セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話   作:気弱

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対策委員会の日常 最後の七不思議

(熱い、苦しい……)

 

底の抜けた意識の淵で、セリカは逃げ場のない息苦しさと、全身を苛むようなねっとりとした熱気に顔をしかめた

 

喉の奥は砂漠の砂を直に飲み込んだかのようにカラカラに乾ききり、肋骨の奥では心臓がトクトクと不規則な早鐘を打ち鳴らしている

 

しかし、いくら必死に意識を覚醒させようとしても、瞼の裏側に広がるのは夢特有の極彩色ではなく、現実の重みを伴った、ただただ重苦しいまでの漆黒と沈黙であった

 

(……いや、これ、絶対に夢なんかじゃないわ……っ!)

 

思考の隅々にこびりついていた微睡みの霧が晴れていくにつれ、肌を直に浸食してくる生々しいまでの人間の体温と、鼻腔をくすぐる見慣れた安価なシャンプーの香りが、容赦のない現実感を伴って脳へと押し寄せてくる

 

セリカは寝汗で額に張り付いた前髪を気にしながら、重い瞼をゆっくりと、そして周囲の状況を警戒するように慎重に押し上げた

 

視界が朝の薄明かりに慣れるよりも早く、目の前に文字通り「展開」されていた異常な光景に、セリカの全思考回路は完全に凍りついた

 

至近距離

 

あと数センチでも顔を動かせば互いの唇が触れ合ってしまうほどの極限の間近で、この世の幸福を全て独り占めにしたかのような、とろけるほどに満足げな寝顔を晒しているホシノがいた

 

彼女は細い両腕と両脚を器用に使い、まるで絶対に手放したくない獲物を捕らえた獣のように、セリカの身体にこれ以上ないほどぴったりと抱きついている

 

それだけではない

 

背後からは、まるで逃亡を企てる容疑者を絶対に逃がすまいとする頑丈な拘束具か、あるいは極上の抱き枕のように、しなやかでいて確かな芯を持つ柔らかい感触が、衣服越しであってもはっきりと伝わる強さで背中にぴったりと押し付けられていた

 

「……っ、ちょっと、あんたたち……熱いのよ、バカ!!!!!」

 

ついに理性の限界、そして肉体的な酸欠の限界を迎えたセリカが、腹の底から絞り出した絶叫と共に、跳ね起きるような勢いで布団を蹴り飛ばす

 

その凄まじい衝撃によって、三人の間で複雑に絡み合っていた腕や脚がバラバラに解け、静まり返っていた対策委員会室の朝の空気が、びりびりと激しく振動した

 

「んにゃぁ〜……? セリカちゃん、もう朝ぁ……? おじさん、まだ夢の中で、砂漠の巨大クジラと優雅に追いかけっこしてた最中だったんだけどな〜……」

 

ホシノが片方のオッドアイを薄開けにし、寝ぼけ眼をゴシゴシとこすりながら、だらしなく緩みきった口元を制服の袖で拭ってのっそりと身を起こす

 

一方、セリカの背後を完全にロックしていたクロコは、窓から差し込み始めた容赦のない朝の太陽光を避けるように、被っていたシーツの端を頭からすっぽりと被り直すと、防衛反応のように低く平坦な声を布団の奥から漏らした

 

「ん……。セリカ、朝から、声のボリュームが大きい。……あと、五分。……五分だけでいいから、お気に入りの抱き枕に戻って。冷えないうちに」

 

「五分じゃないわよ! なんであんたたち二人して、私を真ん中にして全力でホールドしながら寝てるのよ!? 昨日、寝る前はちゃんと『おやすみ』って言って、それぞれ離れた位置に別の布団を敷いて入ったはずよね!?」

 

寝起きの乱れた衣服を慌てて整え、顔を真っ赤に染め上げたセリカが、仁王立ちの姿勢で未だに心地よい夢の余韻に浸っている不届き者二人を人差し指でピシッと指差して糾弾する

 

しかし、責められている当の本尊であるホシノは「えへへ〜、なんだか夜中にね、セリカちゃんから強力な磁力が発生して、おじさん磁石みたいに引き寄せられちゃったみたい〜」と、締まりのない顔でのらりくらりと言い訳になっていない言い訳を口にし、クロコに至ってはシーツから鼻先だけを覗かせながら「ん。ホシノ先輩が夜中にゴソゴソと動いたから、フォーメーションを維持するために私もつられただけ。不可抗力。戦略的移動」と、一切の感情の起伏がないまま責任を先輩へと転嫁する始末であった

 

「あ、おはようございます。セリカちゃん♪ 今日も朝から元気いっぱいで何よりです」

 

「ノ、ノノミ先輩……! 起きてたのなら、ただニヤニヤ見てないで、早くこの二人を私から引き剥がしてよ……!」

 

もみくちゃにされて鳥の巣のようになってしまったツインテールを必死に手櫛で直しながら、セリカが恨めしそうに視線を向けると、そこには既に完璧に身支度を整え、お気に入りのエプロンまで着用したノノミが、淹れたてのハーブティーの芳醇な香りを部屋中に漂わせながら、実に対策委員会の母らしい包容力に満ちた笑顔で佇んでいた

 

「えー、だって、お二人ともセリカちゃんにぎゅっと抱きついて、本当に本当に幸せそうな、可愛らしいお顔をして眠っていましたから♪ ホシノ先輩のあんなにとろけた寝顔、滅多に見られませんし、カメラのシャッターチャンスを逃さないように指を動かすだけで、私はもう精一杯でした」

 

「うんうん、ノノミちゃんの言う通りだよ〜。セリカちゃんからはなんだか、お天道様の下でしっかり干したばかりのフカフカなお布団みたいな、もの凄く落ち着く良い匂いがしたからねー。おじさん、あれは本能だから抗えなかったな〜」

 

ホシノが名残惜しそうに自らの両腕を開閉し、先ほどまで抱きしめていたセリカの胴体の感触を思い出すように深く頷くと、その反対側では、いつの間にかシーツから完全に這い出ていたクロコが、淡々と、けれど自らの正当性を一点の曇りもなく確信しているような真面目な表情で、セリカに向かって静かに親指を立ててみせる

 

「ん。それに、セリカは抱きしめるのにちょうどいいサイズ感。ホシノ先輩より少しだけ……こう、厚みがあって、収まりがいい。体温も高くて、冬場の非常用熱源としても、極めて優秀な数値を叩き出すと推測される」

 

「それ、一体どういう意味よ!? さりげなく私の体型をディスってない!? 筋肉がついて引き締まってるって言いなさいよ! あとクロコ先輩、その納得がいったみたいなドヤ顔の親指は何なのよ!」

 

朝一番から全力でトップギアに入ったセリカの鋭いツッコミが、まだ眠気の残る古い教室の四隅にまでけたたましく響き渡る

 

そのあまりの騒々しさに、誰もが耳を塞ぎたくなるような状況であったが、その喧騒のすぐ真横では、別の意味で限界を迎えている者がいた

 

「ううーん……うるさいです……あと五分……いえ、あと一時間だけでいいですから、私をこのまま静かにさせてください……」

 

昨日の事件に伴う精神的な心労と度重なるトラブル処理、さらには深夜にまで及んだ謎の怪奇現象への対策会議によって、完全に精根を尽き果てたアヤネがそこにいた

 

彼女はまるで硬い殻に閉じこもる芋虫のように、毛布の端を固く握りしめてミノムシ状態で床に丸まり、二度寝という名の深い深淵の底へ、再びずるずると沈み込んでいった

 

そんな混沌と不条理の塊のような、けれど間違いなくアビドス対策委員会の「いつもの」光景を目の当たりにし、セリカは額に青筋を立てながらも、深く、深くため息をついた。自分のあまりの扱われ方に呆れ、勝手な行動ばかりする先輩たちに怒り、そして――そんな理不尽な日常に対して、どこか心の底からホッとして安心している自分自身に対し、猛烈に腹を立てていた

 

それでも彼女は、これ以上この部屋に篭る熱気に耐えかねて窓のサッシへと手をかけ、勢いよくそれを引き開けた。流れ込んできた砂漠の朝の乾いた爽やかな空気が、室内の淀んだ空気を一気に塗り替えていく

 

それからしばらくして、アビドスの朝の日課である過酷なロングサイクリングを颯爽と終えたシロコが、額に健康的な汗を光らせながら合流する

 

彼女は部屋に入るなり、一切の躊躇なく、自らが携えてきたキンキンに凍りついたスポーツドリンクのボトルを、床で丸まっていたアヤネのうなじへとダイレクトに押し当てた

 

これ以上ない物理的な冷却攻撃を受け、死んだように眠っていたアヤネも、ついに「ひゃうんっ!?」という、およそ彼女らしからぬ情けない悲鳴と共に飛び起きるようにして覚醒を迎える

 

そこからの行動は、長年培われた対策委員会のチームワークそのものであった

 

全員が代わる代わる洗面所で冷たい水を使って顔を洗い、制服のシワを丁寧に伸ばし、それぞれの武器を手入れして、アビドス対策委員会としての毅然とした「顔」を整えていく

 

なお、もう一人のシロコであるクロコは、「ん。私はこれから朝のアルバイトのシフトが入っているから。あまり遅れると叱られる」と言い残し、何事もなかったかのように静かに去っていった

 

教室の片隅に置かれた古いトースターから香ばしいパンの香りが漂い、ノノミが淹れたドリップコーヒーの苦味が朝の脳を刺激する。そんな即席の朝食を全員が胃袋に収め終えると、それまでの緩みきっていた教室の空気は一変した

 

アヤネが少し緩んでいた眼鏡のブリッジを指先でクイと厳かに押し上げ、教壇の横にあるホワイトボードの前へと歩みを進める。いよいよ、この長く、そしてあまりにも奇妙に満ち満ちていた一週間の終わりを告げる、最後の定例会議が始まろうとしていた

 

「ふぁ……。それでは……今回が本当に最後になるかもしれない、『アビドス七不思議対策定例会議』を始めますね。……はふぅ……」

 

アヤネは未だに重く垂れ下がる瞼を細い指先でこすりながら、今にも消え入りそうな力ない声で開会を宣言する

 

いつもなら誰よりもシャキッとして、書類の山をテキパキと捌く理知的でキレのある彼女の姿はどこへやら、眼鏡の奥の瞳はまだ微睡みの濃い霧に包まれており、口をついて出るのはため息混じりの大きなあくびばかりだ

 

「アヤネちゃん、本当に大丈夫……? 寝起きがそんなに得意じゃないのは昔から知ってるけど、いつもなら会議の前にはもっとシャキッとしてたじゃない。……流石にちょっと、無理をさせすぎちゃったんじゃないの?」

 

セリカが心配そうにパイプ椅子から身を乗り出し、アヤネの青白い顔を覗き込んだ。それも無理はない

 

ここ数日のアヤネは、次から次へと舞い込んでくる超常的な怪異への対応、そしてその怪異が引き起こすあまりにも突飛な現実(とその裏にいた身内の存在)へのツッコミ役に追われ、精神的なキャパシティを完全に使い果たしているのだから

 

「なんだか、どうしてもやる気が起きないと言いますか……。私の脳が、これ以上の理不尽な情報の処理を本能的に拒否している、と表現するのが一番正しいかもしれません……」

 

今にも力なく教卓へと突っ伏しそうになるアヤネの様子を見て、ホシノがいつものようにのんびりとした、けれどどこか他人事のように無責任な調子で、ひらひらと手を振りながら励ましの言葉をかける

 

「あちゃ〜、アヤネちゃん、そんなに落ち込まないでよ〜。泣いても笑ってもこれが最後の議題なんだからさ、みんなで力を合わせて頑張ろうよ〜。おじさんも、心の底から精一杯応援しちゃうよ?」

 

その軽快な言葉が耳に届いた瞬間、アヤネの全ての動きがピタリと停止した

 

彼女はロボットのようになめらかさを欠いた動きでゆっくりと首を動かし、ホシノのオッドアイを正面から真っ直ぐに見据えた。そして、その眼鏡の奥の瞳に、これ以上ないほど晴れやかで、同時に背筋が凍りつくような冷徹な深淵を感じさせる「完璧な満面の笑み」を浮かべてみせた

 

「……ホシノ先輩。これまでに調査を行い、真相が判明した六つの怪異のうち、実に四つまでもが『私たちの身内』、つまりこの対策委員会のメンバーの仕業だったんですよ? そんな全くもって生産性のない無益な調査を何日も続けさせられて、まだ私の心に折れない情熱や探求心が残っていると……本気で、そう思っていらっしゃるんですか?」

 

「い、いやぁ……。あはは……。そうだよねぇ、おじさんが全面的に悪かったよぉ……」

 

脳の芯まで射抜くようなアヤネの極低温の視線と笑顔のプレッシャーに耐えきれず、ホシノは頬をピクピクと引きつらせながら、泳ぐような気まずい手つきで視線を天井のシミへと逸らした

 

実際、その四つの身内トラブルのうち、二つまでがホシノ自身の行動(ユメの面白エピソードを怪談化、巨大クジラ)が原因だったのだから、彼女に反論の余地など一ミクロンも存在しなかった

 

「ん……。こういう修羅場の時は、口は災いの元。私は何も言わないし、最初から何も聞いていない。過去の過ちや失敗は、すべて砂漠の砂に流して忘れるのが、古くから伝わるアビドスの唯一無二の流儀……」

 

同じく、身内の仕業の一つである「きれいなる廊下の怪異(夜な夜な学校の廊下が綺麗になる)」の一端を担っていたシロコも、自分に飛び火してくるはずの火の粉を事前に察知し、それを避けるように素早く窓の外の広大な砂漠をじっと眺め、完全に「無」の境地に入り込んで気配を消してい

 

「こほん……。まぁ、身内の件に関しては今更とやかく言っても仕方がありませんが……。実は、私がどうしてもやる気を起こせないのには、もう一つ、極めてちゃんとした、そして客観的な理由がありまして……」

 

アヤネは無理やり気持ちを切り替えるように、拳を口元に当てて小さく咳払いをすると、手元のタブレット端末の画面へと視線を落とした

 

光に照らされた彼女の眉間には、いつもの徹夜明けの疲労とはまた質の違う、学術的な本質に突き当たったかのような、深い「困惑」の皺が刻み込まれている

 

「なによ? そのもう一つの理由って。まさか、お得意の情報収集で行き詰まってるとか、そっち系のトラブル?」

 

セリカが椅子の背もたれから身を乗り出して尋ねると、アヤネは人差し指で眼鏡のブリッジを直しながら、ひどく歯切れの悪そうな、迷いを含んだ声音で言葉を濁した

 

「……行き詰まっている、というよりは、そもそもデータを精査するための最低限の土台、その拠って立つべき根拠が端から存在しないんです。噂としての知名度や、アビドス管区内での拡散率そのものは、これまでの六つの怪異と同等か、それ以上に広く浸透している明確な形跡があるのですが……。不可解なことに、その実態に関する具体的な目撃証言やインシデントのログが、文字通り『ほとんど皆無』なんですよ」

 

「んー? でも、曲がりなりにもあのヘンテコな『アビドスの七不思議』の最後の一つに数えられてるくらいなんだよね? 噂話に尾ひれはひれが付いていたとしても、過去のアーカイブを漁れば、何かしらの目撃談とか、不気味な心霊現象の記録くらいは残ってそうなものだけど」

 

ホシノがパイプ椅子の背もたれに完全に体重を預け、退屈そうに天井を見上げながら不思議そうに首を傾げる

 

怪異の正体が身内の突飛な行動であったこれまでの六つのケースでさえ、アヤネのデータベースには「夜間に不審な音がした」とか「特定の時間帯に廊下が異常に綺麗になっている」といった、何かしらの「被害報告」や「目撃の足跡」が市民や風紀委員会の記録として残されていた。しかし、アヤネの口から漏れ出たのは、その大前提を根底から覆すような、奇妙極まりない分析結果だった

 

「それがですね……これまでの六つの怪異と違って、アビドス関連の闇サイトやオカルト系掲示板の過去ログをどれだけ深く遡って解析しても、実際にそれを『自分の目で見た』とか『夜の校舎で遭遇した』という、個人の直接的な体験や被害に基づいた報告のようなものが一切見当たらないんです。代わりに掲示板に投稿されているのは……体験談というより、……そう、まるで書いた本人の切実な『願望』や『祈り』のような、ひどく曖昧で主観的な書き込みだけだったんですよ」

 

「それ……本当に都市伝説や七不思議としての意味があるの? 誰も実際に見ていないなら、怪異でもなんでもない、ただの流行病以下の妄想じゃない?」

 

アヤネの持ってきた不可解な報告に、シロコが理解できないとばかりに首を傾げる

 

元より合理主義的で、目に見える成果や実利を重んじる彼女からすれば、実体の伴わない単なる噂など、砂漠の逃げ水と同じ、追いかける価値のない幻のようなものに過ぎなかった

 

「もーう! だから、分からないものは分からないんですよー!!」

 

蓄積したフラストレーションが限界に達したのか、アヤネはついに両手をバンと机に突いて叫んだ

 

いつもなら綺麗に切り揃えられている髪を少し振り乱したその必死な姿からは、ここ数日間、徹夜で膨大なゴミデータの海を泳ぎ続け、それでもなお一つの答えにすら辿り着けなかったことへの猛烈な徒労感と、限界に近い精神的な疲れがはっきりと滲み出ていた

 

そんな今にも思考が焼き切れそうなアヤネの細い肩を、ノノミが後ろから包み込むように優しく抱きすくめ、「どうどう……♪ よしよし、アヤネちゃん、本当によく頑張りましたね〜」と、昨夜対策委員会の部室でシロコとクロコが怪異相手にやっていたのと全く同じ手つきで、ゆっくりと背中をさすって宥め始める

 

「……あの、昨日も薄々思いましたけど……私、皆さんから何かしらの暴れ馬か、あるいは野生の怪獣か何かに思われてます……?」

 

されるがままの姿勢になりながら、アヤネが死んだ魚のような濁った目で静かに抗議するが、ノノミはただ聖母のような慈愛の微笑みを浮かべるばかりで、その手を止める気配は微塵もなかった

 

「まぁまぁ、ここで誰も答えを知らない議題に対して、眉間に皺を寄せて噛みついていても仕方ないしさ。今日から何かしらの新しい進展や変化があるまでは、みんなでこの楽しい『お泊まり会』を気長に続けようよ」

 

ホシノが手元に残っていたパンの耳を小さく齧りながら、事も無げにのんびりとした口調で提案する

 

その気の抜けた一言で、重苦しくなりかけていた教室の空気は、一気にいつもの放課後の部室のような、軽やかで穏やかな色彩を取り戻していった

 

「ん。私はこのお泊まり会、すごく居心地が良くて楽しいから、怪異なんて何も無くてもずっとずっと続けたい。……とりあえず今日は、夜になったらみんなで全力の枕投げがしたい」

 

「あら、枕投げですか! それはとっても楽しそうですね♪ それなら、全員が武装状態で全力で投げ合っても決して破れたり壊れたりしないような、最高級のホワイトグースの羽毛枕を人数分……いえ、不測の事態に備えて予備も含めてたくさん買い込まないとですね♪」

 

シロコの唐突な要望を聞くや否や、ノノミが待ってましたと言わんばかりに目を輝かせ、スカートのポケットからアビドス市民の給料何年分かも分からない、お馴染みの眩いゴールドカードを取り出してニコニコと微笑む

 

「ノノミちゃーん!? それは流石に出さないお約束でしょー!? 枕投げのために最高級品を買い漁るのは、おじさん流石に止めちゃうよ!?」

 

「……はぁ。最高級の枕が発する独特の波動が、本当に七つ目の怪異を呼び寄せる引き金になるかもしれないという可能性を万が一にでも考慮すれば、一応これも……合法的な捜査費用、として経費に算入できなくも……ないですからね……?」

 

ホシノの必死なツッコミを綺麗に他所に置き去りにしながら、アヤネは半ば諦めたように眼鏡の縁を押し上げ、深いため息を吐き出してノノミの経済的な暴走を半ば容認した

 

(……はぁ。これからアビドス最後の、一番シリアスかもしれない怪異を調べようって時に、こんなコントみたいな調子で本当に大丈夫なのかしら、ウチの委員会は。……まぁ、いつものように賑やかで楽しいから、私はこれでいいのだけどね)

 

息の合ったやり取りを繰り広げる仲間たちの姿を静かに見つめながら、セリカは口元にそっと手を当てて、ふっと優しい苦笑いを浮かべた。胸の奥に澱のように溜まっていた漠然とした不安が、みんなの変わらない笑顔によって、少しずつ融かされていくような気がしていた

 

こうして、ひとまずの形だけの定例会議は幕を閉じた

 

日中のお昼時は、各自がそれぞれのやりたいこと――溜まっていた授業の予習や学園祭の片付け、防衛室の機材整備などを自由に行い、夜の帳が下りたら再び全員でこの学校に集まり、最後の七不思議の本格的な探索を開始する

 

アビドス対策委員会の、少し特別で、とても愛おしい一日のスケジュールが、そうして自然な流れの中で決定していった

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

それから数日の間、アビドス対策委員会の面々は、夜の帳が静かに下りるのを待ってから、本格的な夜間校舎の探索を何度も繰り返した。しかし、肝心の七つ目の怪異は、その尻尾の影さえも彼女たちに踏ませてはくれない

 

足音が暗闇の廊下に響くことも、不審な黒い影がコンクリートの壁を這うこともなく、夜の校舎はただただ、不気味なほどに静まり返っているだけの日々が過ぎていった

 

緊迫した捜査を覚悟していた一同であったが、これだけ肩透かしを食らい続ければ、元からのマイペースな気質も手伝って、現状は完全なる「お泊まり会」の様相を呈していた。昼間の疲れを癒やすための夜の時間は、恐怖を分かち合うためではなく、ただ純粋に、仲間たちとの特別な時間を共有するための娯楽へと変貌を遂げつつあったのである

 

アビドスの広大な敷地に眠る数々の設備は、かつて多くの生徒で賑わっていた頃の栄華を静かに物語っており、その中でも特に保存状態が良好だったのが、この対策委員会室の裏手に位置する地下大浴場であった

 

「……それにしても、学校の中にこれだけ立派な大浴場があるっていうのも、考えてみれば不思議な話よね」

 

頭に白いタオルを器用に巻き、首までたっぷりと張られた湯船に浸かりながら、セリカは心地よさそうに息を吐き出す

 

湯気に霞む高い天井を見上げながら、手足を大きく伸ばしてゆっくりと身体を沈めていく。砂漠の夜の寒さで冷え切った身体に、じんわりと熱が染み渡っていく感覚は、日頃の過酷なアルバイトの疲れや精神的なストレスを綺麗に溶かしてくれるようだった

 

タイル張りの広い浴槽には、地下から汲み上げられたばかりの透明な湯がこんこんと注がれており、波打つ水面が夕暮れの残光を反射してキラキラと輝いている

 

「セリカちゃん、気持ちいいのは分かりますけど、お風呂の中で居眠りしたりしないでくださいよ? 本当に危ないんですから……。……あれ? 蛇口はどこでしたっけ……? シャンプーが、その、目に染みて前が見えません……」

 

浴槽の縁に座り、眼鏡を外して目を固く閉じたまま、アヤネが頼りなげに手を泳がせている

 

頭を真っ白なシャンプーの泡だらけにした状態の彼女は、視界が完全に遮られているため、備え付けのシャワーのレバーがどこにあるのか分からなくなってしまったようだ

 

いつもなら周囲を厳しく律する彼女の、そんな無防備で少し抜けた姿は、お泊まり会ならではの光景であった

 

「ん。アヤネ、大ピンチ。敵の目潰し攻撃を受けて行動不能に陥っている」

 

「きゃあぁっ!?」

 

すぐ隣から聞こえたわざとらしい棒読みの声と同時に、アヤネの顔面に激しい水流が直撃した

 

シロコがいたずらっぽく目を細めながら、自分が持っていたシャワーの銃口――もといノズルを、迷うことなくアヤネの顔面へと向けたのだ

 

突然の不意打ちに、普段は冷静沈着なアヤネも流石に変な悲鳴を上げて大きく飛び退いた。周囲に飛び散る水飛沫が、湯気の中に白い尾を引いていく

 

「どう? 目が洗われて、周りの戦況が見えるようになった? ……んんっ!?」

 

シロコが淡々とその効果を確認しようとした、その刹那だった。

 

アヤネは頭から泡混じりの水滴をボタボタと垂らしながら、無言で、しかし恐ろしいほどの正確さでシロコの持つシャワーのホースを掴み取り、それを力任せに強引に奪い取った

 

そして、一切の躊躇なく、最大出力に設定された「冷水」をシロコの全身へと浴びせかける。眼鏡を外しているにもかかわらず、その狙いは寸分の狂いもなくシロコの胸元を捉えていた

 

「お気遣い、誠にありがとうございます、シロコ先輩♪ ですが、先輩もまだ背中の方に泡の流し残しがあるみたいですよ? 後輩として、丁寧にお手伝いさせていただきますね」

 

およそ温かい湯気の中とは思えないほど極寒の笑みを浮かべ、アヤネはにこやかに冷水を噴射し続けた

 

「んっ! 待って、アヤネ、冷たい……! それは冗談抜きの本気のやつ……っ! 悪かったから、一回ストップ……!」

 

シロコは珍しく慌てた様子で両手を使って顔の前にガードを作るが、容赦なく吹き付けられる冷水は防御の隙間をすり抜け、彼女の体温を容赦なく奪っていく

 

いかに野性的な勘と驚異的な身体能力を持つシロコであっても、眼鏡を外して本気で怒ったアヤネのプレッシャーには敵わないようだった

 

「もーう、お二人とも、お風呂場での激しい喧嘩は滑って転びやすいですからダメですよー?」

 

見かねたノノミが、ふんわりとした甘い香りの泡を全身に纏ったまま二人の間に優しく割って入り、アヤネの手元にあるシャワーの栓を器用にひねって止めた

 

大人(?)の余裕を感じさせるその仲裁によって、大浴場に巻き起こった一触即発の冷水戦は、ようやく一時休戦を迎えることとなった

 

「うう……。寒い……。身も心も凍てつく、アビドスの過酷な冬の夜を思い出す冷たさ……。私のHPが、急速にゼロに向かってカウントダウンを始めている……」

 

蛇口の主導権を完全に奪還されたシロコは、ずぶ濡れになった銀色の髪を顔や首筋に張り付かせたまま、冷水に晒された肩を小刻みにガタガタと震わせて体育座りをしていた

 

そのあまりにも哀愁が漂いすぎている野生動物のような姿を見かねて、アヤネは広い浴槽から呆れたように顔を出した

 

「もう、シロコ先輩……! いたずらでお水をかけてくださるのは百歩譲ってありがたい(?)ですけど、せめて一言、これからかけるわよって声をかけてからにしてくださいよ。お陰で私、耳の奥深くにまで冷たいお水が入っちゃって、へんな感じなんですよ。本当に人騒がせなんですから!」

 

アヤネは深く苦笑しながら浴槽からしなやかに上がると、手近なプラスチックの黄色い桶でお湯をザブザブと勢いよく汲み上げ、その場でおとなしく凍えているシロコの頭から、優しく温かいお湯を何度も回しかけてあげた

 

心地よい熱が全身に戻ってきたシロコが、「ん……生き返る……。やっぱりアビドスのお湯は、世界で一番の癒やし効果がある……」と、小さく満足げに耳をパタパタさせるのを見て、ようやく戦場と化していたお風呂場に本来の平和が戻る

 

「ほらほら〜、みんな喧嘩はしないの〜。せっかくの、こんなに広くて素敵なお風呂なんだからさ、のんびりいこうよ、のんびり〜」

 

そんな激しい水飛沫の騒ぎなどどこ吹く風といった様子で、湯船のちょうど中央のエリアでは、ホシノが完全に仰向けになり、ぷかぷかと楽しそうに浮いていた

 

彼女の鮮やかな桃色のロングヘアが水面に美しく広がり、まるで温泉街に生息するおじさんのような、極上の脱力感を全身からこれでもかと醸し出している

 

「ちょっと、ホシノ先輩……! お風呂なんだから、いい加減ちゃんと湯船の中に腰を下ろして座りなさいよ。相変わらずだらしないんだから、もう……。後輩の前だってことを少しは意識して!」

 

湯船の真ん中で仰向けになり、まるで水族館のクラゲのようにゆらゆらと漂うホシノの姿を見かねて、セリカは呆れたように眉の根を寄せた

 

額に巻いた白いタオルの位置をきゅっと直しながら、湯船の木製の縁を軽くパシパシと叩いて注意を促す

 

「いいじゃん、いいじゃん〜、セリカちゃん。今ここにはおじさんたちしかいなくて誰も見てないしさ。アビドスのこの広大な大浴場は、砂漠に隠された秘密のオアシスなんだからさ。こういう贅沢な時くらい広々と、ダイナミックに使わないともったいないよ〜。ほらほら、セリカちゃんも騙されたと思って、おじさんと一緒にここでぷかぷかしてみる〜? 視界が広がって気持ちいいよ〜?」

 

「するわけないでしょ! 誰がそんな恥ずかしい格好するのよ! 対策委員会の委員長としての、先輩としての威厳は一体どこに置き忘れてきたのよ、全く……!」

 

ホシノはのんびりとした調子で手足を小さくパタパタと動かし、湯面に穏やかな波紋を広げながら、贅沢な浮遊感を全身で満喫している

 

そんな他愛のない、いつもの放課後延長戦のようなやり取りを交わしているうちに、アヤネの冷水反撃で冷え切っていたシロコも十分に体の芯まで温まり、ノノミも髪と体を綺麗に洗い終えて、全員がこの大きな湯船の温もりへと合流することになった

 

白い湯気が幾重にも立ち込める、まるで山奥の高級温泉さながらの空間

 

五人の少女が同じ湯船に肌を寄せ合うようにして浸かると、それだけでどこか、昔経験した修学旅行の夜のような、あるいは特別な絆で結ばれた連帯感がじんわりと生まれてくる

 

全員が肩までしっかりと温かい湯に浸かり、心地よい熱に身を委ねて目を閉じかける。しかし、不意にすぐ隣に座るノノミのみずみずしく、かつ圧倒的なボリュームを誇るプロポーションが視界の端に入ったアヤネは、自身のささやかな胸元へとそっと視線を落とし、少しだけ気まずそうに目を逸らしながらボソッと小さな声で呟いた

 

「…………それにしても……ノノミ先輩……やっぱり、その、何と言いますか、大きいですよね……。同じアビドスの生徒として、純粋に羨ましいというか、秘訣があるなら教えてほしいというか、なんというか……」

 

「あら、そうですか〜? 私はむしろ、アヤネちゃんくらい全体的にキュッと引き締まっている方が、アビドスの制服も、防衛室のオペレーター用の服も綺麗に着こなせてとっても素敵だと思いますよ? それに、サイズだけで言うなら、昔のユメ先輩の方がずーっと、ずーっと大きかったと思います。アヤネちゃん達が入学するより前に、ここで一緒にお風呂に入った時なんて、私の視界の半分くらいがユメ先輩の存在感で埋まっちゃいましたから。それに比べたら、私なんてまだまだ可愛いものですよ〜♪」

 

ノノミは豊満な胸元を隠すそぶりすら見せることもなく、ふんわりとした大らかな笑顔でかつての愛おしい思い出を語る。その圧倒的な破壊力と説得力を持つ発言を前にして、セリカは浴槽の中で体育座りのように膝をぎゅっと抱え込むようにして、湯面の下で不満げに不器用な口を尖らせた

 

「……二人とも、そもそも遺伝子レベルの規格からして大きすぎるのよ、全く。アビドスに僅かに残された貴重な栄養は、一体どこに偏って吸収されてるわけ? 不公平にもほどがあるわ」

 

「あはは、そうだよね〜。セリカちゃんの言う通り、世の中って不思議な偏りがあるよね〜」

 

セリカの嫉妬と羨望がごちゃ混ぜになった呟きを、その優れた聴覚で決して聞き逃さなかったホシノが、水面から顔だけをひょこっと潜水艦のように出して、ニヤニヤと意地の悪い、けれど最高に楽しそうな悪戯っ子の笑みを浮かべた

 

「シロコちゃんやアヤネちゃんは、これからの成長期と日頃の運動量で、まだまだ奇跡の伸び代がありそうだけどさ。セリカちゃんはおじさんと同類っていうか、遺伝子的な意味でこの先もずーっと現状維持のままで、一ミリも変わらなさそうだもんね〜。仲間がいておじさん嬉しいな〜」

 

「なっ……! どういう意味よそれ!? 私だってまだピチピチの高校一年生なんだから、これから2年生、3年生になるにつれて、宇宙の歴史を覆すような奇跡の急成長を遂げる可能性だってゼロじゃないわよ!! まだ諦めてないんだからね!!」

 

「あ、でもね、セリカちゃん。落ち込まないでよ。おじさんと違ってさ、セリカちゃんは『おしり』のラインがすごく、こう、健康的にキュッと上がってて綺麗だし、そっちの方にばっかり栄養が集中して――」

 

ホシノがその余計な解説を口にし、そこまで言いかけた、まさにその瞬間だった

 

セリカの目がすっと冷酷に据わり、電光石火の、文字通り戦場さながらの速さでホシノの細い両肩をガシッと掴むと、一切の無言のまま、物凄い腕力で彼女の身体を湯船の底へと力任せに、容赦なく垂直に沈め込んだ

 

「がぼがば、ぶはっ!? げほっ、けほっ……! ちょ、ちょっとセリカちゃん!? おじさん本当に死んじゃうよ!? 砂漠の過酷な戦場じゃなくて、まさか学校の安全なお風呂場で後輩に溺死させられるところだったんだけど!?」

 

激しく大きな水飛沫を周囲に撒き散らしながら、大慌てで水面に這い上がってきたホシノは、オッドアイを白黒させながら必死に乱れた息を整えてゴホゴホと咳き込む

 

しかし、当のセリカは、立ち込める湯気の中でこれ以上ないほど美しく、恐ろしく、そして眩いばかりの「極上の営業スマイル」を浮かべながら、慈悲のかけらもない冷徹な眼差しで、哀れな委員長を上から見下ろしていた

 

「え? 何を言っているの、ホシノ先輩? 先輩が今、自分の強い意思で勝手にお湯の中に深く潜っていったのよね? まさか、私が密かに気にしている体型のコンプレックスを容赦なく突いて……私を本気で怒らせた……なんて、そんな命知らずなことを言うわけがないものね?」

 

セリカの声は信じられないほどに低く、透き通っていた。その顔には、絵に描いたような完璧な営業用スマイルが貼り付いており、逆にそれが周囲の空気を凍りつかせる

 

「あ……うん……。そ、そうだね……。お、おじさん、ちょっとアビドス流の過酷な素潜りの練習をしたくなっただけだったよ……うん、全ては自主的なトレーニングの一環なんだよ、セリカちゃん……」

 

セリカの背後に、まるで実体化せんとばかりに揺らめく、どす黒く重苦しい怒りのオーラを本能的に察知したホシノ

 

彼女は、過去のどんな強敵を相手にした時よりも遥かに深い、生命の危機を伴う恐怖をその身に感じていた。オッドアイの瞳を激しく泳がせ、両手を白旗のように上げてガタガタと震えながら、一歩一歩後退りして引き下がっていく

 

「ん。ホシノ先輩、セリカが本気で気にしてる地雷を踏んだらダメ。乙女のプライドを傷つけるのは万死に値する、可哀想。……ちなみに、私の場合は将来的にあらゆる部分が大きく成長することが、因果の必然、歴史の確定事項として約束されているけれど、セリカにはそういう未来の希望が、生物学的な可能性も含めて一切存在しな――がぼぼぼぼっ!?」

 

「ん」の一言で親身な擁護に回るかと思われたシロコが、その実、いつも通りの淡々とした無表情のまま、トドメを刺すような残酷極まりない現実を口にした、まさにその瞬間。セリカの細く引き締まった右手が、今度はシロコの濡れた頭頂部を鷲掴みにし、容赦ない挙動で湯底へと一気に叩き込んだ

 

「この馬鹿先輩どもーーーー!!! まとめてアビドス湯床のサビにしてやるから、そこに並んで覚悟しなさいよね!!! あとシロコ先輩!! あんたのその『確定した将来』ってやつは、こっちの世界の純粋な成長の結果じゃなくて、あっちのクロコ先輩が持っていた『色彩』っていう外因的な歪みの可能性も大いにあるんだから、勝手に勘違いして調子に乗ってないで、少しは現実を見なさいよ!!」

 

激しい水飛沫が容赦なく浴場を舞い、鼓膜を震わせる怒号が四方に飛び交う

 

静寂に包まれていたはずの地下大浴場は、一瞬にしてアビドス流の容赦のない合戦場へとその姿を変えた。湯面は波立ち、バケツや桶がひっくり返る音が響き渡る

 

「もう……お風呂の時くらい、ゆっくり静かに入りましょうよ……。なんでウチの委員会は、毎回毎回こうやって、ただの入浴が命がけの戦闘訓練みたいな大騒ぎに発展するんですか……」

 

アヤネは湯船の縁にぐったりと頭を預け、目の前で派手に繰り広げられる水掛け論(物理)の惨状を眺めながら、深い疲労感と共に呆れ果てていた

 

眼鏡を外した彼女の視界には、ただ白く激しい泡と水飛沫が弾ける光景だけが映っている。一方のノノミは、そんな目の前のアビドス式ドタバタ劇を少しも怖がる様子はなく、むしろ愛おしそうに眺めながら、パタパタと白い小さな手を叩いて終始楽しそうに微笑んでいた

 

「ふふ、みんな本当に朝から夜まで元気があっていいですね♪ これぞアビドスの輝かしい青春って感じで、私、とっても楽しいです♪」

 

「ノノミ先輩、そういう風にすぐ甘やかしちゃダメだってば……!」

 

こうして、これ以上の収拾がつかないほどドタバタとした混沌のお風呂時間は、怒りと興奮、そして二人の傍若無人な先輩を力ずくで湯底へと沈めるための重労働によって、完全に頭に血が上り、顔をリンゴのように真っ赤にしてのぼせてしまったセリカが、フラフラと千鳥足になって浴槽の縁に座り込んだことで、ようやく終わりを告げることとなった

 

――湯気立つ脱衣所を経て、二度の洗濯を終えた制服をハンガーにかけ、対策委員会の教室へと戻る

 

「あー……あづい……。もうダメ……脳みそまで溶ける……」

 

扇風機が首を振る度、最も強く風が当たる教壇前の特等席を容赦なく陣取り、セリカはパイプ机の上に上半身を完全に投げ出して、ぐったりと力なく横たわっていた

 

湯上がり特有の抜けない熱気が、彼女の白い肌をほんのりと淡い桜色に染め上げており、その額からはじわりと汗が滲み出ている

 

「あはは……。ごめんね、セリカちゃん。流石にちょっと、おじさんたちの悪ノリが過ぎちゃったよね。反省、反省〜。ほら、おじさんの極上のうちわ捌きを堪能してよ」

 

「ん……。私も、からかわれた時のセリカの怒った反応がすごく新鮮で、猫みたいで面白くて、ついつい弄りすぎた。本気で反省している。すまないと思っている」

 

お揃いの浴衣に着替えたホシノとシロコは、流石に今回の件に関してはやりすぎたと本気で反省した様子を見せていた

 

ぐったりと机に突っ伏しているセリカの左右に付き従うように陣取り、申し訳なさそうな顔をしながら、手にしたうちわをパタパタと健気に、そして等間隔の速度で扇ぎ続けている。二人の先輩から同時に受ける、至れり尽くせりの過剰なまでの介護。しかし、セリカの胸の内に居座っている「熱」の正体は、単なるお風呂ののぼせだけが原因ではなかった

 

ここ数日間の、何事もない平和で、騒がしくて、だからこそ狂おしいほどに愛おしいお泊まり会の日常

 

そして、その平和な日常の裏側で、着実に、しかし音もなく近づいている、最後の、七つ目の怪異の足音

 

(人の強い後悔に惹かれ、その執着が作り出した、あり得もしない幸福な幻を見せる影――)

 

アヤネが会議の席で言っていた、実体のない『願望』や『祈り』のような闇サイトの書き込み。もし、この眩しいほどに楽しく、満ち足りた時間のすべてが、誰かの強い執着が見せている『都合の良い幻』なのだとしたら。そして、この次なる七不思議を完全に解き明かしてしまった時、自分はこの幸福な場所から――

 

「……私、ちょっと、外の冷たい風を浴びてくるわ……」

 

ホシノとシロコが送ってくれる優しい風と、その耳元に届く誠実な謝罪の言葉に対し、今のセリカはいつものような元気な軽口を返すことがどうしてもできなかった

 

ただ、自らの胸の奥底で燻り続ける、割り切れない冷たい不安を仲間に隠すように、ボソッとそれだけを言い残すと、机から気怠げに身を起こした。そして、引き止めるような視線を背中に感じながらも、静かに教室の重い引き戸を開けて、夜の長い廊下へと出て行ってしまった

 

セリカはのぼせてフラフラとした頭を片手で押さえながら、静まり返った夜の校内を、目的地も決めぬまま宛てもなく歩いていた。パタパタとスリッパがコンクリートの床を叩く規則正しい音だけが、灯りの消えた暗い廊下の奥へと反響し、吸い込まれていく

 

どこからか古びた校舎の目に見えない隙間をすり抜けて、外から漏れ出しているのだろう。砂漠の夜特有の、氷のようにひんやりとした涼しい風が、火照りきった身体と茹で上がった彼女の頭を優しく撫で、少しずつ頑固な微睡みから覚醒させていく

 

肌を直接刺すような夜の冷気が心地よく、セリカは深く、長く胸の中の熱を吐き出しながら、さらに誰もいない校舎の奥へと歩みを進めていった

 

「……ここは」

 

無意識のうちに引き寄せられるようにして足を運んでいた、見覚えのある古い廊下の行き止まり。そこに佇む木製の扉の前で、セリカの歩みはピタリと停止した

 

ふと視線を上げた先にあるのは、かつての激動の歴史を見守り続けてきた古い真鍮のプレート。そこには掠れた文字で『生徒会室』と刻まれている

 

今はもう本校舎に対策委員会の拠点が移され、滅多に使われることのない、忘れ去られたはずの旧生徒会室であった

 

廊下に面したすりガラスの明かり窓からは、部屋の中にうずたかく積まれた段ボールの影が、満月の逆光によって不気味に、しかしどこか哀愁を帯びて透けて見えている。それはセリカがよく知っている、あの不思議な時間跳躍で迷い込んだ過去の世界の、そして自分の記憶の底に眠る光景そのものであった

 

何かに導かれるようにして、セリカは吸い込まれるように扉のノブに手をかけた

 

カチャリ、と静寂を破る軽い金属音が響き、驚くほど呆気なく扉が内側へと動いていく。現在はホシノが管理を任され、立ち入りを制限しているはずの部屋だったが、どうやら鍵を閉め忘れていたらしかった

 

そっと忍び込むように中に入ると、埃っぽい空気の奥から、微かに古い紙の匂いと、どこか懐かしいお香のような香りが鼻腔をくすぐった。室内は使われていないとはいえ、ある程度は埃が払われ、几帳面な手つきで整頓されている

 

ふと壁際に整然と並ぶスチール製の古いロッカーに目が留まった。その凹みだらけの表面には、ユメの卒業前の悪戯の痕跡なのか、ユメと一年生のホシノの二人が弾けるような笑顔で写っているポラロイド写真が、今も色褪せることなく大切に貼られたままになっていた

 

「……私、ついこの間までは、確かにこの部屋に、三人で一緒に居たのよね…懐かしいわ」

 

愛おしさと切なさが綯い交ぜになった制御できない感情が胸の奥を突き上げ、セリカは愛おしそうに指先でロッカーの冷たい表面をなぞった

 

そこは、あの奇妙な時間跳躍の最中、梔子ユメから「今日からここ、セリカちゃんのロッカーとして使っていいよ!」と満面の笑みで割り当てられた、自分だけの、世界で一番温かい居場所だった

 

意を決して、錆びついた取っ手を引いて中を開けてみる

 

だが、カパッと虚しい音を立てて開いた薄暗い空間には、既にすべての備品が本校舎へ移動されているのか、あるいは綺麗に撤去されてしまったのか、塵一つ残されておらず、ただ空っぽの闇と冷気が広がっているだけだった

 

「……何もないと、あれが夢だったみたいよね」

 

セリカは自嘲気味に小さく微笑み、静かに扉を閉めると、ゆっくりと誰もいない生徒会室を見渡した

 

中央に置かれた、埃を薄く被った大きな木製の机を見ると、かつてこの場所で三人で並んで、慣れない手つきで山のような書類整理をしていた時の光景が、鮮明な映像として脳裏にフラッシュバックする

 

ユメがまたしてもドジを踏んで、淹れたてのお茶を重要な予算申請書の上に盛大に零してしまい、それをセリカとホシノの二人で「もう、ユメ先輩! 何やってるのよ!」「何やってるのさ、ユメ先輩! またやり直しですよ!!」と声を揃えて怒った記憶

 

部屋の隅に置かれた、油の切れてギィギィと鳴く古い回転椅子を見れば、仕事の合間に暇を持て余したユメが「見て見てー! 新しいアビドス流の回転の術ー!」と嬉々としてクルクルと高速回転し、案の定激しく目を回して床に倒れ込んで気持ち悪くなり、セリカが呆れたような大きな溜息をつきながら、冷たいお水を持って彼女の背中を介抱した記憶

 

どれもが、つい数時間前のことのように温かく、そして胸が痛くなるほど切なく、セリカの脳内に鮮明に蘇ってくる

 

彼女は吸い寄せられるようにして窓辺へと歩みを進めた。閉じられていた古いプラスチック製のブラインドの紐をきゅっと引き、ゆっくりとそれを上部へと巻き上げていく

 

ガタガタと乾いた音を立てて開かれた窓の向こうから、夜空の頂点に浮かぶ見事な満月の光が、遮るもののない圧倒的な青白い輝きとなって一気に生徒会室の中へと降り注いだ。白銀の光が、埃の舞う部屋の輪郭を幻想的に浮かび上がらせていく

 

「……こんなところで、何をしている」

 

「!? 」

 

突然、背後から一切の足音もなく近づいてきた何かが、自分の後頭部にツンと硬い感触を容赦なく突きつけてきた




お待たせしました…!最後の方は決めていたのですが…途中までが全く決まらず時間がかかってしまいました…

セリカちゃんはお尻が大きいといいな(?)
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