セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話   作:気弱

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セリカとキウイと猫化 懐かしき日々

昼下がりのアビドス生徒会室

 

セリカとホシノの二人は、机の上に山積みにされた膨大な量の書類を前に、黙々と整理作業に追われている。山を成す紙束は色褪せ、四隅が少しめくれ上がっており、これまでどれだけの仕事が滞っていたのかを如実に物語っている

 

「あーもう! 一体どれだけあるのよ、これ!」

 

ついに限界を迎えたセリカが、あまりの書類の多さに机に突っ伏し、両手で頭を抱え込み、ガツンと額を木目の天板にぶつけ、微かな振動が部屋の空気を震わせる

 

そのすぐ横では、ホシノが無言のまま機械的な動きでカリカリとペンを動かし続ける。その筆致はどこか奇妙なほど規則正しく、一糸乱れぬ正確さで欄を埋めていく

 

「ねぇ、ホシノちゃん……少し休憩しましょうよ。ここ毎日、ユメ先輩が溜め込んだ書類ばかりやって、もうヘトヘトだわ……」

 

セリカは机に顔を突っ伏したまま、縋るように同級生のホシノに話しかける。しかし、どういうわけかホシノからは何の返事も返ってこない

 

ただ、衣服が擦れる音と、紙の上を滑るインクの音だけが虚しく響く

 

いつもなら「そんなこと言っても書類は終わりませんよ」と厳しく突き放されるか、あるいは「仕方ないですね……少しだけ休みましょうか」と苦笑交じりに応じてくれるはずなのに

 

あまりの無反応さに不審を抱いたセリカがゆっくりと顔を上げ、隣のホシノの方を盗み見ると――

 

「って、ホシノちゃん!?」

 

そこにいたのは、極限まで根を詰めた結果、完全に白目を剥きながら凄まじい速度でペンを走らせているホシノの姿である。表情は完璧に固定され、生気を感じさせない顔つきのまま、右手だけが生き物のように躍動している

 

「ちょっと、しっかりしなさい!」

 

慌てて椅子から立ち上がり、駆け寄ったセリカが、ホシノの細い肩をガクガクと激しく揺さぶる。すると、ホシノの身体がビクッと大きく跳ね、その瞳にようやく正気が戻る。焦点の定まっていなかったオッドアイが、驚いたように瞬きを繰り返していく

 

「っ……あ、セリカ。どうしましたか……?」

 

「どうしましたか? じゃないわよ!? 完全に意識がどっかに飛んでたわよ!?」

 

「半分くらい寝てましたね……。ですが、手の動いているので進捗には問題ありません」

 

「それ以外が大問題なの! ほら、もうおしまい! 少し休むわよ!」

 

「あ、あと少しだけ…」

 

まだ未練がましそうに書類へ手を伸ばし、眉をひそめるホシノを、セリカは半ば力ずくで椅子から引き摺り下ろし、華奢な身体を抱え込むようにして、部室の片隅にある古ぼけたソファーへと横たわらせる

 

スプリングが軋む音を聞きながら、セリカはやれやれと深い溜め息をつき、自分のカバンから取り出した今朝買ったドリンクを差し出す

 

「はぁ……ぬるくなってるかもだけど、これを飲みなさい。少しは頭がシャキッとするはずだから」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

ホシノはセリカからペットボトルを受け取ると、キャップを開けて一気に半分ほど喉へと流し込んでいく。ゴクゴクと音を立てて水分が吸い込まれ、水滴が指先を濡らす

 

「うへぇ……生き返りましたよ……」

 

ソファーの背もたれに深く体重を預け、ようやく人心地ついたような声を漏らすホシノ

 

「そんな限界になる前に休みなさいよ、まったく……」

 

呆れたように肩をすくめるセリカであるが、ふと、この膨大なペーパーワークを生み出した元凶の存在を思い出す。怒りと疲労の矛先を向けるべき相手の不在に気づき、周囲を見回す

 

「そういえば、この書類をこれでもかってくらい溜め込んだ張本人のユメ先輩は、一体どこに行ったのよ? 朝から一度も顔を見てないんだけど」

 

「そういえば……まだ来ていませんね。普段なら、少しでも遅れる時は何かしら連絡くらいはあるのですが……」

 

ソファーに体を預けたまま、ホシノが天井を見上げて呟く。普段なら、どれほどルーズであっても朝のルーティンだけは守るはずの先輩が、昼下がりになっても姿を見せない。しばらくの間、二人の間に重苦しい沈黙が流れていく

 

窓の外から聞こえる乾いた風の音だけが、静まり返った室内を通り抜ける

 

目を合わせ、お互いに言葉には出さなかったものの、脳裏に浮かんだ懸念は全く同じである

 

(あの人、また何かおかしなトラブルに巻き込まれているんじゃ……)

 

砂漠の治安や彼女の突飛な行動力を思えば、最悪の事態すら過る

 

そう二人が最悪のシミュレーションを頭の中で描き、身構えた、まさにその瞬間

 

「今日も元気なアビドス生徒会長、ユメさんじょーうっ!」

 

バン! と勢いよく扉が開け放たれ、いつものように底抜けに明るい声とともにユメが姿を現す

 

その両手には、学校の備品ではない、なにやら妙に大きな段ボール箱が厳重に抱え、あまりの重さのせいか、彼女の細い腕は少しだけぷるぷると震えている

 

「ユメ先輩……遅れるならせめて、一言連絡くらいしてくださいよ……」

 

「そうよ! 何か変な事件にでも巻き込まれたんじゃないかって、本気で心配したんだからね!?」

 

心底ホッとしたものの、それ以上に押し寄せてきた脱力感のせいで、二人の声は自然とトーンが低くなる

 

「えへへ……ごめんね、二人とも。スマホの充電が切れちゃっててさ……でも良いものが手に入ったからみんなも喜ぶよ♪」

 

悪びれる様子もなく、ユメは中央の机の上に大きな荷物をドスンと置きながら、頬を掻いて苦笑いを浮かべる。その暢気な言い訳を聞いた瞬間、セリカの額にピキリと明確な青筋が浮かび上がる

 

(スマホの充電切れ……? そういえば…昨日も一昨日も同じことを言ってたわよね…)

 

記憶の引き出しが乱暴に開けられ、この数日間に蓄積された怒りが一気に呼び起こされていく。

 

(……そうだわ。昨日も一昨日も、何だかんだと言い訳を作って書類仕事から逃げ出して……。今日こそは、今日こそは絶対に容赦なく怒ってやるんだから……!)

 

セリカが内心で般若のような恐ろしい決意を固め、全身からピキピキとただならぬ怒気を放ち始めた、その瞬間

 

ソファーで横になっていたホシノが、その肌を刺すようなただならぬ殺気に敏感に反応して、ピクッと耳をそばだてるように頭を上げる。ジロリとユメを鋭く睨みつけるセリカの横顔を盗み見ながら、ホシノは内心で冷や汗を流していく

 

(……セリカ、完全に怒ってますね…これはユメ先輩、完全に地雷を踏み抜きましたよ……)

 

怒れるセリカのあまりの覇気と凄まじいオーラに、ホシノはそっと視線を逸らし、自らに火の粉が降りかからないよう静かに気配を消していく

 

そんなセリカの恐ろしい決意にも、ホシノの密かな同情にもまったく気づいていないユメを置き去りにしたまま、二人の視線は、彼女が意気揚々と持ち込んだその謎の段ボール箱へと向けられる

 

「……ユメ先輩、その荷物、一体なんですか?」

 

不穏な気配を察知したセリカが声を一段と低くしてジロリと目を険しくし、尋問するように問い詰める

 

「もしそれ、またどこからか引っ張ってきた『追加の書類』とかだったら……。そろそろユメ先輩を椅子に括り付けて、強制労働させた方がいいかもしれないわね」

 

「それは良いアイディアですね、セリカ」

 

「ちょっと待って!? 書類なんかじゃないからそんな怖いこと言わないでー! あとホシノちゃん、笑顔でカバンから極太のロープを取り出そうとするのはやめて!?」

 

「捕縛の準備ですが、何か?」と言わんばかりの満面の笑みで、カバンの奥からガサゴソと繊維の荒い頑丈な麻縄を取り出そうとするホシノ

 

実戦用の緊縛術でも試すかのような手際に、ユメが涙目で全力でその両手を掴んで制止する

 

セリカは、(っていうか、なんでホシノちゃんのカバンには当然のようにロープが常備されてるわけ……?)と一瞬強い疑問を抱くが、(まあ、ホシノちゃんだし、この学校だし、何があってもおかしくないか……)と、早々に深く考えることを放棄するのだった

 

「それで? その箱は一体なんなのよ」

 

セリカが改めてジロリと鋭い視線を向けると、先程まで涙目で怯えていたはずのユメが、待ってましたとばかりにパッと花が咲いたような笑顔を浮かべる

 

「ふふーん、よくぞ聞いてくれました! これはね、さっき駅前で荷物を持って困っているおばあちゃんがいたから、一緒に運んで助けてあげたら、お礼にってくれたの! ほら、見て見て!」

 

ユメが嬉々として大きな段ボール箱のテープを剥がし、勢いよく両開きにする。二人が中を覗き込むと、そこには産毛に包まれた小ぶりのキウイフルーツが、隙間なくぎっしりと詰め込まれている。段ボールの隙間から、完熟した果実特有の甘酸っぱい芳醇な香りが、部室の埃っぽい空気の中に一気に広がっていく

 

「おお……こんなにたくさん。どれも丸々と太っていて、すごく甘そうですね」

 

「でしょー? 完熟だから今が一番食べ頃なんだって!」

 

「たまにはユメ先輩も、アビドス生徒会のために役に立つことがあるんですねぇ」

 

「ひぃん! ホシノちゃんが相変わらず言葉のナイフを突き刺してくるよぅ!」

 

大裟さに泣き真似をするユメを他所に、目の前の美味しそうな果物を前にして、ホシノのオッドアイの瞳がキラキラと輝く

 

しかし、そんな二人の盛り上がりとは対照的に、なぜかセリカだけが引きつった顔でじりじりと後退り、箱から距離を取り始める

 

その視線はキウイの山を凝視したまま、まるで未知の脅威を警戒するかのようである

 

「えっと……わ、私にはちょっと、遠慮しておくわ」

 

「え? どうしたのセリカちゃん。もしかしてキウイ、苦手だったりする?」

 

ユメが不思議そうに首を傾げて尋ねる。セリカは「いやー……その、ちょっと、ね……」と視線を激しく泳がせながら、なぜか言葉を濁してうつむく。顔がわずかに強張り、きつく結んだ唇が微かに震えていた

 

その妙に歯切れの悪い態度を見て、ホシノが静かに口を開く

 

「ユメ先輩、苦手なものを無理に食べさせてはダメですよ。普段のセリカなら『要らないわよ!』って一蹴するはずですから。……ひょっとしたら、アレルギーか何かなのかもしれませんし」

 

「あ、アレルギー! そ、そうよ! アレルギーなのよ、私! ほんっとーに残念だわー、こんなに美味しそうなのに、食べられなくて、なーみだが出ちゃうわー!」

 

同級生であるホシノの差し伸べた助け舟に、セリカはこれ幸いとばかりに全力で飛びつき、大根役者のようなわざとらしい仕草で力強く頷く。だが、そのあまりの動揺ぶりと、泳ぎ続ける視線は、傍から見ればアレルギーなどではなく「他に絶対に食べられない決定的な理由がある」と一発で丸分かりなほどに不自然である

 

その様子をじっと観察していたユメは、何を思ったのかニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべると、自分のバッグからプラスチック製の小さなタッパーを取り出し、軽い足取りでセリカへと近づいていく

 

「ふふーん、そんなセリカちゃんには、ユメ先輩からこれを用意してあげよう♪」

 

「何よそれ? ……なんか、ものすごく嫌な予感がするんだけど」

 

「じゃーん! すぐに食べられるように、もう剥いて切ってあるキウイだよー!」

 

「っ!?」

 

「ユメ先輩!? 何してるんですか!?」

 

セリカが悲鳴を上げる暇もなく、ユメはその顔のすぐ近くでタッパーのフタをパカッと開ける。中には、綺麗に一口サイズにスライスされた(おそらくユメではなく、親切なおばあちゃんがあらかじめ剥いておいてくれたのだろう)瑞々しい緑色のキウイが、美しく並んでいた

 

中心の白い芯から広がる黒い種が、果汁を纏ってキラキラと光を反射する

 

「えへへ〜、これなら皮を剥く手間もないし、食べやすいでしょ? ……って、あれ? セリカちゃん?」

 

至近距離で放たれたキウイの濃密な甘酸っぱい香りに、セリカの顔が一瞬にして驚愕に染まる

 

身体を強張らせ、一歩後ろへ逃げ出そうとしたセリカであるが、次の瞬間、その鼻腔をくすぐる特有の匂いにフンス、と鼻をヒクヒクさせと、まるで抗えない何かの本能に支配されたかのように、フラフラと吸い寄せられるように静かにタッパーを受け取り、小さなフォークで一切れを口へと運んでいく

 

「……おいしい」

 

「でしょ♪」

 

満足げに胸を張るユメ

 

しかし、その横で二人のやり取りを見ていたホシノは、セリカの劇的な変化に得体の知れない違和感を覚え、背筋に冷たいものが走るのを感じている

 

頭の上の猫耳が微かに震え、トロンと潤み始めたセリカの瞳は、明らかにいつもの彼女の硬派な雰囲気とは異なっている

 

「……ユメ先輩。なんだかセリカの様子、明らかにおかしくないですか?」

 

「え? そうかな? 美味しそうに食べてくれてるし、いつも通りじゃ……」

 

首を傾げるユメを他所に、ホシノはセリカの顔を凝視する

 

先程まであれだけ怒気を孕んでいたハキハキとした元気さはどこへやら、今のセリカはトロンと締まりのない目で、ジッと手元のキウイを見つめている。さらに、その白い頬には、ほんの数秒前までにはなかった、まるで熱を帯びたかのような赤みがじんわりと差し始めている。耳の付け根のあたりまでがほんのりと桜色に染まり、吐き出される息もどこか熱っぽい

 

(……赤み? 待って、お酒を飲んだわけでもないのに、どうして……?)

 

そこでホシノは、ある決定的な違和感の正体に気がつく

 

セリカの頭頂部にある、彼女のチャームポイントでもある特徴的な猫耳が、今は力なくペタンと完全に寝てしまい、頭の形に沿うようにくっついているのだ。普段なら周囲の音に反応してピコピコと我が物顔で動く一対の耳が、今は完全に警戒心を失ったように平らになっている

 

「……そういえば、ユメ先輩。セリカって、頭に猫耳がありますよね?」

 

「へ? うん、そうだね。毎日ぴこぴこ動いてて、すっごく可愛いなーって思うよ!」

 

「私も常々可愛いと思っています! ……って、そうじゃありません。あれがただの飾りや『つけ耳』の類ではないのだとしたら……セリカには少なからず、生物学的な『猫』の要素が含まれているということですよね?」

 

一瞬、ユメの暢気な感想に素で同意しかけたものの、ホシノは慌ててゴホンと大きな咳払いをして話を軌道修正する

 

「う、うん……? まあ、身体的な特徴としてはそうなるのかな?」

 

「猫という生き物は、『マタタビ』の匂いを嗅いだり摂取したりすると、中枢神経が麻痺して泥酔状態になってしまう……それは一般常識として分かりますよね?」

 

「うん! 猫がフニャフニャになっちゃうやつでしょ? 有名だから知ってるよ」

 

「……キウイフルーツは、マタタビ科マタタビ属の植物です。そしてセリカは、昨日のあの恐ろしい事件で、致命的に酒癖が悪いという事実が発覚しています。もしも、万が一……セリカの身体が、本物の猫と同じようにキウイで『酔っ払って』しまっているのだとしたら……」

 

「え、ええー……? そ、そんな漫画みたいな偶然、ある……かなぁ……?」

 

ホシノが淡々と並べる不穏な事実のピースが頭の中で繋がり、ようやく事態の圧倒的な重さに気がついたユメの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく

 

緊迫した空気の中、引き攣った笑みを浮かべたまま、二人はロボットのようなぎこちない動きで、ゆっくりとセリカの方へと視線を戻す

 

「……ヒック」

 

その瞬間、静まり返った生徒会室に、セリカの口から可愛らしくも、どこか艶っぽいしゃっくりのような声が漏れ聞こえる。トロンとした瞳がいっそう潤みを増し、焦点が完全に定まらなくなっていく

 

それは、間違いなく「限界突破した泥酔状態」の始まりを告げる合図である

 

二人の顔は、同時に真っ青に染まっていく

 

「ど、どどど、どうするんですかユメ先輩!? 酔って理性のタガが外れたセリカは、私でも物理的に手に負えないんですよ!?」

 

先ほどまでのクールな仮面をかなぐり捨て、ホシノは瞳を限界まで見開いてユメに掴みかからんばかりに慌てふためく。声が上ずり、手元に置いていた書類の束がその勢いで何枚か床へ滑り落ちていく

 

対するユメも、完全に想定外だった事態の重さに涙目を極限まで潤ませ、両手をぶんぶんと振って必死に弁明する

 

「だ、だって、キウイを食べただけでこんなマンガみたいなことになるなんて、予想できるわけないじゃん!! おばあちゃんも『体にいいからね』って言ってたんだよぅ!!」

 

「そんな言い訳は後です! と、とりあえずこの間みたいに大暴れを始める前に、セリカの身柄を確保してソファーに寝かせないと、アビドスが、アビドス生徒会室が完全に崩壊し…うへぇあ!?!?」

 

ホシノの必死の制止の言葉が最後まで紡がれることはない

 

完全に油断し、ユメとの押し問答に気を取られていたホシノの死角から、尋常ならざる速度の「影」が肉薄する。ドォン! と、およそ華奢な少女のものとは思えない重い衝撃音と共に、セリカがホシノの腰を目がけて文字通りの弾丸タックルを敢行する

 

低い姿勢から鋭く踏み込まれた一撃は、まるで熟練の格闘家のようである

 

あまりの勢いに、アビドス最強の盾としての防衛本能すら間に合わず、ホシノの体は無残にも宙を舞い、そのまま背後の床へと派手に吹き飛ばされていく。床に激突した背中から鈍い音が響く

 

「ホシノちゃーん!?」

 

ユメの悲鳴のような絶叫が室内に木霊する

 

「い、たたた……っ、な、何をするんですかセリカ……?」

 

衝撃で火花が散った頭を押さえながら、ホシノは恐る恐る自らの腰に強固に巻き付いているセリカの頭部を見下ろす

 

セリカはホシノの制服のベストに深く顔を埋めており、衣服の布地をきゅっと両手で掴み奪ったまま、その表情を窺い知ることはできない

 

その瞬間、ホシノの脳裏には、前日に「酔いを体験する薬」を飲んで狂暴化したセリカから、有無を言わさぬ力で壁に叩きつけられ、至近距離で凄まれたという、人生最大の恥かしくも恐ろしい記憶が鮮明にフラッシュバックしていく

 

荒い息遣い、迫る端正な顔立ち、そして今にも貞操を奪われそうになったあの緊迫感

 

(くる……っ! またあの凶悪な絡み酒が、今度はさらに野生化して襲ってくるんだ……!)

 

身構え、ギュッと目を瞑って全身を硬直させるホシノ

 

しかし

 

「ふにゃあ……えへへぇ……。んぅ、ゴロゴロ、ゴロゴロ……♪」

 

「……へ?」

 

いつまで経っても、胸ぐらを掴まれることも、怒鳴り散らされることも、唇を奪われそうになることもない

 

代わりにホシノの耳に届くのは、セリカの喉の奥から絶え間なく溢れ出る、心地の良さそうな「ゴロゴロ」という細かな振動音である

 

セリカは丸まった猫そのものの愛らしさで、ホシノの細いお腹のあたりに、自分の頬を何度も何度もふにゃふにゃと嬉しそうに擦り付けていく。制服の生地越しに、彼女の熱を帯びた体温と、甘えるような吐息がダイレクトに伝わってくる

 

「あ、あれれ……? てっきり私、この前見せつけられた凶暴な上戸のどれかが、さらにパワーアップして炸裂すると思ったんだけど……」

 

最悪の事態を覚悟して机の陰に隠れていたユメも、拍子抜けしたようにパチクリと大きな目を丸くしてキョトンとしている

 

「なんだか、よく分かりませんが……。あの恐ろしい説教モードではないのなら、ひとまずは助かりました……」

 

ホシノが心の底から安堵の溜め息を漏らした、その時である

 

ふっと腰の重みが消えたかと思うと、セリカがゆっくりと頭を持ち上げる。トロンとした極上の微睡みを湛えた瞳で、じっとホシノの目を至近距離で見つめる

 

その瞳は完全に潤みきっており、薄く開いた唇からは微かに熱い息が漏れる

 

「ん……っ!」

 

言葉にならない短い甘えた声を漏らしながら、セリカは自身の黒い髪を揺らし、ペタンと寝た猫耳のついた頭頂部を、ホシノの胸元へグイッと力強く差し出してくる。何度も何度も、小突くように額を押し付けてくるその仕草は、完全に理性を手放した獣のそれである

 

「え、えっと……セリカ? これは一体……?」

 

「もしかしてそれって、おねだりされてるんじゃないの? ほら、よく本物の猫ちゃんが『ここを撫でて!』って頭を擦り付けてくる、あれだよ!」

 

ユメが横から興奮気味に指を差してアドバイスを送る

 

ホシノは戸惑い、ごくりと唾を呑み込みながらも、恐る恐る、壊れ物に触れるような手つきで、セリカの柔らかい頭髪にそっと手のひらを乗せる。そして、毛並みを整えるように耳の付け根のあたりを優しく、ゆっくりと撫でる

 

「ふにゃあう……♪ ん、んんー……っ」

 

その瞬間、セリカは蕩けきったような至福の笑みを浮かべ、ホシノの手のひらにこれでもかと頭を押し付けてくる

 

ぴくぴくと震える猫耳の根元を撫でられるのが、たまらなく気持ちいいらしい。長い睫毛が嬉しそうに震え、完全にホシノへと身を委ねていく

 

あまりの無防備さと、普段のツンツンした態度からは天地がひっくり返っても想像できない破壊的な愛らしさに、ホシノの心臓がドキンと大きく跳ね上がる

 

(うっ……! く、可愛すぎます……。普段の強気なセリカとのギャップが……!)

 

危うく同級生としての理性もすべて消し飛び、目の前の愛玩動物を全肯定してしまいそうになったホシノであるが、その光景を背後から血眼で見つめていたもう一人の存在が、ついに限界を迎えた

 

「かわいすぎるーーーーっ!! ずるいよホシノちゃん! 私もおねだりされたい! 撫で回したいーっ!」

 

ユメは文字通りの興奮冷めやらぬニコニコ顔(というか完全に理性を失った愛好家の顔)になり、両手を大きく広げながらセリカの頭を触ろうと猛烈な勢いで肉薄していく

 

しかし

 

ホシノの手のひらの下で大人しくしていたセリカの身体が、一瞬にして爆発的な緊張感を孕んで強張る

 

「ふしゃぁぁぁーーーーーーっっ!!!」

 

鋭い威嚇の声。それは、自分の縄張りと大好きな同級生(ホシノ)を侵略者(ユメ)から守ろうとする、野生の山猫そのものの雄叫びである

 

ペタンと寝ていた猫耳が、一瞬で逆立つようにピンと跳ね上がる

 

「ひぃぃん!? なんで私はダメなのー!?」

 

ユメの悲鳴が上がるよりも早く、セリカの小さな身体がバネのように弾け、ユメの顔面を目がけて猛然と飛びかかる

 

鋭い爪を突き立てんばかりの勢いである

 

「あ、ああ危ない!?」

 

危機一髪のところでそれをひらりと身をかわして避けたユメであるが、一度火がついた「猫・セリカ」の野生の追撃の手が緩むはずもない。床に着地したセリカは、すぐに次の跳躍への体制を整える

 

セリカは自分がスカートを穿いていることすら完全に忘却しており、地を這うような姿勢のまま、まるで素早いネズミを容赦なく追い詰めるハンターさながらの鮮やかな四足歩行で、生徒会室の床を爆走し始める

 

「ほ、ホシノちゃん助けてー!」

 

「ちょっ!? 待ってくださいセリカ! スカート! 後ろから色々と丸見えになっちゃってますから! お願いだから落ち着いて、止まって――って、あああああーっ!? 私たちが血反吐を吐きながら片付けた書類がァーーー!?」

 

ホシノが慌てて自分の上着を脱ぎ捨ててセリカの腰回りを隠そうと、その後ろを追いかける。しかし、セリカの俊敏な動きはその斜め上を行く。野生の獣そのものの跳躍力と、予測不能な急旋回を繰り返すセリカを捕まえるのはホシノでも至難の業であった

 

逃げ惑うユメの足元を狙ってセリカが激しくスライディングをかますたび、先ほどまでホシノが白目を剥きながら綺麗に整頓していたはずの書類の山や、アビドスの貴重な備品たちが、ガラガラと凄まじい音を立てて派手に崩落していく。パサパサと虚しく宙を舞う紙切れが、夕暮れ前の光を遮るように部屋中に散らばる

 

「ユメ先輩ぃ! そっちに逃げないでください! 書類が! 予算書がセリカの爪で八つ裂きにされて宙を舞ってますよ!」

 

「無理だよ?! セリカちゃん、目が本気なんだもん! 捕まったら絶対に顔をバリバリ引っ掻かれちゃうよー!」

 

片付けたばかりの生徒会室は、わずか数十秒のうちに、一匹の凶暴で愛くるしい「猫」の手によって、文字通りの修羅場へと変貌していく

 

(あーもう、本当に……っ!? なんでこうも毎回まいにち、ユメ先輩という人はおかしなトラブルばかりをどこからかホイホイと持ち込んでくるかなぁ!?)

 

飛び散る書類の雨を浴びながら、ホシノは内心で爆発せんばかりの怒りを燃え上がらせていく。白目を剥くまで根詰めた自分の努力が、ほんの数分で完全な水の泡と化していく光景は、控えめに言っても悪夢以外の何物でもない。胸の奥で、カチリと何かが冷え切っていく音が聞こえる

 

しかし、激しく逃げ惑うユメと、それを恐るべき身のこなしで追跡するセリカの背中を、怒りと共に冷ややかに見つめていたホシノは、ふと、ある奇妙な違和感に気がつく

 

(……待てよ? なんでセリカは、私にはあんなにフニャフニャに甘えてきたのに、ユメ先輩に対してだけは、親の仇か何かってくらいに剥き出しの敵意を向けているんだ……?)

 

キウイによる泥酔が「理性をなくして野生の猫のようになる状態」なのだとしたら、本能のままに誰彼構わず襲いかかってもおかしくはないはずである。なのに、セリカのターゲットは明確にユメ一人に絞られている。そこに明確な「意志」のようなものを感じる

 

ホシノは一度、二人を追いかけるために動かしていた足をピタリと止め、散らかり放題の床の上で腕を組んで、少しだけ思考を巡らせることにする

 

視界の端では、「ホ、ホシノちゃん助けてー! スカートが、私の大事なスカートが裂けちゃうーっ!?」というユメの悲痛な悲鳴と、それに応じる「フシャァァッ!」というセリカの猛々しい咆哮が響いているが、今のホシノにとっては現状を正確に把握することの方が遥かに優先順位が高かった

 

怒っているとはいえ命は取られない先輩の衣類の危機など二の次である

 

(セリカはキウイの成分で酔っ払って、普段ガチガチに固めている理性のバリアが完全に崩壊している。つまり……普段は恥っかしくて絶対に表に出せない『本音の感情』が、そのまま十倍くらいに増幅されて爆発しているんだ。……私にタックルしてまで甘えてきたのは、まぁ、その……日頃の私への信頼とか、甘えたいっていう可愛い欲求の表れだとして。じゃあ、ユメ先輩へのあの凄まじい怒りはどこから湧いて出たものなんだ……? なぜ、そこまで怒りが……あ)

 

そこまで考えて、ホシノのオッドアイの視線が、無残に床へ叩きつけられ、セリカの鋭い爪でズタズタに引き裂かれて宙を舞っている「あるもの」に留まる

 

それは、先ほどまで自分たちが命を削りながら分類していた、ユメが何日も何週間も放置し続けていた膨大な量の未処理書類の山

 

そして脳裏にフラッシュバックするのは、つい数分前、スマホの充電切れというあまりにも暢気な言い訳を口にしながら、悪びれもせずに部屋に入ってきたユメ先輩のあの笑顔

 

(そうだ……さっきセリカ、ユメ先輩の顔を見た瞬間に、般若みたいな顔をして『今日こそは絶対に怒ってやる』って、心の中で本気の誓いを立てるような顔だった……)

 

すべてのパズルのピースが、ホシノの頭の中でピシャリと噛み合う

 

つまり、今のセリカは「お酒(キウイ)の力を借りて、ここ数日間ずっと溜まりに溜まっていたユメ先輩への日頃の不満とストレスを一気に、本能のままに大爆発させている」だけなのだ。猫の縄張り意識というよりも、単純に「サボり魔の先輩への制裁」という、極めて真っ当な正義感の暴走である

 

それが分かった瞬間、ホシノの顔からスッと焦りの色が消え失せ、代わりに怜悧で冷徹な、いつもの「冷ややかな笑み」がその口元に浮かび上がる

 

ホシノはカバンの中から、先ほどユメを脅すために取り出しかけていた、あの頑丈な極太の麻縄を再び静かに引っ張り出すと、それを肩に担いで、部屋の隅へとスッと退避する

 

「――ユメ先輩。これは完全な自業自得ですので、諦めて大人しく全身を引っかかれてください」

 

「ひぃぃぃんっ!? ホシノちゃんが、アビドス唯一の頼れる後輩が、私を見捨てて冷たい目で見てるーーーっ!?」

 

本棚の周囲を必死にぐるぐると回りながら、ユメが涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫ぶ。その後ろからは、目をらんらんと輝かせ、身軽な跳躍で本棚の段を蹴りながら距離を詰めていくセリカが、今にも飛びかからんとしている。爪がキラリと夕日に反射する

 

「いや、だってですね……。セリカがそこまで凶暴なバーサーカーと化して先輩を追い回している原因、元を正せばユメ先輩が連日書類をサボって、セリカのストレスゲージを限界まで溜め込んだのが原因ですから。因果応報、種を蒔いたのは先輩です」

 

ホシノは完全に傍観者のポジションを決め込み、散らばった書類の中から、まだ無事な数枚を拾い上げて汚れをパッパと払いながら、他人事のように淡々と言い放つ

 

「むしろ、今のセリカは日頃のアビドス生徒会の不満を、身をもって清算してくれている大変ありがたい存在と言えます。先輩がその身を挺してセリカのストレスをすべて吸収し尽くしてくれれば、明日からの書類仕事はきっと驚くほどスムーズに進むはずですよ。がんばれー、ユメ先輩、負けるなー」

 

「応援が全然心に響かないよぅ! 痛い、ちょっとセリカちゃん、そこはデリケートなふくらはぎ……っ、ぎゃああああーーーっ!?」

 

いよいよ本棚の角に追い詰められ、逃げ場を失ったユメの背中に、野生の輝きを宿したセリカが容赦のない跳びかかりを敢行する

 

生徒会室には、アビドス生徒会長の情けない悲鳴と、フシャフシャと楽しげに喉を鳴らす小さな怪物の声が、いつまでも響き渡る

 

それからどれほどの時間が経っただろうか。嵐のような大騒動がようやく収まり、心行くまで先輩への「制裁」を加えて満足したのか、セリカはまるで獲物を仕留めた後のように、どこか誇らしげな足取りでホシノの元へと戻ってくる

 

そのトロンとした視線を受け止めたホシノは、やれやれと深い溜め息をつきつつも、その口元には決して嫌そうではない、どこか満更でもない笑みを浮かべている

 

ホシノが優しく両腕を広げると、セリカは当然の権利を主張するようにその胸へと飛び込み、そのまま二人は古ぼけたソファーへと並んで腰を下ろしていく

 

「しくしく……うぅ、酷いよぉ、痛いよぉ……」

 

生徒会室の片隅からは、身を小さく縮めたユメの、文字通り涙に暮れた哀れな泣き声が漏れ聞こえてくる

 

至る所に痛々しい引っ掻き傷を作られ、お気に入りの制服のあちこちも猫の爪で引き裂かれてボロボロになったアビドス生徒会長は、壁に向かって体育座りをしながら、己の不運(あるいは不条理な因果応報)を呪ってシクシクと肩を震わせている

 

袖口から覗く腕には赤い線が何本も走り、ストッキングも無残に伝線している

 

「だから言ったじゃないですか、自業自得です、と。これに懲りたら、明日からは少しは真面目に仕事をしてくださいね。さもなければ、次は私がセリカの代わりに麻縄を持って先輩を椅子に括り付けますから」

 

ホシノは冷ややかなトーンでそう告げながらも、自分の胸元でふにゃふにゃと丸くなっているセリカの細い背中を、まるで本物の愛猫をあやすかのように、優しく、リズミカルに撫で続けていく。指先がセリカの柔らかな髪を梳くたびに、ピコピコと寝た耳の周辺が微かに震える

 

「にゃふぅ……♪ んぅ、ゴロゴロ……」

 

ホシノの心地よい手のひらの愛撫を受けながら、セリカは満足げに鼻を鳴らし、再び喉を細かく震わせる

 

先ほどまで生徒会室を恐怖のどん底に叩き落としたアビドスのバーサーカーとはとても思えない、極上の癒やし空間がそこには形成されていく。夕暮れの光が窓から差し込み、二人のシルエットを穏やかに縁取っていく

 

そのあまりにも対照的な二人の様子を、壁際から這うようにして覗き込んでいたユメであったが、いつまでも無視されている寂しさに耐えかねたのか、膝を擦りむきながらようやくソファーの側まで這い寄ってくる

 

ホシノのすぐ隣に遠慮がちに腰掛け、上目遣いで二人の温かな様子を凝視する

 

「うぅ……いいなぁ、ホシノちゃん……。私だって、本当はセリカちゃんをいっぱい撫で撫でして、仲良しになりたかっただけなのに……。お姉ちゃん、すっごく羨ましいよぉ……」

 

ユメの瞳には、文字通り羨望の涙がたっぷりと溜まっている。傷だらけの腕を所在なさげにモゾモゾと動かし、恨めしそうにセリカの寝た猫耳を見つめる

 

すると、その視線の熱量に気づいたのか、セリカの耳がピクッと微かに動く

 

セリカはトロンとした目をユメの方へと向け、まるで(もー、しょうがないわねぇ……このダメな先輩は……)とでも言いたげな、呆れと慈愛が入り混じったような、どこか猫特有の気まぐれで寛大な態度を見せる

 

セリカはホシノの温かい胸元から名残惜しそうに身を離すと、今度は隣で縮こまっているユメの膝の上へと、ふらふらとした足取りで這い上がっていったのだ。そして、そのままユメの細いお腹のあたりに、両腕を回してぎゅーっと抱きつく

 

「へ? え、あ、セリカちゃん……!?」

 

先ほどまで猛獣の如き勢いで自分を襲ってきた後輩の突然のデレに、ユメは完全にキョトンとして全身をガチガチに硬直させる

 

そんなユメの困惑などお構いなしに、セリカは「ん〜……っ」と甘えた声を漏らしながら、ユメの胸元にその柔らかい頭をぐりぐりと押し付け始める

 

「ほら、ユメ先輩。どうやらセリカも、日頃の鬱憤をすべて吐き出してすっきりしたみたいですよ。先輩のことは一応許してくれたみたいですから、今度こそ、優しく撫でてあげたらどうですか?」

 

「えっ、本当に……!? いいの……? それじゃあ……失礼します……っ」

 

同級生に背中を押され、ユメは壊れ物を扱うかのような、あるいは不発弾に触れるかのような極限の緊張感をもって、震える右手をセリカの頭頂部へと近づけていく。そっと、指先で髪の毛に触れる。怒られない

 

意を決して、そのまま手のひら全体で、セリカの耳の裏側あたりを優しく、愛おしそうに撫でさすってあげる

 

すると、セリカは嬉そうに目を細め、「ゴロゴロ……ゴロゴロ……♪」と、先ほどホシノにだけ見せていたあの至福の音を、今度はユメの腕の中でも響かせ始めるのだ

 

「わ、わあぁぁ……! ホシノちゃん見て見て! セリカちゃんが、私にもゴロゴロって言ってくれてる! 私のこと、ちゃんと大好きって言ってくれてるよー!」

 

「はいはい、良かったですね、ユメ先輩」

 

先ほどまでの涙顔はどこへやら、ユメは世界一の宝物を手に入れた子供のような満面の笑顔になり、セリカの頭を何度も何度も、慈しむように撫で回し続ける

 

セリカもその優しい手のひらの感触が心地よいのか、ユメの衣服の胸元を小さな手でぎゅっと掴んだまま、すっかり大人しく収まっている

 

その微笑ましくも、どこか奇妙なアビドス日常の一幕を、ホシノはソファーに背を預けながら静かに見つめている。しかし、その瞳の奥には、ふと現実的な懸念がよぎり、胸の内で密かに冷や汗を流し始める

 

(……いや、待てよ? 私たち、今これ完全にセリカのことを『本物の猫』みたいに扱って愛でてますけど……。これ、数時間後とか明日になって、キウイの酔いが完全に冷めたセリカが自分の失態と今の状況を思い出した時、恥ずかしさと怒りのあまりに顔を真っ赤にして、アビドス全体が消し飛ぶくらいの勢いでキレ散らかしたりしないよね……?)

 

特に、自分がスカートの中身を気にせず四足歩行で暴れ回っていた事実や、同級生と先輩の二人に対してこれでもかと甘え倒していた記憶が残っていた場合、セリカの精神的ダメージは計り知れない

 

プライドが高く真面目な彼女のことである。青ざめた後に真っ赤になり、最終的に銃を乱射する光景が容易に想像できる。セリカがどんな顔をしているかを想像し、ホシノは(……よし、この件は絶対に他言無用にしよう)と心に深く誓うのだった

 

そんなホシノの密かな心配を他所に、ユメの腕の中でフニャフニャになっていたセリカの身体から、次第に力が抜けていく。やがて、規則正しい、小さな可愛らしい音が室内に響き始める

 

「すぅ……、すぅ……、ふにゃ……むにゃ……」

 

「あ、セリカちゃん……寝ちゃったね」

 

ユメは撫でる手をそっと止め、自分の胸元で無防備に寝息を立て始めたセリカの寝顔を見つめながら、声をひそめて微笑む

 

「そうですね。……まぁ、ここのところ、毎日毎日『誰かさん』が溜め込みに溜め込んだ大量の書類整理のせいで、朝から晩まで休む暇もなく追われていましたから。肉体的にも精神的にも、限界まで疲労が溜まっていたんですよ」

 

ホシノはここぞとばかりにユメをジト目で睨みつけ、小さな嫌味をチクリと突き刺す。セリカがキウイにここまで過剰に反応して爆発してしまったのも、日頃の過密な労働ストレスという下地があったからに他ならない

 

「ひぃん……! ご、ごめんなさい……。本当に反省してます……。明日からは、明日からは私も絶対に心を入れ替えて、書類仕事も、アビドスのみんなのためにも、死ぬ気で頑張るから……! だから今日のことだけは、大目に見て許してよぅ、ホシノちゃん……」

 

ユメはセリカを起こさないように、小さな声で、けれど涙目で必死にホシノに両手を合わせて懇願する

 

「それは私にではなく、目が覚めたセリカに直接言ってください。……まぁ、今の泥酔している間の記憶がセリカにちゃんと残っていれば、許してもらえるかもしれませんが。いや、むしろ……自分の醜態をすべて見られたという恥ずかしさのあまりに、さっきとは全く別の種類の大爆発が巻き起こりそうですね。どちらにしてもユメ先輩、もう一回どころか、数回は本気で怒られるのを今から覚悟しておいた方がいいですよ」

 

「うう、嫌だよー……。明日の朝が来るのが、アビドス始まって以来の恐怖だよぅ……」

 

「……ふふ」

 

怯えるユメの情けない顔を見て、ホシノの口元から、今日一番の小さく優しい、本物の笑みが零れ落ちる

 

その後、二人はユメの腕の中にすっぽりと収まり、幸せそうにすやすやと寝息を立てているセリカを絶対に起こさないよう、細心の注意を払いながら、声を潜めて他愛のない話を続けていく

 

窓の外はいつの間にか、先ほどまでの真っ白なアビドスの日差しから、静かな夕暮れの気配を帯び始めている。昨日起きたお酒の失敗談や、これからのアビドスの未来のこと、新しく買いたい部室の備品のこと……。穏やかに流れる時間の中で、低く心地よい二人の話し声が、まるで子守唄のようにアビドス生徒会室の空気を満たしていく

 

「……ん……?」

 

ホシノがゆっくりと、重い瞼を持ち上げる

 

視界に飛び込んできたのは、すっかり茜色に染まり、グラデーションを描きながら夜の帳へと移り変わろうとしている窓外の空である

 

どうやら、話をしている途中で、いつの間にか自分も眠ってしまっていたみたいだ

 

セリカが限界まで疲れていると言っていたけれど、自分も白目を剥いてペンを走らせるほどに体力を使い果たしていたのだと、今更ながらに思い知らされる。身体の芯に残る心地よい気怠さに、ホシノは小さく息を吐き出す

 

ふと、すぐ横に視線を向けると

 

「えへへ……。ホシノちゃん、ユメ先輩……大好き……むにゃ……」

 

セリカがトロンとした寝顔のまま、愛おしそうにユメの身体にぎゅっと抱きついている。そのトレードマークの猫耳は、眠っている今もリラックスした様子でペタンと寝たままである

 

そして、そんな愛した後輩を抱きとめているユメもまた、この上なく幸せそうな顔を浮かべながら、「むにゃむにゃ……もう食べられないよぅ、特製パフェ……♪」と、なんとも締まりのない暢気な寝言をこぼしていた

 

その二人のあまりにも無防備で、愛おしさに満ち溢れた姿を見つめているうちに、ホシノの胸の奥が、じんわりとした温かい何かで満たされていく。昼間の怒りも、書類が散乱した部屋の惨状への頭痛も、すべてがその温もりのなかに溶けて消えていくようだった

 

(……やれやれ。これじゃあ、仕事の続きをしようなんて気は、これっぽっちも起きませんね。……よし、私も今日は、このまま二人と一緒にゆっくり休みましょうかね)

 

ホシノは静かにソファーから立ち上がると、足音を立てないようにゆっくりと歩き、部室のロッカーを開ける。そこに常備されていた、少し色褪せた、けれど天日干しされたばかりの温かい大きな毛布を引っ張り出す

 

二人の元へ戻り、冷え込み始めた夕暮れの空気から守るように、ユメとセリカの身体へふわりと毛布を掛ける

 

それから、ホシノは自分の特等席であるセリカの隣のスペースへと、吸い込まれるようにそっと潜り込む。毛布の中で、自分の方から、温かいセリカの身体を優しく抱きしめた

 

セリカは眠ったまま、心地よい温もりを求めるように、ホシノの胸元へ自然と頭を擦り寄せてくる。その柔らかな髪の香りと、ユメの穏やかな寝息に包まれながら、ホシノは再びゆっくりと目を閉じる

 

(……明日、セリカが起きたら、きっと大騒ぎになるんだろうな。ユメ先輩はまた泣きつくだろうし、書類はまた山積みだし、アビドスは相変わらず大変なことばかりだけど……)

 

けれど、腕の中に伝わる確かな体温と、背中から包み込んでくれるような先輩の気配が、何よりも愛おしかった。言葉にすれば消えてしまいそうなほどに脆く、けれど今この瞬間、確かにここにあるアビドス生徒会の絆

 

(……これからも、こんな風に笑って、怒って、みんなで一緒にいられる楽しいことが……ずっとずっと、続いたらいいな……)

 

迫りくる夜の静寂の中で、ホシノは祈るような願いを胸の奥に抱きながら、大切な仲間たちの温もりに身を委ね、再び深い、優しい眠りへと落ちていくのだった

 

なお

 

翌朝、ホシノの予想通り記憶が残っていたセリカが真っ赤な顔をしてユメを怒り散らかしたのは言うまでも無かった。セリカが起き上がり、現状を把握した瞬間、地獄の幕開けであった

 

「ユーメーせーんーぱーい?」

 

「ご、ごめんなさーい!!!」

 

「今日こそは許さないわよ!!あれほどキウイはダメって言ったのに!!! あんな、あんな恥ずかしい真似までさせといて、よくそんな暢気な顔ができるわね!!!」

 

自分の行動をすべて鮮明に記憶していたセリカは、耳まで真っ赤に染め上げながら、愛用の銃を背負ったままユメを追い回す。昨日とは打って変わって、今度は正真正銘の「怒れる後輩」としての説教バーサーカーモードの炸裂である

 

その光景に幸せそうにため息をつきながらカバンからロープを取り出し参戦しようとするホシノ

 

「ユメ先輩、約束通り私もお手伝いしますねー。さあ、大人しく縛られてください」

 

「ひぃぃん! ホシノちゃんまで目が本気だよぅ! 誰か、誰か助けてーーーっ!!!」

 

朝の爽やかな光が差し込むアビドスに、ユメの絶叫が響き渡る。昨日と何も変わらない、けれど確実に少しだけ賑やかになったアビドスの新しい一日が、こうして騒がしく始まっていくのだった

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