鬼滅の刃 ― 礎 ―   作:【規制済み】

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第八十九話 ― 集結

 

夜気は、

ひどく静かだった。

 

蝶屋敷を出た時から、

炭治郎の胸の奥では

ずっと何かが鳴っていた。

 

後藤の伝令。

 

お館様からの招集。

 

柱と継子たちを、

産屋敷邸へ。

 

理由はまだ聞かされていない。

 

だが――

 

そんなものは、

もう半分どうでもよかった。

 

呼ばれた。

 

この夜に。

 

それだけで、

十分すぎるほど分かってしまう。

 

「……行こう」

 

炭治郎が低く言うと、

隣を走る善逸が

青ざめた顔のまま頷いた。

 

「う、うん……」

 

「絶対なんか起きてるよぉ……」

 

伊之助は、

そのさらに前を駆けながら

低く唸る。

 

「ようやく来たって感じだなァ……」

 

その言葉に、

炭治郎は何も返さなかった。

 

返せなかった。

 

心のどこかで、

自分もまったく同じことを思っていたからだ。

 

夜の山道を駆ける。

 

木々の匂い。

 

湿った土。

 

風に乗る草の擦れる音。

 

全部が、

異様なほど鮮明だった。

 

炭治郎の鼻が、

わずかに動く。

 

緊張の匂いがする。

 

それは自分たちだけじゃない。

 

道中ですれ違う隊士たちも、

皆どこか張り詰めていた。

 

急ぎ足で駆ける者。

 

息を切らしながら

それでも前へ進む者。

 

言葉少なに、

ただ指示だけを交わして走る隠たち。

 

誰もが、

まだ何も知らされていないまま

それでも“何か”を感じ取っている。

 

その空気だけで、

十分だった。

 

 

産屋敷邸へ近づくにつれ、

人の気配が濃くなっていく。

 

邸の周囲にはすでに、

隠や隊士たちが忙しなく動いていた。

 

明かりは抑えられている。

 

声も低い。

 

だが、

その静けさの裏にある緊張だけは

隠しようがなかった。

 

炭治郎たちが

敷地へ足を踏み入れた時。

 

そこにはすでに、

何人もの柱が集まっていた。

 

風柱・不死川実弥。

 

水柱・冨岡義勇。

 

蛇柱・伊黒小芭内。

 

恋柱・甘露寺蜜璃。

 

蟲柱・胡蝶しのぶ。

 

霞柱・時透無一郎。

 

皆、

ほとんど言葉を発していない。

 

ただそこに立っているだけで、

空気の密度が違った。

 

炭治郎は、

その場の重さに

無意識に背筋を伸ばす。

 

終わったはずの柱稽古の先に、

まだこれがあるのだと

改めて思い知らされる。

 

視線を巡らせた時。

 

炭治郎の目が、

わずかに止まる。

 

(……いない)

 

いるはずの位置。

 

だが、

そこに真壁の姿がない。

 

ほんの一瞬。

 

違和感だけが残る。

 

だが――

 

次の瞬間には、

その意識は切り替わっていた。

 

今はそれどころではない。

 

少し離れた場所では、

後藤をはじめとした隠たちが

慌ただしく動いていた。

 

伝令を回す者。

 

出入りを整理する者。

 

緊急時の備えを整える者。

 

誰も前へは出ない。

 

だが、

この場を最後まで支えるために

自分たちがやるべきことを

一つも取りこぼさないように動いていた。

 

炭治郎は、

その姿を一瞬だけ見つめる。

 

この戦いは、

剣を握る者だけのものじゃない。

 

ここへ来るまでにも、

積み上げられてきたものがある。

 

それを今、

胸の奥で静かに感じていた。

 

やがて。

 

邸の奥から、

隠の一人が早足で現れる。

 

その顔色だけで、

場の空気がさらに変わった。

 

「……お館様より、

柱の方々と継子、

並びに招集対象の隊士へ」

 

低く抑えた声が、

静かな庭へ落ちる。

 

「直ちに、

中庭へお集まりください」

 

その一言で、

誰もが動いた。

 

迷いはない。

 

問いもない。

 

もう、

確認し合う段階ではなかった。

 

炭治郎たちもまた、

柱たちの後ろに続いて

静かに歩き出す。

 

砂利を踏む音だけが、

やけに大きく聞こえた。

 

中庭へ出た時。

 

夜空は深く、

雲の流れだけがわずかに見えた。

 

冷えた空気の中、

そこに立っていたのは――

 

産屋敷輝利哉だった。

 

炭治郎の呼吸が、

一瞬だけ止まる。

 

まだ若い。

 

だが、

その立ち姿には

もう迷いがなかった。

 

幼さの残る顔立ちの中に、

確かに“継いだ者”の目がある。

 

その後ろには、

護衛として立つ人影があった。

 

音柱・宇髄天元。

 

そして――

 

煉獄槇寿郎。

 

二人とも、

前へ出る気配はない。

 

だが、

もし何かがあれば

一瞬でこの場を斬り裂けるだけの圧を

静かに纏っていた。

 

その姿に、

炭治郎は小さく息を呑む。

 

守られているのは、

ただ一人の少年じゃない。

 

鬼殺隊そのものの“次”だ。

 

その事実が、

この夜の重さをさらに増していた。

 

 

全員が揃ったのを見届けてから。

 

輝利哉が、

静かに口を開く。

 

「……お集まりいただき、

ありがとうございます」

 

その声は、

驚くほど落ち着いていた。

 

幼いからといって、

誰一人軽く見ることはできない。

 

その場の全員が、

自然と耳を傾ける。

 

「先ほど、

産屋敷邸にて異常が発生しました」

 

炭治郎の胸が、

どくんと鳴る。

 

誰も口を挟まない。

 

空気だけが、

一気に張り詰めていく。

 

輝利哉は、

一拍だけ間を置いた。

 

そして――

 

はっきりと言った。

 

「鬼舞辻無惨が、

姿を現しました」

 

空気が、

凍る。

 

善逸の喉が、

ひゅっと小さく鳴った。

 

伊之助の肩が、

わずかに強張る。

 

炭治郎の呼吸も、

一瞬だけ止まっていた。

 

だが――

 

驚きより先に、

胸の奥へ落ちてきたのは

奇妙なほどの納得だった。

 

やはり来た。

 

やはり、

ここだった。

 

そう思ってしまった自分に、

炭治郎は少しだけ驚く。

 

この数日、

ずっと空気の底に沈んでいたもの。

 

あの言葉にできない気配。

 

その正体が、

今ようやく姿を持っただけだった。

 

 

輝利哉は、

続ける。

 

「詳細はまだ掴み切れていません」

 

「ですが、

お館様が自ら時間を稼がれています」

 

その言葉に、

場の空気がさらに変わる。

 

炭治郎の顔が、

強張る。

 

時間を稼ぐ。

 

その意味が、

分からないわけがなかった。

 

善逸が、

青ざめたまま息を呑む。

 

誰も、

その先を言葉にしない。

 

言葉にした瞬間、

何かが決定的になってしまう気がしたからだ。

 

だが、

輝利哉は止まらなかった。

 

「鬼舞辻無惨を、

今夜ここで討ちます」

 

静かだった。

 

それなのに、

その一言は

雷みたいに全員の胸へ落ちた。

 

 

 

その瞬間だった。

 

――ドォンッ!!

 

夜を裂くような轟音が、

遠くから響いた。

 

地面が揺れる。

 

空気が震える。

 

炭治郎の目が、

一気に見開かれる。

 

「っ――!!」

 

産屋敷邸の方角。

 

空が、

一瞬だけ赤く染まる。

 

爆ぜた火と熱の匂いが、

風に乗って遅れて届いた。

 

善逸が、

息を呑んだまま固まる。

 

伊之助が、

反射的に前へ出る。

 

炭治郎の鼻へ、

焼けた匂いが刺さる。

 

血。

 

火薬。

 

焼けた木。

 

そして――

 

決定的な“終わり”の匂い。

 

「……お館様」

 

炭治郎の口から、

ほとんど無意識に言葉が零れた。

 

 

 

だが、

立ち止まる暇はなかった。

 

輝利哉の声が、

鋭く落ちる。

 

「柱は直ちに突入してください!」

 

「継子・主要戦力も続いてください!」

 

「隠は負傷者対応と伝令に備えて待機!」

 

一気に、

全員が動き出す。

 

悲鳴嶼が踏み出す。

 

実弥が地を蹴る。

 

義勇の気配が鋭く走る。

 

伊黒、甘露寺、胡蝶、時透も

一斉に前へ出る。

 

炭治郎も、

反射のように地を蹴った。

 

善逸。

 

伊之助。

 

そして――

 

真壁もまた、

一拍遅れずに走り出していた。

 

その背中に、

迷いは一切なかった。

 

 

 

産屋敷邸の焼け跡へ向かう。

 

空気は熱い。

 

煙が鼻を刺す。

 

足元の地面が、

まだ小さく震えている。

 

炭治郎の胸が、

どくどくと激しく鳴る。

 

来た。

 

ついに来た。

 

柱稽古で積み上げてきたもの。

 

守ると決めたもの。

 

帰ると約束したもの。

 

その全部が、

今この瞬間へ繋がっていた。

 

逃げるな。

 

崩れるな。

 

通せ。

 

炭治郎は、

胸の奥でそれだけを繰り返す。

 

 

 

焼け落ちた屋敷の中心。

 

その先に、

黒い影があった。

 

炭治郎の鼻が、

一瞬でその匂いを捉える。

 

冷たい。

 

古い。

 

底のない、

死の匂い。

 

全身の血が、

一気に逆流するような感覚。

 

間違いない。

 

鬼舞辻無惨だ。

 

柱たちの気配が、

一斉に張り詰める。

 

誰も、迷わない。

 

だが――

 

止まったのは、

本当に“一瞬”だけだった。

 

次の瞬間。

 

「――斬る」

 

実弥が踏み込む。

 

風が裂ける。

 

悲鳴嶼の鉄球が、

正面から唸る。

 

義勇の刃が、

水のように重なる。

 

伊黒が死角を潰し、

甘露寺がしなりで間を詰める。

 

胡蝶の刺刀が、

音もなく走る。

 

霞が揺れ、

無一郎の気配が消える。

 

炭治郎も、

反射で踏み込んでいた。

 

(通す――!)

 

その一瞬。

 

真壁の足が、

わずかに沈む。

 

全体を見る。

 

だが――まだ足りない。

 

繋ぎ切れない。

 

それでも。

 

「……通せ」

 

低い声。

 

たったそれだけで、

全員の“半歩”が揃う。

 

斬撃が、

同時に無惨へ届く。

 

だが――

 

違和感があった。

 

(……遅い?)

 

再生が。

 

炭治郎の鼻が、

微かに異変を捉える。

 

血の匂いに混じる、

別の何か。

 

薬品のような、

だがもっと古い、

静かな毒の匂い。

 

その瞬間。

 

無惨の身体が、

わずかに軋んだ。

 

「……ほう」

 

初めて。

 

ほんの僅かに、

その声に“違い”が混じる。

 

黒い肉の奥で、

何かが蠢く。

 

炭治郎の目が、

その背後を捉える。

 

炎の揺らぎの向こう。

 

静かに立つ影。

 

珠代。

 

その瞳は、

微動だにしなかった。

 

(……効いてる)

 

その確信が、

炭治郎の中で走る。

 

だが。

 

その瞬間。

 

無惨の身体が、

“崩れていなかった”。

 

斬られている。

 

裂けている。

 

それでも――

 

止まらない。

 

六つでも八つでもない、

無数の肉が

“同時に動いている”。

 

「……それで私を追いつめたつもりか」

 

声が、

すぐ目の前で落ちた。

 

次の瞬間。

 

黒い腕が、

空間ごと薙ぐ。

 

――ドッ!!

 

全員が、

強制的に弾かれる。

 

炭治郎の身体が宙を舞う。

 

肺の空気が抜ける。

 

(……違う)

 

強さじゃない。

 

次元が違う。

 

その一瞬の理解。

 

そして――

 

空間が、歪んだ。

 

「――ッ!?」

 

炭治郎の視界が、

唐突に反転する。

 

足元が消える。

 

地面がない。

 

空もない。

 

上も下も、

一瞬で意味を失う。

 

「炭治郎!!」

 

誰かの声が飛ぶ。

 

善逸か、

伊之助か、

もう分からない。

 

柱たちの気配も、

一気に散る。

 

落ちる。

 

違う。

 

引きずり込まれる。

 

炭治郎は、

咄嗟に息を止めた。

 

目の前で、

世界そのものが

ありえない角度で捻じ曲がっていく。

 

障子。

 

廊下。

 

階段。

 

部屋。

 

壁。

 

天井。

 

全部が、

ひとつの巨大な悪意みたいに

うねりながら口を開いていた。

 

無限城――

 

その名が、

炭治郎の脳裏をかすめる。

 

 

落ちながら、

炭治郎は一瞬だけ

誰かの姿を見た気がした。

 

遠く、

捻じれた視界の向こう。

 

別方向へ呑まれていく影。

 

真壁。

 

その姿もまた、

一瞬で闇の向こうへ消えていく。

 

だが――

 

不思議と、

恐怖だけではなかった。

 

あの人もいる。

 

皆いる。

 

それだけで、

胸の奥に一本だけ

折れないものが残る。

 

炭治郎は、

落ちながら拳を握る。

 

来い。

 

どこへでも。

 

もう、

止まらない。

 

 

第八十九話 終

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