リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 本人の言葉
アイリス様から調停案を示すかどうかを問われたが、その前に確かめることがあった。私は、申立人の意思を尊重すべきだと主張している。
それなら、相手方本人の意思を聞かないまま調停案へ進めば、こちらにだけ本人の意思を求め、相手方には求めないことになる。私は膝の上で重ねていた手をほどき、委員席へ顔を上げた。
「調停案をお示しいただくかどうかをお答えする前に、相手方御本人のお考えを伺うことはできますか。申立人側は、申立人の意思を尊重すべきだと申し上げました。それなら相手方の意思も、代理人を通さずに御本人から伺わなければ、示された案を受け入れるかの前提が揃いません」
アイリス様は相手方の席を見てから、エドワルド様へ視線を移した。ドルリス様が自分で話すことに差し支えがあるかは、代理人であるエドワルド様にも確認する必要がある。私はその返答を待った。
「相手方代理人。御本人がお話しになることに、差し支えはございますか。代理人を立てておられても、当事者御本人が自ら意思を示すことは妨げません。この席の記録に、個人名は残りません」
その言葉に、ドルリス様がわずかに顔を上げ、卓を越えて私を見た。エドワルド様は本人の意思確認を必要としない局面では、代理人として一手に返答してきた。
しかし、いま突きつけられているのは『ドルリス様自身が口を開くか否か』という問いだ。エドワルド様は初めて体ごとドルリス様の方へと向き直った。
「ドルリス。ここまで私は契約の解釈を述べたが、いま委員が求めているのは、ドルリス自身が何を望むかだ。自分の考えを、自分の言葉で答えてほしい」
エドワルド様は、契約をどう解釈するかは代理人である自分が述べるが、ドルリス様が何を望むかは本人に答えさせると切り分けた。
ならば、私が確かめるべきなのも契約の解釈ではなく、ドルリス様が何を望んでこの話を始めたのかである。
私は、交流を望んで家へ相談し、それが侍女役務契約になった経緯を先に示してから、本人の望みを問うことにした。ドルリス様が椅子の背から身体を起こして私を正面から見たため、一度息を整えた。
「相手方に伺います。相手方は、申立人との交流を望んで、御実家に相談なさいました。それが両家の間で、侍女役務契約という形になって返ってきたのました。その契約には申立人の意思はどこにも入りません。あなたは、そのような世話を望んでおられたのですか」
「違う! 私が望んだのは、仕えてもらうことではない。話がしたかっただけだ。図書室で、静かに本を読んでいる姿を見た。私のような無骨な者には、それが美しく見えたんだ。声を掛ける言葉が見つからず家に相談したら、侍女役務の形で話がまとまった。それで話す機会ができると思っていた」
「違う!」の一声で、私の肩が勝手に跳ね、膝の上の手を握り込んだ。反応したのは私だけではない。
入口寄りに立っていたティナがすぐ半歩前へ出て私の傍らまで来て、壁際のテトラも背を壁から離した。テオドール様の筆は紙の上で止まり、エドワルド様の手も綴りの上で止まった。
アイリス様だけは姿勢を変えなかったが、ドルリス様は周囲の動きに気づかないまま身を乗り出し、最後まで同じ大きさの声で言い切った。
ジェーン様は相談の席で、『お怒りではございませんでした。ただ、お声が大きくて』と言っていた。
そのときは一つの事実として聞いただけだったが、いま自分の肩が跳ねて初めて、怒気がなくても、不意に大きな声を向けられれば身体が先に竦むのだと分かった。階段でジェーン様の足が止まった理由も、同じように考えれば理解できる。
同時に、ドルリス様の『静かに本を読んでいる姿』という言葉から、彼がジェーン様の放課後の事情を知らないまま、図書室で見た姿から交流を望んでいたことも分かった。
ジェーン様が放課後に物語を書いていることは、父親にも伏せている。相談の席で預かったその事情を、私からドルリス様へ明かすことはできない。
私は傍らまで来たティナへ小さく手を上げ、まだ話を続けられると示した。ティナは一度下がったが、元の位置までは戻らず、私の近くに留まった。その姿を確かめると、強張っていた肩からようやく力が抜けた。
私は一度深く息を入れた。ジェーン様が相談の席で話したことは明かせないが、いま私自身が受けた反応なら、私の経験として伝えられる。
大声へ同じ強さで返せば、声の大きさそのものを問題にしていることが伝わらないと思い、声を落として問うことにした。
「先ほど声を上げられたとき、わたくしは身が竦みました。さすがは近衛騎士のお声です。けれど、身構える間もなくあの声を向けられれば、女性には恐れとなります。そのことを、お分かりいただけますか」
ドルリス様は私からティナへ視線を移し、まだ私の近くにいるのを確かめるように見てから、自分の大きな手へ目を落とした。
先ほどまで上がっていた肩も下がる。すぐには答えず、私が身を竦ませたことと、ティナたちが動いたことを、自分の声と結びつけて考えているように見えた。私は、その考えが言葉になるまで待った。
「……階段で名を呼んだときも、図書室の前で待っていたときも。私は、怖がらせていたのか」
先ほどとは違い、声は卓の向こうに落ちるほど低かった。しかも問いは、いまの私の反応だけでなく、階段と図書室での自分の行動へ向いている。
私が身を竦ませ、ティナたちまで動いたことで、自分には害意のない言動でも、ジェーン様には恐れとなっていた可能性があると考え始めたのだと分かった。
誰も口を挟まない静かな室内では、その低い声もはっきり聞こえ、鉢植えで隠した窓の向こうにも届いただろう。
ドルリス様はしばらく自分の手を見たまま考え、それから私へ顔を上げた。
「ジェーンが、私を怖がっていると殿下に話したのですか」
今度は、私自身の反応ではなく、ジェーン様本人が自分を怖がっていたのかを確かめようとしている。
だが、それに答えれば、相談の席でジェーン様が話した内容を相手方本人へ渡すことになる。私はドルリス様から目を逸らさず、答えられる範囲だけを伝えた。
「ジェーン様が相談の席で何をお話しになったかは、ここでは申し上げられません。先ほど申し上げたのは、わたくし自身がここで感じたことです」
私からジェーン様の言葉を確かめられないと分かると、ドルリス様は隣のエドワルド様へ視線を向けた。
自分には知らされていない相談の内容を、代理人であるエドワルド様なら知っているのかと確かめたいのだろう。だが、エドワルド様も相談の綴りを読む立場にはない。
「私も、ジェーン嬢が相談の席で何を話したかは知らない。あの方が何を感じていたのかについて、私から付け加えられることはない。ここで聞いたことと、ドルリス自身が知っていることから、何を望むかは自分で決めるしかない」
エドワルド様からもジェーン様の答えは得られず、ドルリス様はもう一度自分の手へ目を落とした。しばらく考えてから椅子へ深く座り直し、委員席へ顔を向ける。
ジェーン様が実際に何を話したのかは分からなくても、自分の声で私が身を竦ませ、ティナたちまで動いたことは、ドルリス様自身も見ている。その事実から何を選ぶのかを、私は待った。
「ジェーンが本当に私を怖いと言ったかは分かりません。ですが、私の声で殿下が身を竦ませ、皆が動いたのも見ました。自分では何もしていないつもりでも、あのときジェーンを怖がらせていたのなら、それを無視して世話をさせて話すのは違います。私はジェーンと話したいのであって、義務だから側にいてほしいわけではありません。ですから学園では、ジェーンに世話の義務を負わせなくて構いません。話すなら、義務ではないところから始めたいと思います」
ドルリス様は、ジェーン様と交流したいという望みを取り下げたのではなかった。自分が望んだ交流のために、ジェーン様へ世話を義務として負わせることをやめると申し出たのである。
この申し出をジェーン様が受ければ、負担に感じていた世話の義務は学園ではなくなる。一方で、父親が結んだ契約そのものや両家の関係をどうするかまでは、まだ何も決まっていない。
アイリス様は、ドルリス様が示した条件を記録へ残すため、今度は本人へ確認を向けた。ここで確かめる必要があるのは、交流を望んでいるかどうかではない。ドルリス様自身が、学園ではジェーン様に世話の義務を負わせないと申し出た、その一点である。
「相手方御本人。確認いたします。学園ではジェーン様に世話の義務を負わせない、というお申し出で相違ございませんか」
「相違ありません。学園では、ジェーンに世話の義務を負わせないでください。私が望んでいるのは、義務によって側に置くことではありません」
ドルリス様が自分の申し出を確定させると、エドワルド様は前に置いていた綴りを閉じた。
通例や成績の記録を根拠に、契約から世話の内容を確定できると主張してきた代理人が、その資料を閉じたことで、その主張を押し通さないのだと分かった。
「本人がそう申すのであれば、相手方としてそれ以上は求めません。通例と記録に照らせば、世話を求めることもできる契約ではありましたが、代理人が本人の意思を越えることはいたしません」
エドワルド様は、これまで示してきた契約の解釈そのものを撤回したわけではない。
その解釈なら世話を求める余地はあるが、本人が望まない以上、代理人としてその要求はしないと明言したのである。アイリス様はそこまで確認すると、今度は私へ向き直った。
「申立代理人。相手方のお申し出は、申立人が求めておられた世話の範囲を定めることにとどまらず、学園では世話の義務そのものを負わせないというものでございます。この申し出について、申立人側はどうなさいますか」
ドルリス様の申し出は、ジェーン様が求めていた「世話の範囲を定める」ことよりもさらに進み、学園ではその義務自体をなくすというものだった。
世話の負担をなくすという点だけを見れば、私には受けることをためらう理由はない。
だが、この席でまとめた条件を受けるかどうかは、初めから本人が持ち帰って決めることもできる。どれほど有利に見えても、ここで代理人の私がジェーン様に代わって受けるべきではない。
「申立人へ持ち帰ります。受けるかどうかは、申立人の意思を確認してから決めることといたします」
ジェーン様は、相談のときには分からなかったドルリス様の考えを、今日は本人の言葉で聞いた。次に必要なのは、その言葉を聞いたジェーン様自身の答えだった。
私の返答を受け、アイリス様はテオドール様が記録を書き終えるのを待ってから、卓上の書類へ目を落とした。
「では、申立人側は相手方のお申し出を持ち帰り、御本人の意思を確認した上で回答するものとして記録いたします。本日の調停は、これで終了いたします」
テオドール様が最後の一行を書き終えて筆を置くと、エドワルド様は閉じていた綴りを手に取り、ドルリス様とともに席を立った。
ドルリス様は退出するまでこちらへ何かを尋ねることはなく、エドワルド様と並んで扉の向こうへ姿を消した。
扉が閉じるまで、私は鉢植えの向こうへ視線を向けなかった。
相手方が廊下へ出たのを確かめてから席を立ち、ティナとテトラもそれぞれ持ち場を離れる。
アイリス様とテオドール様が記録をまとめるのを残し、私も調停室を出た。