セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
その日の放課後、アビドス対策委員会の部室には、窓から差し込む西日が長くオレンジ色の尾を引いていた
テーブルの上にはノノミが「今日はお疲れ様です♪」と差し入れしてくれたバターの香りが豊かな高級焼き菓子の箱が広げられている
穏やかな午後のティータイム
しかし、セリカは手にした紅茶を啜りながら、ふと視線を落とした。そこには主のいない二つの空席がある
「それにしても……ホシノ先輩とシロコ先輩、いつまで経っても来ないわね」
「そうですね…そろそろ時間なのですが…」
セリカの呟きに、机いっぱいに広げた古い校内地図や資料を整理していたアヤネが眼鏡の奥の目を手元の時計に向けた
針は刻一刻と、約束の時間を指し示そうとしている
思い返せばそれは今日の午前中。アビドスの平穏を脅かす(かもしれない)「七不思議」の調査スケジュールを話し合っていた時のこと
「では、今夜20時にこの教室で合流しましょう。それぞれ夜間調査用の荷物を忘れないように。21時ちょうどには本格的な調査を開始したいので、絶対に遅れないでくださいね」
対策委員会の書記として、アヤネはいつになく事務的で、どこか自分を鼓舞するような厳格な口調で予定を告げていた
すると、隣でだらしなく机に突っ伏していたホシノが重たそうな瞼を擦りながら頼りなくヒラヒラと右手を挙げる
「あ、20時か〜。悪いんだけど、おじさん少し遅れてくることになりそうなんだけど、大丈夫かなぁ?」
「……何か外せない用事でもあるんですか?」
不審げに眉をひそめるアヤネの問いにホシノは「んー、ちょっとした野暮用がね〜」と、いつもの掴みどころのない調子で笑って誤魔化す
「一足遅れて合流する時にはさ、パトロールが終わってすぐそのまま朝までぐっすり眠れるように、寝巻き姿で来ちゃうね〜」
「……一応これ、学校の『調査』なのよ? 仕事みたいなものなんだから、もうちょっと緊張感というものを持ちなさいよ、先輩!」
セリカがすかさず呆れたようなツッコミを放つが、ホシノは「うへ〜、夜の学校は静かで寝心地が良いからね〜」と、まるでピクニックの準備でもするかのような緩い返事しか返さない
「ん。それなら私も、少し個人トレーニングのメニューが残ってるから、後で合流する。そろそろ大きなサイクリングの大会があるから、徹底的に追い込みをかけておきたい」
今度はシロコが、自転車の整備をしながら真剣な眼差しでそう宣言した
彼女にとっての「メニュー」が常人離れした、もはや軍の特殊訓練に近い負荷であることは今や部員全員の共通認識だったからだ
「……結局、あの自由人二人が揃わないまま、夜になっちゃったわね」
セリカは窓の外に目を向けた。空はすでに深い群青色へと溶け落ち見渡す限りの砂漠は夜の冷気を帯びて静まり返っている
午前中の会議で読み上げられた「七不思議」の不気味な内容が不意に脳裏をかすめる
――廊下を埋め尽くさんばかりに蠢く、巨大なクジラの影
――誰もいないはずの校舎で、一晩のうちに磨き上げられる長い廊下
(……もし、本当にそんな怪異が実在して、今の私たち三人の前に現れたら。……私達だけで対抗できるのかしら……)
セリカはわずかに震える指先を隠すように冷めかけた紅茶を最後の一滴まで一気に飲み干した
「さて、アヤネちゃん、ノノミ先輩。そろそろ21時よ。あの二人が来るのを待ってても日が暮れる……っていうか、もうとっくに暮れてるし! 先に私たちだけで始めちゃいましょうか」
「そうですね。準備は万端ですよ〜♪ ……セリカちゃん、そんなに銃のグリップを白くなるほど強く握らなくても大丈夫ですよ? 」
「べ、別に怖がってるわけじゃないわよ! ほら、これはただの準備運動みたいなものよ! それに、隣でガタガタ震えてるアヤネちゃんよりかは、数倍マシでしょ!」
「わ、わわわ、私だって怖がってなんか居ませんからね……っ!? こ、これはただの武者震いですから!」
余裕の笑みを浮かべるノノミの優しい眼差しに顔を赤らめながらセリカは無理やり自分に気合を入れる
こうして、最強の戦力であるホシノとシロコを欠いたまま心許ない三人の「先行調査隊」は、闇に沈んだ静寂の校舎へと足を踏み出すことになった
しんと静まり返った夜の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように異質な空気を纏っている
窓の外から差し込む月光は風に舞う砂漠の砂を青白く不気味に照らし出しているが、校舎の奥へと進むほどにその光は遮られ、闇は深海のように重く、粘り気を帯びていく
セリカとアヤネは互いの心臓の鼓動が聞こえてきそうな距離で身を寄せ合い、まるで命綱にすがるかのようにノノミの制服の裾を左右からぎゅっと掴んでいた
手にした懐中電灯の頼りない光を震えながら振り回し、石橋を叩いて壊すような慎重な足取りで一歩ずつ進んでいく
「ね、ねぇ……アヤネちゃん。やっぱり校舎の電気、付けちゃダメなの……? スイッチ一つで、この心臓に悪い暗闇とおさらばできるんだけど……」
セリカの声は、自分でも情けないと思うほど小刻みに震え、静かな廊下に弱々しく響いた
正直なところ、正体不明の「七不思議」そのものよりも自分の足音さえ怪物に聞こえてしまうこの極限の静寂と、闇に精神を削られている
「だ、ダメですよ、セリカちゃん……。こういうのは、ありのままの環境で観測しないと、超常現象のエネルギーを霧散させてしまう可能性がありますから……。それに、電気を付けた瞬間に『何か』と目が合ったらどうするんですか……っ!」
そう答えるアヤネもまた、眼鏡が恐怖の汗で曇るほどに荒い呼吸を繰り返し、その膝は生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていた
そんな、今にも泣き出しそうな二人を引率する形になっているノノミだけは暗闇を楽しむかのように鼻歌でも歌い出しそうな余裕に満ちていた
「ふふ、私はとっても楽しいですけれど♪ セリカちゃんもアヤネちゃんも、そんなに必死に私の服を掴んじゃって……。二人とも小動物みたいで、とっても可愛らしい姿が見られただけで、今夜はもう満足です♪」
「笑い事じゃないわよノノミ先輩……! ひっ、今の音、何!? 風!? それとも幽霊が私の耳元で笑ったの!?」
極限状態の二人が、窓の軋みや建材の収縮音にまで過剰反応しながら廊下の曲がり角に差し掛かった、その時だった
闇の向こうから――「ズル……ッ、ズリ……ズルズル……」という、重量のある物体を床に無理やり引きずるような、鈍く不気味な音が近づいてきた
「「ひぃぃぃぃぃ!?」」
アヤネとセリカは悲鳴を上げながらお互いに抱き合い、あろうことか生命線である懐中電灯を床に放り出してしまう
転がったライトの光が激しく回転し、天井や壁を不規則に、そして暴力的に照らし出して、現場の恐怖をさらに煽り立てた
「もー、私の可愛い後輩たちを怖がらせるのは誰ですかー?」
ノノミだけが動じることなく、手元の強力なタクティカルライトを正面へと向ける
真っ直ぐに伸びた鋭い光の帯が闇を切り裂き、廊下の奥を鮮明に映し出すと、そこには腹側が真っ白で背中が深い青色をした特徴的なシルエットを持つ「巨大なクジラ」の姿が浮かび上がった
「ひ、ひぃっ……! 出、出ましたぁぁぁぁ! 七不思議の『校舎を泳ぐ巨大なクジラ』! 本物ですよ、本物が出ちゃったんですってば!!」
アヤネが絶望的な声を上げる中、クジラの巨体の背後から、あまりにも聞き慣れた、そして緊張感のカケラもない欠伸混じりの声が響いた
「ん〜……だぁれ〜? おじさん、せっかくいい気分で歩いてたのに、眩しいんだけどぉ……」
「え? この声……ホシノ先輩……?」
セリカが混乱しながらも床に落ちたライトを拾い上げ、恐る恐る光源を声の主に向ける
そこには、ピンク色の髪を眠そうにかきむしり、片手には無造作にショットガンを、そしてもう片方の腕で自分よりも大きなクジラのぬいぐるみをズルズルと引きずっているホシノが立っていた
しかも、その格好はいつもの制服ではなく星や月の模様があしらわれた可愛らしいパジャマ姿で寝ぼけて半目になったまま、「うへ〜」と間の抜けた声を漏らしている
「あ、みんな〜。教室に行ったけど誰もいないから探したよー。おじさん、パトロール終わったらそのまま寝られるように準備万端で来たから、ちょっと歩くの疲れちゃった」
「ホ、ホシノ先輩……あんた、なんでそんなバカでかい抱き枕を抱えて夜の廊下を歩いてるのよ……」
「これ? 最近の私のお気に入りなんだ。抱き心地が最高でさ〜」
「そんなことは聞いてないわよ! 全然答えになってないわよ!?」
セリカの肩から一気に力が抜けてしまった。へルメット団たちが震え上がっていた「廊下を彷徨う巨大なクジラの怪異」の正体は、単に寝巻き姿で私物を引きずって移動していた、アビドス最高の戦力にして最大の自由人だったのだから
「ホシノ先輩、こんな夜にその格好で、一体全体ここで何をしていたんですか?」
ノノミがクスクスと笑いながら問いかけると、ホシノは抱え込んだクジラの腹に顔を埋めるようにして、ふにゃふにゃとした口調で答えた
「いや〜、最近ここに忍び込んでくるヘルメット団がやけに多かったでしょ? だから日課のパトロールをね〜。みんなとの七不思議探索の邪魔になっちゃいけないと思って、先に一通りお掃除しておこうかなって。おじさん、気が利くでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、セリカの脳内でバラバラだった点と線が、強烈な勢いで繋がった
セリカは痛むこめかみを指で押さえ半ば確信を持ちながら震える声で尋ねる
「……ねぇ、もしかしてホシノ先輩。今までもずっと、その格好で見回りしてたの?」
「え? なんで分かったの? 冴えてるねセリカちゃん! 最近はパトロールが終わったらすぐに布団にダイブして眠れるようにって、この格好で歩くのがマイブームなんだよ。このクジラさん、肌触りが最高でさ〜パトロールの癒しになってもらってるの」
ホシノはそう言って、特大のクジラを愛おしそうにギュッと抱きしめる。その姿はどこからどう見ても、ただの「寝る準備が完璧すぎる女子高生」であった
「やっぱりあんたじゃないのよ!! 七不思議の『校舎を彷徨う巨大なクジラ』の正体は!!」
セリカの絶叫が夜の廊下に木霊する
「ええっ!? おじさん、いつの間にアビドスの新名所になってたの!? 心外だなぁ、おじさんはただの善良な警備員だよ〜」
「善良な警備員はパジャマでショットガン持ってクジラを引きずり回さないわよ! 多分だけど、ホシノ先輩の索敵と制圧が早すぎて、侵入者は暗闇の中で『巨大なクジラの影』を見た瞬間に気絶させられてるのよ。それで、目が覚めたら校門の外に転がされてるんだから、そりゃあ都市伝説にもなるわよ!!」
セリカの至極真っ当な推論に、ホシノは「なるほどね〜、あはは! じゃあ、これで無事に七不思議の二つ目は解決ってことだね。一件落着〜!」と、どこまでも能天気なピースサインを掲げた
「あ、あはは……。まあ、理由はどうあれ、お騒がせなクジラさんの正体が分かって良かったですね♪」
ノノミはいつものように優雅にフォローを入れるが、セリカの表情は晴れない。それどころか、彼女は引きつった笑みを浮かべながら、首を横に振った
「……いや、全然無事じゃないと思うわよ。ホシノ先輩、あっち見て」
セリカが憐れみの混じった視線で自分の隣を指差す
ホシノが首を傾げながらそちらへ視線を向けると、そこには月光を反射してレンズの奥の瞳が全く見えないほどメガネを真っ白に曇らせた、アヤネが立っていた。その周囲には、文字通り物理的な「怒気」が渦巻いている
「あ、アヤネちゃん……? そんなに黙り込んじゃって、どうしたのかな〜? おじさんに何か言いたいことでも……」
ホシノの額から一筋の冷汗が流れる
「私もさっきは本気で心臓が止まるかと思ったから、多少の怒りはあるけど……アヤネちゃんに比べたら可愛いものよね」
セリカがそっと距離を取った瞬間、アヤネの口から、地を這うような低い、そして極めて冷徹な声が漏れる
「……ホー、シー、ノー、先、輩……???」
「は、はいぃぃっ!?」
ホシノは反射的に直立不動の姿勢をとり、抱えていたクジラが床にボトッ、と落ちた
「見回りをしてくださること自体は、防犯上大変素晴らしいことです。ですが!! こんな夜更けに、私たちをあんなに無意味に怖がらせて、業務を停滞させた罪は……万死に値します!!」
「え、待って、アヤネちゃん!? なんでそんなに綺麗なフォームで拳を固めてるの!? ちょ、暴力反対! 協議、協議をしようよぉぉ!!」
「問答無用!!」
「うへぁぁぁぁ!?」
ホシノの必死の制止も虚しく、静まり返った校舎内に、かつてないほど鋭い肉体衝突音と、アビドス最強の盾(のはず)の持ち主による悲鳴が響き渡った
数分後
「ふぅ、これに懲りたら、次からはせめて事前に相談してくださいよね」
アヤネは何事もなかったかのように乱れた前髪を整え、手をパンパンと叩いて埃を払った
その足元では、力なく膝をつき、セリカの腰にしがみついて泣きじゃくるホシノの姿があった
「セリカちゃん……おじさんの頭、なんか凹んでない……? 脳細胞が三割くらい砂になった気がするんだけど……」
弱々しく訴えるホシノの頭頂部には、アヤネの教育的指導(物理)が結実した、見事な二段たんこぶがそびえ立っている
「……凹むどころか、景気よく膨らんでるわよ。鏡餅みたいに立派なたんこぶね」
セリカは呆れ果てた溜息をつきながらも、しがみついてくるホシノの背中を、まるで迷子をあやすようにポンポンと叩いた
アビドス最強のホシノも、アヤネの逆鱗という矛の前では形無しである
しかし、シクシクと鼻を鳴らしていたホシノの動きが、不自然なほど唐突に止まった。伏せていた顔を上げ、その獣のように鋭い耳がピクリと微細な振動を捉える
「……どうしたの、ホシノ先輩? また変なこと言ったら、アヤネちゃんから拳のおかわりが飛んでくるわよ」
再び拳を固め、静かな怒りを再燃させようとするアヤネから遠ざけるようにセリカが覗き込むと、ホシノはいつもの緩い笑みを完全に消し去っていた
据わったような、しかし冷徹なまでに冴え渡った真剣な眼差しで、彼女は「しーっ」と指を口に当てた
「なんか……変な音、しない? 下の階の方から……パトロール中には聞こえなかった音だ」
「ホシノ先輩? そうやってまた私たちを怖がらせて、今の制裁を無効化しようとしてるのなら、次は三段目を追加しますよ?」
アヤネが氷点下の声で拳を鳴らすが、隣で周囲の気配を伺っていたノノミが、穏やかな表情を崩して「待ってください」と制止した
「確かに聞こえますね……。何かを引きずるような、でもさっきのクジラさんとは違う……もっと硬くて、乾いた、規則的な音……」
ノノミの言葉に、部室の空気は再び緊張に支配された。全員が呼吸を極限まで潜め、暗闇の奥底から立ち上る「音」に意識を研ぎ澄ませる
静まり返った夜の校舎
その階下、遥か廊下の先から――ザザザ……ザザザッ……――という、細かな砂が激しく、かつ暴力的な速度で掃き出されるような音が響いてきた
それはまるで、何百人もの透明な用務員が一斉に作業を開始したかのような、異様な圧迫感を伴っている
「もしかして、三つ目の……『一晩で音もなく磨き上げられる廊下』の七不思議なんじゃ……」
セリカがゴクリと喉を鳴らし、手に持った銃のグリップに力を込める。アヤネは顔を引きつらせ、眼鏡が落ちそうになるのを必死に指で支えながら、震える声で提案した。
「そ、そうですよ……! これこそが本物の怪異……調査、続行です! き、きっと気圧の変化か、砂漠特有の突風が校舎内に流れ込んで砂を吹き飛ばしてるだけの、極めて合理的な自然現象に決まってます……! さあ、確認しに行きましょう!」
自分の恐怖を論理で塗りつぶそうとするアヤネに、ホシノが頼もしく頷き、ショットガンを構え直した
「了解。それじゃあ、さっきのお詫びとして、次はおじさんが一番前を行くからね。どんな怪異が相手でも、盾の役割はきっちりこなしてみせるよ」
ホシノはたんこぶを赤く腫らし、寝巻きの裾を翻しながらも、その瞳には戦闘員としての鋭い光が宿っていた
ホシノを先頭に、ノノミ、セリカ、そして背後からの襲撃を極度に恐れるアヤネが最後尾を固める。一行は音の源を突き止めるべく、階段の踊り場から慎重に、一段ずつ闇の底へと降りていった
階段を降りきった瞬間、全員の目に飛び込んできたのは、あまりにも異常かつ、どこか幻想的な光景だった
アビドスの廊下というものは、どれほど丁寧に清掃しても、数時間後には砂漠から吹き込む微細な砂で薄らと白く汚れているのが日常の風景だ。しかし今、三人の懐中電灯が映し出したのは、廊下の中央を境界線にして、世界が真っ二つに分かたれたかのような異様な対比だった
左半分はいつも通りのザラついた砂の海、そして右半分は、月光を鋭く反射し、鏡のように滑らかに磨き上げられた漆黒の床。
「ほ、本当に綺麗になってる……。まるで、今この瞬間に誰かが魔法でもかけたみたいに……」
アヤネが震える手でライトを向けると、光は塵一つない床に跳ね返り、天井を白く照らし出した
そのあまりに完璧すぎる「清浄」が、かえってこの世のものではない何かの存在を予感させ、三人の心臓を早鐘のように叩かせる
「でも、これだけなら学校にとってはメリットしかない怪異よね……。お掃除の手間が省けるんだし……」
セリカが自分を納得させるように呟き、わずかに強張っていた肩の力を抜きかけた、その時だった
「あ、音が近くなりましたよ! 向こうです!」
ノノミの鋭い指摘と同時に、廊下の突き当たりから、夜の静寂を暴力的に引き裂く凄まじい「駆動音」と、猛烈な空気が壁を叩く風切り音が響いてきた
――シュゴォォォォ! ざざざざざざざざっ!!――
「ライト、照射! 全員、身を隠して!!」
アヤネの悲鳴に近い叫びに合わせ、全員が反射的に光源を音の主へと向けた。爆光の中に浮かび上がったのは、巨大な幽霊でも、砂漠の怪物でもなかった
白を基調としたタイトなライディングウェアに身を包み、空気抵抗を極限まで減らすために車体へと伏せたシロコが、愛車であるロードバイクで猛烈なスプリントを仕掛けていたのだ
しかも、その後輪部分には、アビドスの技術力の結晶(魔改造)と思わしき巨大なデッキブラシと大型モップが十数本、孔雀の羽のように扇状に固定されている
「んっ! どいて!!」
一陣の暴風と共に、シロコは驚愕して立ち尽くす四人の横を、時速40キロを超える驚異的な速度で駆け抜けていった
彼女の通り過ぎた後には、摩擦熱ですら立ち上りそうなほどピカピカに磨き上げられた純白の廊下だけが、誇らしげに完成している
「へ? 今の……シロコ先輩……?」
セリカが呆然と呟くと、少し先の方で「キキィィィッ!」という鋭いブレーキ音が響き、ゴムが焼ける独特な匂いが夜の校舎に漂ってくる
しばらくして、激しい運動で全身から陽炎のような湯気を立ち昇らせたシロコが、自転車を押し、荒い息を整えながら戻ってきた
「ん、みんな……こんなところで会議? 七不思議探しはどうなったの?」
「それはこっちのセリフよ!? シロコ先輩こそ、練習はどうしたのよ! 20時に部室で合流って、あんなにアヤネちゃんが念を押してたじゃない!」
セリカの詰め寄りに、シロコはタオルで首筋の汗を拭いながら、至極淡々と答えた
「最近はヘルメット団の不法侵入が多いから……。トレーニングのメニューに『校内高速パトロール』を組み込んだ。ただ走るだけだと脚への負荷が足りないから、重り代わりにモップと大型ブラシを付けて、ドラッグ(抵抗)を最大まで増やして走ってる。ついでに校舎も綺麗になる。防犯、練習、美化……一石三鳥」
「デジャブーーー!!」
セリカの魂を削るような絶叫が、磨き上げられたばかりの廊下に虚しく反響した
パジャマ姿でクジラを引きずっていたホシノに続き、シロコまでもが「防犯」と「個人の趣味」を同時に、しかも全力で、夜の校舎という最悪のシチュエーションで実行していたのだ
セリカの叫び声が静まり返った後、ノノミが感心したように、あるいは全てを悟った慈母のような微笑みを浮かべて問いかけた
「あらあら……。それじゃあシロコちゃん、最近この北校舎が朝になると見違えるようにピカピカになっていたのは、全部シロコちゃんが掃除してくれていたからなのね?」
「ん、そうだよ。最近は普通の走行だと物足りない。砂を満載したキャリアを引きずるついでに、床の摩擦係数をゼロにする作業をやってた」
シロコは、額から滴る汗を無造作に袖で拭いながら、ストイックすぎる「ついで」を肯定する
そのあまりにも斜め上の気遣いに、ホシノが赤く腫れたたんこぶをさすりながら、どこか遠い目をして声を上げた
「そういえばさ〜、午前中の会議の時、この『自動掃除の廊下』の話題だけ、シロコちゃん全然怖がってなかったもんね。おじさん、てっきりシロコちゃんはその話題は平気なんだーって思ってたんだよね」
「だったらその時に『それ私の練習メニューです』って一言言いなさいよ!! こっちは本気で呪われるかと思って、遺書まで書きかけたんだからね!」
セリカの至極真っ当な怒鳴り声に、シロコは不思議そうに小首を傾げる
「だって、清掃は美化活動。怪異は超常現象。全くの別物だと思ってた。私の自転車が七不思議になるなんて、計算外」
シロコは、汗を拭う手を止めて淡々と、しかしどこか納得のいかない様子で呟く
彼女の中では「合理的な清掃付きトレーニング」と「恐怖を煽る学校の怪異」は、数学の公式と古文の単語くらい接点のない事象だったのだ
「シロコちゃん? 世の中にはね、言っていいことと悪いことの他に……『言わないと周りが大迷惑すること』っていうのがあるんですよー?」
ノノミの言葉には、いつものおっとりした響きの中に、逃げ場を許さない絶対的な圧力がこもっていた
背後に広がる闇よりも深い微笑みが、シロコの直感に最大の警戒信号を鳴らす
「? それってどういう……」
シロコが言いかけた瞬間、その左肩にガシッ、と岩のような重苦しい感触が置かれ、ビクッ、とシロコの全身が痙攣したように跳ね上がる
「おじさんもね〜、さっき同じように怒られたんだよ……。シロコちゃん、あとは……頑張ってね…」
ホシノが死んだ魚のような目で遺言を残すように囁く
シロコが恐る恐る、錆びついた機械のように首を後ろへ巡らせると、そこには――月光を逆光に背負い、メガネの奥で瞳を怪しく光らせた、本日2度目の「阿修羅」が降臨していた
「あ、アヤネ……?」
シロコの声が、かつてないほどに情けなく震える
「シロコ先輩……。私、怖いのを……死ぬほど必死に我慢してたんですよ。対策委員会の書記として、あと五つの不思議を解明して、みんなの安全を確保しなきゃいけないって、心臓が破裂しそうなのを堪えて……この真っ暗な校舎を、一歩ずつ、半泣きで進んでたんですよ!? でも、もし、シロコ先輩がその練習メニューのことを事前に一言でも、たった一言だけでも報告してくれていたら!! 私の『怖いことリスト』から、一つ項目が減っていたんですよ!! この損失が分かりますか!?」
「あ、いや……その……効率化の観点から言えば、サプライズ清掃のインパクトの方が……」
「覚悟、してくださいね」
アヤネの宣告と同時に、夜の静寂を暴力的に切り裂くような、シロコの独特な悲鳴(「んんんん!?!?!?!?」)が校舎中に響き渡った。それは、廊下を爆走していた時の風切り音よりも高く、鋭いものだった
数分後
「ん……ノノミ……。私の頭……物理的に圧縮されて、体積減ってない……? 脳の体積が半分くらい無くなってる気がする…」
シロコはノノミの豊かな胸元に顔を埋め、涙目で弱々しく問いかけた。指先で頭に触れれば、そこには先ほどまでなかった「異物」が確実に存在している
ノノミはそれを優しく、慈しむように撫でながら、花が咲くような、しかしどこか抗えない慈愛の笑顔で答える
「安心してください♪ 綺麗に膨らんで、ホシノ先輩とお揃いの、鏡餅みたいな二段たんこぶになってますよ〜♪ アビドスの新しい名物になりそうですね」
「二度目のデジャブ……。もうこの学校の怪異、半分以上が身内の奇行じゃない。これもう、七不思議じゃなくて『対策委員会の不祥事』に改名したほうがいいわよ」
呆れ果てて天を仰ぎ、手に持ったアサルトライフルの安全装置をかけ直すセリカ
しかし、そんな彼女の隣では、未だに怒りのボルテージが最高潮に達しているアヤネが、ピカピカに磨き上げられた床をダンダン!! と踏み鳴らして地団駄を踏んでいた
「収まりません……! 怒りが!! 全然!! 収まりませんっ!! なんですか! 七不思議なんて大層な名前をつけて、蓋を開けてみれば心当たりのある『犯人』が五人中二人もこの場にいたなんて!! 私の純粋な恐怖心と、消費したアドレナリンを返してください!!」
アヤネの周囲に立ち昇る、もはや物理的な熱量を感じさせそうなほどの憤怒のオーラ
それを見たホシノは、寝巻きのクジラを必死に盾にしながら、ガタガタと膝を震わせてセリカの背後に隠れた
「ひぃぃ……。セリカちゃん助けて……。おじさん、お化けより、今のアヤネちゃんが世界で一番怖いよぉ……。砂漠に現れるどんな賞金首より怒らせちゃいけないタイプだよぉ……」
「ん……七不思議よりアヤネが怖い……。さっきの衝撃、ショットガンの反動より強かった……。ノノミ、離さないで。今のアヤネに近づくと、本当に脳細胞が砂になる」
シロコもまた、ノノミの胸元に顔を押し付けたまま、恐怖で小刻みに震えている。アビドスの誇る武闘派二人が、一人の書記の前に完全な敗北を喫していた
「自業自得よ、もう……。はぁ、これで残りは……喋る自画像と、引きずり込む図書室、それから屋上の幽霊と……最後の一つ、ね」
セリカは、ようやく半分ほどになった調査資料を眺めながら、深いため息をついた。だが、その瞳の奥には、どこか「身内が犯人だった」ことへの、言葉にしがたい安堵感もわずかに混じっている
夜の校舎に響くのは、怪異の叫びではなく、アヤネの説教と、それを恐れる少女たちの密やかな吐息
アビドスの七不思議・第二と第三の真相は、二つの巨大なたんこぶと共に、深夜の静かな砂の中に埋もれていった
アヤネちゃんブチ切れ回楽しい(?)