鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第九話 ― 立て直すということ

 

朝の空気には、まだ少し冷たさが残っていた。

 

蝶屋敷の庭は、

いつものように静かに整えられている。

 

竹箒の音。

薬湯の匂い。

遠くから聞こえる善逸の情けない悲鳴。

 

それらが混ざり合って、

ようやく“日常”と呼べるものを作っていた。

 

炭治郎はその庭先に立ち、

ゆっくりと息を整える。

 

胸の奥の痛みは、

完全に消えたわけではない。

 

だが、

それに呑まれたままでもなくなっていた。

 

前を向くことは、

きっと簡単なことではない。

 

それでも、

前を向くために足元を整えることはできる。

 

その感覚が、

少しずつ身体に馴染み始めていた。

 

「……良いですね」

 

静かな声が落ちる。

 

真壁は炭治郎の少し前に立ち、

いつものようにその立ち方を見ていた。

 

「肩の力も抜けています」

 

炭治郎は小さく息を吐く。

 

「ありがとうございます」

 

真壁は頷くだけだった。

 

今日もやっていることは地味だ。

 

構える。

歩く。

止まる。

呼吸を整える。

 

それだけだ。

 

だが、炭治郎にはもう分かる。

 

こういう“何でもない確認”が、

いざという時の崩れを減らしてくれるのだと。

 

真壁は言う。

 

「今日は少しだけ、判断力も見ます」

 

「判断力?」

 

炭治郎が顔を上げる。

 

真壁は庭の端へ視線を向けた。

 

「はい。形が整っていても、

焦ると崩れます」

 

「……はい」

 

「ですので今日は、

“出るか、引くか”を見ます」

 

炭治郎は少しだけ目を瞬かせる。

 

それは、

ただ刀を振るより難しい気がした。

 

真壁は庭の端に立てかけられていた木刀を二本取り、

そのうちの一本を炭治郎へ差し出した。

 

「今日はこれを使います」

 

炭治郎は少しだけ目を瞬かせる。

 

「木刀、ですか」

 

「はい。斬るためではなく、

見るための稽古ですので」

 

その言い方がいかにも真壁らしくて、

炭治郎は小さく頷いた。

 

「……はい」

 

木刀を受け取る。

 

手に馴染む重さは、

日輪刀よりもずっと軽い。

 

それなのに、

なぜか気持ちは少しだけ引き締まった。

 

真壁は炭治郎の正面に立つと、

木刀をだらりと下げたまま言う。

 

「打ち込まなくて構いません」

 

「えっ」

 

「今日は、“出るか、止まるか”だけを見ます」

 

炭治郎は少しだけ戸惑いながらも、

木刀を構えた。

 

相手が木人ではなく、

ただそこに“崩れない人”として立っているだけで、

さっきまでよりずっと難しく感じる。

 

真壁は静かに続ける。

 

「前に出るべき時に出る」

 

「止まるべき時に止まる」

 

「それだけです」

 

「……はい」

 

炭治郎は息を整える。

 

真壁は動かない。

 

だが、

その“動かなさ”が妙にやりづらい。

 

どこへ踏み込めばいいのか、

逆に分からなくなる。

 

意を決して一歩踏み出しかけた瞬間、

 

「今は早いです」

 

真壁の声が落ちる。

 

炭治郎は反射的に足を止めた。

 

その直後、

真壁がほんの半歩だけ位置をずらす。

 

それだけで、

さっきまで見えていた“届く位置”が消えた。

 

炭治郎は目を見開く。

 

真壁は何事もなかったように言う。

 

「今のまま出ると、

届く前に崩されます」

 

炭治郎は小さく息を呑み、

もう一度足元を整えた。

 

今度は少しだけ間を取る。

 

だが慎重になりすぎた瞬間、

 

「今は遅いです」

 

また短く言葉が落ちる。

 

同時に真壁が一歩だけ間合いを詰める。

 

炭治郎は思わず肩を揺らした。

 

「……っ」

 

「迷って止まりすぎると、

今度は相手に入られます」

 

炭治郎は息を吐く。

 

難しい。

 

前へ出るだけでも駄目。

止まるだけでも駄目。

 

“今”を見て決めなければならない。

 

それが思った以上に難しかった。

 

「難しいです……」

 

炭治郎が正直に言うと、

真壁は淡々と返した。

 

「難しいことを言っています」

 

即答だった。

 

炭治郎は少しだけ苦笑する。

 

真壁は木刀を下ろしたまま、

静かに続ける。

 

「だからこそ、

崩れた時に戻せる場所を知っておく必要があります」

 

炭治郎は顔を上げる。

 

真壁は短く、

だがはっきりと言った。

 

「迷ったら、立て直してください」

 

その言葉は、

これまで何度も言われてきたことの延長にあるようでいて、

少しだけ違って聞こえた。

 

“崩れないようにする”ではない。

 

“崩れても、戻せるようにする”

 

それは、

今の炭治郎にとって

かなり大きな違いだった。

 

炭治郎はそこで、

無限列車の最後を思い出す。

 

あの時、

自分は何もできなかったと思っていた。

 

追いつけなかった。

守りきれなかった。

間に合わなかった。

 

その悔しさは今も消えていない。

 

でも――

 

あの時の自分は、

崩れたまま前へ出ようとしていたのかもしれない。

 

それでは届かない。

 

届くためには、

まず土台を失わないこと。

 

炭治郎は静かに息を吸う。

 

焦るな。

 

立て直してからでいい。

 

あの日、

蝶屋敷の門前で真壁に言われた言葉が、

今になって胸の奥で形を持ち始めていた。

 

その時だった。

 

木陰の方から、

ばたばたと慌ただしい足音が近づいてくる。

 

「た、炭治郎ぉぉぉ!!」

 

善逸だった。

 

顔色が悪い。

いや、いつも悪いが今は特にひどい。

 

その後ろから伊之助も走ってくる。

 

「おい何だ何だ!」

 

善逸は炭治郎の前まで来るなり、

半泣きで叫んだ。

 

「機能回復訓練の女の子たちが怖いんだけどぉぉぉ!!」

 

「えっ」

 

「何か優しい顔してるのに全然優しくないんだけど!? 何で俺だけ毎回追い込まれるの!?」

 

伊之助が鼻を鳴らす。

 

「お前が遅ぇからだろ!」

 

「違う! 俺は繊細なんだよ!!」

 

炭治郎は一瞬、

いつものようにすぐ間へ入ろうとした。

 

だがその時、

真壁の言葉が頭をよぎる。

 

“迷ったら、立て直す”

 

炭治郎はそこで、

一拍だけ止まった。

 

善逸は呼吸が乱れている。

声も上ずっている。

伊之助はいつも通りだが、

善逸の騒ぎに引っ張られて余計に荒れている。

 

このまま言葉を被せても、

たぶん二人とも聞かない。

 

炭治郎は小さく息を吸って、

まず善逸の方を見た。

 

「善逸」

 

「な、何!?」

 

「一回、息吸って」

 

善逸がきょとんとする。

 

「えっ?」

 

「いいから、一回だけ」

 

戸惑いながらも、

善逸はつられて息を吸う。

 

「もう一回」

 

「え、う、うん……」

 

もう一度。

 

さっきまでの乱れ方より、

ほんの少しだけ呼吸が落ち着く。

 

炭治郎は今度は伊之助を見る。

 

「伊之助、今は待ってくれ」

 

「何でだ!」

 

「今の善逸、ちゃんと話聞ける状態じゃない」

 

伊之助は一瞬だけ不服そうな顔をしたが、

炭治郎の顔を見て、

少しだけ黙った。

 

その間に炭治郎は、

もう一度善逸に向き直る。

 

「で、何があった?」

 

善逸はまだ半泣きだったが、

さっきよりは言葉がまとまっていた。

 

「……訓練が、きつい……」

 

「うん」

 

「あと、何か負けたくないのに、

毎回すぐ息上がる……」

 

炭治郎はその言葉に、

少しだけ目を見開く。

 

善逸なりの悔しさだった。

 

ただ逃げたいだけではない。

 

怖いし嫌だけど、

それでも置いていかれたくないのだ。

 

炭治郎はそこでようやく、

少しだけ笑った。

 

「じゃあ、まず息を整えるところからやろう」

 

善逸が目をぱちぱちさせる。

 

「……えっ」

 

「焦ると余計に崩れるから」

 

その言葉を口にした瞬間、

炭治郎は自分でも少し驚いた。

 

今の言葉は、

たぶん真壁から受け取ったものだった。

 

でもそれを今、

自分の言葉として使えた気がした。

 

少し離れた場所で、

真壁がそのやり取りを静かに見ていた。

 

何も口を挟まない。

 

ただ、

炭治郎がどう動くかを見ている。

 

善逸はまだぶつぶつ文句を言っていたが、

さっきより声の調子は落ち着いていた。

 

伊之助も腕を組んだまま、

一応は黙っている。

 

炭治郎は二人の間に立ちながら、

さっきまでとは違う感覚を覚えていた。

 

無理に抑え込んだわけではない。

 

勢いで押し切ったわけでもない。

 

ただ、

一度崩れた流れを整えただけだ。

 

それだけなのに、

場は少しだけ静かになった。

 

その時、真壁が短く言った。

 

「……今のは良いです」

 

炭治郎は思わず振り返る。

 

真壁は相変わらず静かな顔のままだった。

 

「えっ」

 

「すぐに言葉を重ねず、

一拍置けていました」

 

炭治郎は少しだけ目を見開く。

 

まさかそこを見られていたとは思わなかった。

 

いや、

この人なら見ているかと思い直す。

 

真壁は続ける。

 

「前に出るだけが支え方ではありません」

 

炭治郎は、その言葉を黙って聞く。

 

「立て直すために止まることも、

必要な動きです」

 

その一言に、

炭治郎は静かに頷いた。

 

たぶん今日、

自分は初めてほんの少しだけ

“教わったことを使えた”のだと思う。

 

まだ全然足りない。

 

まだ全然届かない。

 

それでも、

ただ教えられるだけではなく、

少しだけ自分のものにできた気がした。

 

それが、

すごく嬉しかった。

 

その後、

善逸は結局また訓練へ引きずられていき、

伊之助は「次は俺だ!」と騒ぎながらついていった。

 

騒がしい足音が遠ざかる。

 

庭にはまた、

穏やかな静けさが戻ってきた。

 

炭治郎はその背中を見送りながら、

静かに思う。

 

立て直すというのは、

何も自分一人のためだけではないのかもしれない。

 

自分が崩れないことで、

隣の誰かも崩れにくくなる。

 

真壁堅という人は、

たぶんずっとそうやってきたのだろう。

 

自分を整え、

場を整え、

誰かが倒れない位置に立つ。

 

それは、

派手ではない。

 

目立ちもしない。

 

でもきっと、

そういう人がいなければ

前へ出る者たちもまた、

簡単に倒れてしまうのだ。

 

炭治郎は足元を見る。

 

土を踏む感覚がある。

 

まだ未熟だ。

まだ足りない。

 

それでも、

少しずつなら前へ進める。

 

そしてその途中で、

自分もまた誰かの足場になれるなら。

 

それはきっと、

煉獄杏寿郎が命を懸けて守ったものにも

繋がっていくのだと思えた。

 

朝の光が、

庭に静かに差し込んでいる。

 

その中で炭治郎は、

ゆっくりと呼吸を整えた。

 

崩れないこと。

崩れても、立て直すこと。

 

それはきっと、

これから先を進むために

何度でも必要になる。

 

だからこそ――

 

今、覚えていくのだ。

 

 

第九話 終

 




告知漏れてすみません。
本日幕間あります。
20:30分ごろ予約投稿済みです。
よろしければそちらもご覧ください。

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