セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
パツン、と静かな電子音を立ててブラウン管の画面が暗転し、ビデオの再生が終わりを迎えた
引きずり込まれるような暗闇の向こうから、さっきまで画面の中で繰り広げられていたセリカたちの騒がしい朝の余韻が、嘘のように部屋の静寂へと溶けて消えていく
世界から光がひとつ消えたかのような唐突な静けさが、旧生徒会室の冷えた空気をいっそう際立たせていた。ガラス窓を打つ砂嵐のような環境音が、遠くでかすかに耳鳴りのように響いている
「あはは! いつ見ても良いですよね、これ!」
隣のソファーに座っている影は、思い出し笑いがこらえきれないといった様子で、楽しそうにお腹を押さえながら身をよじらせていた。その細い肩が小刻みに揺れ、座面のクッションがギシリと微かな音を立てる
足元の黒いモヤまでが彼女の機嫌に同調するように、ちりちりと小気味よい音を立ててパチパチと火花のように跳ねていた
上映が始まる前、器にうずたかく積まれていたはずのポップコーンは、いつの間にか最後の一粒すら残っていなかった。そのほとんどを映画の最中に一人で、小さな口を小リスのように忙しなく動かしながら平らげてしまったらしい
怪異らしからぬその驚異的な食欲と、膝の上で寂しげに傾いた空っぽの器を前にして、貴方は言葉を失い、ただ少し引きつった苦笑いを浮かべることしかできなかった
「あれ……? ひょっとして、お気に召しませんでした?」
楽しげな笑い声を響かせていた影が、貴方のその微妙な空気感を敏感に察知して、不思議そうに小首を傾げてくる。左右で異なる色彩を持つ神秘的なオッドアイが、悪戯っぽさを残したまま、じっと貴方の顔の機微を覗き込む
セリカがキウイの成分のせいで完全に酔っ払い、理性を失って猫化してしまい、それにホシノやユメが文字通り全力で振り回されるドタバタ劇――
それは確かにコミカルで、観ていて十分に面白かったとは思う
しかし、上映前に影が「とっておきの映像」と自信満々に言っていたからこそ、貴方はもっと劇的で、日常からかけ離れたような大きな事件や、涙を誘うような感動的な出来事が記録されているのだろうと身構えていたのだ
蓋を開けてみれば、それは彼女たちアビドス生徒会にとって、ある意味では「いつも通りの、賑やかで騒がしい日常」の延長線上に過ぎないのでは、と感じてしまっていた
「ふむふむ……なるほど。私のとっておきと言うからには、例えばヘルメット団にセリカちゃんが攫われた時のような、何か劇的で感動的な場面とか、世界がひっくり返るようなお話を期待していたから驚いた……ですか」
貴方の心の内を正確に言い当てると、影は少し考えるように視線を落とし、それきり何も言わなくなってしまった
部屋を包む沈黙が、妙に重く感じられる。ひょっとして彼女に嫌な思いをさせてしまったのではないか、せっかくの好意に水を差すような態度を取ってしまったかもしれない。焦りを感じた貴方は、慌てて手を左右に振りながら、言葉を重ねて弁明を試みた
「あはは、気にしないでください。大丈夫ですよ、本当に。意地悪を言いたかったわけじゃないですし、怒ってたりなんてしてないですから」
胸の前でせわしなく両手を振る貴方の必死な様子に、影はふっと肩の力を抜いて緊張を解くように、困ったような、それでいてすべてを見透かしたような愛おしそうな笑みを浮かべた。その表情には、貴方を責めるような刺々しさは一微塵も含まれていない
それどころか、そんな風に気遣ってくれる貴方の優しさを、どこか誇らしげに受け入れているようだった。その温度に触れ、貴方はようやく胸を撫で下ろしてひと安心する
「そうですね……確かに貴方が言う通り、これは彼女たちにとってはただの、そして最高に楽しい日常の一コマに過ぎません。まぁ、セリカや、当時の本物の私にとっては、白目を剥くまで根詰めていた書類整理という名の地獄に、これでもかってくらい面倒なトラブルをホイホイ持ち込んできたユメ先輩に対して、本気で怒り散らした記憶でもありますが……」
そこで影は言葉を一旦区切り、首を傾げてふっと視線を窓の外の景色へと向けた。黄昏とも、あるいは世界の終わりともつかない色の砂嵐が、窓ガラスの向こうで音もなく吹き荒れていた
「ですが、私達から見たら……そんな些細な、どこにでもあるような事でも、本当に、何よりも大切な出来事だったんです」
影は、ずっと顔に掲げていたおかしなデザインのサングラスにそっと指をかけ、それを引きずるように静かに外す
露わになったその表情には、どこか遠い過去の光を愛おしむような、切なくも温かい、困ったような笑顔が浮かんでいた。彼女のオッドアイの瞳の奥で、先ほどまでブラウン管に映っていたビデオの光景が、消えない残像のように優しく明滅していた
「それに、この時の短い映像だけでは、きっと貴方には伝わりきらないと思うのですが……」
影は外したサングラスを鉄製の机の隅にコトリと静かに置くと、少しだけ声を落とし、当時の空気を手繰り寄せるように言葉を紡ぎ始める
「貴方も知っての通りこの頃の小鳥遊ホシノは、初めこそ黒見セリカという『異分子』を、ものすごく警戒していました。まぁ、当然ですよね? 閉ざされた、今にも潰れそうなアビドスの中に、ある日突然、なんの前触れもなく現れた同級生なのですから。傷つくことを恐れて、これ以上大切なものを増やすまいと頑なになっていた当時の私は、彼女を受け入れることに酷く臆病になっていました。いつかこの子も、私を置いていなくなってしまうんじゃないかって」
影は一度深く息を吸い込み、華奢な背中を預けるようにソファーの背もたれへとゆっくりと体重を預ける。その小さな身体が、どこか儚げに、けれど確かな存在感を持ってそこに佇んでいた
「あのキウイ騒動は……そんな頑なだった彼女が、セリカちゃんの本音に触れて、理性のバリアを外して、改めて『この3人で、アビドス生徒会をやっていきたい』って、心からそう思った、最初の小さなお話だったんです。だからこそ、私にとっては、世界が変わる瞬間と同じくらい、とっておきの宝物なんですよ」
それを聞いた貴方は、深く納得する
これは確かに、自分が最初に期待していたような、世界を揺るがす大事件や、劇的なカタルシスを伴う派手なストーリーではなかった。時間の濁流に呑まれたセリカを救い出すような、分かりやすいヒロイズムが描かれていたわけでもない
しかし、この世界の狭間でただ一人、すべての因果を見つめ続けてきたこの影にとっては―― 影としての、そして「小鳥遊ホシノ」という一人の少女の魂にとっては、これ以上ないほど決定的な瞬間だったのだ。あの日、あの騒がしい部室の中で、頑なに心を閉ざしていた1年生のホシノが、隣に立つユメ先輩と同じくらいに、黒見セリカという存在を完璧に、そして永遠に自らの内へと受け入れた。その奇跡の萌芽が、あの他愛のないドタバタ劇の中にこそ、鮮烈に刻まれていた
派手な戦記物などよりも、冷え切った彼女の心を芯から温めた、世界で一番優しい雪解けの瞬間。確かにそれならば、彼女がこれを「とっておき」だと誇らしげに胸を張るのも、当然のことであった。納得のいった貴方が小さく頷くと、その肯定を受け取った少女の表情が、目に見えて明るくなっていく
「ふふ、納得して貰えたのでしたら良かったです……♪」
貴方の表情を見た影は、心底安心したように声音を弾ませて微笑むと、ソファーのクッションをふわりと弾ませて軽やかに立ち上がった
その足取りはどこかステップを踏むように軽快で、纏う黒いモヤまでが嬉しげにちりちりと宙を舞う。彼女は迷いのない足取りで用済みとなったビデオデッキの前へと歩み寄り、華奢な指先でイジェクトボタンをカチリと押し込んだ
内部の歯車が噛み合う機械音と共に、ガチャンと吐き出された無機質なプラスチックのカセット。影はそれを、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、小さな両手で包み込むようにして大切そうに受け止めた
彼女はそのまま、部屋の隅に据え付けられた年季の入れた木製の棚へと戻っていく。木床を小さく鳴らしながら歩くその後ろ姿を眺めながら、貴方は何気なく、彼女が先ほどまで漁っていた棚の扉の奥へと視線を走らせた
よく見ると、そこに整然と隙間なく並べられた無数のビデオテープの背表紙には、どれも彼女の直筆らしき、少し丸っこくて癖のある文字で、細かくタイトルが書き込まれていた
貴方がよく知っている、セリカとホシノのあの運命的な出会いを記録した巻から始まって、さらに棚の奥へと視線を移すと、「ユメのお使い トラブル劇」「セリカの特製オムライス試食会」「ユメ先輩とセリカがよく攫われる(騙される)せいで頭を悩ませるホシノ」といった、本編では一度も語られることのなかった、けれど確かにそこに存在したはずの、見たこともないタイトルがずらりと並んでいる。背表紙のラベルに小さく描かれた猫やクジラの落書き風のマークが、その記憶の温かさを無言で主張していた
その圧倒的な本数に、貴方が思わず気圧されるように目を見張っていると、影は棚に背を向けたまま、カセットを丁寧に隙間へと滑り込ませ、どこか誇らしげな声を掛けた
「ここにはね、貴方がよく知っているセリカと小鳥遊ホシノのストーリーから、先程のような、貴方の世界では描かれなかった見た事のないようなエピソードまで、ありとあらゆる記憶が眠っているんです。まぁ……セリカちゃんはあの過去の世界で、数ヶ月という時間を泥臭く、けれど本当に全力で過ごしてくれましたからね。そうなると、あの子達の眩しい日常を記録したテープも、こんな風に沢山の本数になってしまうんですよ。ちなみに現在の彼女達のビデオは反対側に保管してます♪」
語る彼女の横顔は、西日のような光を浴びてどこか遠く、まるで我が子の成長記録を慈しむように眺める母親のようでもあり、自慢の相棒を誇る親友のようでもあった
パタン、と影は愛おしさを込めて優しく棚の扉を閉め、小さな真鍮の鍵を鍵穴に差し込む。カチャリと小気味よい金属音を立てて鍵をかけるその一連の手つきは、流れるように滑らかでありながら、その宝物を世界のあらゆる不条理から守り抜こうとするような、絶対的な意思を物語っていた。彼女にとってこの棚の中身は、世界の何よりも重い価値を持つものなのだ
そして影は鍵を細い指先で弄びながら、貴方の方へとゆっくりと振り返る。スカートの裾をわずかに揺らし、その左右で色彩の異なるオッドアイの瞳をニヤニヤと悪戯っぽく細めてみせた。背中に両手を組み、少しだけ上半身をこちらに突き出すようにして、まるで「見たいんでしょ?」と貴方の好奇心を完全に誘惑し、楽しむような笑みを浮かべている
「……でも、残念ながら、今はこれ以上はお見せできませんけどね?」
そう言って、引き結んだ唇の端をさらに吊り上げ、人差し指を自分の唇にそっと当ててパチンとウィンクしてみせる影。そのあまりにも堂々としたじらし方に、貴方は肩をすくめ、参ったなと苦笑いをするしかなかった
やはり彼女は、どれだけ姿形や纏う空気が変わろうとも、どこまでいってもあの掴みどころのない、人をからかうのが大好きな「小鳥遊ホシノ」そのものだった
「さてと……。お喋りが楽しくてつい長引いちゃいましたけど、そろそろ貴方もお帰り……いえ、お帰りじゃありませんね。どうやら、次のお話が貴方を待っているみたいですよ?」
影はふっと、それまでの悪戯っぽい笑みを綺麗に収めた。いたずら小僧のようだった表情は鳴りを潜め、どこか厳かでありながらも、包み込むような優しい声音でそう告げた。その佇まいの変化に、部屋の空気がわずかに張り詰める
怪訝に思った貴方が言葉にできない視線で問い返すと、影は自らの細い指先をスッと伸ばし、貴方のちょうど真後ろの空間を真っ直ぐに指さした。つられて彼女の足元の黒いモヤが生き物のように蠢き、その指し示された方向へと一斉に這っていく
言われるがままに貴方が勢いよく振り返ると、そこには、先ほどまで何もなかったはずの無機質な灰色の壁に、古ぼけた木製の扉がいつの間にか音もなく出現していた。まるで世界の裂け目に無理やりねじ込まれたかのような、あるいは最初からそこにあった現実が今になって融解してきたかのような、圧倒的で奇妙な存在感を放つ扉だった
「こことは違う、別のアビドスのお話……でしょうか?」
あまりに唐突で異様な光景に、貴方は思わず首を傾げた。それは一体どういう意味なのか。セリカが泥臭く足掻き、この奇跡的なハッピーエンドを前提として手繰り寄せたこの世界線とはまた別の、過酷な、あるいは全く異なる可能性の物語が、まだどこかで紡がれているというのだろうか
困惑の混じった問いたげな視線を投げかける貴方に対し、影はただ困ったようにふにゃりと眉を下げて笑うだけで、明確な答えを返そうとはしなかった。ただ、その色彩の異なるオッドアイの瞳の奥に、すべてを見通すような、そしてすべてを許容するような深い光を湛えながら、静かに唇を開く
「……それは、貴方が一番よく知っていることですよ」
そう言って、彼女は机の上に置いたサングラスへと視線を落とし、愛おしそうに指先でその縁をなぞった
「そんな事より、ほら。次のお話が、もう貴方を待ちきれないといった様子で待っていますよ。早く行ってあげてください」
なんだか、これ以上この場所に引き留めてはいけないとでも言うように、あるいはこれ以上ここに留まれば世界の均衡が崩れてしまうとでも知っているかのように、急かすような口調で扉を促してくる影
言葉に呼応するように、彼女の身体を構成する黒いモヤが、かすかに世界の境界線を押し広げるようにちりちりと、激しく爆ぜていた
これ以上の詮索は野暮であり、同時に許されないルールなのだろう。仕方なく貴方はソファーから立ち上がり、ゆっくりと床を踏みしめてその謎めいた扉の前へと歩み寄った
木製の古びたノブに手をかけ、ゆっくりと引く。軋んだ音と共に隙間が空いた瞬間、扉の向こうからは網膜を灼くほどの眩い純白の光と共に、まだ見ぬ熱い物語の気配が、激しい突風となって旧生徒会室へと吹き込んできた。貴方の前髪が大きく揺れ、背後で影の制服の裾がバタバタと音を立てる
ゆっくりとその光の中に足を踏み入れようとした――その瞬間
貴方は胸の奥に、一つだけ、彼女に対して絶対に言い忘れていた、そして何よりも大切な言葉があることを思い出し、咄嗟に足を止めて勢いよく後ろを振り返った
「おや、どうしました?」
不意に振り返った貴方の大きなアクションに対し、影は驚いたようにその左右で異なる色彩の目を丸くして、また小さく小首を傾げる。衣服の隙間から溢れる黒い煙が、彼女の動揺を示すように一瞬だけ不規則に揺れた
そんな、崩壊しつつある世界の狭間でどこか儚げに佇む少女の影に向かって、貴方は真っ直ぐに視線を合わせ、心の底からの実感を込めて、ただ一言
「すごく面白かったよ」
と、そう伝えた
彼女が自らの存在を賭して、命を削るようにして紡ぎ出したあの奇跡の物語が、観測者であり伴走者であった自分にとって、どれほど愛おしく、素晴らしいものだったか。その感謝と賛辞を、この境界が閉じる前にどうしても伝えたかったのだ
貴方のその言葉が鼓膜に届いた瞬間、影は完全に虚を突かれたように、その大きなオッドアイの瞳をさらに丸く見開いて、全身の動きをぴたりとフリーズさせてしまった
常に余裕の笑みを崩さず、達観した怪異として、あるいはすべてを諦めた傍観者として振る舞っていた彼女の仮面が、そのあまりにもストレートで濁りのない言葉によって、一瞬で粉々に砕け散る
吹き込む風の音さえ遠のくような静寂が、2人の間を支配した。やがて、彼女の驚きに染まっていた顔が、じわじわと赤らんでいく。気付けば彼女は、これまで見せてきたどんな表情よりも気恥ずかしそうな、けれど、これまでの中で一番嬉しそうな、等身大の少女としての柔らかな笑みを浮かべていた
「……ふふ。不意打ちなんて、ずるいなぁ……」
影は照れ隠しのように細い指先で前髪を優しく弄ると、視線を泳がせながらも、どこか愛おしそうに目を細めて、貴方に最後の言葉を贈る
「……ありがとうございます。貴方…いえ、貴方『々』にそう言ってもらえたなら、私がここに残った意味も、少しはあったのかも知れませんね。……さあ、行ってください。次のお話も……貴方にとって、楽しめると良いですね」
その優しく背中を押すような、祈りにも似た言葉を聞き届け、貴方は今度こそ、光の溢れる扉の向こうへと力強く足を踏み入れた。次なる、まだ見ぬ愛おしい物語を求めて
貴方の身体が完全に光の中に消え去ると同時に、背後でパタンと、静かに、けれど決定的な拒絶のように扉が閉まる音が響く。そして次の瞬間には、その扉自体も、まるで最初からただの幻であったかのように、空間の歪みと共に跡形もなく消滅していった。アビドスの乾いた砂が床にひとひら、さらりと落ちるような錯覚だけを残して
完全に静まり返った、誰もいない旧生徒会室
主を失った空間の中で、ただ一人遺された桃色の髪の少女は、貴方が去っていった何もない壁の向こうを、しばらくの間、名残惜しそうにじっと見つめていた。先ほどまで吹き荒れていた異界の風は完全に止み、部屋には再び、世界の終着点のような冷たい静寂がじわじわと満ちていく。彼女の身体の輪郭から立ち上る黒いモヤも、その動きを鈍くして、静かに床へと垂れ込めていた
やがて彼女は「ふぅ……」と、胸の奥に溜まっていた熱を吐き出すように小さく息を漏らす。その肩からは張り詰めていた緊張が完全に抜け落ち、どこか幼い少女のそれへと戻っていた。トボトボとした、少し寂しげな足取りで木床を小さく鳴らしながら、彼女は先ほどの古いブラウン管テレビの前へと歩み戻っていく
カチ、カチャリ
小さな指先で愛おしそうにモニターの電源スイッチを入れると、古ぼけた機械が小さくブーンという駆動音を立て始めた
画面全体に映し出された白黒の砂嵐――その微かな光と電子の海を全身に浴びながら、彼女は重力に身を任せるようにして、先ほどまで貴方が隣に座っていたソファーへと深く腰掛けた。隣に残る、わずかながらの他者の温もりの名残を、それとなく確かめるように
「……さてと。もう少しだけ……思い出に浸れる時間は、あるかな……」
誰もいない、誰の声も届かない、時間が凍りついた世界の狭間で
影はソファーの上で小さく膝を抱え込み、顎をその上にちょこんと乗せた。ザザ……と静かに鳴り続ける砂嵐の向こうから、彼女の手元にあるリモコンの操作に応じて、再びあの愛おしいアビドスの、騒がしくも眩しい日常の映像がパッと映し出される
色褪せたモニターを見つめるそのオッドアイの瞳は、まるで宝箱を開けた子供のように純粋に輝き、その口元には、静かに、本当に幸せそうな微笑みが浮かんでいた。それはどんな過酷な運命の果てであっても、決して奪われることのない、彼女だけの絶対的な聖域だった
画面の中では、現在の対策委員会の面々による、相変わらず賑やかで騒がしい放課後の光景が繰り広げられていた
部室のソファーでいつものようにクジラのクッションを抱き抱え、へにゃりと緊張感のない寝顔を晒してだらけきっている3年生のホシノ。
キヴォトスの七不思議にまつわる大事件(?)を無事に解決し、晴れて恋人同士として付き合い始めたという驚天動地の報告をして以来、セリカはかつての遠慮をすっかり脱ぎ捨てていた
そのだらしのない姿を目ざとく見つけたセリカは、青筋を立てながら「ちょっとホシノちゃん! またサボって昼寝して!」と、今ではすっかり口に馴染んだ愛称を堂々と叫びながら容赦のない怒声を浴びせる
かつてはみんなの前で頑なに「先輩」と呼んでいたものの、あの報告をしてからは、もう隠す必要もないとばかりに堂々と「ちゃん」付けで呼ぶようになったセリカ
呼び方が変わっても、その遠慮のないキレ味だけはいつも通り――いや、正式に恋人同士という距離感になったぶん、以前よりもずっと遠慮がなくなっていた
ノノミはそんな2人の甘酸っぱくも騒がしいやり取りを、特等席の観客のように紅茶を片手にクスクスと本当に嬉しそうに眺めていた
そこまではいつもの日常の風景だったが、どうやら溜まりに溜まった書類仕事のストレスと、2人のあまりの進展の遅さに限界を迎えていたらしいアヤネが、突如としてホシノとセリカの間に割って入る
普段の冷静さを完全にかなぐり捨て、眼鏡を指先でクイッと狂いなく押し上げたアヤネは、手にしたバインダーを机にバンッ!と激しく叩きつける。そして、いつも通り、いや、いつも以上に凄まじい大暴走のスイッチを全開にして、顔を真っ赤にしながら叫び声を上げた
「お二人とも! 付き合ったのは良いんです、それはおめでたいことです! ですから! はやく○○○した結果を報告書にして私に教えてください!!」
「「何言ってるのアヤネちゃん!?」」
職務忠実なのか欲望に忠実なのか最早わからない、アヤネのブレーキの壊れた大暴走。そのあまりの剣幕と怒号のようなセリフに、さっきまで怒っていたセリカは完全に脳の処理が追いつかず、ゆでダコのように顔を真っ赤にしてフリーズしてしまう
さすがのホシノもへにゃへにゃしていた目を限界まで丸くしてソファーから飛び起きる中、画面の隅から2つの影がサッと素早い動きでアヤネの両脇へと滑り込んだ
「アヤネ、落ち着いて。ほら、どうどう」
「……ん、アヤネ。まずは深呼吸。どうどう」
「だから私は馬ですか!?」
シロコとクロコの2人が、まるで野生の猛獣をなだめるかのように、息の合った完璧なシンクロ率でアヤネの背中や肩をポンポンと叩きながら必死に落ち着かせようとしている
「あはは!アヤネちゃんの奇行も慣れてきたら面白いよー!」
「先輩…そんな事に慣れないでくださいよ…」
その少しシュールで、けれどこれ以上なく温かいカオスなドタバタ劇のさらに後ろでは、休みの日にわざわざ遊びに来たのだろう、シックな大人びたスーツ姿に身を包んだユメ先輩が、お腹を抱えながら本当に楽しそうに声を上げて笑っていた
誰もが奇跡だと呼び、誰もがこの手で守り抜いたと誇れる、あまりにも眩しくて愛おしい現在の彼女たちのやり取り。それを第3者の視点から特等席で眺めていた影は、ふと、それまでの感傷的な表情を少しだけ崩した
そして、心の底から救われたような、けれどどこか照れくさそうな情愛の混じった笑みを浮かべ、誰もいない部室の天井に向けてぽつりと独り言をこぼす
「………もういっその事、セリカは本物の私を押し倒しちゃえばいいのに。……あーあ、見てるこっちが焦れったいなぁ……」
画面の光に照らされながら、影はくすくすと嬉しそうに身をよじり、また一つ、誰も知らない優しい記憶のページをめくるのだった
これにて完結させてもらいます!!!今まで沢山の方に見てもらえて本当に嬉しかったです…!!
一応次回の話も考えてはいるのですが今回のような日常的な話ではなく結構シリアスになりそうです…もし良かったら他のお話も読んでいただけるとうれしいです!!