セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話   作:気弱

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月夜にただずむ白い女

それは、ユメが図書室の怪異に囚われ、孤独に「英単語・数学」という名の難敵と死闘(?)を繰り広げていた深夜のことだった

 

対策委員会の面々は、それぞれの自室でようやく訪れた深い眠りに身を委ねている

 

「なんだか、拍子抜けするような七不思議でしたね」と、アヤネが呆れ半分に漏らした言葉が耳に残る

 

一同を包み込む夜の静寂

 

セリカもまた、使い古した布団の中で、遠くから微かに響く(ような気がする)ユメの断末魔を子守唄代わりに、ゆっくりと瞼を閉じた

 

(自業自得とはいえ……明日、無事に解放されたら少しは労ってあげようかしら。何か甘いものでも差し入れするとか……)

 

そんな、他愛のない明日の予定に思考を巡らせながら、彼女の意識は深い微睡みの底へと沈み込んでいく

 

しかし、次にセリカが意識を浮上させた場所は、布団の上ではなく、見慣れた校舎の屋上であった

 

(また、あの変な夢……? でも、いつもと様子が違う気がする)

 

まるで幽霊か、あるいは身体から抜け出した魂にでもなったかのように、自分の意志とは無関係にぷかぷかと空中に漂う奇妙な感覚。以前、ホシノがテラー化した凄惨な記憶を夢に見た際も、暴走するホシノを止めるために対策委員会の面々やヒナ、そしてシロコ・テラーに加えてユメまでが現れるなど、自身の知る歴史とは多少のズレがあった

 

しかし、少なくともその場面自体には見覚えがあったのだ

 

だが今、眼下に広がっているのは、燃えるような朱から淡い藍色へと溶けゆく、マジックアワーに染まった夕暮れ時の屋上である

 

放課後の喧騒はとうに過ぎ去り、世界が夜へと塗り替えられる直前のひととき

 

冷え込み始めた夜風が吹き抜けるその中心に、セリカの意識は実体を持たぬまま浮遊していた

 

(……あそこに誰かいる?)

 

ふと下方に目を向けると、無機質なコンクリートの上に重なる二つの人影が映る

 

慣れない浮遊感に戸惑いつつも、セリカは空を漕ぐようにしてその影へと近づいた

 

そこにいたのは、紛れもない自分自身の姿。そして、膝を貸すわけでもなく、ただ無防備に寝転がって空を仰いでいるホシノであった

 

「ホシノ先輩! そろそろ帰らないと風邪ひくわよ! ほら、早く立って!」

 

「分かってるよ〜。あはは、セリカちゃんは本当に優しいねぇ〜」

 

それは、アビドスで繰り返されてきた、どこにでもある、いつもの何気ない日常の断片であった

 

けれど、こうして実体を持たぬ傍観者として第三者の視点から客観的にその光景を眺めてみると、当事者であった時には決して気づくことのなかった「近すぎる距離感」や、自分の投げかけるぶっきらぼうな語気の裏側に潜む、身内への甘えのような情愛が、無性にむず痒く感じられた

 

(なんだか恥ずかしいわね……。第三者視点で自分の会話を見るなんて。それにしても、これって一体何なのかしら。ホシノ先輩とこんな会話を交わした記憶、私の頭の中にはどこを探しても見当たらないのだけど)

 

必死に脳内を回転させ、記憶のアーカイブを隅から隅までひっくり返してみるが、どれほど目を凝らしても該当するシーンは見えてこない

 

それは自分自身の体験というよりは、むしろ自分ではない誰かが記録した「記憶の録画」を、脳内に直接投影される特等席で見せられているような、奇妙な疎外感と既視感が同居する不可解な体験であった

 

(……待って。今、私って寝ているはずよね? なんでこんなに、私の意思で自由に動けるのかしら……)

 

ふと、思考の霧の中に決定的な違和感が浮かび上がる

 

体は確かに水底を漂うような独特の浮遊感に包まれているものの、自分の意思ひとつで拳を握り込み、視界を好きな方向へと巡らせることができるのだ

 

通常、夢というものは何らかの不可視の鎖に縛られているような感覚を伴い、まるで上演される映画を眺めるかのように受動的な立場でしかいられないはず

 

現に、これまでセリカが見てきた数々の夢において、身体の主導権が自分に委ねられることなどなかったのだから

 

セリカがその自己矛盾に満ちた思考に没頭していると、眼下の二人はいつの間にか屋上のフェンス際まで歩み寄り、肩を並べて地平線へ沈みゆく残照を眺めていた

 

(いつの間に……移動したの!?)

 

慌てて二人の元へ、空間を泳ぐようにして距離を詰めると、ちょうど「ねぇ、ホシノ先輩はなんで私にだけそんなに優しいのよ?」と、地上の彼女が問いかけている場面であった

 

「んー? おじさん、そんなつもりはないんだけどね〜。シロコちゃんたちだって同じくらい大好きだよー」

 

いつものようにのらりくらりと、確信を煙に巻くようなホシノの返答

 

しかし、その声の端々には、隠しきれない慈しみが滲んでいた

 

「嘘よ。明らかにアヤネちゃんやシロコ先輩に向ける態度とは、何かが違うもの」

 

「えー? そうかなー? 気のせいじゃないかなー?」

 

どこまでもとぼけようとするホシノに対し、「……どうせ私は、すぐに悪い大人に騙されたり、今日みたいに誘拐されたりして、一時も目を離せない手のかかる後輩なのよ」と、セリカはムスッとした表情で、自嘲気味に唇を尖らせた

 

(……あ、これ。私がまだ先生を認められなくて、頑なに意地を張っていた頃の空気ね)

 

浮遊するセリカは、その刺々しくも脆い雰囲気から、この光景がいつ頃の「記録」であるかを直感的に察した

 

「あっ、待って待って! 決してそういうわけじゃないから!」

 

本気で機嫌を損ね始めた後輩を前に、ホシノは慌てて身を乗り出し、宥めるように両手を振って弁明を試みる

 

「……じゃあ、なんなのよ?」

 

不機嫌なオーラを隠そうともしない鋭い問いかけに、ホシノは一瞬だけ視線を泳がせ、やがて何かを諦めたように、あるいは覚悟を決めたように吐露した

 

「それはね……んー……。自分でも少し恥ずかしいんだけどさ。……私の憧れた人に、似ているからかな」

 

照れくさそうに、けれどその瞳は今のここではない、遠い「いつか」を追うように静かに細められていた。

 

「ホシノ先輩が……憧れた人?」

 

不思議そうに首を傾げるセリカに対し、ホシノは小さく、どこか懐かしむような自嘲の笑みを浮かべる

 

「うん。おじさん、今はこんな隠居生活みたいな感じだけどね。一年生の時は、それこそ誰彼構わず噛みつく狂犬みたいに尖ってたんだよー?」

 

「……それは流石に信じられないわね。ユメ先輩と一緒にのんびりお昼寝してたって言われる方が、まだ現実味があるわ」

 

「あはは。あの人と一緒にお昼寝ばっかりしてたら、このアビドスは今頃砂の底に完全に消えてたかもね」

 

ホシノは苦笑いを浮かべたが、やがてその表情を穏やかに和らげると、静寂が降りる屋上で言葉を継いだ

 

「でもね、そんなおじさんの前に、一時的な『同級生』がふらりと現れてさ。器用そうに見えて実はひどく不器用で……すぐに怒るけど、本当は誰よりも優しくて。そんな彼女と、ユメ先輩と、三人で過ごした短い時期があったの」

 

「え? 一時的な同級生ってどういうことよ。その人は今、どこで何をしてるの?」

 

セリカの純粋な疑問に対し、ホシノは一瞬だけ寂しげな、けれどそれ以上に温かい光を宿した表情を見せた

 

「その人は、自分が本来いるべき場所に戻ったんだと思うよ」

 

「………そう」

 

その声音に含まれた、語られざる喪失と慈しみを感じ取ったのか、地上のセリカもそれ以上の追及をすることはなかった

 

「おじさんがこうして変われたのは、間違いなくその人のおかげ。だからさ、そんな彼女の面影を宿しているセリカちゃんには、つい甘くしちゃうんじゃないかな。この子なら、たとえ今は道を見失って間違えたことをしても、きっと最後にはちゃんと成長できるって……そう信じられるから」

 

ホシノの告白を聞いた「セリカ」は、射抜かれたように言葉を失い、ただ黙り込んでしまう

 

(……ホシノちゃん、そんな風に思ってくれていたのね……)

 

空中からそれを見守っていたセリカの胸の奥にも、まるで冬の終わりに差し込む陽だまりが染み渡るような、柔らかな感覚がじわりと広がっていく

 

(……?……なにこれ……。もしかして……今、目の前にいる『私』の感情が、ダイレクトに私の中に流れ込んできてる……?)

 

それは明確な言葉を伴う思考として届いたわけではなかった。しかし、今フェンスの向こう側で言葉を飲み込み、立ち尽くしている「彼女」が抱いている感情の輪郭が、輪郭を失って溶け合うように、痛いほど鮮明に伝わってくる

 

そこにあるのは、先ほどまでの刺々しい反抗心でも、救われたことへの単純な感謝でもない

 

もっと純粋で、ひたむきで、心臓の奥底をじりじりと焼くような熱を帯びた――「恋」という平易な言葉で括るにはあまりに質量が重い、独占欲に近い熾火のような憧憬であった

 

「それじゃあ、おじさんは帰ろうかな。セリカちゃんはどうするの?」

 

いつもの掴みどころのない緩い空気を纏い、大きく伸びをしながらホシノが尋ねる

 

夕闇が迫る中、その横顔はどこか寂しげで、同時にひどく穏やかであった

 

「そうね……私は少しだけ空を見てから帰るわ。先に行ってて」

 

「分かった。セリカちゃんも、暗いから足元に気をつけて帰るんだよ〜」

 

そう言い残し、ホシノはひらひらと軽やかに手を振りながら屋上を後にした

 

鉄扉が重々しく閉まる音が、静まり返った空間に低い余韻を響かせる

 

一人残された「セリカ」は、完全に日の落ちた群青色の夜空を、吸い込まれるような瞳でじっと見上げていた

 

やがて、彼女は自分の胸にそっと手を置き、自分自身に刻み込むような厳かな響きで独りごちた

 

「……いつかは、ホシノ先輩の憧れたあの人を抜いて……私が、一番の理解者になってやるんだから」

 

その呟きは、吹き抜ける夜風にさらわれて霧散してしまうほど細いものだったが、そこには揺るぎない鋼のような意志が宿っていた

 

独白を終えると、彼女は憑き物が落ちたようにスッキリとした、それでいて未来への決意を滲ませた足取りで出口の方へと歩き出す

 

その背中を空中で眺めながら、漂流するセリカの脳裏に一つの衝撃的な仮説が浮かび上がった

 

(……もしかして。ここは私が元の場所へ帰ってくる前の、この身体に残っていた『私の記憶』なの……? この世界の私も、この頃からずっと、ホシノちゃんのことを……)

 

「好きだったんだ」と、その決定的な言葉を導き出そうとした、その瞬間であった

 

出口へ向かっていたはずの「彼女」が、不意に足を止めた。そして、誰もいないはずの虚空――セリカの意識が浮遊している正確な一点を、射抜くような鋭い視線で真っ直ぐに見上げたのだ

 

(!?)

 

驚愕で心臓が跳ね、呼吸が凍りつく。視線が、鏡合わせのように完全に重なった

 

それは偶然その方向に目を向けたといった次元ではなく、明らかに「そこに何者がいるか」を完全に把握し、対話の対象として認識している者の眼差しであった

 

地上の「彼女」は、いたずらが成功した子供のような邪気のない、それでいてすべてを予見し見透かした賢者のような、不思議な笑みをその唇に湛えて言い放った

 

「はやくしないと……譲ってあげないわよ? 『私』」

 

(っ!?)

 

その言葉が直接脳髄を震わせたと同時に、世界の色彩が暴力的な明滅を開始する

 

(ジリリリリリ!!)

 

「!?」

 

脳を刺し貫くような鋭い電子音が、静寂を強引に引き裂き、強制的に意識を現世へと引き戻した

 

セリカが胸を強く抑え、喉を鳴らしながら激しく肩で息をして飛び起きると、「セリカちゃん、大丈夫ですか?」という、たゆたうような穏やかな声が鼓膜に届いた

 

顔を上げれば、先に身支度を整えていたのだろう、ノノミが慈しむような心配の眼差しでこちらを覗き込んでいる

 

辺りを見渡せば、既に朝の準備か哨戒にでも出たのか、シロコとホシノの姿はそこになく、残っているのは傍らのノノミと、未だに夢の中で幸せそうな微笑みを浮かべて安眠を貪っているアヤネだけであった

 

「う、うん……少し、悪い夢を見てただけだから……」

 

セリカは自分に言い聞かせるように、震える声を整えて答えた

 

「そうですか……。では、ひとまずこれを飲んで落ち着いてくださいね」

 

ノノミはそう言って、丁寧に淹れたばかりの、香ばしい熱いお茶を差し出してくれた

 

「ありがとう」

 

セリカは両手で包むようにそれを受け取り、立ち上る湯気を顔に浴びながら、少しずつ熱い液体を喉に流し込む

 

そうして強引に平静を装いながらも、先ほどの夢の内容を、断片のひとつも逃さぬよう必死に反芻した

 

(最後のあれは……確実に『私』という存在に向けた言葉よね)

 

もしあれが、ただの「過去の記憶」を一方的に追体験しているだけの現象なら、あんな風に観測者である自分に直接語りかけてくること自体、論理的に破綻している

 

それに、屋上での光景の途中までは自分の存在にすら気づいていない様子だったのに……扉を開けて去ろうとする、あの絶妙な瞬間にだけ。まるで、最初からそこに私がいることを知っていて、その一言を届けるために舞台を整えていたかのような、底知れない違和感が胸に澱のように沈んでいる

 

自分を落ち着かせ、冷え切った思考を呼び戻すために、現状を改めて整理することにした

 

(今まで見てきた、あの当事者としての夢とは明らかに違う。まるで保存されていた録画映像を強制視聴させられているような感覚……。そしてあの屋上で、いつものように会話を交わす私とホシノちゃん。あれは、時系列的に考えれば先生がこの学校に来たばかりの頃――私が過去からこの世界に帰還するまでの『空白期間』の私だわ。その時点で、もう一人の私は既に、ホシノちゃんのことを特別に想っている。ここまでは、論理の筋が通るけれど……)

 

セリカは、陶器の温かさを縋るように強く握り締め、未だに鎮まらぬ速い鼓動が凪ぐのを待った

 

単なる夢の残滓として切り捨てるにはあまりに重すぎる、あの確信に満ちた「私」の眼差し

 

譲ってあげないという宣告の裏に潜んでいた、どこか試すような、それでいて未来の自分にすべてを託すような不思議な響きが、いつまでも耳の奥で、呪文のように反響し続けていた

 

『譲ってあげないわよ? 私』

 

(じゃあ……最後のあれは……一体何を意味しているの?)

 

消えぬ疑問を抱えたまま、その後、ようやく目を覚ましたアヤネの朝の支度を手伝い、対策委員会のメンバー一同で昨日と同じ図書室へと足を向けた

 

昨晩の狂乱を物語るかのように、そこには床に散らばった勉強道具の数々と、一枚のテスト用紙が虚しく置かれていた

 

『赤点ギリギリ回避。次はもっと頑張りましょう』

 

赤ペンでそう無慈悲に記された「40点」の数字。その傍らには、数式と英単語の波状攻撃を浴び続け、精神の許容量を超えて魂が抜け落ちたような、無惨な姿で床に転がっているユメの姿があった

 

「ユメ先輩、生きてる……?」というホシノの消え入りそうな呼びかけに対し、床に転がったユメはピクリとも動かず、「……ルート……サイン……私の頭、爆発しちゃった……」とうわ言を繰り返すばかりであった

 

昨日までの、砂漠の太陽のように呑気だった姿は見る影もない

 

彼女の服のあちこちには、飛んできた紙の角で叩かれたような小さな打撲痕が無数に刻まれ、徹夜でペンを握りしめ続けた指先は、今なお解けない難問を追いかけるように小刻みに震えていた

 

肉体の傷よりも、逃げ場のない密室で論理の迷宮を彷徨わされたことによる精神的ダメージの方が、彼女の豊かな感受性を根底から破壊してしまったようだった

 

一同は言葉を失いながらも手分けをして力なく項垂れる彼女を抱え上げ、救急搬送に近い手際でシャーレの救護室へと送り届け、清潔なベッドに横たえる

 

「お勉強……もう嫌……。数字が、英単語が私を叩きにくるんだよぉ……」

 

救護室の真っ白なシーツにくるまり、ユメは胎児のように身を縮めてガタガタと震えていた

 

様子を見に来た先生が、せめてもの慰めにとドーナツの袋を差し出した際、たまたま反対側の手に仕事用の教本を持っていたのが運の尽きだった

 

「ひぃん! もう勉強したくないよー! 文字が襲ってくるー!」と、彼女は絶叫に近い悲鳴をあげて布団の奥深くへと潜り込んでしまった

 

セリカとホシノは、あまりの変わり果てた姿に深い溜息を吐きつつも、見捨てておくわけにもいかず献身的な介護を続けていく

 

「ユメ先輩、お菓子買ってきましたよ。……ほら、これなら数字は書いてありませんから」

 

「うぅ……手が震えて、怖くて袋が開けられないよぅ……。セリカちゃん、食べさせて……」

 

セリカが好物のスナック菓子を差し出すと、ユメはわざとらしく震える指先を胸元で組み、雛鳥のように力なく口を開ける

 

その過剰なまでの弱りっぷりに、セリカは「これ、半分くらいは演技じゃないかしら」と疑念を抱きつつも、甘いチョコレートの染みた菓子をその口に運んでやった

 

「ユメせんぱーい、他に何かしてほしいこと、ありますか?」

 

「ホシノちゃんに、お腹いっぱいになるまで撫でられたいよ〜。そうすれば、頭の中の数式が消えてくれる気がするの」

 

「もう……仕方ないですね。……ほら、これでいいですか?」

 

ホシノが呆れ顔でその頭を撫で始めると、ユメの表情は目に見えて緩んでいく

 

ここぞとばかりに「一緒にトランプをしてほしい」「怖いから手を握っていてほしい」と、幼児退行に近い甘えを全方位に振りまき始めた

 

しかし、甘やかしには限界がある

 

日が落ち、夕暮れの柔らかな光が救護室を照らす頃には、ユメの顔色にはすっかり赤みが戻っていた

 

「次は、ふわふわのホールケーキが食べたいな〜♪」

 

「……ユメ先輩? これ、半分以上は自業自得なんですから。そろそろシャンとして、立ち直りましょうね?」

 

ユメの調子の良い要求を遮るように、ホシノの口調から温度が消えた

 

背筋が凍りつくような冷徹な笑顔が、甘え腐った空気を一瞬で切り裂き、ユメの心臓に突き刺さる

 

「ひ、ひぃん……ごめんなさい……」

 

(ホシノちゃん、保護者の顔が出てるわね…)

 

さっきまでの大袈裟な震えはどこへやら、ユメは瞬時に直立不動の姿勢をとり、借りてきた猫のように小さくなってしまった

 

こうして、嵐のような看病(と甘え)を終えてシャーレを後にし、夕闇の迫るアビドス本校へと戻った頃には、校舎の時計の針は無情にも20時を指そうとしていた

 

昨日と同様、あるいはそれ以上の不穏さを孕んだ、七不思議探索前の定例会議が、静まり返った部室で始まろうとしていた

 

「それでは、六つ目の七不思議について現在判明している情報を共有します。……といっても、七つ目に至ってはほぼ皆無、この六つ目に関しても『銀髪の女が月夜の晩に屋上に現れる』という、あまりに抽象的な目撃談以外は皆目見当がつかないのですが」

 

アヤネは困惑の入り混じった苦笑いを浮かべながら、ほとんど白紙に近い資料をホワイトボードの端にマグネットで固定した

 

そこには、過去の断片的な記録から書き起こされた、おぼろげな人影のスケッチだけが虚しく残されている

 

「それって……ちょうど、今日みたいな夜のこと?」

 

シロコが静かな足取りで窓辺へ寄り、カーテンの隙間から夜の帳を覗き込む

 

遮る雲一つない群青の天頂には、剃刀のように鋭く、それでいて吸い込まれるほどに清廉な三日月が、冷ややかな光を地上へと投げかけていた

 

「うへ〜、なんだか神秘的だねぇ。普段の平和な夜なら、縁側に腰掛けてお団子でも頬張りたいところなんだけど」

 

ホシノは両腕を机の上にだらしなく放り出し、ぐたぁと脱力した様子で吐息を漏らす

 

その仕草はいつもの昼行灯そのものであったが、半開きの瞳の奥には、夜の校舎特有の不穏な気配を察知する鋭い光が宿っていた

 

「名案ですね♪こんなに綺麗なお月様が見える夜なら、たとえ満月でなくともお茶の一杯も欲しくなってしまいます♪」

 

ノノミもその提案に柔らかな笑みを浮かべて賛同するが、その指先は既にタクティカルベルトの感触を確かめ、有事への備えを怠っていない

 

「風流なのは結構ですが、今は怪異の解明が先決です。これまでは、ユメ先輩の尊い犠牲を除けば実害と呼べるほどの危険はありませんでした。ですが、いよいよ終わりが近づいています。最後の一歩で足を掬われないよう、気を引き締め直さなければいけません」

 

アヤネの理知的で、かつ緊迫感を含んだ号令に、その場の空気が一瞬にして凍りつく

 

全員が言葉を飲み込み、表情を険しく引き締めた。各々が愛銃を手に取ると、金属が擦れ合う無機質な音だけが部室に響く

 

残弾の確認、ボルトの作動チェック――儀式のような最終確認を終えた五人は、決戦の地へと向かう戦士の如き足取りで教室を後にした

 

シロコを先頭に、等間隔の距離を保ちながら一行は夜の静寂に沈んだ廊下を進んでいく

 

(……あの夢の言葉。そして、あの私の……あの不敵な表情……)

 

最後尾を歩くセリカの脳内では、未だに微睡みの底で目撃した「もう一人の自分」の姿がリフレインし続けていた

 

不気味なのは間違いない

 

けれど、それ以上に胸をざわつかせたのは、あの映像の中の自分が、まるでこの歪な状況そのものを盤上のゲームでも嗜むかのように、愉し気に享受していた点だ

 

自分に言い聞かせるように、震える拳を強く握りしめる。どれほど視界を左右に振り、警戒を強めようとしても、白昼夢の中で見たあの挑発的な視線が網膜に焼き付いて離れない

 

「大丈夫? セリカちゃん」

 

「えっ……ホ、ホシノ先輩……な、なによ」

 

不意に横からかけられた声に、セリカの肩が大きく跳ねた

 

いつの間にか列の中ほどから速度を落としていたホシノが、セリカの歩調に合わせるように隣を歩き、案じるように顔を覗き込んでいる

 

「さっきから、なんだかずっと考え事に耽っているみたいだったからさ。おじさんで良ければ、何か悩み事でも打ち明けてみてよ」

 

セリカは喉元まで出かかった言葉を飲み込み、激しく逡巡した。ホシノであれば、どんな荒唐無稽な不安も包み込むように受け止めてくれるだろう

 

だが、まさか「夢の中で自分自身の姿をした何者かに、『はやくしないとホシノ先輩を譲らない』と宣戦布告された」などという、青臭くも切実な、それでいて面映ゆい内容を本人に伝えられるはずもなかった

 

……そんなこと、恐怖とはまた別の意味で恥ずかしすぎて、口が裂けても言えるわけがない

 

「……ううん、本当になんでもないわよ。ちょっと、ユメ先輩のあの支離滅裂な介護に振り回されて、疲れが出ただけだから」

 

「……そっか。まあ、あの先輩の相手は確かに骨が折れるよねぇ。でも、もし本当に限界だと思ったら、絶対に隠さずに言ってよね? おじさん、セリカちゃんの無理を黙って見過ごすほど、焼きが回っちゃいないからさ」

 

ホシノはそれ以上、言葉で追及することはしなかった

 

ただ、向けられた信頼に応えるように、その小さな、けれど数多の重責を背負ってきた掌をセリカの頭へと置いた。髪の隙間から伝わってくる体温は、驚くほど優しく、そして包み込むように穏やかだ

 

しかし、その安らぎに満ちた熱こそが、今のセリカにとっては猛毒に近い劇薬であった

 

夢の中で突きつけられた「譲ってあげない」という宣告が、その温もりに触れるたび、胸の奥をチリリと焼くような、鋭い痛みに変わる

 

それは純粋な憧憬と、正体の知れない罪悪感が混ざり合った、逃げ場のない甘酸っぱい疼きとなって全身へ広がっていった

 

ホシノが静かに手を離し、軽やかな足取りで前列へと戻っていく。セリカはその背中を見送ったあと、自らの迷いを断ち切るように、両手で自分の頬を思い切り叩いた

 

静まり返った廊下に、パァンという湿った破裂音が乾びて響き渡る。その痛烈な刺激によって、混濁していた意識のピントが強制的に現実へと引き戻された

 

いつの間にか、一行は屋上へと続く重厚な鉄の扉の目前にまで到達していた。無機質な建材の冷気が足元から這い上がり、否応なしに探索の終焉が近いことを告げている

 

「それじゃあ……開けるよ」

 

先頭に位置するシロコの声は、驚くほど凪いでいた。彼女は一切の迷いを見せず、タクティカルな動作で銃口を前方の闇へと固定し、いつでも引き金が引けるよう静かに重心を落とす

 

シロコの指先が、外気で凍てついた真鍮のノブにかけられた

 

重々しい金属同士が擦れ合い、沈黙を切り裂く軋みを伴いながら、運命の扉がゆっくりと、銀色の月光が漏れ出す方角へと押し開かれていった

 

キィ、という硬質な金属音が夜の静寂を無慈悲に震わせ、物理的な境界が失われる

 

その先に広がっていたのは、澄み渡る月明かりが青白く降り注ぎ、無機質なコンクリートを白銀の舞台へと変えた、神秘的でどこか現実味を欠いた屋上の光景であった

 

凛と張り詰めた夜気の中、銀世界のようになったコンクリートの広場

 

そこには、周囲の景色に溶け込むようにして、はっきりと一人の「人の姿」が佇んでいた

 

「ん。みんな、こんな時間に何してるの?」

 

「……ん……それは、こっちのセリフ」

 

シロコの声と重なるようにして、全く同じ声質、けれどどこか幾層もの夜を通り抜けてきたような重い響きを帯びた声が、静寂の屋上に反響した

 

屋上のフェンスに背を預け、冷たい月を独りで見つめていたのは――その白髪を夜風にたなびかせた、もう一人のシロコ

 

かつては異質の色彩を纏い、凄惨な時間線を独り彷徨い続けた末、今は「シロコ・テラー」としてこの穏やかな世界に身を寄せるクロコであった

 

「へ? クロコ先輩……? どうして、こんなところに……」

 

アヤネは構えていたハンドガンの銃口を、脱力したように力なく下ろし、呆然とした表情で口を半開きにする

 

不法侵入者か、あるいは正体不明の怪異を覚悟していた彼女にとって、あまりにも身近で、かつ説明のつかない「知人」の登場は、理性的な思考を完全に停止させるに十分な衝撃であった

 

「ん。こういう月が明るい日には、なんだかここで夜空を眺めたくなる。最近の日課」

 

クロコは淡々と、至極当然のことのように告げる。月光を反射する瞳には、ただ凪いだ湖面のような静謐さが湛えられていた

 

しかし、アヤネはそのあまりにも自由奔放でマイペースな回答を聞くや否や、驚きを通り越して一転、眉を吊り上げて逆立てる

 

「せめて、一言くらい事前に許可を取ってくださいよ!? こちらは警備記録にも残らない高度な不審者情報として、七不思議の怪異として処理しようとしていたんですから!」

 

怒涛の勢いで詰め寄るアヤネは、手にした資料と、頭の中に叩き込まれたホワイトボードの調査記録を思い返し、やり場のない怒りに地団駄を踏んだ

 

「もう!? 七不思議のうち、これで四つまでが身内の仕業だなんて、流石にやってられませんよ! 実体の掴めない幽霊より、よっぽどタチが悪いです!」

 

ぷりぷりと怒りを露わにするアヤネに対し、クロコと、その隣にいた本元のシロコが、鏡合わせのように全く同じ角度、同じタイミングで「まあまあ」「どうどう」と手を差し出して宥める

 

その双子のような動作のシンクロ具合は、張り詰めていた探索の緊張感を一気に霧散させ、どこか奇妙な可笑しみを夜の屋上へと誘っていた

 

「そっかー、クロコちゃんなら確かに、目撃されてもすぐに消えるのは説明がつくね。誰かに見られそうになったら、あの特殊な能力を使って、文字通り姿を眩ませていたんでしょ?」

 

ホシノがいつものように気の抜けた調子で推測を口にすると、クロコは銀色の睫毛をわずかに震わせ、月光を反射する瞳を細めた

 

「ん。明らかな敵意を持って近づいてくるやつなら、迷わず気絶させて排除してたけど……肝試し感覚でやってくる野次馬の生徒が多かったから。基本的には、見つかる前に逃げていただけ」

 

「……もしかして、あの例の『黒い服』を着た、神出鬼没のあいつもここに来てたりする?」

 

ホシノが少しだけ声を潜めて問いかけると、クロコは感情の読み取れない無表情のまま、首を縦に振った

 

「来てた。……あまりにも目障りだったから、二度と出てこれないように、校舎の裏に深く深く埋めておいたよ。埋められる間際まで、『くくく、出会い頭に即、土葬ですか。風情も何もあったものではないですね』なんて余裕そうに喋っていたから。せめてものご褒美に、頭から蜂蜜をたっぷり垂らして、砂漠の蟻が集まるようにしておいた」

 

「二人とも、一体さっきから何の話をしてるのよ……」

 

あまりに物騒かつ非人道的な語彙が飛び交う会話に、セリカは頬を引きつらせ、不審なものを見るような目で二人を交互に眺めた

 

しかし、ホシノは「なんでもないよ、ただの夜に出没するデカい害虫退治の話だから」とひらひら手を振ってはぐらかし、クロコもまた「そうそう。セリカたちが気にするようなことじゃない」と、呼吸を合わせるように同調する

 

二人の間に流れる、数多の修羅場を潜り抜けてきた者にしか分からない独特の連帯感と空気。それを前にして、セリカは釈然としないまま、納得いかない様子で首を傾げることしかできなかった

 

「もーう! 知りません! もし、もしですよ!? 次の七不思議の正体まで身内の誰かだったりしたら……ホシノ先輩、覚悟してくださいね。溜まりに溜まった書類の山の中に、隙間なく生き埋めにしますから!!」

 

「アヤネちゃん!? それは流石に、おじさんに対する理不尽な冤罪だよ〜!」

 

怒りの沸点を突破し、もはや誰にも止められない状態になったアヤネは、八つ当たり気味の宣言を捨て台詞として残すと、乱暴に扉を押し開けて階段の向こうへと消えていった

 

「あはは……。流石のアヤネちゃんも、恐怖に耐えて頑張りすぎちゃいましたね。……ほら、早く追いかけないと」

 

ノノミが困ったような苦笑いを浮かべ、宥めるためにその後を追う

 

シロコもまた、屋上の縁から静かに離れると、「ん。アヤネの血管が切れないか心配。このまま放置してたら、火の粉が私にまで飛び火しそう」と、本能的な危機感を漏らしながら、急ぎ足でノノミの後に続いた

 

潮が引くように賑やかさが去り、屋上には再び冷ややかな静寂が戻る

 

「それで、クロコちゃんはどうするの? おじさんたちはこの後、いつもの教室でみんな一緒に眠るつもりだけど」

 

「そうよ。何も予定がないなら、このまま一人で夜更かししてないで、一緒に来たらどう?」

 

皆が降りていった後、ホシノとセリカは、銀世界のような屋上に一人残るクロコへ、優しく手を差し伸べた

 

「ん……。いいね。……それで、私の分の布団はあるの?」

 

「おじさんの布団で良かったら、半分貸してあげてもいいよ〜。二人で入れば、砂漠の夜風も寒くないしね」

 

「ふふ。久しぶりにホシノ先輩と一緒に眠れるのは、とても嬉しいね」

 

ホシノの茶目っ気のある提案に、クロコの鉄面皮のような表情が微かに、けれど確かな温もりを伴って和らいだ。三人が連れ立って階段の踊り場へと向かおうとした、その刹那

 

「あ、セリカ」

 

「……なによ、改まって。どうしたのよ?」

 

クロコが不意に、何かを思い出したかのような低く静かな声音でセリカを呼び止めた

 

その瞳は、先ほどまで見せていた穏やかさとは一線を画す、対象の内側を鋭く抉り出すような――すべてを見透かした、深い知性の光を宿していた

 

「少し……二人だけで話さない?」

 

「え? 私と? ……今から?」

 

「ん。ちょっと、あなたにだけ確かめておきたいことがあるから」

 

予想だにしない指名にセリカが目を丸くしていると、ホシノは敏感にその場の空気の変化を読み取ったのか、「それじゃあ、おじさんはクロコちゃんのために、お布団をしっかり温めて待っておくね〜」と、茶化すように手を振って先に階段を降りていってしまった

 

セリカとクロコが取り残された屋上

 

セリカは、静かな威圧感を放つクロコに促されるようにして、月光が最も鮮明に降り注ぐ屋上の中央へと歩みを進めた

 

銀色の薄衣を纏ったようなコンクリートの上に、二人は並んで腰を下ろす

 

制服の薄い生地越しに、夜の冷気を吸い込んだ床のひんやりとした感触が伝わってくる。どちらからともなく言葉を発することもなく、ただ暫くの間、二人は寄り添う影のように、夜空の頂に凍てついた三日月を見上げ続けていた

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