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人を見て、その死に顔を見てみたいと思ったのは、初めてのことだった。
それは女だった。
他人の内心などというものに些かの興味をも示したことがないような、そんな顔をしている。
肩甲骨まで届くウェーブがかった髪は、大した風もないのに独りでに揺らめていた。
声は鈴の音で、目元は涼やかだ。切れ長というのか、しかして猫目と言うべきか。生来の魔性とでも言うべき魅力を湛えていた。
その瞳たるや、見詰められると何だか心底まで見透かされるようで恐ろしい。
他人のことになど微塵も興味がないのだろうに。
矛盾だろうか。
視界の端に捉えているだけでどこか不安を覚える。
美しいと称するには躊躇いを感じるのだった。
魅力がある、というのも、適切ではないように感じた。
「ねえ」
と彼女は何の関心もないようにいう。
なのにどうして耳を傾けているのか。
傾けなくてはならないのか。
対話というものは語彙によるものではない。互いに関心を持ち、歩み寄ることが出来さえすれば、如何に簡便な語り口であったとしても要点は必ず相手に伝わるだろう。
であるのなら、一切の譲歩がなく、感傷もない声が会話たり得る道理はない。
しかして、それでも、
「ねえ」
と声があれば、その小さな口元に目が吸い寄せられる。
矛盾だ。
明白な理解を超えて、不可思議な法則を生み出している。
それはうら若き乙女に課せられた、ありがちな呪いとは違った。
輝かしき学び舎の一室でも、清らかな礼拝堂でもないこの一室で、エアコンの無機質な風に当たりながらそのような現象を引き起こすのだ。万人に認められる法則ならば、とうの昔に魔術とは科学に成り果てているだろう。
普遍的でないとすれば、女の恰好だろうか。
きらびやかと評するには重厚なフリルドレスである。
見る者が見ればゴシック・ロリータと判じたであろう。
しかしどれほどに高度な縫製技術が駆使されていようと、見る目がない者にとってはただ重そうな服でしかない。そこに少女趣味であるとか、豪華であるとか、その程度の感想が付随することはあれども、畢竟その真価に思い至ることはない。
更に言えば、服装がどうだといって人間の価値が変わることはないだろう。
発生し得るのはその社会的地位に関する考察であり、技能知能に何ら影響することはない。
ないのだから、結局女の声には注釈の付け難いチカラがある、と結論づけるしかない。
初対面の人間にこれほどまでに執着しているのだ。
してしまっている。
原因があるとすれば、その女の方にあるというのが自然だろう。
責任転嫁とも言えようが、事実そうだった。
それほどに甘い声で、
「ねえ」
と囁くのだから。
一室にひっ詰めているので仕方がないのだが、距離が近い。
ゆるゆるとした冷風がなければ、季節柄暑苦しくもなりそうだ。
滝のような汗とはならずとも、鬱陶しい。
都合、夏が好きだという人間は汗をかくのが好きなのではないだろうか。
思えば、初めて女に尋ねてみたいことが出来たように感じた。
夏は好きか。
聞くまでもない、嫌いなのだろう。
先ほどからの「ねえ」という声には、相変わらず抑揚がない。
情緒に欠ける人間なのだから、およそ人間的な事物一切を厭うに違いあるまい。
ならば汗も嫌いだろう。
蒸して、臭う。
この上なく人間的な整理反応なのだから。
そう思えば、逆説的に女の奇怪な有様にも説明がつくような気がして、ようやく肩の力が抜けた。
人らしくないのだから、その眼窩に生気はない。
人らしくないのだから、その髪が動いても不思議ではない。
人らしくないのだから、その声が酷く耳にこびりつく。
逆説的に自然と言える。不気味で当たり前で、恐い。
しかし、もし恐れているものが人らしくないのなら。
人でないのなら、それは何だ。
馬鹿馬鹿しい想像だった。
人でないものが、耳元で囁くものか。
人でないものが、自らの髪を手で梳くものか。
人でないものが、眼球を動かせるものだろうか。
腹の底が冷える。
反射的に、傍らの女を見た。
滑らかな頬の肌が、窓辺の陽光に照らされて白く輝いている。
手足は二本ずつで、目鼻口が揃っている。
造形は正しく芸術的で、定規で測ったように均整がとれている。
震える指で頬に触れると、冷ややかながら微かな温もりを感じた。
──当然か。
息を吐く。
冷えた汗が額を流れ落ちるのが、随分と遅く感じられた。
人なのだから、血が通って温かいのは当然だ。
小柄な背丈に、装飾過多の服などを身に付けているから無機物めいて見えただけだった。
他人に触れられてなお動かぬ表情は一種の意地なのだろうか。
一度緊張が解けてしまえば可愛らしくも思える。
あれほど恐ろしく見えた眼球ですら、ただ他人の神経に鈍いだけの目をしているだけと見えた。
指先から腕を視線でなぞれば、何のことはない、子どもと見紛う細腕がそこにあるだけだった。
だが、それでも女の顔は動かない。
人間の顔と云えども、これほどまでに整っているのだ。観察されることに慣れているのだろう。
見られ、触れられ、言葉をふいにされ、それでも動かぬのだ。
なるほど、と合点する。
鉄面皮とはよく言ったものだが、つまるところ人形のようなものだ。
不気味なふりをして、人形のように振る舞って、そうして人を怖がらせて楽しんでいたのだ。
それを初対面の人間に冷ややかに観察されたものだから、慌てて別の手口を取ったのが、
「ねえ」
ということだった。
そう思うと腹の底を暴きたいのが人情だ。
細い胴を片手に持ち上げ、じっと瞳を見詰める。
動かない。
ただ目前の人影を反射するだけで、手荒い扱いにも負けず瞼を開いている。
前腕を持って肘を曲げてみるが、僅かな関節の抵抗があるのみでだらりとしている。
堂に入った根性と言えよう。
その間も鉄面皮は微塵も動かず、しらを切っているようにすら見えた。
しかし、幾ばくかの感情をも滲ませることがなかったことを思えば、進歩と言うべきか、あるいは無法を働く者を責め立てているようにも感じる。
人間なのだから当然だろう。誰とて、勝手に持ち上げられて弄ばれてはたまらない。
面白くなり始めた心を鎮め、女を机に降ろしてやる。
当分の興味はこの女で満たされるような気がしていた。
確信とも言うべき感触だった。
ふと見れば、時計の針は夜に差し掛かろうという時刻を示していた。
元より、用事があってこの部屋に居たわけではなかった。
まさしく、何かに呼び込まれるように入室し、部屋の主にも断らずに居座っていただけなのだから始末が悪い。鍵の管理なども出来ないので、何かあっては都合も悪くなる。
椅子に預けていた荷物を持ち上げる。知らぬ間に日光で温められていたのか、帆布で出来たその表面は人肌ほどの温度になっていた。それと知らずに背負ったので、まるで小さな子どもでも張り付いたかと錯覚して、反射的に鞄を背負い直した。
電車のシートがヒーターで温められているのと、前の乗客の体温が残っているのとでは違う感触がする。
生きてもいないものから体温に近いものを感じたと思うと、急に気味が悪くなった。
急かされた気分で机に背を向けると、
「ねえ」
と、また声がする。
茶番劇はまだ続いているのだろうか。
振り向くと、机に乗せてやった時とまるで変わらない姿勢で、女はこちらを見ていた。
動かぬ顔で、曇らぬ瞳を黒く染め上げて、じっと見ている。
気を確かに持たねば、目を合わせたまま動けない。
視線を交わして、また戻りたくなる。
怖さはない。
ただ、その眼球の奥にある、女の根本を知りたいと望んでしまう。
あるとも分からぬものを、追い求めてしまう。
──冒険家でもあるまいに。
未練を振り払い、そのまま部屋を後にする。
古びたドアをぴしゃりと閉める。
閉じておけば、見ることはない。
女は人形のふりをして、今も机の上にいるのだから。
そのはずだ。
扉を見る。
曇りガラスの填め込まれた、重い木製のドアだ。
囁く声が漏れ出るはずもない。
細腕では開くのにも苦労するだろう。
そう理解して背を向ける。
一人分の足音だけが廊下に反響していた。
散歩よりもずっと早く、小走りにも近いリズムで足を交互に出す。
怖いことなど何もないはずだった。
ただの人を、人間を恐れることはない。
やがて、廊下の端が見える頃。
忙しなく続いていた歩みが、はたと止まった。
声がしたのだ。
甘い声だった。
耳朶を叩いて、鼓膜が溶けて、脳髄までを侵していくような、柔らかな声だった。
言葉はない。
意味があるのかも分からないが、ただその声は、
「ねえ」
と言う。
だから、やはり。
その女が死に顔が、無性に気になってしまった。