――ざわ……ざわ……
空気が張り詰める。
さっきまでの疑いの熱とは違う。
もっと重くて、もっと静かな圧。
目暮警部は帽子を深く被り直し、低い声で言った。
「カイジ……いつもわしはお前を疑って、結果的に違うことも多い……だから今回は慎重に行かせてくれ」
その言葉に、一瞬だけ違和感を覚える。
――なんだよ……急に……
「急になんだよ……いつもと違うのかよ」
だが、その裏で俺の思考は別の方向に動いていた。
――むしろ……
――今回は、誤認逮捕でもいいかもしれねえ……
自分でも驚くような考えだった。
だが、はっきりしている。
――あの二人を守れるなら……
――それでいい……
警部はゆっくりと問いを重ねる。
「カイジ……今日、競馬場に行ったか?正直に話してくれ。違うというならわしは信じる……警察の捜査能力なら、監視カメラで確認できるからな」
――くっ……
逃げ道はない。
嘘を吐けばすぐにバレる。
それはつまり――偽証。
――ここで嘘を吐く意味はない……
――嘘を使うのは……守るべきときだ……
喉が詰まりそうになりながらも、答える。
「……行った」
――ざわ……ざわ……
空気が一段階、冷たくなる。
警部はさらに踏み込む。
「満員電車には乗ったか?」
――くそ……
駅にもカメラはある。
逃げられない。
「……乗った」
――ざわ……ざわ……
追い詰められていく。
一歩ずつ、確実に。
「金目のものを盗むのは、金がないときだ……カイジ……金はあるか?貯金は?」
――やめろ……
その質問は、あまりにも直球すぎる。
「貯金は0円……財布の中身は1053円だ……」
――ざわ……ざわ……
おかしい。
全部事実だ。
嘘は一つも吐いていない。
それなのに――
――どんどん俺が犯人に見えていく……
警部の目が鋭くなる。
「カイジ、そのシャツは新品なんだな?」
「ああ」
「……じゃあ、なぜ血が付いている……言え」
――くっ……
言えない。
言えるわけがない。
ヨーコちゃんのことも。
成実のことも。
――どっちも……踏み込んじゃいけない領域だ……
「……証言を拒否する……」
――ざわ……ざわ……
一気に空気が崩れる。
疑念が確信に変わる音がした気がした。
――嘘は吐けない……
――でも、本当のことも言えない……
警部の声が低くなる。
「カイジ……おかしいだろ。やましいことがないなら言えるはずだ……」
言葉が、一つ一つ突き刺さる。
「100万円のあてがある、金がない、競馬場に行った、満員電車に乗った、新品のシャツに血がついている……」
逃げ場がない。
「それでも、わしにカイジを信じろというのか?」
――ざわ……ざわ……
――くそっ……
――正論すぎる……
こんなの、普通なら疑う。
疑わない方がおかしい。
――俺だって、逆の立場なら疑う……
でも――
それでも。
――守る……
それが答えだった。
ヨーコちゃんが、あんな顔で頼ってきた。
成実も、震えていた。
二人とも――俺を信じている。
――ここで裏切ったら……
――俺は……もう俺じゃねえ……
もしここで全部バラして、疑いが晴れて。
そのあと――
ヨーコちゃんと笑って飯を食えるか?
――無理だ……
絶対に無理だ。
だから――
言わない。
絶対に。
警部が決断する。
「……いい。身体検査を行う」
――来たか……
「当然俺だけだよな?」
わずかな望みを込めて聞く。
だが――
「いや、平等に全員だ」
――ざわ……ざわ……
最悪だ。
最悪の展開。
「カイジだけは……隅々までな」
――なんでこういうときだけ有能なんだよ……!
タイミングが悪すぎる。
笑えねえ。
本当に笑えねえ。
「……身体検査も拒否する……」
「ふざけるな……!」
怒号。
当然だ。
だが引かない。
引けない。
「……聞いてくれ」
声を絞り出す。
「犯人は……もう分かってる」
――ざわ……ざわ……
空気が止まる。
「人のプライバシーに、土足で踏み込ませるわけにはいかねえ……今回はアイドルのヨーコちゃんもいる」
その言葉に、ヨーコちゃんが静かにサングラスを外し、頭を下げた。
場の空気がわずかに変わる。
警部が頷く。
「……なるほど……あのときのアイドルか……」
そして、まっすぐに俺を見る。
「なら、言え……犯人を……」
逃げ場はない。
「あと……そのシャツに血が付いた理由もだ」
――ざわ……ざわ……
――ここが……
――分岐点だ……
俺は息を吸う。
全てを背負って――
口を開いた。
――ざわ……ざわ……
息が詰まるような静寂の中で、俺は耳を澄ませていた。
目で見るんじゃない。
論理で詰めるんじゃない。
――“声”だ……
心の奥底から漏れる、本音。
それだけが、今の俺の武器。
そして――
聞こえた。
(俺は、妻の金遣いが荒くて……つい魔が差した……窃盗は初めてだ……このままカイジとやらが捕まってくれ……明らかに彼は不自然だ……)
――……見つけた……
ゆっくりと視線を向ける。
宗近為重。
眼鏡をかけた初老の男。
さっきまで静かに寿司を食っていた、あの男。
――お前か……
もう、迷いはなかった。
逃げ場もない。
俺は一歩踏み出す。
「……そのおっさんだ!」
――ざわ……ざわ……
空気が弾ける。
もう引き返せない。
――ここで外したら……完全終了……
宗近が慌てて手を振る。
「待ってくれ。私は……ほら……血はついていない」
確かに、シャツは綺麗だ。
だが――
そのとき、別の声が流れ込む。
成実だ。
(カイジさん、私の声を聞いて。血液は基本的に落としづらいの。タンパク質が含まれているから……)
――来た……!
(そしてその人が頼んでいたのは、さんまの大根おろし添え……大根おろしはタンパク質を分解できる……きっとハンカチにつけて、血を落としたの)
――なるほど……!
一気に道筋が見える。
俺はそのまま言葉にする。
「血がついてねえのは当たり前だ……あんた、大根おろしで落としたんだろ」
――ざわ……ざわ……
宗近の顔がわずかに歪む。
さらに畳みかける。
「さんまの大根おろし添え……あんた頼んでたよな?タンパク質分解……血を落とすには都合がいい」
「な、何を言って……」
動揺している。
――いける……!
「それに……あんたも同じ電車に乗ってたはずだ。監視カメラを調べりゃ一発だ」
その瞬間――
宗近の額に汗が浮かぶ。
視線が泳ぐ。
明らかにおかしい。
「わ、私は確かに電車には乗っていたが……犯人じゃない……!」
そして苦し紛れに俺を指差す。
「それより……カイジ、君は……バスジャック犯のカイジじゃないか!」
――ざわ……ざわ……
最悪の一手。
観客のざわめきが一気に広がる。
おばさんまで便乗する。
「あっ、本当だ!バスジャック犯のカイジ!無職でクズの……あんたが……!」
――くそっ……
歯を食いしばる。
「それは誤解だって、この前生放送で……!」
言い返すが、反応は薄い。
――やべえ……
――悪い噂だけが広まって、訂正は届いてねえ……
だが――
今はそれじゃない。
決め手がある。
(あとね、血は見えなくなっているだけで痕跡は残っているの。ルミノール反応液を使えば分かる……私の鞄にあるから)
――来た……決定打……
「……ルミノール反応液を使えば分かる」
場が静まる。
「血は消えても、痕跡は残る……調べりゃ一発だ」
宗近の顔が――崩れる。
一瞬だった。
抵抗が消える。
「……そうです……私がやりました……」
――ざわ……ざわ……
「妻の浪費癖に……つい魔が差しました……」
あっけないほど、あっさりと。
――なんだよ……
力が抜ける。
――今回の犯人……弱すぎるだろ……
今までの連中はもっと、しぶとかった。
もっと食らいついてきた。
――俺、いつの間にか張り合い求めてたのか……?
自分でも苦笑する。
――いや、違うか……
――今までが異常だっただけだ……
こういうのが、本来の“普通”なのかもしれない。
事件は、こうしてあっさりと終わった。
――そして……
緊張が解けた直後だった。
ヨーコちゃんが、そっと袖を引く。
「カイジさん……ちょっと」
――え?
――何かやらかしたか……?
不安がよぎる。
言われるがまま、少し離れた場所へ。
振り向いた瞬間――
ちゅっ。
柔らかい感触。
頬に、温もり。
思考が止まる。
「……ありがとう。守ってくれて」
――え……
――ええええええええ!?
頭が真っ白になる。
その直後――
もう片方からも、気配。
成実だ。
彼女も、少し照れたように――
ちゅっ。
――は?
――え?
両頬に、同時に残る感触。
――なにこれ……
――夢か……?
心臓が爆発しそうになる。
さっきまで地獄だったはずの状況が――
一気に天国に変わる。
――なんだこれ……
――報酬デカすぎだろ……!
顔が熱い。
多分、真っ赤だ。
でも――
悪くない。
むしろ――
最高だ。
――今日……死んでもいいかもしれねえ……
そんな馬鹿みたいなことを、本気で思っていた。
店の奥にあるVIPルーム――そこは別世界だった。
外のざわめきとは隔絶された静寂、落ち着いた照明、柔らかなソファ。
そしてその中心に、俺。
左右に美女二人。
ざわ……ざわ……
成実とヨーコちゃんが、まるで当然のように俺を挟む形で座る。距離が、近い。いや、近すぎる。肩が触れる。腕も当たる。体温が、伝わる。
――な、なんだこの状況……人生で一番ヤバい……!
「カイジさん、こっちのお酒飲んでみてください。体に優しいやつです」
成実がグラスを差し出してくる。その手が、自然に俺の腕に触れる。
「ちょっと、カイジさんはこっちも飲むの。私が選んだんだから」
ヨーコちゃんが反対側から顔を寄せてくる。香水のいい匂いがふわっと漂う。
ざわ……ざわ……
――両サイドから攻撃……!匂い、柔らかさ、距離……全部がバグってる……!
「カイジさん、今日すごく頑張ってましたよね」
「ほんとよ。かっこよかった」
二人が同時に言う。顔が近い。近いどころじゃない。息がかかる距離。
――やべえ……これはもう……天国……いや地獄……いや天国……!
しかも、だ。
さっきは成実のおごり。
今はヨーコちゃんのおごり。
場所は高級店のVIPルーム。
――俺……一円も払ってねえ……!
ざわ……ざわ……
「カイジさん、もっと食べてください」
「遠慮しないでいいのよ?」
皿がどんどん追加される。
――ただ飯……美女……酒……
こんな人生……あっていいのか……?
二人はだんだんヒートアップしていく。
「カイジさんは、優しいところが素敵ですよね」
「でも決断力があるところも魅力よね」
「私、ああいう人助けできる人、本当に尊敬します」
「私は命懸けで守るところに惚れたの」
ざわ……ざわ……
――やめろ……!褒めるな……!俺が壊れる……!
さらに、酒も入ってきたせいか、二人とも距離感が完全に壊れている。
顔が近づく。
お互いに対抗するように、さらに近づく。
結果――
当たる。
ざわ……ざわ……ざわ……
――やめろおおおおおおおおおおお!!!!
理性が限界を迎えようとしている中、ヨーコちゃんがふと真面目な顔になる。
「ねえ……カイジさん」
「なんだ?」
「どうして……血のこと、言わなかったの?」
ざわ……ざわ……
――来たか……
俺は少しだけ視線を落とす。
「……言ってよかったのか?」
ヨーコちゃんは少し驚いた顔をして、それから小さく頷く。
「カイジさんと……女性なら」
――成実は男だけど、心は女性……まあいいか……
俺は静かに言う。
「気付いてたよ。あれ……生理の血だろ」
ヨーコちゃんの目が揺れる。
「もしあれが公になったら、どうなるか分かる。マスコミは面白おかしく書く。俺はそれを知ってる」
ざわ……ざわ……
「指名手配とかバスジャックとか……ああいうの、全部ネタにされる。一般人の俺ですらそうなんだ。アイドルなら……もっと酷い」
静寂。
「だから言わなかった。それだけだ」
ヨーコちゃんは少し目を潤ませて、笑った。
「……ありがとう」
一方、成実も優しく微笑む。
「カイジさん、やっぱり素敵です」
そして二人は、ふっと視線を合わせる。
一瞬の沈黙――
「……あなた、いい人ね」
「あなたも、優しいですね」
ざわ……ざわ……
――え?和解……?
「さっきはちょっとムキになっちゃって」
「私もです」
「でも」
「でも」
二人同時に俺を見る。
「カイジさんのことは――」
ざわ……ざわ……
――やめろ……その続きは危険だ……!
だがそのまま、俺は限界を迎えた。
酒、安心、疲労、幸福。
全部が一気に来た。
――無理……寝る……
俺はそのまま、ソファに沈むように眠った。
「……寝ちゃった」
「ほんとですね」
「どうする?」
「どうしましょう」
一瞬の沈黙。
「私が連れて帰ります」
「いや、それは私です」
ざわ……ざわ……
「私のほうが付き合い長いんですけど?」
「でも今日一緒に来たのは私です」
「アイドルとして責任があります」
「医者としてもあります」
「じゃあ半分ずつ持ちます?」
「それ無理ですよね?」
ざわ……ざわ……
「……じゃあジャンケン?」
「真剣勝負ですね」
「負けませんよ?」
「こちらこそ」
二人は真剣な目で向き合う。
その横で――
俺はぐっすり眠っていた。
――人生で一番幸せな夜の中で。
しばらくお休み致します!
カイジと結ばれて欲しいのは?
-
成実先生
-
沖野ヨーコ
-
歩美
-
灰原哀
-
毛利小五郎
-
なし