セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
入学式という騒がしい幕開けから、早くも一ヶ月が過ぎようとしていた
当初は目を白黒させていたセリカもアヤネも、今では砂にまみれた校舎や、どこか浮世離れした先輩たちのペースに順応し始めている
アビドスの初夏を思わせる少しばかり強すぎる日差しが、部室の窓を白く焼き、古びたソファで丸くなるホシノを黄金色の光が包み込んでいた
「ホシノ先輩、いい加減に起きなさいよ。もうすぐ会議が始まるんだから」
呆れ果てたような、けれどどこかこの光景を日常として受け入れつつある声が、眠りの淵に沈んでいたホシノの意識を叩き起こす
セリカは、微塵も起きる気配のない先輩の肩を掴み、抗議するようにぐいぐいと揺すった
「ふぇあ……? んん……お空にクジラが泳いでるよぉ……」
ソファーのクッションに顔を埋めていたホシノは、なんとも情けない声を上げながら、ようやく重い腰を上げて座り込む
寝癖のついたピンク色の髪を揺らし、まだ夢の残滓がこびりついた眼差しで、目の前に立つ少女をぼんやりと見上げた
「あぁ……セリカちゃんだぁ……。ん、おはよー……今日も元気だねぇ……」
挨拶が終わるか終わらないかのうちに、ホシノは吸い寄せられるように立ち上がり、流れるような動作でセリカの隣へと滑り込んだ
そして、当然の権利であるかのように彼女の華奢な肩に頭を預け、スリスリと子供のように頬を寄せる
「ちょっと! なによ急に! 離れなさいってば、暑苦しいわね!」
「いいじゃない、減るもんじゃないし〜。あぁ〜、やっぱりセリカちゃんからは健康的な、生きてるって匂いがするねぇ……。おじさん、これだけで一日の活力がチャージされちゃうよ〜」
「意味不明なこと言わないでよ! 変態! 離しなさいってば!匂いを嗅がないで!?」
セリカは顔を真っ赤にして、全力でホシノの頭を押し返そうと抵抗を試みる。しかし、ホシノは柳に風とばかりに力を受け流し、むしろ抱きしめる腕の力をぐいと強めていった
その瞳の奥には、いつもの飄々とした「だらしない先輩」の仮面では隠しきれない、切実なまでの熱が宿っている。それは、単なる後輩への愛着という枠を大きく踏み越えていた
まるで、目の前で生きているという実感を指先から確認せずにはいられない、執着にも似た強烈な執着
もし今、この腕を緩めてしまったら、彼女は再び砂嵐の向こう側へと消えてしまうのではないか――そんな、ホシノの魂に深く刻まれた根源的な恐怖が、無意識のうちにその抱擁を重く、深いものへと変えていた
そんな2人を、少し離れた席からじっと見つめている視線があった
「ん……。ホシノ先輩、またセリカを独占してる」
シロコは手元のアサルトライフル、ホワイトファングのボルトを引き、念入りに機関部を点検する手を止めた
冷たい金属の感触よりも、目の前で繰り広げられる熱烈なスキンシップの方が彼女の関心を引いている
無表情ながらも、不満の度合いを示すようにその耳がピコピコと、不規則なリズムを刻みながら動いていた
「あはは、ホシノ先輩は本当にセリカちゃんがお気に入りですね~。まるでお気に入りのぬいぐるみを抱きしめて離さない子供みたいです」
ノノミが楽しそうにクスクスと喉を鳴らしながら、透き通った琥珀色のお茶をカップに注ぐ
その動作は優雅だが、向けられた視線には年相応の悪戯心が混じっていた
「あの……お喋りしてないで、少しは手伝ってくださいよ……」
山積みになった会議資料と格闘し、疲れきった顔でノートパソコンのキーを叩くアヤネが、眼鏡の奥から弱々しくため息をつくが、その抗議も今の熱狂的な「セリカ可愛がり」の嵐にかき消されてしまう
「ん。この前までは、あの位置は私の定位置だったのに。最近、ホシノ先輩の『よしよし』の回数、セリカの方が圧倒的に多い。……ずるい」
シロコは納得がいかないとばかりに頬を僅かに膨らませると、メンテナンス道具を一纏めにして立ち上がり獲物を狙う狼のような無駄のない動きでホシノの反対側の隣へと無言で潜り込む
「あ、シロコちゃんも? はいはい、シロコちゃんも可愛いねぇ~」
「ん……」
空いた方の手がシロコの銀髪を優しく梳くと、彼女は満足そうに目を細め、耳を嬉しげにピクピクと跳ねさせた
(うへへ……大好きなセリカちゃんに……かわいい後輩たちに囲まれて……おじさん、世界で一番の幸せ者だよぉ……♪)
左右に後輩を従えたホシノは、慈愛に満ちた、どこか浮世離れした満足そうな表情を浮かべる
ホシノにとってセリカもシロコも、もちろんノノミもアヤネも、命に代えても守り抜くと誓ったかけがえのない宝物だ
その愛情に一分の曇りもなく、全員を同じくらい深く愛しているのだと、自分自身では疑いもなく信じ込んでいる
しかし、無意識に伸ばす手のひらは、残酷なまでに正直だった
気づけば、隣のシロコに触れる時間よりも、反対側のセリカの髪を愛でる指先の方が、ひとしきり長く、深く、執拗なまでにその感触を追っている
その微かな、けれど決定的な差に、彼女自身だけが気づいていなかった
セリカに触れる指先には、他の誰に向けるものとも違う、どこか祈りにも似た切実な熱が混ざり込んでいる
それは、過去に「失うはずだった親友」の温もりを、現実の肉体を通して確かめようとする魂の渇望そのものだった
「……ん。ホシノ先輩、またセリカの方ばっかり撫でてる。秒数が違う。……不公平」
シロコが不満げに耳を伏せ、アヤネやノノミが「あはは……」と困ったような、けれどすべてを察したような複雑な視線を交わし合う
しかし、ホシノはその視線の意図を正確には汲み取れず、単にシロコへの愛情表現の勢いが足りないのだと都合よく解釈した
「えー、そうかなー? シロコちゃんも寂しかったんだねぇ。よしよし、これならどうだ〜!」
ホシノはセリカを片腕で抱え込んだまま、空いた方の手でシロコの銀髪をわざと激しく、わしゃわしゃと掻き乱した
「ん……っ、ん。……ふふ」
急に激しくなった手のひらの感触に、シロコは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げに喉を鳴らした
髪がぐちゃぐちゃになるのも構わず、シロコは自分に向けられたその確かな熱量を噛みしめるように、ホシノの腕にさらに深く身を委ね、耳を小刻みにピクピクと跳ねさせる
そんな、一心に甘えを享受するシロコとは対照的に、もう片方の腕で抱き寄せられているセリカは、複雑な想いに揺れていた
ホシノの掌が髪を撫でる心地よい刺激に、セリカは抗いようのない羞恥と、それ以上に抗いがたい安寧を感じていた
入学してわずか一ヶ月
砂に埋もれかけたアビドスでの日々は、セリカにとって驚きの連続だった。中でも最大の計算違いは、この最高学年の先輩――小鳥遊ホシノからの、異常とも言えるほどの「過保護」な溺愛だった
(……こうして撫でてもらうのは、正直恥ずかしいけど。……嫌いじゃない、っていうか。嬉しいのは、確かなんだけど……)
甘やかな眠りに誘われるような感覚の裏側で、セリカの思考は別の場所を彷徨う
ホシノは確かに、シロコやノノミ、アヤネに対しても深い愛情を注いでいる。けれど、自分に向けられるそれは、どこか異質だ
他のメンバーに向けるものが「慈しみ」だとするならば、自分に向けられるのは、まるで一時も目を離せばどこかへ消えてしまう壊れ物を扱うような、危うい「執着」に近い
(でも、アヤネちゃんやノノミ先輩……シロコ先輩とも違う。なんだか私だけ、一瞬たりとも目を離せない……そんな扱いよね)
それが、真面目で自立心の強いセリカの心に、小さな、けれど鋭い棘となって突き刺さる
自分はそんなに頼りないのか
他の先輩たちのように、対等な戦力として信頼されていないのか
一人の後輩として可愛がられているというよりは、まるで「手のかかる子供」として常に見守られていなければならない対象だと思われているのではないか
ホシノの掌から伝わる切実な熱が、皮肉にもセリカの焦燥を煽っていた
そんな、胸の奥の澱が少しずつ積もり始めた、ある日のことだった
「ん、道端で行き倒れてた。熱中症かもしれないから、連れてきた」
その言葉と共に、シロコが部室の扉を蹴るようにして開けた
彼女が背負っていたのは、砂漠の過酷な熱気にやられたのであろう、見知らぬスーツ姿の大人――『先生』だった
シロコの表情は相変わらず淡々としており、まるで散歩の途中で迷い犬でも拾い上げてきたかのような軽やかさだったが、担ぎ込まれた「獲物」の重みは、対策委員会の空気を一瞬で凍りつかせた
「シ、シロコ先輩……! と、とうとう人を誘拐してきたんですか……!? 銀行の次は誘拐だなんて、アビドスはもうおしまいです……っ!」
「アヤネが私をどんな風に見てるのか分かったよ」
アヤネが悲鳴のような声を上げ、顔を真っ青にしてガタガタと椅子を鳴らす
一悶着どころか、部室は一時パニックに近い混沌に包まれた(主にアヤネ)が、意識を取り戻したその大人が提示した身分証と、アヤネが密かに出していた「シャーレ」への支援要請がようやく受理されたという事実は、凍りついた空気を一気に歓喜へと変えた
それは、絶望的な状況に立たされていたアビドスに差し込んだ、唯一無二の希望の光だった。けれど、周囲が安堵の息を漏らす中で、セリカだけは一人、喉の奥に苦い塊がせり上がってくるのを感じていた
先生は最初、提示されたアビドスの現状――あまりにも現実味を欠いた天文学的な数字、9億6000万を超える借金の総額を突きつけられ、目を丸くして完全に言葉を失っていた
砂漠に埋もれかけた校舎の静寂の中で、その膨大な負債だけが実感を伴ってそこに横たわっている
しかし、連邦生徒会直属の「シャーレ」の権限により、定期的な弾薬や医療品の支援物資、そして食料の供給が保証されることが告げられると、澱んでいた部室の空気には久方ぶりの明るい兆しが漂った
だが、運命は束の間の安息さえ許さなかった
平穏を切り裂くように、地平の彼方から重低音の轟きが響き渡る
学校の完全占拠を目論むヘルメット団の大部隊が、乾いた砂塵を荒々しく巻き上げ、濁流のごとき勢いで校門へと押し寄せてきた
「……ん。多い。昨日の三倍はいる」
シロコがホワイトファングのボルトを引く乾いた音が、緊迫した空気をさらに硬化させる
弾薬が底をつきかけ、心身ともに疲弊していた対策委員会の面々にとって、それは文字通りの絶望的な物量差であった
当初、前線で銃火を交えるわけでもない先生が実戦での戦力になると考えていた者は一人としていなかった。だが、その甘い予想は戦端が開かれた瞬間に鮮やかに裏切られることになる
先生はタブレット端末を手に、戦況を神の視点で俯瞰していた
入り乱れる敵味方の座標、弾道計算、地形の利。それら膨大な情報を処理しながら、生徒一人ひとりの特性――シロコの突破力、ノノミの制圧力、ホシノの鉄壁の守護――を瞬時に、かつ正確に見抜くと、戦場の喧騒を切り裂くような凛とした声で、これ以上ないほど的確なタイミングの指示を飛ばしたのだ
その采配は、あたかも混沌とした盤面を整理していく魔法のようであった
「ノノミ、左翼から回り込む分隊を牽制して! 」
限られた物資を最大限に、かつ合理的に活用し、最小限の動きで敵の急所を的確に突く
アビドスの面々がこれまで独力で抗い、血を吐くような苦戦を強いられてきた野卑な略奪者たちを、先生の指揮下では驚くほど軽々と、そして舞踏を踊るかのような効率の良さで撃退してしまった
銃撃戦が終わった後、砂漠に静寂が戻る中で、少女たちは確信した
目の前に立つ「大人」は、単なる事務的な支援者ではない、自分たちの持てる力を何倍にも、何十倍にも増幅させ、絶望を希望へと塗り替えてしまう、最強の「タクティカル・サポート」であることを
事件から一夜明けた部室
ノノミやアヤネは昨日見せつけられた「大人の実力」に希望を見出し、シロコもまたその合理的な判断力を高く評価していた
そして何より、あの警戒心の強いホシノまでもが、どこか不思議な安心感を湛えた大人の言葉に素直に耳を傾けようとしている
その光景の中で、セリカだけは一人、輪から外れて奥歯を噛みしめていた
「……ちょっと、本気なの!? 正体もよく分からない、昨日今日現れたばかりの『大人』の言うことを、そんなにホイホイ信じるつもり!?」
静寂に包まれていた部室に、セリカの鋭い叱咤が雷鳴のように響き渡る
「セリカちゃん、落ち着いてください。先生は連邦生徒会からの正式な承認も受けている方ですし、何より私たちの力になりたいって……」
「アヤネちゃんは黙ってて! 力になりたい? そんなの口先だけでしょ! 結局、最後には私たちを見捨てて逃げ出すに決まってるわ。こんな得体の知れない『大人』、私は絶対に、死んでも認めない!」
セリカがこれほどまでに頑なに反発するのには、過去の裏切りや大人という存在への不信感以上に、もっと個人的で切実な理由があった
(……なんで。なんでみんな、突然現れたあんな人の指示を、そんなに従順に聞いてるのよ)
視線の先には、先生と穏やかに、そして信頼を寄せた様子で言葉を交わすホシノの姿がある
アビドスを蝕む借金問題、連日のように押し寄せるヘルメット団、そして静かに進む砂漠化
これまで自分たちが、特にホシノや、かつてこの学校を支えたユメが心血を注ぎ、血を吐くような思いで守り続けてきた聖域の問題を、ひょっこり現れた大人が軽々と解決し始めてしまうかもしれない
もし、先生の指揮下ですべてが上手くいってしまったら。この学校が、大人の手によって救われてしまったら
(それじゃあ、私達がこれまで必死に足掻いてきた意味がないじゃない。私がもっとしっかりして、もっと強くなって……ホシノ先輩に『もう大丈夫だね、セリカちゃんは頼りになるね』って認められなきゃいけないのに……!)
ホシノから向けられる、あの甘やかすような、けれどどこか自分を「守られるべき弱き者」として見定めるような保護者の視線
セリカにとって、それは堪らなくもどかしく、そして屈辱的ですらあった
一人の対等な戦力としてホシノと肩を並べ、いつか彼女が背負っている重荷を半分預けてもらえるような存在になりたい
その焦燥感が、あまりに有能な「外部の助け」を、自分を否定する存在として拒絶させていた
「私は認めないわ。自分の力で、アビドスを守ってみせるんだから! 大人の力なんて借りなくたってやっていけるって、証明してやるわよ!」
セリカは吐き捨てるように言い放つと、気まずそうに手を差し出そうとした先生を無視し、逃げるように部室の扉を蹴って飛び出していった
「あ、あはは……私、2日目にして盛大に嫌われちゃったかな……」
先生が力なく肩を落とし、悲しげな苦笑いを漏らす中、ホシノはセリカが走り去った扉の向こう側を、静かに、そして深く見つめていた
そのオッドアイの瞳には、かつての自分と同じように「一人で全てを背負おうとする」後輩への、切ないほどの愛おしさと、痛いほどの危うさが鏡合わせのように映り込んでいた
「……んー、困ったねぇ。セリカちゃん、あんなに怒ちゃって。でもね、先生。あの子が誰よりもアビドスのことを大切に想ってるってことだけは、おじさんが保証するよ。今はただ、急激な環境の変化を受け入れられてないだけだと思うし……」
ホシノはいつもの飄々とした調子でそう語りつつも、手元の湯呑みを握る細い指先には、白くなるほどの力がこもっていた
あの日、砂嵐の向こう側で、絶望に沈む自分を救うために必死に手を伸ばしてくれた「未来のあの子」の背中、その凛々しくも悲壮な残像が、今の頑ななセリカの姿と鮮烈に重なり、ホシノの胸の奥をチリリと焼いた
守りたいという願いが、時として相手を追い詰める刃になることを、彼女はまだ認められずにいた
それからの数日間、物語は抗いようのない濁流のように、セリカの日常を飲み込み、加速していった
アビドスの再興を願い、誇り高い「対策委員会」の一員として戦う傍ら、彼女は放課後の街へと駆け出していた
借金返済という重圧を少しでも分かち合いたい――その一心で、大将の営む「柴関ラーメン」の暖簾をくぐり、額に汗してアルバイトに明け暮れる
秘密にしていたその懸命な背中を、よりにもよって最も見られたくなかった先生たちに見つかってしまった時、セリカの心は羞恥と焦燥で爆発しそうだった
「私は先生も頼りになる大人だと思う」
けれど、シロコの放ったその言葉に救われた
不器用で、飾り気のない一言
その温もりに触れた瞬間、セリカを縛っていた「一人で背負わなければ」という呪縛は、わずかに解け始めていた
得体の知れない「大人」だと思っていた先生に対しても、その温かい眼差しに、ほんの少しだけ心の扉を緩めようとした
……しかし、運命は嘲笑うかのようにセリカを奈落へ突き落とす
「じゃあね、セリカ。また明日」
夕闇が迫る街角で、シロコが路地を曲がっていく。その背中を見送った直後、セリカを包んでいた日常の音は、唐突に、暴力的な静寂へと塗り替えられた
(……えっ?)
異変に気づき、セリカが背後の気配を振り返ろうとした瞬間、暗闇から投げ込まれた小さな鉄塊が、アスファルトの上で乾いた音を立てて転がる
――催眠ガス・グレネード。
爆発音すらなく、シュウッという無機質な噴射音と共に、視界が真っ白な煙に覆われた
「げほっ……な、なにこれ……っ!?」
肺に流れ込む甘い痺れ
抗おうと銃に手をかけるが、指先に力が入らない。膝から崩れ落ちるセリカの視界の端で、複数の黒い影がゆっくりと近づいてくるのが見えた
「あ……シロ、コ……せんぱ……」
震える声は誰にも届かず、意識は急速に深い闇へと沈んでいった
……。
…………。
次に目を開けたとき、視界にあったのは夕暮れの景色ではなく、激しく揺れるトラックの荷台だった
「……んっ……!?」
声を上げようとして、猿ぐつわの感触に絶望する
背中に回された両手は冷たい鎖で厳重に縛り上げられ、身動き一つ取れない。タイヤが砂利を踏む不快な振動が、全身に伝わってくる
(嘘……私、捕まったの……?)
逃げ場のない鉄の箱の中、出口のない閉塞感がセリカを襲う
自分の不注意のせいで。自分の未熟さのせいで
またアビドスの仲間たちが、自分のために命を懸け、危険に晒されてしまう
(……ごめん……みんな……っ)
真面目すぎる彼女の心は、悔しさと恐怖で塗りつぶされ、独り、深い絶望の淵へと沈んでいった
ガタガタと激しく揺れていたトラックが、急ブレーキの衝撃と共に悲鳴のような音を立てて停止する。外からは激しい銃声と爆発音が響き、セリカが恐怖に身をすくませたその時、荷台の鉄扉がひときわ大きく震えた。
「泣きっ面のセリカ、発見…この後はどうするの?先生」
通信機越しに響く先生の冷静な、けれど教え子を奪われた怒りと執念を感じさせる采配が、アビドスの鋭い牙を最速で敵の喉元へと届けたのだ
バックドアが、ゆっくりと開く
真っ暗だった視界に、眩いばかりの陽の光が濁流のように差し込み、逆光の中に並び立つ仲間のシルエットが揺れた
銃を構えたまま静かに息を吐くシロコ
「……ん。待たせた。迎えに来たよ、セリカ」
聞き慣れた声、そして誰よりも頼もしい「家族」の姿
間一髪、セリカを縛り付けていた絶望の鎖は断ち切られ、彼女は暗い深淵の淵から、温かな光の中へと救い出された
「その……ありがとう! 先生!」
「おお〜、セリカちゃんがデレたよ。おじさん、びっくりして砂に埋まっちゃいそう」
「デレてないわよ! なによもう、ニヤニヤしないでってば!」
ヘルメット団を撃破したあと、ホシノのいつもの飄々とした、けれど安堵を滲ませた茶化しに、セリカは精一杯の強がりで応戦する
その場は笑いに包まれ、部室に戻ればアヤネの淹れた温かい茶が喉を潤した
しかし、賑やかな喧騒が戻れば戻るほど、セリカの心の中には、助かった安堵感よりも重く、冷たい影が静かに広がっていった
(先生やみんなに助けられたのは、本当に嬉しい……。でも、やっぱり私は……)
ホシノや先生、仲間たちが自分一人のためにどれほどの弾丸を消費し、どれほど命を削るような戦いに身を投じてくれたか
それを考えれば考えるほど、胸の奥がキリリと締め付けられる
自分は一人でやれると息巻いて、大人なんて信じないと吠えて、結局は足元を掬われ、泣きべそをかいて助けを待つことしかできなかった。結局のところ、自分はホシノの隣に立つ「相棒」ではなく、永遠に目を離してはならない「お荷物」であることを、決定的な形で証明してしまったのではないか
その日の放課後。賑やかな解散の合図を背に、セリカは吸い寄せられるように校舎の屋上へと向かった
夕暮れに染まる屋上のフェンス。赤から紫へと溶けゆく空の境界線に、砂漠の彼方へと沈みゆく太陽が最後の一条を放っている
セリカは一人、フェンスに体重を預け、冷えゆく風を頬に感じながら、その光を見つめていた
(あんなに啖呵を切って、大人の力なんて要らない、自分たちだけでやれるって言い放ったのに……。結局、私は暗い車の中で震えて、弱気になることしかできなかった。これじゃあ、冷静に状況を判断できるアヤネちゃんや、誰よりも勇敢なシロコ先輩たちのように、ホシノ先輩と肩を並べて歩くことなんて、一生できっこないじゃない)
一歩踏み出そうとするたびに、泥濘に足を取られるような感覚、自分の未熟さと無力さを突きつけられ、視界が滲む
そんな終わりのない思考のループに陥っていたセリカの背後に、のんびりとした、けれど心の奥底にまで届くような聞き慣れた声が響いた
「おやおや〜、こんなところで独り黄昏れちゃって。セリカちゃん、もしかしておじさんに内緒で青春の真っ最中だったかな?」
「……っ、ホシノ先輩」
驚いて肩を跳ねさせ、慌てて目元を拭って振り返ると、そこには茜色の光を背負い、いつもの緩い笑みを浮かべたホシノが立っていた
彼女の両手には、水滴を纏って冷えたスポーツドリンクが二つ、宝物のように握られている
「ほら、喉が乾いてるでしょ?今日は本当に色々あったんだから、一度深く呼吸して、一息つかないとね」
「……ありがとう」
セリカは差し出されたボトルの冷たさを掌に感じ、その感触でどうにか自分を繋ぎ止めながら、視線を再び砂漠の地平線へと戻す
ホシノは何も言わず、ただ静かにセリカの隣に並ぶ
ふぅ、と小さく、けれど深い安堵を込めた吐息を漏らし、錆びついたフェンスに細い背中を預けた
「やっぱり、夕暮れのアビドスは綺麗だねぇ。おじさん、この景色をこうしてみんなで……セリカちゃんと一緒に見られるのが、何よりも一番の幸せだよ」
「……そうね」
セリカの返信は短く、砂に吸い込まれるように消えた
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、ホシノは空を見上げたまま言葉を続ける
「今日だってさ、セリカちゃんが無事で本当によかったよ。連絡が途絶えた時は、おじさん、生きた心地がしなかったんだから。あはは、やっぱりセリカちゃんは見ていて飽きないし、放っておけないっていうか……本当に可愛いねぇ〜」
ホシノはいつものように、相手を茶化すような、けれど宝物を慈しむような柔らかなトーンで言った。しかし、今のセリカにとって、その甘い言葉は心の傷口に突き立てられる鋭利な棘でしかなかった
「……それって」
「ん?」
「……それって、結局、私が頼りないってことよね」
絞り出すようなセリカの声は、夕闇に溶けかける空気に震えていた。その言葉の刃に含まれた、痛切なまでの自己嫌悪と悲しみ
ホシノの眉が、僅かに、けれど確かに揺れ動いた
「可愛いとか、目が離せないとか……。それって、私を一人前の対策委員会の一員として見てないってことでしょ? シロコ先輩やノノミ先輩のように強くもないし……アヤネちゃんのように事務作業やサポートができる訳でもない……。そんな私が弱くて、すぐ攫われたりするから、ホシノ先輩は私を『守らなきゃいけない子供』としてしか見てないのよね……っ!」
夕日に照らされ、堰を切ったように溢れ出したセリカの本音
その瞳に溜まった涙が頬を伝い、悔しさと情けなさに震える彼女の姿を見た瞬間、ホシノの胸に鋭い痛みが走った
(……あぁ、そうか。私、また間違えちゃったかな……)
何も言わず、ただ泣きじゃくる後輩を見つめるホシノの脳裏に、これまでの自分の振る舞いがリプレイのように浮かんでは消えていく
未来で傷ついた彼女を知っているからこそ、今度は傷ひとつつけたくないと、無意識に「守られるだけの存在」として型に嵌めてしまっていた
よかれと思って注いできた過剰なまでの甘やかしが、自立心の強いセリカにとっては、自分を一人前と認めてくれない「壁」となり、彼女をここまで孤独に追い込んでしまっていたのだと、ホシノはようやく突きつけられた
今まで必死に耐えて、溜め込んできたセリカの想いが、涙と共にポツリポツリと、屋上のコンクリートに黒い染みを作っていく
ホシノは、自分の過保護が彼女の自信を削っていた事実に静かな衝撃を受けながら、それでも今、目の前で全力でぶつかってきてくれたセリカの熱量に、かつての自分を叱咤してくれた「未来のあの子」の面影を改めて強く感じていた
ホシノは一歩、セリカに近づくと、その震える肩をそっと抱き寄せた
「……セリカちゃん」
「離してよ……。私、もっと強くなりたかったのに……みんなに安心して任せてもらえるように……っ」
「……ごめんね」
「……え?」
ホシノの絞り出すような、ひどく真剣な響きを孕んだ声に、セリカの思考が凍りつく
いつもなら「セリカちゃん、無理して強がってるところも可愛いね〜」といった、のらりくらりとしたふざけた言葉が返ってくるはずだった
なのに、今のホシノは初めて聞くような、飾りのない剥き出しの口調でセリカに謝罪をしている
「なんで……先輩が謝るのよ」
「私がセリカちゃんに甘えていたから、セリカちゃんをここまで追い込んじゃったんだよね……」
「っ……ち、ちが……」
「ううん、これは私の甘えだったの。セリカちゃんの『強さ』にね」
ホシノの言葉を即座に否定しようとしたセリカだったが、「強い」と言われた衝撃に言葉を失った
自分は弱く、未熟で、常に誰かに守られなければならない対象なのだと思い込んでいた
それなのに今、目の前の先輩は、自分が信じていた評価とは正反対の言葉を、確信を込めて告げている
セリカが驚きのあまり言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす中、ホシノはさらに言葉を重ねた
夕闇が深まり、屋上を包む風が少しだけ冷たさを帯び始める。しかし、二人の間に流れる空気だけは、どこまでも熱を帯びていた
「おじさんがこの学校で……ううん、この世界で一番信用しているのは、セリカちゃんなんだよ」
「え……?」
想定外の言葉に、セリカは弾かれたように顔を上げた。その拍子に、睫毛に残っていた涙がひとしきり零れ落ちる
ホシノは一瞬、愛おしむようにゆっくりと目を閉じた
瞼の裏に浮かぶのは、かつてユメ先輩と二人きりだった孤独な世界で、ホシノに「今の生き方」を指し示したあの少女の姿
未来という、今の彼女にとっては知る由もない場所から、たった一人でこの時間軸へと迷い込み、心細さを微塵も見せずに笑っていたセリカ
自分やユメ先輩の身を案じ、アビドスの未来のために誰よりも泥臭く足掻いていた、あの凛々しい背中
ホシノは静かに目を開け、かつて自分を救ってくれた「未来のセリカ」への尽きせぬ感謝を、今、目の前で泣きじゃくる「今のセリカ」へと、祈りを込めるように手渡した
「もちろん、シロコちゃんやノノミちゃん……アヤネちゃんも信じてる。もちろん先生のこともね? でも……セリカちゃんのひたむきなところや、アビドスを誰よりも愛して、絶対に諦めないで突き進むところ。おじさんは、そんなセリカちゃんの背中を、誰よりも頼もしいと思っているんだ」
「……信用、してるの? 本当に、私のこと」
震える声で、確認するようにセリカが問う
その瞳は、もはや「守られる子供」のそれではなく、一人の戦士としての光を宿し始めていた
「当たり前だよ。おじさんが変なことをした時に、真っ先に怒鳴って止めてくれるのは、セリカちゃん以外に考えられないよぉ〜。君がいてくれないと、おじさん、どこまでも怠け者になっちゃうからね」
最後にはいつもの、どこか拍子抜けするような「おじさん」らしい笑みに戻り、ホシノはセリカの頭を小さな手でわしゃわしゃと乱暴に、けれど最高級の愛情を込めて撫で回した
「ちょ、ちょっと! もう! せっかく真面目な話をしてたのに、台無しじゃない!」
セリカは真っ赤な顔をして、乱れた髪を直しながらいつものように威勢よく文句を叩きつける。しかし、その表情からは先ほどまでの重苦しい自責の念や、孤独な影は綺麗さっぱりと消え去っていた
「これからも、セリカちゃんのことを頼りにしてるよー? よろしくね、頼もしい後輩ちゃん」
「……ええ、任せなさい! ホシノ先輩がサボったり変なことしたりしたら、私がビシバシ言っていくんだから! 覚悟しておきなさいよ!」
「ええ〜、それはちょっと見逃して欲しいな〜? おじさん、もっとお昼寝したいよぉ……」
情けない声を上げるホシノと、それを容赦なく叱り飛ばすセリカ
二人の笑い声と喧騒は、紫紺に染まりゆくアビドスの空へと溶け込んでいった
甘やかしは時として毒になりますよね…