セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
混濁した視界の向こうから、熱を帯びた風が容赦なく肌を叩きつける
ここは、一体どこなのだろう
意識の端々が火花を散らすように痛み、自分が誰であるかという確信さえ、荒れ狂う砂嵐の向こう側へと溶けかかっていた
全身を苛むのは、焼けるような擦り傷と、芯まで響く重い打撲の感触。今すぐにでも痛む箇所を押さえ、その場にうずくまってしまいたいのに、指一本すら自分の意志では動かない
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
肺を焼くような荒く短い呼吸が漏れる
今のセリカに理解できるのは体が悲鳴を上げている事実と、そして――自分の意志とは無関係に何かに取り憑かれたような速度で砂漠を全力で駆けているということだけ
「ホシノちゃん!!」
不意に、背後から切実な叫びが響き渡る
聞き間違うはずもない、あのユメ先輩の声
抗えぬ衝動に操られるまま体が振り返ると、そこには自分と同様に満身創痍となりながら、必死にホシノの名を呼ぶユメの姿が映り込んだ
「ホシノ先輩っ!」
「戻ってきて……お願い……っ!」
シロコ、アヤネ、ノノミ。そして、異界の存在であるクロコまでもが、絶望に縁取られた表情で一点を凝視している
霧が晴れるように、急速に視界が鮮明さを取り戻していく
辺りは一面、死の世界。崩落した瓦礫の山と、全てを飲み込まんとする砂。その地獄のような光景の只中に、彼女は立ち尽くしていた
「っ……小鳥遊、ホシノ……」
絞り出すような声を漏らしたのは、空崎ヒナだった
常勝無敗を誇るゲヘナの風紀委員長が、頭から血を流し、誇り高い翼を無惨に傷つかせ、力なく膝をついている
その光景を目にした瞬間、セリカの脳裏に強烈な既視感が走る。この光景を、この絶望を、私は「知っている」
かつてハイランダー鉄道学園によるアビドスの買収工作が激化し、眠れる巨兵「列車砲シェマタ」を巡る悪意が胎動し始めたあの時。セリカの知る歴史において、それは亡きユメ先輩が遺した、あまりに皮肉で残酷な署名から始まった悲劇の幕開け
過去の因縁を断ち切るため、そして愛する母校と後輩たちを守るため、ホシノはたった一人でその重責を背負い、夜の闇へと消えていった
その果てに辿り着いた、最悪の終着駅
「…………」
今、目の前で虚ろな瞳を見開いているホシノは、まさにその結末そのもの
白く輝くはずのヘイローは歪に折れ曲がり、身に纏う空気は禍々しい色彩の奔流に侵食されている
ユメ先輩が生存しているこの世界線でさえ、彼女は結局、同じ「テラー化」という地獄へ至ってしまった
(なんで……っ? ユメ先輩がいるってことは、私の知っている状況とは違うはずなのに……)
思考が混線し、激しく火花を散らす。同じ悲劇が繰り返されるはずがない。ユメ先輩が生きているのなら、彼女の言葉が届かないはずなどないのに
なぜホシノは、この幸せな世界においてなお、独りで暴走し、闇に堕ちる道を選び取ってしまったのか
いくら自問自答を繰り返しても、答えは無情な砂の中に消えていくだけ
だが
動かないはずの喉が、確かな熱を帯び始める
何を言えばいいのかは分からない。論理的な言葉なんて一つも浮かんでこない。けれど、魂が叫びを上げている。今、この瞬間の彼女に伝えなければならない「何か」が、確かにあるのだ
(……っ! ……今なら、言える……そんな気がする!)
直感がセリカの唇を強引に突き動かそうとした、その刹那
「――ッ!!」
天を裂くような不吉な咆哮が響き渡り、空間そのものが激しく軋んだ。テラーと化したホシノの背後、深淵のような闇の中から、巨大な異形の影が這いずるように姿を現す
砂漠の神の名を冠する、災厄の権化――「セトの憤怒」
それは、闇に堕ちたホシノを守るためではなく、むしろ彼女が絶望で見守る「愛すべきもの」を全て灰にするために、無慈悲な殺意を孕んだ雷光をその身に纏わせている
「セトの憤怒」が放つ漆黒の雷鳴。その切っ先が狙ったのは、動けないホシノではなく、彼女に必死に声を届けようとしていたセリカたちの方だった
(このままだと私達も……ホシノ先輩も!!)
破滅的な光景が目前に迫り、視界が白光に飲み込まれていく
だが、その絶対的な絶望を前にして、セリカの魂は恐怖を突き抜け、かつてないほどに熱く燃え上がった
内側から溢れ出す熱量のすべてを注ぎ込み、彼女は、頭の中に閃いた「その言葉」を全力で叫んだ
「ーーーーーー!!!」
――ジリリリリリリリリ!!
「っ!?!?」
叫び声が空気に溶け去るよりも早く、無機質なアラーム音が鼓膜を容赦なく突き刺す
弾かれたように跳ね起きたセリカの視界に映り込んだのは、荒廃した砂漠などではなく、見慣れた自室の天井だった
「はぁ、はぁ……っ……ゆ、夢……?」
額に滲んだ冷や汗を乱暴に拭い、肋骨を突き破らんばかりに波打つ鼓動を鎮めようと、セリカは強く胸を押さえる
肺の奥まで熱を帯びた、あの砂漠の焦げ付くような空気の感覚がまだ鼻腔に残っている
今まで視界を埋め尽くしていたのは、単なる脳が見せた幻影、ただの悪夢に過ぎなかったのだろうか
「……痛くない。けど……」
触れれば砕けそうだった指先も、熱を帯びていた筈の擦り傷も、現実の肌の上には見当たらない
しかし、あのアスファルトに叩きつけられたような衝撃、吹き付ける砂礫のざらついた感触、そして何より、仲間たちのあの世の終わりのような絶望に満ちた表情。それらはあまりに鮮明で、夢という言葉で片付けるには、あまりにその輪郭が鋭利すぎた
セリカは乱れる呼吸を整えながら、懸命に、先ほどまで網膜に焼き付いていた光景の残滓を繋ぎ合わせようと試みる
黄金に染まった死の砂漠、喉が枯れるほどのユメ先輩の叫び、異形へと変貌し色彩を失ったホシノ、そして血を流しフラフラと立つヒナ……
凄惨なディテールは驚くほど明確に、その記憶の座に居座っている
ただ――。
最後に、喉を引き裂かんばかりの想いで叫ぼうとした「あの言葉」だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、あるいは不可視の境界線によって遮られたかのように、記憶の底から綺麗に消え去っていた
「……さっき、私はなんて叫んだの? それに、あの夢……」
ベッドの端に腰掛けたまま、セリカは自分の両手を見つめる
夢の中で感じた、あの焼けるような喉の熱さ。絶望に染まったユメ先輩の瞳と、テラーと化したホシノ先輩の、全てを拒絶するような凍てついた視線
現実の指先には、あの時感じた砂の熱も血の生々しさも残ってはいない。けれど、胸の奥底には、まるで冷えた鉛を無理やり飲まされたような、逃れようのない重苦しさが沈殿し続けていた
(そういえば……最近も、似たような夢を何度も見ていた気がする。けど、あそこまでハッキリとした……肌に刺さるようなリアリティを感じたのは、初めてだわ)
砂まつりが無事に幕を閉じ、アビドスに束の間の平穏が訪れてからというもの、セリカの眠りは目に見えて浅くなっていた
夢の内容はいつも断片的で、支離滅裂だ。自分のよく知るアビドスの校舎、自分が歩き慣れたはずの砂漠。けれど、そこにはいるはずのない誰かが笑っていたり、逆に、そこにいて当然のはずの誰かが決定的に欠落していたりする
ひとたび目覚めてしまえば、その違和感の正体は砂漠の逃げ水のように霧散し、ただ「何か変な夢を見た」という奇妙な焦燥感だけが、泥のように意識の底に溜まっていく
「……なんなの……。夢というより、まるで誰かの記憶を覗き見てるみたいな……」
時折、自分自身の思考の中に「自分であって自分ではない誰か」の経験が混濁するような、不気味な感覚に襲われる
だが、寝起きの頭をフル回転させて夢の残滓を必死に追いかけようとしたその時、視界の端で光るデジタル時計の数字が、セリカを容赦なく現実の義務へと引き戻す
「っ……あ!! 今、何時!? 遅刻しちゃう!!」
跳ね上がった心臓が、今度は別の意味で激しく脈打つ
今日はアヤネが数日前から「絶対に遅れないでくださいね」と、分厚い眼鏡の奥の瞳を光らせて念を押していた定例会議の朝だ
昨日のドタバタした薬騒動の報告書作成や、深刻さを増す砂漠化への防衛計画の見直しなど、議題は山積しているはずだ
目覚まし時計を完璧にセットしていたはずなのに、あの夢の衝撃のせいで、気がつけば家を飛び出さなければならない時間の数分前を指している
「あーもう! 朝ごはん食べてる時間もないじゃない!」
感傷に浸る余裕など、その瞬間に霧散した
セリカは跳ねるようにベッドから飛び出すと、嵐のような手際で身支度を整え始める
リボンの角度を整え、スカートの皺を手のひらで乱暴に払い、机に散らばったカバンの中身を必要最低限だけ叩き込む
「行ってきます!」
半分ほど飲み込んだ声と共に、彼女はアビドスの乾いた朝の空気の中へ、弾丸のような勢いで飛び出す
それから、自分でも驚くほどの脚力――まるで先ほどまでの夢の中で感じていた、あの必死な疾走感をそのまま現実へスライドさせたようなスピードで通学路を駆け抜け、対策委員会室の重厚な扉を肩で押し開く
「ぎ、ぎ……ギリギリ、セーーーフ!!」
「あはは、セリカちゃん、おはよ〜。朝から景気がいいねぇ」
肺が焼けるような呼吸のまま、激しく肩を上下させるセリカを出迎えたのは、いつものように長机に突っ伏したまま、気だるげに、けれど慈しむように手を振るホシノの声だった
「ん、おはよ……セリカ。大丈夫? なんだか、顔色が……紙みたいに白い」
椅子から腰を浮かせたシロコが、じっと無機質な瞳でセリカを観察する。その視線には、いつもの淡々とした調子の中に、隠しきれない身内への懸念が混じっていた
「え、ええ……。ちょっと寝坊しちゃって、慌てて走ってきただけ。……それより、アヤネちゃんは?」
セリカは乱れた呼吸を整えようと努めながら、部室を見渡した。まだアヤネの姿は見当たらない
「アヤネなら、今日の定例会議で使う資料のコピーを取りに行ってるよ。……ほら、セリカ。髪、ハネてる。……あと、これ私のだけど、飲みかけじゃないから。スポーツドリンク」
シロコが音もなくセリカの傍らへ歩み寄り、無造作にその細い指先を伸ばしてセリカの乱れた髪を整え始める
「っ…!」
その指先がうなじのあたりに微かに触れた瞬間、セリカの脳裏に、夢の中で見た「傷だらけで絶望に染まったシロコ」の横顔がフラッシュバックする
一瞬、全身の毛穴が逆立つような恐怖に襲われ、セリカは反射的に身をすくませてしまう。だが、すぐに伝わってきたのは砂漠の朝の冷気を帯びたシロコの指先の確かな温度と、差し出されたペットボトルの冷たさだった
「ありがと、シロコ先輩。……ふぅ、本当に死ぬかと思ったわ」
受け取ったスポーツドリンクを一口含み、喉を焼くような渇きを癒やす
とりあえず、定例会議の開始には間に合った
いつもの部室の匂い、気だるげなホシノ、いつも通りのシロコ。ユメ先輩も、今頃はシャーレで先生の手伝いや仕事に追われながら、いつものように楽しそうに笑っているのだろう
全てはいつも通りの、平和で、退屈ですらあるアビドスの日常
……そう自分に強く言い聞かせながらも、セリカの耳の奥では、まだ夢の中の自分が放とうとした「叫び」の残響が、実体のない幽霊のように虚しく響き続けていた
「……さて、全員揃いましたね。おはようございます」
その凛とした声と共に、アヤネが大量のプリントを抱えて戻ってきた
彼女は眼鏡のブリッジをクイと指で押し上げ、威厳を保とうとするようにホワイトボードの前に立つ
「……アヤネちゃん。もうあっちこっちに貼られてた、あの恥ずかしい写真のことは、そろそろ忘れてくれると助かるんだけど」
セリカが昨日の騒動を思い出し、顔を赤らめて釘を刺す
ホワイトボードからは既にあの「恥辱の写真」は跡形もなく剥がし取られていたが、アヤネの双眸には、まだ昨日から続く感情の激しい揺らぎ、いわゆる「情緒の乱れ」が微かな影を落としているように見えた
「こ、こほん! その話は、今の議題には関係ありません。いいですか、今朝の議題は……最近、学園周辺で囁かれている『アビドスの七不思議』についてです。これより、その実態の調査と、必要に応じた対策の策定を行いたいと思います」
アヤネが配った資料の表紙には、どこで覚えたのか、不気味に歪んだ手書き風のフォントでデカデカとタイトルが躍っていた
それを見たセリカは、毒気を抜かれたような顔で深く眉をひそめる
「……ちょっと待って。この学校に七不思議なんて、いつの間にできたのよ? 毎日ここで過ごしてる私たちが知らないなんて、おかしくない?」
「はい。つい最近のことらしいのですが、砂漠のあちこちやネットワークの片隅で、急激にその噂が広まっているんです」
アヤネはいつになく真面目な顔で、眼鏡の奥の瞳を光らせた
その横では、相変わらず長机に顎を乗せていたホシノが、パタパタと眠そうに、けれど子供のように好奇心を隠しきれない様子で目を輝かせている
「うへ〜、七不思議かぁ。おじさんも初耳だね。アビドスの古びた校舎なら、お化けの一人や二人くらい出ても不思議じゃないし……どんな怖いのが出るのか、楽しみだなぁ」
「のん気なこと言わないでよ、ホシノ先輩。……っていうか、そもそもこの学校には私たちしかいないじゃない。誰がそんな噂を立てるのよ? 放っておいたら、どうせユメ先輩あたりが面白がって、暇つぶしの『自作自演』で適当な怪談を増やしていくだけに決まってるわ」
セリカが呆れたように吐き捨て、ため息を漏らす。しかし、アヤネは困ったように眉を下げると、さらに補足するように言葉を継ぎ足した
「いえ、今回の情報源は私たち対策委員会でもユメ先輩でもありません。最近、校舎の空き教室や周辺の廃墟に勝手に入り込んでいるヘルメット団たちの間で、『あそこの学校にはヤバいのが出る』と、まことしやかに囁かれている噂なんです。つまり、第三者の目撃談に基づいた情報ですから、外部の評価としての信憑性は極めて高いかと」
「……それ、全然大丈夫じゃないわよ!! 七不思議だの心霊現象だの言う前に、別の問題が発生してるじゃない! 警備体制どうなってんのよ! 勝手に部外者を校舎に入れさせないでよ!!」
セリカの鋭すぎるツッコミが部室の壁を震わせる
怪談の恐怖以前に、不法侵入者が噂の震源地であるという、あまりにもアビドスらしい「治安の不安定さ」が露呈した瞬間だった
「ん、大丈夫。最近私が夜中の運動がてら、見つけたヘルメット団を校門の外に不法投棄してるから。警備体制は万全」
シロコが感情の起伏を感じさせない平坦なトーンで、恐ろしい解決策を提示する
その瞳には「掃除のついで」と言わんばかりの冷徹な効率性が宿っており、不法侵入という深刻な治安問題を、単なる廃棄物処理の次元にまで落とし込んでいた
「まあまあセリカちゃん、落ち着いて。ヘルメット団が怖がって近寄らなくなるなら、それはそれで立派な、コストのかからない防衛手段だと思わない〜?」
ホシノがのんびりと手をひらひらさせて宥めるが、セリカの眉間の皺は深まる一方だった
「そんな後ろ向きで物騒な防衛策があるかー! ……だいたい、シロコ先輩もシロコ先輩よ。不法投棄って何よ、ちゃんとしかるべき場所に突き出しなさいよ! ……ハァ、もういいわ。それで、その『不法侵入者謹製』の七不思議とやらは、一体どんな内容なのよ?」
「ん、セリカ、切り替えが早くて助かる。対応力は一流」
シロコが小さく頷く中、セリカは諦めたようにアヤネから渡された資料に目を落とす
そこには、広大すぎる砂漠に飲み込まれつつあるアビドスの静寂と、主を失った無数の空き教室が織りなす、どこか間の抜けた、それでいて微かな不気味さを漂わせる怪異のリストが書き連ねられていた
「では、まず一つ目からいきましょうか。投稿ネーム:T・Hさんによりますと……『夜な夜な校庭を彷徨い、単位を求めて泣き叫ぶ亡霊』」
アヤネが仰々しく資料を読み上げようとした、その瞬間。セリカの手が激しく長机を叩き、部室に乾いた音が響き渡る
「それ! この前も言ったと思うけど、ホシノ先輩がユメ先輩に勉強を無理やり教えてた時の光景を、ホシノ先輩が面白おかしく誇張して吹聴してるだけよね!? しかも、そのT・Hって……小鳥遊ホシノのイニシャルそのまんまじゃない!!」
烈火の如きセリカのツッコミが炸裂し、部室の温度が一段階跳ね上がる
その剣幕に押されながらも、当の張本人であるホシノは、寝癖のついた髪を指先でポリポリと掻きながら、「うへ〜」と気の抜けた声を漏らした
「あれれー? おじさん、そんなに熱心に広めてたかなぁ。アビドスの知名度を上げるための、ちょっとした広報活動の一環だと思ってたんだけどねぇ」
「ん……ホシノ先輩、ヘルメット団を怖がらせて追い払うために、遭遇するたびにかなりの熱量でこの話を怪談っぽく言いふらしてる。目撃証言の多さはホシノ先輩の努力の賜物。……でも、度を越した捏造は良くない。今度またその話を広めたら、ノノミと協力して『ホシノ先輩・徹底的可愛く改造計画』を発動する。ちなみに、ユメ先輩も『面白そう!』ってノリノリで協力予定」
シロコがジト目で静かに、しかし逃げ場のない確定事項として宣告すると、ホシノの顔から一気に血の気が引き、その表情が土気色に変わった
「わーーー!? それだけは本当に勘弁して!? ノノミちゃんやユメ先輩と一緒にショッピングなんて行ったら、何時間も、何十着も可愛い服を着替えさせられ続けて、おじさんのHPも精神力も一瞬でゼロになっちゃうよ!!」
「えー、残念です♪ ちょうど今朝、ホシノ先輩の透き通るような肌の色に似合いそうな、フリルたっぷりの新作ティアードワンピースが届いたところだったのに」
ノノミがどこから取り出したのか、眩しいほどに白く、そしてフリルがこれでもかと装飾された可愛らしい衣装をニコニコと広げて見せる
その背後に見える「本気」のオーラと、優雅な微笑みに隠された執念に、ホシノはガタガタと膝を震わせながら椅子の影へと逃げ込んだ
「……三人とも、遊ばないの!! その改造計画は、私の気が変わらなければ明日にでも決行するとして、アヤネちゃん、続きをお願い。一つ目はもう身内の犯行で、解決済みってことでいいわ」
「セリカちゃん!? おじさんにお慈悲はないの!? このままだとおじさん、明日にはフリフリのぬいぐるみになっちゃうよ!?」
ホシノの必死な命乞いを「うるさいわね」と一蹴するセリカの冷徹な一言。アヤネは困ったように微笑みながらも、事務的な動作で咳払いを一つ挟み、次の資料をめくった
「では、気を取り直して二つ目です……こちらは『ktktヘルメット』さんという方からの目撃情報で……」
「なんだか、お悩み相談でも受け付けてる深夜のラジオ番組みたいになってきたわね、これ」
セリカが呆れたようにツッコミを入れるが、アヤネは真剣そのものの表情で資料を読み上げる
「ええと……内容は、『校舎を彷徨う巨大なクジラの影』。夜、校舎に忍び込んだその人が、背後からズルズルと何か重いものを引きずるような不気味な音を聞き、恐る恐る振り返ると、そこには廊下いっぱいに広がる巨大なクジラのシルエットが歩いていた……というものです。目撃者はあまりの恐怖に気を失い、気づいた時には校門の外に放り出されていたとか」
その突飛な、けれどどこか幻想的な話を聞いた途端、ノノミがパッと表情を輝かせる
「あらぁ、七不思議ですけれどクジラさんと聞くと、なんだか微笑ましいですね〜。とってもロマンチックです♪」
「そうだねぇ。もしその噂が本当なら、おじさんもクジラさんに会って、広い空を一緒に泳いでみたいなぁ。うへ〜、おじさん、クジラの背中で昼寝するのが夢だったんだよ〜」
ホシノも先ほどまでの「改造計画」への恐怖をすっかり忘れたのか、どこか夢見心地な様子で何度も頷く
セリカも腕を組み、ようやくまともな、あるいは学校の怪談らしい、神秘的なエピソードが出てきたことに、小さく安堵の吐息を漏らした
「ふぅ……。ようやくそれっぽいの、まともなのが出たわね。単位の亡霊だのっていう身内の恥晒し情報じゃなくて、そういう神秘的な話なら、まだアビドスの七不思議として認められなくもないわ」
だが、セリカがそう言って胸をなでおろした直後
シロコの視線が落ち着きなくふらふらと泳ぎ、アヤネが言い淀むように手元の資料を凝視していることに、彼女はまだ気づいていなかった
「まあ、クジラなら、いつもは怖がりのアヤネちゃんや、幽霊とか苦手なシロコ先輩でも、神秘的なお話として受け入れられるわよね……ね?」
同調を求めて二人のほうを向いたセリカだったが、そこに映った光景に思わず言葉を失った
アヤネは顔面を蒼白にして、ペンを握る指先をガタガタと震わせている。シロコに至っては、普段の無機質な瞳をかつてないほど激しく泳がせ、何かに怯えるように肩をすくめていた
それは明らかに「神秘的」という言葉からは程遠い、本能的な恐怖に支配された反応に他ならない
「……ちょっと、まだ二つ目よ!? この先、大丈夫なの!? 先が思いやられるんだけど!」
「だ、だだだだ……大丈夫、です……。ほら、私、対策委員会の書記ですから……この、不穏な怪現象の記録を、完遂しなければ……うぅ……」
アヤネは震える声で、自分に言い聞かせるように支離滅裂な決意を口にする
そのままおもむろに立ち上がったかと思うと、磁石に吸い寄せられるような足取りでセリカの横へと移動し、あろうことかセリカの制服の袖を荒波の中の命綱でも掴むかのような必死さでギュッと握りしめた
「ちょっと! 全然大丈夫じゃないじゃない! 完全に腰が引けてるし、私を盾にしてるわよ!」
「ん……クジラ、物理的に大きすぎる。海ならいいけど、狭い廊下で鉢合わせたら、確実に圧殺される……。逃げ場がない……最悪。ノノミ、盾になって……」
「あらあら、シロコちゃん、かわいいですね〜♪ よしよし、私が守ってあげますよ〜」
セリカが反対側に視線をやると、そこではシロコがノノミの豊かな胸元に顔を埋めるようにして、完全な「ひっつき虫」と化し、ノノミはそれを聖母のような微笑みで受け入れ、優しくシロコの銀髪の頭を撫でていた
もはや会議としての体裁は見る影もなく崩壊しかけていたが、セリカはズキズキと痛み出したこめかみを指で押さえ、天を仰いで深い溜息をつくしかなかった
「そ、そそそ、それでは三つ目……投稿ネーム、senseiさんからです……」
「ちょっと待って、それ思いっきり『先生』じゃない! あの人は、いつの間にヘルメット団の怪しげな噂話の輪に混ざって投稿なんてしてるのよ! 暇ならシャーレに溜まった仕事の山を片付けなさいよ!」
セリカの鋭い絶叫が響き渡るが、今の物理的・精神的に限界を突破しているアヤネにその怒声を受け止める余裕はない
彼女はセリカの剣幕を右から左へと機械的に受け流し、震える指先でプリントの端を握りしめながら、強張った声で読み上げ続ける
「な、内容は……『自動で掃除される砂漠の廊下』、というものらしくて。先日、たまたま二日連続でアビドスに用件があった先生が、初日に砂で膝の高さまで埋もれていたはずの北校舎の廊下が、翌朝には塵一つないほどピカピカに磨き上げられていたのを目撃したそうです」
「え? それって怪談なの? むしろ、おじさん的にはありがたいだけの精霊さん的な何かじゃない〜?」
ホシノがのんびりと首を傾げて尋ねる。アビドスの生徒にとって、終わりのない砂との戦いは過酷な日常そのものだ
朝起きれば窓が埋まり、放課後には玄関が砂利だらけになる。それが勝手に片付いているというのなら、それは怪異というよりは「神の慈悲」に近い福音のはずだ
しかし、アヤネは青ざめた顔で首を左右に激しく振り、その不自然さを強調した
「綺麗なのは確かに良いことなのですが……問題はその規模と効率なんです。旧校舎の三階から講堂に至る、あの広大な廊下が、一晩でチリ一つない鏡面状態になっていたそうで。人間の手で、ましてや隠密にやったにしては、大規模な重機集団でも投入しない限り絶対に不可能な速度……というのが七不思議入りした理由だそうです」
「重機……。誰かが夜中にショベルカーやロードスイーパーを何台も持ち込んで、無報酬で深夜ボランティア掃除をしてくれたってこと? そんな酔狂な業者がいるわけないじゃない」
セリカが眉をひそめて想像を巡らせるが、どうにも現実味がない
もしそんな凄まじいエンジン音が響いていれば、近隣の住民が気づかないはずがないのだ
「誰にも気づかれず、一切の駆動音すら立てずに、一晩で広大な廊下を磨き上げる……。それ、もしかして重機じゃなくて、本当に『本物のお化け』の仕業なんじゃないの?」
セリカが無意識に漏らした呟きに、アヤネが掴む袖の力が、悲鳴を上げるような強さでさらに増し、布地が引きちぎれんばかりの力加減に、セリカは「痛い痛い!」と顔をしかめる
アヤネはセリカの袖を固く握りしめたまま、逃れられない運命を呪うような悲壮な覚悟で、四つ目の資料をめくった
「それでは……よ、四つ目……投稿ネーム『onnsenn大好き』さんからです」
「だから、もうそれ完全にラジオ番組の投稿コーナーじゃないの!? そもそも、温泉掘り当てるために夜中の学校に忍び込むってどういう神経してるのよ! 掘る場所を完全に間違えてるでしょ!」
セリカの絶叫に近いツッコミが部室の空気を震わせる中、アヤネは引きつった表情のまま、震える指で資料を読み上げる
「こ、この人が温泉を掘り当てるために夜の旧校舎へ忍び込み、地質調査と称して地下室へと続く階段を降りていた時のことです。埃っぽく、月明かりも届かない地下の廊下……壁に掛けられていた『誰かの自画像』の前を通り過ぎようとした瞬間……その絵から、はっきりと声が聞こえたらしいんです」
「……急にガチのホラーに寄せてくるじゃない。話の落差が激しすぎるわよ。それで、その肖像画、なんて聞こえたのよ?」
セリカも無意識に身を硬くして先を促す。アヤネは資料の一文をなぞりながら、どこか困惑したような声で続けた
「ええと……『ここには温泉はないよぉ〜。あったら私が真っ先に入ってるよぉ〜』……だそうです」
静まり返る部室
あまりにも不気味なシチュエーションに対して、その発言内容があまりにも緊張感と危機感に欠けていた
それを聞いた途端、先ほどまで「不法投棄」だの「圧殺」だのと怯えていたシロコとアヤネが、すん、と驚くほど綺麗に真顔に戻る
「ん、それくらいなら怖くない。ただの独り言の多い絵。実害ゼロ」
「はい。幽霊というよりは、ただの寂しがり屋の地縛霊のようですし、話が通じるなら交渉の余地さえありますね。私もこれなら平気です」
「……あんたたちの『怖さの沸点』がどこにあるのか、いよいよ分からなくなってきたわよ……。クジラの影には腰を抜かさんばかりに驚いてたのに、喋る肖像画にはそんなに冷淡なの!?」
クジラにはあんなに怯えていたのに、明らかに怪奇現象である「喋る絵」をあっさりと受け流す二人の基準
セリカは理解を拒むように深く、深々とため息をついた。その様子を隣で見ていたホシノが、クスクスと肩を揺らして笑いながら、セリカの背中をポンポンと叩く
「あはは……セリカちゃん、そんなに全力でツッコミ続けてたら、調査が始まる前に脳の血管がブチ切れちゃうよ〜? おじさん、セリカちゃんの健康が一番心配だよ〜」
「誰のせいでこんなに血圧が上がってると思ってるのよ! ……はぁ、もういいわ、アヤネちゃん続けて。次は何? 5つ目? 6つ目?」
「では、五つ目……投稿ネーム『skban』さんから。タイトルは『引きずり込む図書室』です」
「……ちょっと待って。そもそも、この学校に図書室なんてあったっけ? 倉庫の間違いじゃなくて?」
セリカが記憶の糸を辿るように首を傾げ、部室内を見渡すと横からホシノが「うへ〜」と大きなあくびを漏らしながら答えた
「さぁ? おじさん、文字を読むのはお品書きか宝くじの結果発表くらいで十分だからなぁ。本なんて難しいものが詰まってる部屋、アビドスにあったかなぁ〜?」
「ん、本なんて読まなくても身体を動かせばいい。筋トレに使える図鑑なら欲しいけど、基本的には知らない」
「二人とも、後輩に示しがつかないこと言わないでください! 学習環境の把握は生徒の基本ですよ! ……ノノミ先輩、どこかにありましたっけ?」
アヤネがすがるような思いでノノミに視線を向けると、ノノミは上品に頬に手を当て、少しだけ困ったように微笑んだ
「アヤネちゃんも知らないのね……。対策委員会の事務作業に追われて、校舎の方はあまり見ていなかったのかしら」
「ふふ、ここの二階の奥、西館の突き当たりに、砂に半分埋まった図書室がありますよ〜? 今は閉鎖されていますけれど、蔵書だけはかなりの数が残っているはずです。今度みんなでお掃除に行きましょうか♪」
ノノミの流石の補足に「あ、やっぱりあったのね……」と納得するセリカを横目に、アヤネが強引に話を元に戻す
「こほん……その図書室に夜、近づいた者の証言です。ヘルメット団の二人組が肝試しに訪れた際、扉の隙間から伸びてきた『謎の不可視の力』によって、片方のメンバーだけが強引に中に引きずり込まれたらしくて。相方が慌てて扉を開けようとしても、まるで壁のように微動だにせず、抗う間もなく閉じ込められてしまったそうです。そうして、残された方が絶望的な気分で扉の前で一夜を明かすと……翌朝、扉がひとりでに開き、中からぐったりとした様子の本人が解放されたとのことです」
「二人で行って、片方だけが連れ去られる……!? なにそれ、いよいよ本格的な怪談じゃない。夜の図書室なんて暗くて埃っぽいし、そこで一晩中一人きりなんて、想像しただけで精神的にきそうだわ。閉所恐怖症になりそうというか、生きた心地がしないわね……」
セリカが腕をさすりながら本気で顔を青ざめさせると、アヤネは困惑したように眼鏡のブリッジを押し上げた
「ですが、奇妙なのはその後のことなんです。連れ去られた本人は、中で何をされたのか、何があったのかを一切覚えていないのですが……解放されて以降、なぜかその人のテストの成績が爆発的に上がったと喜んでいるそうですよ。本人曰く、朝、解放された時には何故か頭がかつてないほどスッキリしていた、と」
「……はぁ!? なにその謎のプラスアルファな情報! 七不思議の恐怖に関係あるの!? お化けっていうより、もはや拉致監禁スタイルのスパルタ家庭教師じゃないのよ!」
セリカが激しくツッコむ横で、ホシノが「うへ〜、おじさんもそこに一晩入ったら、明日から秀才になれるのかなぁ」と呑気に笑う
セリカは、薄暗い図書室で朝まで強制的に何かを叩き込まれるという、怪異としての恐怖と学問的なプレッシャーが混ざり合った、ある種「現実的」な悪夢に少しだけ身震いしながら想像を巡らせた
「それでは六つ目ですね。投稿ネーム:black clothesさんからです」
アヤネが事務的にその名を読み上げた瞬間、部室内の賑やかな空気が、まるで瞬間凍結したかのようにわずかに凝固した
セリカがふと隣の気配を窺うと、先ほどまで「うへ〜、おじさんも秀才になりたいな〜」などと余裕をぶっこいていたホシノの横顔から、急速に血の気が引き、陶器のように真っ白に強張っているのが目に入る
「……ちょっと、ホシノ先輩? 急に顔色が土気色になってるわよ。大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
「あ、えっと……な、なんでもないよ! ほら、おじさん最近ちょっと寝不足っていうか、ただの立ちくらみ! 栄養不足かなぁ、あはは! 全然気にしないで!」
明らかに声のトーンが上ずり、視線を泳がせる挙動不審なホシノ
セリカは訝しげに首を傾げたが、アヤネは迷うことなく、冷徹な響きすら伴う声で次の資料を読み進める
「えーと、内容はこうです。『夜、学校に忍び込んだ際、屋上の方に白い髪の女性が立っているのを目撃した。しかもその姿は、頭から胸元までしか見えず、足が透けているどころか下半身が存在せず、まるで中空に浮いているように見えた』……とのことです。報告によれば、目撃者が震える足で屋上に駆けつけた時には、一瞬だけ夜風に髪の毛のようなものが翻るのが見えたものの、追いかける間もなく、まるで煙のように霧散して消えてしまったそうです」
「アヤネちゃん……? さっきの喋る自画像の話より、こっちの方が物理的に説明がつかなくて怖くない!? 幽霊そのものじゃない! なんでそんなに淡々と、まるで明日の献立でも発表するみたいに平気な顔でいられるのよ!」
セリカの悲鳴に近い問いかけに、アヤネは眼鏡のブリッジを中指でクイと押し上げ、無機質な事務的トーンで淡々と答えた
「え? だって、幽霊だろうが不審者だろうが、形を伴って視認できるなら、アサルトライフルで制圧射撃を加えれば解決しますし。実体があるにせよないにせよ、戦術的な制圧対象として認識できれば、恐怖を感じる必要はどこにもありません」
「ん……同感。動くなら、撃てば止まる。止まらないなら、弾丸の口径を大きくする。至極単純な理論」
シロコまでがアヤネの横でコクコクと深く頷く
その瞳には一切の迷いがなく、先ほどクジラの影に怯えてノノミに泣きついていた少女たちとはもはや別人――まさに数多の修羅場を潜り抜けてきた「アビドス対策委員会」の戦闘員としての、冷徹なプロ(?)の顔だった
「待って! だったらさっき、あんなに怯えてたクジラだって、あんたたちの理屈なら撃てば解決するでしょ!? なんでクジラだけはあんなに腰を抜かしてたのよ!」
セリカの、あまりに正論すぎる憤りを込めたツッコミ。しかし、それを聞いた瞬間にシロコとアヤネの表情が劇的に「可憐な乙女」へと戻り、セリカを薄情者を見るような軽蔑の目で見つめた
「ええっ!? セリカちゃん、あんなに砂漠を優雅に泳ぐ神秘的なクジラさんに、無慈悲に弾丸を叩き込むなんて……そんなこと、できるわけないじゃないですか! もしかして人の心が無いんですか!?」
「ん……セリカは鬼。血も涙もない、冷酷非道な悪魔。平和を愛する動物愛護精神の欠如……軽蔑する」
「だああああああああーー!! もう! 私の血管が本気でブチ切れる前に、さっさと話を進めてちょうだい!!」
セリカは堪りかねて机をバンバンと叩き、怒髪天を衝く勢いで絶叫した
すぐ隣で、ようやく正気に戻ったホシノが「どうどう、セリカちゃん、落ち着いて〜。そんなに怒るとお肌が荒れちゃうよ〜」と、まるで興奮した暴れ馬を宥めるかのような手つきで、セリカの頭をワシャワシャと強引に撫で回してくる
「私は馬か!! ……ハァ、ハァ……。もういいわ、次。次が最後でしょ?」
「はい。それでは最後、七つ目です。これだけは、実際に誰かが体験したという具体的な投稿はありません。アビドスの古い文献に古くから伝わる伝承の類なのですが……」
アヤネのトーンが、今までにないほど低く、真剣な響きを帯びる
「『人の強い後悔に惹かれ、その執着が作り出した、あり得たはずの幸福な幻を見せる影』。……これがアビドス七不思議の最後を飾り、砂漠の伝説として数千年前から君臨する、最も古く、最も正体不明の怪異です」
(っ……!?)
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、セリカの心臓が不自然なほどドクンと大きく、そして重く跳ねた
(私がここに帰ってきた時にも聞いた怪異……。そして、一番初めにこの世界が私の知っている世界じゃないと知れたきっかけ……。もしかしたら、私が過去に飛ばされたことも、最近見るあの夢も、全部これが原因……?)
思考が渦を巻き、部室の景色がわずかに歪む
もし、この「幸福な幻を見せる影」が全ての元凶なのだとしたら。自分が今感じているこの、あまりにも都合が良くて幸せな世界すらも、誰かの強い後悔が作り出した「幻」に過ぎないのではないか
そんな恐ろしい疑念が、鋭い氷の棘となって一瞬だけセリカの心を掠めた
セリカは知らなかった。自分のすぐ隣で、ホシノがいつもの「おじさん」という仮面を脱ぎ捨て、祈るような、あるいは何かを静かに見定めるような痛切な眼差しで、自分の横顔を見つめていることに
その瞳に宿る色が、後悔なのか、それとも覚悟なのか、今のセリカには知る由もなかった
「……それでは、明日から一つずつ解決していきましょう! 私たちの平穏な学園生活に、不審者や正体不明の不純物は不要です!」
アヤネがパンと景気よく手を叩き、会議の終了を宣言する。その凛とした事務的な声に弾かれるようにして、セリカは強引に思考を現実へと引き戻した
「え、ええ……そうね! パッパと片付けて、ついでにヘルメット団も砂漠の果てまで追い出しちゃいましょう!」
努めて明るい声を張り上げ、セリカは勢いよく立ち上がる。だが、机に残された資料の最後の一行――『幸福な幻』という文字だけが、嫌な予感と共に網膜に焼き付いて離れなかった
「……うへ〜。明日から忙しくなりそうだねぇ、セリカちゃん」
いつの間にか元の「ぐうたらなおじさん」の表情に戻ったホシノが、ひらひらと手を振りながら歩み寄ってくる
その間近にある体温を感じて、セリカはようやく自分の指先が芯から冷え切っていたことに気がついた
「……そうね。ホシノ先輩もしっかり働いてよね、昼寝ばっかりしてないでさ!」
「わかってるって。おじさん、セリカちゃんのためなら、お化け退治だってなんだって頑張っちゃうよ〜?」
その冗談めかした、いつもと変わらない軽い言葉の裏に、どれほどの重い決意が込められているのか
まだ、誰もその真実に触れないまま、再構築されたアビドスの新しい一日が、静かに動き出そうとしていた
なんだか知った名前がいくつかありましたね〜だれが投稿しているのでしょう?