冷たい風が、誰もいない廊下をすり抜けていく。
そこに“僕”はいた。
名前も、顔も、思い出せない。ただ、自分がもう生きていないことだけはわかる。触れようとしても、何にも触れられない。声を出そうとしても、誰にも届かない。
けれど、不思議なことに——懐かしい場所へ行くと、胸の奥がかすかに揺れる。
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最初に足が向いたのは、小さな公園だった。
錆びたブランコ、色あせた滑り台。
そこにいた子どもに、ふと引き寄せられるように近づく。
そして気づいたときには——私はその子の中にいた。
一瞬だけ、景色が変わる。
笑い声。
小さな手。
「おにいちゃん、もう一回!」
誰かが僕をそう呼んでいる。
けれど、それ以上は思い出せない。
次の瞬間、僕はまた外に弾き出されていた。
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それから私は、いくつもの場所を巡った。
古い家。
通学路。
夕焼けの河川敷。
そのたびに、そこにいる誰かに“取り付き”、断片的な記憶が流れ込んでくる。
泣いている少女。
転んで膝をすりむく姿。
その手を引く、自分。
——ああ、この子を、知っている。
胸が締めつけられる。
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最後に辿り着いたのは、見覚えのある交差点だった。
信号の音。走る車。
そして、あの子がいた。
少し大きくなった、あの少女。
彼女に近づいた瞬間、私は自然とその中に引き込まれる。
視界が揺れる。
「危ない!」
自分の声が、はっきりと響いた。
突っ込んでくる車。
驚いた顔の少女。
——体が勝手に動く。
手を伸ばし、彼女を突き飛ばす。
強い衝撃。
地面に叩きつけられる感覚。
その瞬間、すべてを思い出した。
僕は——彼女の兄だった。
大切な、たった一人の妹。
守りたくて、守り抜いた。
そして——死んだ。
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記憶が戻った途端、世界が静かにほどけていく。
妹は無事だった。
泣きながら、誰かに抱きしめられている。
その姿を見て、不思議と心が軽くなる。
もう、未練はない。
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——それから、どれくらいの時が流れたのだろう。
私は、再び目を覚ました。
温かい。
柔らかい。
誰かに抱きしめられている。
「……生まれたよ」
聞き慣れた声。
ゆっくりと目を開ける。
そこには——涙を浮かべて笑う、あの子がいた。
妹だった人。
今は、母になっている。
その腕の中で、私は小さな声を出す。
まだ言葉にならないはずなのに、なぜか自然にこぼれた。
「……ただいま」
彼女の涙が、ぽろりと落ちた。
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あの日のことは、忘れたことがない。
耳をつんざくようなブレーキ音。
強い衝撃。
そして——伸びてきた、大きな手。
気がついたとき、私は誰かに抱きしめられて泣いていた。
「お兄ちゃんが……」
その言葉の先は、大人たちに遮られて、もう聞けなかった。
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それからの私は、どこか空っぽだった。
家に帰れば、そこにいるはずの人がいない。
名前を呼んでも、返事はない。
なのに、不思議と——完全にいなくなった気がしなかった。
誰もいない部屋で、ふと気配を感じることがある。
風もないのに、カーテンが揺れる。
「……お兄ちゃん?」
そう呼ぶと、ほんの少しだけ、空気がやわらぐ気がした。
気のせいだと、何度も自分に言い聞かせたけど。
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大人になるにつれて、その感覚は少しずつ薄れていった。
悲しみも、記憶も、日常の中に溶けていく。
それでも、時々ふと思い出す。
あのとき、確かに守られたこと。
あの手の温もり。
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やがて私は、母になった。
小さな命をお腹に宿したとき、不思議な夢を見た。
夕焼けの中、誰かが立っている。
顔は見えないのに、なぜか分かる。
「……もう、大丈夫だよ」
そんな声が、聞こえた気がした。
目が覚めたとき、涙がこぼれていた。
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出産の日。
長い痛みのあと、ようやく聞こえた産声に、私は思わず笑った。
「……会えたね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
腕の中に抱かれたその子は、小さくて、温かくて——
なぜか、とても懐かしかった。
ゆっくりと、その子の顔を覗き込む。
その瞬間。
胸の奥で、何かがほどけた。
言葉にならないはずの声が、確かに聞こえた。
「……ただいま」
私は息を呑んで、その子を強く抱きしめた。
涙が止まらなかった。
「……おかえり」
そう言った瞬間、ずっと空いていた場所が、やっと満たされた気がした。