⸻
落ちる。
上も。
下も。
右も。
左も。
全部が狂っていた。
炭治郎は、
咄嗟に息を止めながら
視界の中で捻じ曲がる空間を見た。
障子が宙を走る。
廊下が縦に立つ。
部屋がひっくり返り、
天井が床になり、
床がまた別の壁へ繋がっている。
理屈が通らない。
目が追いつかない。
鼻が拾う匂いすら、
ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
古い木。
湿った畳。
鬼の臭気。
血。
塵。
そして――
底のない、
不快な気配。
「……っ!」
炭治郎は、
落下の途中で
辛うじて足場になりそうな梁を見つける。
踏む。
だが、
その瞬間にはもう
足場の向きが変わっていた。
「な――」
身体が流される。
空間そのものが
意思を持っているみたいに、
人を定位置へ立たせようとしない。
呼吸を整える。
乱れるな。
崩れるな。
足を探せ。
視界を切るな。
柱稽古で叩き込まれたものが、
反射のように身体の中を走る。
そしてようやく――
炭治郎の足が、
斜めに突き出た廊下の縁を捉えた。
「……っ!」
膝を沈める。
滑る。
だが、
踏み直す。
もう一歩。
さらにもう一歩。
そこでようやく、
身体が止まった。
「はぁ……っ」
呼吸が荒い。
だが、
切れてはいない。
炭治郎は、
低く身を落としたまま
周囲を見渡した。
直後。
「炭治郎!」
義勇の声。
「……義勇さん!」
「他の皆は!?」
義勇は僅かに頷き
「散ってはいるがまだ無事だ」
「……だが、配置がおかしい」
炭治郎は、
息を整える。
焦るな。
今は探すより先に、
立て直す。
生きている。
みんな、
簡単にやられるはずがない。
息を整え
炭治郎はゆっくりと立ち上がった。
その時だった。
遠くの闇の中で、
何かが動く。
「……!」
炭治郎の鼻が、
瞬時に反応する。
鬼だ。
一体じゃない。
複数。
しかも、
人を狙って動いている匂いだった。
義勇が既に動き出していた。
「……行くぞ」
考えるより先に体が反応し着いていく。
⸻
同じ頃。
無限城の別の一角で。
真壁は、
天井から斜めに伸びる柱を踏み、
静かに着地していた。
「……」
わずかに膝を沈め、
そのまま止まる。
呼吸は乱れていない。
目の前には、
上下の感覚すら狂いそうな異形の空間が
果てなく広がっていた。
障子。
襖。
階段。
廊下。
部屋。
それらが
意味のない方向へ重なり合い、
一つの巨大な迷宮を形作っている。
人を迷わせるためだけに
存在しているような場所だった。
真壁は、
静かに視線を巡らせる。
匂いは混ざっている。
音も散っている。
気配も一定じゃない。
だが――
一つだけ、
すぐに分かるものがあった。
「……崩されているな」
小さく落ちた声は、
誰へ向けたものでもなかった。
遠くから、
叫び声が聞こえる。
金属の打ち合う音。
鬼の唸り声。
足音。
悲鳴。
それはもう、
戦闘というより
局所的な崩壊の音だった。
鬼殺隊士たちが、
散らされている。
位置も。
連携も。
心も。
この空間そのものが、
戦線を壊すために作られている。
なら――
やることは一つだった。
真壁は、
低く息を吐く。
「戻す」
その一言だけを落として、
地を蹴った。
⸻
最初に辿り着いた場所では、
三人の隊士が
廊下の角へ追い込まれていた。
一人は肩を裂かれている。
一人は腰が引けている。
もう一人は、
完全に呼吸を見失っていた。
その前には、
中級鬼が3体。
数としては多くない。
だが、
問題はそこではなかった。
三人とも、
もう“戦える形”を失っている。
鬼の爪が振り下ろされる。
その瞬間。
――ギィンッ!!
鈍く重い音が響いた。
鬼の腕が、
わずかに逸れる。
隊士たちの目が、
一斉に見開かれた。
いつの間にか、
その前へ立っていた男がいる。
「……え」
「ま、真壁さん……!?」
真壁は、
半歩だけ前へ出たまま
鬼を見ていた。
構えは小さい。
だが、
その立ち方だけで
場の軸が変わる。
「下がれ」
低い声だった。
だが、
それだけで隊士たちの足が動く。
鬼が吠え、
もう一体が横から飛び込んでくる。
真壁の足が、
静かに滑った。
礎の呼吸――
壱ノ型――盤脚。
踏む。
ズレる。
逸らす。
最小限の動きで
鬼の突進の軸だけをずらし、
そのまま肘打ちのように柄を当てる。
鬼の身体が、
横へ流れる。
そこへ一閃。
頸が落ちる。
返す刃で、
もう一体の膝を断つ。
体勢が崩れた瞬間、
そのまま二体目の頸も落ちた。
静かだった。
早いというより、
無駄がなかった。
真壁は、
血を払うこともなく
そのまま隊士たちへ視線を向ける。
「立てるか」
三人のうち一人が、
慌てて頷く。
「は、はい……!」
だが、
残り二人は
まだ息を乱したままだった。
目も、
完全には戻っていない。
真壁は、
その顔を一人ずつ見る。
そして、
静かに言った。
「聞け」
それだけで、
三人の意識が
無理やりこちらへ引き戻される。
「死にかけたことを考えるな」
「今、立てるかだけを見ろ」
短い。
だが、
それは今の彼らにとって
何より必要な言葉だった。
「お前」
真壁が、
肩を裂かれた隊士を見る。
「左は使うな。右だけで守れ」
次に、
腰の引けた隊士を見る。
「前に出るな。横を支えろ」
最後に、
呼吸を見失っていた隊士を見る。
「吸え」
隊士が、
反射的に息を吸う。
「吐け」
吐く。
「もう一度」
吸う。
吐く。
ほんのそれだけで、
目の焦点が少しずつ戻っていく。
真壁は、
静かに頷いた。
「三人で動け」
「一人になるな」
「鬼はまだ来る」
隊士たちの顔が、
少しだけ引き締まる。
さっきまで
完全に崩れていたはずの空気が、
ほんの少しだけ戻る。
真壁は、
それを見てから
すぐに踵を返した。
「真壁さん!」
背後から、
隊士の声が飛ぶ。
真壁は振り返らない。
「その場を持たせろ」
「次へ行く」
それだけ言って、
再び暗い廊下の奥へ消えていった。
⸻
無限城の中では、
あちこちで同じことが起きていた。
散らされる。
追い込まれる。
連携が切れる。
足場が狂う。
視界が狂う。
呼吸が乱れる。
そしてその一瞬を、
鬼が食い破ってくる。
真壁が次に辿り着いた場所では、
五人の隊士が
階段の途中で完全に分断されていた。
上に二人。
下に三人。
その間へ、
四体の鬼が割り込んでいる。
このままでは、
上下が順に食われる。
真壁は、
一瞬で位置を測る。
上を守るか。
下を守るか。
違う。
両方を
“繋げ直す”のが先だ。
「上!」
短く叫ぶ。
上側の隊士が、
反射的に顔を上げる。
「飛べ」
「え――」
「今だ」
その一言で、
迷いが切れる。
上にいた一人が、
歯を食いしばって飛び降りた。
鬼が喰らいつこうとした瞬間、
真壁が前へ出る。
弐ノ型――止水壁。
刃が、
横へ流れる。
受けるのではなく、
止めるのでもなく、
“通さない壁”として一瞬だけ空間を塞ぐ。
鬼の爪が逸れる。
そのわずかな隙へ、
飛び降りた隊士が転がり込む。
「三人、左へ寄れ!」
「二人は右!」
「一直線に並ぶな!」
声が飛ぶ。
真壁の声は大きくない。
だが、
不思議と通る。
混乱の中でも、
何をすべきかだけが
はっきり残る声だった。
隊士たちが、
必死に位置を変える。
鬼がそこへ殺到する。
真壁の足が、
深く沈んだ。
肆ノ型――鎮環。
踏み込みと同時に、
低く広い軌道で刃が回る。
斬るというより、
場を制圧する一撃だった。
鬼たちの足が止まる。
一拍だけ、
流れが止まる。
その一拍で、
隊士たちの並びが戻る。
「今だ!」
その声と同時に、
五人の隊士が一斉に踏み込んだ。
連携が戻る。
たったそれだけで、
戦況が変わる。
一体。
二体。
鬼の頸が落ちる。
残る二体も、
数秒後には斬り伏せられていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
誰もが息を切らしている。
だが、
今度は崩れていない。
さっきまでの
“死ぬしかない空気”ではなかった。
隊士の一人が、
荒い呼吸のまま
真壁を見る。
「どうして……
そんなに落ち着いて……」
真壁は、
その問いにすぐには答えなかった。
ただ、
周囲の気配を確かめるように
一瞬だけ耳を澄ませる。
まだ遠くで戦っている音がある。
まだ終わっていない。
その上で、
ようやく短く言った。
「崩れたら、
戻すだけだ」
それだけだった。
だが、
その言葉が
隊士たちの胸へ深く落ちる。
崩れたら、
戻す。
それは、
今この地獄みたいな空間で
あまりにも小さく、
あまりにも現実的な答えだった。
だからこそ、
妙に力があった。
⸻
再び、
真壁は一人で進む。
無限城は広い。
いや、
広いというより
終わりがない。
空間の向きが変わるたびに、
位置の感覚そのものが削られていく。
普通なら、
それだけで心が削られる。
だが、
真壁の歩幅は変わらない。
焦らない。
速すぎない。
止まりすぎない。
ただ、
次に崩れている場所を探して進む。
ふと、
遠くで小さな泣き声が聞こえた。
ほんの一瞬だけ、
真壁の足が止まる。
子どもの泣き声に似ていた。
違う。
実際には、
若い隊士が恐慌で喉を震わせているだけだ。
分かっている。
分かっているのに――
胸の奥で、
ごく浅い場所が
一瞬だけ引っかかった。
血の匂い。
冷えた手。
泣きそうなのを
堪えた小さな声。
静かな夜。
「……」
ほんの一瞬だけ、
脳裏をよぎる横顔があった。
だが、
真壁はそれを追わない。
追えば、
遅れる。
今はまだ、
立ち止まる時ではない。
真壁は、
静かに息を吐く。
「……待っていろ」
誰へ向けたものかも分からないまま、
その一言だけを胸の奥へ沈めて
再び前を向いた。
その先で、
また鬼の気配が膨らむ。
今度は、
さっきまでより多い。
真壁の目が、
わずかに細くなる。
「……間に合う」
無限城は、
まだ入口に過ぎない。
それでももう、
十分すぎるほど分かった。
ここは、
一手崩れれば死ぬ場所だ。
だからこそ――
崩れたままにはしない。
真壁は、
静かに刀を構えた。
⸻
第九十話 終