その日の冬空は、不気味なほどに透き通っていた。
ヴィエネッタ・ウェリントンは、自身の魔術回路をフル稼働させ、空間に重重の「ヴェール」を編み上げていた。
サブ回路40本が、まるで精密機械のように熱を帯び、彼女の神経を焼く。
視線の先には、この世の物理法則を嘲笑うかのような「青」の閃光。
そして、その奔流に呑み込まれようとしている、愛する男の背中があった。
「逃げて、ライナス…!」
叫びは、轟音に掻き消された。
蒼崎青子――第五魔法の体現者が放った魔弾は、敵対する魔術師を粉砕するついでと言わんばかりの余波で、ヴィエネッタが必死に構築した防御結界を、まるで薄紙のように引き裂いた。
「あ――」
ヴィエネッタの視界がスローモーションになる。
彼女が毎日、サブ回路を10本ずつ割り当てて、その健康と安眠を守るために調整し続けてきた彼の体が、魔法使いのついでの出力に耐えきれず、内側から弾けるのが見えた。魔術回路の暴走。
過負荷による魂の損壊。
彼は、ヴィエネッタの方を振り返ろうとして、その直前に崩れ落ちた。
指から、彼女とお揃いだった銀の指輪が滑り落ち、硬いアスファルトに空虚な音を立てて転がる。
「…あら。ごめんなさい、巻き込んじゃったかしら」
爆煙の向こうから、赤い魔法使いが歩いてくる。
その瞳には、一人の魔術師が廃人になったことへの悪意など微塵もなかった。
ただ、効率的に、最善の結果として掃除を終えたあとの、清々しいほどの無関心。
「…運が良かったわね。死んではいないみたい。あとはそっちで何とかしなさいよ」
青子はそれだけ言い残し、翻る髪と共に去っていった。
ヴィエネッタは、動かなくなった婚約者に駆け寄り、その冷たくなり始めた手を握りしめた。
彼の魔術回路は一本残らず焼き切れ、その精神は虚数の彼方へ霧散していた。
生きてはいる。
だが、そこにヴィエネッタが愛した彼はもういない。
その瞬間、ヴィエネッタの中で何かが音を立てて壊れた。
いや、壊れたのではない。定まったのだ。
「…ああ、そう。魔法なら、何でも許されるのね」
彼女の深層意識に眠っていた起源『執着』が、音もなく覚醒する。
研究者肌の秀才として積み上げてきた19年間の研鑽が、すべて黒い情念に塗りつぶされていく。
数ヶ月後、ライナスが息を引き取ったその日から、ヴィエネッタは「日常」を捨てた。
時計塔の友人たちが「色ボケ」とからかっていた、あの柔らかな笑顔は二度と戻らない。
彼女は、青子が謝罪の印として届けにきたライナスの指輪を、受け取ることすら拒絶した。
「そんなもの、いらない。…私が、自分で取り戻すから」
対話は不要。謝罪も無意味。
彼女が求めているのは、青子という理不尽を、自分が編み上げる虚空の中に永遠に閉じ込め、二度と誰の日常も壊させないこと。
ヴィエネッタは、最後の一ページに『虚空への旅路(ヴォイド)』と書き記した魔導書を閉じ、喪服のような黒いドレスを纏う。
サブ回路40本は、もはや紅茶の温度を保つためには使われない。
ただ、蒼崎青子という存在を、この世から分断し、引きずり下ろすためだけの鎖として。
「いつかどこかで、また会えるかな…ライナス」
暗い工房に、冷徹な独り言が響く。
それは、魔法使いへの復讐劇の幕開けであり、同時に、一人の少女が自分自身の日常を永遠に葬り去るための葬送曲だった。
惨劇から数ヶ月。
時計塔の演習場の隅で、ヴィエネッタ・ウェリントンは初めて復讐者として蒼崎青子の前に立った。
対話はない。ヴィエネッタが編み上げたのは、日常を隠すためのヴェールを攻撃へと転じさせた、空間の多重断絶術式。
サブ回路40本をフル稼働させ、虚数特性による存在の削り取りを仕掛けた。
だが、青子は欠伸混じりに指先を鳴らす。
「――ああ、あの時の。悪いけど、今は忙しいのよね」
極彩色の魔弾が一閃し、ヴィエネッタが数徹夜して組み上げた緻密な術式を一瞬で霧散させた。
出力の暴力。計算も工夫も、圧倒的な量の前では無意味だと突きつけられる。
ヴィエネッタは衝撃で吹き飛ばされ、冷たい石畳に叩きつけられた。
「あんた、才能はあるみたいだけど、使い道が暗いわよ。もっとマシなことに使いなさいな」
青子は背中を向けたまま、一度もヴィエネッタの目を見ることなく去っていった。
地面に這いつくばったまま、ヴィエネッタは血の混じった唾を吐き出す。
「…マシな、こと…?」
握りしめた拳が白く震える。
(あの日、あなたが壊した私達の日常以上に、価値のあることなんてこの世にないわ)
胸の奥で、起源『執着』がどろりと融解し、神経に浸透していく。
青子が自分を取るに足らない弱者と見なしたこと。
その傲慢さが、ヴィエネッタの執念を純化させた。
次は、出力で挑まない。
魔法の理屈さえ通じない無の中に、あの女を引きずり込む。
それからさらに一年。
再び相まみえた時、ヴィエネッタに言葉は残っていなかった。
19歳になった彼女の瞳には、秀才と呼ばれた頃の知性はなく、ただ一点を射抜くような虚無だけが宿っている。
青子は、今度は笑わなかった。
目の前の少女が、魔術師としての倫理も生存本能も、すべてを自分を殺すための演算に捧げた異物に成り果てていると察したからだ。
「…話す気、ないみたいね」
ヴィエネッタは無言で回路を回す。
メイン18本が盾となり、青子の魔弾を文字通り命を削って受け止める。
焼き切れる神経。沸騰する血液。
だが、その裏で、40本のサブ回路は逆流を始めていた。
「『束縛する境界(バインド)』」
初めて口にした術式名は、呪詛のように響いた。
青子の周囲の空間が、虚数領域へと沈み始める。
魔法使いの機動力が一瞬だけ、物理法則の無視できない重みに捕まった。
「――っ、これ、内側に…!?」
青子が気づいた時には遅かった。
ヴィエネッタは、勝つことを捨てた。
彼女は自分の存在そのものを特異点へと変え、全魔力を内側へと縮退させていく。
「『虚空への旅路(ヴォイド)』」
光が消えた。
ヴィエネッタの肉体が、影のように薄くなり、周囲の物質を、音を、そして蒼崎青子の未来を飲み込みながら内側へと崩壊していく。
そこにあるのは、憎しみですらない。
ただ離さないという、赤ん坊のような、あまりに純粋で暴力的な執着。
(いつか、どこかで…)
縮退の渦中、ヴィエネッタの意識は急速に普通へと戻っていく。
魔術師としての計算が消え、復讐者としての矜持が消える。
最後に残ったのは、19歳の女が抱くにはあまりに重すぎた、ただの恋心。
(やっと…会いに行けるわね、ライナス)
自らの存在を完璧に消滅させる引き換えに、彼女は虚数の闇の中で、青子の手から「彼の指輪」を力ずくで奪い取った。
静寂が戻った戦場。
そこには、抉り取られたような円形の空白だけが残されていた。
蒼崎青子は、肩で息をしながら、誰もいない虚空を見つめていた。
魔法使いの特権をもってしても、消えた彼女を取り戻すことはできない。
ふと足元を見ると、二つの銀の指輪が、寄り添うように重なって落ちていた。
青子が返そうとして拒絶された指輪と、ヴィエネッタが肌身離さず持っていた指輪。
「…馬鹿ね。本当に、馬鹿なんだから」
青子の声は、微かに震えていた。
後日、青子は彼女の遺した魔導書『陰の導きと日常へのささやかな彩り』を時計塔に提出した。
そこには、世界を滅ぼす呪文ではなく、紅茶を冷まさないための術式や、隣に座る人の安眠を守るためのヴェールが、美しい数式で綴られていた。
「あの子の才能なら、もっと…」
時計塔の友人が泣きながら叫んだ言葉を、青子は否定しなかった。
「うん。わかってるわ」
青子は、二度と戻らないヴィエネッタの笑顔の価値を噛み締めるように、そっと目を閉じた。
その胸には、どんな魔法でも癒やせない、秀才の少女が遺した日常という名の、鋭い棘が刺さったままだった。
ヴィエネッタ・ウェリントンがこの世から「縮退」し果てて数ヶ月。
時計塔の全体基礎(一般魔術)の演習場には、奇妙な活気が戻っていた。
「…ちょっと、そこ! 虚数位相の同期が0.02秒遅れてるわよ! ヴィエネッタなら鼻で笑いながら並列処理してたわ!」
怒声を上げているのは、ヴィエネッタの親友だった少女、カリンだ。
彼女の周囲には、かつてヴィエネッタと昼食を共にし、彼女の「色ボケ」エピソードを肴に紅茶を飲んでいた数人の魔術師たちが集まっている。
彼女たちの前には、最新の魔術演算機と、蒼崎青子が提出したあの魔導書『陰の導きと日常へのささやかな彩り』の写しがあった。
「いい? 私たちの目的はただ一つ。あの『破壊魔』蒼崎青子を、魔術の深淵で、…いえ、日常の解像度で叩き潰して泣かすことよ!」
「「「オー!!」」」
シュプレヒコールが上がる。
彼女たちが開発しているのは、殺傷能力ゼロ、破壊力皆無。
しかし、受けた者の精神を確実に摩耗させる嫌がらせ術式――通称『ヴィエネッタの溜息(ヴェール・オブ・レクイエム)』だった。
数日後の時計塔、中央廊下。
蒼崎青子は、いつものように周囲を威圧するような足取りで歩いていた。
だが、ある地点に差し掛かった瞬間、彼女の眉根がピクリと動いた。
(…また来たわね)
空間が、微かに揺れた。
青子が手に持っていた、紙コップのコーヒー。
それを口に運ぼうとした瞬間、指先に奇妙な分断が生じる。
飲もうとしたはずのコーヒーが、気づくと一口も減らずに元の位置に戻っている。
「…っ、またか!」
青子が魔力を練る。
だが、相手は攻撃をしていない。
ただ、虚数特性を用いて物事の継続性を一瞬だけ横に逸らしているだけだ。
コーヒーを飲もうとする。空振る。
階段を登ろうとする。一歩戻る。
お気に入りのペンでサインをしようとする。
インクが出る直前で、ペン先が虚数のヴェールに包まれる。
「…もう、いい加減にしなさいよ!」
青子が廊下の角に向かって叫ぶ。
そこには、数人の女子学生が、ヴィエネッタ直伝の「空間にヴェールを掛ける魔術」を多人数で繋ぎ合わせ、必死に演算を維持している姿があった。
「あら、魔法使い様。どうしたんですか、そんなにイライラして。魔力の出力なら世界一でも、日常の動作一つ満足に完結させられないなんて、ヴィエネッタが聞いたら呆れますわよ?」
カリンが、勝ち誇った顔でヴェールの影から顔を出す。
「あんたたち…! こんな下らない術式に、何人かけてると思ってんのよ! 回路の無駄遣いでしょうが!」
「無駄じゃありません! これはヴィエネッタが愛した彩りの正当な継承です! さあ、次の一歩も虚数に滑り落ちなさいな!」
青子は拳を固めるが、殴るわけにもいかない。相手は非戦闘員で、やってくるのはちょっとした不便だけだ。
だが、その不便の積み重ねが、青子に思い出させるのだ。
かつて静かにヴェールを編み、紅茶の温度を保ち、誰かの歩幅を優しく見守っていた、あの「色ボケ」の少女のことを。
「…ふん。あの子なら、もっとスマートにやってたわよ」
青子が吐き捨てるように言うと、友人たちの顔から一瞬だけ笑みが消えた。
そして、カリンが静かに、だが重い言葉を口にする。
「…わかってるわよ。あの子の技術も、あの子が守りたかった笑顔も、あんたには一生作れない。…だから、せめてあんたの傲慢な一日を、あの子の残滓で少しだけ不自由にしてあげるわ」
青子は何も言わず、わざとらしく大きな足音を立てて歩き出した。
何度も足がもつれそうになり、何度も舌打ちをしながら。
その背中を見送りながら、友人たちはヴィエネッタの魔導書をそっと抱きしめる。
「ねえ、ヴィエネッタ。今日のアイツ、コーヒー飲めなくて本当に間抜けな顔してたわよ」
夕暮れのころ。
青子は、ようやく分断から解放され、冷めきったコーヒーを一口飲んだ。
不意に、部屋の隅に置かれた、預かり知らぬはずの日常のヴェールが微かに揺れた気がした。
「…そうね。あの子の勝ちでいいわよ、もう」
青子の目から、一滴だけ涙がこぼれ、コーヒーの中に落ちた。
それは友人たちが望んだ勝利の瞬間であり、ヴィエネッタが遺した日常という名の呪いが、魔法使いの心を完全に侵食した証でもあった。
時計塔の片隅で、今日も「色ボケ」たちの反乱は続く。
それは、死んでもなお止まらない、あまりにもしつこく、あまりにも温かな執着の物語。
あとがき
起源覚醒って本当に呪いでしかないですよね。