セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
「ホシノ先輩〜? お昼寝ばかりしていたら、本当に夜眠れなくなっちゃいますよ?」
「ん〜……あと5分。あと5分、いや10分だけ待ってよぉ〜……」
春の柔らかな陽光が降り注ぐ屋上で、ホシノは心地よい微睡みの淵を漂いながら、間延びした声で答えた
ユメが卒業証書を手に学び舎を去ってから、早いもので1年という月日が流れていた
カレンダーの数字は無情にも進み、気がつけばホシノは最高学年である3年生へと進級。名実ともにアビドスの看板を背負い、後輩たちを導くべき立場となっていた
今の彼女の象徴とも言える、あののんびりとした「おじさん」のような口調。しかし、最初からそうだったわけではない
初めの頃は、かつて自分を厳しく律するために盾として纏っていた、あの刺々しく冷徹な言葉遣いを崩すことに、少なからぬ抵抗とストレスを感じていた
自分を変えようともがき、けれど上手くいかずに一人で悩み込んでいた時期、彼女はすでにシャーレへと籍を移していたユメに電話で相談を持ちかけたことがあった
『ん、そうだねぇ……。あんまり根を詰めすぎても疲れちゃうし、お昼寝とかいいんじゃないかな? ホシノちゃんって、みんなが寝静まった夜もパトロールで活動してるでしょ? だから、お昼くらいはノノミちゃん達に任せて肩の力を抜いて、のんびりした方がいいよ!』
電話越しに聞こえた、相変わらずお気楽で、けれどどこまでも温かいユメの提案
最初は半信半疑だったホシノだったが、試しに授業の合間や昼休みに身体を横たえてみたところ、これが驚くほど彼女の性に合っていた
張り詰めていた神経が解きほぐされ、世界が少しだけ緩やかに見えるようになる
気がつけば、その緩い口調は自然と彼女の唇に馴染み、最高のお昼寝スポット(現在は、風の通り道であるこの屋上がお気に入りだ)を探しては、時間を忘れてダラダラと過ごすことが、彼女のアイデンティティの一部となっていた
(昔は肩を怒らせて、世界中のすべてを敵に回すようなつもりで真面目一辺倒にやってたけど……。力を抜くべきところは、こうしてちゃんと抜かないとねぇ~。そうじゃないと、きっと大事なものを見落としちゃうから……)
まどろみの中で、溶けかかった意識を繋ぎ止めるようにそんな自戒を巡らせていると、不意に、左の頬をぐいっと横に強く引っ張られる、現実的な痛みの感覚に襲われる
「ん、そろそろ起きる時間」
「いふぁい、いふぁいよぉ……しろこひゃん、もうちょっと手加減してよぉ……」
薄く重い瞼を押し上げると、そこには抜けるような青空を背に、銀髪の狼の耳をぴこりと動かした少女、砂狼シロコが無表情のままホシノの顔を覗き込んでいた
その首元には、かつてホシノが手渡し、今や彼女のトレードマークとなった青いマフラーが巻かれている
彼女との出会いは、ユメ先輩が卒業して間もない、まだ肌を刺すような寒さが残る冬の日のことだった
後輩のノノミと一緒に、パトロールという名目の穏やかなお買い物に出かける途中、学校の敷地境界線付近で、季節外れの薄着で立ち尽くしていたシロコに突如として襲撃されたのだ
野生動物のような鋭い眼光で銃を向けてきた彼女を、ホシノは最小限の動きで返り討ちにした
しかし、地面に伏してもなお、寒さに小刻みに震えながら自分を睨みつける彼女を、ホシノはどうしても放っておけなかった
「ん、これ、貸してあげる。風邪ひいちゃうよ」
ぶっきらぼうに自分のお気に入りのマフラーを首に巻いてあげたあの日。記憶がないと語る彼女の、どこか寂しげな背中をアビドスへと招き入れたのは、半ば直感に近いものだった
初対面の時は「随分と風変わりで、特殊な背景を持った子だなぁ」と感じていたホシノだったが、彼女が名乗った瞬間、背筋に電流が走るような衝撃を受けた
シロコ
それは、眠っているセリカが、うわ言のように、けれど大切そうに呟いていた名前の一つだった
(あぁ、この子なんだね。あの子が命懸けで繋いで、変えてくれた未来の中で、私を支えてくれるはずの仲間の一人……)
その確信を得てからは、なおさら愛着が湧かないはずがなかった
感情の起伏が乏しく、言葉数も少ないシロコだが、その行動の一つ一つに自分への深い信頼と懐きが見て取れる
ホシノはそんな彼女の危うさと純粋さを前にすると、ついつい「おじさん」としての顔を崩し、甘やかさずにはいられなくなってしまっていた。
「よしよし、おじさんが寝てるから寂しくなっちゃったかな~?」
「ん……ち、違う……っ、そんなんじゃない……///」
頬からようやく温かい手が離れ、ホシノが寝癖を気にすることもなく起き上がりながら、シロコの柔らかな銀髪をわしゃわしゃと乱暴なほどに撫で回す
シロコは抵抗する素振りを見せつつも、その心地よい重みに抗うことができず、狼の耳をピコピコと落ち着きなく動かしながら、真っ赤になった顔を不器用に逸らした
感情の表出が苦手な彼女が見せる、熱を帯びたその小さな反抗が、ホシノの中に眠る年上の余裕……というよりは、一種の保護欲をこれ以上ないほどに刺激してしまう
「ほらほら~、遠慮しないでいいんだよぉ? おじさんにたっぷり甘えな~?」
「もー、ホシノ先輩? またシロコちゃんをそんな風に猫かわいがりして……。そんなだらしのない顔をしてると、またユメ先輩に『本当のおじさんみたいだね』って呆れられちゃいますよー?」
二人のやり取りを少し離れた場所から眺めていたノノミが、口元に手を当てて、おかしそうにクスクスと笑いながら二人をたしなめる
その声には、呆れ半分、微笑ましさ半分といった、アビドスの財政を支える彼女らしい包容力が滲んでいた
「うっ……。その言葉は、意外と魂にダイレクトなダメージを食らったんだから、今は思い出させないでよぉ……」
撫でる手をピタリと止め、ホシノは遠い目をして、まるで遠く砂漠の果てを見つめるかのように深くうなだれる
忘れもしない、数ヶ月前の出来事。卒業後、進路先からたまたま母校へ遊びに来ていたユメの前で、今と同じようにシロコの頭を撫で回し、鼻の下を伸ばしていた時のことだ
(ほ、ホシノちゃん……しばらく見ないうちに、本当におじさん……いえ、それ以上に何か別の生き物みたいになっちゃったね……あはは……)
かつての「暁のホルス」として、一瞥しただけで相手を震え上がらせていた、あの尖りきったホシノを知っているユメだからこそ。そのあまりの激変ぶり——まるで使い古されたクッションのように丸くなった彼女の姿に、世界で一番の「ホシノ全肯定派」であるはずのユメですら、若干引き気味に視線を泳がせ、乾いた苦笑いを浮かべていた
あの時の、慈愛を通り越して「同情」に近い成分が混ざった先輩の眼差し。それは、どれほど強力な敵の攻撃よりも正確にホシノの心を射抜いた
流石のホシノもその日は再起不能に陥り、ショックのあまり、ノノミの膝の上で丸一日まるでお手上げと言わんばかりに寝込んでしまったほどだった
その傷跡は、今でもこうして弄られるたびにチクりと痛むのである
「ん……そんなことより、今日は入学式でしょ。行かなくていいの?」
頬を赤らめたまま、照れ隠しをするように視線を泳がせていたシロコが、不意に思い出したかのように呟いた
その言葉に、ホシノの脳裏を一瞬、面倒な行事のイメージがかすめる
「そうですよ〜? お二人とも体育館のパイプ椅子に座って、首を長くしてホシノ先輩が来るのを待っているんですからね。あまりお待たせするのは、会長としても、先輩としても、ちょっと格好がつきませんよ?」
まるで聞き分けのない子供を諭す保護者のような、慈愛と微かな圧を含んだノノミの言葉
しかし、ホシノは重力に逆らうことを拒否するように、再び屋上の冷たい床に身体を預け、大きな欠伸を一つ漏らした
「ふぁぁ……ん。大丈夫、大丈夫。ああいう形式的な挨拶とか式次第が終わった頃に、ひょっこり顔を出すのが一番スマートなんだよぉ。それまでは、この春の陽光を全身で浴びて寝かせておくれよぉ……」
その、だらけきった、緊張感の欠片もない言葉が春風に溶けて消えるよりも早く、屋上の静寂は物理的な衝撃と共に叩き割られた
「ちょっとぉ!! 何時まで待たせるつもりなのよーーーっ!!」
「せ、セリカちゃん!? 流石にいきなり怒鳴り込むのは良くないですよぉ、落ち着いて……っ!」
「「「!?」」」
屋上の鉄扉が壊れんばかりの勢いで蹴破るように開け放たれ、重々しい足音が床を激しく叩きながら近づいてくる
そのあまりの剣幕に、まどろんでいたホシノも、シロコも、そしてノノミも、驚きで目を丸くして振り返った
そこには、まだシワ一つない、卸したての眩しい新品の制服に身を包み、側頭部の猫耳をピリピリと苛立たしげに震わせた少女が立っていた
額に浮かんだ青筋は、彼女の忍耐が限界を超えたことを雄弁に物語っている
そしてその隣には、度を越した相方の剣幕におろおろと狼狽え、曇りかけた眼鏡の奥の瞳を泳がせている、知的な雰囲気の少女が付き添っていた
「ん、今年の1年生は、随分と血気が盛ん。威勢が良くていいと思う」
「ふふ、活気があるのは廃校寸前の我が校にとって、この上ない美徳ですね♪」
シロコの冷静な分析とノノミの楽観的な歓迎を、怒りに燃える少女は鋭い一瞥で切り捨てた
「元気なのはいいことです……じゃないわよ!! 入学式を執り行うから体育館で待機しててくださいって言われて、もう1時間よ!? 1時間!! パイプ椅子に座りすぎて、お尻が痛くなっちゃったじゃない!! それに、ようやく探しに来てみれば……何よ、この体たらくは! 先輩が屋上で昼寝しててどうするのよ!!」
「ま、まぁまぁ、セリカちゃん……きっと、先輩なりに疲れが溜まっていたのかもしれないですし……」
地団駄を踏み、腰に手を当ててまくしたてる少女を、ホシノは地面に寝そべったまま、呆然と、魂を抜かれたような顔で見つめていた
最近のホシノは、事務作業や運営の細々とした実務のほとんどをノノミに丸投げし、自らは「だらけきった先輩」としての隠居生活を謳歌することに全力を注いでいた
そのため、今年どのような生徒が、どのような名前を持って入学してくるのかという詳細を、具体的には把握していなかったのだ
しかし、目の前で怒鳴り散らす、その声
その、どこか懐かしく、心に深く刻み込まれた独特の抑揚
そして、一切の妥協を許さない、真っ直ぐすぎる怒りの温度
(あ、あの声……。それに、この一切の遠慮がない、心臓の奥まで突き刺さるような怒り方……!)
ホシノの脳裏に、1年生の頃に出会った「未来のセリカ」の姿が鮮烈にフラッシュバックする
時間を超え、ホシノ達のためにボロボロになりながらも最後まで諦めなかったあの子
その魂の輝きが、今、目の前でぷりぷりと怒りに震える少女の姿と完全に重なり合った
思考が「再会」という結論に達するよりも早く、ホシノの体は本能に従って弾かれたように動き出していた
「大体ね! 先輩っていう自覚がそもそも足りないっていうか、校門に砂が溜まってるとか、備品が埃っぽすぎるとか――きゃっ!?!?!?」
「えっ、ホシノ先輩!?」
「わっ、危ない!」
まだ言い足りないとばかりに指を差してまくしたてていたセリカの言葉は、衝撃的な物理現象によって遮られた
ホシノは小鳥のような軽やかさからは想像もつかない猛烈なスピードで、セリカの腰へとタックル気味に飛び込んだのだ
不意を突かれたセリカは、踏ん張る間もなくバランスを崩し、ホシノを抱え込んだまま「あいたっ!」と派手に尻もちをついてしまう
「い、いたた……なによもう、いきなり何すんのよバカ先輩っ!」
セリカは痛むお尻をさすりながら怒鳴るが、ホシノはそんな抗議など微塵も耳に入っていない様子だった
腕の中に確かに存在する、まだ少し幼く、けれど紛れもなく力強い生命の鼓動
それを確かめるように、ホシノはセリカの胸元に顔を埋め、まるで宝物を手に入れた子供のようにスリスリと甘え始めた
「セリカ……セリカだ! 本物の、本物のセリカちゃんだぁ……!」
その声は震えており、歓喜と安堵、そして一年間ずっと胸の奥底で澱のように溜まっていた「寂しさ」をすべて吐き出すかのような切実さに満ちていた
その異様な光景に、屋上の時間は凍りつく
置いてけぼりにされた新入生のアヤネはもちろん、この一年間、ホシノの酸いも甘いも見てきたはずのシロコとノノミでさえ、普段の「だらけた先輩」からは想像もつかないホシノの狂乱ぶりに、ただただ口を半開きにして呆然と立ち尽くすことしかできない
「ちょっと……! 離しなさいよ、この変態先輩! あんた誰なのよ!? なんで私の名前知ってるのよ!?」
セリカの鋭く、けれどどこか動揺を含んだ声が、屋上の乾いた空気の中を切り裂く
「へ……?」
その拒絶に近い叫びを聞いた瞬間、ホシノの動きがピタリと止まった
全身に駆け巡っていた熱狂が急速に引いていき、代わりに冷や水のような現実が入り込んでくる
ホシノはゆっくりとした、壊れ物を扱うような動作で顔を上げ、至近距離にある少女の表情を真正面から見つめた
怒りに頬を染め、自分を不審者を見るような目で見つめ返す赤い瞳
そこには、あの日自分を「ホシノちゃん!」と呼んでくれた深い絆の残滓は微塵も存在しなかった
ただ純粋な、初対面の相手に対する戸惑いと怒りだけがある
(……あ。そっか……。そうだよね。今のセリカちゃんは、私の知っているセリカちゃんとは違う。私を助けてくれたあの子は未来から来た子で、目の前にいるこの子は、今この瞬間から歴史を刻んでいく、何も知らない『今のセリカちゃん』なんだ……)
そのあまりにも当然で、けれど切ない時間の断絶が頭を過った、まさにその瞬間
「ひぃん! みんなどこー!? ……って、いたぁー! やっと見つけたよぉ!」
バタバタと騒がしい靴音と共に、リクルートスーツを危なっかしく翻したユメが、肩で息を切らしながら開いたままの扉を潜り、屋上へと駆け込んできた
現在はシャーレの活動で忙しくしているはずの彼女だが、今日は母校の入学式という晴れ舞台に駆けつけていたのだ
額の汗を拭いながら、ユメは嬉しそうにホシノたちを指さす
「もう! みんな体育館にいないから、お姉さんあちこち探し回っちゃったよぉ……。って、ホシノちゃん? 新入生を捕まえて何してるの?」
「ゆ、ユメ先輩! 見てください、セリカですよ! 私たちがずっと待ちわびていた、本物のセリカちゃんが来たんです!」
「んー? セリカちゃん……? ……あ! 本当だぁ! そうか、この時期に入学してくるんだねぇ! 会いたかったよぉ、セリカちゃーん!」
「わっぷっ!?!? ちょっと、次から次へと何なのよぉおおお!?」
ホシノが感極まった表情で指を指した先、ようやく新入生の正体を認識したユメの目がキラキラと輝く
彼女も考えるよりも先に体が動くタイプだった
弾かれたような勢いでセリカへ飛びついたユメだったが、セリカはまだホシノに押し倒されて尻もちをついたまま
結果として、セリカの顔面はユメの豊かな胸元へと深く、深く埋め込まれる形になった
「ん……ノノミ、二人のあんなに必死な姿、見たことある?」
「……いえ、私もないですね。驚きです。ホシノ先輩があんなに感情を露わにするなんて……」
「うう……私も同じ新入生なのに、なんだか完全に蚊帳の外……。というか、これ、事件じゃないですよね……?」
銀髪を揺らして冷静に観察するシロコと、若干引き気味に微笑むノノミ。そして、その横で置いてけぼりを食らったアヤネが、寂しそうに眼鏡を指で押し上げながら呟く
そんなシュールな光景の中、ユメの抱擁に包まれたセリカの、限界突破した怒号が屋上に木霊した
「いい加減に離れなさいよ! あんたたち変態先輩コンビぃーーー!!」
それから数分
ユメとホシノの二人は、気の済むまで……というよりは、セリカの堪忍袋の緒が完全にぶち切れるまで彼女を抱きしめ倒し、ようやく物理的な対話ができる程度には落ち着きを取り戻した
「はぁ、はぁ……っ! し、死ぬかと思ったわよ……。よりによって入学初日に、胸で窒息死なんて洒落にならないわよ……っ!」
「いやー、ごめんねぇ。あはは、ついつい嬉しくなっちゃって〜♪」
「ひぃん……。そんなに全力で胸を叩かなくてもいいじゃない……。私の胸が取れちゃう……」
顔を真っ赤にして制服の乱れを直すセリカに対し、能天気な笑顔で謝るホシノ。そして、我慢の限界を迎えたセリカの強烈なツッコミ(物理的な平手打ち)を真正面から胸元に浴び、文字通り涙目になって蹲るユメ。
かつては沈黙と砂嵐が支配していたアビドスの屋上には、今や、かつてないほどに賑やかで、どこか懐かしく、そして何よりも温かい「家族(?)」のような喧騒が響き渡っていた
「それで……私のこと、初対面のはずなのに、なんでそんなに詳しく知ってるのよ」
腰に手を当て、逃げ道を塞ぐように鋭く問い詰めるセリカ
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、ユメとホシノの視線は泳ぎに泳ぐ
シロコ、ノノミ、そしてアヤネまでもが加わった計三対の「ジト目」が、嘘のつけない二人を射抜いていた
自分たちを破滅の運命から救ってくれた大恩人だけれど、実は未来から来た別時空のあなたでした…
なんてSFのような真実、今のセリカに話したところで「やっぱりこの先輩達はダメな人だったのか」と一蹴されるのが関の山だ
かと言って、先ほどの熱烈すぎる抱擁の言い訳も思いつかず、屋上には春の長閑さとは裏腹な、冷や汗ものの気まずい沈黙が流れた
「ん。……もう一人の新入生が可哀想。平等に、愛でるべき」
その凍りついた空気を切り裂いたのは、シロコだった。彼女は淡々と、けれど救いの手(あるいは新たな混乱の火種)を差し出すように、所在なげに立っていたアヤネをスッと指さす
「ええっ!?!? わ、私ですか!?」
突然の指名に、アヤネが素っ頓狂な声を上げて跳ね上がる
「そうですね〜。一人だけこんなに熱烈な歓迎をして、もう一人を放っておくのは先輩として失格ですよね?」
「そうだよね! アビドスは全員をまるごと愛する学校だもん! よーし、アヤネちゃんもこっちおいでー!」
ノノミの優雅な微笑みと、ユメの底抜けに明るい宣言
アビドスが誇る「包容力の二大巨頭」が、狙いを定めた猛獣のような……いえ、溢れんばかりの慈愛を湛えた瞳で、じりじりとアヤネとの距離を詰め始めた
「お、お二人とも……? 目が、目が笑ってなくて怖いですよ……っ!? ちょ、待ってください、心の準備がっ!」
顔を引きつらせて後ずさりするアヤネだったが、屋上の広さには限りがある
すぐに背中が硬いフェンスに当たり、ガシャリと乾いた金属音が響いた。退路は完全に断たれた
「今だよー! 全員突撃ーー!」
ユメの号令を合図に、シロコ、ノノミ、ホシノ、そしてユメの四人が、弾丸のような勢いでアヤネへと飛び込んだ
「く、苦しい……! 誰ですか、メガネを押し潰してるのは……っ!! ひゃん!? ちょっと、変なところ触ってる人、誰ですかぁー!!」
「あはは、アヤネちゃん柔らかいねぇ〜♪」
「ん、捕獲完了。いい匂いがする」
もみくちゃにされ、眼鏡を歪ませながら悲鳴を上げるアヤネ
その賑やかすぎる光景を数歩引いた場所から眺め、セリカは深く、深く、本日何度目か分からない溜め息を吐き出した
「……私、もしかして入学する場所を、根本的に間違えたかしら」
呆れ果てたセリカの呟きは、アヤネの悶絶するような叫びと、先輩たちの楽しげな笑い声にかき消されていく
砂に埋もれかけていたアビドスに、新しい風と、騒がしくも愛おしい「日常」が確かに吹き込んだ瞬間だった
体育館へと移動し、形式ばかりの入学式を終えた一行は、砂に洗われて少しだけ木肌が剥げた「入学式」と書かれた古びた看板の前に立っていた
式典自体は簡素なものだったが、彼女たちにとってはアビドスの新しい歴史が刻まれる、重みのある儀式だった
「なんだか、どっと疲れたわ……。入学初日からこんなに体力を使うなんて、想像もしてなかったわよ」
「私もです……。眼鏡は歪むし、髪はボサボサだし……」
セリカとアヤネは、先ほど屋上であの「熱烈な歓迎」を受けた際にできてしまった制服のシワを、気恥ずかしそうに何度も手で伸ばしながら、揃って深いため息をつく
二人の瞳には、新入生らしい初々しさや緊張感よりも、予測不能な暴風雨が過ぎ去った後のような、心地よい疲労感が色濃く浮かんでいた
「あはは、そんなに落ち込まないでよぉ! ほら、記念撮影するよー? みんな、並んで並んで!」
「最高の一枚にするよー♪ アビドスの新しい宝物になるんだからね!」
三脚を立ててカメラをセットするホシノと、その横で指揮者のように楽しそうに音頭を取るユメ
ユメたっての提案で、まずは主役である新入生二人をノノミとシロコが全力で祝福する形で撮影し、その後に全員が参加する集合写真を撮ることになっていた
「ん、二人とも表情が固い。もっと肩の力を抜いて、笑うべき。笑顔、大事」
「そうです、そうです♪ はい! 世界で一番幸せな新入生の顔で、どうぞ!」
シロコが無表情のまま、どこから用意したのか箱に入った色とりどりの紙吹雪を、まるで儀式のように盛大に二人の頭上へと散らした
同時にノノミは、「歓迎」と手書きされた暖かみのある手作りの看板を高く掲げ、セリカとアヤネの腕の中へ、砂漠のオアシスに咲く花々のような豪華な花束を次々と押し付けていく
「そうよね……。これくらいは、ちゃんと形として残しておかないとね!」
「あはは……もうひと踏ん張りですね…」
「それじゃあ行くよー? はい、チーズ!」
カメラマン役に回ったホシノが、レンズの向こう側にある眩しい未来を愛おしむようにファインダーを覗き、合図を送る
とびっきりの笑顔で看板を掲げるノノミ、無表情ながらも律儀に紙吹雪を散らし続け、自らも少しだけ花びらを被っているシロコ
その真ん中で、アヤネは少し照れくさそうに頬を染めて微笑み、セリカは度重なる想定外の連続に目を白黒させつつも、真っ直ぐに、凛とした瞳でレンズを見つめた
カシャリ、という乾いたシャッター音が春の柔らかな空気に溶けていく
それは、止まっていた時間が再び力強く鼓動を始めた、祝福の響きだった
「はーい! それじゃあ次は私達も混ざるよー? ほらほら、みんなもっと真ん中に寄って!」
ユメが弾んだ声で駆け寄り、その場の空気をいっそう華やかに彩る
それに応えるように、ホシノが手際よくカメラのセルフタイマーを起動させた
レンズの横で点滅を始めた赤い光を確認すると、ホシノは「おっと、おじさんも急いで入らなきゃ」と小走りでみんなの輪へと飛び込む
ホシノが陣取ったのは、まだ期待と戸惑いが入り混じった表情で立ち尽くすセリカとアヤネの両隣だった
彼女は二人の腕を強引に、けれど壊れ物を扱うような優しさで自分の内側へと引き寄せる
「わわっ、ホシノ先輩!?」
「ちょっと、なによ急に……っ! 近いってば!」
驚きに声を上げる二人だったが、その背後からさらに大きな、太陽のような温もりが重なった
ユメがその長い腕をいっぱいに伸ばし、中央に集まった三人を、そして少し照れくさそうにしている両端のシロコとノノミまでをも、その大きな愛でまるごと包み込んだのだ
(確かに……今、私の腕の中にいるこのセリカちゃんは、私の知っている『あの時のセリカちゃん』じゃない。あの時、私を叱ってくれた未来から来たあの子とは、今はまだ別の存在……)
ホシノは、腕の中でまだ少し緊張して強張っているセリカの肩の感触を確かめるように、さらにぐっと力を込めて抱きしめる
(……けど。この真っ直ぐな瞳も、少し勝気な声も、誰よりも一生懸命なところも。私が大好きなところは、何一つ変わらずにここにあるんだね……♪)
「えへへ、アビドスへようこそ! お姉さんはね、みんなのことがだーい好きだよー!」
ユメが満面の笑みで頬をすり寄せ、セリカが「ちょ、ユメ先輩、苦しいって……!」と顔を真っ赤にして抗議する
ホシノがそれを見て幸せな苦笑いを浮かべたその瞬間、カメラの赤い光が最高潮に激しく明滅した
カシャリ!
乾いたシャッター音が、春の穏やかな午後に響き渡る
そこに写し出されたのは、あまりに強引な歓迎に困ったように笑う新入生二人と、彼女たちを二度と離さない、どこへも行かせないと言わんばかりに腕を掴むホシノ、そして全員を大きな翼で包み込むようなユメの眩しい姿
ノノミの輝く笑顔も、シロコの静かな、けれど確かな充足感を湛えた瞳も、すべてが一枚の絵に収まっていた
現像されたばかりの写真を囲んで、「あはは、セリカちゃん変な顔!」「ちょっと、見せないでよ!」と賑やかに笑い合う声が響く
その光景を少し後ろから眺めながら、ホシノは静かに、深く胸を撫で下ろした
かつて砂嵐に閉ざされ、色彩を失い、たった独りきりで終わるはずだったアビドス
けれど今、目の前には命を懸けて守るべき、そして自分を支えてくれる大切な後輩たちがいて、隣にはあの日失うはずだった大好きな先輩が笑っている
(あの日……心も体もボロボロになりながら、それでも未来を繋いでくれたあの子。あの子が夢にまで見て、私に見せたがっていた景色に……私、ようやく追いついたんだね)
ホシノは春の柔らかな日差しの中で、掌に残る仲間の温もりを確かな幸福として噛みしめる
そして、自分たちの新しい物語——決して誰も欠けることのない、黄金色の時間が続いていくことを祝福するように、どこまでも高く、澄み渡ったアビドスの青空を仰ぎ見た
窓の外に広がる広大な砂丘が、夕刻の朱に染まり、古びた部室の空気を琥珀色に溶かしていく
前回のP,sで書いたと思うのですが…シャーレってホシノが3年生になった時に出来たんですね…結構勘違いや誤字脱字が多いので教えてもらえるのは本当に助かります…!