セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話   作:気弱

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対策委員会と謎の絵画

アビドスの水平線から昇った太陽が、遮るもののない砂漠を焼き、旧校舎の教室に鋭いオレンジ色の光を投げ入れる

 

窓ガラスの隙間から入り込んだ微細な砂が、光の柱の中でキラキラと踊る朝だ

 

「んんー……っ! なんだか、教室の床で寝るのもだいぶ慣れてきちゃったわね。……あ、腰が全然痛くない。ノノミ先輩が持ち込んでくれた、このフカフカの高級敷布団のおかげかしら」

 

セリカは大きく伸びをして、固まった身体をほぐすように上体を起こす

 

パジャマ代わりにしているジャージの襟を正しながら、まだ重たい瞼を指先でこすった

 

「あ、セリカちゃん。おはようございます」

 

すぐ傍らでは、アヤネが几帳面な手つきで自分の布団を三つ折りに畳んでいる

 

その横、窓際の一角では、すでにいつもの制服に着替えを終えたシロコが、愛車のロードバイクをメンテナンススタンドから下ろしていた

 

「ん、セリカ、おはよう。朝の空気、まだ砂が落ち着いてて気持ちいい」

 

「みんな、おはよ……。あら、アヤネちゃん。今日は珍しく自力で、しかもちゃんと時間通りに起きられたじゃない。いつもなら『あと五分……あと五分だけ……』って、死守しなきゃいけない領土みたいに布団に固執してるのに」

 

セリカの茶化すような言葉に、アヤネは畳み終えた布団を抱えたまま、なんとも説明のつかない複雑な苦笑いを浮かべる

 

「あはは……。実は、その……今朝はノノミ先輩に起こしていただいたんですよ」

 

「え? どんなに揺すってもなかなか起きないあのアヤネちゃんを、一発で? ノノミ先輩、一体どんな魔法を使ったのよ。やっぱり札束でも頬に叩きつけたのかしら」

 

驚きを隠せないセリカに対し、ロードバイクのサドル位置をミリ単位で微調整していたシロコが、淡々とした口調で補足を入れる

 

「それは……ノノミの『声』のせい。ノノミのモーニングコールには三段階のフェーズがある。一回目と二回目までは、天国から聞こえてくるような優しい天使の声。でも、三回目になった瞬間……まるでお母さんが『早く起きないとお仕置きするわよ?』って笑いながら言ってる時のような、逃げ場のない響きになる」

 

「そ、そうなんです……。いつものように無意識で『あと五分……』と言いかけてしまったのですが、三回目のノノミ先輩の声を聞いた瞬間、あんなに優しく笑っているはずなのに、背筋が凍りつくような圧を感じて。気がついたら、軍隊の入隊式みたいに飛び起きて敬礼してました……」

 

アヤネが遠い目をして、思い出したように肩を小さく震わせる

 

「あはは……。私、自分の目覚ましで起きられて本当に良かったわ……」

 

引きつった笑顔で冷や汗を拭うセリカ

 

そんな彼女たちの耳に、廊下から軽やかな足音が聞こえ、ガラリと教室のドアが開いた

 

「みなさーん、朝の緑茶が沸きましたよ♪ いれたてですから、美味しいうちに飲んでくださいね」

 

ノノミが、お盆に乗せた人数分の湯呑みを運んでくると教室中に、芳醇でどこか懐かしい茶葉の香りがふわっと広がった

 

「あ、ありがとうございます。……ふぅ、熱い。……はぁぁぁ……やっぱりノノミ先輩が入れるお茶は、紅茶も緑茶も、なんだか特別な力が宿ってるみたいに美味しいわね。身体の芯まで染み渡るわ……」

 

湯呑みを両手で包み込み、立ち上る湯気を吸い込みながら、しばし和やかな空気に身を委ねるセリカ。だが、ふと周囲を見渡し、肝心な一人の不在に気づいて眉を寄せた

 

「あれ? そういえばホシノ先輩は? まさか、あの人こそ三回目のノノミ先輩の声をスルーして、今ごろどっかの空き教室で二度寝してるんじゃないでしょうね?」

 

「ふふ、ホシノ先輩なら一番に起きて、もう調理場に行っていますよ? 『今日はみんなに、元気が出る朝ごはんを作るんだ〜』って、鼻歌まじりに張り切っていました」

 

ノノミの意外な言葉に、セリカは驚きのあまり湯呑みを落としそうになる

 

「ええっ!? あのホシノ先輩が料理!? ……大丈夫なの? そもそも、あの人って料理なんてできたっけ。せいぜいカップ麺にお湯を注ぐのが関の山でしょ? 何か変なもの食べさせられないかしら」

 

「あれ? セリカちゃんもこの前食べてたじゃないですか。ホシノ先輩がまともに作れる唯一の……」

 

アヤネが言いかけたその瞬間、廊下の向こうから聞き覚えのある、のんびりとした、しかしどこか誇らしげな声が響いてきた

 

「はーい、みんなお待たせ〜。おじさん特製、気合注入朝ごはんが完成したよ〜!」

 

ガラリと教室のドアが小気味よく開き、ホシノが大きなトレイを抱えて現れる

 

その足取りはどこか軽やかで、誇らしげだ

 

トレイの上に乗せられているのは、湯気を豪快に立ち昇らせ、食欲をダイレクトに刺激する香りを放つ――

 

「ん、ホシノ先輩のカレー……! 今日もいい匂い。スパイスの配合、完璧」

 

シロコが、獲物を見つけたハンターのような鋭さと、宝物を前にした子供のような期待を混ぜた表情で身を乗り出す

 

対照的に、セリカはその圧倒的なビジュアルと「朝からこれ?」という重量感に、少し引き気味の苦笑いを浮かべた。

 

「う、嬉しい……嬉しいけど、ホシノ先輩。さすがに朝の六時過ぎからカレーっていうのは、ちょっと胃にキツいわね。朝食っていうより、砂漠を縦断するキャラバン隊の最終兵器みたいな重厚感なんだけど」

 

「セリカちゃん、甘いね〜。おじさんのカレーは格別だよ? 一口食べれば、砂漠の熱気も寝不足のダルさも全部吹き飛んじゃうから。ほらほら、遠慮しないでガッツリいっちゃって」

 

ニヤニヤと自信満々に胸を張るホシノ

 

その隙だらけのドヤ顔を見て、ノノミがクスクスと楽しげに笑いながら、追い打ちとも取れる爆弾を軽やかに投下する

 

「そうですよ、セリカちゃん♪ ホシノ先輩、カレーだけは本当に天才的なんです。……もっとも、他の料理になると『もっと面白くなるはずだよ〜』なんて言いながら、コーラをドバドバ入れたり、どこで拾ったのか分からない謎のスパイス(?)を投入したりして、一瞬で台所を阿鼻叫喚の地獄絵図に変えてしまいますけどね♪」

 

「ちょっ……!? の、ノノミちゃん!? 余計なこと言わなくていいから! おじさんの調理師としての名誉が、今まさに砂になって崩れてるから!」

 

慌てふためき、身振り手振りで弁明しようとするホシノ。だが、その言葉の端々を、セリカは聞き逃さなかった

 

「へー……? ホシノ『ちゃん』、少しお話しよっか?」

 

セリカの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められる。それはもはや「対策委員会の後輩」の目ではない

 

かつてタイムスリップした過去の世界で、まだ一年生だった尖り気味のホシノに、包丁の持ち方から火加減の基礎まで叩き込んだ「料理の師匠」としての、厳格な眼差しだった

 

「い、いやー……。ほら、おじさんカレーなら本当にすごいんだって! 実際、シロコちゃんだって大好きだし、アヤネちゃんだって美味しそうに食べてるし……ねえ?」

 

「……それは、いいことだと思うわよ。一つでも完璧に作れるものがあるのはね。……けど! 料理っていうのは基本ができるまではアレンジ禁止! っていうのを、あの時あんだけ言ったでしょ!? それを分かってて、わざとやってるわけ!? しかも、貴重な予算で買った食材を使って地獄を錬成だなんて……。許せないわ、こうなったら一から十まで、私がその歪みきった料理根性を根こそぎ叩き直してやるわよ!!」

 

「ひぃぃ!? 恩返しにおじさんが朝ごはん作ったのに、それがまさかの特大地雷への特攻だったなんて! セリカちゃん、目が本気すぎるよ! 説教モードだよぉ!」

 

「問答無用! さあ、カレーを食べ終わったら早速マンツーマンで料理の勉強よ! 二度と『面白そうだから』なんて理由でコーラを使わせないからね!」

 

「朝からスパルタ勉強は嫌だよー!! 誰か助けてー!!」

 

「ん、ホシノ先輩……、南無三」

 

朝焼けに染まる校舎に、ホシノの情けない悲鳴と、セリカの鋭い怒号が元気よく木霊する

 

セリカによる「熱血・アビドス料理道場」の苛烈な説教がひとまず一段落し、ホシノが教室の隅っこでクジラのぬいぐるみを抱えながら小さくなっている間に、シロコたちはホシノ特製のカレーを綺麗に平らげた。ピリッとした小気味よい辛さと、長時間煮込まれた深いコク

 

それが寝起きの身体にじんわりと染み渡り、心地よい活力を全身に注入していく

 

シロコが空になった皿を置き、満足げに一つ息を吐く

 

「ん……やっぱり、ホシノ先輩のカレーは別格。これで今日一日の燃料補給は完了。いつでも戦える」

 

「しくしく……。おじさん、みんなのために良かれと思って丹精込めて作っただけなのに。あんなに厳しく言わなくてもいいじゃん、セリカちゃんの鬼ー、悪魔ー、……可愛い後輩ー……」

 

ホシノは愛用のクジラのぬいぐるみをぎゅっと胸に抱きしめ、おどけた調子で嘘泣きをしながら、上目遣いで恨めしそうにセリカを見やる。しかし、セリカは一歩も引く様子はなく、腰に手を当てて仁王立ちしたまま、どこか満足げに鼻を鳴らした

 

「ふん、そんな見え透いた泣き落としに屈する私じゃないわよ。いい、あのカレーがあれだけ完璧に作れるんだから、ホシノ先輩には間違いなく料理の『センス』があるの。それなのに、他の料理がことごとく阿鼻叫喚の地獄絵図に変わるのは、単なる慢心と遊び心が過ぎるからよ! 授かった才能があるなら、それを正しく世のために使いなさい。わかった?」

 

「あはは……。セリカちゃんの熱血指導という名の、溢れんばかりのイチャイチャ・ラブコール……。朝からごちそうさまです」

 

アヤネが手元の書類をトントンと机の角で整えながら、眼鏡の奥の瞳をいたずらっぽく、かつ確信犯的に光らせる

 

「「アヤネちゃん!?」」

 

ホシノとセリカの抗議の声が、一寸の狂いもなく綺麗に重なった

 

「こほん……。失礼、少しばかり本音が滑りました。それでは、朝の不毛な痴話喧嘩……いえ、やり取りも一段落したところで、本日の定例会議を始めます」

 

「ん……。朝からアヤネの頭のネジ、一本どころか三本くらいまとめて取れてる。二人のことになると、途端にブレーキが壊れるのはいつもの事だけど」

 

シロコがストローで水を飲み込み、喉を鳴らしながら呆れたように呟く。その隣でノノミは「あらあら♪」と上品に口元を抑え、微笑みを絶やさない。

 

「アヤネちゃんもたまにはこうして羽目を外さないと、日々の激務とストレスで爆発しちゃいますからね。これくらいが精神衛生上、ちょうどいい塩梅なんですよ、きっと」

 

「ん、客観的に見て、明らかに羽目を外しすぎてる。……まあ、アヤネが楽しそうならいいけど」

 

「……さて。昨日、皆さんが体を張って(主に物理的に)調査してくださった結果、アビドス七不思議は残るところ、あと四つとなりました。ですが、調査を再開する前に、組織の統制として改めて確認しておきたいことがあります」

 

アヤネが急に声を低く落とし、温度の失せた冷徹なまでの鋭い視線をホシノとシロコの二人に向けた

 

その眼光は、どんなに擬態したヘルメット団の伏兵をも見逃さないほど鋭く、逃げ場を塞ぐように二人を射抜く

 

「……残り四つの怪異の中に、何らかの『心当たり』がある人はいませんよね? 夜中にこっそり校舎を高速パトロールしていたり……あるいは特注の大型ブラシを振り回してスプリントしていたり……ね? ホシノ先輩、シロコ先輩」

 

「ひぃっ!? も、もももうないよ! おじさん、誓って心当たりなんて砂粒一つ分もないから! そもそもおじさんにとって、夜の校舎は安眠を貪るための神聖な場所なんだし!」

 

「んっ! 私も、本当に心当たりはない……。パトロールの最適化ルートは昨日の廊下で全て完結させた。だから、そんな汚物を見るような、あるいは獲物を品定めするような目で見ないで……」

 

アビドスが誇る最強の戦術的支柱である二人が、対策委員会最年少の書記官の前に、借りてきた猫のように縮み上がっている

 

その滑稽な光景に、ノノミはくすくすと苦笑を漏らした

 

「あはは……。すっかりアヤネちゃんに手綱を完全に握られちゃってますねー。まるで行儀の悪い猛獣を躾ける猛獣使いさんみたい」

 

「私的には、いつもあんな感じで二人の予測不能な奇行を完璧に抑え込んでくれるなら、精神的にも体力的にも助かるんだけどね……」

 

セリカが大きく肩をすくめ、ホワイトボードの前に立つアヤネに視線を戻した

 

アヤネは満足げに一つ頷くと、ペンを滑らせてボードに迷いのない文字を書き込んでいく

 

「それでは、本日調査する項目の概要をおさらいしておきます。【地下室に飾られた、誰かの自画像が突然話し出す】……今夜はこれを重点的に調査対象とします。今は使われなくなった地下倉庫の奥深くに鎮座していると言われている絵画です」

 

「でも、話すって一体何を話すんだろうね? 案外、明日のお天気を教えてくれるとか、聞きたいことを何でも答えてくれる万能な鏡みたいな、便利な感じかな?」

 

ホシノが少し興味を惹かれたように、クジラを抱き直して身を乗り出す

 

「確かに、その可能性も否定できません。実際に、この学校に温泉が湧き出るかどうかを予見(?)してくれたという、嘘か真か分からない前例もあります。案外、学校の隠された埋蔵金やお宝の場所を教えてくれる、幸運の女神なのかもしれません」

 

アヤネが真面目な顔で、荒唐無稽な怪異に対して真剣な考察を加える。その横でシロコが静かに立ち上がり、愛用のヘルメットを手に取った

 

「ん。それは今日、実際に現場に行けば自ずと判明すること。ここでいくら空論を重ねても、砂漠で落としたコインを探すくらい無意味。今はいつも通りの任務をこなし、牙を研いでおくべき」

 

「そうですね。では、本日も20時にここに集合ということで。それまではみなさん、割り振られた通常業務と校内の警備をお願いします!」

 

アヤネの事務的ながらも力のこもった宣言により、朝の会議は閉会した

 

それからの一日は、驚くほど平穏に、しかし対策委員会らしい慌ただしさの中で過ぎていく

 

アヤネは事務局員としての使命感に燃え、机を埋め尽くす山のような書類と格闘を続け、ノノミは鼻歌を混じえながら校内の備品一つひとつを丁寧にチェックして回る

 

そして調理場からは、いつにも増して賑やかな音が絶え間なく響く

 

「違うって言ってるでしょ! 火力が強すぎ! 焦げたらどうするの!」

 

「えー、おじさんの勘だと、ここでお砂糖と炭酸を隠し味に入れれば未知の化学反応が……」

 

「ダメに決まってるでしょ!! 料理は科学じゃなくて愛情と基本! ほら、計量スプーンを持って!」

 

セリカの鋭い怒号と、ホシノののんびりとした、しかしどこか楽しげな言い訳

 

かつて一年生だったホシノに料理を教えたあの日を彷彿とさせるような、師弟(?)のやり取りが校舎の隅々にまで届いていた

 

気がつけば、窓の外の世界は深い藍色に染まり、砂漠の冷ややかな夜風が校舎の隙間を叩き、笛のような音を鳴らし始めている

 

約束の20時

 

対策委員会の面々は、昨日と同じように、しかし昨日よりも少しだけ「今度もまた身内の仕業であってくれ」という切実な願いに近い疑念を胸に抱きながら、静まり返った暗い廊下へと集結する

 

「……さて。それじゃあ行きましょうか。地下の『喋る自画像』、その正体を暴きに」

 

アヤネが意を決して懐中電灯のスイッチを入れると、純白の光が地下へと続く重厚な鉄の扉を冷たく照らし出した

 

五人は、盾代わりのクジラを抱えたホシノを先頭に一列になり、慎重にコンクリートの階段を下りていく

 

一歩進むごとに、空気はひんやりと密度を増し、砂漠特有の乾いた匂いの中に、古い紙束や鉄の錆、そして長い間、時の止まっていた場所特有の重苦しい香りが混じり始める

 

昨日の「阿修羅」のごとき威勢はどこへやら、アヤネは懐中電灯を持つ指先を小刻みに震わせ、もう片方の手でセリカのジャージの裾を生命線のようにぎゅっと掴んでいた

 

「あ、アヤネちゃん! 階段なんだから、そんなに強く引っ張られたら危ないわよ! 押さないで!」

 

「だ、だって……だって怖いんですもん! この暗さ、昨日までの廊下よりずっと密度が濃い気がします……!」

 

消え入りそうな声で訴えるアヤネの背中に、後ろを歩いていたシロコが、至極ストレートな疑問を投げかける

 

「ん……。昨日の、ホシノ先輩と私を震え上がらせたあの『鬼アヤネ』はどこに行ったの。あれさえあれば、お化けの方から道を開けて逃げていくと思う」

 

「そ、れ、は!! それとこれとはカテゴリーも次元も別だって、昨日も言ったじゃないですかっ!!」

 

アヤネはその体勢のまま、首だけを真後ろにギチギチと捻ってシロコをキッと睨みつけた

 

暗闇の中で眼鏡の奥の瞳が怪しく光り、一瞬だけ「鬼」の片鱗が覗く

 

「わ、私もホシノ先輩と一緒に先頭に行く……。今のアヤネの隣、一番の危険地帯……」

 

シロコは冷や汗を垂らしながら、素早い身のこなしでホシノのすぐ後ろへと避難した

 

そんな騒がしい様子を、最後尾からノノミが「ふふ♪」と鈴を転がすような声で笑う

 

「本当に、みなさん仲がいいですね♪ こうして肩を寄せ合っていれば、どんなお化けさんだって寂しくなくなっちゃいますよ」

 

「……着いたよー」

 

不意に、先頭を行くホシノの足が止まり、彼女の懐中電灯が分厚い鉄製の扉を映し出す

 

長年放置されていたせいか、扉の表面は一面の赤錆に覆われ、ドアノブの上にはうっすらと白っぽい砂が積もっていた

 

ホシノが意を決して力を込め、ノブを回す

 

「ギギギギ……ッ」

 

静寂を暴力的に切り裂くような重い金属音が地下室全体に反響し、五人の鼓膜を震わせた

 

ゆっくりと、重い拒絶を解くように開かれた扉の向こう側――そこは、かつて備品庫として使われていた広大な、そして忘れ去られた空間だった

 

窓一つない地下室。換気ダクトの錆びた隙間から、夜の静寂を縫うように差し込む月光が、宙に舞う埃を淡く照らし出している

 

床一面に薄っすらと降り積もった砂は、かつてここが学び舎の一部であった記憶を覆い隠すかのようだ

 

そこには脚の折れた木製の古い机や、インクの滲んだ色あせた地図、ひび割れたフラスコといった実験器具たちが、かつての主を失った亡霊のようにひっそりと、整然と並んでいた

 

「ここが……地下備品庫。……ねえ、自画像なんてどこにあるの? ざっと見た感じ、ガラクタばっかりに見えるけど……」

 

セリカが用心深く、警戒を怠らずに懐中電灯で周囲をなぞる。光の円が部屋の奥へと伸び、積み上げられた古いキャンバスの山を捉えた

 

その一番上、他とは明らかに格の違う、重厚な装飾が施された額縁に収められた一枚の絵が、壁に立てかけられていた

 

ホシノが差し出した光の束が、埃の舞う空間を一直線に貫き、その古いキャンバスを鮮明に映し出す。その瞬間、五人の間に耳が痛くなるほどの奇妙な沈黙が流れた

 

「ねぇ、なんだかこの絵……ユメ先輩に似てない?」

 

ホシノのぽつりと溢した独白に、セリカたちは磁石に吸い寄せられるように絵の前へと歩み寄る

 

長い年月の劣化ゆえか、絵の具はところどころひび割れ、肝心の顔の部分はまるで水に濡れたように滲んで判別がつかない

 

しかし、緩やかに波打つ独特な長い髪の色、そしてキャンバス全体から滲み出る、どこかお人好しで、抜けているのに温かい――あの、春の陽だまりでまどろむような「無害なオーラ」は、間違いなく彼女のものだった

 

「確かにそうね……。顔は見えないけど、この漂う独特な雰囲気は、紛れもなくあの人だわ」

 

セリカが腕を組み、得心のいった様子で深く頷くと、シロコが顎に手を当ててジッとその絵を見つめ、無機質な声を出す

 

「ん……。でも、ユメ先輩がこんな重厚な額縁に入れて飾られるような、偉い人だった記憶はない。どっちかと言えば、廊下で転んで書類を派手にバラ撒いてるイメージの方がずっと強い」

 

「シロコ先輩、失礼ですよ! ユメ先輩はただ、未だにシロコ先輩とクロコ先輩を間違えて勝手にパニックになったり、今でも週に一度はシャーレのユウカさんから連絡があって『ユメさんがまた大事な備品を壊しました』ってホシノ先輩が呼び出しを食らってたり、ホシノ先輩以上に独創的すぎる料理……いえ、錬金術を作ってしまうだけの……とっても良い先輩なんですから!」

 

「アヤネちゃん、それフォローどころか、全方位に致命的なトドメを刺してるよ……。おじさん、聞いてるだけで古傷の胸が痛くなってきちゃった」

 

ホシノが苦笑いを浮かべ、肩を落とした、その刹那だった

 

――ガタッ

 

立てかけられていた巨大な絵画が、自らの意志で動き出したかのように大きく身震いした

 

「「「ひぃっ!?!?!?」」」

 

一瞬にしてアビドス対策委員会の戦闘序列が崩壊する

 

アヤネ、セリカ、シロコの三人は、脱兎のごとき速さで最後尾のノノミの背後に回り込み、彼女の豊かな体を盾にしてガタガタと小刻みに震えだした

 

「い、い、い、今! 完全に動きましたよね!? 物理法則をガン無視して、意思を持ったみたいにスライドしましたよね!?」

 

「ん、んんん……気のせい。きっと地下特有の気流が、キャンバスの重心をわずかにズラしただけ……。ん、そうに違いない。科学の勝利」

 

「こ、ここ地下よ!? 風なんて吹くわけ……いや、風ね! 強力な隙間風よ! 幽霊なんて非科学的な存在、このアビドスには一ミリも存在しな――あ、動いた! また動いたわよ!!」

 

恐怖のあまり、全力で現実逃避の迷路を爆走する三人を見て、ホシノは一人呆れたように溜息をついた

 

「三人とも怖がりすぎだよ……。というかシロコちゃんとアヤネちゃん、相手が言葉の通じるタイプなら怖くないんじゃなかったの?」

 

「ま、まだ言語を解する知性があるかは不明です……!」

 

「ん、もしかしたら、こちらの精神を未知の周波数で汚染してくるタイプかもしれない……」

 

「はいはい。……えーと、そこの絵画さん? 貴方は誰? もしかして、この学校の卒業生とか?」

 

ホシノが恐る恐る、しかしどこか不思議な懐かしさを感じながら絵画に向かって問いかける

 

すると、キャンバスの奥底から、まるでお風呂場で鼻歌を歌っているような、妙に気の抜けた、聞き覚えのある声が響いてきた

 

『私はくち○○○○だよ〜。なんだか、久しぶりに誰かと喋った気がするな〜。みんな、元気〜?』

 

「?名前がよく聞こえませんね…」

 

「……なんだか、本当にユメ先輩みたいな声ね。というか、その喋り方といい、抜けたテンションといい……もしかして昨日みたいに、また本人がどこかに隠れて拡声器でも使ってるんじゃないでしょうね?」

 

セリカが疑り深い目で周囲のガラクタの山をチェックしようとすると、ホシノが無言で自分のスマートフォンの画面をみんなに突き出した。そこには、数分前に届いたばかりのモモトークの通知が冷酷に表示されている。

 

【差出人:ユウカ】

 

「今、シャーレにいます。ユメさんが『先生の書類を整理してあげる!』と言い出して、シュレッダーに先生の大事な領収書をぶち込み、取り出そうとして危うく仕事部屋を爆発(?)させるところでした。今から一時間、正座させてみっちり説教してきます。ホシノさん、後で監督責任についてお話があります。覚悟してください」

 

「……あの人、今この瞬間も他校で国際問題レベルの不祥事を全力で起こしてるじゃない。ここにいるわけないわ」

 

「おじさん、後でユウカちゃんに何て謝ればいいんだろう……。もう、あの人の保護者役は引退したいよぉ……」

 

ホシノが頭を抱えて深々と嘆いていると、絵画の中から再び「ふふっ」という、春風のようなのんびりした笑い声が漏れ聞こえてきた

 

『なんだか賑やかで楽しそうだね~。いいよいいよ、せっかく『久しぶりに』会えたんだもん。私の気が済むまでなら、君たちの質問に答えてあげちゃおうかな~。アビドスのことでも、明日の運勢でも、なんでも聞いていいよー?』

 

厚いコンクリートに遮られ、月光すら届かないはずの地下倉庫

 

埃にまみれ、色あせた肖像画が放つその声は、空気を震わせる物理的な音というよりは、脳幹に直接語りかけてくるような、不思議な実在感を伴っていた

 

突然始まった「自称・全知全能(?)な肖像画」との対話

 

対策委員会の面々は、昨日までの心臓を鷲掴みにされるような恐怖体験(?)とはあまりに毛色の違う、脱力感すら漂う緩すぎる空気に、毒気を抜かれたように立ち尽くす

 

セリカは、いまだに片手でジャージの裾を握りしめながらも、眉根を寄せて疑わしげな声を漏らした

 

「いきなり質問していいって言われてもねぇ……。というか、この絵画、本当に私たちの言葉を理解してるの? 単に録音された音声がランダムに再生されてるとか、そういうオチじゃないでしょうね」

 

「んー、それじゃあまずはおじさんからいってみようかな。この広くて無駄に部屋が多いアビドス校舎の中で、今一番お昼寝に最適で、かつ誰にも邪魔されない秘密のスポットはあるかな~?」

 

ホシノが緊張感の欠片もないトーンで問いかける

 

懐中電灯の光が揺れ、滲んだキャンバスの奥で、色彩が意思を持つ生き物のようにゆらりと蠢いた

 

『お昼寝ね~。それなら、北校舎の三階の一番奥にある、今は使われていない家庭科室がオススメだよ~。あそこは午後になると日当たりが最高だし、最近はどこからか迷い込んできた猫ちゃん一家も住み始めてるみたいだから、一緒に丸くなってお昼寝するとポカポカして最高に気持ちいいよ~』

 

「おお! 猫ちゃんと添い寝でお昼寝……! それは盲点だった、最高だね。よし、明日からのおじさんの定位置に決定だよ♪」

 

ホシノが今日一番の晴れやかな笑顔で拳を握りしめた瞬間、その背後から眼鏡のレンズを不吉にキラーンと光らせたアヤネが、音もなく幽霊のように忍び寄った

 

「ホシノ先輩? 私の目の前でその質問をするということは、明日そこでお昼寝……つまり、断固として『職務放棄(サボり)』を完遂するという宣戦布告だと受け取ってよろしいですね? ……もし実行された場合、追加の書類整理がどうなるか……分かりますよね?」

 

アヤネの背後から立ち昇る凄まじいプレッシャーに、ホシノの顔から血の気が引いていく

 

「ひ、ひぃっ……! 笑顔が怖い、笑顔が般若だよアヤネちゃん! ……えーと、えーと、絵画さん! 今この絶体絶命の状況から、アヤネちゃんに怒られずに済む、かつお昼寝も満喫できる画期的な方法とかあるかな!?」

 

必死の形相で救いを求めるホシノ。しかし、肖像画からは相変わらず、波ひとつ立たない湖面のようにのんびりとした、慈愛に満ちた(あるいは突き放した)答えが返ってくる

 

『ん~。悪いことをした自覚があるなら、言い訳せずに素直に怒られよ~。それもまた、かけがえのない青春の一ページだよ~』

 

「人でなし!?」

 

『あはは、人じゃないよ~。私はゆ○○○だよ~』

 

その後も、半信半疑のメンバーたちが代わる代わる質問を投げかけてみたが、返ってくるのはどれもこれも、真実味はあるものの微妙に役に立たない回答ばかりだった

 

シロコが「効率的に、かつ痕跡を残さず銀行の巨大金庫を破るための、警備の死角を突く最短ルートは?」と、冗談とは思えないほどガチすぎるトーンで身を乗り出して相談した際は、『悪いことはダメだよ~。そんなことより、たまには愛用の自転車のタイヤの空気圧を細かくチェックしてあげなよ~。道具を愛でる気持ちが、運を呼び込むんだよ~』と、道徳の教科書のような真っ当すぎる返答で一蹴される

 

ノノミが「もっと自分をキラキラさせられる、最新のメイクのコツやラッキーアイテムはありますか♪」と華やかに問いかけると、『ノノミちゃんは今のままでも十分、砂漠のダイヤモンドみたいにキラキラしてるよ~。あ、でも明日の朝食に新鮮なフルーツを食べると、もっと全体運が上がるかもね~』という、占い雑誌の巻末コラムのような、ふんわりとした助言

 

業を煮やしたセリカが「アビドスの天文学的な借金を一気に完済できるような埋蔵金、あるいは黄金の山がどこかに眠ってないの!?」と食い気味に問い詰めた時は、『地道に、コツコツと自分を磨きながら頑張るのが、結局は一番の近道だよ~。セリカちゃんのバイトに励む健気な姿、私はとっても素敵だと思うな~』と、完全に論点をずらした精神論と称賛で返される始末だった

 

(これ……本当に真面目に聞いてて、何か意味があるのかな……。アビドスの過去を知る賢者か何かかと思ったけど、ただの『お節介で気のいい、ちょっと抜けた幽霊』なだけなんじゃないの?)

 

期待していた「学校の秘密」や「実益のある情報」がさっぱり出てこない現状に、セリカが大きくため息をつく

 

「もういいわ。実害はなさそうだし、何か悪い呪いをかけてくる気配もないし……こんなの放置してても、アビドスの平穏にはこれっぽっちも影響なさそうよね……」

 

すっかり肩の力を抜き、やれやれと首を振って引き返そうとした、まさにその瞬間だった

 

誰も何も問いかけていない。それどころか、一同が立ち去ろうと背を向けたその刹那、肖像画がこれまでで一番はっきりとした、生気さえ感じさせる明瞭な口調で語り出した

 

そこには隠しきれない悪戯心と、相手をからかうようなニヤニヤとしたニュアンスがたっぷりと込められている

 

『あ、そうだ。最後に、とっておきの面白いことを教えてあげるね〜。セリカちゃんの現在のお尻のサイズは――』

 

「……っ!!」

 

言葉が最後まで紡がれるよりも早く、静寂に包まれていた地下室に乾いた銃声が轟いた

 

コンマ数秒の神速

 

セリカは考えるよりも先にアサルトライフルを引き抜き、一切の迷いなく引き金を絞っていた。放たれた弾丸は肖像画の鼻先――高価そうな額縁をわずかミリ単位で避けた壁のコンクリート――に火花を散らして突き刺さり、荒い破片を撒き散らす

 

銃口から立ち昇る薄い硝煙が、怒髪天を突くセリカの激昂した表情を、冷酷なまでに美しく曇らせた

 

「……私のお尻のサイズが、なんですって?言葉次第では次は当てるわよ」

 

その声は冷徹極まりなく、まるで砂漠の夜に潜む死神が獲物の耳元で囁く宣告のようだった

 

セリカの瞳からは一切の光が消え失せ、冷たく据わった眼差しが、銃口の先にあるキャンバスの中央――ちょうど「口」にあたる部分を、一ミリの狂いもなく正確に射抜いている

 

引き金にかかった指先は、今にも二の矢を放とうと、微かな震えすらなく固定されていた

 

『……な、なんでもないよー。とっても健康的な、素晴らしいサイズだって褒めたかっただけだよー……。あはは、アビドスの女の子は怒ると本当に怖いな〜……。あ、ちなみに後ろにいるノノミちゃんも、すごく健康的でいいと思いますよー?』

 

絵画の声が、目に見えて小さく、情けなく震え始める

 

その場を支配していたオカルト的な威圧感は、セリカの放った物理的な一撃によって完全に霧散し、今はただの「怒られた子供」のような卑屈さが漂っていた

 

絵画の声が、目に見えて小さく、情けなく震え始める。

 

その場を支配していたオカルト的な威圧感は、セリカの放った物理的な一撃によって完全に霧散し、今はただの「怒られた子供」のような卑屈さが漂っていた

 

(お化けのくせに、怒ったセリカちゃん(さん)の方が怖いんだ……)

 

銃口を向けられ、完全に縮み上がった肖像画の情けない姿を見て、ホシノ、シロコ、ノノミ、そしてアヤネの四人の脳裏には、全く同じ言葉がよぎっていた

 

怪異としてのプライドも威厳も、セリカの放った容赦のない一弾の前には無力だったらしい

 

「ノノミ先輩まで巻き込まないでよ!!」

 

激昂するセリカの横で、ホシノはいつもの気だるげな様子を崩さず、しかしその眼光だけは鋭くコンクリートに刻まれた弾痕を見つめていた

 

「んー、セリカちゃん。今の反応、おじさん感心しちゃったよ。抜き打ちからの初弾までのスピード……今の早撃ちだけなら、もしかしておじさんを超えてるんじゃないかな? 若いって素晴らしいねぇ」

 

「そんなこと、今褒められても嬉しくないわよ!!」

 

真っ赤になって叫ぶセリカの横で、シロコが静かに、そして力強く親指を立てる

 

「ん……セリカ、ナイスショット。精密射撃の鑑。デリカシーのない怪異に対しては、物理的な対話で沈黙を強いるのが、キヴォトスにおける最もスマートで確実な解決策。次は頭部を狙うといい」

 

「狙わないわよ! ……って、ノノミ先輩!? なんでそんなに嬉しそうなのよ!」

 

視線の先では、当のノノミが両頬に手を当て、どこか夢見心地な様子で絵画を見つめていた

 

「ふふ、健康的なのは良いことですよ♪ 絵画さんに褒められちゃうなんて、なんだか特別な気分ですね♪」

 

「もう、このグループにはまともな感性の持ち主はいないの……?」

 

セリカが頭を抱え、絶望の表情を浮かべる横で、アヤネは「はぁ……」と魂が抜けるような、今日何度目か分からない深い溜息をついた

 

彼女は震える指先で眼鏡の位置を直すと、手元の手帳を広げ、公的な記録とは思えないほど怨嗟の籠もった筆致で書きなぐっていく

 

『第四の不思議:セクハラ発言を繰り返す自画像。直接的な害はないが、他者のプライバシーに土足で踏み込む性質があり、特にセリカさんの逆鱗に触れると校舎の構造そのものが物理的に損壊する恐れがある。治安維持および風紀保持の観点から、今後は最優先で立ち入り禁止区域に指定し、重厚な鉄板での封鎖を推奨する』

 

書き終えたアヤネの背後には、もはや幽霊よりも恐ろしいオーラが漂っていた

 

とりあえず、アビドス七不思議の四つ目も、ある意味「アビドス対策委員会らしい力技」による強硬手段で、完全に沈黙することとなった

 

『えー、もう帰っちゃうの〜? せっかくお話が盛り上がってきたところなのにー。おじさん寂しいなー』

 

名残惜しそうにキャンバスの表面が細かく震え、気の抜けた寂しげな声が広大な地下室に虚しく反響する

 

アヤネは、先ほどまでの恐怖心が、今や呆れと事務的な冷徹さに完全に上書きされた様子で、パタンと小気味よい音を立てて手帳を閉じた。しかし、彼女の根底にある育ちの良さは隠せず、立ち去り際に一度だけ、肖像画に向けて礼儀正しく一礼する

 

「ええ。絵画さんに……あ、いえ、幽霊さん? に、実効的な実害がないことは十分に確認できましたので、本日の調査はこれにて終了といたします。夜も深まってまいりましたし、私たちには明日も、守らなければならない大切な学校生活がありますから」

 

『そっか〜。残念だけど、みんながそう言うなら仕方ないね〜。私も、今日はとっても久しぶりにみんなと喋れて楽しかったよ〜。暇な時はいつでも遊びに来てね。お菓子とか、もし良ければ新しいキャンバスとか持ってきてくれてもいいんだよ〜?』

 

「ん、了解。それじゃあ次は、来訪の対価として、キヴォトス全域の銀行警備システムを完全に網羅した最新の防犯ログと、その盲点を突く強盗ルートを精査して教えて。それが再会の絶対条件」

 

シロコが至極真面目な顔で、まるで図書館で専門書を予約するかのような平然としたトーンで、とんでもない無茶振りを突きつける

 

『あはは……。それはさすがに私の美学に反するから教えられないけど、お昼寝の究極の穴場とか、みんなの明日のラッキーアイテムなら、いくらでも占ってあげちゃうからね〜』

 

その言葉を最後に、絵画から発せられていた淡い青白い光と、周囲の空気を歪めていた独特の浮遊感が、ふっと霧が晴れるように消失し、そこにはもうただの古びた、顔の滲んだ肖像画が、埃まみれの壁に寂しく立てかけられているだけだった

 

物理的な法則のみが支配する、ただの静かな地下倉庫へと戻っていた

 

「それじゃあ、今日はもう帰りましょうか。このことをまとめないといけませんし、明日の朝食の献立も考えなきゃいけないんですから」

 

「はーい♪」

 

「ん、もう眠い」

 

アヤネが懐中電灯の鋭い光で出口の動線を確保し、シロコとノノミがそれに従うように歩き出す

 

重い鉄の扉が、その歴史の重みを訴えるように「ギギッ……」と不快な音を立てて開かれ、三人の規則正しい足音は、地下室の冷気を置き去りにして階段の向こう側へと遠ざかっていった

 

しかし、最後尾にいたセリカとホシノの二人は、示し合わせたわけでもないのにその場から動けず、無言のまま数秒間、その滲んだ肖像画をじっと見つめていた

 

「……なんだか、拍子抜けな七不思議だったけど。でも、不思議と嫌な感じはしなかったわね」

 

セリカが銃を下ろし、少しだけ強張っていた表情を和らげ、隣に立つホシノに話しかける

 

ホシノは、いつもの眠たげな、やる気を感じさせない半開きの目ではなく、どこか遠い過去の、眩いばかりの懐かしい景色を見つめるような、優しくも切ない眼差しをキャンバスに向けていた

 

「うん。おじさんも、なんだか……すごくよく知ってる誰かと、放課後の部室でとりとめもない話をしてるみたいで、ちょっとだけ楽しかったかな」

 

「そうね。……さ、帰りましょ。いつまでもこんな暗くて砂埃っぽいところにいたら、今度こそ本物の幽霊に足首を掴まれちゃうわよ」

 

セリカがホシノの細い背中を軽く押し、歩き出そうとした、まさにその瞬間だった

 

完全に沈黙し、単なる古い絵画に戻ったはずの肖像画から、今度は耳元で直接囁くような、先ほどよりも一層はっきりとした、そして最高に「お節介」で茶目っ気たっぷりの声が地下室の空気を震わせた

 

『それから、二人とも――早く付き合っちゃいなよ〜。見てるこっちがムズムズしちゃうよ〜。青春は短いんだから、全力でいかなきゃ損だよ〜』

 

絵画から放たれたその爆弾発言は、静まり返った地下室において、一発の銃声よりも鋭くセリカの鼓膜を射抜いた

 

「な、な、ななな、何言ってるのよ!? 私とホシノ先輩は、そ、そそそそんな、そんな破廉恥な関係じゃないわよ!!」

 

セリカは顔どころか耳の先まで、熟れすぎた林檎のように真っ赤に染め上げ、持っていたアサルトライフルを前後あべこべに抱え直すほど激しく動揺した

 

その狼狽ぶりを、ホシノは隣で楽しげに、いつもの「食えない先輩」の顔を完全に取り戻して眺めている

 

「えー? おじさんはセリカちゃんみたいな可愛くて働き者の後輩なら、いつでも大歓迎なんだけどなー? むしろ、おじさんからお願いしちゃおうかな〜。ねえ、セリカちゃん?」

 

「もー!! ホシノ先輩なんて知らない!! 幽霊も先輩も、どいつもこいつもデリカシーが無さすぎるのよ!! 全員バカ!!」

 

ついに耐えきれなくなったセリカは、地団駄を踏むと同時に、脱兎のごとき勢いで地下倉庫を飛び出していった

 

階段を駆け上がる激しい靴の音が、薄暗い廊下に反響して遠ざかっていく

 

「ありゃりゃ、本気で怒らせちゃったかな。おじさんも急いで帰らないと、今夜は本当に廊下で寝る羽目になりそうだねぇ……。それじゃあ、またね、絵画さん。お節介もほどほどにね」

 

ホシノが苦笑交じりに軽く手を振り、部屋を後にしようとしたその刹那

 

(ホシノちゃん、またね〜。……あっちの私も、よろしくね〜。ふふっ)

 

脳裏に直接響くような、しかしどこまでも優しく、春の陽だまりのような暖かさを思わせる声

 

その言葉の意味を理解した瞬間、ホシノの心臓がドクリと大きく跳ねた。驚いて勢いよく振り返った彼女の視線の先――

 

そこには、先ほどまで確かに鎮座していたはずの、重厚な額縁も、滲んだ肖像画も、跡形もなく消え去っていた

 

ただ、積み上げられた古い教材の山と、壁に残された年季の入ったシミだけが、冷たい地下の空気に晒されている。まるで、最初からそこには何も存在していなかったかのように、ぽっかりと不自然で、どこか寂しい空白が広がっていた

 

ホシノは無言のまま、懐中電灯でその空っぽの場所を照らし続け、ただじっと見つめていた

 

(……あっちの私? もしかして、今のは……。まさか、ね)

 

確信に近い予感が胸を突き、喉の奥が熱くなったその時、階段の上からセリカの、照れ隠しと焦燥が入り混じった「追い打ち」の怒号が降ってきた

 

「ホシノ先輩ー!! 早く来ないと本当に置いていくわよ! 扉、完全に閉めちゃうからね!! 知らないから!!」

 

セリカの声だ

 

怒ってはいるが、そこには確かに自分を案じ、待っている仲間としての確かな体温が宿っている

 

ホシノは一度だけ深く息を吸い込み、消えた絵画があった場所へ向かって、小さく、けれど確かな決意と深い慈愛を込めて微笑んだ

 

「……誰かは分からないけど、見守っててね。おじさん、これからはちゃんと、みんなと一緒に楽しく過ごすから。約束だよ、お節介で優しい幽霊さん」

 

それが過去への静かな訣別なのか、それとも、失われない絆への新たな誓いなのか

 

ホシノは迷いのない足取りで、光の差す出口へと歩き出した。重厚な鉄の扉が「ギィィ……」と、今度は別れを告げるように鳴り、最後には重苦しくも清々しい「カチャン」という施錠の音が響き渡った

 

扉が完全に閉まり、月光の一筋すら届かなくなった、深淵のような真っ暗な倉庫

 

そこは再び、誰にも顧みられることのない、静止した時間の底へと沈んだはずだった

 

『〜……♪』

 

だが、誰もいないはずの闇の奥底から、弾むような鼻歌が聞こえてくる。それは冷たい地下の空気を震わせる風の音か、あるいは、ようやく重責を果たした者がこぼす、至福の旋律か

 

『さてと……次は、どこの世界に遊びに行こうかな♪』

 

いたずらが成功した子供のような、弾んだ声がふっと響く。 直後、空気が微かに揺らぎ、そこにあったはずの「気配」が陽炎のように消失した

 

あとに残されたのは、完全な静寂と、長年降り積もった砂の匂いだけ。 アビドスの夜は更けていくが、閉じられた扉の向こう側は、どこか遠い空へと繋がっているかのように、不思議と晴れやかで自由な空気に満ちていた

 

 




一体この幽霊は何者だったのでしょう…
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