夜風が、やけにぬるかった。
パチンコ屋の自動ドアを抜けた瞬間、コウはわずかに顔をしかめる。店内にこもっていた熱と騒音がふっと途切れ、代わりにまとわりつくような夜気が肌を撫でた。手には景品の入ったビニール袋が一つ。中でペットボトル同士がかすかに触れ合い、乾いた音を立てる。
三時間前までは財布に確かにあったはずの金額―――三万八千円。その数字だけが、頭の奥に妙にくっきりと残っていた。
「……情けねぇな」
吐き捨てるように呟き、コウは肩を落としたまま歩き出す。勝ち負けに執着があるわけではない。ただ、負けたという事実だけが、鈍く後を引いていた。夜の街はどこか間延びしていた。ネオンも人の気配も遠く、音も光も輪郭を失って滲んでいる。
このまま帰るか―――そう考えた時には、足はすでに自宅の方角へ向いていた。その途中だった。
「アンタだな」
不意に、声が落ちる。コウは足を止めた。振り返るより先に、背後の気配だけを拾う。距離は近い。呼吸の位置まで分かる。
「最近ランキングを最速で駆け上がってきてるっていう、オールドルーキーってのは」
若い声だった。軽い調子に聞こえるが、その奥にわずかな硬さが混じっている。コウはゆっくりと振り返る。
街灯の下に、一人の男が立っていた。細身の体にラフな服装。年の頃は十七〜八だろうか。どこにでもいそうな若者に見えるが、その立ち方だけが妙に浮いている。力んではいない。だが、すでに“いつでも動ける位置”に身体が収まっていた。
コウは一瞥だけくれると、興味を失ったように視線を外す。
「何?オジサンのファン?」
ビニール袋を指先で揺らしながら、気の抜けた声で返す。
「悪いけどな。野郎の追っかけなんてむさいだけで、嬉しくねぇんだ。未成年は補導される前に帰んなさい」
男の眉がぴくりと動いた。
「……チッ」
舌打ちが、小さく夜に落ちる。
「勘違いすんなよ、オッサン。オレもランカーだ」
言いながら一歩踏み出す。その動きは軽いが、間合いだけは確実に詰めてくる。
「来な。アンタの実力、俺が試してやる」
距離が、わずかに縮まる。それでもコウは構えない。ただ面倒くさそうに肩をすくめ、ため息を一つ落としただけだった。
「ヘイヘイ。でもさ、今日はやめといた方がいいと思うぜ?」
軽く肩をすくめながら、コウは気のない調子で言った。若者の目がわずかに細くなる。
「なんだ?怖気づいたか?」
挑発を受けても、コウは首を軽く回しながら、面倒くさそうにため息を一つ吐くだけだった。
「いやいや、逆だよ」
ゆっくりと視線だけを戻す。その動きには無駄がなく、自然に相手を捉えている。
「君のために言ってんの」
言葉は変わらず軽い。だが、どこか芯の部分だけが静かに冷えていた。
「パチンコで負けてさ。今、ちょっと機嫌悪いんだわ」
肩の力は抜けたまま、何でもないことのように続ける。
「悪いけど、今日は手加減できそうにねーわ」
その一言で、空気の質がわずかに変わった。男の口元が歪む。
「ハッ、上等だよ」
さらに一歩踏み込み、距離を詰める。その動きには躊躇がない。
「最初からそのつもりだ。あとで言い訳されても困るからな」
コウは小さく笑った。
「……あっそ」
気の抜けた返事。しかし、その目だけはすでに相手を捉えきっている。
「まぁ、一応忠告はしたからな?」
わずかな沈黙が落ちる。張り詰めるほどではない。ただ、言葉が一度途切れたことで、空気の密度だけが少し変わる。夜風がその隙間を抜け、二人の間を静かに通り過ぎていった。男は先に視線を外すと、そのまま踵を返す。
「ついて来い」
振り返りもせず、それだけを言い残して歩き出した。足取りに迷いはなく、向かう先が決まっていることを示している。進む方向は、人の気配が薄れていく側だった。街灯の間隔が広がり、光と光のあいだに影が濃くなる。賑わいから外れたその先に、意図的に選ばれた場所があるのだと分かる。
コウはその背中を一瞬だけ見送り、それから何気なく空を見上げた。薄く流れる雲の向こうに、星はほとんど見えない。
「……やれやれ」
気の抜けた声を落とし、肩を軽く回す。手に提げたビニール袋が小さく揺れ、中のペットボトルがかすかに触れ合った。その音を引き連れるように、コウもまた歩き出す。
距離は一定のまま、間合いだけが保たれる。追うでもなく、急ぐでもない。ただ、同じ流れの中に入るようにして、その後をついていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
男の背中を追ってしばらく歩くと、街の明かりは徐々に途切れていった。人の気配も薄れ、舗装のひび割れた路地が続いた先で、視界が不意に開ける。
辿り着いたのは、長く使われていない工場跡地だった。鉄骨はところどころ剥き出しになり、壁面は風雨に削られて色を失っている。敷地の奥には、半ば崩れかけた建屋が口を開け、内部の暗がりをそのまま外へ滲ませていた。
男はためらいもなく、その中へ入っていく。
足を踏み入れるたびに、乾いた砂と細かな瓦礫が靴裏でざらついた音を立てた。外と同じ夜の空気が流れ込んでいるはずなのに、建物の内側は妙に湿り気を帯びている。古びたコンクリートの匂いに混じって、わずかに火薬の残り香が鼻先をかすめた。
コウはそれに気づいていたが、足を止める理由にはしなかった。入口で一度だけ立ち止まり、周囲へ視線を走らせる。確認は一瞬で済む。構造、死角、距離――必要なものは、それだけで十分に掴めた。
「ずいぶん分かりやすいとこに連れてくるな」
独り言のように呟きながら、そのまま中へ踏み込む。男はすでに奥へ進み、階段の手前で足を止めていた。振り返りはしないまま、こちらへ言葉だけを投げてくる。
「アンタのことは兄貴から聞いてるぜ」
軽い調子だったが、話の内容には引っかかりが残る。
「前にランキング三位にいた、何とかってジークンドー使いの……師匠なんだってな」
その言葉に、コウの眉がわずかに動いた。
「……兄貴?」
コウが短く返すと、階段の途中まで上がっていた男が、そこで初めて振り返った。口元に浮かんでいるのは、わずかに自嘲を含んだ笑みだった。
「ああ、言ってなかったか」
手すりに片手をかけたまま、気楽そうに肩をすくめる。
「オレも深道ってんだ」
そのまま一拍置き、わざとらしく言葉を継いだ。
「アンタも知ってるだろ。このランキングの興行主さ」
コウは何も答えず、ただ視線だけを向ける。相手の沈黙を意に介する様子もなく、男は続けた。
「みーんな、兄貴のことばっかり持ち上げるんだよ。頭いい、カッコいい、強い。完璧で全部持ってるってな」
吐き出すように言い、鼻で軽く笑う。
「だからオレはこう呼ばれる」
わずかに顎を上げ、名乗るように言葉を落とした。
「“深道弟”ってさ」
その呼び名と同時に、壁際に取り付けられた古びたスイッチに指先が落ちる。次の瞬間。カチリ、と乾いた音が鳴った。天井に残っていたわずかな蛍光灯の明かりが、一斉に消える。
視界が落ち、完全な暗闇が遅れて空間を満たすその刹那。火薬の匂いが急激に濃くなった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
闇が落ちきるよりも早く、最初の閃光が弾ける。
乾いた破裂音がひとつ、わずかに遅れて空気を叩く。それを合図にするように、二発、三発と連なり、間を置かず四方から火花が走った。ロケット花火が尾を引きながら空間を横切り、壁に当たって弾け、床を跳ねて軌道を変える。光と音が同時に押し寄せ、空間の輪郭が一瞬で崩れた。視界は閃光に裂かれ、聴覚は破裂音に塗り潰される。仕掛けられている。そう判断するのに時間は要らなかった。
天井からはシャワーのように火花が降り、床では連鎖的に火薬が弾けて火線が這う。左右の壁際からも、軌道を読ませない角度で火の筋が走り抜ける。単発の攻撃ではない。火線が空間ごと押し流すように走る。
その中心に、コウは立っていた。
最初の数瞬、彼は動かない。動けないのではなく、動かないことを選んでいる。目を凝らしても意味がないことを、すでに切り捨てていた。耳に頼っても拾えるのはノイズだけだと理解している。代わりに、足裏で拾う。床を伝わる微かな振動。爆ぜる直前に生まれる圧の揺らぎ。火薬が走る“前触れ”だけを、無駄なく拾い上げていく。
次の瞬間、コウの身体がわずかにずれた。
踏み込むでもなく、跳ぶでもない。ただ、そこにあった位置から静かに外れる。それだけで、通過するはずだった火線は紙一枚分の差を残して空を切り、遅れて走った閃光が視界を塗り潰す頃には、すでに別の場所へと収まっている。
連続する爆ぜの中で、コウの動きは徹底して小さい。大きく避けることはしない。避ける必要のある分だけ、必要な方向へ、必要なだけずらす。結果として、火花はかすりもしないまま通り過ぎていく。
その手には、まだビニール袋がぶら下がっている。中のペットボトルが、衝撃のたびにかすかに揺れ、乾いた音を立てた。そのまま何気ない仕草で、袋ごと横へ放った。
次の瞬間、そちらへ火線が集中する。連鎖する破裂音が投げられた先を覆い、閃光が一点へ収束していく。誘導されている。仕掛けた側がそこに“いる”と判断した結果だった。
コウは、その隙を逃さない。
反対側へ、半歩。踏み出したというより、滑り込むように一拍で位置を入れ替える。火花の密度がわずかに薄くなる“間”だけを正確に抜き、壁際へと寄った。
そこは、爆発の周期がほんのわずかに遅れる位置だった。視界はまだ断続的な光に揺らいでいる。どこが濃く、どこが薄いのか。その分布だけは、完全に掴めていた。
どこに“人がいない”か。その裏返しで位置は確定する。
天井近く、爆ぜの合間に一瞬だけ生まれる“空白”があった。火線の密度がわずかに途切れるその奥で、流れがほんのわずかに歪む。火薬の匂いとは異なる、人体の熱が空気を押し返す微かな揺らぎ。
コウは視線を上げず、足の向きだけを変える。見る必要はなかった。位置はもう決まっている。
再び火花が降る。だが、その到達よりも早く、身体は次の位置へと移っていた。爆ぜる直前の圧を外し、連鎖の切れ目だけを正確に縫って進む。軌道は直線ではないが無駄もなく、結果として最短になる経路だけを選び続けている。
花火の嵐は止まらない。音は途切れず、光は断続的に空間を裂く。それでも、その中でコウの動きだけが異質だった。飲み込まれているのではない。巻き込まれているのでもない。火花の密度が最も薄くなる一点へ滑り込む。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
火花の明滅がわずかに途切れたその合間、“空白”と呼べる領域にだけ、微かな歪みが残っていた。空気の流れが、そこだけ違う。火薬と煙に覆われた空間の中で、人体の熱だけがかすかな輪郭となって浮いている。
コウは足を止めない。見えているわけではない。それでも、そこに“いる”ことは確信できる。その瞬間だった。背後の空気が押される。
踏み込みの圧が、わずかな遅れを伴って背中に届く。次の刹那、膝が来る。低く、速い。花火の爆ぜる音と閃光に紛れながら、一直線に突き上げてくる軌道だった。視覚も聴覚も封じられたこの空間では、それはほとんど不可視に等しい一撃になる。深道の狙いは明確だった。弾幕で足を止め、感覚を削ぎ、位置を固定させる。
―――兄貴ばっかじゃねぇんだよッ‼
だが、それは“最初の一撃”だった。途中で、わずかに止まる。殺しきらない。そのまま、角度が変わる。本命は二撃目。追い打ちの膝がより深く、より正確に顎を狙って跳ね上がる。その軌道の外縁で火花が一つ、コウの肩口をかすめた。布がわずかに焦げ、焼けた匂いが立つ。熱が皮膚の奥に残り、鈍く刺さる。
―――コイツ‼読んでやがるッ⁉
コウの重心がさらに一段落ちた。一撃目の“間”ごと見切るように身体を沈め、二撃目が紙一枚の差で空を裂いた。最短であった。
後方へ伸びた拳が顎を打ち抜き、歯が鳴る。衝撃がそのまま頭蓋の奥へ突き抜けた。衝撃は骨を伝って頭部へと抜け、深道の視界を一瞬で白く弾かせた。だが、それで終わらない。
拳は振り抜かれない。引きもせず、当たった位置に留まったまま、わずかに角度だけを変える。
その変化の中で二撃目が入る。側頭部を打ち抜き、平衡感覚を外側から叩き崩す。意識と身体の同期がずれ、踏み直しが効かなくなる。
それでも、深道は倒れない。
崩れながらも反射的に腕を振るい、距離を切ろうとする。本能に近い動きだったが、その軌道は遅い。すでにコウは、その内側にいる。踏み込んだわけではない。ただ、位置がさらに深く入り込んでいる。
三撃目が落ちる。短く、無駄のない軌道が喉元を抉るように打ち抜き、呼吸の流れそのものを断ち切る。
空気が抜けるかすかな音だけが、火花の中に紛れて消えた。深道の身体が、その場で止まる。次の瞬間、支えを失ったように崩れ落ちた。花火の弾幕はまだ続いている。
それでも、その中心だけがぽっかりと空いたように静まり返っていた。コウはそこでようやく振り返る。倒れた深道を一瞥し、それ以上は見ない。
「……だから言ったろ」
小さく息を吐く。声は相変わらず軽い。だが、その奥に残っていたわずかな苛立ちは、すでに消えていた。
「今日は手加減できねぇって」
天井から落ちてくる火花を、肩に掛けたジャケットで軽く払う。弾けた火の粉は布に触れた瞬間、勢いを失って散った。
足元に転がったビニール袋を拾い上げると乾いた音が、小さく返る。外では変わらず夜の空気が流れているはずだった。
だが、この場所だけが、火薬の匂いと残響に満たされている。コウはそれを気にも留めず、来た道をそのまま引き返す。背後では弾け残った花火が遅れて一つ、また一つと音を立てた。やがてそれも止んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
外へ出ると、夜気は思ったよりも静かだった。
あれだけの爆ぜる音と光に包まれていた直後だというのに、外の世界は何事もなかったかのように均一で、ただぬるい風だけが流れている。遠くで車の走る音がかすかに混じり、街の明かりが低く滲んでいた。
コウは足を止めない。
肩に掛けたジャケットの裾を軽く払うと、付着していた細かな灰が夜の中へと散っていく。指先でビニール袋を揺らしながら、そのまま敷地の外へ歩みを進めた。
背後の建屋は、すでに闇に沈んでいる。さきほどまでそこにあった閃光も、破裂音も、すべてが嘘のように消え失せていた。
「……騒がしいのは苦手なんだよな」
独り言のように呟く。返事はない。だが、それでいい。
しばらく歩いたところで、コウはふと足を止めた。道路脇の自動販売機が、青白い光を落としている。周囲の暗がりの中で、そこだけが切り取られたように浮かび上がっていた。
ポケットを探り、小銭を指先で弾く。
硬貨が投入口に吸い込まれ、機械的な音が短く鳴る。ボタンを一つ押し、取り出し口へ手を差し入れると、冷えた缶の感触が掌に収まった。
プルタブを起こし、軽く傾ける。喉を通る冷たさで、ようやく一息つく。
「……負けた分くらい、取り返さねぇとな」
誰に言うでもなく、ぼやく。
その声音は軽い。だが、その奥にあるものは、先ほどまでの苛立ちとは微妙に質が違っていた。コウは空を見上げた。
薄く流れる雲の向こうに、星はほとんど見えない。夜はまだ浅く、街の熱を完全には手放していなかった。しばらくそのまま立っていたが、やがて缶を軽く振り、残りを飲み干すと、近くのゴミ箱へ放り込む。乾いた音が、短く響いた。それを合図にするように、再び歩き出す。
足取りは変わらない。重心は低く、力は抜けている。ただ前へ進むという事実だけが、静かに積み重なっていく。夜の街は相変わらず静かだった。その中を、コウだけがわずかな熱を引いたまま歩いていく。