怪人のいない街でヒーローをやっていたら、俺のほうが指名手配されました 作:宙うし
大阪の北のほうに住んでいると、人生がいまいち大事件にならない。
京都みたいに観光客で毎日わちゃわちゃしてるわけでもないし、梅田みたいに眩しくもない。かといって兵庫の海側みたいな洒落た感じもない。吹田、茨木、高槻、箕面、そのへんを電車で横に流れていく風景は、だいたい似たようなマンションとロードサイド店とイオンと田んぼのハーフ&ハーフでできている。
悪く言うつもりはない。俺もその景色の一部だからだ。
朝は阪急に揺られ、昼は得意先にカタログを届け、夕方には上司に「唐洲くんさあ、君のメールはなんで毎回ちょっと暗いの」と突っ込まれ、夜はスーパーの惣菜半額シールに命を救われる。趣味は特撮鑑賞。生きがいも、だいたいそれだ。
小さい頃から思っていた。
俺も、変身したい。
いや、わかってる。二十六にもなって言うことじゃない。だが言わせてくれ。男は何歳になっても、駅のホームで向かい風を浴びると一瞬だけ「ここで変身できたらな」と思う生き物なのだ。たぶん。
その日もそうだった。
京都の取引先に資料を届けて、高槻市駅で途中下車して、意味もなくアクトアモーレの本屋をうろつき、帰りの電車を待ちながらホームの端で缶コーヒーを飲んでいた。夕方の空は鈍い紫色で、山のほうだけが変に黒い。雨が来る匂いがしていた。
そのとき、ホームの奥で、子どもがひとり、線路側にふらふら歩いていた。
あ、と思った。
保護者らしい母親はスマホに夢中で、少し離れている。警笛が鳴る。向こうから京都線の準急が入ってくる。あれ、まずいんじゃないか──そう思ったときには、もう体が動いていた
人間、いざってときは考えるより先に動くらしい。知らなかったぜ。
ただ、俺の運動能力はヒーローどころか平均未満なので、走ったところで劇的に速いわけではない。あと三歩、いや二歩、いや間に合え──そう思った瞬間、子どもの足がホームの縁でぐにゃりと崩れた。
小さな体が、線路側へ傾く。
俺は反射でその腕を掴んだ。掴んだ、のだが、勢いを殺しきれなかった。踏ん張ろうとした足が空を切り、靴底がホームの縁を嫌な角度で滑った。
「しまっ──」
子どもを抱え込んだまま、俺の体ごとホームの下へ落ちる。
視界が反転した。背中に硬い衝撃が走る。線路の砂利が腕に食い込む。頭のすぐ上で、列車のブレーキ音が悲鳴みたいに軋んだ。
死んだ、と思った。
その直後だった。
頭の上で、ばさりっ、どん、と空気の塊が落ちてきたみたいな音がした。
黒い。
視界が一瞬で塗りつぶされる。
いや、失神じゃない。羽だ。大量の、艶のある黒い羽が、線路の上で渦みたいに巻いている。耳元で誰かの悲鳴がして、俺は子どもを胸の下へ庇うように抱き込んだ。その頭のすぐそばで、女の声がした。
「──なんで落ちるんですか。ドジなんですか」
頭の中で、声がした。やけに冷たくて、鋭い、女の声。耳から入ってくるんじゃなくて、脳ミソに直接響いてくる。
「え、なに」
「受信しました。救難信号です。サイアクです」
「は?」
ガチッと、胸のあたりで重い金属音がした。
視線を落とすと、いつの間にか黒い腰帯みたいなものが巻きついている。なんだこれ、ベルト? ちょっと待て、待て待て待て!
「変身適合、仮登録。最低値ですが可とします」
「いや何それ!?」
「黙って変身してください。列車に轢かれますよ!」
「変身!?」
そこから先は、正直よくわからない。
黒い何かが首筋から肩に這い上がって、冷たい金属とも羽毛ともつかない感触が全身を包む。腕が、脚が軽い。なんか視界が狂ったように広くなった。ホームの端、白線の傷、電車の車輪の鉄粉、向こうの広告看板の剥がれまで、やけに細かく見える。
俺は子どもを抱えたまま、線路から一気にホームの屋根のあたりまで跳ね上がり、次いで、ふわりと着地した。信じられないくらいソフトランディングだぜ。
母親が腰を抜かしていた。駅員が口をぐうの音も出ないほど開けて固まっている。周りの乗客が全員、引きつった顔で俺を見ていた。
……まあ、当然だろう。
俺が見ても、たぶん怖い。
ホームのガラスに映った自分の姿が目に入る。
全身まっ黒で、コートみたいに裂けた羽。顔には細長い嘴のある仮面。いや仮面というより、完全に、なんというか、あれだ。病気をばらまくやつと勘違いされそうな、歴史の授業で見た不吉な医者だ。
だが、そのときの俺は混乱のあまり、変な感動がこみ上げていた。
えっ、なにこれ。
めちゃくちゃ格好よくないか?
「そうでもありません」
「心読まないで!?」
また頭の中で女が言った。
「思考がうるさいんです。それより早くその場を離れてください。現状、あなたは善意の一般人ではなく、駅構内に突如出現した嘴の怪人です」
「いやでも子ども助けたし!?」
「怪人!?」
「客観的に見てそうです」
「う、動かないでください!」と駅員が震える声で叫び、後ろの高校生が「ヤバ、動画撮れ」とスマホを掲げた。あ、これアカンやつだ。
「飛んでください」
「飛べるの!?」
「カラスですので」
言うなり、身体が勝手に蹴り出した。羽をばさっと開くと、風が下から押し上がり、視界が一気に跳ね上がった。
高槻市駅の屋根が、足の下にある。
「うおおおおおお!?」
飛んだ。飛んでしまった。俺は夕方の高槻上空を、黒い巨大な鳥人間みたいな格好で滑空している。
夢なら覚めろ、と思ったが、夢にしては風が冷たすぎる。あと、眼下の風景があまりにも見慣れた北摂である。芥川の流れ、171号の車列、ちょっと先に見えるマンション群。全然異世界じゃない。めちゃくちゃ地元だ。
そんなローカルな空を、俺は飛んでいる。
「左です」
「え」
「ビルにぶつかります」
「うわあああああ!」
がつん、と看板をかすめた。居酒屋の看板がひしゃげた。ごめんなさい。
なんとか体勢を立て直し、住宅街の上を低く流れる。洗濯物の間を抜け、電線にひっかかりそうになり、心臓が口から出かけた。飛行ってもっと爽快なものじゃないのか。思ってたのと違う。ぜんぜん優雅じゃない。
やがて、茨木と吹田の間くらいにある、人気のない河川敷へと落ちるように着地した。っていうか、着地というより転倒だ。土手を三回転がって、ようやく止まる。
全身が痛い。変身ヒーローなのに、痛いものは痛い。
「お疲れさまです」
「誰だよお前……!」
顔を上げると、黒い羽の塊みたいなものが、街灯の上にちょこんと乗っていた。三本足ではなく二本足。目つきの悪い、やたら態度のでかいカラス。
「
「カラスが喋った……」
「精霊です」
「無理があるだろ!」
「突然、変身したあなたほどではありません」
返す言葉がなかった。
「事情を説明します。私は本来、大いなる災厄を監視する存在でした。しかし少々手違いがあり、あなたに接続されました」
「接続ってスマホじゃないんだから」
「では言い方を変えます。あなたに憑きました」
「もっと怖い言い方するなよ!」
黒羽と名乗ったカラスは、羽づくろいでもするみたいに平然としている。
「なんで、俺なんだ?」
「ヒーロー願望だけは異様に強かったので」
「そこしかないの!?」
俺は土手に座ったまま、しばらく黙った。向こうでは名神の車の音が流れ、遠くの住宅地に灯りが点き始めている。北摂の、いつもの地元のなんでもない夜だ。ただ、もう二時間前までの世界には戻れない気がした。
「……つまり、俺、変身できるんだな?」
「現状は、駅構内で未確認飛行怪人として撮影され、看板を一枚破壊した危険人物ですが」
「急に現実で殴ってくるのやめろ!」
そのとき、俺のスマホが震える。
画面には通知が山ほど出ていた。ニュース速報、SNS、動画サイト。
震える指でひとつ開く。
阪急高槻市駅で線路内侵入騒ぎ 鳥のようなお面の人物目撃
【北摂通信社】
二十六日夕方、阪急高槻市駅で線路内に人物が立ち入ったとの情報があり、阪急電鉄は上下線の一部区間で一時運転を見合わせた。
阪急電鉄によると、駅係員が対応にあたり、安全確認を行ったという。
目撃者の話では、現場には鳥のようなお面をかぶり、黒い服を着た不審な男がいたといい、駅構内は一時騒然となった。
男はその後、その場を離れたとみられ、警察などが当時の状況を調べている。
「いやいやいやいや……、不審者ってなんだよ! 子ども助けただろ!」
「世間一般では、線路に落ちて変身して飛び去る嘴の人物を、まずヒーローとは呼びません」
「そこをなんとかするのが説明ってもんだろ!」
「説明する前に飛び去ったのはあなたです」
「ぐっ……!」
さらに下へスクロールすると、関連記事や動画がずらりと並んでいた。
『高槻市駅に謎の怪人出現』
『黒い鳥人間か』
『ペスト医師みたいなのが子どもさらおうとしてた?』
『怖すぎる』
『大阪の治安どうなってんの』
「さらってねえよ!」
叫んだ俺に、黒羽があきれたように首を傾げる。
「ですから申し上げたでしょう。あなた、見た目が完全に怪人なんです」
「じゃあどうすんだよ! せっかく変身できるのに!」
「知りません。工夫してください」
「雑!」
川向こうを走るモノレールの灯りが、夜の中をするすると滑っていく。
その光を見た瞬間、なぜか俺の目がそっちに吸い寄せられた。いや、モノレールの灯りじゃない。その下、自販機の釣り銭口の横に、誰かが落としたらしい銀色のキーホルダーが光っている。
妙に気になる。
……なんだあれ。ちょっと拾いたい。
「やめなさい」
「まだ何もしてないだろ!?」
「目線でわかります。カラスの習性に引っ張られています」
「最低じゃねえかこのヒーロー!」
北摂の冷たい夜風が吹いた。
怪人扱いされ、カラスに呆れられ、それでも。
俺は今日、空を飛んだのだ。だったらもう、やるしかない。
「今、ろくでもないことを考えましたね」
「正義の決意だよ!」
「同じ意味です」
こうして俺、唐洲直人のヒーロー活動は始まった。
ただ開始一日目にして、すでに全国ニュースの不審者枠。先行きは、びっくりするほど暗かった。