鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

103 / 108
第八十七話 ― 静かな約束

 

 

蝶屋敷の奥は、

昼前のやわらかな光に包まれていた。

 

廊下を渡る風は静かで、

薬草の匂いがほんのりと残っている。

 

炭治郎は、

抱えていた包みを持ち直しながら

ゆっくりと足を進めていた。

 

薬の補充を頼まれた帰りだった。

 

任務でもなければ、

訓練でもない。

 

ただの、

日常の一つ。

 

それなのに、

今はそういう時間が

妙に胸へ残る。

 

守るものは、

きっとこういう場所の中にある。

 

戦う理由は、

もっとずっと近いところにも

ちゃんとあるのだと――

 

最近は、

前よりそう思うことが増えていた。

 

その時だった。

 

廊下の先に、

一人の姿が見える。

 

小さく、

風に揺れる髪。

 

静かに立つ、

細い背中。

 

炭治郎の足が、

自然と止まった。

 

「……カナヲ」

 

声にすると、

その背中がわずかに揺れる。

 

栗花落カナヲが、

ゆっくりと振り返った。

 

相変わらず、

静かな目をしていた。

 

けれど――

 

前とは少し違う。

 

その目はもう、

前みたいには閉じていなかった。

 

炭治郎は、

小さく笑う。

 

「久しぶり」

 

カナヲは、

ほんの少しだけ間を置いてから

小さく頷いた。

 

「……うん」

 

それだけだった。

 

でも、

それで十分だった。

 

 

しばらく、

二人の間に静かな時間が流れる。

 

気まずいわけではない。

 

何を話せばいいか

分からないわけでもない。

 

ただ――

 

無理に言葉を探さなくても

そこにいられるような静けさだった。

 

炭治郎は、

抱えていた包みを少し持ち直す。

 

「今、

薬の補充を手伝ってて」

 

言いながら、

自分でも少しおかしくなる。

 

任務明けでもなく。

 

大きな話でもなく。

 

最初に出てきたのが

そんな話なのが、

なんだか少し炭治郎らしかった。

 

カナヲも、

ほんの少しだけ目を瞬かせる。

 

それから――

 

わずかに、

口元が緩んだ。

 

本当に、

少しだけだった。

 

だが、

炭治郎はちゃんと気づいた。

 

「……笑った」

 

思わず口に出してしまう。

 

カナヲの目が、

少しだけ見開かれる。

 

「……笑ってない」

 

「いや、今ちょっと笑ったよ」

 

「笑ってない」

 

「笑ってたって」

 

ほんの短いやり取りだった。

 

それだけなのに、

炭治郎の胸の奥に

妙なあたたかさが落ちる。

 

大きな変化じゃない。

 

劇的な何かでもない。

 

でも――

 

前とは違う。

 

ちゃんと、

少しずつ変わっている。

 

そのことが、

なぜか嬉しかった。

 

 

 

ふと、

風が吹く。

 

庭の木々が、

さらりと揺れた。

 

その音を聞きながら、

炭治郎は少しだけ視線を外す。

 

「柱稽古、終わったんだ」

 

口にすると、

その言葉は思っていたよりも

ずっと静かに響いた。

 

カナヲが、

炭治郎を見る。

 

「……そう」

 

「うん」

 

炭治郎は、

小さく頷く。

 

「すごく厳しかった」

 

「何回も、

自分がまだ全然足りないって分かった」

 

「でも……」

 

 

言葉を探すように、

炭治郎は少しだけ空を見る。

 

「前より、

ちゃんと戦える気がする」

 

それは、

強くなったと言い切るのとは少し違った。

 

無敵になったわけでもない。

 

不安がなくなったわけでもない。

 

ただ――

 

逃げないで立つためのものが、

前より自分の中に残っている。

 

そんな感覚だった。

 

カナヲは、

何も言わずに聞いている。

 

急かさない。

 

挟まない。

 

ただ、

静かにそこにいる。

 

その静けさが、

炭治郎には少しだけありがたかった。

 

「でもさ」

 

炭治郎は、

少しだけ笑う。

 

「終わったら終わったで、

今度は変に静かで……」

 

「なんか、

その方が落ち着かないんだ」

 

本音だった。

 

訓練の最中は、

前だけ見ていればよかった。

 

苦しくても、

重くても、

今やるべきことは明確だった。

 

だが、

全部が一度止まると

その先にあるものの気配だけが

妙にはっきりしてくる。

 

それが、

少しだけ怖かった。

 

カナヲの視線が、

わずかに揺れる。

 

それから、

小さな声が落ちた。

 

「……分かる」

 

炭治郎が、

目を瞬かせる。

 

カナヲは、

少しだけ視線を伏せていた。

 

「静かな時の方が、

近く感じる」

 

短い言葉だった。

 

だが、

その一言に

炭治郎の胸が静かに鳴る。

 

近く感じる。

 

何を、と

わざわざ言う必要はなかった。

 

戦い。

 

失うこと。

 

終わりの気配。

 

その全部が、

今の鬼殺隊の空気の底に沈んでいる。

 

炭治郎は、

小さく息を吐いた。

 

「……うん」

 

それしか言えなかった。

 

けれど、

それで十分だった。

 

 

 

しばらくして、

炭治郎がぽつりと言う。

 

「俺、

ちゃんと戻ってくるよ」

 

言った後で、

少しだけ驚く。

 

考えて口にしたというより、

胸の奥からそのまま出た言葉だった。

 

カナヲが、

静かに顔を上げる。

 

炭治郎は、

自分でも少し照れくさくなりながら

それでも視線を逸らさなかった。

 

「絶対、とは言えないけど」

 

「でも、

戻るつもりで行く」

 

「帰ってくる場所があるって、

ちゃんと分かってる方が

前に出られる気がするから」

 

言葉にして初めて、

自分の中で形になる。

 

守りたいもの。

 

帰ってきたい場所。

 

それは、

戦いを鈍らせるものじゃない。

 

むしろ――

 

最後まで立つための理由になる。

 

炭治郎は、

そう思っていた。

 

カナヲは、

何も言わない。

 

ただ、

その目だけが

まっすぐに炭治郎を見ていた。

 

その静かな視線の中に、

迷いはあまりなかった。

 

やがて、

カナヲが小さく口を開く。

 

「……私も」

 

炭治郎の呼吸が、

わずかに止まる。

 

カナヲは、

ほんの少しだけ

言葉を選ぶように間を置いてから

続けた。

 

「私も、

戻る」

 

その声は、

決して大きくなかった。

 

けれど――

 

炭治郎には、

どんな大声よりも

はっきりと届いた。

 

静かな言葉だった。

 

でも、

その中には

ちゃんと“選んだ強さ”があった。

 

誰かに決められたわけじゃない。

 

流されたわけでもない。

 

自分で決めて、

そこに立っている声だった。

 

炭治郎は、

小さく目を見開く。

 

それから、

ふっと笑った。

 

「うん」

 

それだけだった。

 

だが、

その一言の中には

いろんなものが詰まっていた。

 

嬉しさも、

安心も、

少しだけ怖さもあった。

 

それでも――

 

今この瞬間だけは、

二人とも

ちゃんと前を向いていた。

 

 

廊下の外で、

風がまた木を揺らす。

 

やわらかな音が、

静かな時間の中へ溶けていく。

 

炭治郎は、

そっと包みを持ち直した。

 

「じゃあ、

これ届けてくるよ」

 

カナヲが、

小さく頷く。

 

「うん」

 

炭治郎は、

一歩だけ歩き出す。

 

だが、

すぐにはその場を離れなかった。

 

ほんの少しだけ迷ってから、

振り返る。

 

「カナヲ」

 

呼ばれて、

カナヲが顔を上げる。

 

炭治郎は、

まっすぐに言った。

 

「約束だね」

 

一瞬、

静かな間が落ちる。

 

それから――

 

カナヲは、

ほんの少しだけ目を細めた。

 

それから、

胸元でそっと指を握る。

 

「……うん」

 

その返事は、

とても小さかった。

 

でも、

炭治郎には十分だった。

 

それは、

大きな誓いなんかじゃない。

 

派手な約束でもない。

 

ただ、

ちゃんと帰るための

静かな言葉だった。

 

それだけで、

今はよかった。

 

 

炭治郎は、

今度こそ歩き出す。

 

背中越しに、

まだ誰かの気配を感じる。

 

振り返らなくても分かる。

 

そこにいる。

 

それだけで、

不思議と足取りが少し軽くなった。

 

守るものは、

遠くにある理想だけじゃない。

 

こういう静かな時間の中にも、

ちゃんとある。

 

だから――

 

帰る。

 

ちゃんと、

帰ってくる。

 

炭治郎は、

胸の奥でそっとそう繰り返した。

 

廊下の先へ差し込む光が、

やわらかく足元を照らしていた。

 

 

第八十七話 終




柱稽古編 結


ここまで拙作を読んでいただきありがとうございます。

区切りのため本日20時からの投稿ありません。
また明日より朝の投稿は8時ですが、夜の投稿21時にさせて頂きます。

その補填ではありませんがこの後幕間30分後に投稿します。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。