セリカがタイムスリップして1年生のホシノと同級生になる話 作:気弱
夕暮れ時、茜色に染まり始めたアビドス商店街。特売のネギや厚揚げを詰め込み、ずっしりと重くなった買い物袋を提げたセリカの指先に、一枚の小さな紙切れが残っていた
レジでの精算時、おまけのように手渡された何の変哲もない福引券だ
「あ、福引券……。そういえば、街頭で大売り出しのキャンペーンをやってたわね」
ビニール袋の持ち手が食い込む腕を少しだけ持ち上げ、セリカは自嘲気味に息を吐く。かつては繁栄を極めたこの街も、今やシャッターを下ろした店が目立つ
そんな寂れた通りに響くガラポンの景気のいい音さえ、今の彼女にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた
「どうせ私、こういうのは昔から運がないから当たらないのよね。……まあ、アビドスの備品として予備のポケットティッシュでも貰えるなら、それはそれで助かるわよね」
期待という言葉をあらかじめ心から締め出したような、淡々とした足取り。彼女は商店街の中央広場、特設テントが設営されたガラポン会場へと向かう
会場には近所の人々が数人並んでおり、セリカは最後尾に静かに並んだ
待っている間、手持ち無沙汰に使い古された掲示板の景品一覧を眺めていると、色褪せた色画用紙に書かれた一つの文字が、吸い寄せられるように目に飛び込んでくる
『2等:近海アクアリウム無料招待券』
(……水族館。そういえば、未来のホシノ先輩は、魚の話をするときの瞳が、いつも少年のようにキラキラしていたわよね)
不意に脳裏を掠めるのは、砂漠の夜空の下で、深海の神秘を語っていた未来の仲間の横顔。今はまだ、そんな穏やかな饒舌さを知らないはずのこの時代の彼女
(ってことは、この時代のホシノちゃんも、もし本物の水族館のチケットが当たったりしたら……それこそ、この砂漠の暑さを忘れるくらい、飛び上がって喜びそうね)
自分のためではなく、大切な「友達」の笑顔を思い浮かべた瞬間、セリカの手の中で、安っぽい紙切れに過ぎなかった福引券が、まるで未来を占う栞のように特別な重みを帯び始める
「はい、次のお嬢ちゃん。券を預かるよ!」
使い古された法被を羽織った店主の、ひび割れた、けれど威勢のいい声に促され、セリカは吸い込まれるように受付の台へと進み出た。無造作に、けれどどこか祈るような手つきで、指先に挟んだ券を差し出す
「お願いします。……せめて、誰かが喜んでくれるような、いいものが出ますように」
小さな、けれど切実な願いを指先に込めて、年季の入った木製のガラポンをゆっくりと回し始めた
ゴロゴロ、カラカラと、箱の中で木の玉たちがぶつかり合う乾いた音が、静かな広場に妙に大きく響き渡る。一回転、二回転……。重力に導かれるようにして、排出口から一粒の玉がポロリとこぼれ落ちる
それは、夕闇の迫る街中で一際鮮烈に主張する、燃えるような赤い玉
「――おぉっ!? 出た、出たぁぁ! 大当たりだ、お嬢ちゃん!!」
カラン、カラン、カランッ!!
店主が身を乗り出し、喉を震わせて叫ぶと同時に、金色のハンドベルが狂ったように打ち鳴らされた。静かだった広場に、突如として耳を劈くような祝福の音色が降り注ぐ
「2等だ! 最近オープンしたばかりの、あの水族館の無料招待チケットだよ! いやぁ、こいつは驚いた。今日は最高にツイてるねぇ、お嬢ちゃん!」
「えっ……うそ、当たった!? 嘘でしょ、私、人生でこういうの当たったのなんて一度もなかったのに……っ!」
信じられないという思いで、セリカは赤い瞳を限界まで見開いた。差し出されたのは、金文字のロゴが刻印された上品な厚手の封筒
その中に納められたチケットは、確かに「青い世界」への招待状だった。
「……やったぁ。本当に当たっちゃった……」
受け取った封筒の感触を確かめるように、そっと指でなぞる。自分の幸運に戸惑いながらも、胸の奥からは止めどない高揚感がせり上がってきた
「これ、明日ホシノちゃんたちに見せたら、なんて言うかしら。きっと、2人の驚いた顔が見られるわよね…♪」
夕暮れ時の商店街、家路を急ぐ人々の間を縫うようにして、セリカは駆け出す。手の中の小さな幸運を、壊れ物を扱うように大切に胸元で抱きしめて
買い物袋の重ささえ、今はもう感じない。明日、大好きな仲間たちと共有するはずの輝かしい時間の予感に背中を押され、彼女の足取りはいつになく軽やかに、茜色の街を鮮やかに駆けていった
翌朝、アビドスの静まり返った廊下に、軽快なリズムを刻むセリカの足音が響き渡る。その足取りは、いつもの厳しい財政状況を憂う重々しいものではなく、春の訪れを告げる風のように軽やかだった
生徒会室の扉を、抑えきれない高揚感のままに勢いよく押し開ける
「おはよう! 二人とも、今日は最高の朝ね!」
室内には、既に登校していたユメがおっとりとした動作でお茶を淹れており、セリカの尋常ではないテンションに驚いたようにパチクリと目をしばたたかせた
「おはよう、セリカちゃん! なんだか今日は朝からすごくご機嫌だねぇ。何かいい事でもあった?」
ユメが柔らかな笑みを浮かべて小首を傾げ、吸い寄せられるように近寄ってくる
「ふふふ……二人とも、驚かないで聞きなさい! 私のこの『実力』を、その目に焼き付けるがいいわ!」
セリカは勿体ぶった動作で、宝物を扱うように鞄のジッパーをゆっくりと開ける。中から取り出したのは、昨夜から何度も確認しては胸を躍らせた、あの封筒だ
指先で滑り出させた色鮮やかな招待券を、勝利の女神さながらに二人の目の前へ掲げて見せる
「えええっ!? 水族館の招待券!? 凄ーい、セリカちゃん、これどうしたの!? 」
ユメが少女のように瞳を輝かせ、身を乗り出してチケットを凝視する。一方で、その輝かしい招待券を一瞥したホシノの表情は、一瞬にして極北の氷山のように冷え切った
「…………セリカ。今すぐ、その汚い紙キレを掴ませた詐欺師の居場所を吐いてください。安心してください、アビドスの平和のために、私があの世の手前まで引導を渡してきますから。ね?」
「ちょっと、ホシノちゃん!? 物騒なこと言わないでよ!」
「セリカちゃん……また騙されたの……? 私が言えることじゃないけど……もう少し、人を疑うことを覚えたほうが……」
ユメまでもが、過去のセリカの苦い経験を思い出したのか、庇うような、それでいて深い同情を込めた眼差しを向けてくる
「違うわよ! なんで真っ先に詐欺を疑うのよ! これは昨日、商店街の福引会場で、正真正銘、私の右手が引き当てた2等賞! インチキ抜きの、本物の水族館行きチケットよ!」
セリカが顔を真っ赤にして必死に弁明すると、チケットの透かしや公式の印章を確認したユメが、パッと花が咲いたような表情を見せた
「セリカちゃん凄ーい! 本当に本物だぁ! 2等なんて、とんでもない豪運だねぇ。セリカちゃんには、今きっと福の神様がついてるんだよ!」
ユメの無邪気な称賛に鼻を高くするセリカだったが、ふと、肝心の人物の反応がないことに気づく
一番に喜んでほしかった、水族館を誰よりも愛するはずのホシノが、何も言わずに深く俯いていた
長い前髪がカーテンのようにその瞳を隠し、表情を読み取ることができない。握りしめられたホシノの拳が、微かに、けれど確かに震えているのをセリカは見逃さなかった
(あ、あれ……? 未来のホシノ先輩なら、これを見ただけで踊り出しそうなくらい大喜びするはずなのに。もしかして、この時代のホシノちゃんは、まだ水族館にそれほど興味がない……とか?)
予想だにしない重苦しい沈黙。期待が大きかった分だけ、セリカの胸には急速に不安が広がっていく
自分の早とちりだったのか、それとも何か触れてはいけない地雷を踏んでしまったのか。
「ほ、ホシノちゃん……? 大丈夫? どこか気分でも悪いの……?」
隣でユメがおずおずと、壊れ物を扱うような手つきで心配そうに声をかける
「…………っ!!」
次の瞬間、セリカの視界から世界が消えた
いや、消えたのはホシノの姿だ。残像すら網膜に残さない、目にも留まらぬ超高速の踏み込み。アビドスの守護神としての身体能力が、歓喜という名のガソリンによって爆発的に引き出される。驚愕する暇もなく、セリカの鼻先数センチの距離に、ホシノの顔が文字通り「出現」していた
「セリカ!!」
「ひゃいっ!?」
裏返った変な声が出る。ホシノはセリカの両手を、運命の糸でも手繰り寄せるかのような力強い握力でギュッと掴んだ。華奢な指先からは、普段の「クールな姿」からは想像もつかないほど尋常ではない熱量がダイレクトに伝わってくる
至近距離で捉えたホシノの瞳。それは、この過去の世界に飛ばされてきてから一度も見たことがないほど、眩いばかりの光を宿して爛々と輝いていた。
まるで、銀河中の星々をすべて一対の眼球に凝縮したかのような、圧倒的な期待と純粋な熱狂
「今日! 今すぐ行きましょう、セリカ!! 書類なんて後回しです、一刻の猶予もありません!」
「ほ、ホシノちゃん……。お魚さんが大好きなのは知ってたつもりだけど、そこまで……?」
かつてない後輩の豹変ぶりに、ユメは引き気味に目を丸くして、たじたじと一歩後ずさる。しかし、火がついたホシノの猛進は誰にも止められない
「何を言ってるんですか、ユメ先輩! あそこは最近オープンしたばかりで、世界中の珍しい深海魚から、巨大なクジラまでいるって噂の、今もっとも熱い水族館なんですよ!? ずっと、ずっとずっと、夢に見るほど行きたかったんです! でも、今のアビドスの家計にそんな贅沢をする余裕なんて一ミリもないし、私は一生、図鑑の絵で我慢するんだって諦めてたんです! それがタダで行けるなんて聞いて、喜ばないわけがないじゃないですか!」
ホシノはセリカの手をがっしりとホールドしたまま、まるで故障した機械のようにブンブンと激しく上下に振り回し始めた
その細い腕からは到底信じられないような、重戦車並みの怪力がセリカの全身を揺さぶる
「ほ、ホシノちゃん……っ! 脳震盪起こす! 力が強すぎるわよおぉぉぉ!!?」
「さあ! 決まりです、善は急げ、幸運は前髪で掴め! 今すぐ出発ですよ!」
目を回し、白目を剥き始めたセリカを気にする素振りすら見せず、ホシノはパッと手を離すと、電光石火の動きで自分とユメの鞄をひったくるように掴み取った
そのまま、呆然と立ち尽くすユメの胸元に鞄をラグビーボールのように押し付け、有無を言わさぬ軍隊のような足取りで出口へと突進していく
「えええっ!? ちょっと待ってよホシノちゃん! 今日こそは、溜まりに溜まった書類を全部片付けるって、あんなに凛々しい顔で宣言してたよね!? あの覚悟は何だったのー!?」
必死に背中に向かって叫ぶユメだったが、振り返ったホシノの表情は、もはや最高潮の興奮によって陶酔しきっており、常識的な声など届くはずもなかった
「何言ってるんですか、先輩! 『鉄は熱いうちに打て、水族館は早いうちに行け』って、古事記の裏表紙にも書いてあります! 今この瞬間を逃したら、私は一生後悔して、枕を涙で濡らしながら砂漠を徘徊することになりますよ!」
「そんなことわざも記述も絶対にないわよ!? 待って、わかったから! ちゃんと自分の足で歩くから、襟を引っ張らないでえぇ!」
「ひぃん! ホシノちゃん、首が、首の根っこが苦しいよぉ……!」
もはや言葉による説得は無意味だった。ホシノは二人の制服の襟首を左右の手で鷲掴みにすると、まるで獲物を仕留めた大型肉食獣のような、あるいは逃げ出す子猫を回収する親猫のような格好で、二人を物理的に引きずりながら校舎の外へと連れ出した
アビドスの静かな校庭に、二人の悲鳴と、ホシノの鼻歌だけが虚しく響き渡っていった
校舎から水族館までの道のりは、まさに怒涛の行軍だった。荒れ狂う嵐のようだったホシノの興奮はようやく凪ぎ、彼女は少しずつ、いつもの脱力した雰囲気を装った冷静さを取り戻し始めている
しかし、それとは対照的なのが連行された二人だ。セリカとユメは、魂が口から半分抜けかけたような虚脱状態で、互いの肩を支え合いながらフラフラと立っていた
「……着きましたね。ふふ、ふふふふ。私の執念、ここに結実です……」
「ホシノちゃん……喜びすぎて、顔が笑ってないわよ。獲物を狙う目になってるわ……」
「ホシノちゃん早いよぉ……。アビドスの防衛戦でも、あんなに本気で動いたことないんじゃないかなぁ……」
入口に掲げられた、今にも動き出しそうなほど精巧なジンベエザメの巨大オブジェ。それを見上げるホシノの横顔は、もはや恍惚を通り越して、ある種の覚悟を秘めた者のそれであった
背後でセリカとユメが、ようやく「地面が動いていない」という平和な事実に安堵していることなど、彼女の意識の端にもかかっていないようだった
水族館の重厚なエントランスをくぐり抜けた瞬間、空気の質が劇的に変わった
肌を刺す砂漠の熱気も、耳障りな乾いた風の音も、分厚い壁の向こうへと遮断される。そこに広がっていたのは、深い、深い、濃密な青に満たされた別世界だ。
三人の視界を最初に奪ったのは、ロビーの中央で天井まで届くほど巨大な円柱水槽だった。透過率の高いガラスの向こう側、太陽光を模した柔らかなライトに照らされ、極彩色の熱帯魚たちが光の粒のように乱舞していた
その圧倒的な「生命の輝き」を前に、セリカは吸い込まれるように足を止め、無意識に感嘆の吐息を漏らした
「すごい……。私、こういう所に来るのって『初めて』だわ! 本物の海の中って、こんなに、こんなに綺麗なのね……」
これまで砂塵に巻かれたアビドスの、乾いた空ばかりを見上げてきたセリカ。彼女にとって、目の前に広がる潤いに満ちた風景は、まるで現実感を伴わない夢幻の出来事のように思えた
キラキラと琥珀色の瞳を輝かせる彼女の横で、ユメも「本当だねぇ、まるで宝箱をひっくり返して、宝石を泳がせてるみたいだよぉ」とおっとりと、けれど深く感動したように微笑む
「ねぇ、ホシノちゃん、見て見て! あっちでぷかぷか浮いてる、あの大きな魚……なんだか、のんびりした雰囲気がユメ先輩にそっくりじゃない?」
セリカが弾んだ声で指差したのは、巨大な水槽の片隅で、独特の平べったい体躯を揺らしながら、どこか超越したような、あるいは何も考えていないような絶妙な表情で漂うマンボウだった
「ええっ、セリカちゃん。私って、あんなにマイペースで平べったく見えるかなぁ?」
ユメは頬を少しだけ桃色に染めて苦笑する
その柔和な空気感は、確かにマンボウが放つ独特の「癒やし」の波動と不思議なほどシンクロしていた。セリカの無邪気な笑い声が、水の揺らぎに共鳴するように、静かな館内へと溶け込んでいく
しかし、そんな二人の賑やかなやり取りも、今のホシノの耳には届いていなかった
彼女は磁石に吸い寄せられる鉄屑のように水槽へと歩み寄り、冷たいガラスにぴったりと吸い付いている。その琥珀色の瞳には、ゆらゆらと揺れる水面の屈折と、優雅に舞う魚たちの影が、万華鏡のように鮮やかに映り込んでいた
しばらくマンボウの気の抜けた泳ぎを食い入るように追いかけ、そのヒレの動きひとつ、瞬きのひとつまで心の隅々まで焼き付けたホシノは、ようやく満足げな、深いため息を漏らす
だが、彼女の情熱はまだ、広大な海の入り口に過ぎなかった
「ふふ……ふふふ。マンボウさんの『無』の境地も格別ですが……本番はここからです。次はあっちです! ペンギンさんたちが首を長くして待っていますよ!」
「わわっ!? ちょっと、ホシノちゃん、引っ張らないで!」
「あはは、今日のホシノちゃんは、なんだか初めて遠足に来た小さな子供みたいだねぇ」
左右の手でセリカとユメの腕を強引に引き、ホシノは迷いのない足取りで次なる目的地へと突き進む
引っ張られるユメは楽しげに目を細め、セリカは「もー! そんなに急がなくたって、ペンギンは足が遅いんだから逃げたりしないわよ!」と呆れ顔で抗議する。けれど、セリカの足取りもまた、ホシノの弾けるような喜びに当てられて、どこか軽やかに弾んでいた。
ペンギンコーナーに到着すると、そこはまさに「奇跡のタイミング」だった
「皆様、お待たせいたしました! ペンギンたちのお散歩タイムです!」
飼育員の明るい声と共に、岩場の奥から小さな隊列が姿を現す。運良く三人の目の前を、ペンギンたちがヨチヨチと行進するパレードが始まろうとしていた
手の届きそうな距離を、短い足を精一杯動かして通り過ぎる、タキシードを着たような愛らしい紳士たち
一羽が石につまずいて前のめりになれば、後ろのペンギンが不思議そうに首を傾げる。その一挙手一投足に、観客からは黄色い歓声が上がった
「……っ! 来ました、本物です。見てください、あの完璧なフォルム……あの翼の角度……ッ!」
ホシノは声を震わせ、小さな拳を胸の前で固く握りしめて興奮を露わにする
一羽のペンギンがホシノの目の前で立ち止まり、「パァ」と翼を広げて小さく鳴いた瞬間、彼女のボルテージは最高潮に達した
「セリカ、ユメ先輩! 見ましたか今の!? 私と、私と目が合って……今、確かに私に挨拶してくれましたよ!?」
普段のどこか達観した、アビドスを背負う「守護神」としての仮面は、今この瞬間、完全に剥がれ落ちていた
そこにはただ、純粋に世界を慈しみ、小さな生命の躍動に心を震わせる一人の少女の姿があった。
「はいはい、見てたわよ。良かったわね、ホシノちゃん」
セリカは呆れつつも、見たこともないほど相好を崩したホシノの笑顔に、胸の奥が温かくなるのを感じていた
「本当だねぇ。ホシノちゃんがそんなに喜んでくれるなら、無理やり連れてこられて正解だったかなぁ」
「な、撫でるのはやめてください!…あ!また違うペンギンさんが来ましたよ!」
ユメが優しく微笑み、ペンギンを見つめるホシノの頭をそっと撫でる。ホシノはその手さえも振り払わず、行進していくペンギンの後ろ姿を、まるで宝物を見送るような眼差しでいつまでも追い続けていた
賑やかなパレードの余韻を背に、三人は吸い込まれるように「深海・静寂の回廊」へと足を踏み入れた
そこは、先ほどまでの喧騒が嘘のように、厚い水の壁に音を遮断された、永遠の夜が支配する領域だった
照明は極限まで絞られ、深い紺碧の闇が通路を包み込んでいる。その中で、一際異彩を放っていたのは、円形の巨大なアクリル越しに広がるクラゲの群れだった
彼らは自ら淡い、乳白色や藤色の燐光を放ち、重力という概念を置き去りにしたかのように、緩やかに、そして一定のリズムで傘を拍動させて漂っている。それはまるで、深海の底で呼吸を繰り返す巨大な生き物の鼓動のようでもあり、あるいは宇宙の深淵を彷徨う星屑のようでもあった。
その幽玄な光景を前に、三人はいつしか語らうことを忘れ、まるで自分たちもまた深い海の底へとゆっくり沈んでいくような、奇妙な浮遊感の中で立ち尽くした
「……綺麗。なんだか、夜空の星がそのまま海の中にこぼれ落ちて、自由に泳いでるみたいだねぇ」
ユメが、祈りにも似た静かな声で呟く
その言葉は、暗闇に溶け込むように柔らかく響き、水の揺らぎに重なって三人の間に波紋のように広がっていった
「……確かにそうですね。本当に、その通りです」
ホシノは隣で、その儚げな光の粒を一つも零さないよう、愛おしむように静かに目を細めた
ガラスの向こう側に広がる、触れることのできない冷たく静謐な深海の青。それとは対照的に、今、左右の手のひらを通じて伝わってくる、大切な仲間たちの確かな熱と体温
そのあまりにも鮮やかなコントラストが、ホシノの胸の中に心地よい波紋を広げていた
時間の感覚が麻痺し、永遠にこの藍色の闇の中に浸っていられるのではないか――
そんな錯覚に陥りかけたその時、静寂を切り裂くように館内のスピーカーから高らかなファンファーレが鳴り響いた
『ご来館の皆様にご案内いたします。間もなく屋外特設メインステージにて、本日最後を飾るイルカパフォーマンスを開始いたします。躍動感あふれるダイナミックなショーを、どうぞお見逃しなく――』
「わわっ、大変です! ぼーっとしている場合じゃありませんでした! メインイベントを逃すなんて、一生後悔が残ってしまいます。二人とも、急ぎますよ!」
「もー!? 今日だけで一体何回手を引かれるのよ! 腕が抜けちゃうわよ!」
「ひぃん! さすがにそろそろ足が棒のようになってきたよぉー、ホシノちゃん待ってぇー!」
静寂の住人から一転、ホシノはバネが弾けたような勢いで顔を上げると、再びセリカとユメの手をがっしりと掴んで駆け出した
迷路のような館内を迷うことなく突破し、潮の香りと潮騒の音が強まる屋外へと飛び出す。そこには、すり鉢状になった巨大な円形スタジアムが広がっていた
既に大勢の観客が詰めかけ、熱気に満ちた歓声が空に抜けていく
ホシノの凄まじい執念と、人混みを縫うような巧みな身のこなしのおかげで、三人は運良く、プールの水面がすぐ目の前にまで迫る、迫力満点の最前列の席を確保することができた
「はぁ……はぁ……、ようやく、座れた……」
「ひぃん…疲れたよぉ…」
肩で息をしながら、セリカとユメがようやくベンチに腰を下ろす。肺の奥まで潮の香りが入り込み、激しい行軍による熱を少しずつ冷ましていく
しかし、その隣に座るホシノには疲労の色など微塵もなかった。彼女の瞳は既に、水面下で銀色の影となって高速で旋回するイルカたちを凝視し、その期待感で頬を高揚させていた
「さてと…」
席に座るなり、セリカとホシノは、まるで事前に入念な訓練でも受けてきたかのような、無駄のない鮮やかな手つきで鞄から折り畳み傘を取り出した
バサリ、と生地が擦れる音が重なる。そのあまりに唐突で用意周到な準備に、ユメは不思議そうに首を傾げた
「ねぇ、二人とも。空はこんなに晴れてるのに、どうして傘なんて持ってるの? もしかして、日傘の代わりかなぁ?」
「それはね、ユメ先輩。ここのショーの最前列は……」
セリカが親切心からその「理由」を明かそうとした、まさにその瞬間。ホシノが電光石火の早業でセリカの言葉を遮った
ホシノはこれ以上ないほど無垢で愛らしく、それでいて底知れない企みを秘めた「うへへ」という笑みを浮かべる
「気にしないでください♪ それよりユメ先輩、せっかくの決定的瞬間を逃さないよう、その高価なカメラは私が一時預かっておきますね。さあ、始まりますよ! 世紀の大ジャンプが!」
(……あ、完全に察したわ。ホシノちゃん、これ確信犯ね。ユメ先輩に盛大に『洗礼』を浴びせるつもりなんだわ……)
セリカは苦笑いを浮かべながら、隣でワクワクと身を乗り出す無垢な先輩を憐れみの目で見守った
ホシノの徹底した準備——ユメの視界を遮らない完璧なポジショニング、そして精密機器であるカメラの事前保護。それらを見るに、この悪戯こそが彼女の密かなメインイベントであったことは明白だった
ショーは瞬く間に最高潮へと達した
軽快なミュージックがスタジアムに鳴り響き、合図と共に数頭のイルカたちが一斉に水面を蹴って空高く舞い上がる。重力という概念を置き去りにした見事な放物線。そして最後の大技として、イルカたちの巨体がわざと腹から水面に叩きつけられた、その瞬間――
「せーのっ!」
ホシノの鋭い号令が飛ぶ
セリカとホシノは、訓練された特殊部隊のような速度で傘をバッと開き、眼前に迫る巨大な水の壁を完璧な角度で迎撃した
バシャァァァァァン!!
スタジアムを揺るがす凄まじい衝撃音と共に、白く泡立つ大量の海水が最前列を襲う
「……ひぃぃぃん! な、なにごとぉぉぉ!? 空から海が降ってきたよぉぉ!?」
爆発でも起きたかのような豪快な水しぶきを正面からまともに浴び、何も知らぬユメは頭の先から靴の先まで、文字通りバケツ数百杯分の水をひっくり返されたような、完璧なまでの「びしょ濡れ」状態になった
激しい飛沫が収まり、傘の影からひょっこりと顔を出したセリカとホシノ
二人は、濡れた看板のようにへなへなと力なく座り込み、制服からポタポタと滴り落ちる海水に呆然としているユメの姿を見て、ついに堪えきれずに吹き出した
「ひどいよぉ、二人とも! 絶対にこうなるって知ってたよね!? 二人だけずるいーっ! 冷たいよぉー!」
ユメは捨てられた子犬のような濡れた瞳で、プルプルと震えながら抗議する。しかし、その髪から滴る水さえも、太陽を浴びてキラキラと輝いていた
「あははは! ごめんなさい先輩! でもその顔、今日一番の傑作よ! まるでお魚さんに挨拶されたみたいね!」
「うへへ、これが水族館の醍醐味、忘れられない『強烈な思い出』ってやつですよ、ユメ先輩♪ こういうのは、濡れたもん勝ちなんです!」
「もう!二人とも、自分たちだけ傘に隠れて濡れてないなんてずるいんだからーっ!」
水浸しのベンチで、濡れ鼠のような姿になったユメが、頬を膨らませて抗議の声を上げる。しかし、その瞳は決して怒りに燃えているわけではなく、どこか文化祭の後片付けのような、賑やかで充実した余韻に包まれて笑っていた
滴る海水を拭いながら、くしゃりと笑うユメを連れ、三人は夕闇の迫る屋外ステージを後にして更衣室へと向かう
「……はい、ユメ先輩。これを使ってください」
「なにこれ?」
差し出された包みを開けたユメは、その中身を見て驚きに目を見開いた
そこに入っていたのは、綺麗に畳まれたユメ自身の体操服と、予備の清潔なタオルだった。
「えっ、ホシノちゃん!? どうして私の着替えまで持ってるの……? もしかして、学校を出る時にこっそり私のロッカーから……?」
「準備に抜かりはありませんから。さ、潮風で冷えて風邪を引く前に、ささっと着替えてきてください。私はここでセリカと待ってますから」
ホシノは鼻を高くして、誇らしげに胸を張る
そのあまりの用意周到さと、悪戯への飽くなき執念を目の当たりにしたセリカは、半ば呆れ、半ば戦慄しながら感心するしかなかった。
(……やっぱり。学校を出る前から、あの展開を全部分かってて仕込んでたのね。おそるべし、ホシノちゃん……)
ユメが着替えを終えてロビーに戻ってくる頃、水族館を取り巻く景色は一変していた
巨大なガラス張りの壁の向こう側、空は燃えるような残照を失い、深い深い群青色——ベルベットのような夜の帳へと染まっている。水平線の彼方には太陽が完全に溶け落ち、代わりに沿岸の街灯が星屑のようにまたたき始めていた
昼間の子供たちの歓声や賑やかなアナウンスが嘘のように静まり返った館内は、水槽から漏れる淡い青色の光だけが支配する、幻想的な聖域へと変貌していた
その静謐な空気は、まるで今日一日の楽しかった記憶を閉じ込める、透明なタイムカプセルのような余韻を三人の心に深く刻んでいく
「……そろそろ、帰らないとですね」
閉館を告げる、穏やかでどこか物悲しいピアノのBGMが流れ始めたロビーで、ホシノがぽつりと呟いた。その瞳には、水底で揺れる青い光の残像が静かに、名残惜しそうに揺れている
アビドスの砂漠へと戻らなければならない現実を自分に言い聞かせるような、その少し寂しげな横顔
それを見たセリカとユメは、暗闇の中で示し合わせたように顔を見合わせ、まるで最高のサプライズを隠し持った子供のように、いたずらっぽくニヤリと笑みを交わした
「何言ってるのよ、ホシノちゃん。私たちの遠足は、まだ終わってないわよ」
セリカがわざとらしく肩をすくめて胸を張ると、体操服姿で少し幼くなったユメも、大きく頷いて言葉を繋ぐ
「そうだよぉ! メインディッシュの後は、デザートがなきゃ始まらないじゃない。まだ、肝心な『あそこ』を回ってないよ!」
「え? でも、もうあちこちのシャッターが閉まり始めてますし、最終バスや電車の時間も……」
キョトンとして、目をパチクリとさせるホシノ。そんな彼女の困惑を置き去りにしたまま、二人はその細い腕を左右からがっしりと抱え込んだ
「さあ、出発進行ー!」
「わ、わわっ!? ちょっと、二人とも!?」
半ば強引に、けれどこの上なく温かな力で引きずられるようにして、ホシノはエントランス横の角を曲がる
そこには、夜の静寂の中で一際明るく、宝石箱のように温かな光を漏らし続ける最後の一画——三人の思い出を形に変えて持ち帰るための場所、ミュージアムショップが彼女たちを待ち構えていた
「あ、見て見てセリカちゃん! このTシャツ、チンアナゴの刺繍がすごく細かくて可愛いよぉ! 砂の中からひょっこり顔を出してる感じ、なんだか癒やされるねぇ」
「本当だ、妙にシュールね。でも見て、こっちのペンギンのもこもこポーチも捨てがたいわよ。この絶妙な丸みのフォルム、触り心地も最高だし……」
入店するなり、ユメとセリカは眩いばかりの照明に照らされた棚の間を、蝶が舞うように賑やかに巡り始める
まるでお祭りの夜に迷い込んだ子供のように、次から次へと色鮮やかなグッズを手に取っては、弾んだ声を上げている。二人の楽しげな笑い声が、閉店間際の静かなショップに心地よく響き渡る
一方のホシノは、二人から少し離れた場所で、逸る心をなだめるように静かに陳列棚を見つめていた。普段はどこか達観した風を装っている彼女だが、今日一日浴び続けた「青い世界」の余韻が、心の防壁を少しずつ溶かしていた
しかし、その視線がある一点で、吸い寄せられるように縫い止められた
棚の最下段、他の華やかな商品たちの陰に隠れるように置かれた、手のひらサイズの小さなクジラのキーホルダー
その瞬間、彼女の心は一瞬で奪われた
(……可愛い。なんて愛くるしい、丸っこいフォルムなんだろう。それに、この深海を透かしたような、どこまでも優しくて澄んだ青色……)
いつもは冷静沈着に「アビドスの守護神」として、鋭い眼光を光らせている彼女の瞳。それが今は、露に濡れた花びらのように、無垢な憧れを宿して潤んでいる
無意識のうちに指先が震えながら伸び、その滑らかな、ひんやりとした質感に触れようとして――
(……ダメだ。欲しい、なんて……これは、私一人のためだけの『わがまま』だ。あんなに厳しい状況のアビドスに、一銭の余裕だってないのに。みんなが必死に節約してる中で、自分の私欲だけでお金を使うわけにはいかない……)
脳裏をよぎるのは、生徒会室で何度も、何度も読み返した、数字の羅列が痛々しい通帳の残高
その冷酷な現実に引き戻されるように、ホシノは胸を締め付けるような切なさを押し殺し、そっと、伸ばしかけた指をポケットの中へと引っ込めた。
「ホシノちゃん、これが欲しいの?」
「――っ!? い、いいいいいえ! 別に、そんなことは、全くもって、これっぽっちも、塵ひとつほどもありませんよ!?」
背後から不意にかけられたユメの、春風のように穏やかな声
ホシノは心臓が飛び出すほど跳ね上がって驚き、裏返った声を絞り出して必死に弁明を並べ立てた
「ただ、ちょっと……そう! クジラの骨格の造形が、生物学的な観点から見て非常に興味深いなと、学術的な関心で眺めていただけです! ほら、私たちには無駄遣いなんて許される身分じゃありませんし、一円たりとも無駄にはできませんから! さあ、もう見納めです、帰りましょう! ほら、早く!」
しどろもどろに言い訳を重ね、逃げるように背を向けようとするホシノ
しかし、林檎のように赤く染まった頬と、隠しきれずに火照る耳の先。そして、未練を断ち切れないように微かに震える肩先は、彼女の健気な嘘と本心を、何よりも雄弁に物語っていた
「いいじゃない、たまには! 贅沢、大いに結構よ」
いつの間にか背後に忍び寄っていたセリカが、腰に手を当てて悪戯っぽく笑いながら、助け舟を出すように言葉を重ねた
その瞳には、ホシノの抱く葛藤も、健気な遠慮もすべてお見通しだと言わんばかりの光が宿っている
「私が商店街でこのチケットを当てたおかげで、本来払うはずだった三人分の入場料が丸々浮いたんだから。その浮いた分を『思い出代』に回すと思えば、このくらい安いもんでしょ? それとも何? 私のせっかくの幸運を、ここで無駄にする気?」
セリカの迷いのない、真っ直ぐな言葉に、ホシノは反論の言葉を詰まらせた。理詰めで自分を納得させようとしていた心の壁に、セリカの快活な正論が心地よく穴を開けていく
「で、ですが……。私だけ、こんな贅沢をするわけには……。二人だって、さっきから楽しそうに棚を回っているだけで、自分のためには何も買ってないみたいですし……」
ホシノはなおも、自分を厳しく律するように言葉を絞り出した
アビドスの厳しい財政状況を誰よりも重く受け止め、一円の重みが血の一滴にも等しいことを骨身に染みて知っている彼女にとって、自分の純粋な「好き」という感情だけで予算を動かすことは、許しがたい自分勝手な越権行為のように感じられたのだ
そんな迷いと葛藤で細く震えるホシノの肩を、ユメが包み込むように、けれど未来への確かな意志を込めて、優しく、かつ力強く抱き寄せた
「それじゃあ、こうしようよ! みんなで同じものを買って、お揃いにしちゃうの。これを見るたびに今日の楽しかったことを思い出せるし、三人の『アビドス生徒会』が今日ここに来た、大切な証になると思わない?」
「ナイスアイデアね、ユメ先輩! それ、最高じゃない! 実は私もちょうど、何か今日という日を形に残せる記念品が欲しいって思ってたところなのよ」
セリカが弾んだ声で追従し、一切の迷いを見せずに棚からさらに二つのクジラを手に取った
その淀みのない鮮やかな仕草は、ホシノの頑なな心の鍵を、春の陽光のように温かく、けれど鮮やかに解いていく
「お揃い……私たちの、証……」
その言葉が、ホシノの胸の奥に澱んでいた最後の堤防を、音を立てて決壊させた
かつて、たった二人きりで果てしない借金に追われ、明日の希望すら砂に埋もれていた頃には、想像することさえ贅沢だった幸福。誰かと「同じもの」を分かち合い、同じ絆を共有するという、ささやかで、けれど何よりも得難いその温もりに、彼女の心は震えた
ホシノはしばらくの間、自分の掌の上で重なり合う三つの青いクジラを、まるで壊れ物を扱うような眼差しでじっと見つめていた
やがて、観念したように小さく、けれど晴れやかな吐息をつくと、その口元にふわりと柔らかな笑みをこぼす
「……はぁ。もう、お二人には敵いませんね。……まぁ、そこまでおっしゃるなら。……それなら、私も…買いますよ」
三つの小さなクジラがレジを通り、それぞれの手元へと渡る。それは、単なる観光地の土産物という枠を超え、今の彼女たちを繋ぎ止める何物にも代えがたい「家族」の絆が、初めて確かな形を持った瞬間だった
袋の中で揺れる三つの青い影は、まるでこれから歩む険しい道のりを、共に泳ぎ抜くための小さなお守りのように、彼女たちの手の中で誇らしく輝いていた
帰りの電車の中
ガタンゴトンと一定のリズムで線路を刻む心地よい振動が、遊び疲れた三人を深い微睡みの中へと優しく誘っていた
車窓の外を流れる夜の帳は、今日という輝かしい一日を静かに閉じ込める、藍色のビロードのような質感を帯びている
ホシノは、セリカとユメのちょうど真ん中という特等席に座り、両隣から伝わってくる確かな温もりに身を委ねていた
左側では、ユメが信頼しきった様子で頭を預けており、その穏やかな寝息がホシノの耳元で規則正しい安らぎのリズムを奏でている
右側では、ホシノの凄まじい興奮に振り回され、誰よりも奔走したセリカが泥のように深い眠りに落ちていた。時折、寝言のように小さく鼻を鳴らし、こっくりこっくりと船を漕ぐたびに、その柔らかな髪がホシノの肩をくすぐる
ホシノは、自分の鞄のジッパーに揺れる小さなクジラのキーホルダーを、愛おしそうに指先でそっと撫でた。まだ新品特有の硬い匂いを漂わせるその青い背中を、窓の外を流れる都会の夜景が、点滅する光でキラリと照らし出す
それはまるで、冷たいガラスの向こう側にあった深海の神秘が、三人の絆を祝福するために小さな形を持って現れたかのようだった
「……うへへ、お揃い。……うへへへ♪」
それは、誰にも聞こえないほどの小さな、けれど心底幸せが溢れ出した独り言
三人が同じ景色を見て、同じ水を浴び、同じ笑い声をあげたこと
そして今、この瞬間に確かに繋がっているという、何物にも代えがたい「証」
夜の闇へと溶けていく電車の走行音に混じって、ホシノの小さな歓喜の歌は、アビドスの未来を照らす儚くも力強い灯火のように、温かく車内に響き続けている
少しずつ崩壊していく日常…