで出かかった言葉を必死に噛み殺した

 

今、自分の腕の中にいるのは、先程まで居たホシノではない

 

「……ううん。ホシノ、先輩……。ホシノ先輩だぁ……っ」

 

名前を言い直すと同時に、決壊したダムのように熱い涙が溢れ出した。パジャマの胸元が、ホシノの肩が、瞬く間にセリカの涙でぐっしょりと濡れていく

 

折れんばかりの力でその背中に腕を回し、セリカはなりふり構わず、子供のように声を上げて泣きじゃくった

 

伝わってくる鼓動の速さも、包み込んでくれるような温かさも、あの日感じたものと同じだ

 

あの冷たくて、無機質な埃を被っていた動かない机ではない

 

セリカが誰よりも信頼し、守りたいと願っている「ホシノ先輩」が、今、確かに自分の腕の中で、困惑したように息を吐いている

 

その確かな実感が、セリカの凍てついていた孤独な心を、ゆっくりと溶かしていった

 

「……どうしちゃったの? もしかして、おじさんがいない間に本当に怖いお化けでも出たとか……?」

 

冗談めかそうとしたホシノの声が、微かに揺れた。いつもの飄々とした仮面の下から、隠しきれない困惑と、心底からの心配が漏れ出す

 

ホシノは戸惑いながらも、縋り付いてくるセリカの小さな背中に手を回し、ゆっくりとその頭を撫で始めた

 

(……今、セリカちゃん。おじさんのことを「ホシノちゃん」って、言いかけたよね……?)

 

その響き

 

今の対策委員会のセリカなら、天地がひっくり返っても口にしないはずの呼び方

 

(……もしかして……セリカちゃん、君は……)

 

ある仮説がホシノの脳裏をかすめ、瞳が驚愕に細められる。けれど、ホシノはすぐに小さく首を振り、それ以上踏み込むことを自ら禁じた。

 

(……いや、今は考えないでおこう。おじさんの悪い癖だ)

 

たとえ彼女がどこで何を見てきたとしても、今この腕の中で、折れそうなほど必死に泣いている彼女が「セリカちゃん」であることに変わりはない

 

ホシノは沸き上がった疑問を心の最も深い場所へと押し戻すと、慈しむように目を細めた

 

一切の追及をせず、ただ幼子をあやすような、どこまでも優しい手つきでセリカの髪を撫で続ける

 

「よしよし。よしよし……。セリカちゃん、よっぽど怖い夢でも見たんだね。大丈夫だよ、おじさんはここにいるよ。みんなも、先生も……ちゃんとここにいるからね」

 

その掌の温かさは、皮肉にもあの倉庫で、セリカが「16歳のホシノ」の頭を撫でた時のものと、驚くほど似ていた

 

自分だけが覚えているはずの、誰とも共有できない孤独な記憶。それが、この何も知らないはずのホシノの掌を通じて、静かに肯定されていく

 

セリカは、その温もりこそがこの世界で唯一の真実であるかのように、さらに強く、ホシノの胸に顔を埋めて縋りついた

 

しばらくして、ホシノの腕の中で子供のように泣きじゃくっていたセリカも、ようやく熱を冷ますように落ち着きを取り戻す

 

一行は連れ立って、いつもの対策委員会の教室へと移動することになった

 

暗い廊下を歩く間、ホシノはさりげなくセリカの隣を歩き、時折その様子を窺うように視線を送っていた

 

教室の明かりが点き、ノノミが手際よく淹れてくれた温かいお茶が配られる

 

セリカは、先ほどまでの醜態――あんなに必死にホシノに縋り付いた自分を思い出し、耳の先までリンゴのように赤くしながら、湯呑みを両手で固く握りしめた

 

(本当のことを言ったところで、信じてもらえるはずがないわよね……。二年前のアビドスに飛ばされて、尖っていた頃のホシノ先輩や、あのユメ先輩と一緒に過ごしたなんて。そんなの、当事者の私だって、まだ狐につままれたような気分なんだから……)

 

セリカは逡巡した末、体験した出来事の核心――ユメの存在や過去のホシノとの交流については胸の奥にしまい込み、断片的な事実だけを言葉にして紡ぎ出した

 

「……あのね、アヤネちゃんと一緒にいた時、変な泣き声みたいなのが聞こえた気がして。気になって一人で生徒会室に入ったの。そしたら、そこに見たこともない『黒い影』みたいな、霞のようなものが揺らめいていて……。それに触れた瞬間、視界が真っ白になって、気づいたら、全然知らない場所に飛ばされてたのよ」

 

「ん、夢でも見てたんじゃないの?」

 

シロコがじっと、嘘を見逃さないような鋭い目でセリカの顔を覗き込みながら、疑わしげに呟く

 

「最近、バイトのシフトも詰め込んでたし。……睡眠不足による、一時的な解離症状……とか」

 

「ううん、夢なんかじゃないわ! 肌を刺すような風の匂いも、喉の渇きも……それに、あいつらと戦った時の怪我の痛みも、全部リアルだったもの。多分、あれは間違いなく現実だったわ」

 

セリカは必死に言い張りながら、パジャマの袖を捲り、自分の腕に残る微かな擦り傷をさすった

 

それはあの過酷な砂漠で、ヘルメット団の銃撃を潜り抜けた際に負った、消えることのない「証拠」のはずだった

 

しかし、その説明を聞いたアヤネは、手元の端末で「学校の怪談リスト」をめくりながら、不思議そうに首を傾げた

 

「……おかしいですね。セリカちゃんの言うような『夜な夜な黒い影のようなものが、独りで歩いている』なんていう怪談、アビドスの伝承には一つも載っていませんよ? そもそも不審者の類なら、シロコ先輩の防犯センサーに引っかかっているはずですし」

 

「え……? 嘘でしょ?」

 

アヤネの冷徹な事実確認に、セリカは目を見開いた。

 

「えっ、ちょっと待ちなさいよ。だって……私たち、その『黒い影』の噂を調査するために、今夜ここに集まったんでしょ!? アヤネちゃんも、怖いからって私のパジャマを掴んでたくせに!」

 

セリカが身を乗り出して確認すると、アヤネはさらに困惑したように眉を下げ、眼鏡のブリッジを指で押し上げた

 

「いえ……今夜は、ただの親睦を兼ねたお泊まり会ですよ? セリカちゃんが言い出しっぺじゃないですか。『たまにはみんなで学校に泊まって、友情を深めよう』って。……まぁホシノ先輩のせいで怖がってたのは本当ですが…」

 

「そ、そんな……」

 

絶句するセリカの隣で、ノノミがお茶のおかわりを注ぎながら、ふんわりとした口調で言葉を添えた

 

「セリカちゃんの言うような『歩く影』の噂は聞いたことがありませんけれど……私が昔、アビドスの古い伝承で聞いたことがあるのは、別の話ですね〜。『人の強い後悔に惹かれ、その執着が作り出した幸福な幻を見せる影』……そんな怪談なら、心当たりがありますよ?」

 

(……私が知っていた怪談と、内容が変わってる?)

 

セリカは混乱する頭で、必死に思考の糸を繋ぎ合わせようとした

 

ノノミの言う通りだとしたら、あの過去の世界は、誰かの「後悔」という感情が作り出し、そこに自分を招き入れた幻覚だったということになるのだろうか

 

(人の強い後悔に惹かれて……。だとしたら、それはきっと、ホシノ先輩よね? 先輩の心の傷が見せた、あり得たかもしれない幸福な白昼夢。……でも、私の体に残るこの傷は? このヒリつく痛みまで、幻だっていうの……?)

 

セリカの思考は、出口のない迷路を彷徨うようにぐるぐると回り続けていた。胸の奥を冷たい隙間風が吹き抜けたような、形にならない寂しさがこみ上げてくる

 

あの日、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら笑顔で約束した事も、3人で楽しく過ごした事も、すべてはこの世界には存在しない記憶の残滓に過ぎないのだという結論が、無慈悲に彼女を突き放す

 

「セリカちゃん、もう大丈夫? おじさんが変な怪談を話して怖がらせちゃったから、その影響で悪い夢でも見ちゃったんだよね。ごめんねぇ」

 

ホシノが、申し訳なさそうに眉を下げて顔を覗き込んでくる

 

その瞳に宿っているのは、過去のトゲトゲしさを削ぎ落とした、セリカを純粋に案じる「今の先輩」としての穏やかな慈愛だけだった

 

(……ダメ元で、一度だけ確かめてみようかしら。もし、あれが過去で…歴史が書き換わっていたのだとしたら)

 

セリカは、微かに震える手で茶葉の浮いたカップを強く握りしめた

 

熱が指先に伝わり、覚悟を決める。彼女は意を決して顔を上げ、ホシノの瞳を真っ直ぐに見据え

 

「ねぇ、ホシノ先輩。……ユメ先輩は、今、どうしてます?」

 

その名前が唇からこぼれた瞬間、部室の空気の密度がわずかに変わった気がした

 

ホシノは一瞬だけ、瞬きを忘れたように静止し、それから不思議そうに首を傾げた

 

「ユメ先輩? ……んー、どうしてまた急にそんなこと聞くんだい、セリカちゃん」

 

「い、いや……その、ここにいないから。……どこで、どうしてるのかなって、ちょっと思っただけよ」

 

セリカは激しく刻まれる鼓動を必死に抑えながら、ホシノの次の言葉を待った

 

もしここが、あの「約束」の果てにある未来なら。ユメ先輩が生きている世界線なのだとしたら

 

「ユメ先輩なら、ここにはいないのは当たり前だよ〜」

 

ホシノは湯呑みを片手に、どこか遠くの地平線を見るような、それでいて凪いだ海のように穏やかな目をしてそう答えた

 

「いない」という言葉が持つ重み

 

それが卒業してどこか別の場所にいるという意味なのか、それともこの世の理から外れてしまったという意味なのか。ホシノの表情はあまりにも達観していて、セリカはその深淵に踏み込む勇気を持てず、ただ細く息を吐き出すことしかできなかった

 

(……やっぱり、そこは変わってないのね。ここには、ユメ先輩はいない。あの過去で見た光景は、この世界の過去に繋がっているんじゃなくて……別の可能性、別の世界の話だったのね)

 

セリカは自分を納得させるように、深く、重いため息をついた。期待という名の毒が、ゆっくりと体から抜けていく

 

それからノノミが淹れ直してくれた温かいお茶を、みんなで静かに啜った

 

時が止まったような沈黙の中、シロコはいつの間にか膝を抱えて眠りにつき、アヤネも極限の緊張から解放されたのか、机に突っ伏して規則正しい寝息を立て始めた

 

窓の外では砂漠の夜風が虚しく鳴っている。重い沈黙と、時折聞こえる寝息。やがて、ノノミも静かに瞼を閉じ、一人、また一人と深い眠りの底へ落ちていった

 

先生が最後にそっと部室の灯りを落とすと、部屋は再び、あの青白い月光が支配する静寂へと戻っていった。

 

深夜。静まり返った教室内で、セリカはそっと瞼を開けた

 

窓から差し込む青白い月光が、横たわるシロコやノノミたちの姿を淡く照らし、静かな寝息だけが部屋の隅々にまで満ちている

 

セリカは、シーツの擦れる音さえ立てないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと上体を起こした

 

胸の奥に燻る、どうしても確かめなければならない想いに突き動かされるように、彼女は一人音もなく立ち上がり、教室を後にした。

 

その際、部屋の隅で丸くなっていたホシノの瞼が、わずかに、本当にわずかに震えたことにセリカは気づかなかった

 

ホシノは閉じたはずの片目を薄く開き、月明かりを浴びて消えていく後輩の背中をじっと見送った。その瞳には、深淵のような思慮と、すべてを包み込むような慈しみ、そしてどこか哀しげな共犯者の色が混ざり合っていた

 

ホシノは何も言わず、ただ夜の闇に消えていくセリカの無事を祈るように、再び静かに目を閉じた

 

セリカが向かったのは、あの埃っぽい生徒会室だった

 

主を失い、時間が止まったままの部屋。扉を開けると、先ほどと同じく冷たく、拒絶するような静寂が彼女を迎えた。カーテンの隙間から差し込む月の光が、長い間動かされていない備品たちを白く浮かび上がらせている

 

セリカは暗闇に目が慣れるのを待ち、吸い寄せられるように、かつて自分が座っていたはずの場所へと歩み寄った。冷たい椅子の背もたれ、そして木目の剥げた机の表面を、指先で慈しむようになぞる

 

(楽しかったな。三人で喧嘩して、あんなにバカみたいに笑って……)

 

瞼を閉じれば、昨日のことのように思い出せる。ユメ先輩ののんびりした声、若き日のホシノが放った鋭い視線。脳裏に蘇るのは、別れ際に「過去のホシノ」が最後に見せた、あの大粒の涙と、それを拭い去るように放たれた力強い言葉だった

 

『私、必ずやり遂げます。「アビドス砂まつり」を、絶対に開きます!』

 

『だから……セリカも、未来で、絶対に来てください。約束……約束ですからね!』

 

その声は、今も鼓膜の奥で熱を帯びて響いている

 

(あの約束……結局、破っちゃったことになるわね。私があの世界に残っていれば、一緒にあの泥だらけのポスターを直して、笑い合えたのかもしれないのに。せめて、あの日だけでも……)

 

セリカは自嘲気味に口角を上げた

 

この冷え切った、砂の音しか聞こえない今の世界には、生きて笑うユメ先輩も、あんなに剥き出しの感情を見せてくれた「ホシノちゃん」もいない

 

自分が守りたかった、そして自分の居場所だと魂が叫んだあの「砂まつり」は、歴史の隙間にこぼれ落ちた、永遠に叶わない夢として砂に埋もれてしまったのだ。

 

「……行きたかったな。みんなで笑える、最高のお祭り」

 

ぽつりと漏れた独り言が、冷たい壁に跳ね返る。感傷に浸り、力なく俯いたその瞬間だった

 

不意に、パジャマのポケットの中に、確かな重みと硬い感触があることに気がついた

 

(……え? なにこれ……)

 

震える指先をポケットに滑り込ませ、それを慎重に取り出した。月明かりの下に現れたのは、小さな、けれど驚くほど温かみのあるクジラのキーホルダーだった

 

つるりとしたプラスチックの表面が、青白い月光を反射して、まるで生きているかのように微かな光を放っている。その質感、その重み――セリカの記憶が、鮮烈にフラッシュバックした

 

『それじゃあ、こうしようよ! みんなで同じものを買って、お揃いにしちゃうの。これを見るたびに今日の楽しかったことを思い出せるし、三人の『アビドス生徒会』が今日ここに来た、大切な証になると思わない?』

 

あの賑やかな水族館の売店。迷いながらホシノが選び、ユメが最高に幸せそうな満面の笑みで差し出してきた、安っぽくて、けれど世界中のどんな宝石よりも愛らしいお揃いの証

 

「……っ、う、あ……」

 

それは、あの日々が単なる孤独な脳が見せた幻覚でも、誰かの後悔が編み上げた白昼夢でもなかったという、何より残酷で優しい証明だった。あの世界は、あの日差しは、あの戦いは確かに存在したのだ。自分はあそこで、彼女たちと共に、間違いなく生きていたのだ

 

「……分かってる。分かってるわよ。ちゃんと、大切にするわよ……ユメ先輩……ホシノちゃん」

 

セリカは溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、その小さなクジラを壊れ物を扱うように、けれど折れんばかりの力でギュッと握りしめた

 

その温もりだけは、今のこの冷たい世界でも確かに熱を持ってそこにいた

 

彼女は誰にも見つからないよう、その「証」をそっとポケットの奥深くに隠すと、二度と振り返ることなく生徒会室を後にした

 

対策委員会の部室に戻り、仲間たちの穏やかな寝息に包まれながら、セリカは1週間ぶりに深く、安らかな眠りについた

 

それから数日が経ち、セリカはようやく元の生活の感覚を取り戻し始めていた

 

最初の数日は、ふかふかのベッドの有り難みに思わず涙をこぼしてはシロコを困惑させた。

 

蛇口を捻れば透明な水がちゃんと出ることに感動し、備蓄用のレーションではない温かい夕食を口にしては「……生きてる」と深く噛み締め。そんな彼女の様子に、アヤネからは「セリカちゃん、本当に、本当にどうしちゃったんですか……?」と深刻な顔で心配されたりもしたが、今ではいつものように元気にバイトへと駆け出す「対策委員会のセリカ」へと戻っていた。

 

ある日の午後。傾きかけた陽光が差し込む部室に集まり、定例の現状報告会議が行われていた

 

「――以上で、今週の備品管理および弾薬補充の報告を終わります。それでは、他に何か提案や報告がある人はいませんか?」

 

アヤネがタブレットの資料をまとめ、眼鏡を指で押し上げながら会議を締めようとした、その時だった

 

「はいはーい。おじさんから一つ、みんなに提案があるんだよ〜」

 

のんびりと、けれど不思議と迷いのない、芯の通った声

 

ひょいと手を挙げたのは、いつもなら会議の終盤には椅子を並べて本格的な昼寝の準備を始めているはずのホシノだった

 

その極めて珍しい光景に、シロコは「ん、天変地異の予兆」と目を丸くし、ノノミもパチパチと瞬きをしてお気に入りのスプレーの手を止める

 

「なになに〜? おじさんが自分から進んで発言するのが、そんなに信じられないのかな〜?」

 

ホシノは困ったように眉を下げて苦笑いする。その仕草はいつもの「おじさん」そのものだったが、どこか以前よりも肩の力が抜けているようにも見えた

 

「だって、いつもならこの時間はもう夢の中じゃない。……やっぱり不吉な予兆かしら。明日からまた巨大な砂嵐でも来るの?」

 

セリカがジト目で鋭く突っ込むと、ホシノは「ひどいなぁ、セリカちゃんは相変わらずおじさんに厳しいねぇ……!」と大げさに肩を落としてみせる

 

部室にはいつもの、そして何物にも代えがたい和やかな笑い声が響いた

 

「コホン。……それではホシノ先輩、何か具体的な提案がありますか?」

 

アヤネが姿勢を正して改めて促すと、ホシノは少しだけ背筋を伸ばした。そして、窓の外に広がる、どこまでも続く黄金色の砂漠を静かに見つめた

 

その横顔は、今の彼女が持つ大人の余裕と、そしてセリカがあの過去の世界で目撃した、熱く鋭い理想を抱いていた「少女」の面影が、絶妙なバランスで混じり合っているように見えた

 

「うん。……あのね、今度、ここで『アビドス砂まつり』をしたいなって思うんだよ」

 

「えっ……!?」

 

その単語が鼓膜を震わせた瞬間、セリカの心臓が物理的な衝撃を受けたかのように大きく跳ね上がった。全身の血の気が引き、指先が微かに震える

 

砂まつり。

 

あの日、あの埃っぽい暗い倉庫の片隅で、涙を拭った16歳のホシノと指切りをして誓った、再会の約束

 

『いつか必ず、このアビドスを最高に賑やかなお祭りで満たしてやる』――そう叫んだ彼女の決意。

 

(嘘……。どうして。どうして今、その名前が出てくるの……?)

 

セリカの脳裏を、あの日々が走馬灯のように駆け巡る。ユメ先輩と三人で歩いた水族館、お揃いのクジラ、そして倉庫の中で背中を預け合って戦った記憶。あの世界は、ここには繋がっていない「別の可能性」だったはずなのに

 

あまりの驚愕に、セリカは言葉を失い、ただ目を見開いてホシノを凝視することしかできなかった




評価が18もあって6以上なの多くてビックリ…それと嬉しい…!!

追伸
総UA10000超えてました!!本当に嬉しい!!ありがとうございます!!
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