鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第八十五話 ― 礎

 

岩柱の稽古は続き――

さらに数日が過ぎた。

 

朝の空気は、

変わらず冷たかった。

 

だが――

 

炭治郎の中には、

前までとは違う感覚が残っていた。

 

身体は重い。

 

疲労が消えたわけじゃない。

 

脚も。

 

肩も。

 

背中も。

 

相変わらず軋んでいる。

 

それでも、

ただ苦しいだけではなくなっていた。

 

あの日。

 

一瞬だけ届いた熱。

 

あの境界の向こうへ

指先が触れた感覚が、

まだ身体の奥に残っている。

 

掴めたわけじゃない。

 

自由に使えるわけでもない。

 

だが――

 

確かに、

何かは変わっていた。

 

 

稽古場へ向かう道すがら。

 

善逸が、

死んだ目のまま呟く。

 

「……なんでまだ続いてるの……」

 

「“今日はここまで”って言われたのに……

終わりじゃなかったの……?」

 

炭治郎は、

苦笑しながら息を吐く。

 

「まだ“終わり”とは言われてないから」

 

「えぇぇぇぇぇぇぇ……」

 

善逸の膝が、

本気で折れかける。

 

伊之助は、

肩を回しながら鼻を鳴らした。

 

「けどよォ」

 

「前と違ぇ感じはある」

 

炭治郎は、

その言葉に小さく頷く。

 

違う。

 

確かに違う。

 

まだ届かない。

 

まだ足りない。

 

それでも、

ただ弾かれ、潰され、崩されるだけだった頃とは

何かが違っていた。

 

少なくとも今は――

 

何が足りないかを、

前よりずっと明確に掴めている。

 

 

悲鳴嶼の稽古場へ着く。

 

滝音が、

朝の空気を震わせていた。

 

白い飛沫。

 

冷気。

 

湿った岩の匂い。

 

その全ての中心に、

悲鳴嶼行冥は今日も静かに立っている。

 

揺れない。

 

乱れない。

 

ただそこに在るだけで、

場の軸そのものになっているような存在感。

 

やがて、

低く深い声が落ちた。

 

「始めよう」

 

それだけだった。

 

 

最初は滝。

 

冷たい。

 

重い。

 

痛い。

 

何度立っても、

簡単には慣れない。

 

だが、

炭治郎はもう

ただ押し潰されるだけではなかった。

 

滝の下へ入る。

 

頭から肩へ、

肩から腰へ、

腰から脚へ。

 

圧倒的な水圧が

真っ直ぐに叩き落ちてくる。

 

膝が沈みそうになる。

 

呼吸が乱れそうになる。

 

だが――

 

切らない。

 

吸う。

 

吐く。

 

肩を上げない。

 

首を固めない。

 

足だけで支えない。

 

全身で受ける。

 

悲鳴嶼の言葉が、

身体の中で自然に繋がっていく。

 

整える。

 

乱さない。

 

崩れない。

 

受け止めた上で、

立つ。

 

(……前より、保てる)

 

炭治郎の眉が、

わずかに動く。

 

昨日までなら、

ここでもう呼吸が崩れていた。

 

身体が先に潰れていた。

 

だが今は、

まだ保てる。

 

苦しい。

 

重い。

 

それでも――

 

支えが残る。

 

姿勢が残る。

 

呼吸が残る。

 

その感覚が、

確かにあった。

 

 

次は丸太運び。

 

肩へ担いだ瞬間、

重さが全身へ食い込んでくる。

 

だが、

炭治郎は慌てなかった。

 

踏む。

 

腰を落とす。

 

背中を通す。

 

呼吸を繋ぐ。

 

一歩。

 

二歩。

 

三歩。

 

昨日までより、

明らかにぶれない。

 

腕だけに逃げない。

 

脚だけで潰れない。

 

全身で支える形が、

ようやく少しずつ馴染み始めていた。

 

「……っ」

 

肩の奥が焼ける。

 

肺が苦しい。

 

それでも、

呼吸を切らない。

 

切らないまま、

最後まで通す。

 

そのことだけに、

炭治郎は集中した。

 

善逸が、

少し離れた場所で

半泣きのまま丸太を引きずっている。

 

「重いぃぃぃ……!!

なんでこんなの運ぶのぉぉ……!!」

 

伊之助は、

歯を剥きながら

力任せに押し切ろうとしていたが、

昨日までより明らかに

無駄が減っていた。

 

皆、

変わっている。

 

苦しみながら。

 

削られながら。

 

それでも少しずつ、

変わっていた。

 

 

そして――

 

最後は、

岩。

 

炭治郎の前に置かれたそれは、

やはり他の隊士たちのものより

ひと回り以上大きい。

 

重い。

 

大きい。

 

簡単に動くようには見えない。

 

だが――

 

炭治郎はもう、

その前で無駄に力まなかった。

 

腕力じゃない。

 

勢いでもない。

 

最後まで、

全部を繋げて通せるかどうか。

 

それだけだ。

 

岩へ手を当てる。

 

踏む。

 

腰を落とす。

 

呼吸を通す。

 

押す。

 

動かない。

 

重い。

 

全身に、

鈍い圧が返ってくる。

 

腕が震える。

 

脚が軋む。

 

肺が苦しい。

 

だが――

 

ここで崩せば終わる。

 

(切るな……)

 

削る。

 

余分を消す。

 

崩れない。

 

流れを切らない。

 

しなる。

 

押し通す。

 

読ませない。

 

支える。

 

今まで積み上げてきたものが、

一つずつ身体の中で

自然に噛み合っていく。

 

そして――

 

悲鳴嶼の言葉。

 

“最後まで通し切る器”

 

その意味が、

ようやく身体で分かり始めていた。

 

どくん。

 

心臓が、

強く打つ。

 

熱が、

身体の奥で小さく灯る。

 

だが、

前みたいに暴れない。

 

散らない。

 

焼くだけで終わらない。

 

「……っ!」

 

炭治郎が、

深く踏み込む。

 

押す。

 

その瞬間。

 

岩が――

 

確かに動いた。

 

ギリ……ッ

 

鈍い音が、

地面を伝う。

 

「……!」

 

善逸が、

思わず顔を上げる。

 

伊之助が、

目を見開く。

 

炭治郎は、

止めない。

 

呼吸を切るな。

 

崩れるな。

 

熱に呑まれるな。

 

通せ。

 

もう一歩。

 

さらに押す。

 

ギギ……ッ

 

岩が、

今度ははっきりと前へ進んだ。

 

ほんの少しじゃない。

 

明確に。

 

誰の目にも分かる形で。

 

炭治郎の脚が震える。

 

肩が軋む。

 

肺が焼ける。

 

それでも――

 

止まらない。

 

止めない。

 

そしてついに。

 

岩が、

決められた印まで

ゆっくりと滑り切った。

 

 

炭治郎の膝が、

その場で崩れる。

 

「はぁ……っ、はぁ……っ……!」

 

息が熱い。

 

肺が痛い。

 

全身が重い。

 

だが――

 

前みたいな

“崩れた終わり方”じゃなかった。

 

最後まで通した。

 

切らずに。

 

散らさずに。

 

支え切った。

 

その感覚が、

確かに残っていた。

 

 

静寂の中で。

 

滝音だけが、

遠く響いている。

 

悲鳴嶼が、

静かに数珠を擦る。

 

やがて、

低く深い声が落ちた。

 

「……よい」

 

炭治郎が、

荒い呼吸のまま顔を上げる。

 

悲鳴嶼は、

静かに続けた。

 

「今のは、

偶然ではない」

 

一拍。

 

「積み上げたものを、

最後まで支え切った」

 

その言葉が、

炭治郎の胸へ深く落ちる。

 

偶然じゃない。

 

たまたま届いただけじゃない。

 

今のは、

自分で通した。

 

その事実が、

何よりも重かった。

 

悲鳴嶼は、

さらに言う。

 

「極限で崩れぬ者だけが、

最後に残る」

 

「お前はようやく、

その入口に立った」

 

炭治郎の胸が、

強く鳴る。

 

入口。

 

そうだ。

 

まだ完成じゃない。

 

まだ、

この先がある。

 

それでも――

 

ここに至るまで積み上げたものが、

確かに間違っていなかったと

初めて身体で証明できた。

 

悲鳴嶼は、

静かに頷く。

 

「竈門炭治郎」

 

一拍。

 

「お前は合格だ」

 

 

空気が、

ほんの少しだけ止まった。

 

善逸が、

口を開けたまま固まる。

 

「……え」

 

伊之助も、

一瞬だけ言葉を失う。

 

炭治郎自身も、

すぐには反応できなかった。

 

「……っ」

 

胸の奥で、

何かが静かにほどける。

 

苦しかった。

 

重かった。

 

何度も足りないと突きつけられた。

 

何度も、

ここではまだ届かないと知った。

 

それでも――

 

ここまで来た。

 

炭治郎は、

その場で深く頭を下げる。

 

「……ありがとうございました!!」

 

声は掠れていた。

 

だが、

それでも真っ直ぐだった。

 

悲鳴嶼は、

静かに数珠を擦る。

 

「よく積み上げた」

 

そして、

そのまま低く深い声で続けた。

 

「我妻善逸、嘴平伊之助」

 

「お前達も合格だ」

 

善逸が、

その場にへたり込んだ。

 

「よ、よかったぁぁぁぁぁ……!!」

 

「これで終わるんだよね!?!?

終わるんだよね!?!?」

 

伊之助は、

達成感と共に雄叫びを上げた。

 

「うぉおぉぉぉぉ!!!」

 

 

炭治郎は、

二人の声を聞きながら

小さく息を吐く。

 

終わった。

 

いや――

 

違う。

 

終わったんじゃない。

 

ようやく、

全部が一つになっただけだ。

 

ここから先で

本当に必要になるものが、

やっと形になっただけだ。

 

 

帰り道。

 

夕陽が、

山の端へ沈みかけていた。

 

赤い光が、

訓練場の石畳を長く染めている。

 

炭治郎は、

ゆっくりと自分の手を見る。

 

傷だらけだ。

 

固くなった掌。

 

擦り切れた指。

 

痛みも、

疲労も、

消えてはいない。

 

だが――

 

その全部が、

ちゃんと“積み上がったもの”として

今ここに残っていた。

 

宇髄の土台。

 

真壁の支え。

 

義勇の流れ。

 

甘露寺のしなり。

 

伊黒の削り。

 

不死川の押し。

 

無一郎の読ませなさ。

 

そして――

 

悲鳴嶼の器。

 

全部が、

ようやく一つになった。

 

炭治郎は、

静かに拳を握る。

 

まだ足りない。

 

まだ届かない場所がある。

 

それでも――

 

もう前みたいに、

ただ焦るだけじゃない。

 

今の自分が、

どこまで行けるのか。

 

何を通せるのか。

 

その輪郭だけは、

はっきり見えていた。

 

炭治郎は、

夕陽の向こうを見据える。

 

この先に待つ戦いが、

どれだけ苛烈でも。

 

もう、

積み上げたものは消えない。

 

それが今、

炭治郎の中で

揺るがない“礎”になっていた。

 

 

第八十五話 終

 




幕間 ― 受け継ぐ刃


柱稽古を終えた翌日。

炭治郎は早朝から体を動かしていた。
呼吸は、乱れない。

踏み込みも。
間合いも。
刃の通し方も。

すべてが、
身体に落ちている。

あの日の神楽を、なぞる。
動きは、もう覚えている。

炭治郎が、息を吐く。

浅くもなく、深すぎもしない。

“繋がっている”。

その時。

「竈門」

短い声が落ちる。


振り返るとそこに立っていたのは、鋼鐵塚。

相変わらずお面をつけているが、分かる。

終わっている。

差し出される、一振りの日輪刀。

炭治郎は、それを受け取る。

重い。

以前とは違う。

違和感はなく、手に収まる。
馴染む。

鍔に、指が触れる。

止まる。

熱の残る記憶。


(……心を燃やせ)


指が、わずかに力を込める。

握る。

それで、十分だった。

「折るな」

鋼鐵塚が低く言う。

それ以上は何もない。

「はい」

短く答える。

刀を腰に差す。

その動きに、迷いはない。

足を踏み出す。

積み上げたものも。

受け取ったものも。

全部――

通す。

幕間 終
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