セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話   作:気弱

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酔っ払いセリカ、大暴走!

ショッピングから一夜明けた、アビドスの朝

 

校門をくぐり、砂塵の舞う廊下を歩いていても、校舎内は不気味なほど静まり返っていた

 

いつもならユメののんびりとした鼻歌や、ホシノが忙しなく靴を響かせる音が聞こえてくるはずなのに、今日に限って人の気配が全くない

(……早すぎたかしら。いくらなんでも、私一人だけっていうのは落ち着かないわね)

 

セリカは手持ち無沙汰に、生徒会室の古びたソファに腰を下ろした

 

ふと静寂が訪れると、昨日の夕暮れ時、トリニティの華やかな街角でユメに投げかけられた言葉が、淀んだ砂のように胸の底へ沈殿していく

 

『なんだか、少しだけ距離を感じちゃうのよね……。同級生っていうよりは、もっと別の……そう、私とホシノちゃんみたいな、明確な上下がある関係に見えちゃう時があって……』

 

『いつかは「ホシノちゃん」って、名前で呼んであげてほしいかな♪』

 

(……距離なんて。取ってるつもりなんてないのに。でも、ユメ先輩にはそう見えるのよね…)

 

思考が迷宮に入り込みそうになったその時、セリカの視界の端に、机の上に置かれた見慣れない小瓶が飛び込んできた

 

それは宝石のように色鮮やかで、中には透き通るような琥珀色の液体が満たされている

 

朝の乾燥した空気のせいで、喉は焼けるように乾いていた。セリカは思考を遮断するように、深く考えずその瓶を手に取る

 

「……綺麗な色。それに、なんだか甘くて美味しそう。喉もカラカラだし、これくらいならいいわよね。きっとユメ先輩かホシノ先輩が買っておいたものだろうけど、後で同じものを買って返せば済む話だし…いいわよね?」

 

セリカは自分に言い聞かせるように呟くと、吸い込まれるように小瓶を傾ける

 

渇いた喉に流し込まれたその液体は、予想に反して驚くほど濃厚な甘みを放ち、直後、胃の腑を直接焦がすような強烈な熱を帯びて全身を駆け抜けた

 

数分後

 

「今日こそは、今日こそは絶対に溜まった書類を終わらせてもらいますからね、ユメ先輩!」

 

「ひぃん……もう、数字を見たくないよぉ……。あ、セリカちゃんおはよ!! 一番乗りだね、感心感心!」

 

扉を開けて現れたのは、いつものように追いかけっこのようなやり取りを繰り広げるホシノとユメだった

 

「………」

 

「あれ?セリカちゃん?」

 

「なんだか様子がおかしいですね」

 

だが、二人が目にしたのは、教室のど真ん中で仁王立ちになり、その顔を熟れた林檎のように真っ赤に染め上げ、肩を激しく上下させているセリカの異様な姿だった

 

「…………ホー、シー、ノー、セ、ン、パ、イ……!!」

 

「!?」

 

地を這うような、それでいて妙に艶っぽい怒声。セリカは獲物を見つけた猛獣のごとき瞬発力で距離を詰めると、戸惑うホシノの両肩をがっしりと掴んで、力任せに前後に揺さぶり始める

 

「わわっ!? ちょ、ちょっと、な、なんですか藪から棒に! 私、何かセリカを怒らせるようなことしましたっけ?!」

 

「うるさいわね! あんたねぇ……普段はあんなにツンケンして『暁のホルス』だなんだって怖い顔してるくせに、たまに……たまに見せるあのギャップは何なのよ!!」

 

「えぇっ!? ギャップ!? 何の話ですか!」

 

「猫を撫でる時のあのデレデレした顔! それに昨日のショッピングの時だってそうよ! あのワンピースを着た瞬間の、あの、消え入りそうな美少女っぷり……! 似合いすぎててムカつくのよ! この、世界一の美少女ぉ!!」

 

「っ~~……!? 褒めてるんですか、貶してるんですか!? あと声が大きいですっ、恥ずかしい!!」

 

ホシノの脳震盪が起きそうなほどの猛烈な揺さぶりと、脈絡のない罵倒(という名の絶賛)の嵐 、セリカの瞳はどこか焦点が合っておらず、その呼吸には微かに、甘い香りが混じっていた

 

「ふ、二人とも仲良くしてぇ……ひぃん、朝からそんなに激しくしないでよぉ……」

 

「ユ、メ、セ、ン、パ、イ、!」

 

ホシノを散々「怒りながら褒めちぎる」という、聞いている方が気恥ずかしくなるような新手の拷問にかけた後、セリカは獲物を切り替える捕食者のような足取りでふらふらと方向転換した

 

次にその濁った、しかし異様に熱を帯びた視線が捉えたのは、隣でオロオロと手をもみ合わせているユメだった

 

「ひぃ!? せ、セリカちゃん……? お顔が、お顔がとっても怖いよぉ……?」

 

後ずさりするユメだったが、セリカの伸びてきた両手から逃れることはできなかった

 

ガシッ、と力強く両肩を固定され、至近距離でセリカの熱い吐息がユメの顔に吹きかかる

 

「ユメ先輩もよ! 先輩は……先輩は、優しすぎるのよ! お人好しも大概にしなさいよね! そんな所も、だいすきだけどぉ……!」

 

烈火のごとき説教が始まるかと思いきや、語尾が甘ったるく蕩け、セリカの動きがピタリと停止した。まるでゼンマイが切れた機械人形のように、一点を見つめたまま固まるセリカ

 

その異様な静寂に、ホシノとユメの背筋に冷たいものが走る

 

「せ、セリカちゃん……? 大丈夫? 息してる?」

 

「セリカ……? もしもし、応答願いますよ……?」

 

二人がおそるおそる顔を覗き込み、その肩に手をかけようとした、その瞬間だった

 

「あはははは! なにこれ、すごーい! 面白ーい!!」

 

突然、セリカが子供のように無邪気な、それでいてどこか壊れたような高笑いを上げ始めた

 

その豹変ぶりに二人が言葉を失うのも束の間、セリカの小さな手が、まるで磁石に吸い寄せられるかのようにユメの豊満な胸元へと伸びる

 

「あはは! 大きいー! 柔らかーい! ユメ先輩、ここにはアビドスの夢と希望がいっぱい詰まってるわねぇ!!」

 

「ひゃうんっ!? セ、セリカちゃん、どこ叩いてるのぉ!? ちょっ、そこは太鼓じゃないよぉーっ!」

 

羞恥に顔を真っ赤に染めたユメが身をよじらせるが、当のセリカは完全にトランス状態だ

 

普段の生真面目な彼女からは想像もつかないほど、その手つきは大胆不敵で、躊躇という言葉を辞書から抹殺したかのような迷いのなさ

 

「……様子がおかしい。いくらなんでも、いつものセリカとは思えないくらい情緒が不安定すぎます。これじゃまるで……ん? セリカがさっきまで居た場所にある、あの転がった小瓶って……まさか!?」

 

ホシノの鋭い眼光が、日光を反射して怪しく光る空っぽの小瓶に釘付けになる。それは数日前、ヘルメット団の拠点から押収してきたばかりの代物だった

 

服用者の理性を木っ端微塵に粉砕し、酔っ払いのようにあらゆる「上戸」の症状を強制的に、かつランダムにループさせるという、悪意の塊のような試作薬。しかもたちが悪いことに見た目だけはジュースにしか見えないというオマケ付き

 

「あ、あれは間違えて飲まないように、厳重に隠していたはずなのに……なんで!? なんであんな場所にあるんですか!」

 

「な、ななな、ナンデダロウネー。不思議だねー……」

 

未だにセリカから執拗なツンツン攻撃を受け続けているユメが、顔を引きつらせ、滝のような汗を流しながら不自然に視線を逸らす

 

その泳ぐ瞳、震える声。ホシノの追及から逃れられるはずもなかった

 

「……そういえば。昨日、私がパトロールに出ている間、事務処理の資料と一緒に机に出してませんでした? 適切に処理をするからって」

 

「(ギクッ)」

 

「その後、私たちが買い物に出かける時……あの薬、どうしましたっけ?」

 

ホシノがジトッとした湿り気のある視線でユメを射抜くと、逃げ場を完全に断たれた悟ったユメは、ついに観念したようにその場に崩れ落ち、頭の上で両手を合わせた

 

「ご、ごめんホシノちゃん! 昨日、出しっぱなしのまま買い物に行っちゃった……! 帰ってきてからも、ホシノちゃんの可愛い格好が頭から離れなくて、片付けるの完全に忘れてたのぉ!」

 

「ごめんじゃ済みませんよ!? 見てくださいよ、今のセリカを! 確実に一生モノの黒歴史になるレベルでおかしくなってるじゃないですか! 後で正気に戻ったとき、あの子がどんな顔をするか想像しただけで、こっちまで胃が痛くなりますよ!」

 

「ひぃん!! だって、セリカちゃんがあれをジュースだと思って一気飲みするなんて思わなかったんだもん!!」

 

「見た目だけはジュースなんですから間違えますよね!?」

 

ホシノにこっぴどく叱られ、涙目になって縮こまるユメ。しかし、当の被害者であるセリカの異変は、まだ終わる気配を見せない。先ほどまでユメをツンツンと触り倒していたセリカだったが、不意に、何かに打たれたかのようにその動きがピタッと止まる

 

静寂

 

嵐の前の静けさのような、不気味な沈黙が教室を支配する

 

「……セリカちゃん? 落ち着いた……?」

 

ユメが恐る恐る声をかける。だが、セリカの瞳には先ほどよりもさらに深い、陶酔したような熱が宿っていた

 

「……あ、暑い…………なんだか、すごく体が熱いのよ…………!!」

 

「ちょ、セリカ!? 何を――」

 

ホシノの制止も虚しく、セリカはその細い指を自らの制服の襟元にかけた。乱暴な手つきでネクタイをむしり取ると、そのままシャツのボタンへと手が伸びる

 

「こんな窮屈な服、もう脱ぎ捨ててやるわよ! 自由よ! 私は自由になるのよぉぉ!!」

 

「あわわわわ! ストップ! ストップですセリカ! 脱ぎ上戸!? 今度は脱ぎ上戸なんですか!? ユメ先輩、ボサッとしてないで手伝ってください! アビドスの風紀が、セリカの尊厳と一緒に死んじゃいますよ!!」

 

二人の必死の制止も虚しく、セリカは苛立った様子でシャツの第一ボタン、第二ボタンへと容赦なく指をかける

 

露わになりかける白い肌と鎖骨のラインに、流石に「やばい」と本能で察した二人は、色んな意味で限界を突破したセリカの両腕を必死に抑え込んだ

 

「はー、なー、しー、てー!!」

 

「ぐっ……ち、力が強すぎる……! 薬のせいで脳の筋力リミッターまで外れてるんですか!? このままじゃ加減が出来なくてセリカの腕がへし折れますよ!」

 

「ほ、ホシノちゃん……ごめん、もう腕の感覚が……限界……っ!」

 

「ユメ先輩!? しっかりしてください、ここで手を離したらセリカの尊厳が失われますよ!」

 

ユメが力尽きようとしたその瞬間、唐突にセリカの全身からふっと力が抜けた

 

緊張の糸が切れたように、ガクリと膝をつくセリカ。とりあえず「脱衣」の暴走を食い止めることに成功した二人は、肺にある空気をすべて出し切るような深い安らぎの溜息を吐いた

 

「た、助かったー…」

 

だが、安堵したのも束の間

 

拘束を解かれたセリカは、幽霊のような緩慢な動きでゆらりと起き上がると、今度は至近距離にいたユメを全力で押し倒した

 

「ふぎゃっ!? な、なにぃ!?」

 

「ユメ先輩!?」

 

床に背中を打ちつけ、目を丸くして驚愕するユメ

 

その上に跨るようにして、ゆっくりと顔を近づけてくるセリカの表情を見た瞬間、ユメの顔からサーッと血の気が引いていった

 

「……えへへ。……ユメ先輩。……かわいい。すっごく、かわいいわねぇ……」

 

「ひぃぃ!? セ、セリカちゃん!? その顔、その距離、それ完全にキスの体勢だよね!? ダメだよぉ、私まだそういうの初めてなんだからぁーっ!」

 

とろんと濁った瞳に、妖艶ですらある熱を宿したセリカ

 

彼女はユメの両肩を床に縫い付けるように押さえつけたまま、獲物を愛でる蛇のような手つきで、震えるユメの唇にゆっくりと、けれど確実に自分の顔を寄せていく

 

「……はっ!?……せ、セリカ!? 流石にそれはダメ、ダメだから! 止めて、ストップ!!」

 

目の前で繰り広げられる「同性同士の接吻未遂」というあまりに刺激的な光景に、耐性のないホシノは顔を耳まで真っ赤にして一時フリーズしていたが、弾かれたように再起動してセリカの肩を掴みにかかった

 

しかし、その瞬間

 

「いたっ!?」

 

ユメを組み伏せていたセリカの力がふっと抜け、獲物を切り替える野性の獣のような鋭さで、ターゲットがホシノへと固定された

 

不意を突かれ、突き飛ばされる形で尻もちをついたホシノだったが、直後に全身を駆け抜けるような戦慄を覚える

 

目の前で、セリカがじろりとホシノを見下ろし、その桃色の唇をゆっくりと舌先でなぞったのだ

 

「ひぃっ!? な、なんですかその肉食獣みたいな目は……!」

 

最強の守護神としての威厳はどこへやら、ホシノは完全に腰を抜かし、無様に後ずさりする。だが、無情にも背中はすぐに冷たい壁へとぶつかり、退路は完全に断たれた

 

「……ホシノ先輩。……その唇、すっごく綺麗。……ねぇ、少しだけ、味見させてくれない……?」

 

「せ、セリカ……! 私、私だってまだそういう『初めて』をこんな事故みたいな形で消費したくないんですよ! ゆ、許してください、頼みますから……!」

 

「やーだー……。逃がさないわよ……」

 

問答無用とばかりに、セリカの細い指がホシノの華奢な肩を壁に縫い付ける。小刻みに身体を震わせ、恐怖と羞恥で涙目になるホシノ

 

その視界を塞ぐように、セリカの顔が、甘い熱気を帯びた吐息と共にゆっくりと迫ってくる

 

(あ、終わった……。私のアビドスでの威厳も、乙女の純潔も、全部ここで砂に還るんだ……!)

 

ホシノは絶望に瞳を閉じ、来るべき衝撃に備えて身を固くした

 

……しかし。

 

一秒、二秒と過ぎても、唇に柔らかな感触が訪れることはなかった。その代わりに、ずっしりとした心地よい重みが、右肩のあたりに伝わってくる

 

おそるおそるホシノが目を開けると、そこには、自分の肩にちょこんと顎を乗せ、満足げに目を細めているセリカの顔があった

 

「えへへ……。ホシノ先輩、あったかい……。この温かさ……すごく、落ち着く……。だいすき……」

 

「……え? あ、れ……?」

 

「よ、良かったねぇホシノちゃん! どうやら『甘え上戸』に切り替わったみたいだよ。一時はどうなることかと思ったけど……」

 

ユメが床にへたり込んだまま、安堵の溜息と共に胸を撫で下ろした。しかし、壁際に追い詰められたままのホシノは、未だに肩口へ伝わってくるセリカの体温と、耳朶をくすぐる吐息に翻弄され、心臓が爆発しそうなほど早鐘を打つのを感じていた

 

(危なかった……。確かに、全く知らない誰かにあげるよりかは、セリカにあげる方が幾分かマシではありますけど……。それでも、それには心の準備というものが必要ですから……!)

 

ホシノは顔を真っ赤にしたまま、脳内で誰に対してともつかない必死の言い訳を繰り返す。もしあと一秒、セリカの理性が「甘え」にスライドしていなければ、アビドスの静寂は別の意味での悲鳴に包まれていたはずだ

 

「あっ、見てホシノちゃん。セリカちゃん、嵐が去ったみたいに寝ちゃったよ」

 

ユメが膝をついたまま、愛おしそうにセリカを指差す

 

ホシノが己の不整脈と格闘するのをやめて耳を澄ませると、先ほどまで熱い言葉を紡いでいた唇からは、「すぅ……すぅ……」という、幼い子供のような規則正しい寝息が漏れ聞こえてきた

 

「……はぁ。今日はもう、書類整理どころの騒ぎじゃありませんね。朝から寿命が数年分は縮まりましたよ」

 

「そうだねぇ……。セリカちゃんの意外な一面が見られて嬉しいはずなのに、精神的な疲れが大きすぎて、もう私も一緒に隣で寝たいよ……」

 

ユメが力なく笑いながら床に突っ伏そうとする。ホシノは肩の荷(物理的にも精神的にも)を下ろしつつ、呆れたように先輩を見下ろした

 

「眠るならソファで我慢してください。悲しいかな、うちの学校にはベッドが保健室にひとつしかないんですから。ユメ先輩が占領したら、セリカが眠る場所が無くなってしまいます」

 

「ひぃん……厳しいなぁ、ホシノちゃんは……」

 

「私はセリカを保健室まで運んで寝かせてきます。ユメ先輩は、この嵐が過ぎ去った後の教室の片付けをお願いしますね。……特に出しっぱなしにした例の小瓶、二度とセリカの目に触れない場所に封印してください」

 

「はーい……。責任を持って、厳重に隠しておくね……」

 

ユメの力も借りて、ぐったりと脱力したセリカを背中に背負い直す

 

普段は誰よりも背筋を伸ばし、アビドスの再興を背負って立つ少女の体は、背中に預けられると驚くほど軽く、そして柔らかかった

 

そのまま静かな廊下を歩き、保健室へと辿り着く

 

ホシノは細心の注意を払い、宝物を扱うような手つきでセリカをベッドへと下ろす。シーツの冷たさに驚いて起きないよう、ゆっくりと、慎重に

 

セリカの乱れた制服の襟元を整え、重みのある布団を胸元まで引き上げる

 

眠りに落ちたセリカの顔は、先ほどの狂乱が嘘のように穏やかで、少しだけ幼く見えた

 

「……やれやれ。笑って、怒って、挙句の果てには私達を押し倒して……。本当に、とんでもない朝でしたよ」

 

ホシノはベッドの傍らに腰を下ろし、深く、重たい溜息を吐き出した。眠りに落ちたセリカを起こさないよう、その声量は羽毛が落ちるほどに絞られている

 

アビドスの静かな保健室。窓の外では風に舞う砂がカサカサと窓ガラスを叩く音だけが響き、室内には微かに、先ほどの騒動の残り香のような甘い薬の匂いが漂っていた

 

「……そういえば。喜怒哀楽をループさせる薬だなんて言ってましたけど、有名な『泣き上戸』だけは出ませんでしたね。あんなに真っ直ぐで強気な子ですから、悲しみなんて砂漠の彼方に置いてきたんでしょうか」

 

ホシノは、まるで戦場での警戒を解くように、ふっと肩の力を抜いた。そして、無防備にシーツに沈んでいるセリカの寝顔を、吸い込まれるように覗き込む

 

その時だった

 

セリカの長い睫毛が、何かに怯えるように微かに震えた

 

固く結ばれていたはずの目蓋の端から、一筋の透明な雫が溢れ出し、彼女の火照った頬を伝って枕へと吸い込まれていく

 

「……えっ? もしかして今、泣き上戸……? でも、寝ている時まで薬の効果が続くなんて、そんな……」

 

ホシノは狼狽した。怒鳴られようが、押し倒されようが、冗談で返せる余裕があった。だが、鉄の意志を持つセリカが流す「涙」だけは、彼女の想定外だったのだ

 

慌てて制服のポケットからハンカチを取り出そうと、ホシノが身を乗り出した、その時

 

「……会いたい……よ…………」

 

心臓の鼓動が止まるかと思うほど、細く、震える声がセリカの唇から零れた

 

「……セリカ?」

 

呼びかけるホシノの声も、思わず震える

 

それは、現実の重みに耐えかねて、魂の底から漏れ出したような切実な響き

 

今ここで、目の前で眠っているはずの彼女が、ここではない「どこか」へ向けて、狂おしいほどの情熱と絶望を込めて放った言葉だった

 

「……シロコ……先輩……。ノノミ……先輩…………アヤネちゃん……」

 

ハンカチを握りしめたホシノの手が、凍りついたように止まった

 

聞いたこともない名前

 

けれど、セリカが魂を削り取るような切実さと、狂おしいほどの愛着を込めて紡ぎ出したその響き。それらは知らないはずの名前なのに、なぜかホシノの胸の奥を、冷たい風が吹き抜けるような喪失感で満たしていく

 

「…………っ……ホシノ……先輩……」

 

最後に、震える唇から自分の名前がこぼれ落ちた瞬間、ホシノは短く息を呑んだ

 

目の前で眠り、さっきまで自分に甘えていたはずの少女。それなのに、なぜ彼女はこれほどまでに「遠い過去の遺物」や「二度と会えない誰か」を呼ぶような、絶望的な哀しみを込めて自分の名を呼ぶのか

 

(……シロコ? ノノミ? アヤネ? ……誰ですか、それは。アビドスには、私たち三人しかいないはずなのに……。それに、私は今ここに居て、あなたの手を握っているはずなのに……)

 

問いかけても、闇に溶けゆく砂嵐のような静寂が返ってくるだけだった。セリカの頬を伝う涙は止まることを知らず、シーツを握りしめる彼女の小さな肩は、目に見えて激しく震えている

 

「…………」

 

ホシノはそれ以上何も聞かず、ただ静かに、壊れ物を扱うような手つきでセリカの頭を撫でた。指先から伝わってくる髪の柔らかさと、薬のせいで少し高い彼女の体温。その確かな「生」の感触だけが、今のホシノにとって唯一の正解だった

 

「……理由は分かりませんが。……私はここに居ますよ、セリカ」

 

祈るようなその言葉が、深い眠りの底まで届いたのだろうか。激しかったセリカの呼吸は次第に整い、やがて平穏な、安らかな寝息へと変わっていった

 

ホシノは、涙の跡が残るセリカの横顔をじっと見つめる

 

「あなたはもう……紛れもなく、私達の大切な仲間なんです。だから……」

 

ホシノは自嘲気味に、けれど慈しむように小さく微笑んだ

 

「いつかはその……シロコ先輩たちの話も、私に聞かせてくださいね?」

 

窓の外では、今日も変わらずアビドスの砂が音を立てて舞っている

 

けれど、この日を境に、ホシノの胸の中には、セリカが隠し持っている「語られない物語」への、静かで深い決意が刻まれることとなった




SS書く時、お酒系のはっちゃけはスラスラ書けるの不思議ですよね

少し読みやすく書き換えてみました!どうでしょうか?
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