セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
アビドスの厳しい日差しが容赦なく照りつける、ある日の午後
校舎の一角にある生徒会室には、ガタガタと震える古びた扇風機の回転音と、カサカサと乾いた音を立てて書類をめくる音だけが虚しく響く。窓の外から入り込む熱気は、室内の空気をも砂のように重く停滞させていた
「ユメ先輩、そこ。計算が三行前から間違ってます……やり直し」
「ひぃん、ごめんねホシノちゃん……。ずっと数字を追いかけてたら、だんだん砂粒に見えてきちゃって……」
ホシノの感情を排した冷徹な指摘に、ユメは半べそをかきながら、震える指先で電卓を叩き直す。アビドスの財政状況という、出口のない迷路を彷徨うような作業。そんな、いつも通りの「停滞した砂漠の日常」を唐突に切り裂いたのは、一発の銃声にも似た、激しく鋭い衝撃音だった
――バンッ!!
「もう限界! 私……可愛い服が着たいわ!!」
唐突に立ち上がったセリカが、全力で生徒会室の机を叩きつける。その気迫に押されるように、机の上に辛うじて積み上げられていた書類の山が、音を立てて雪崩を起こし、埃っぽい床の上へと無惨に散らばった
「あああ!!! 終わった書類と終わってない書類が、全部お釈迦になっちゃったあぁぁーーー!?」
椅子から転げ落ちそうになりながら、ユメが目を白黒させて固まる。彼女の数時間に及ぶ血と汗と涙の結晶は、一瞬にしてカオスの渦へと飲み込まれた。隣でぬるくなった茶をすすっていたホシノも、珍しく微かに眉を跳ねさせ、湯呑みを握ったまま石像のように硬直する
「うう……どうしたの……? セリカちゃん……。急に机を叩いて……。ついに砂漠の暑さで、脳みそが沸騰しちゃった……?」
ユメがおそるおそる、腫れ物に触れるような手つきで尋ねる。しかし、セリカの瞳に宿る、かつてないほどの切実な「渇き」は、もはや尋常な熱中症の域を超越していた
「どうしたもこうしたもないわよ! 私……ここに来て一週間くらい経つけど、冷静に振り返ってみなさいよ! 制服か、バイト先の柴関ラーメンの制服か、パジャマしか着てないのよ!!」
「セリカちゃん、お願いだから机を叩くのやめてぇー! 無事だった書類までダメになっちゃうからぁ~~!!」
半狂乱で叫ぶユメの制止も虚しく、セリカの連打が埃っぽい生徒会室に虚しく、激しく響き渡る。だが、その狂乱の向かい側に座るホシノだけは、まるでお昼寝の邪魔をされた眠り猫のような、氷のように冷淡な眼差しを向けるだけだった
「…………はぁ」
ホシノは重たい溜息をひとつ吐くと、ゆっくりと湯呑みを机に置き、一切の私情を排した事務的な声で、その「正論」という名の冷水をセリカに浴びせかける
「……その三つがあれば、十分では? そもそも、服を買うお金があるなら、一円でも多く借金返済に回すか、有事の際の弾薬を買い足す方がよっぽど合理的ですよ。……オシャレで、この砂漠からアビドスを守れるわけじゃありませんからね」
淡々と、そして残酷なまでに突き放すホシノ。その言葉は、アビドスの厳しい現実をそのまま形にしたような、救いのない宣告だった
沈黙が、砂嵐の前の静寂のように生徒会室を支配する
机を叩きつけていたセリカの荒い呼吸だけが、熱を帯びた空気の中に響く。そして、次の瞬間、彼女の動きがぴたりと止まった
「…………」
ギギギ、と油の切れた機械か、あるいは首の骨が軋むような不自然な挙動。セリカはゆっくりと、獲物を狙う蛇のごとき執念を孕んだ動きで、ホシノの方へ顔を向けた。その瞳の奥には、正論という名の氷壁を焼き尽くさんとする、どす黒く燃え上がる執念の炎が宿っている。あまりの迫力と「圧」に、さしものホシノも「ひっ……」と短く喉を鳴らし、本能的な恐怖から反射的に身を引いた
だが、セリカは逃がさない
彼女は電光石火の動きで机に身を乗り出すと、ホシノの両肩をガシッと力任せに鷲掴みにした
「いい、ホシノ先輩……よく聞きなさい。私たちは確かに、弾薬の支給もないし、借金返済で首が回らないわ。そんなことは、私もよく分かってる! でもね……!」
セリカの顔が、鼻先が触れそうなほど、睫毛の一本一本が見えるほどにホシノの眼前に迫る。そこには一切の妥協を許さない、アビドス復興への決意にも似た凄烈な意志があった
「服っていうのはね……砂漠を往く旅人が最後に見つける『心のオアシス』なのよ! 毎日毎日、同じ布切れを纏って戦い、働き、泥にまみれる。そんな乾いた生活の中で、たった一枚の新しい服が、どれだけ魂を救うと思ってるの!? つまり、私の心は今、カラカラに乾ききって、服という名の聖なるオアシスを……潤いを、魂の底から絶叫して求めているのよ!! 分かった!?」
凄まじい剣幕。もはやファッション論を超越し、存在論や哲学的な領域にまで踏み込みつつある理論の濁流。ホシノは、かつての凄惨な戦場や強大な敵を前にした時ですら感じたことのないような、圧倒的な「生のエネルギー」に気圧され、ただコクコクと人形のように頷くことしかできない
「そ、そうですか……。……すみません、そこまで生存に関わるレベルで切実だとは思いませんでした。悪かったです、はい……」
あの「アビドスの最終兵器」であり、敵対するものすべてを薙ぎ払う「暁のホルス」と恐れられているホシノが、セリカの放つ純粋な「女子力の叫び」に気圧され、これ以上なく素直に、そして弱々しく謝罪する
そんな異常事態のなか、この凄まじい熱量を、自らの「脱走のチャンス」へと鮮やかに変えようとする人物が、もう一人いた
それまで山のような書類の断崖絶壁に埋もれ、ホシノの放つ鋭い監視の視線に晒されながら「もう数字は見たくないよぉ……」と情けない泣き言を漏らしていたユメ。彼女が、弾かれたような勢いで顔を上げた。その瞳に宿るのは、暗い地底の底で救世主を見つけ出した狂信者のような、あるいは鉄格子の向こう側に脱獄の鍵を見出した囚人のような、異様なまでの輝き
「名案だよ、セリカちゃん……! その通りだよ! 服はオアシス、ファッションは命の輝きだね! それじゃあ今から、セリカちゃんのカラカラに乾いた心を潤す『聖なるオアシス』を探しに、みんなでお買い物に行こー!!」
パチパチと景気よく乾いた音を立てて手を叩き、ユメは重力に逆らうような勢いで立ち上がる。勢い余って椅子がガタンと大きな音を立てて後ろに倒れるが、今の彼女にはそんな些細な音など耳に入らない。彼女にとってセリカの魂の叫びは、自分を「書類整理という名の終わりなき無間地獄」から救い出してくれる、天から垂らされた唯一無二の黄金のクモの糸に見えた
「ちょ、ちょっと待ってくださいユメ先輩……! ま、待ってくださいってば! き、今日はこの山積みの書類を全部終わらせないとダメだって、あれほど指切りまでして約束したじゃないですか。買い物は、そう、状況が落ち着いたまた後日にしましょう。ね? 分かりましたね?」
ホシノが、雪崩を起こしかけている書類の山を必死に抱え込み、それを物理的な防波堤にするようにして、決死の防衛線を張る。その声は、アビドスの最終兵器としての威厳など微塵も感じさせないほど、情けなく細く、震えている。しかし、一度「オアシス」への渇望という名の暴走特急に火がついてしまったセリカの耳に、そんな守備的で消極的な正論が届くはずもなかった
「嫌よ!! 後日なんて不確かな言葉に縋ってたら、私の瑞々しい女子力は明日には砂漠の熱風にさらされて、跡形もなく砂に還ってるわ! 今よ、今すぐこの瞬間にみんなで行くの! ほら、ホシノ先輩もシャキッとして! 早く!」
「ちょ、ちょっと……! 引っ張らないでください、制服の袖が伸びる……っ! 力が強すぎますよセリカ……!」
有無を言わせぬ剛腕。セリカはホシノの細い腕を逃がさぬようガシッと掴むと、抵抗する彼女をまるで重たい荷物か、あるいは頑固な仔らくだでも引きずるかのように、ズルズルと生徒会室の外へと連れ出していく。床を擦るローファーの音が空虚に響くが、セリカの歩みに一切の迷いはない
「あはは、待ってよ二人とも〜! 私もすぐ行くからね、置いてかないでー!」
その背後で、ユメがこれ以上ないほどの輝かしい笑顔を浮かべ、跳ねるような足取りで後に続く。彼女は倒れた椅子を起こすことさえ忘れ、開け放たれた扉を通り抜ける
(やった、やったぁー! これで地獄の数字の羅列と、終わりが見えない書類整理を合法的にサボれるぞー! セリカちゃん、本当にナイスタイミングだよぉ! 今日はお宝探しよりずっと、ずっと楽しい日になりそう!)
心の中で歓喜の舞を踊り、勝利のポーズを決めるユメ。彼女の脳裏からは、先ほどまで悩まされていたアビドスの財政破綻という現実が、砂嵐に吹かれたかのように綺麗さっぱり消え去っていた
こうして、重苦しい沈黙と書類の海に沈みかけていた生徒会室は、嵐のような勢いで空っぽになった。残されたのは、窓から吹き込む乾いた風にパタパタと虚しくめくれる、書きかけの帳簿だけ
ガタンゴトンと一定のリズムで揺れる電車の中
三人を乗せた車両は、見渡す限りの赤茶けたアビドスの砂漠を抜け、次第に車窓の景色を彩り豊かな緑へと変えていく。やがて視界に飛び込んできたのは、白亜の校舎と美しい噴水が点在する、トリニティ総合学園の学区だった
「見て見て、セリカちゃん! 今から行く駅前の商店街、こんなキャンペーンをやってるみたいだよ」
ユメが弾むような声を上げ、スマホの画面をセリカの目の前へと差し出す。未来からこの時代へ迷い込み、使い慣れた自分の端末をあちら側に置いてきてしまったセリカにとって、その液晶越しに広がる光景は、砂漠で偶然見つけた極彩色の宝石箱のように映った。ユメのスマホを食い入るように覗き込み、画面に次々と流れていく最新のファッション誌の表紙や、季節限定のセールを知らせる色とりどりのチラシに、その瞳を爛々と輝かせる
「わっ、本当だ……。これ、トリニティで流行ってるブランドじゃない! すごく可愛い……。あ、こっちのセレクトショップのワンピースもいいわね。あぁもう、見てるだけで勝手にコーディネートの想像が膨らんで止まらないわ……!」
二人は指先で画面をスクロールしながら、これから訪れる「聖なるオアシス」の光景を夢想しては、乙女らしい黄色い歓声を上げて盛り上がる。アビドスの乾いた熱風にさらされ、戦いと労働に明け暮れていた日々が、今は遠い昔の出来事のように感じられた。ふと、膨らみすぎた期待を一度落ち着かせるように、セリカが素朴な疑問を投げかける
「……そういえば、二人は普段どんな服を持ってるの? ユメ先輩、学校ではいつも制服か、あの動きやすそうなジャージのイメージしかないけれど」
その問いに、ユメは少しだけ照れくさそうに、けれど宝物を披露する子供のような無垢な表情を浮かべた。指を滑らせて、スマホのギャラリーにある数少ないプライベートな写真を表示させる
「えへへ、あんまりお金がないから、滅多には新しいのは買えないんだけど……。でもね、これとかすっごくお気に入りなの!」
ユメが慈しむような手つきで画面をスワイプし、一枚のツーショット写真を表示させる。そこには、淡い桃色のカーディガンを羽織って満面の笑みを浮かべるユメと、その隣で今よりもさらに鋭利な、触れれば切れる剃刀のような目つきをしたホシノが写り込んでいた
「見て見て、ホシノちゃん、この時すっごく不機嫌そうな顔をしてるでしょ? でもね、実はこのカーディガン、ホシノちゃんが一緒に選んでくれたんだよー。なんだかんだ楽しんでくれてたみたいなの!」
「……そんなことないですよ。それに、それはただ先輩が放っておいたら勝手に迷子になりそうでついて行っただけで……他意はありません」
向かい側の席で深く腕を組み、流れる車窓の景色を睨みつけていたホシノが、バツが悪そうに声を低める。その瞳は揺れ動く線路のバラストを追っているが、言葉の端々には隠しきれない動揺が混じっていた
「ふーん。ホシノ先輩、なんだかんだでユメ先輩のこと放っておけなかったのね。……っていうか、自分は制服のままなのに、先輩の服選びには付き合うなんて。意外と面倒見がいいっていうか、過保護っていうか」
セリカがニヤリと口角を上げ、獲物を追い詰めるような視線を送る。未来のホシノからは想像もつかないような、生真面目で不器用な情愛の形。そのギャップが、セリカの胸を可笑しさと愛おしさで満たしていく
「ホシノちゃんは昔から優しいからね♪ 結局、最後までお店に付き合ってくれて、色まで指定してくれたんだよ?」
「そ、そんなんじゃなくて……もう知りません! 勝手に言ってればいいですよ!」
ユメとセリカが顔を見合わせ、ニヤニヤしながら言葉の礫を投げると、ホシノはさらに深く顔を背けた。窓ガラスに反射した彼女の横顔、その耳元が林檎のように赤く染まっているのを、二人の鋭い観察眼が逃すはずもなかった
電車を降り、三人が一歩足を踏み入れた先には、アビドスの暴力的な砂塵や乾いた風とは無縁の、洗練された静謐と華やぎが同居する世界が広がっている。トリニティ総合学園の商業区。石畳の道は埃一つなく掃き清められ、軒を連ねるショップのショーウィンドウには、春の陽光を透かすようなパステルカラーのドレスや、繊細なレースが施された小物が宝石のように並ぶ
「着いたわ……! こここそが、私の渇いた心を潤す約束の地。……ファッションのエルドラドね……!」
セリカは商店街の入り口で、巡礼者が聖地に辿り着いたかのような神聖な面持ちで立ち止まる。その右手に握りしめられているのは、柴関ラーメンの大将から「たまには年相応に洒落込んでこい。これは投資だ、投資!」と豪快な笑いと共に手渡された、汗と油の結晶である初給料。茶封筒越しに伝わるその厚みは、今の彼女にとって、どんな軍資金よりも心強く、そして重い
「大将から預かったこの給料、一円たりとも無駄にはしないわよ! 私の女子力が完全に砂に還って消滅する前に、最高のオアシスを見つけ出してやるんだから! 予算の許す限り、妥協は一切なしよ!」
鼻息を荒くして、燃えるような執念を瞳に宿すセリカ。その熱量に呼応するように、隣のユメも「わあぁ……! 見て見てセリカちゃん、あの角のショップのウィンドウ! あのラベンダー色のワンピ、絶対セリカちゃんに似合うよぉ!」と、まるでおもちゃ箱をひっくり返した直後の子供のように、純粋な好奇心で声を弾ませる
「……浮かれるのは勝手ですけど、他学園の生徒の前でアビドスの恥を晒すような真似だけはしないでくださいよ」
二人から一歩引いた位置で、ホシノが呆れたように深い溜息をつき、冷や水を浴びせるように釘を刺す。彼女はいつものように両手を制服のポケットに深く突っ込み、色鮮やかな街並みに馴染もうともせず、どこか獲物を警戒する野良猫のような鋭い視線を周囲の雑踏に走らせていた
「……特にユメ先輩。そんなにキョロキョロして浮ついてると、またどっかの複雑な路地裏で迷子になって、情けない声で私に泣きついてくる羽目になりますからね。ここは勝手知ったるアビドスじゃないんですから、警戒心を持ってください」
「もー、ホシノちゃんは相変わらず心配性なんだから! 大丈夫だってば。今日はセリカちゃんの記念すべき『オアシス発見記念日』なんだから、もっと心から楽しまなきゃ損だよ!」
「……どんな記念日なんですか、それは。……はぁ、全く」
呆れ顔を隠さないホシノだったが、その足取りは二人を置いていくことも、突き放すこともなく、絶妙な距離を保って寄り添っている
それから数時間、ユメとセリカは商店街を文字通り嵐のように駆け巡った。セリカが「これよ!」と直感で手に取ったブラウスをユメが絶賛し、ユメが「これ可愛い!」と持ってきたリボンをセリカが真剣に吟味する。試着室のカーテンが開くたびに上がる歓喜の悲鳴と、紙袋が一つ、また一つと増えていく充足感。アビドスの厳しい現実を束の間忘れ、彼女たちはただの「少女」として、至福の時間を貪り尽くしていった
一通りのショップを嵐のように巡り、両手にずっしりと重い紙袋を抱えて至福の表情を浮かべるセリカ。心地よい疲労感に包まれた三人は、アンティーク調の落ち着いた佇まいを見せる喫茶店へと滑り込み、一息つくことにした
運ばれてきたアイスティーの冷たさに喉を潤しながら、セリカの視線はふと、対面に座るホシノへと向けられる。ホシノは手持ち無沙汰そうに、テーブルに置かれたガムシロップのポーションを無造作に指先で弄んでいた。その指先は、戦いを知る者のように節くれ立つこともなく、白くしなやかだ
(……そういえば、ホシノ先輩。さっきから自分の服を一枚も手に取らなかったわね。未来のホシノ先輩も、いっつも制服か、クジラのクッションに埋もれてるような格好ばっかりだったけど……まさか、この時代から既にそうなの?)
一度気になりだすと、疑問は雪だるま式に膨らんで止まらない。セリカは身を乗り出し、探るような、あるいは値踏みするような鋭い視線をホシノにぶつけた
「ねぇ、ホシノ先輩。さっきから見てて思ったんだけど……アンタ、本当に私服ってやつを持ってないの? 予備の制服以外、クローゼットの中は空っぽだって言わないわよね?」
その唐突な問いに、ホシノは不思議そうに片眉をぴくりと上げた。それは、太陽が東から昇るのを不思議がる人間を見るような、あまりに当たり前すぎる事実を確認された時の反応だった
「? もちろんですよ。さっきも言いましたけど、限られた予算を装飾品に費やすくらいなら、一発でも多く、殺傷能力と精度の高い弾薬をストックしておきたい。それがアビドスを守り抜くための、最も効率的で論理的な資金運用というものです」
ホシノは淡々と、まるで月次の収支報告でも読み上げるかのような無機質な口調で続ける
「何より、オシャレなんて華やかなもの、私にはこれっぽっちも似合いませんよ。外敵を排除するための制服と、体力を回復させるためのジャージ。その二つさえ完備されていれば、私の生活というサイクルは完璧に完結していますから。余計なノイズは必要ないんです」
その言葉の裏には、自尊心の欠如というよりも、むしろ「自分はアビドスの盾という役割に徹するべきだ」という、若さに似合わぬほど頑固で静かな決意が張り付いていた。自らを削り、ただの兵器として完成させようとするその危うい均衡
「ええー……。ホシノ先輩、こんなに顔立ちも整ってて、スタイルもいいのに。……勿体なすぎるわよ、そんなの。宝の持ち腐れっていうか、女子力の完全放棄っていうか、もはや全女子生徒に対する冒涜よ……!」
セリカは、未来の「おじさん」と自称するあの怠惰な姿を脳裏から必死に振り払いながら、目の前の冷徹で美しすぎる少女に向けて、心底納得がいかないというように唇を尖らせる。その熱烈な抗議の声に、隣でイチゴのショートケーキを幸せそうに頬張っていたユメが、待ってましたとばかりに銀のフォークをコト、と置いた
「分かるよー、セリカちゃん! すっごく分かる! ホシノちゃんってば、普段はこうやってツンツンしてて、可愛げがないフリをして『私には銃が似合います』みたいな顔をしてるけど……本当はね、世界で一番可愛いところ、山ほど隠し持ってるんだから!」
ユメは悪戯っぽく、春の陽だまりのような笑みを浮かべると、使い古したスマホを取り出す。ホシノが「な、何をする気ですか」と制止するのも構わず、画面を二人の間に滑り込ませるように差し出した
「ほら、これ見て! この前の放課後、校門の近くで野良猫ちゃんを見つけた時のホシノちゃん。私がバッチリ、物陰からスクープしちゃったんだから!」
画面の中で再生されたのは、少し手ブレした、明らかに遠くから植え込み越しに隠し撮りされた映像。そこには、いつもの刺々しい気難しさなど微塵も感じさせない、無防備な少女の姿があった。地面に膝をついてしゃがみこみ、一匹の小さなトラ猫に鼻先をくっつけんばかりに顔を近づけているホシノ
『……にゃー♪ ほーら、こっちおいでー。……うへへ、肉球ぷにぷにですねぇ……。よしよし、いい子ですよぉ……世界で一番いい子ですねぇ……♪』
普段の冷徹な声とは似てもつかない、蕩けるような甘い声。猫じゃらしを不器用に、けれど必死に振るうその横顔には、今まで誰も見たことがないような、純粋無垢で満面の笑みが浮かんでいる。まさに、全アビドス生徒が、そして未来のセリカさえもが腰を抜かすほどの、究極の「デレ」がそこには記録されていた
「ユ、ユメ先輩ぃぃぃぃぃっ!? ど、どこから……!? いつから見てたんですか、それ!? 消して! 今すぐ、一秒以内に銀河の果てまで消去してくださいぃぃぃっ!!」
静かな喫茶店内に、ホシノの悲鳴にも似た絶叫が木霊する
彼女は沸騰したヤカンさながらに顔を真っ赤に染め上げ、先ほどまでの冷静沈着な仮面はどこへやら、スマホを奪い取ろうとユメの手元へ必死に手を伸ばし、身を乗り出した。その姿は、隠しておいた宝物を白日の下に晒された子供のように激しく狼狽している
「やっぱり、私の目に狂いはなかったわ! ホシノ先輩はオシャレすれば、今の百倍……いえ、千倍は可愛くなるのよ!」
セリカは、スマホを奪い取ろうと必死なホシノの両手を、まるで見切ったかのような鮮やかな手つきで封じ込める。獲物を見つけた熟練の狩人のような鋭く、それでいて爛々と輝く瞳でホシノを凝視した。その顔が、鼻先が触れそうなほどの至近距離まで迫り、ホシノの逃げ場を物理的にも精神的にも完全に断つ
「……あっ、いいこと思いついた! ちょうど給料も入ったし、未来のアビドスの……じゃなくて、今のアビドスの士気向上のために、私のセンスをフル活用してあげる! 今から私とユメ先輩で、ホシノ先輩に似合いそうな服を全力で、魂を込めて探してくるわ。アンタは黙って、その中から好きな方を選んでよ! 異論は認めないから!」
「なっ……な、何を勝手な……っ。私は、そんな必要はないと言って……!」
ホシノは必死に反論しようと口を開きかけるが、セリカの瞳に宿る、圧倒的な「熱量」と、逃げ道を許さない「善意」の重圧に押し流され、言葉が喉の奥で虚しく霧散する。強引ながらも、どこか深い慈愛と確信に満ちたその眼差しは、武装を解かれた今のホシノにとって、どんな重火器よりも抵抗しがたい究極の武器だった
「せ、セリカってば……時々、恐ろしいくらい強引になりますよね……。うう、これは絶対に逃げられないやつですか……」
もはや万策尽き、抗う術はないと悟ったのか。ホシノはガックリと項垂れ、テーブルに額をつけんばかりの勢いで沈み込み、砂漠の砂に還りたいと言わんばかりの深い溜息をつきながら肩を落とした。しかし、その諦め混じりの仕草さえも「庇護欲をそそる最高の素材」として、セリカの創作意欲と使命感にさらなるガソリンを注ぐだけだということに、彼女はまだ気づいていない
「あはは! 名案だよ、セリカちゃん! 私も負けてられないなぁ。私の方がホシノちゃんとの付き合いは長いんだから、ホシノちゃんが一番可愛く見える『正解』は私が持ってるはずだよー!」
ユメは、山積みの書類という現実逃避の最高峰を見つけた子供のような純粋さと、保護者としての執念が入り混じった表情で立ち上がる。伝票を指先で軽やかに弄びながらレジへと向かう後ろ姿には、もはや事務作業の「し」の字も、アビドスの財政難という重圧も微塵も感じられない。あるのは、愛する後輩を「世界一の美少女」という名の極致へ仕立て上げるという、あまりに崇高で、かつ私情に満ちた使命感だけ
「さあ、出発進行ー! セリカちゃん、気合入れて行こー!」
「ええ! 私の血と汗の結晶である給料、全部注ぎ込んででも最高の逸品を見つけてあげるわよ! 覚悟しなさい、ホシノ先輩!」
「ちょ、ちょっと、二人とも! 私を不法投棄される粗大ゴミみたいに引きずらないでくださいぃぃっ……!」
喫茶店を一歩出た瞬間、ホシノの両脇は逃走を許さぬ鉄壁の布陣で固められた。抵抗虚しく、連行される重要参考人のような無様な姿で、ホシノは再びトリニティの眩いばかりの喧騒の中へと強制的に引き戻されていく
たどり着いたのは、白亜の柱がそびえ立ち、大きなクリスタルのシャンデリアが天井で傲然と輝く、トリニティでも指折りの規模を誇る巨大ブティック。その美術館と見紛うばかりの豪奢な店構えの前に到着した刹那、それまでホシノの自由を奪っていた四本の腕が、合図でもあったかのようにパッと解放される
「さあ、ここが本当の戦場よ! ユメ先輩、手加減なしで行くからね! 私の『後輩としての直感』が火を吹くわよ!」
「望むところだよ、セリカちゃん! ホシノちゃんを一番輝かせられるのは、ずっと隣にいた私なんだからー! 負けないよぉ!」
二人は互いにパチパチと火花を散らすような視線を交わしたかと思うと、獲物の喉笛を狙う猛獣のごとき瞬発力で、広大な店内へと一目散に駆け込んでいく。後に残されたのは、あまりに唐突な解放感に重心を崩し、開いた口が塞がらないまま立ち尽くすホシノ一人
「うへぇ……二人とも、砂漠の真ん中で宝探してた時より、よっぽど血走った目をしてましたよ……」
ホシノは深く、肺の中の空気をすべて吐き出すような溜息をつくと、店内の隅に置かれた、座るのを躊躇うほど上品な真紅のベルベット張りの椅子に、そっと腰を下ろす
周囲を行き交うトリニティの生徒たちは、洗練された私服や刺繍入りの制服に身を包み、優雅な足取りでショッピングを楽しんでいる。その中で、場違いなほど質素で、砂埃の匂いが染み付いたアビドスの制服を着た自分。好奇と困惑が入り混じった彼女たちの視線が肌を刺すようで、今のホシノには、戦場での狙撃手のスコープ越しに見られている時よりも、はるかに居心地が悪く感じられた
(オシャレ、ね。……私には、そんな柔らかいものを纏う時間も、資格もないはずなのに。一分一秒でも長く銃を磨いて、一円でも多く借金を返済しなきゃダメなのに)
そんな自嘲気味な思考の海に深く沈み込み、アンティーク調の時計が刻む規則正しい音を聞き流すこと三十分。静寂を切り裂くように、フロアの向こうから凄まじい熱量と圧迫感を伴って、二人の少女が意気揚々と帰還する
「お待たせ、ホシノ先輩! さあ、御託はいいからこっちに来て! 私の渾身のセレクト、その肌で存分に味わいなさいよね!」
「ホシノちゃーん、お待たせー! 商店街の隅から隅まで歩き回って、最高の『正解』を見つけてきたよー! これこそが、今のホシノちゃんに一番必要な輝きだよぉ!」
「ちょ、ちょっと……! 何ですかその、逃亡兵を捕まえて祭壇に運ぶような手つきは! 離してくださいぃ……! 私は別に、頼んでなんて……っ!」
抵抗虚しく、ホシノは捕獲された小動物のように両脇を固められたまま、店内の最奥にある重厚な更衣室へと連行される。ベルベットの厚手のカーテンの前に立たされ、セリカがその隙間から、まるで最終兵器のパーツをセットアップするかのような峻厳な手つきで、一組の衣装を滑り込ませる
「ホシノ先輩! 既に更衣室の中には私が選んだ服を置いてあるから! 文句を言う暇があったら、さっさと袖を通しなさいよね! 私の給料がかかってるんだから、中途半端な着こなしは許さないわよ!」
「私の方も、とっておきの一着をすぐ隣に用意しておいたよー♪ あぁ、もう楽しみで胸がはちきれそうだよぉ。私の方が絶対に似合う自信はあるけど、セリカちゃんがどんな角度からホシノちゃんを攻めたのか、実はすっごく気になっちゃう!」
ユメが頬を薔薇色に上気させ、期待に胸を膨らませてワクワクと足踏みをする横で、セリカは深く腕を組み、仁王立ちでカーテンを凝視する。その眼差しは、自分の「予言」が正しかったことを世界に証明しようとする、確信と情熱に満ちたものだった
「はぁ……。一回だけ、本当に一回だけですからね? 明日はしっかり働いてもらいますからね?……いいですね、2人共?」
最後までの抵抗を試みるように、重たい溜息を一つ。ホシノは運命を悟った囚人のように、吸い込まれるように更衣室の暗がりの向こうへと消えていく
外で待つ二人の耳に、衣類が擦れる微かな音が届く。ユメは期待に胸を膨らませてそわそわと足を動かし、セリカは「……絶対、似合うはずなんだから」と、自分に言い聞かせるように小さく呟く
やがて、静かにカーテンが開く
そこに立っていたのは、セリカが選んだ一着を纏ったホシノだった
アビドスでの過酷な日常を想定しつつも、トリニティの洗練された空気に馴染む「機能美」を追求したセットアップ。シックなネイビーのショートジャケットに、膝上の動きやすいキュロットスカート。インナーには、ホシノの瞳の色を際立たせる淡いブルーのカットソー。装飾を抑えつつも、タイトなシルエットが彼女の引き締まったラインを美しく強調している。
「……ジャジャーン! 私が選んだ服ね! 文句なしでしょ!」
セリカは弾かれたように駆け寄ると、ホシノの周囲を回りながら、そのこだわりを熱烈にプレゼンし始める。
「いい、ホシノ先輩。アンタのその脚のラインを隠すのは罪なのよ! だから敢えてのショート丈。それに、いざという時にすぐ動けるようにストレッチ素材のものを選んだんだから。可愛さだけじゃなくて、実用性も兼ね備えた……これこそ、アビドスの守護神にふさわしい勝負服よ!」
至近距離から熱っぽく語られ、ホシノは気恥ずかしそうに視線を泳がせる。だが、大きな三面鏡に映る自分の姿を横目で確認すると、その表情がわずかに綻ぶ
「ふむ……。確かに、生地の感触も悪くないですし、何よりこれならホルスターを装着しても違和感がなさそうですね。……悪くない、と言っておきますよ」
鏡の中の自分をじっと見つめるホシノの顔は、明らかに満更でもない様子。それを見たセリカは、自分の「正解」が届いたことを確信して、満足げに胸を張る
セリカの選んだ服を鏡越しに眺め、少しだけ自分に自信を持てたようなホシノの表情。しかし、その横で「うぅ……」と不満げな声を漏らす人物が一人。ユメがリスのように思い切り頬を膨らませ、二人の間に割って入る
「もー! セリカちゃんばかりずるいよぉ! 次は私の服を早く着てよー! 私の『正解』は、もっともっとホシノちゃんの可愛さを爆発させるんだからね!」
ユメが地団駄を踏むように急かす。せっかく自分の新しい姿に納得しかけていたホシノは、その剣幕に気圧されたように一歩後退する
「うへぇ……。先輩、そんなに鼻息荒くしなくても、逃げやしませんよ。……もう少し、これ着ててもいいじゃないですか……」
自分の「役割」にしっくりくるセリカの服を脱ぐのが少し名残惜しいのか、ホシノは小さな溜息をつく。だが、ユメの期待に満ちたキラキラとした視線には逆らえず、再び更衣室の中へと引っ込んでいく
シャーッ、と重々しくカーテンが閉まる音が、これからの「本命」を予感させて響く
「……はぁ。もう少し着ていたかったな…」
更衣室の中から漏れ聞こえた独り言を、ユメとセリカは聞き逃さない。二人は顔を見合わせ、次なる変身への期待を込めて静かに更衣室の前で待ち構える
カーテンの向こうから、布が擦れる微かな音とハンガーの乾いた音が響く。外で待つ二人の間には、先ほどまでの賑やかな喧騒とは一転した、静かで濃密な時間が流れていた。ユメは慈愛に満ちた瞳でセリカを見つめ、その表情を丁寧に読み取ろうとする
「セリカちゃん、ホシノちゃんの好み、本当によく分かってるんだね! 動きやすさと可愛さを両立させるなんて、私には思いつかなかったよー」
ユメの感心したような声に、セリカは反射的に胸を張る
「ふふん、当然よ。あの先輩の好みくらい手に取るように分かるわ。あとは私の抜群のセンスを上乗せしただけ!」
セリカは腰に手を当て、自信満々にドヤ顔を決めた。未来のアビドスで、少しだらしなくて、けれど誰よりも頼もしかった「おじさん」と過ごした濃密な日々。彼女がどんな服を「肩が凝る」と嫌い、どんな素材を「昼寝に最高」と愛でるか、セリカの記憶には深く刻み込まれている。その圧倒的な情報量に基づいた優越感に浸っていると、ユメがふと思いついたように小首をかしげた
「そういえばさ……前から気になってたんだけど。ホシノちゃんとセリカちゃんって同級生だよね?」
「え?……そ、そうね」
不意を突かれた質問に、セリカの返信がわずかに遅れる。ユメの穏やかな、けれど逃げ場を塞ぐような核心を突く問いかけに、セリカの頬が強張る
「なのに、自己紹介をしてからもずっとホシノちゃんのことを『先輩』って呼んでるよね? 何か特別な理由でもあるのかな?」
真正面からユメの透き通るような瞳と視線がぶつかる
「ドキッ」と、心臓が肋骨を裏側から叩くような激しい音が耳の奥で鳴り響いた
(え、待って。ユメ先輩、そういう細かい呼び方とか気にしないタイプだと思ってたのに……!?)
セリカの項に、冷たい汗がじわりとにじみ出す
この一週間、共に過ごしてきたユメの印象は、おっとりとしていて、どこか浮世離れした「愛すべき天然な人」だった。けれど今、自分を射抜くその瞳は、まるですべての嘘と隠し事を見透かしているかのような、静謐で深い光を湛えている
(……この人、やっぱりただの天然じゃないわ。今の私とホシノ先輩の間に流れている、言葉にできない奇妙な『壁』を、正確に感じ取ってる……?)
頭の中では、ありもしない言い訳が高速で空回りする。未来では共に戦い、共に笑い、時には対等以上に言い合ってきた戦友。けれど、この時代のホシノは自分と同じ1年生だ。頭では分かっていても、魂に染み付いた「先輩」という呼び名を、昨日今日会ったばかりの同級生として塗り替えることなど、今のセリカには到底不可能に思えた
「なんだか、少しだけ距離を感じちゃうのよね……。同級生っていうよりは、もっと別の……そう、私とホシノちゃんみたいな、明確な上下がある関係に見えちゃう時があって」
ユメの言葉は、決してセリカを責めるような鋭さを含んでいなかった。むしろ、迷子を優しく見守るような、包容力に満ちたトーン。だが、それが逆にセリカの胸をチクリと、鋭い棘のように刺す
「私ね、セリカちゃんにはホシノちゃんと本当の意味で肩を並べて、笑い合える仲になってほしいな。だって、たった一人の同級生なんだもん! ……だからさ、いつかは『ホシノちゃん』って、名前で呼んであげてほしいかな♪ その方が、きっとホシノちゃんも嬉しいと思うんだ」
そこにあるのは、太陽のような、一点の曇りもない屈託のない笑顔
「距離……そんなつもりは……」
ユメの穏やかな、けれど魂の深層に触れるような言葉に、セリカの心臓が早鐘を打つ。自分にとってホシノは、一度は失いかけ、必死で繋ぎ止めたアビドスの象徴であり、尊敬してやまない「先輩」そのものだ。たとえ1年生という同じ立場でこの過去に放り出されたとしても、未来で積み上げてきた敬意と絶大な信頼からくる距離感は、そう簡単に拭い去れるものではなかった
「ユメ先輩……私、そんなつ……」
「そんなつもりはない」――喉の奥まで出かかったその反論を、言葉として形にしようとした、その瞬間だった。
シャーッ! と、静寂を切り裂くような勢いで、更衣室の重厚なカーテンが左右に跳ね上がる
「ユメ先輩……!! なんっ……なんですか、この服は!!」
そこには、先ほどまでの凛々しく機能的なセットアップ姿とは正反対の、可憐の極致とも言える変貌を遂げたホシノが立ち尽くしていた
ユメが執念で選び抜いたのは、透き通るような純白のオフショルダーワンピース。柔らかなシフォンのフリルがホシノの華奢な鎖骨のラインを鮮やかに強調し、ふんわりと膨らんだパフスリーブが、彼女の持つ少女らしい瑞々しさをこれでもかと引き立てている。さらにその腰元には、ユメがどこからか見つけ出してきたらしい、愛らしいクジラの形をした小さなポーチが添えられ、完璧なアクセントとして彼女の幼さを引き立てていた
「っ~~……! こ、こういう、肩が丸出しになるような……その、浮ついた服は、今まで一度も着たことがないので……っ! 落ち着かなくて、恥ずかしくて死にそうですっ!!」
顔を耳の付け根まで真っ赤に染め上げ、露出した白い肩を隠すように自分を抱きしめながら、ホシノが絶叫する。その姿は、アビドスの守護神としての威厳など微塵も感じさせない、ただの「守ってあげたくなるような、年相応の美少女」そのものだった
「た、確かに可愛い……!」
さっきまでユメの鋭い観察眼に冷や汗を流していたことなんて、今のセリカの頭からは完全に霧散していた。目の前に立つホシノは、未来で知るあの自称「おじさん」の姿からは到底想像もつかないほど、朝露に濡れた一輪の花のように瑞々しく、直視できないほどに眩しかった
「……認めざるを得ないわね。悔しいけど、これは……文句なしに可愛いわ、先輩!」
セリカの混じり気のない賞賛が、ホシノの羞恥心にさらなる追い打ちをかける。ホシノはさらに顔を赤くし、逃げ場を探すようにぷいっと横を向いた
「は、恥ずかしいので……! そんなにマジマジと見ないでください……!」
潤んだ瞳で必死に訴えかけるホシノの姿を、二人のプロデューサーは心ゆくまで堪能した。やがてセリカは、やり遂げたという満足感と、自らのセンスへの対抗心を瞳に宿し、腕を組んで問いかける
「……それで。結局、どっちが気に入ったの?」
一方は、セリカが選んだ「アビドスの日常に即し、ホルスとしての凛々しさを活かした」機能美溢れるセットアップ
もう一方は、ユメが選んだ「戦うことを忘れ、ただ一人の女の子としての魅力」を最大限に引き出した、夢のようなワンピース
ホシノは大きな三面鏡に映る自分を、まるで未知の生物か、あるいは自分ではない誰かを見つめるような困惑した視線で凝視する。やがて、観念したように重たい溜息を吐き出し、消え入りそうな小さな声を絞り出した
「……気に入ったのは、セリカですよ」
「そんなー……! ホシノちゃんに絶対似合うと思ったのに、私のセンスはお呼びじゃなかったかなぁ……。渾身の一着だったんだけどな、あはは……」
自身の最高傑作を否定された形のユメは、目に見えてしょんぼりと肩を落としてしまう。そのあまりの落ち込みようと、今にも泣き出しそうな背中に、ホシノは慌てて、けれどぶっきらぼうに言葉を継ぎ足した
「……っ、誰もユメ先輩の服が気に入ってないとは言ってませんよ! ただ、その、私には過剰に……心臓に悪いというか、恥ずかしすぎるだけで。アビドスの生徒会長代理が、こんなに無防備な格好で外を歩くなんて、戦略的にも倫理的にも問題があると言いたいんです」
ホルスは真っ赤になった顔をさらに背け、消え入りそうな声で、けれど決然と言い放つ
「動きやすくて恥ずかしくないのはセリカですが……先輩のも、私には心臓が止まるくらい恥ずかしいのですが……。でも、先輩が真面目に私のことを考えて選んでくれたのは、ちゃんと伝わりました。……なので、2つとも買おうと思います」
「ほ、ホシノちゃん……っ!」
ユメの瞳が感動の涙で潤み、今にもホシノに飛びかからんばかりの勢いで身を乗り出す。その横で、セリカもまた、未来のホシノが決して見せることのなかった、不器用で真っ直ぐな「素直な甘え」に、胸の奥が熱くなるのを感じていた
「もー、本当に素直じゃないんだから……。最初からそう言えばいいじゃない、このツンデレ!」
「うへぇ……。セリカほどツンデレじゃないですよ、私は。あ、また『先輩』って言いましたね」
「なんですって!? 私はツンデレじゃないわよ、ただの常識人よ! 呼び方は……今はこれでいいの!」
三人の賑やかな笑い声が、高級感漂うブティックの店内に響き渡る
結局、セリカの血と汗の初給料と、ユメがコツコツ貯めていた「お宝発掘基金」という名のヘソクリ、そしてホシノの「備蓄用資金」から少しだけ捻出した予算で、二着の服は大切に、誇らしげな重みを伴って紙袋へと収められた
トリニティの華やかな喧騒を離れ、砂塵の舞うアビドスの静寂へと戻ってきた頃には、空は深い群青色に染まり、一番星が砂漠の地平線の上で白く輝き始めていた
「じゃあね、ホシノちゃん! 明日、その服着て生徒会室に来てくれてもいいんだよー! 楽しみにしてるからね!」
「ホシノ先輩、また明日ね! ちゃんとハンガーにかけるのよ!」
「……絶対に着ませんからね。おやすみなさい、ユメ先輩、セリカ」
校門の前で二人に手を振り、ホシノは両手に提げた紙袋の重みを確かめるようにして、一人、静かな学生寮への道を歩き出す
足元で鳴る砂の音さえ、今日はどこか軽やかだった
自室に戻り、パチリと明かりを点ける
冷淡な蛍光灯の光に照らし出されたのは、あまりに殺風景な「戦士の休息所」だった。壁際で鈍い光を放つ手入れの行き届いた重火器、机に積み上げられた難解な戦術本とアビドスの防衛マップ。クローゼットに並ぶのは、寸分違わず整えられた数着の予備の制服だけ。その無機質な空間の真ん中に、今日という一日の鮮やかな余韻を閉じ込めたショップバッグが置かれた
ホシノはバッグから、丁寧に薄紙で包装された二着の服を、壊れ物を扱うような手つきで取り出す
「……ったく。何やってるんですかね、私は」
呆れたような独り言をこぼしながらも、その指先は驚くほど慎重に、生地の感触を確かめるように動く
セリカが「アンタの脚のラインを隠すのは罪なのよ!」と頬を膨らませて熱弁し、機能性と凛々しさを追求して選んでくれたセットアップ。それは、戦う自分を肯定しながらも、少女としての輝きをそっと添えてくれた、後輩なりの不器用なエールだった
そしてユメが「白い砂浜に咲く花みたいだよぉ!」と、まるで自分のことのように目を輝かせて選んでくれた、純白のオフショルダーワンピース。それは、ホシノ自身がとっくに捨て去ったはずの、ただ愛されるためだけに存在する「無防備な少女」としての時間を、もう一度だけ許してくれる魔法のようだった
ホシノはクローゼットの奥から、使い道のなかった予備のハンガーを引っ張り出す。繊細なレースや柔らかなシフォンを傷めないよう、シワ一つ残さないように細心の注意を払いながら、それらを丁寧に吊るしていく。鉄の匂いと砂の乾燥が支配していた部屋に、微かに、けれど確かな花の香りが漂った
アビドスの「盾」として、自分を殺し、感情を削ぎ落として戦うことだけが彼女の日常だった。可愛いものへの興味は心の奥底に封印し、それを身に纏う自分など、遠い異世界の住人のように思えていたはずだった
けれど、月明かりを浴びて鏡の前に並んだ二着の服を見つめていると、今日、二人に無理やり引きずり回された騒がしい時間の感触が、確かな体温を持って胸の奥に蘇ってくる
「……うへへ」
不意に、ホシノの口元から締まりのない、およそ「暁のホルス」には似つかわしくない笑みが漏れた。戦場で見せる鋭利な眼差しも、後輩を突き放すような冷徹な響きも、この静寂の中にはどこにも存在しない
「……恥ずかしかったけど。……本当に、心臓が止まるかと思うくらい、死ぬほど恥ずかしかったですけど。……でも、楽しかったな」
開け放たれた窓から吹き込んだ夜風が、白いワンピースの裾をふわりと踊らせる。それはまるで、彼女の心が少しだけ自由になった合図のようにも見えた
ホシノはベッドに体を投げ出し、天井を見つめながら、今日一日の情景を色彩豊かに思い返す。セリカの真剣な横顔、ユメの弾けるような笑顔。それらが交差する時間は、砂漠で見つけた、どんな宝石よりも得難い「凪」の時間だった
「たまには……こうやって、のんびり羽を伸ばすのも、悪くないかもですね」
深い安らぎの中で独りごちたホシノの顔には、誰に見せるでもない、穏やかで純粋な「少女」の笑顔が、月光に照らされて静かに浮かんでいた
明日、この服をクローゼットから取り出す自分を想像して、彼女はゆっくりと、心地よい眠りの中へと落ちていく