セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
ようやく呼吸を整えたセリカは、まだ微かに震える手でパジャマの裾をきつく握りしめた
先ほどまでホシノの胸を借りて、子供のように甘えて泣きじゃくっていた自分を客観的に思い出したのか、その頬は月明かりの下でも分かるほど朱に染まっている
「……あのね、アヤネちゃんと一緒にいた時、確かに聞こえたのよ。誰かが啜り泣いているような、低くて気味の悪い声が……。それで気になって、お仕置きしてやろうと思って一人で生徒会室に踏み込んだの。そしたら、部屋の真ん中に見たこともない『黒い影』みたいな、霞のようなものがゆらゆらと揺らめいていて……」
セリカは遠い記憶をたぐり寄せるように視線を泳がせる
その瞳には、恐怖を通り越した「得体の知れないもの」への畏怖が滲んでいたように見えた
「……気づいたら勝手に体が動いていて、その影に指先が触れた瞬間、視界が爆発したみたいに真っ白になったの。――次に目を開けた時、そこはもう校舎の中じゃなくて、全然知らない場所に飛ばされていたわ」
その荒唐無稽な告白を聞いたシロコは、わずかに首を傾げた。いつも通り無表情ではあるが、その瞳は嘘や誇張を見逃さない鋭い光を放ち、じっとセリカの顔を覗き込む。
「ん……セリカ、それ本気で言ってる? 夢でも見てたんじゃないの?」
シロコの淡々とした、けれど重みのある言葉が静まり返った室内に響く
「最近、バイトのシフトも詰め込んでたし。……慢性的な睡眠不足による、一時的な解離症状……あるいは、脳が見せた精巧な幻覚とか」
「ううん、夢なんかじゃない! 断言できるわ!」
セリカは顔を上げ、シロコの疑念を振り払うように声を荒らげた
その必死な訴えには、単なる悪夢や脳の悪戯で片付けるには、あまりに重すぎる実感が籠もっている
「肌を刺すような夜風の冷たさも、喉の奥が焼けるような渇きも……それに、あそこで『あいつら』と戦った時に受けた衝撃も、怪我の疼きも……全部、全部リアルだった。意識が遠のく寸前に感じたあの土埃の匂いまで、はっきりと覚えてるもの。……あれは、絶対に現実だったのよ」
セリカの瞳に宿る熱量に、疑っていたシロコもわずかに眉を寄せ、黙り込んだ。単なる錯乱にしては、彼女が語る情報の解像度が高すぎる
しかし、その後に続くアヤネの冷静な指摘が、対策委員会のメンバーたちの間にさらなる奇妙な溝を深めていった
「……おかしいですね。セリカちゃんの言うような『夜な夜な黒い影のようなものが、独りで歩いている』なんていう怪談、アビドスの古い記録にも、今のネットワークの噂話にも一つも載っていませんよ? そもそも本当に物理的な質量を持った物体なら、校内に張り巡らせたシロコ先輩の最新鋭の防犯センサーが黙っていないはずですし……記録上、異常は一切検知されていません」
アヤネが眉間に皺を寄せ、端末のログを高速でスクロールしながら不思議そうに首を傾げると、セリカの顔がみるみるうちに驚愕に染まっていく
「えっ……嘘でしょ? あんなに有名な話を……。そ、それじゃあ、他の怪談は? 砂の中に引き摺り込む『砂の手』の話とか、図書室の開かずの棚の話とか……」
「……どれも、聞いたことがありません。アビドスの怪談といえば、先ほどのホシノ先輩が話したユメ先輩の『単位の執念』くらいなもので……」
全員が当惑し、首を傾げる
ノノミも少しだけ眉を下げ、心当たりを探るようにゆっくりと口を開いた
「セリカちゃん、もしかして、どこか他の学校の噂話と勘違いしていませんか? 私たち、ずっと一緒にここで過ごしてきましたけど、そんな不気味な影の話は一度も……」
「そんな……嘘……。だって、あんなに当たり前のように語られてたのに。そ、それじゃあ……」
セリカはそこで言葉を切り、喉の奥で何かを必死に飲み込むような仕草を見せた
そして、何かに縋り付くような、今にも折れてしまいそうなほど震える瞳で、じっとホシノを見つめ、問いかけた
「ねぇ、ホシノ先輩。……ユメ先輩は? ユメ先輩は今、どうしているの?」
その唐突な問いに、ホシノだけでなく、シロコやノノミたちも一様に首を傾げた。なぜ、怪談や不可思議な現象の話から、急にユメの名前が出てくるのか。その意図が測れず、室内に重苦しい沈黙が降りる
(ユメ先輩……? ユメ先輩のことなら、当然セリカちゃんも知っているはずなんだけど……。でも、今のセリカちゃんの目は……)
ホシノは胸のざわつきを抑え込みながら、言葉を絞り出すように答えた
「……ユメ先輩なら、もう、ここにはいないのは当たり前だよ?」
ホシノの脳裏には、数年前にこの学び舎を巣立っていった彼女の、晴れやかな卒業式の光景が浮かんでいた
だが、あえて「卒業して」という言葉を口に出すことはしなかった。セリカのあまりに悲痛な表情が、その言葉を喉の奥に押し止めたからだ
「……あ、……そう、よね……。……ごめんなさい、変なこと聞いて。……ちょっと、混乱してただけみたい」
セリカは力なく項垂れ、その肩が目に見えて落胆に震えた。その姿は、単なる「聞き間違い」や「状況の勘違い」で済ませるにはあまりに悲痛だった
まるで、この世界に希望が残っているかどうかを確認し、そしてそれが残酷にも打ち砕かれたことを確信してしまったかのような――そんな決定的な絶望の色が、彼女の小さな背中に深く影を落としていた
ノノミが少しだけ眉を下げ、気まずい沈黙を埋めるようにゆっくりと口を開いた
「……直接の怪談ではありませんが、以前、古い文献で目にしたことがあります。『人の強い後悔に惹かれ、その執着が作り出した幸福な幻を見せる影』。迷い込んだ者は、自分が心の底で一番望んでいたはずの光景の中に閉じ込められ、時を忘れてしまうのだとか……。もちろん、ただの古いお伽噺でしょうけれど」
ノノミの穏やかな声が部室の静寂に溶け込んでいく中、ホシノだけは一人、暗い思考の深淵に沈んでいた
(セリカちゃんがこのお泊まり会に誘った……はず。でも、アヤネちゃんたちの反応や、今のセリカちゃんの言葉の端々が、どこか決定的に噛み合っていない。ただの記憶違いや、疲れからくる混濁なんてレベルで片付けていいのかな)
ホシノの脳裏に、かつて――別の時間線で、別れを告げる直前のセリカが静かに語った、あの「最後」の言葉が鮮烈に蘇る
『前にも話したでしょ。仲間たちと学校の怪談を追っていたら、私一人だけ変な場所に迷い込んだって。……あれね、嘘じゃなかったの。本当の話だったのよ、ホシノちゃん』
あの時、セリカが語った怪談の調査。そして、今目の前にいる彼女が抱えている、自分たちの「日常」とは決定的にズレた記憶
なにより、ユメが「ここにいない」と言った時に見せた、まるでもう二度と会えない人を思い浮かべたかのような、あの凍りついたような絶望の顔。そして――
(ホシノちゃ……)
ホシノを抱きしめた瞬間に零れ落ちた、あの信じられないほど甘やかで、かつて聞いた誰よりも切実な呼びかけ
その答えの一端にたどり着いた時、ホシノは内側から湧き上がる激しい衝動を抑えるように、微かに頭を振った
(……まだ、確証はない。おじさんの考えすぎかもしれない。でも、もし……もし、あの時、未来に帰ったはずのセリカが……今目の前で震えているセリカちゃんだったとしたら? ユメ先輩が「生きている」はずだと信じて、縋るようにさっきの疑問を口にしたのだとしたら……?)
仮説が真実味を帯びるほど、ホシノの心臓は肋骨を突き破らんばかりに激しく高鳴る
ホシノは、パジャマを握りしめるセリカの細い指先を、痛いほどの熱量を込めて見つめ続けた
やがて、騒ぎに疲れた後輩たちは一人、また一人と深い微睡みの底へと落ちていった。等間隔に響く穏やかな寝息が、静まり返った部室に満ちていく
しかし、ホシノだけはその平穏の輪に入ることができずにいた
頭の中に溢れ出した情報の濁流が、鋭いナイフのように意識を覚醒させ続け、閉じた瞼の裏には、先ほど泣きじゃくったセリカの絶望的な瞳が焼き付いて離れない
――ガラッ。
静寂を切り裂くように、部室の引き戸が僅かな隙間を開けて滑る音がした。砂を噛んだような特有の摩擦音
(……誰か、外に出た……?)
ホシノは反射的に息を潜め、死んだふりをするように瞼を数ミリだけ開けた
音が止み、重苦しい静寂が再び訪れる。その数秒後、何者かの気配が、忍び足で廊下の向こうへと遠ざかっていくのが分かった
ホシノは音を立てずに上半身を起こし、隣の布団へ視線をやった
そこにあるはずの膨らみは平らになり、つい先ほどまで確かに存在していた、愛おしい温もりだけが虚しく残されていた
セリカの姿が、どこにもない
窓から差し込む月光が、無人の廊下に青白い道筋を描いている
ホシノはパジャマ姿のまま、吸い寄せられるように立ち上がった。まるで、目に見えない糸で手繰り寄せられるかのように
他の三人を起こさないよう、ホシノは衣擦れの音さえ立てずに布団を抜け出し、音を殺して教室を後にした
廊下に染み出した月光の冷たい影に身を潜め、セリカに見つからないよう慎重に、けれど獲物を追う獣のような確かな足取りでその背中を追いかける
深夜の校舎は、昼間の賑やかさが嘘のように死に絶えていた
乾燥した風が砂に削られた窓ガラスを鳴らし、ひゅるひゅると泣くような音を立てる
その中を、セリカは一度も振り返ることなく進んでいく。その足取りは、目的もなく歩いているものではなく、まるで何かに引き寄せられるかのようだった
彼女が辿り着いたのは、旧生徒会室
その重厚な扉の前で足を止めると、セリカは躊躇うことなくノブに手をかけ中に入っていった
ホシノは数秒の間を置き、早鐘を打つ鼓動を抑えながら、扉を数センチだけ開け、その隙間から月光に照らされた室内を覗き込む
チェス盤のような光と影の模様を床に描く、静謐な空間。セリカは、今は使われていない、厚く埃を被ったはずの机の前に立ち尽くしていた
彼女は、まるでついさっきまで主がそこに座り、優しい笑顔で自分を迎えてくれたかのような、慈愛と郷愁が複雑に絡み合った瞳でその天板をそっと撫でた
その指先は、砂の粒一つ、傷の一つまでを愛おしむように繊細で、見守るホシノの胸を万力で締め付けるような痛みが走る
(セリカちゃん……一体、何を……?)
ホシノが困惑と、恐ろしいほどの期待の狭間で息を呑んだ、その時だった
「……行きたかったな。みんなで笑える、最高のお祭り」
静寂に溶け出すような、あまりにも切実で、やるせなさに満ちた呟き
それは、今の対策委員会の「後輩」としてのセリカが抱くには、あまりに重く、あまりに深い後悔の毒に侵されていた
驚きに目を見開くホシノを余所に、セリカはパジャマのポケットから、宝物を扱うような手つきで何かをゆっくりと取り出した
窓から差し込む月光を反射して、キラリと、冷たくも温かい光を放ったそれを見て、ホシノの心臓はさらに跳ね上がった
それは、あの日。まだ三人が「生徒会」として、まるで本当の家族のように寄り添い、希望だけを信じていた頃
わがままを言えないホシノを気遣い、ユメが笑って、セリカが強引に「三人お揃いにしよう」と言って選んでくれた、あのクジラのキーホルダーだった
それは今、ホシノが肌身離さず懐に入れている、鍵束に付いているものと寸分違わぬ一対の片割れ
確実に、この平和な時間を生きている「1年生」としてのセリカが持っているはずのないものだった
そのキーホルダーは、ホシノたちが2年前に手に入れた、あの日あの時だけの宝物
当時、まだ入学すらしていなかった今の彼女が、それと寸分違わぬものを手にしている矛盾
それは、彼女が凄惨な過去と血を吐くような執念を潜り抜けてきた、時を超えた絆の証に他ならなかった
「…………っ」
その輝きを見た瞬間、ホシノの視界は一気に歪み、熱い涙が溢れ出した
確信が、熱い奔流となって胸を突き上げてくる。確率がどうとか、論理がどうとか、そんな壁はもはや意味をなさない
ホシノの魂が、目の前の少女の正体を、その痛みを、そして彼女がどれほどの愛を持ってここへ帰ってきたのかを、理屈を超えて理解してしまった
気がつけば、頬を一筋の熱い涙が伝い落ちていた。ホシノは慌ててそれを手の甲で拭い、声にならない嗚咽を喉の奥で押し殺す
肺に吸い込む空気の一点一点が、まるで鋭いガラスの破片のように胸の奥を突き刺し、熱い感傷を呼び覚ましていた
(おかえり……セリカ……)
心の中で、何度も、何度も、壊れ物を抱きしめるようにその名前を呼んだ
月光の下で孤高に佇むその後姿は、あまりにも小さく、けれどあまりにも強靭な意志を秘めている
こみ上げる衝動に突き動かされ、ホシノの足が、無意識に一歩前へと踏み出しかける。指先が、その震える背中に届きそうなほどに伸びた
(……今すぐ、セリカを抱きしめに行きたい。……もう一人じゃないよ、おかえりって、叫んであげたい……!)
喉の奥まで出かかった慟哭に近い言葉を、ホシノは奥歯が砕けんばかりに噛み締めて飲み込んだ
その刹那、脳裏を掠めたのは、あの別れの間際にセリカが枯れた声で叫んだ、涙ながらの決意だった
『必ずお祭りを開いて見せます!! だから必ず……セリカも来てください……!』
あの日、荒れ果てた倉庫の中で彼女と交わした、魂の契約とも呼ぶべき大切な約束
もし今、堰を切った感情に任せてその正体を暴いてしまえば、彼女が命懸けで守り、繋ごうとしているこの「平和な日常」という脆いガラス細工を、自分自身の手で砕いてしまうかもしれない
(……そうだね。約束は、何があっても守らないと。おじさん、これでも先輩なんだから。そんな格好悪い姿、見せられないよ……)
ホシノは溢れ出しそうな激情を、一つ一つ丁寧に胸の奥の檻に仕舞い込み、自分を律するように深く、長く息を吐いた
愛しき後輩の背中に、万感の想いと祈りを込めて最後にもう一度だけ視線を投げると、影に紛れるようにして音も立てずにその場を離れ、仲間たちが待つ教室へと一人静かに引き返した
ふかふかの布団が並ぶ、安らかな闇の中へ戻り、再び横たわる。隣の空いた布団の、主を欠いた冷たさが、セリカが独りで歩んできた果てしない砂漠の夜のようで、胸が締め付けられるほどに痛む
けれどホシノは、毛布を固く握りしめ、静かに彼女の帰りを待つことに決めた
朝が来ればセリカはきっと、いつものように勝気で、口うるさくて、けれど誰よりも優しい「後輩」として自分に接してくるだろう
自分を「ホシノちゃん」と呼ぶことのない、記憶のズレを隠し通そうとする彼女として
今すぐ抱きしめて、君がいない世界でどれほど自分がセリカに会いたかったのかを話したい
その温もりに縋って泣き明かしたい
そんな身勝手な欲望を心の奥底へと封印し、ホシノは「最高のお祭りを見せる」という約束を果たすための、重く、けれど誇り高い覚悟を静かに固めるのだった