怪人のいない街でヒーローをやっていたら、俺のほうが指名手配されました 作:宙うし
酔っ払いの喧嘩を止めた翌日、俺は自室の床に転がっていた。
心が死んでいた。
スマホの画面には、昨夜の俺がいた。黒い嘴。広がる羽。逃げ惑う酔っ払い。どう見ても人助けではない。どう見ても北摂の夜に現れた怪異である。
『北摂に出るカラス男、ついに人を襲う瞬間か』
『黒いのが羽で人を捕まえてる』
『これ普通に怖いわ』
『大阪北部おわり』
「終わってんのは俺の社会的信用だよ……」
俺は呻いて、畳に額をつけた。
窓枠にいた黒羽が、いつもの冷たい声で言う。
「昨夜の件について、反省点は明白です」
「わかってるよ」
「言ってみてください」
「……助け方が怪人だった」
「もっと具体的に」
「暗い路地に上空から急降下して、酔っ払いを羽で抱え込んだ」
「はい」
「どう見ても捕食だった」
「はい」
あまりに容赦がない。
俺はごろんと仰向けになり、天井を見た。安い照明がじんわり明るい。昨夜の俺はあんなに必死だったのに、世間に伝わったのは「夜の路地で人を絡め取る怪鳥」だけである。理不尽だ。いや、理不尽というほどでもないかもしれない。映像だけ見たらそうだし。
「でもさ」
「なんでしょう」
「ちゃんと助けたんだぞ、俺」
「頭部打撲の危険を防いだ点については事実です」
「だろ?」
「ただし、その事実を見た目が全部台無しにしています」
「そろそろその言い方やめない?」
やめてくれなかった。
俺は仕方なく起き上がり、コンビニで買ってきたパンをかじりながら、動画サイトをだらだら眺めた。世の中には俺みたいなさ失敗をしているやつが、もしかしたらいるかもしれない。人助けしたのに誤解されて炎上している者同士、学べることもあるだろう。
そんな期待は、三分で打ち砕かれた。
おすすめ欄に出てきたのは、筋トレ系、都市伝説系、炎上まとめ系、あとやたらサムネのうるさい私人逮捕系配信者だった。
『逃げる転売ヤーを現行犯で確保しました!』
『迷惑客を直撃して論破!』
『ついに悪を成敗した結果……!』
うさんくさい。
うさんくさすぎる。
だが、再生数はすごかった。俺はむむっと眉をひそめながら、そのうちの一本を開いた。
画面の向こうで、若い男がカメラを自撮りしながら駅前を歩いている。声がでかい。テンションも高い。
『はいどうも! 本日も街の平和を守っていきたいと思います! 悪いやつってね、隠れてるから放置されるんですよ! でも、こうやって人前でちゃんと追い詰めれば、みんなわかるわけ! あ、今あいつ怪しいな──』
動画は最終的に、こいつがただの挙動不審な男に絡んで警察に怒られて終わった。
終わってる。
終わってるのだが、俺は途中でふと止まった。
「……黒羽」
「嫌な予感がします」
「こいつ、やってることはだいぶ駄目だろ」
「はい」
「でも、なんでこいつが“正義側”っぽく見えるかわかるか?」
「声がでかく、自信満々で、人前で堂々とやっているからでしょう」
「それだ!」
俺は立ち上がった。
黒羽が、ものすごく嫌そうに羽を膨らませた。
「本当にやめてください、その顔」
「いや、わかったんだよ」
「何をです」
「俺がこれまで誤解されてきた理由が!」
「だいたい全部見た目です」
「そこはもう変えられないだろ!」
いや、本当は変えたい。嘴とか。羽とか。声とか。全部。でも今は無理だ。
なら、変えられるほうを変えるしかない。
「俺、これまで、駅でも路地でも、急に飛び出してぱぱっと助けて、そのまま急いで立ち去りすぎてたんだよ」
「そうですね」
「だから駄目なんだ」
「むしろそれ以外にも駄目な点は多々ありますが」
「いや聞けって。つまりな、隠れて突然助けるから、怪人の襲撃みたいに見えるんだ」
「それはまあ、そうでしょう」
「だったら逆だ」
「逆」
「人がたくさんいる場所で、明るいところで、誰の目にもわかるように、はっきり助ければいいんだよ!」
言い切った俺に、黒羽はしばらく黙っていた。
それから、心底疲れた声で言った。
「つまり」
「おう」
「衆人環視の中で、怪人姿のまま堂々と出ていこうと」
「そう!」
「正気ですか?」
「むしろ今まででいちばん正気だね!」
黒羽が翼で顔を覆った。鳥でもそういう仕草するんだな。
だが、俺の理屈は完璧だった。
たとえばだ。暗い路地で酔っ払いを庇えば、怪人が人を抱え込んでいる映像になる。だが明るい駅前で、みんなが見ている前で、困っている人をはっきり助ければどうだ。少なくとも「何をしたかわからない」は防げる。そうすれば怪人扱いも薄まる。たぶん。おそらく。きっと。
俺は動画サイトの検索窓に「駅前 トラブル」「迷惑客」「酔っ払い 駅」「揉め事」などを打ち込みながら、頭の中で関西の地図を広げた。
「どこがいいと思う?」
「その質問、乗る前提なんですか」
「北摂で、人が多くて、でも梅田ほど広すぎなくて、なおかつ見通しがよくて、逃げ場もあって……」
「犯罪計画みたいな言い方をやめてください」
「ヒーロー計画だよ」
そうして思い浮かんだのが、千里中央だった。
千里中央駅前。
北大阪急行とモノレールが交わって、バスロータリーもあって、買い物客も家族連れも学生も多い。梅田みたいに人に埋もれすぎないし、高槻駅前みたいにごちゃつきすぎてもいない。ペデストリアンデッキがあって見通しもいい。広場もある。人助けの現場を見せるには、かなり都合がいい。
「千里中央だ」
「嫌です」
「まだ何もしてないだろ」
「その地名を出した瞬間に嫌な予感が三倍になりました」
「聞けよ。千里中央なら、明るい。広い。人がいる。つまり」
「つまり?」
「俺が誰かを助ければ、みんなちゃんと見てくれる」
「見たうえで通報される未来しか見えません」
「悲観的すぎるだろ!」
だが、黒羽の反対はだいたい毎回そうだ。ここでひるんでいてはヒーローは務まらない。俺は拳を握りしめた。
「いいか、今までの俺は間違ってた」
「ようやく?」
「ヒーローはこそこそしない」
「私人逮捕系配信者を参考にして得た結論がそれなんですか」
「悪いところは真似しない。人前でわかりやすくやるところだけ学ぶ」
「いま非常に危ういことを言っていますよ」
危ういのは承知だ。だが、勢いのないヒーローに意味はない。
俺はその日の夕方まで、妙にそわそわしながら過ごした。変身していないのに、頭の中だけが出動前だった。千里中央の構造を思い出す。ロータリー、デッキ、改札口、エスカレーター、広場。どこで張れば見やすいか。どこなら飛び降りても目立つか。いや飛び降りる時点でだいぶ目立つな、と思って少しだけ冷静になった。
「ところで」
「なんだ」
「もし何も起きなかったら、どうするつもりです」
「そのときは平和だったってことだろ。いいことじゃん」
「今、ちょっとだけまともなことを言いましたね」
「失礼だな」
夜が来た。
変身の瞬間、いつものように首筋へ冷たい気配が走り、黒い羽と嘴が俺の体を包み込む。視界が広がる。音が研ぎ澄まされる。遠くの車のブレーキ音、信号待ちのざわめき、コンビニの自動ドア、全部がはっきり聞こえる。
だが、今夜の俺はこれまでと違う。
こそこそしない。
隠れて助けない。
堂々とやる。
「その決意がいちばん不安です」
「うるさいぞ黒羽。今夜、俺は生まれ変わる」
「これ以上おかしな生き物にならないでください」
俺は屋上の縁に立った。
北摂の夜景の向こう、観覧車の光が回っている。道路の照明が連なって、街の輪郭を描いていた。そのひとつひとつの光が妙に気になるのを振り払い、俺は千里中央の方角へ目を向ける。
ここからならそう遠くない。
「行くぞ」
「本当に行くんですね」
「千里中央駅前で、誰の目にもわかるヒーロー活動をする」
「言葉だけ聞くと立派ですが、着地予想図が地獄です」
「見てろ。今日で怪人扱いは終わりだ」
「毎回その台詞を言う人はだいたい終わらないんです」
俺は飛んだ。
夜の風が翼のあいだを抜ける。高く、低く、建物の影を渡りながら、俺は千里中央へ向かう。下には住宅地の灯り、幹線道路の車列、静かなマンション群。いつもの北摂だ。だが今夜は、その中心の明るい場所へ、自分から出ていく。
逃げも隠れもしない。
堂々と、正義の味方として。
たぶんこの時点で、黒羽だけはもう結果を悟っていたのだと思う。
「念のため申し上げておきますが」
「なんだ」
「“目立つ”と“理解される”は、同じ意味ではありません」
「縁起でもないこと言うなよ」
千里中央の灯りが近づいてくる。
明るい。広い。人がいる。
条件はそろっている。
今夜こそいける。
「その台詞、三回目です」
「うるさい」
ロータリーにはタクシーが出入りし、デッキを人が行き交う。待ち合わせの連中、買い物帰りの家族、終電前の会社員。どこを見ても、人の目がある。
ここでやる。
そのときだった。
ロータリーの一角で、妙な動きをするタクシーが目に入った。
客を降ろしたばかりなのか、白い車体がゆっくり前へ出る。だが次の瞬間、妙なふくらみ方をした。ほんの少しだけ不自然に鼻先が振れ、止まるはずの位置を越えて、急に前へ突っ込む。
速い。
まずい。
俺の視界が一気に研ぎ澄まされた。タイヤの向き、運転手の姿勢、歩道との距離。全部が一瞬で見える。ハンドル操作を誤った。ブレーキが遅れた。あのままだと歩道へ乗り上げる。
しかも、進行方向の先には男がひとりいた。
三十前後くらいか。会社帰りみたいな格好で、手提げ鞄を持っている。たぶんスマホでも見ていたんだろう。タクシーの異常に気づくのが半拍遅れている。
「黒羽!」
「行きなさい!」
返事を聞くより先に、俺は高度を落としていた。
風が顔を裂く。視界の下で人が顔を上げる。悲鳴が上がる。だが今はそれどころじゃない。
俺は歩道へ突っ込む軌道の少し前へ落ちるように入り、そのまま男の脇腹へ腕を回した。
「グァッ! (捕まれ!)」
もちろん、意味が通じたかはわからない。だが勢いでどうにかなった。男の体を抱え込むのではなく、腰を軸にして横へ弾き、自分の羽を開いて、地面とのあいだへ滑り込ませる。男の体は、歩道の端から広場側へ転がるように飛んだ。
よし、一人目。
まだタクシーは止まっていなかった。歩道の縁石をがつんと越え、前輪が半ば乗り上げてくる。運転手の顔が見えた。白髪の高齢男性が、目を見開いている。たぶん、自分でも止められていない。
だったら、両方助ける。
俺は着地の勢いのまま反転し、両腕を前へ、背中の羽を最大まで広げる。嘴の先でロータリーの照明がぎらっと光った。
「グォオオッ! (止まれえええっ!)」
タクシーのボンネットへ、真正面から羽を叩きつけた。
黒い羽毛と装甲のあいだへ衝撃が食い込む。重い。ものすごく重い。車ってこんな重いのかよ、と今さらなことを思った。前輪が跳ね、俺の脚が路面を削る。だが羽を後ろへしならせて、クッションみたいに衝撃を逃がす。車体が持ち上がりかけて、ぐしゃりと俺の羽のうえへ沈み込む。
耳の横で、タイヤが甲高く鳴いた。
タクシーは俺の羽を押し潰しながら、なお数メートル滑り、それからようやく止まった。
ロータリーが、しんと静まりかえる。
俺はタクシーの前に片膝をつき、広げた羽をゆっくり畳んだ。顔を上げる。歩道へ飛ばした男は、少し離れたところで尻もちをついていた。転ばせはしたが、車の進路からは外れている。運転手もハンドルにしがみついたまま、どうにか生きている。
助かった。
両方、助かったぞ。
「……見たか、黒羽」
「見ました」
「今のは」
「かなりちゃんとした救助でしたね」
「だろ!?」
俺の胸の奥で、何かが爆発した。
やった。
ついにやった。
今のは文句なしだろ。
誰がどう見ても助けた。
暗い路地でもない。こそこそでもない。真正面から、人前で、事故を防いだ。俺は今、完璧なヒーローだった。
ざわ、っと周囲の人々が動き始めた。
「え、なに今」
「助けた……?」
「すご……」
「動画、動画!」
ほら見ろ。
悲鳴じゃない。
いや多少は悲鳴も混じっているが、今までのそれとは違う。恐怖だけじゃない。驚きと興奮と、あと少しの尊敬みたいなものが混ざっている。少なくとも俺にはそう思えた。
「黒羽」
「なんです」
「今、俺たぶん、すげえ見られてる」
「それはそうでしょう」
「これ、かなりキモチいいな……!」
「最低の感想ですね」
ロータリーの向こうからスマホのレンズが何本もこっちを向く。通報する声もある。救急車だ、警察だ、運転手は大丈夫か、歩行者がはねられそうになった、黒いのが止めた。情報が飛び交っている。
俺は、立ち上がった。
風が羽を揺らす。駅前の灯りが装甲の表面で鈍く光る。ここで無言で去るのが、たぶん一番よかったのだと思う。
だが俺は興奮していた。
生まれて初めて、ちゃんとヒーローっぽく見られているかもしれない、その快感に勝てなかった。
だから俺は、ゆっくりと振り返り、野次馬に向けて片腕を斜めに上げた。
決めポーズである。
「……ふんっ」
「やめなさい」
「もう遅い!」
遅かった。
観衆のざわめきが、変な方向へもう一段上がる。
「ポーズ取った!」
「うわ、なんかキモい!」
「でも助けたんちゃう?」
「どっちやねん!」
どっちやねんじゃない。ヒーローだろ。
俺の中では完全にそうだった。
実際、今なら多少キモくても押し切れると思った。結果が出ているからだ。事故を防いだ。人を助けた。車も止めた。文句なし。誰がどう切り取ってもこれは善行だ。
俺は少しだけ嘴を上げ、低く言った。
「グァアッ! (もう大丈夫だ!)」
もちろん、周囲には不穏な怪声にしか聞こえなかった可能性が高い。だが今夜はそんな細部どうでもよかった。大筋が勝っている。俺はついにやったのだ。
遠くからサイレンが近づいてくる。人の波も増えてきた。救急と警察が来る。なら、ここが引き際だ。
ヒーローは救って、去る。
決まりきった美学である。
「そろそろ退散するか」
「珍しく判断はまともです」
「ふっ。見たか黒羽。これが本物のヒーローというものだ」
「その自己陶酔だけで台無しになりそうです」
俺は軽く膝を曲げ、タクシーの脇から飛び上がった。
夜気が気持ちいい。あまりにも気分がよすぎる。ロータリーの人々が小さくなる。千里中央の灯りが眼下に広がる。俺は勝者のような気持ちで、空へ抜けた。
そのとき。
なんか、脚が重い。
「……ん?」
「どうしました」
「いや、ちょっと右足が」
「言っておきますが、今、確認するのはやめなさい」
「なんで」
「嫌な予感がします」
だが確認しないわけにはいかない。俺は駅前ビルの屋上へいったん降り、足元を見た。
固まった。
右足の鉤爪みたいな装甲の先に、見覚えのないものがぶら下がっていた。
手提げ鞄。
さっき、はねられそうになった男が持っていたやつだった。
「……」
「……」
「これ」
「これですね」
「いつ」
「救助時に持ち手が引っかかったのでしょう」
「いやいやいやいや」
俺は鞄を見つめた。
鞄も俺を見つめている気がした。いや目はないけど。
最悪だった。
下から見たら、どうなる。
事故現場から空へ飛び去る黒い怪人の足に、被害者の手提げ鞄がぶら下がっている。
どう見ても火事場泥棒だった。
「終わった」
「ええ、今度こそ本当に」
「違うんだって!」
「その言い訳、たぶん動画のコメント欄では通じませんよ」
「なんで毎回そこを正確に刺してくるんだ!」
すでにスマホが震え始めていた。嫌な予感しかしない。変身中でも通知だけは届くのが本当に嫌だ。恐る恐る見る。
『千里中央の事故現場から怪人が鞄持って飛び去った』
『助けたあと盗んでて草』
『草ちゃうやろ』
『英雄ムーブからの火事場泥棒は意味わからん』
『やっぱ怪人やん』
「ちがうううううう!?」
夜の屋上で、俺は膝から崩れ落ちた。
数分前まであんなに完璧だったのに。
いや、救助自体は完璧だったのに。
なんで最後に鞄ぶら下げて逃げるんだ俺は。カラスか。カラスだったわ。
「どうします」
「返すしかないだろ……!」
「どうやって?」
「そりゃ、こっそり……」
しばらく後、俺は変身を解き、帽子とマスクで顔を隠し、千里中央の交番へ向かった。
手には、例の手提げ鞄。
もう何もかもが嫌だった。駅前はさっきの件でまだざわついているし、警察官も慌ただしい。交番の前を通るだけで動悸がする。だが返さないわけにはいかない。中には財布もスマホも入っていた。身分証まである。届けない選択肢は人として終わっている。
「落ち着いてください」
「無理だろ」
「挙動不審になると逆に怪しまれます」
「もう十分怪しい人生なんだよ!」
俺は意を決して交番へ入った。
「あの……すみません」
「はい、どうされました?」
「鞄、拾いまして」
「どこでですか?」
「えーと、その、道で」
「どのあたりの道ですか?」
「だいぶ広めの意味で道です」
「は?」
駄目だった。
俺は嘘が下手すぎた。
警察官の目が少し細くなる。そりゃそうだ。千里中央駅前で大きめの事故があった直後に、帽子を深くかぶった男が、どこの道かわからない道で鞄を拾ったと言い張っている。怪しさの塊である。
だが中身を確認した警察官は、すぐに表情を変えた。
「あ、これ事故の関係者の方の持ち物かもしれません」
「そ、そうなんですか」
「お届けありがとうございます」
ありがとうございます、が胸に刺さる。
「いえ……まあ……はい……」
俺は消えたい気持ちで頭を下げ、その場を逃げるように去った。
帰宅してからも、しばらく立ち直れなかった。
せっかくうまくいったと思ったのに。あれだけ気持ちよくポーズまで決めたのに。最後が火事場泥棒。最低すぎる。
黒羽も今夜ばかりは、妙に静かだった。
「……なあ」
「はい」
「俺、しばらく活動自粛したほうがよくない?」
「珍しくまともなことを言いますね」
「いやほんとに。もう向いてないって」
「それは前から申し上げています」
「そこは否定してくれよ!」
だが、黒羽は少しだけ間を置いてから言った。
「ただ」
「ただ?」
「今日の救助そのものは、本当に見事でしたよ」
「……そうか?」
「ええ。余計なことをしなければ」
「最後の一言がでかいなあ……」
俺は机に突っ伏した。
その翌日の昼。
知らない番号から電話がかかってきた。
出るべきか少し迷ったが、仕事関係かもしれない。俺はおそるおそる通話ボタンを押した。
「はい、唐洲です」
『あ、すみません! 突然!』
妙に明るい男の声だった。
『昨日、千里中央の事故で鞄なくした者なんですけど……交番から、拾って届けてくれた方の連絡先ここだって聞いて』
「……あ」
『本当にありがとうございました! あのとき事故で頭真っ白やったんですけど、鞄まで戻ってくるとは思ってなくて。めちゃくちゃ助かりました』
俺は、しばらく何も言えなかった。
喉の奥が詰まる。
違うんです、と言いたかった。
拾ったんじゃなくて、たぶん俺が持っていってしまったんです、と。
でも言えない。言えるわけがない。
『あの、もしよかったらお礼させてください』
「い、いや、そんな、大したことじゃ」
『いやいや、ほんまに。命も助かって、荷物も戻ってきて。昨日は最悪やと思ってたんですけど、世の中まだ捨てたもんちゃうなって』
世の中じゃない。
俺だ。
でも俺じゃない。
いや俺なんだけど、そういうことじゃない。
「……その」
『はい?』
「お大事にしてください」
『え?』
「……ほんまに、それだけなんで」
『あ、ありがとうございます……?』
電話を切ったあと、俺はしばらくスマホを見つめていた。
黒羽が静かに言う。
「堪えましたか」
「堪えるわ」
「でしょうね」
「助けたつもりで、でも怖がらせて、最後に荷物まで持ってっちゃって」
「結果としては戻しました」
「そういう問題じゃないだろ……」
俺はベッドへ倒れ込んだ。
天井が遠い。
胸の中に、嫌な重さだけが残る。
今までの炎上とは少し違った。笑い飛ばせない。自分の駄目さが、そのまま刺さってくる。
「……黒羽」
「はい」
「俺、ちょっと本気で考える」
「何をです」
「しばらく飛ばないほうがいいのかもって」
「そうですか」
黒羽は、それを否定しなかった。
それが、かえってきつかった。
窓の外では、夕方の光が街を薄く染めている。北摂の、いつもの平和な色だ。そこへ自分だけがうまく馴染めていない気がした。
ヒーローになりたかった。
なれた。
でも、なった結果がこれだ。
助けても誤解される。
うまくいったと思っても最後で転ぶ。
そして相手に感謝されるたび、自分の未熟さだけが浮き彫りになる。
もう少し、考えたほうがいいのかもしれない。
少なくとも今夜は飛ばない。
今夜くらいは、じっとしていよう。
そう決めた、そのとき。
胸の奥に、びりっと小さなざわめきが走った。
遠くで、誰かの焦りみたいなものが光る。
助けを求める気配。
ごく弱い。だが、確かにある。
俺は反射的に顔を上げた。
黒羽が、ものすごく嫌そうに目を細める。
「いま、自粛すると言ったばかりですよ」
「言った」
「十分も経っていません」
「わかってる」
「顔がもう飛ぶ顔です」
「……これだから、ヒーローってやつは」
「違います」
黒羽は冷たく言った。
「それはただ、あなたが懲りていないだけです」
たぶん、その通りだった。