鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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無限城編
第八十八話 ― 前夜


 

 

柱稽古が終わってからの数日間は、

妙に静かだった。

 

誰もが動いている。

 

任務もある。

 

手入れもある。

 

見回りも、

補給も、

鍛錬も止まってはいない。

 

それなのに――

 

どこか、

空気の底だけが静まり返っていた。

 

嵐の前みたいだと、

炭治郎は思った。

 

まだ空は晴れている。

 

風も吹いている。

 

人の声も、

足音も、

ちゃんとある。

 

けれど、

その全部の下に

何かが沈んでいる。

 

言葉にできないまま、

ただ確かにそこにあるものが。

 

 

その朝も、

炭治郎は早くから起きていた。

 

眠れなかったわけじゃない。

 

むしろ、

身体はちゃんと疲れていた。

 

けれど、

目が覚める。

 

胸の奥が、

落ち着かないのだ。

 

布団を畳み、

外へ出る。

 

朝の空気は冷たく、

肺の奥まで澄んでいる。

 

炭治郎は、

庭の端で足を止めた。

 

静かだった。

 

鳥の声が遠い。

 

風が、

木々をわずかに揺らしている。

 

それだけなのに、

妙に神経が冴える。

 

鼻を利かせる。

 

湿った土。

 

朝露。

 

木の匂い。

 

炊事の煙。

 

隊士たちの気配。

 

全部、

いつも通りだ。

 

それでも――

 

“何かが近い”という感覚だけが、

胸の奥から消えなかった。

 

 

 

「起きんの早ぇな」

 

声がして、

炭治郎が振り向く。

 

縁側の方から、

伊之助が大きく伸びをしながら歩いてきた。

 

猪頭は被っていない。

 

寝起きらしく、

髪がいつも以上に跳ねている。

 

炭治郎は、

少しだけ笑った。

 

「伊之助も早いね」

 

「腹減って起きた」

 

即答だった。

 

「あと、

なんか寝てるとムズムズする」

 

炭治郎は、

その言葉に小さく頷く。

 

少し分かる気がした。

 

身体は休んでいるはずなのに、

どこかがずっと構えたままになっている。

 

そんな感覚が、

ここ数日ずっと抜けない。

 

「善逸は?」

 

「まだ死んでる」

 

「そっか……」

 

たぶん本当に、

布団の中で死んだように寝ているのだろう。

 

そう思うと、

少しだけ肩の力が抜けた。

 

伊之助が、

炭治郎の隣へ立つ。

 

しばらく、

二人とも何も言わない。

 

ただ、

朝の空気の中へ立っている。

 

やがて、

伊之助がぽつりと言った。

 

「けどよ」

 

「終わった感じ、しねぇな」

 

炭治郎は、

その横顔を見る。

 

伊之助は、

珍しく真っ直ぐ前を見たままだった。

 

「柱の稽古終わったけどよ」

 

「なんか……

“次”が来そうな感じがする」

 

炭治郎は、

小さく息を吐く。

 

「……うん」

 

それしか言えなかった。

 

伊之助の言う通りだった。

 

終わったのに、

終わっていない。

 

むしろ、

今の方がずっと

“その先”を感じてしまう。

 

それが何なのか、

はっきりとはまだ見えないのに。

 

 

朝食の席では、

善逸が半分寝たまま箸を持っていた。

 

「もうやだぁ……」

 

「稽古終わったのに

なんで全然安心できないのぉ……」

 

「終わったら終わったで

逆に怖いんだけどぉ……」

 

炭治郎は、

味噌汁を飲みながら苦笑する。

 

「善逸も同じなんだね」

 

「同じだよぉ!!」

 

善逸が、

半泣きの顔で叫ぶ。

 

「だって絶対なんか来るじゃん!!

こういう静かな時って絶対ろくなこと起きないじゃん!!」

 

「縁起でもないよ……」

 

「でも絶対そうだもん!!」

 

そう言いながらも、

善逸の声には

ただの弱音だけじゃないものが混じっていた。

 

怖がっている。

 

けれど、

それだけじゃない。

 

善逸もまた、

肌で感じ取っているのだ。

 

空気の底に沈んでいる、

あの不穏さを。

 

炭治郎は、

箸を置いて小さく息を吐いた。

 

自分だけじゃない。

 

伊之助も。

 

善逸も。

 

たぶん、

みんな同じだ。

 

口にしないだけで。

 

言葉にしたところで

どうにもならないと分かっているだけで。

 

その日の午後。

 

炭治郎は、

一人で軽く身体を動かしていた。

 

柱稽古は終わった。

 

だが、

積み上げたものを

止めるわけにはいかない。

 

呼吸を整える。

 

足を運ぶ。

 

木刀を振るう。

 

踏む。

 

崩さない。

 

流す。

 

削る。

 

押し通す。

 

支える。

 

読ませない。

 

今まで刻まれてきたものを、

一つずつ身体へ通していく。

 

派手な技じゃない。

 

けれど――

 

今の炭治郎にとっては、

こういう反復こそが

何より大事だった。

 

「……ふっ」

 

呼吸を吐く。

 

踏み込みと同時に、

身体の芯を通す。

 

前より分かる。

 

どこが浮くのか。

 

どこで崩れるのか。

 

どこで切れるのか。

 

前なら、

ただ必死にやっていたことが

今は少しずつ見える。

 

それは、

強くなったというより――

 

ようやく、

自分を扱い始められた感覚に近かった。

 

炭治郎は、

木刀を下ろす。

 

汗が額を伝う。

 

呼吸は荒い。

 

だが、

乱れてはいない。

 

その時だった。

 

ふと。

 

胸の奥が、

小さくざわつく。

 

「……?」

 

炭治郎の鼻が、

わずかに動いた。

 

風向きが変わったわけじゃない。

 

匂いが変わったわけでもない。

 

それなのに、

何かが引っかかる。

 

嫌な予感、

というほど形はない。

 

だが――

 

本能の奥だけが、

静かに騒いでいた。

 

夕方。

 

空は、

ゆっくりと色を変えていった。

 

橙が、

少しずつ群青へ沈んでいく。

 

蝶屋敷の廊下を歩きながら、

炭治郎は足を止める。

 

空が綺麗だった。

 

それなのに、

妙に落ち着かない。

 

昨日までと同じ景色のはずなのに、

今日は少し違って見える。

 

なぜか、

目に焼きつく景色だった。

 

そんな考えが、

一瞬だけ胸をよぎる。

 

「……いや」

 

炭治郎は、

小さく首を振った。

 

弱気になるな。

 

まだ何も起きていない。

 

勝手に終わりを想像するな。

 

そう自分へ言い聞かせる。

 

けれど、

心の奥は知っていた。

 

たぶんもう、

遠くない。

 

その気配だけが、

ずっと消えない。

 

夜。

 

炭治郎は、

布団へ入ってもすぐには眠れなかった。

 

目を閉じると、

最近よく見る夢の残滓が

胸の奥を掠めた。

 

炎。

 

夜明け前の空。

 

遠い背中。

 

耳に残る、

足運びと呼吸の音。

 

はっきりとは見えない。

 

手を伸ばしても、

いつもそこまでは届かない。

 

けれど――

 

前より少しだけ、

近づいている気がした。

 

目を閉じる。

 

呼吸を整える。

 

静かに、

ゆっくりと。

 

宇髄の土台。

 

真壁の支え。

 

義勇の流れ。

 

甘露寺のしなり。

 

伊黒の削り。

 

不死川の押し。

 

無一郎の読ませなさ。

 

悲鳴嶼の器。

 

積み上げてきたものを、

一つずつ思い返す。

 

消えていない。

 

ちゃんと残っている。

 

身体の中に。

 

骨の中に。

 

呼吸の中に。

 

それだけは、

確かだった。

 

だから――

 

来るなら来い。

 

炭治郎は、

胸の奥で静かにそう思う。

 

怖くないわけじゃない。

 

失いたくないものも、

もうはっきりしている。

 

それでも。

 

逃げるために積んできたんじゃない。

 

守るために、

ここまで来た。

 

その時だった。

 

――コン、コン。

 

静かな夜の中で、

扉を叩く音がした。

 

炭治郎の目が、

すぐに開く。

 

「竈門、起きてるな」

 

低く抑えた声だった。

 

隠の後藤の声だ。

 

ただ、

その声色だけで分かる。

 

普通じゃない。

 

炭治郎は、

すぐに起き上がった。

 

「はい」

 

扉を開ける。

 

そこには、

伝令の後藤が立っていた。

 

顔色が、

明らかに硬い。

 

「至急だ。お館様から通達が出た」

 

「産屋敷邸へ来るよう、

柱と継子たちに通達が出た」

 

 

空気が、

変わった。

 

炭治郎の呼吸が、

一瞬だけ止まる。

 

やはり来た。

 

理由はまだ分からない。

 

何が起きたのかも、

まだ分からない。

 

だが――

 

胸の奥では、

もう答えが出ていた。

 

“始まる”

 

その感覚だけが、

静かに全身へ落ちていく。

 

炭治郎は、

ゆっくりと頷いた。

 

「……分かりました」

 

声は、

思ったより静かだった。

 

だが、

震えてはいない。

 

積み上げてきたものが、

今ここで初めて

意味を持ち始める。

 

炭治郎は、

拳を一度だけ握る。

 

そして、

まっすぐ顔を上げた。

 

 

第八十八話 終

 




幕間 ― 遺命

産屋敷邸は静かだった。

風もない。

虫の音すら、
どこか遠くにある。

産屋敷邸の奥。

日の光は、
ひどく穏やかだった。

その中に、
産屋敷耀哉は横たわっている。

呼吸は浅い。

だが、
その顔に苦しみはなかった。

すでに、
決まっている者の顔だった。



足音が、
静かに止まる。

岩柱・悲鳴嶼行冥。

その後ろに、
もう一人。

真壁。

二人とも、
何も言わない。

言葉にする前に、
理解していた。

この場が、
どういう場所なのかを。



「……来てくれて、ありがとう」

耀哉の声は、
弱く。

だが、
不思議なほどよく通った。

悲鳴嶼が、
静かに数珠を擦る。

「……御館様」

短く、
それだけ。

真壁は、
一歩だけ前へ出た。

「……ご用件を」

余計な言葉はない。

それで十分だった。



耀哉は、
ゆっくりと息を吐く。

「鬼舞辻無惨は、
三日以内に必ずここへ来る」

断言だった。

迷いはない。

「私は、
それを迎える」

一拍。

「そして――」

ほんの僅か、
呼吸が揺れる。

だが、
言葉は揺れなかった。

「ここで終わらせる」



沈黙。

誰も、
否定しない。

否定できない。

それが、
最善だと分かっているからだ。

「時間を作る」

耀哉の声が、
静かに落ちる。

「ほかの子達では承知しないだろうからね」



「協力者がいる」

名前は出さない。

だが、
十分だった。

「その者が、
無惨を縛る」

ほんの、
一瞬だけ。

「その間に――」

「行冥、堅」

「頼んだよ」



悲鳴嶼が、
静かに頭を垂れる。

「……御館様のお頼みとあらば」

それだけで、
すべてを受け取っていた。


耀哉の視線が、
ゆっくりと真壁へ向く。

静かだった。

だが、
逃げ場のない言葉だった。

「この場を――」

「繋いでほしい」

真壁の目が、
わずかに細くなる。

その意味は、
十分すぎるほど分かっていた。

守ることではない。

勝つことでもない。

“崩さないこと”

それだけを、
求められている。

真壁は、
短く息を吐いた。

「……繋ぎます」

それだけだった。

だが、
その一言で十分だった。

耀哉の顔に、
ほんの僅かな安堵が浮かぶ。

「ありがとう」

その言葉は、
二人へではない。

ここに至るまでの、
全てへ向けたものだった。

静寂。

風が、
ほんのわずかに動く。

夜は、
何も変わらない。

だが――

すでに、
すべては決まっていた。



幕間 ― 遺命 終

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