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――ギィンッ!!
細い刃が、
童磨の懐へ滑り込む。
速い。
これまでで、
最も無駄のない踏み込み。
一点。
ただ一点へ、
すべてを通す突き。
だが――
「うん、いいね」
童磨が、
わずかに身体を傾ける。
それだけで、
致命の線が外れる。
浅い。
届いているのに、
“足りない”。
しのぶの足が、
静かに着地する。
呼吸が浅い。
肺の奥が、
ひりつくように痛む。
それでも、
崩れない。
崩さない。
(……やはり)
結論は、
もう出ていた。
毒は効いている。
確実に、
身体へ入っている。
だが――
足りない。
量も。
速度も。
“殺し切るだけの届き方”が。
童磨は、
楽しそうに扇を閉じた。
「ねぇ」
「そろそろ分かってきた?」
軽い声。
まるで、
世間話みたいに。
「君じゃ、僕は殺せない」
断言だった。
優しさも、
悪意もない。
ただの事実みたいに、
そう言った。
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しのぶは、
何も返さない。
ただ、
静かに息を整える。
吸う。
浅い。
吐く。
少し長く。
乱れた呼吸を、
無理やり一本へ通す。
(……想定通り)
その思考は、
驚くほど冷静だった。
感情はある。
怒りもある。
だが、
それはもう
“戦いを乱すもの”ではない。
むしろ――
最後まで通すための、
芯になっていた。
(足りないなら)
一拍。
(満たすしかない)
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童磨が、
首を傾げる。
「まだやるの?」
「もう無理だと思うけどなぁ」
その言葉に対しても、
しのぶは反応しない。
ただ、
一歩だけ踏み出す。
その踏み込みは、
さっきまでとは違っていた。
軽くない。
速さだけでもない。
“重さ”がある。
覚悟の重さ。
童磨の目が、
ほんのわずかに細くなる。
「……あれ?」
初めて、
違和感を覚えたような声。
しのぶの姿勢が、
ほんの僅かに低くなる。
呼吸が、
さらに深く沈む。
(ここから先は)
心の奥で、
静かに言葉が落ちる。
(戻らない)
理解している。
理解した上で、
踏み込んでいる。
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――ザッ
次の一歩。
速さは、
さっきと変わらない。
だが――
“詰め方”が違う。
間を消すのではなく、
“逃げ場ごと潰す”踏み込み。
童磨の身体が、
初めてわずかに遅れる。
「へぇ」
その一瞬。
しのぶの突きが、
正確に喉元へ入る。
――ズッ
深い。
今までより、
明らかに深く刺さる。
童磨の首が、
わずかに傾いた。
だが――
それでも。
「でも、足りないよ」
抜かれる。
血が、
軽く飛ぶ。
しのぶの身体が、
その反動でわずかに揺れる。
呼吸が、
一瞬だけ途切れる。
(……分かっている)
足りない。
このままでは、
絶対に届かない。
それでも――
ここで終わるわけにはいかない。
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童磨が、
静かに笑った。
「ねぇ」
「どうするの?」
「このままじゃ、
君が先に壊れるよ?」
その言葉は、
もう脅しですらない。
ただの観察。
ただの結果の予測。
だからこそ、
重い。
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しのぶは、
ゆっくりと構えを解いた。
童磨が、
一瞬だけ目を細める。
「……あれ」
「諦めた?」
違う。
しのぶの呼吸は、
逆に静かに整っていく。
浅かったはずの呼吸が、
ゆっくりと深くなっていく。
肺の痛みを、
無視するように。
「いいえ」
その声は、
今までで一番静かだった。
「ここからです」
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童磨の笑みが、
わずかに揺れる。
ほんの、
ほんの僅かだけ。
理解できないものを見た時の、
小さな違和感。
しのぶは、
ゆっくりと一歩踏み出す。
その目は、
もう揺れていなかった。
(足りないなら)
(私自身を)
言葉にはしない。
だが、
答えは出ている。
童磨を殺すために必要なもの。
それは――
もう、
自分の中にしか残っていない。
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少し離れた場所。
伊之助は、
さらに速度を上げていた。
「……近ぇ」
匂いが濃くなる。
血。
鬼。
それと――
胸の奥を、
引っかくような何か。
「チッ……!」
理由は分からない。
だが、
止まれない。
止まりたくない。
この先に、
何かがある。
それだけは、
確信できる。
伊之助は、
天井へ跳ね上がり、
そのまま次の廊下へ飛び移った。
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しのぶの足が、
再び踏み込む。
その一歩は、
もう迷っていなかった。
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第九十五話 終